405 囀漠寺の事
大いに盛り上がった庵とありさの結婚披露宴の翌日、在仁と真珠は四天に呼び出された。
例の鷹司家に伝わる清めの書に隠されたページを解き明かすための鍵となる歌が、四天に共有されたのはつい先日の事だ。まさかもう解けたとは言うまい、と思うものの、呼び出される心当たりはそれしかない。在仁は何だかドキドキした。
呼び出された在仁と真珠に、茉莉と北辰隊武士勢が同行して、四天に着くと、そこに待っていたのは御園と傑、四天とあさひ、小町、そして研究員たち。何だかいつもよりも大人数であるから、ミーティングルームは満員御礼だ。
「随分と大勢でございますね。」
在仁が見回すと、椅子が足りないので研究員たちは立っている。立ち見客までいるとは、一体何事だろうか。テーブルには、上座に御園、その隣に傑が立って、一辺には在仁たちがずらっと並び、対辺にはあさひと四天たち。周囲には研究者たちがごちゃっと立っていた。
在仁の疑問に、御園が疑問を返した。
「葛葉くん、また風邪?」
「え?あ、いえ。昨日喋り過ぎまして。」
在仁の声はカスカスだ。昨日の結婚披露宴の司会を頑張り過ぎた所為だ。重大隊プレゼンツの盛大な祝いの会は、酒が入ってわちゃわちゃして賑やかだった分、司会者は煩いクラスの担任の先生みたいな役割で、結構まとめるのが大変だった。元々ボリューム満点の式次第で、ずっと喋りっ通しの仕事だったので、頑張り過ぎたのだ。だがとても良いパーティーだったので悔いはない。
あの場には北辰隊武士勢はもちろん真珠もいたので、皆が在仁の声がカスカスの原因を分かっている。普段なら、また無理をしたと咎める仲間たちも、今日はご苦労様的な感じだ。
そんな事情は説明せねば分かるはずも無く、四天サイドはカラオケでオールしたのかなくらいのリアクションだった。
「して、本日の御用向きはどのような?」
そんな事はどうでも良いのだ。在仁が問うと、総角が言った。
「例の隠しページを開こうと思ってな。」
「まさか、本当にもう解かれたのでございますか?」
在仁が耳を疑うと、四天サイドは得意げな笑み。だが全員何となく寝不足っぽい目のギラつき。解読速度からしても、寝る間を惜しんでいる事は間違いない。在仁は呆れを滲ませた。
「夢中になられて、ご無理をなさったのではございませんか?」
「まぁ、夢中になるだろ。あれに夢中になるなと言う方が無理だ。」
何だか変な自己正当化を聞いて、茉莉が笑った。
「そんなに面白いですか?何だか紅様みたい。」
茉莉にとってはチンプンカンプンだったが、四天には書の隠しページを解き明かすのは垂涎のパズルゲームだった模様。その言い分が、まるで先日の紅みたいだった。渡戸を開くために、日時を捏造する術を必要とした。それは青藍も難色を示す荒唐無稽さだったが、紅が面白そうだと言って名乗りを上げた。故に紅のお陰で成功した部分は大きいが、面白そうって…。今考えても、研究者たちの感性は理解できない。茉莉にとっては紅も四天も同類だ。
けれどその意見に、四天は眉を顰めた。
「あんな頭のおかしな闇医者と一緒にしないで貰いたい。」
強く全否定したのは松風だったが、他の面子も同意する表情だ。茉莉はびっくりした。
「え、嫌いなんですか?」
まぁ、人当たりは悪いし、在仁関係じゃなかったら絶対に仲良くなれない人だが。茉莉は人柄を思って問うたが、四天は嫌そうな顔をした。
「先日の渡戸の現場には俺たちもいた。見ていたからこそ言うが、紫微星様、あんな危険な者と関わるのはやめた方が良い。」
「そうだな。一人で三連陣を構築させる無茶ぶりはヤバイ。あの術は本来成功するはずの無いものだ。それを分かっていてやらせるのは、危険思想としか思えない。」
「紫微星様の事を大切に思っていたら、そんな事させないって。利己的で社会倫理が崩壊した危険人物に違いないよ。」
「まぁ、禁術を実行させる狂人だからな。」
口々に批判する四天に、在仁は笑ってしまった。在仁たちと四天たちは対面になって座っているので、紅擁護派とアンチ紅派の戦いみたいだ。
「俺も大概、クレイジーでトチ狂った思考回路のイカれた異常者でございますれば。」
それは以前四天に下された評価だ。それを言われた四天は更に嫌な顔をした。
「そうだな。共犯だからな。同類か…。」
紅も頭のおかしい奴だが、一緒になってやっている在仁だって仲間だ。今更とやかく言っても、ヤバイ奴がどうにかなるはずがない。嫌な納得の仕方をした四天は、異端者を忌避するようなジト目で在仁を見てから、改めて本題に入った。
「それで、例の書の隠しページを開くにあたり、真珠様には書の原本を持ってきて欲しいと依頼したのだが。」
「あ、はい。お持ち致しました。」
総角に言われて、真珠はバッグから書を出してテーブルへ置き、差し出すようにスライドさせて四天の方へ押した。
だが、総角は書に視線を落としたまま手を出さなかった。少しの逡巡の後、四天の代わりに言ったのはあさひだった。
「皆であの歌を解読した結果、書の各ページにある番号と記号を繋いで、並び変える必要があると分かったんだ。一は九 九は花 花は七 七は星 星は五 五は三 三は穴 穴は八 八は歌 歌は二 二は四 四は木 木は六 六は風 風は一 この歌の通りにページを組み替えて書を綴じ直す事で、隠されたページが現れるんじゃないかって。」
「組み替えて、綴じ直す、とおっしゃいますと、一度紐を解いてページをバラバラにすると言う事でございますか?」
真珠が問うと、あさひが頷いた。
「そう。だから、まずはその許可を、貰いたくて。これは真珠さんにとって大切な物だから。それに、組み替えて何も起こらなければ元に戻して返すだけで済むけれど、もし間違っていたら書を損壊する可能性もある。隠しページを護るために、書が燃えてしまうというような罠が無いとは言えない。元通りにして返却すると約束できないんだ。想像しないリスクがある事を、知った上で、決めて欲しい。」
そう言われて真珠は少し躊躇った。
「真珠、正直な御心でお決めになられれば良いのでございますよ。」
隣で在仁が優しく言った。必ずしもこの研究馬鹿たちの望みを叶える必要はない。在仁とて有用な情報を期待する身であるが、この書は真珠の物なのだ。権利は真珠にある。
在仁の言葉に同調するように、関屋が言った。
「その通り。我々は法に乗っ取り、倫理を侵す事は無く、人道に悖る事も無い。どこかの狂人と一緒にされたくない。」
紅を引き合いにして否定するのを見ると、相当に紅に危険意識を持っているらしい。在仁は普段から紅はヤバイと公言しているが、四天に言われるとその事実が重く思える。まぁ、ヤバイんだ、あの人は。
「なれど…。」
こうして呼び出されて取り囲まれては断り難い。真珠が戸惑いながら、書を見た。
この書は鷹司家の誇りを可視化したような品だ。大切な物に相違ない。できれば傷つけずに、これからも大切に受け継いでいきたい。けれど、そのために今目の前にある可能性を捨てるのは、誠実と言えるか?鷹司家が受け継いで来た誇りは、世の為になる可能性から目を背けるだろうか。保身を優先するろうか。
しばしの沈黙の後、真珠が顔を上げた。
「分かりました。どうぞ、やってください。」
覚悟を決めてバッサリと言った真珠に、明石が訊いた。
「マジで良いの?無くなっちゃうかも知れないんだよ?」
「ええ。書を遺された清め人は、後世に伝えたい事があったのでございましょう。そしてそれを大切に守って参りました事は、今この場でそれを明らかにする為、ではないでしょうか。私は、皆さまを信じます。きっと、真実を明らかにしてくださると。」
大丈夫。四天もあさひも優秀だ。真珠が信頼を寄せると、皆が目を合わせて頷き合った。自信はありそうだ。
「分かった。では、失礼する。」
感謝するように頭を下げた総角が、代表して書を受け取った。
◆
書を綴じていた紐が解かれた。
器用に全てのページをばらすと、四天とあさひが慎重にページを並び換えた。
その作業を、皆で固唾を飲んで見守っていた。何が起こるのか緊張する真珠は食い入るように見ていて、在仁と茉莉は書よりも真珠の様子が気になってしまった。何と声をかければ良いのか、在仁と茉莉が視線で会話している内に、書は再び紐で綴じられた。
「これで、いいはずだけど。」
完成した書は、表紙は同じであるから変化を感じない。
在仁の正面に座っているあさひは、真剣な表情でその書を手に取って、ゆっくりと唱えた。
「一は風 風は六 六は木 木は四 四は二 二は歌 歌は八 八は穴 穴は三 三は五 五は星 星は七 七は花 花は九 九は一」
「さかさま…。」
真珠が呟いたのは、あさひが唱えたのが、最初の歌を逆にしたものだったからだ。その呟きに、明石が解説した。
「開錠のために、来た道を戻す必要がある。逆演算で術を無効化するのと同じだ。」
「何か言ってんな…。」
専門家が不親切な説明をしたのを、誰かが呆れた。多分東だ。
見ていると、あさひが書に清めの気を流し込んだ。
すると、書の表紙の色が変わった。
それを見た四天と研究者たちが前のめりになった。あさひを囲んで身を乗り出すので、あさひが窮屈そうだ。
「成功か?」
問われたあさひは、緊張の面持ちでそっと書を開いた。
「…中身が、変わってる。多分、成功だ。」
対面の在仁たちも身を乗り出して、書を覗き込んだ。
書の内容を読んでいたのは在仁だけだが、真珠は読めないながら中身を覚えていた。中身が変わっているのは、明らかだった。
◆
「どうだ?何が書いてある?」
前のめりの松風が問うと、あさひは慎重に一枚ずつページを捲った。
「駄目だ、読めないね。見て。」
開かれたページは黄ばんだ紙に滲んだ墨。古く劣化していて文字は判別できそうにない。それを見て、四天たちは明らかに落胆した。
「復元できそう?」
「いや、さっきまでは古いながら読む事が出来る状態だった、隠しページのみが経年による劣化とは考え難い。おそらく長期間術によって秘されていた事による耐久限界だろうから、復元は出来ないだろうな。」
問うあさひに、関屋が冷静に言った。
「複雑な術で隠してあったからね。しかも開錠に清めの力が必要だった。とんでもない警戒心だな。」
「この書を記したのは清め人だからな。その清め人が、清め人にしか読めないように遺したと言うならば、内容の価値はかなり期待できると思ったが。」
口々に考察しつつも、落胆が滲んでいた。折角ここまで来て…と皆が肩を落とした時、在仁が訊いた。
「どこか少しでも読める箇所がございませんか?」
あさひはまだ一ページ捲っただけだ。在仁に促されて、あさひはページを丁寧に捲った。
「あ、ここらへんから読めそう。」
皆が身を乗り出して一冊の書を見下ろしているが、ミミズの這ったような仮名文字を読解できるのは専門家だけだ。真珠はそれを見て、悔しくなった。
「全然わかんないね。」
茉莉が言って、北辰隊勢も同意。見ていても分からないので大人しく座った。対面の四天サイドは食い入るように書を見ているが、真珠は役に立てそうもない。渋々腰を下ろすも、在仁だけは身を乗り出した姿勢であさひの開いた書を反対側から見ていた。
「日記…いいえ、手記でございましょうか?」
そう言った在仁に、全員の目が向いた。読んでいるのか?と。あさひは一度在仁を見てから頷いた。
「そうみたいだね。隠されていたのは、囀漠寺の手記みたいだ。」
あさひは少し目で追ってから、書を在仁に渡した。在仁は受け取ってから座り、ゆっくりと目を通し始めた。それを見て、茉莉が隣から言った。
「在仁、読んで。」
「…うん、分かる範囲で。」
そして、在仁は音読、否、訳しながら読んだ。
◆
「もう、限界だ。一体いつまでこうして逃げ隠れせねばならぬのか。野分からも、長老会からも。
私が一片となって以来、他の一片に会った事が無い。もう他の一片は失われてしまったのか。我々後世の一片は、元のそれらよりも明らかに劣化している。今の一片が何人力を合わせようとも、野分を消すに能わないだろう。
だと言うのに、長老会は、異能力者を集めている。一片だとバレれば、野分よりも先に長老会に捕まる。長老会が一片をどうしようと言うのか知らぬが、悪しき所業の巣窟である長老会に捕まっては生きて帰る事はあるまい。ただでさえ弱体化し、数を減らした事で、存在意義を失した我ら一片が、長老会により消されてしまっては、どうしようもない。
長老会は、一体何をしているのだろうか。
権力を振りかざし、人の命を軽んじ、邪術に手を染めていると聞く。批判する者は翌日を迎える事は無く、ただ誰もが黙して目を逸らすのみ。このまま長老会をのさばらせておいたら、社会秩序は失われ、地龍は終わるろう。
だがそれを分かっていても、どの家も長老会には手が出せない。平家は長老会と繋がり力を得、源氏との権力闘争の後ろ盾としている。源平の睨み合いが激化する緊張状態は、いつまた戦となるとも知れず、各家も身動きが取れないままだ。そうした状況がまた、長老会を暗躍させている。
長老会に与する転生者は多く、結託して何かを成さんとしているようだ。それが一体何なのか。私は調べてみる事にした。」
ぱら…と在仁の手がページを捲った。
細長い指が、焼けたような文字をなぞっていく。そこは解読不能箇所だ。
ゆっくりと少しでも読めそうな文字を探す在仁を、全員が見つめていた。
そして、在仁は指を止めた。
「長老会の目的を探る内、同じ志の者と出会う事が出来た。結集する事で長老会に気取られる事を避けている為、全貌は不明ながら、私は三条という陰陽師と手を組んだ。」
「三条…、って御爺様の?」
茉莉が問うも、在仁は曖昧に頷いただけだ。
青藍は代々陰陽師である三条家の子孫だ。父は長老会と対立する活動をしていて、その過程で燕を保護して来たと言う。その後、原因不明の死を遂げた。青藍はそれを、長老会に殺されたと考えているようだった。在仁はそれを思い出すと、三条家が古くから長老会と敵対する勢力に所属していたのではと想像した。もちろん、「三条という陰陽師」というのが青藍の先祖とは限らないが。
「三条によれば、長老会の目的は後白河法皇の復活だと言う。法皇が復活すれば、全転生者を束ね、実質的な地龍のトップとなる目論見だと言う。復活の為の魂は、壺に収めて隠してあるのだと言う。復活のための肉体には、地龍様を使うつもりなのだそうだ。
それを知り、私は驚愕した。地龍の存在理由は、龍神様との契約を履行する事。世の均衡を守る事だ。龍神様との契約者である地龍様の体を乗っ取る事は、履行者の挿げ替えであり、龍神様を欺く行為。この報いを恐れぬ事に、長老会の愚かさが救いようの無いものだと確信した。このままでは、本当に地龍は滅ぶ。
何とかしなければと思った私は、長老会の目的を破壊する事にした。」
ぱら…と在仁がページを捲る音だけが、部屋に響いた。全員が息を飲んだのは、ここに記されている事がよもや真実とは思われなかったためだ。あまりにも、恐ろし過ぎる。
言葉も出ない程の恐怖を覚えた面々が悪寒に耐えていると、在仁がまたページを捲った。飛ばされたページは読めない。何が書かれていたのか、もう知る事は出来ない。それを惜しむ気持ちは、どこか恐い物見たさに似ていた。
そしてまた在仁が手を止めて、口を開いた。
「長老会に潜む陰陽師の手引きで、三条と私は件の魂壺の破壊に成功した。あれが本当に後白河法皇の魂を封じた壺であったかは、終ぞ分からなかったが、これでもう悪しき目的を達する事は出来ない。密かに忍んで破壊した為、長老会があの魂壺が破壊されている事に気付くのはいつになるか分からないが、この隙に出来るだけ逃げねばなるまい。三条とはもう連絡を取らないと約束をして、私は痕跡を消して逃げる事にした。
だが、どうしても気になる事がある。魂壺は宝物庫の金庫の中に封じられていたが、その金庫の隣に恭しく祀られていた木箱があった。魂壺の破壊の際、その木箱を倒してしまい、中身が落ちた。そこにあったのは、翡翠眼だった。あの翡翠眼からは、異様なものを感じた。あの時は魂壺を破壊する事に専念せねばと思い、箱を元に戻して来たが、どうにも気になって仕方がない。
あの美しい翡翠色の眼が、魂壺を破壊しただけで世の災いは止められまいと、私を嘲笑っているように思えてならないのだ。
実際、あれから長老会の動きは変わらない。それは魂壺の破壊に気付いていない為やも知れぬ。だが、もし長老会が魂壺の存在如何に関わらず、世を滅ぼそうとしているとすれば、どうだろうか。転生者たちが望む法皇復活の道とは別の、悪しき意思が長老会を操っているとすれば、どうだろうか。そこに、あの翡翠眼が関わるとすれば、どうだろうか。
私は日に日に不安が募った。
それ故、もう一度、長老会へ忍び込む事にしたのだ。」
そこまで読むと、在仁が一度、深く息を吐いた。そこには緊張が見て取れた。解き明かされる真実のどれもが衝撃過ぎて、鼓動が早まる。手が震える。その手に、茉莉が手を添えた。温かい茉莉の手の感触に、はっとした在仁がまたページを捲った。
「二回目の長老会潜入の所は読めそうにないね。」
数ページ飛ばすのを見れば、その後どうなったか詳細を知る事は出来そうにない。茉莉が落胆して言った。皆が夢中になっていたので、肝心な所が無いのはがっかりだ。全員が一度深呼吸。
そして、在仁がまた指を止めて、読み始めた。
「翡翠眼を蜻蛉と呼んだ男は、酷い臭いだった。あれは呪いだ。あれだけの腐臭だ。もう長くはあるまい。だがまるで呪いに殺される事が本懐であるかのような恍惚を抱いて見えた。異常だ。私は心底恐ろしいと思った。
蜻蛉は、野分を支えるために世に呪いを流布せんと語っていた。呪いの王の百世不磨を成す為に、世を呪いによる終焉に導かねばと。呪いによる終焉こそがあるべき正しき道であると。
私はそのような戯言を、何故信じるのかと、憤った。
だが、その反面、野分を消す事の出来ない事実を思い出せば、呪いによる世の終焉はあながち嘘とも思われず、恐怖した。
私は恐かったのだ。だから、その場から逃げた。とにかくも、逃げるしかないと、急き立てられるように駆けた。それは、一片として野分から逃げている事の罪悪感だったのかも知れぬ。一片としての役目を果たす事も出来ず、ただ世を憂いるだけの、無力な私自身の罪から、逃げたかったのだ。
弱体化し、数を減らし、一片にはもう野分を消す事は出来ない。私一人が犠牲となって野分を削った所で、無駄死に相違ない。そう思うと、命を惜しんでしまう。元より己の命惜しさに逃げ惑うだけの、卑小な私の清め意思など、まことに情けないばかりだ。私が一片として惰弱であるのは、その所為だろうと思うも、どうしようもない。
後から思えば、あの時蜻蛉を清めてしまえば良かった。あの程度の呪いであれば、弱き一片の私にも消す事が出来ただろう。そうすれば、野分を消せずとも、多少は報いる事が出来たかも知れなかったのに。
何もかも、悔いる事すら烏滸がましい。」
まるで在仁自身の悔恨であるかの様に言ったのは、共感しているようにも見えた。
全員の視線が集中する中、在仁は戸惑う手で、またページを捲った。
「長老会は今までにも増して、異能力者を探している。共感者、一片、そして繚乱。
それらを探しているのは、蜻蛉なのではないだろうか。野分による世の終焉を望む蜻蛉にとって、邪魔な異能者たちを、長老会を利用して消そうとしているのではないだろうか。
だが、繚乱とは。まさか本当に繚乱がいると思っているのだろうか。
真砂様以来、繚乱が生まれたと言う話は聞かない。呪穴が封じられたこの世に聖性が蘇る事があろうか?もし再び繚乱が生まれる事があれば、問題は解決するだろう。真砂様と同等の力があれば単体で野分を消す事が可能やも知れぬ。そうでなくとも、龍の木を蘇らせれば、その聖性で野分を消し得るのではないか。繚乱の存在には大きな期待と希望があるが、それは望み自体が詮無き事だ。
そもそも、我らは弱体化してしまった。弱き器に繚乱の力を宿した者が、その力を自在と出来るはずも無い。所詮は劣化した花。繚乱とは呼べまい。
かつて真砂様は、野分と共に時を過ごしたと言う。強大な呪いである野分と肩を並べて時を過ごす事が、後続の一片にできようか?私のような弱き一片は、呪いの悪臭にすら耐えかねるというのに。やはり真砂様の如き特別な器を持ってこそ、繚乱の力は真価を発揮するのだろう。
真砂様は龍の木より落とされた種より芽吹いた初代の花。それに比べて我らはその一片に過ぎず、また継承の度に精度を落とし劣化した弱きものだ。今更、後世に真砂様と同等の特異な器を持つ者が生まれる事は、ないのだろう。
もし、足りぬ器に繚乱が宿ったとて、脆弱な器が繚乱の力を扱いきれるはずがない。ならば、その足りぬ分を何で補えば良いのだろうか。
一片の結集により、繚乱に似せる事が出来れば、支えになろうかと思うも、一片は既に数を減らしている。補完できるだけの強き力が手に入る見込みも無く、最早諦める他ないのか。」
そこで、在仁が手を止めた。
闇色の瞳が揺れたのが分かった。
「在仁?」
どうした?茉莉が問うと、在仁は書の最後の一行をなぞった。
「この世はいずれ呪いにより終わるだろう。」
その締めくくりを読んだ後、在仁は書を閉じた。
部屋には、嫌な静寂が落ちたのだった。




