399 渡戸の事
「始めます!」
まずは、在仁からだ。在仁は茉莉と手を繋ぎ、もう片方の手を術陣に置いた。同じ姿勢の茉莉と目くばせをしてから、息を吸い込んだ。集中する在仁が、動きを止めると、まるで置物のように微動だにしなくなる。在仁は慎重に演算をはじめ、茉莉はそれに合わせて術陣に術力を込め始めた。茉莉の術力が術陣に流れ出すと、術陣は淡く光ってからぐるぐると回り出した。布に描かれたはずの陣が動き出したのは不思議な光景だ。
そして同時に演算を始めた在仁の手と術陣の接地点から、うっすらとした光が別の術陣を描いて行く。光で絵を描くように形成されていく術陣は、相も変わらず正確で緻密。そして早い。在仁が描く術陣が、茉莉が術力を込めている術陣と重なると、カチっと嵌るように止まってから、再びぐるぐると回り出した。それは時計に似ていた。
その上から更に、在仁が術陣を展開して重ねたのは、プラネタリウムのような美しい柄だった。その術陣が重なると、三重の術陣がカチっと嵌るように止まった。それから、ゆっくりとした速度で回り出した。
それは、何かの装置のように正確で、かつ美しかった。
それを結界外から見ている紅が唸った。
「早い。精度を保ってあの速度とは。腕を上げたな。」
褒める紅を、四天が後ろからヤバイ奴だなと言う目で見ていた。紅と在仁が成してきた数々のヤバイ案件を知る四天は、今正に新たなヤバイ案件がつくられているのだなと思って見学していた。
「三連陣て一人で組めるのか?」
「いや…無理だろ。だが…。」
常識外れの現実が目の前にあるのを、全員が目を見張っていた。
在仁が術を発動させるまでのこの時間がどれだけ長くなるのか、紅も青藍も早くても三十分と見積もっていた。それは、あの演算が書かれた紙の束を丸暗記して暗唱するだけでもそのくらいの時間がかかると思ったからだ。だが、その予想速度をあっさりと超えて、在仁の術は完成しようとしていた。
雲が流れて、一瞬だけ月明りが漏れた。その時、丁度在仁が演算を終えた。重なってゆっくりと回っていた三連の術陣が、静かに動きを止めた。
「いまだ!」
紅が叫んで、清浄機が止められた。
◆
在仁と茉莉は片手を繋いだまま、術陣に手を置いた姿勢で、集中していた。
現在は術が発動されて、術陣内は指定日時を再現した状態だ。それはタイムスリップではない。十月下旬某日の深夜になっているのではなく、その日の星巡りの条件下を再現している。その状態が、渡戸を開く条件に当てはまるのかは、やってみなければ分からない。
必要な条件である呪性を得るために、風穴の横に設置された清浄機が止められて、辺りには先程よりも強い呪性が漂い始める。
術陣内の計測器からのデータを確認していた紅藤小隊員が合図を送ると、周囲に火が点けられた。
火は術陣を囲う要員の外に円形に燃え上がり、中は一気に炎に囲まれた。
火事の現場を再現するための炎は、条件を満たすために一定の火力を保って燃え続けて、中はとても高温になった。
術陣内の計測器を見ながら、紅藤小隊員たちがその他の微細な状況を調整。出来るだけ、先日の放火事件の現場に近い状況を再現していく。複数の術が使用されると、内部は混沌とする。術同士の干渉による暴発や相殺を避けて、多重発動状態を保つのは至難の業。これぞ地龍最高峰部隊の術者たちの成せる業だ。
清浄機を止めてからの所要時間は三分にも満たない。
スピード勝負であるから、順調だ。環境は成った。
そしてここからは、待つ。
この条件下で、本当に幽世と現世を繋ぐ渡戸が開くのか。
ただ、待つ。
その誰も見た事の無い現象を、ひたすら待つのは、どこに目を凝らして良いのかも分からないのだから、全員が瞬きを惜しんだ。
茉莉は術陣に術力を安定供給し続けねばならないので、集中を途切れさせないように気を付けながら、術陣の中の菊たちを見た。
三重の美しい光を放つ術陣の中に佇む菊たちは無反応だ。
菊たちはここに連れて来られた時からずっと同じ。ぼうっとした表情で、虚ろにしているだけ。言われた通りに歩き、言われた通りに座って、言われた通りにじっとしているだけ。やはり、そこに自我は無いと見える。菊たちの自我は、幽世にあるのか。
しん、として待つのは一秒すら長く感じる。おそらくまだ一分と待っていないのに、どうしてこんなに長く感じるのだろうか。今の所茉莉が供給している術力は大した事がない。このまま何時間か続けていても平気だ。だが、問題は在仁だ。術に必要な術力の大半を茉莉が補っているとしても、在仁の術力消費はゼロではない。発動者は在仁であるから、相応の術力を使用して維持しているのだ。どんな術も、発動者がリスクを負う。禁術ではないので、中断や破綻で死ぬ程のリスクは無いが、これだけ複雑で大がかりな術であるから正しく扱わなければリスクは小さくない。茉莉は在仁の足を引っ張るまい、出来るだけ支えねばと思って、集中するために一度術陣を見下ろした。そこに、ぽた…と汗が落ちたのが見えた。隣を見ると、集中して微動だにしない在仁の額から落ちた汗だ。茉莉がはっとした。在仁と繋いだ手が冷たい。
「呪性が…。」
渡戸のためにこの場所には呪性が満ちている。皆は浄化札で身を守っていて、清め人である在仁自身が呪性に侵される事は無い。だが、在仁は呪いに弱い。
「熱さもあるわね。」
背後を守っている東が、この環境は在仁にとって過酷だと指摘した。
「色んな意味で、時間は無さそうね。」
元より複合的な意味で時間をかける事は出来ない。
だから、いつまで待てば良いのかと。
そう思った時だった。
菊たちの丁度真上に、不自然な靄がかかった。
「真珠!」
君崇がそれを指さすと、真珠が目を見開いた。
「あれが、渡戸かも知れません。呼びかけましょう!」
それが何であるか分からないながら、渡戸と信じて行動するしかない。真珠が叫ぶと、術陣の前で待っていた檀と、被害者の夫が全力で妻を呼んだ。
「菊!」
「御婆様!」
真珠も一生懸命にその靄に向かって声を張り上げた。
すると、その靄が輪のような形になって、中心に穴を作った。その穴の中は全く見えなかったが、その先に何かあるよう思わせた。
それを全員が食い入るように見ていた。
「御婆様!」
◆
「渡戸さえ開けば、自我は自ら戻って来るんですか?」
真珠の側で護衛役を務める蘇芳が、状況に警戒しつつ問うと、千之助が頷いた。
「魂と体は一つのものだ。被害者の自我は、自分の体に戻ろうとする強制力が働いているはず。生霊だの幽体離脱だのというのは、だいたいがその強制力の不具合を治してやれば解決する。今回は幽世に意識を連れて行かれたと仮定している。その場合、障害が無ければ自然に戻るはずだ。」
「じゃあ、あれが渡戸ならば、これで自我が戻って来るって事ですね?」
「その、つもりだ。」
成功が見えて来たのか。期待と不安を混ぜた二人の声は、真珠たちの必死の呼び声にかき消された。
輪になった靄が大きくなっていくものの、そこから何かが出て来る気配はない。最前線で真珠たちが身を乗り出すのを、千之助が止めようした。
「取り戻すつもりが、逆に持って行かれる危険性もある。気を付けろ!」
千之助が叫んだ時、輪の中からチラリと何かが光った。
「御婆様!」
興奮した真珠を君崇が抑えた。発動中の術陣に干渉してはならない。真珠はギリギリの位置にいる事にも構わずに、輪を見上げた。
「真珠、足元よく見て。」
注意したが、真珠は君崇の袖を引っ張った。
「君崇様、あれを見て。」
下を見ろと注意したのに、逆に上を見るように言われて、君崇が見上げると、輪から二つの光の玉が出て来た。
「きっとあれが御婆様だわ!御婆様!」
根拠も無く呼ぶ真珠に引っ張られるように、夫たちも必死に妻を呼んだ。
その光が呼ぶ声を聞いて出て来たのかは不明ながら、真珠が声を枯らす勢いで呼び続けていた。それを皆で固唾を飲んで見守っていたが、浮遊する光はすんなりと降りてこない。帰るべき体は真下で、もうすぐそこだ。何故。
「何かおかしい。あれは何だ?」
問うたのは蘇芳だ。光ではなく、輪の中を注視していた蘇芳には、紐のようなものが見えた。その紐が、二つの光を引っ張っているように見えたのだ。
炎に囲まれた場で、一定の環境を維持するために術を扱い続ける微細な仕事をしている者たちも、集中を切らさぬように注意しながら、その輪を見ていた。
蘇芳が問うその紐は、輪の中から出たがる光を、逃がさぬように拘束して見えた。
「もしかすると、幽世にいる何かが、被害者の意識を攫って捕えているのかも知れない。」
千之助が言うと、蘇芳は警戒して周囲の状況を再確認した。配置は変わっておらず、結界にも影響はない。
「では、火事でたまたま渡戸が開いた事による事故では無く、渡戸が開いたのを狙って、中にいる何かが人間の自我を持って行ってしまったと言う事ですか?もしそうなら、これは揺らぎです。」
『夜』が境界を越えて人を害そうと言うならば、揺らぎと判断できるはず。討伐対象ならば斬るのみ。
「あの『夜』にこちらの自我を奪われる可能性もある。結界を強化し、非戦闘員をもっと下がらせろ!」
蘇芳が指示しながら刀を抜きかけた。だが、その手を千之助が掴んで止めた。
「待て。不用意に攻撃するのは危険だ。」
光は穴から出たがっている。紐を引っ張って外に出ては、戻されて。繰り返している。だが、その紐の主は全く輪から姿を現さない。紐しか見えない。あの輪の中が幽世に続いているとしたら、不用意に内部に向けた攻撃をするのは危険だ。逆に飲み込まれる懸念もあり、中から何かが反撃をして来る可能性もある。
「あの光を傷つけてはならない。」
あれが菊たちの意識ならば、あの光を取り戻す事が目的なのだから、決して斬ってはならない。千之助の指示に、蘇芳は懐疑を向けた。
「そも、あの光は本当に被害者の自我ですか?」
それは誰も正解を知らぬ問いのはず。だが、急に振り返った真珠が言った。
「あれは御婆様です。ご覧ください。」
真珠が見ろと言ったのは、渡戸では無く、菊たちの体だ。術陣の中にぼうっと座っていた体。
皆が渡戸の方ばかりに気を取られていて、体を見ていなかった。真珠に言われて目を向けると、菊たちは真上の輪を見上げて、手を伸ばしていた。今まで自発的に何にも反応を示さなかった体が、あの光を求めているように見えた。
「体と意識が引き合っています。あの光は、御婆様です。」
真珠の確信に、蘇芳は頷くしかなかった。元より、この場の責任者は真珠だ。真珠がそうと言うならば、それに従う。
「ではどうする…。」
作戦では、渡戸さえ開けば意識は自然と体に戻るはずだった。だが、その意識と思しき光は、渡戸の中に拘束されている。幽世に囚われている。
「御婆様!」
「菊!」
一層強い呼びかけをする真珠たちに呼応するように、光が紐を引っ張って、菊たちの伸ばした手に触れそうな程に近付いた。
けれど、ぐーんと伸びた紐が、その反動で強く引き戻し、光は一旦再び輪の中に戻ってしまった。
「御婆様!」
惜しい…。皆がどうしたら、と思った。
そこへ、茉莉の声が響いた。
「在仁!」
目を向けると、在仁が蹲っていた。
◆
皆が渡戸に集中していて、茉莉もそれに目を奪われていた。その時、在仁が急に前傾に倒れた。
「在仁!」
茉莉は術を維持するために動けないが、繋いだままの在仁の手が震えているのが伝わった。
後ろから東が在仁を支えて起こすと、在仁はびっしょり汗をかきながらも、必死に術を維持していた。
「綿毛ちゃん、無事?」
「…なん、と、か。」
自分で体を起こしていられないとすれば、限界に違いない。東は在仁の体を支えて叫んだ。
「こっちギリギリよ。急いで!」
その声に便乗するように、環境を管理している紅藤小隊員も叫んだ。
「徐々に呪性の値が上がってます。あまり上がり過ぎると条件に合わなくなる可能性があります。一旦清浄機を動かすと、下がり過ぎて破綻する可能性が高いです。」
「こっちもです!このまま火力を維持すると、内部の酸素を確保できないです。これ以上の複合術使用は、干渉し合って危険です。」
「あの輪の中から呪性と瘴気が漏れてます。二次災害の危険があります。」
そのままあちこちから限界が近い事を訴えられ、千之助は焦った。
「折角ここまで来て…。何か一つでも途切れたら、条件が損なって渡戸が閉じる。何とか少しでも長く維持してくれ!」
各所の訴えもそうだが、千之助の視界に入っている在仁がもう限界だ。これ以上は危険。一旦中止すべきか。渡戸を開く条件は分かったが、とても繊細で準備も必要だ。何度も上手くとは限らないし、在仁に何度も負担を強いる事が可能なのか。折角此処まで上手く行った今しか、チャンスは無いのではないのか。
「あとどれくらい持つ?」
「五分は持ちません。」
「こっちは二分。」
あちこちが短時間を提示して、千之助はもう引き際だと思った。蘇芳を見れば、蘇芳も頷いた。歴戦の武士たちが厳しい戦いを生き残ったのは、引き際を知っているからだ。
千之助が苦渋の決断をせんとした時。
「真珠、全力で呼びかけて。限界まで紐を引いたところで、僕が斬ってみるよ。」
君崇が言うと、刀を抜いた。
それは、龍の牙・朱烏だ。
◆
「君崇様。」
真珠が驚いて見上げると、君崇は真剣な顔で渡戸を見上げていた。
そこには、紐に引かれている光がふたつ。
「真珠、もう時間が無い。とにかく全力で紐を引かせて、紐だけを斬るしかない。良い?思いっきり呼んで。」
早口で言った君崇は、これが最後の悪あがきだと言わんばかりの焦り顔だ。炎が熱いのか、それとも切迫する状況がためか、君崇の額から汗が流れていた。いつも穏やかで何でも出来る君崇の必死な表情に、真珠は覚悟を決めた。
「御爺様方も、ご一緒に、全力で呼びかけましょう。」
檀たちにそう言えば、二人とも深く頷いて、思い切り息を吸い込んだ。
真珠も一緒に息を吸って、そして全力のあらんかぎりの力で呼んだ。
「御婆様!戻って来て下さい!御婆様!」
「菊!」
その叫びに、光が再び紐を引っ張って渡戸から出て来た。
ぐーん、とさっきよりも長く。菊たちの体により近付いて、もうすぐ手が届きそうだ。
長く伸びた紐が、いつまた引き戻すか分からないが、限界まで伸ばして、狙いを定める。
在仁も、各担当者も、もう限界すれすれだ。今にも条件が破綻しそうな、最後の最後を振り絞るように、紐が伸びきった。
君崇は、その瞬間を見極めて地面を蹴った。
術陣の上空に不自然に浮いた靄の高さまで跳び上がると、そのまま紐に刀を振り切った。
スパっと何かを斬った感じがあった。
君崇が元の位置に着地して見上げると、確かに何らかの手応えを得たはずなのに、光は引き戻されているように見えた。
「駄目、なのか…。」
そう思った時、在仁が叫んだ。
「渡戸を閉めて下さい!」
その声で、全員が反射的に理解した。光は渡戸の外だ。紐は引き戻そうとしているが、光を外に残したまま渡戸を閉じてしまえば、光だけがこちら側に残るのではないか。
急いで術者たちが、扱っていた術を全て止めた。担当者がすぐに清浄機を作動させた。そして、在仁と茉莉がゆっくりと安全に術を解除した。
しん…再びその場に静寂が落ちた。
全員の目が、宙を見ていた。
そこには、消えた渡戸。そして光が二つ浮いていた。
「御婆様…。」
真珠の声はもうカラカラでかすれていたけれど、その声に応えるように、光は菊たちの体にそれぞれ入っていった。
◆
皆がじっと見つめていた。
術は解除されて、術陣内はもう入っても大丈夫だ。君崇はそれを確認してから、真珠を中に促した。菊の元に。
そして真珠たちは、菊たちに近付いて膝を着き、様子を窺った。
「御婆様?」
呼びかけると、菊の体はゆっくりと動いて、真珠の手を握った。
「榧?」
その声は、はっきりとしていた。真珠と檀には、菊の目に自我が宿っているのが分かった。檀は菊の肩を抱いて言った。
「榧じゃない。真珠さんだ。榧の娘だ。」
「真珠さん…ああ、こんなに立派になったのね。大きくなって。」
慈しむ声に感情が乗っていて、ここに菊がいるのだと確信させた。
「御婆様。よかった。御婆様でございますね。」
安堵した真珠の目から、ぽろぽろと涙が零れた。びっくりした菊が檀を見ると、檀まで泣いている。
「どうしたの?一体…。」
菊の自我は一年以上幽世にあった。ここまでの事を一から説明せねば分からないだろう。けれど、それは後回しだ。
「御婆様。孫の真珠です。ずっと、お会いしとうございました。」
そう伝えると、菊はびっくりした。大きく目を見開くと、じわじわと現実を受け止めたのか、ぽろっと涙を零した。
「私も、ずっと会いたかったわ。会いたくて、会えなかった。ごめんなさい。」
「良いんです。こうして戻って来てくださったんですもの。良いんです。戻って来てくれて、ありがとうございます。」
真珠が菊を抱きしめると、檀は二人を抱きしめた。
君崇は家族三人がやっと揃ったのを見て、ほっとした。見れば、放火事件の被害者夫妻も無事の再会を果たしていた。
「良かった。」
言ったのは君崇ではなく、千之助だった。
この場の指揮を執り、この成功の最大功労であろう千之助が抱いているのは、喜びよりも安堵のように見えた。成功と、皆の無事。そして自分の首の無事か。
「お疲れ様です。」
心からの労いだが、千之助はいつも君崇に恐縮するだけだ。
現場を囲っていた強化結界が解かれて、外から皆が駆け込んで来た。待機させていた医療術者たちが、菊たちの様子を見に来た。
君崇はもう大丈夫だなと思って、千之助の肩を叩いた。
「後片付けが残ってますよ。」
最後までが仕事だ。無慈悲な君崇の言葉に、千之助は休む暇もなく片付けに向かった。
◆
菊たちの診察を見守りつつ、真珠は少し距離を取った。
目的は達したが、真珠はまだ仕事中だ。最後まで責任を果たさねば。涙を拭ってそっと下がり、在仁の元に近付いた。
「御師様、御無事でございますか?」
在仁は地面に横になって、上半身を茉莉に抱き起された姿勢で、紅に調術されていた。周囲には北辰隊勢。青藍の不安げな顔には、疲れが見えた。
「お気遣い無く、諸々、いつもの事でございますから。真珠は、ご自身の御勤めをご優先ください。俺は先に帰らせて頂きますので、大丈夫でございますよ。」
真っ青な顔で言う大丈夫を信用する人はおるまい。だが、在仁には味方が沢山いる。真珠はそれを知っているので、大人しく引き下がった。まだやるべきことがある。最後まで仕事を果たさねば、誠実に違えてしまう。
「分かりました。御師様、本当にありがとうございました。必ず、きちんとお休みになって下さいませ。」
念押しすると、在仁はへらっとした。その力ない笑いの代わりに、茉莉が言った。
「在仁は私が責任もって休ませるから平気よ。在仁の事は任せて、真珠は菊様の方へ行ってあげて良いからね。」
仕事が終わったら義理堅く在仁の看病に来そうだが、それは良いから菊の元へ行け。在仁が言いたかったが体力が無くて言えなかった事を、ずばり茉莉が言ってくれたのを、在仁は大変感謝した。
同意する笑みを向けた在仁に、真珠は言葉を飲み込んで頷き、深く一礼してから去って行った。
その背には、真珠の誠実を果たさんとする覚悟が見えた。
仕事をしっかり最後までやって、そして菊の元へ。見送っていると、真珠の隣に君崇が合流した。支え合う二人の並んだ姿は、いつの間にかやけにしっくりきて、あるべき姿に見えた。
急速に成長する真珠を頼もしく思うと、在仁はぐったりした体を情けなく思った。
茉莉が在仁を見下ろして訊いた。
「在仁、さっき倒れた時、なにした?」
その問いに、在仁は分かりやすくびくっとしてから目を逸らした。答えは、在仁の代わりに紅が言った。
「安全装置を外したのだろう?あれはひよこの安全を確保するために必要だった。外せば術力器官に負荷がかかるのは分かっていたはずだ。」
「なれど、もう維持し切れませんでした。あれを外して術自体を軽くするしか、方法はございませんでした。」
限界は超えていた。それを明かす在仁に、茉莉は顔を顰めた。
「無理して欲しく無かった。私が守りたかったのに、足りなかったの?」
「茉莉が居なかったら、発動する事も出来なかった。間違いなく茉莉のお陰。ありがとう。悪いのはひよこだから。」
紅が調術を終えて手を離すと、茉莉は在仁を抱きしめた。
「ううん。私はひよこも好き。だから悪いなんて言わないで。」
「ありがとう。」
周囲の騒めきは、成功の喜びと安堵に満ちているけれど、賑やかに歓喜する者は無かった。
渡戸を開く不思議な体験と、何とか辛うじて目的を果たしたギリギリ感と、渡戸の中の『夜』に対する不気味さ、いろんなものが混ざり合った感情を誰も表現する事が出来なかった。
在仁は草臥れて起き上がれないまま、夜空を見上げた。
「菊様の意識が戻られて、まことにようございました。」
それに尽きるな、と。




