406 手記の事
―――この世はいずれ呪いにより終わるだろう。
最後の文章を読んだ後、在仁はゆっくりと書を閉じて、あさひに返した。
あさひは何とも言えない顔で受け取った。
さっきまで前のめりで書に興味を示していた四天たちも、口を閉じて動きを止めていた。在仁が読んだ内容が、あまりに想像を絶する内容だったからだ。長老会の謀、その破壊、そして蜻蛉と、清め人。そして長い戦いの末、囀漠寺が導き出した結論が世の終焉だと言うのが、あまりに落胆した。隠しページを見る前の書の内容が、非常に期待を高めるものだったので、更に大きな裏切りのようなものを感じざるを得なかったのだ。
この結末を何と言って良いものか。皆が押し黙っていると、最初に口を開いたのは茉莉だった。
「どういうこと?」
明らかな不満声。怒っているように聞こえて、在仁が見た。
「これだけ苦労してやっと手に入れた情報が、終末の預言書みたいなものって事?」
何とかの大予言、みたいな。いずれこの世は滅ぶのだと。まぁかたちあるものは何れ滅ぶ運命だろうから、預言と言う程のものでもあるまい。
けれど、囀漠寺の書には、野分を消すための手がかりがあるものと期待していたので、あさひも四天たちも肩を落とした。まさか、最終的に分からないまま諦めてしまうとは。そのラストのバッドエンド感が読後に不快な余韻を残した。皆が言葉に出来ぬもやもやを抱いているのに反して、在仁は嫌に明るく言った。
「いいえ。この最後の一文には、何とかして世を救って欲しいという切実な想いが込められておりましょう。」
在仁はかすれた声ながらはっきりと言った。今度は茉莉が在仁を見た。在仁はまっすぐに顔を上げていた。
「預言書…。」
あさひはこれは世の終わりを教えるために遺された書なのだと思ったが、その言葉を在仁が否定した。
「いいえ。このままでございましたら、確実に世は滅びます事をお教えくださっておられるのは、諦めでも失意でもございません。この書には、元より多くの知識が記されておりました。今は廃れた奇跡に関する事、繚乱についての知識が。そしてその書に隠されておりました、本当に大切な事は、囀漠寺様の生きて来られた道のりでございました。世を救済せんと尽くして参られた人生が、ここに詰まっております。その全てを以て、野分様を消す方法を見つける事は出来ませんでした。なれど、ここまでの全てを継承なさる事で、次世代に望みを託されたのでございます。」
断言されると、そう思えて来るのだから不思議だ。皆が在仁の説得力に息を飲むと、在仁は続けた。
「長老会、蜻蛉、野分様、様々なものから追われながらも、決して諦めずに戦って来られた囀漠寺様の生きざまは、とてもお強き清め意思そのものでございます。この書が悪しき者の手に渡ったとて、その意思だけは汚されまいとして、固く隠されたページを開く鍵には、清め意思が必要でございました。この手記を読むことが出来ます者は、清め人のみなのでございます。囀漠寺様がそうまでして後世の清め人に遺す想いが、滅びの預言でございますはずが、ございません。俺たちは、託されたのでございますよ。この世を。」
あさひをまっすぐに射抜く闇色の瞳には、清き光が宿っていた。
隠しページの鍵は歌。そして清めの気だ。清め人がいなければ、隠しページの謎が解けても開くことは不可能だった。それこそが、託された意思の証拠なのでは無いだろうか。
在仁の言葉は、清め人であるあさひのみに向いたのではない。
「俺たちはチームでございます。そう、でございましょう?」
全員を見回す在仁の目が、まるで未来へ導くように綺麗な清き光を湛えていた。その光に魅せられて、皆が顔を上げた。
四天は野分を消すために集められた。ここにいる優秀な研究者たちは、野分を消し、世を終焉から救わんと戦う仲間だ。囀漠寺の遺した志を受け継ぐべき、仲間たちなのだ。在仁の言葉に、四天たちは背筋を伸ばした。
「その通りだな。」
まず同意したのは総角だった。
野分を消してしまえば、蜻蛉の望みは絶たれる。それは最高の復讐になろう。納得した総角の頷きに、四天たちが頷いた。
「そうだね。この世は終わらない、俺たちがいるからね。」
「我々の知の総力を以て、不可能はあるまい。」
「いかにも。託された情報、有効活用させてもらおう。」
強気の自信を見せた四天たちの後ろで研究者たちも胸を張っていた。
そうすると部屋の中は一気に活気に満ちて、明るくなった。真珠はそれに驚いた。先程まで消沈した空気だったのに、と。見上げると、在仁は清廉な笑みを真珠に向けていた。
「真珠が受け継いで来られたお志は、決して無駄ではございません。無駄には、致しません。」
「はい。ありがとうございます!」
在仁の言葉が真珠の心を温めた。この書には意味がある。きっと世の為になる。そうあってくれたならば、鷹司家や母・榧を弔う事にも繋がるように思えた。四天たちの顔を見ていると、真珠の願いはきっと叶うと信じられた。
そんな真珠に、あさひが言った。
「真珠さん、この書、このまま借りていいかな。解読できないところも出来るだけ復元できないか頑張ってみたいんだ。写しをとってから、出来るだけ元に戻して返すよ。」
「分かりました。どうぞ、よろしくお願い致します。」
丁寧に真珠が頭を下げたのは、託されていく思いの連鎖に見えた。
そうして、書は恭しくお盆に乗せられて保護ケースに入れられた。隠しページは劣化が激しい。扱いは要注意だ。
それを眺めながら、在仁が言った。
「さて、今分かりました事は、現在の清め人は、真砂様がつくられた本来の御姿に対して、かなり弱体化しておりますと言う事。」
ようやく手記の考察に入った在仁に、あさひが続いた。
「確かに、そうと言われて見れば、その通りだよね。野分と時を過ごした真砂様は、呪に強い特別な体を持っていたんだろうね。すべての風穴を封じて、多くの清め人を生み出し、数々の奇跡を起こしたのを思えば、結構長生きした感じでしょ。力の反動や副作用は無かったと考えられるよね。対して、近代の清めは呪に弱いのが常識だ。呪いである野分を消すために生まれたはずなのに、呪詛浄化の反動は大きなものだ。本来扱えたはずの奇跡は廃れ、出来る事は精々清めるだけだ。それは元々の清め人からしたら、些細な力なんだろう。そんな現代の清め人の器に、繚乱の力が宿ったとしたら、とんでもなくちぐはぐな事なんだろうな。葛葉さんは呪に弱いし、力の反動がもろに不調として出る。見事に器が力についていっていなかったんだ。」
囀漠寺の手記と現実を照らして整理するあさひに、茉莉ははっとした。
「そっか。じゃあ野分がずっと在仁には何か足りないって言っていたのって、それ?」
野分はずっと在仁を「足りない」「ぽんこつ」と言っていたが、それが何かは不明だった。つまり、単純に器の強さだろうか。
「多分。囀漠寺は、それを補うのは清め人の結集かもって仄めかしているけど、今いる清め人は三人だ。内一人を繚乱とすれば、支えるのは二人。囀漠寺の時代よりも更に弱体化しているはずだし、たった二人で足りるとは思えないよ。」
弱体化した一片では、何枚集めようと大した力にはなるまい。あさひの消極的な意見はネガティブなのではなく、現実的なのだ。それは在仁も理解できるので、何とも言えず途方にくれた。
清め二人が黙ってしまったので、真珠は少々居心地が悪かった。もし今真珠が清め人となれれば、少しでも力になれるのだろうかと。だが、真珠もまた後継の一片だ。望まれる程の力は持つまい。歯がゆさが沈黙に満ちた。
鎮痛の空気の中、茉莉は話をシンプルにしようとして確認した。
「清め人が複数人いれは事足りるなら、在仁の清め意思がもっと強かったら良かったの?そしたら器の弱さをカバー出来て、繚乱の力で龍の木が蘇るって事?それで野分も消せるって事なの?」
「絶対ではないけれど、囀漠寺の考えが正しければ、そうなんだろう。ただ、葛葉さんの清め意思の強さは相当なものだと思う。それで足りないとなると、僕程度ではとても補えないよ。」
在仁の清めとしてのポテンシャルは、野分も認めるところだ。真砂を除いて、歴代最強の清めであると言われているのだ。その力を以てして足りぬとなると、器の脆弱さを補うのはとても困難だ。
そこに、在仁がぽつりと呟いた。
「もし、お師匠様がおられればあるいは…でもそれこそ詮無き事でございましょう。」
逢初は今も目覚めない。もし目覚めても、体には欠損があり不自由だ。再び戦いを強いるのは酷にも思える。在仁の迷いに、御園が言った。
「確かに、逢初は自身が清め石だ。特殊な清め人だからか、力の強さも破格だった。もし逢初がいれば、何か方法があったかも知れない。」
逢初の肉体は、鴎音により絶対浄化物となった事で、自身を清め石として力を顕現した。その所為なのか、逢初はとても強い清め人だった。あの力があれば、あるいは。
その意見を聞いたあさひは、テーブルに自分の清め石を置いた。哭澤寺の、龍の涙を。
「よく考えたら、この清め石って、真砂様が作ったんだよね。代々ずっと受け継がれてきた石も、経年劣化するのかな。それが継承するごとに弱体化した一因なのかな。」
逢初も在仁も、受け継いできた石は持っていない。在仁に至っては壊してしまったのだ。それだけ強いという事でもあろうが、石自体も耐久限界だったのかも。そうと思えば、あさひの石とていつまで持つろうかと思う。
「ならば石を新しくすれば…いいえ、それも易き事ではございませんでしょう。」
在仁は龍の涙をつくることが出来るが、だからとして新たな清め人を生み出すのは簡単ではない。清め意思を覚醒するのは稀な資質だ。弟子を沢山とっても、実際に覚醒する者が現れるという確約は無い。それに、清め意思は千差万別であるから、野分を消すために清め人になってくれと言っても、やはり都合よくはいかないだろう。
考えを巡らせていると、いつものように唐突に発言する声。野分だ。
「私も長老会を利用して過ごしていた時期があったが、長老会という組織は虚構のようなものだ。あらゆる悪しき思想と目的を持つ者が集まり、それぞれが勝手に暗躍していた。その所為で統制は無く、無法無秩序の混沌があるばかり。その混沌を利用して、本当に秘するべきものを闇の奥底に隠しておくための、巨大な隠れ蓑だったのだろうな。」
「本当に秘するべきものって?」
茉莉が在仁の袂から卵を引っ張り出しながら問うと、答えたのは在仁だった。
「地下迷宮、だろうね。」
大江は自らがこの世の創造主とならんが為に暗躍していた。亜空間を生み、そこで鬼を養殖し、さらにその奥でこの世の循環を管理するシステムをつくろうとしていた。それが地下迷宮だ。地下迷宮は大江にとっては一番重要なものであるから、絶対に邪魔立てされぬよう隠しておかねばならなかった。そのための長老会なのだと、野分は言うのだ。長老会に悪しき者が集い、混沌とすればする程、何が諸悪の根源であるかは分からなくなる。長老会という闇の巨大組織の中に、転生者たちの後白河法皇蘇生計画があり、陰陽師の呪い匣実験があり、戦を望む狂気があり、狂った思想があり。その中に、蜻蛉や晦冥教、野分がいたとて闇に紛れて見つからない。
その闇が今も地龍社会に歪を残す。在仁の闇色の瞳が、茉莉が持った卵を見つめた。
「蜻蛉と野分様は、ニアミス、なさっておられたのでございますね。」
もう少しで出会えそうな程に近くにいたのではないか?もし当時、蜻蛉と野分が出会っていたならば何か変わっていたのだろうか。呪いによる世の終焉を希う蜻蛉と、消えたい呪いの王・野分が。それは想像しても食い違った存在にしか思えなかった。
同じ想像をしていたのか、茉莉が言った。
「蜻蛉は勝手に野分を支えようとして呪いを流布してるけど、野分を探してはいないよね。別に会いたくないんじゃないの?」
「そう言えば、そうだね。」
確かに。蜻蛉は呪の王の臣下を自称するものの、野分を探して金魚の糞になろうとはしない。勝手な支援活動を続けているだけだ。
「まことに迷惑なばかりだ。」
野分の嘆息を、蜻蛉にも聞かせてやりたいものだ。
そこへ、あさひが期待を込めて野分に訊いた。
「で、野分の意見は?」
有識者のコメント待ちの空気を出されて、野分は少し逡巡するような微かな呻きを漏らしてから、低く言った。
「もし…もし龍の木の復活により全てが解決するならば、真砂はそうすべきだった。だが、そうせず、風穴を封じ、私を封じ、清め人をつくった。真砂は間違いなく特別強い清め人、繚乱だった。だが、龍の木の復活を成さなかった。成せなかった、のではないか。」
「成せなかった?真砂様をして、成せぬとなりますれば、まさか俺になど…。」
野分の意見に在仁が狼狽すると、野分は否定した。
「いや、真砂が龍の木の復活を成せなかったのは、龍の卵が産まれなかった故ではないだろうか。真砂の最愛の妻を、私が殺してしまった故に…。」
しん…と沈黙が落ちた。だが、野分を気遣う事を無意味と思うてか、茉莉が言った。
「つまり、真砂様は力は足りてたけど卵が無かった。でも在仁には卵はあるけど、力が足りない。そういう事ね?」
「私見だが。」
呪いの私見ね。茉莉が頷いた。
「だったら在仁の方が可能性あるよね。見てよ。金霞にはもうヒビが入ってる。もうちょっとで生まれそうだもの。」
茉莉が皆に見せつけるように卵を手に乗せて差し出した。皆にはそのヒビがはっきりと見えた。茉莉のポジティブさが、皆の心に希望を宿した。
「とは言え、方法は不明だ。」
私見はここまで。野分が黙ると、皆も沈黙。
在仁は軽く考察してみて何か意見がまとまるかと思ったが、まったくそんな感じが無い。見れば、あさひも四天たちも疲れた顔だ。隠しページを解き明かすために睡眠不足なのだ。そんな状態で名案が浮かぶはずもない。
ううむ…何だか煮詰まった気配だ。こうなると前に進まないばかりか、時間を無駄にしてしまう。在仁は気持ちを切り替えて立ち上がった。
「やめましょう。今ここで結論が出る問題ではございません。あさひ様も、四天の皆さまも、一度しっかりとお休みください。その後に再びの作業の方を、どうぞよろしくお願い申し上げます。」
在仁は強引にこの場を終えた。
こういう時は一度離れた方が良い。頭を別の事に使ってリセットしてから、もう一度落ち着いて臨むべきだ。
その意見に、全員が同意した。膠着した状態では生産性が無さ過ぎる。
「何か分かったら連絡する。手記の写しをデータ化したら共有するから、暇があったら葛葉さんも考えてみて。」
あさひの言う「暇があったら」と言う表現は、在仁を主体としていない。あさひは出来るだけ在仁の力を借りずに事を成したい。これまで溜まった恩とか借りとか、そういうのもあるし、男のプライドもあるし。そういう意味を込めて、こちらが主体の案件だぞ、という顔をしてみた。
そんなあさひに、在仁は頭を下げてお礼を伝えてから、四天処を後にした。
「ありがとうございます。では。」
◆
とは言え、手記の内容はなかなかインパクト大だった。
在仁のみならず、全員の頭にこびりついている。一度この件から離れようと言ったのは在仁自身であったが、とても頭から離れる事が無いので、とりあえず関連して行動を起こす事にした。
福原の青藍を訪ねたのだ。
やんわり先触れをしたら、快く迎えてくれた青藍は、いつも通りの厳格な空気を纏っていた。在仁が茉莉と武士勢を伴って訪ねるのは大人数だが、青藍も平家の使用人も動じる様子はなかった。
「御爺様、あれから御加減は如何でございますか?」
青藍とは渡戸の件以降、会っていなかった。紅に巻き込まれて睡眠不足になっていた青藍はちょっと疲れていたので、あの後ちゃんと休んで復活したのか心配だった。在仁が気遣うと、青藍の眉がピクっとした。
「問題ない。ただの睡眠不足だ。もう回復した。在仁の方こそ、その声はどうした?風邪か?」
疑いの目がたいへん厳しい。在仁ははっとして口を隠すように手を添えた。声はまだカスカス、というか、さっき囀漠寺の手記を読む係を勤めて、またカスカスになった。
そこへ、茉莉が事情を説明した。
「昨日、庵さんとありささんの結婚披露宴だったんです。重で乗っ取って、凄く盛り上がったんですけど、在仁司会で喋りまくったんで、声が枯れちゃいました。良い仕事したんですけど、盛り上がり過ぎて収集つかない感じだったんで、在仁には負担だったかも。」
「…そうか。あまり無理をするな。」
在仁が何を言っても大体怒られる感じだが、茉莉のフォローのお陰で免れた。在仁はほっとして頷いた。
そして、青藍に囀漠寺の手記の事を、在仁ではなく茉莉が話した。茉莉の大雑把な話を、東たちが補完しつつ話せば、皆はそのお陰で少し脳内が整理された。
「って事があって。その囀漠寺様を手引きしていた三条様という陰陽師は、御爺様のご先祖様なのかしらって。」
囀漠寺の手記に登場した人物は少ない。中でも名前が明記されていたのは、三条と蜻蛉。三条とは一度目の長老会潜入以来、関わりを断ったようであるから、詳しい情報は無かった。
「私が知る限り、陰陽師の家で三条というのは当家だけだ。おそらく、当家で間違いあるまい。」
青藍が静かに納得した。在仁は喉の温存のために黙っていたが、疑問を口にした。
「なれど、御爺様の御父上様は、囀漠寺様の同胞であられる三条様と同じく、長老会と敵対なさる御立場でございました。それは、三条家がそうした活動を継承なさって来られた故ではございませんか?」
「どうであろうな。少なくとも、私は何も聞かされていない。父は私にそれを継がせる気が無かったのだろう。三条家は正道を生く陰陽師の家系であるから、外法の陰陽師を擁する悪しき長老会とは、どうしても敵対せざるを得ない。それ故、父は自らそうした行動を起こしたのではないだろうか。」
代々継承したのではなく、自ずと飛び込んだとすれば、血は争えないものだと思う。父がその過程で不審死を遂げた事は、青藍にとって辛かっただろう。
「こうして見れば、父は自らの矜持のために戦い死したのだ。その誇りは、尊いものだろう。わざわざ教えてくれて、ありがとう。」
青藍には身内の悲しい死が多くあった。残酷な死が、今でも青藍を苦しめている。その一つ一つが紐解かれて行く事で、少しは青藍の心は慰められているのだろうか。
穏やかにお礼を言う青藍に、在仁は微笑みを返すしか出来なかった。
少々しんみりとした空気になり、東がそれを払拭するように明るく言った。
「ところで、今日は惟継殿はいないのね。平家を訪ねると絶対に現れるのに。」
確かに神出鬼没の惟継がいない。惟継は西に自分の知らない事があるはずがないと言って、在仁が平家への来訪を知らせないと、分かり易く拗ねる。在仁は惟継が拗ねるといけないので、一応メッセージだけは入れておいた。だが、惟継にだって予定があろうから、今日のように突然訪ねても調整出来ない事もあろう。
「お忙しいのでございましょう。」
「うわ~、惟継様が忙しいって、物騒じゃない?」
茉莉があからさまに顔を顰めたので、在仁は苦笑した。
「多趣味だし、交友関係も広いでしょ。いつも政治的案件で暗躍してる訳じゃないって。」
歌会の他にも香の集まりがあると聞くし、雅楽の心得もあるとか。雅な社交を持つ惟継はマメな男であるから、それだけでも忙しいはず。葦鶴と一緒に荒稼ぎするのも忙しいだろうし、北辰隊にばかりかまけていられないはずだ。
と思ったら、青藍がさらっと言った。
「紅殿の家に呪性検知機能付きの防犯ゲートを設置する事にしたらしい。その設置工事の立ち合いに行くと聞いた。」
「ああ!」
あれね!物凄く思い出した。
渡戸を開くために、日付問題が障害になると相談しに来た時、偶然にも惟継と紅に会って、巻き込む形になった。あの時二人が一緒にいたのは、須磨の紅の家にそのゲートを付ける相談のためだったのだ。
あの場所には浄性の毒空木の木があるので、防犯対策は特に必要だ。だから在仁も大賛成したのだった。
「紅様はお一人でございますから、惟継様が色々とお気を回してくださる事は、とても助かりましょう。」
「一人ったって、家政婦とか助手とか、警備員がいるんでしょ?」
紅はズボラなタイプだ。在仁は紅の家兼研究所に何度も足を運んでいるが、まぁ大概は惨状って感じだ。あの家の家政婦はやりがいがあるだろうが、紅自身が物凄く偏屈であるから、とても大変だろう。触って欲しくない物とか、触ったらヤバい物とか、ゴミとか、見分けがつくのは紅本人だけだ。いつも仏頂面で不機嫌そうだし、とっつき難い。やりずらい雇用主なので、助手も大変だろう。
想像したら、労いたくなってきた。在仁が想像上の紅の家政婦と助手を哀れんでいると、廊下をバタバタとする騒々しい音。
何事かと思うと、東が視線で稔元に見て来るように命じ、稔元が静かに部屋を出て行った。
しばしすると、稔元が慌てて戻って来た。
「惟継様が、倒れたそうです…。」
「え?!」
びっくりした在仁は、急いで惟継の元に向かったのだった。




