41 争奪の事
佐々木高綱という男は戦を憎んでいた。
一一八四年宇治川で得た名声は、今でも佐々木高綱の輝かしい経歴として一番に上がる。しかし高綱にとってそんなものは何の価値もなかった。人を殺して誉れとするは人の道を外れている。だからこそ出家し、世の平らなるを願った。
転生し、幾度となく戦を見て来た。延々と連鎖して終わらない戦のあり様に辟易としていた。戦い殺し合う事は人の身に宿る業であり、逃れられない運命なのではないか。生きものは皆、生存するために戦うのではないか。高綱は既に人類の知的生命たるを忘れ、動物的本能で戦をするのではないかと思っていた。そしてそれは諦めだった。
そんな折、大江広元という男の、『昼』『夜』をひとつにし、全てを平らにするという理想を知った。すべてに垣根がなくなれば、そこに争いはないと思えた。高綱は、諦めていた願いを思い出した。誰も無為に傷つけ合う事のない世の中を、と。
「高綱、アンタどうする?」
刀を構えた一角が高綱に不躾な問いを投げた。高綱が見ると、一角の隣で晋が準備運動とばかりに手頸を回していた。
「二人とも、戦う気か?」
高綱は戸惑った。倉庫は既に春家率いる七口の部隊に囲まれている。いつ突入してくるか分からない。
「逃げ道がないなら戦うしかないと思いますけど?」
晋の目が獣のような鋭利な光を宿していた。闇夜にさえ溶け込まない程の禍々しい『夜』色の『波形』を滾らせて、血に飢えて戦いを求めているように見えた。高綱は肌が泡立つのを抑えきれず、目をそらした。
「倉庫を出れば転移できる。」
何とか脱出経路を提示しようとすると、外が急にざわめきだした。倉庫の周囲にいた鬼たちと七口の戦闘が始まった音だ。一角はほとんど侮蔑の眼差しで高綱を見た。
「袋の鼠だ。外に出れば戦うしかない。もし抜け道があったとしても、倉庫周辺も結界内。転移できるのは倉庫から離れた場所だ。奴等に見つからずに済ませる事は不可能だ。」
高綱は押し黙った。体の芯から来る震えを抑え込むためだ。外の様子から戦闘の激しさが伝わる。この一瞬一瞬にも仲間達の命は失われているのだろうか。
自分が裏切ったせいで。
「高綱さんがどうするかは勝手ですけど、ここが囲まれたって事は、高綱さんが裏切り者だって事はもうバレてるんじゃないですか?巻き込まれたふりしても無駄ですよ。やらなきゃやられる。」
晋が倉庫の扉の方へ歩き出した。一角も黙って同じ方向へ進んだ。
「こんなのは間違っている。」
高綱が絞り出した言葉に、あからさまに顔を歪めた一角が反吐を吐くように言った。
「是正を問うな。不毛な押し問答がしてぇなら死んでからやれ。戦場に答えはねぇ。矢集、そいつが邪魔しねぇように殺せ。」
晋を抜かして扉へ向かう一角に、晋は疑問の目を向けた。
「迷った地点で足手まといだ。」
吐き捨てた一角は振り向きもせず倉庫の扉へ向かった。
残された晋と高綱は、嫌な空気の中で沈黙した。
しばらく、といっても体感で、実際は一瞬の間だっただろう。高綱が口を開いた。
「何故、君は迷わない?君は婚約者を人質に取られて仕方なく地龍を裏切ったと聞いた。だが今の君は仕方なく従っているように見えない。何故だ。」
高綱の中の迷いは地層のように積み重なっている。広元の理想は魅力的だ。しかしその過程で人が死に過ぎる。終わるはずの戦は激化し続けている。それに広元の謀略は人道を外れた卑劣なものばかりだ。そんな行いの先にあるものが、本当に清浄な世の中だろうか?疑問は不信となって募るばかり。
望んだ想いは純粋であったのに、今の姿はどうだ。
「正義は行使する事で正しさを失う。正しさは弱い。過程で何一つ間違ってはならないからだ。一点の曇りも許されない。正義の刃で人を傷付けた時、それは本当に正義と言えるか?」
転生し続ける生ける死人のような高綱が、しつこい怨念のように世の清浄化を求めたのは、所詮欺瞞だったのかも知れない。理想を成しえなかった人生を正当化するための。高綱は限界まで達した不安を吐露するように問う。
高綱の悲痛な問いに、晋は答えた。
「高綱さんの正しさが、後生大事に胸に抱く経典みたいなもんだって言うなら、俺はそんなものいりません。俺は地獄の業火に焼かれたってかまわないんです。たとえ彼女に恨まれても、それでも彼女に生きていてほしい。それだけです。道白さんに刀を向けた時には既にエゴを押し通す覚悟は出来てました。」
晋の答えに、高綱は息を飲んだ。どれだけ『波形』を濁しても失われない輝きが、そこにあるように思えたのだ。
「そのためならば、恭殿をも斬ると?」
高綱は最後のつもりで訊いた。晋の『波形』がゆるやかに波打った。
「どれだけ犠牲をはらってでも、彼女を守ります。それが彼女を不幸にしたとしても、俺に出来る事はこれしかありません。大江広元にとって彼女は利用するために生かしてきた人形みたいなものです。俺が彼女を見捨てたら、彼女の存在はただの失策になってしまう。二人出会った事の全てが瑣末なミスのように処理されてしまう。そうじゃない。例え何も上手くいかなくても、命はそんな些細なものじゃない。誰かが生きている、それだけで世界は動く。ひとつの色を持つ。そして彼女は、俺にとって最も鮮やかな色です。その色を守るためだったら、俺は恭にだって刃を向けます。」
晋は薄く笑っていた。高綱にはそれがどうしようもなく切ない泣き顔に見えた。
「君は父親とは逆を行くのだな。」
高綱は自身の行為はすべて崇高な目的に基づく尊い行いだと思っていた。しかし、その傲慢な考えが、多くの命を屠ったのだ。仕方の無い犠牲などという些細なこととして処理して来たのだ。そしてその事から目をそむけてきた。
「父さん?」
「矢集裕殿は、八つ目の使命のために心を殺した。自分にはそれが気高く尊い生き方だと思えた。故に十年の潜伏生活にも協力した。」
高綱の告白は、意外なものだった。地下迷宮で十年の月日を過ごしていたと言われる裕、その生活を支えたのは高綱だったのか。晋は目を見開いた。高綱は続けた。
「けれど最期は君のために死んだ。自分はあの時、裕殿の心を知った。そして君は君自身の受け継いだ使命ではなく、その想いに殉じようという。裕殿とは逆の生き方だ。けれど本質的には似ているのかも知れない。」
高綱は腰から刀をはずして床に置いた。
「自分は、畠山重忠殿の死を目の当たりにして、ようやく自分のやってきた事を知った。人の想いを殺す事だったのだと、気付いたのだ。」
家族を守りたい。その一心で道を外れた重忠を、誰が責められようか。燃え盛る炎の中で無念の唸りを上げる重忠を、高綱はただただ恐怖して見ていたのだ。そんな崇高な目的にも、犠牲にしていい瑣末な命などないというのに。殺して良い想いなどないというのに。一体自分は今まで何をしてきたのか、と。裕が多くを殺すのを見ても、祥子が呪に苦しむのを見ても、高綱の心を決定的に打ちのめしはしなかった。けれどあの鮮烈な炎から響く断末魔な唸りが、高綱の積み上げた不信への強烈な一撃となった。
「殺せ。」
高綱はその場に立ち尽くし、目を閉じた。
「転生組を殺しても意味ないでしょ。それに俺の上司は大江広元であって一角のヤローじゃない。勝手に殺して悪者にされても嫌なんで、死にたきゃ自分でやってください。」
晋は断ったが、高綱は目を開けようとしない。晋は深いため息をつくと、もう一度言った。
「転生組を殺しても意味ないでしょ。どうせ本当の意味では死ねないんだから、間違ったと思ったらやり直すしかないんじゃありませんか?」
晋は言うなり高綱を無視して倉庫の外へ向かった。
倉庫の扉の前には出て行ったと思っていた一角が立っていた。
「立ち聴きですか?良い趣味ですね。」
晋が一角に並んで立つと、一角は鼻から息を吐いてから言った。
「高綱を殺さなかった分、取り戻してもらうからな。」
一角は言葉と同時に扉を開け、二人は戦場と化した外へ出て行った。
春家が倉庫に着いた時には、辺りは既に嫌な気配に満ちていた。
「っち。やっぱりか。」
突然高綱が警備している倉庫へ部隊を招集した春家に、周囲は困惑気味だが、その場の異様さに気が付くと即座に刀を抜いた。『夜』の気配。それも強力なものがいくつか。
「鬼、ですね。」
直嗣が弓を構えた。
「何で分かった?」
宗季が手でサインを出し、倉庫を取り囲むような陣形を取らせながら言った。
「俺の知る限り高綱は慎重でくそ真面目な奴だ。用心に用心を重ねても飽き足らねぇタイプのな。そんな奴が警備を減らすか?」
春家の疑念に成程と頷きつつも、直嗣は首を傾げた。
「でも、それだけですか?」
「…なによりも怪しいのは、アイツが転生組って事だ。転生組と俺達で決定的に違う事の一つは時間だ。長い時間をかけられる事。それこそ何世代分もの時間をかけて高綱は隊長と祥子の信頼を勝ち得た。そしてその信頼を使って祥子を罠にはめたんだ。」
春家の眼光は狩人のようだ。誰も見たことのない程の殺気を孕んでいた。
「ちょっと待てよ、高綱が裏切りものだって言うのか?根拠は?」
宗季は動揺したが、部隊の全体配置にも気を配らなければならず少し混乱した。
「考えても見ろ。祥子が呪にかかった時、祥子は祥子の居場所を特定するために敵は無数に同じ呪の手紙を送っていると推理した。だが、そんな手紙出てきたか?」
「え?」
「どこを探しても無かったんだよ。あの手紙は祥子宛に送られてきたんじゃねぇ。高綱が郵便物と偽って祥子に渡していたんだ。そうとしか思えねぇだろうが。」
「ちょ…ちょっと待て、そんな事いつから考えてたんだよ?」
「さっきだよ!」
春家の怒号が響いた。倉庫の周りで身を潜めていた鬼がその声に反応して動き出した。風の音のように軽い足取りが横切ったかと思った次の瞬間、最前線に配置されていた隊員達の数人が倒れた。声も無く、事切れていた。
「動きだした。気を抜くな。」
春家の指示で、話を止め宗季と直嗣が戦闘態勢に入った。と同時に一斉に鬼が姿を現し戦闘が始まった。
宗季と直嗣は双方反対方向へ走って行った。春家は倉庫を取り囲む状況から、倉庫内に何かあるのだと察し扉の方へ向かった。
「来る。」
一角の言葉の直後に、閃光のような斬撃が真横から直進してきた。晋は慌てて避けたが、一角は刀を一振りして払った。そしてその斬撃の主である春家が姿を現した。
「よう、誰かと思えば裏切り者の晋くんじゃないの。」
春家の言葉に晋が一歩下がった。
「春さん…。」
「ビビってんのか?」
一角が挑発するように訊くと、晋は全くのらずに言った。
「当たり前だろ。相手は北条春家だぞ。」
晋が刃霞を逆手に構えると、春家も刀を構えた。
二人の間に緊張が走った。と、その時だった。夜空を劈くような醜悪な金切り声が響いた。晋も春家も聞いた事のない嫌な音だった。空気をビリビリと震動させ肌に伝わるとおぞましいものに触れたように鳥肌がたった。
「誰か死んだな。」
一角が呟いた。それは仲間を失った憂いなど微塵もない呟きだった。晋と春家は、一角の高揚するような笑顔を見た。
「春、お前以外に鬼を倒せる奴がいるって事だ。面白い。」
一角の笑みに、春家は既視感をよぎらせながらも訊いた。
「仲間が死んだ事より、強い敵がいる事の方が勝るってのか。さすが鬼は違うな。」
「俺は鬼を喰う鬼。どこの鬼がいつどうやって死のうが関係ねぇ。さ、そろそろメンツが揃うぜ。」
一角が嬉しそうに声を上げると、いつの間にか倉庫を取り囲んでいたはずの戦闘が倉庫の扉の前に集まっていた。
「お互いに目的は倉庫の中、結局はここに集まるって事か。」
晋は自分のポケットに預かった勾玉がちゃんと入っているか感触で確認しながら言った。そう言っている間に、同行した鬼たちが晋と一角の周りに立っていた。そしてそれを取り囲むように七口の軍勢が立っていた。
「完全に囲まれてんぞ。一網打尽ってやつだ。どうだ?降参するか?」
春家が刀の切っ先を鬼たちに向けた。
合流した直嗣と宗季が鬼の中に晋の姿を見つけ息を飲んだ。晋も知った顔をいくつか見つけたが反応はせずに、春家の切っ先に向かって低く答えた。
「降参なんかしたら仁美は殺される。春さんこそ、俺のために死んでくださいよ。」
―――俺のために死んでください。
晋が毘沙門に言った言葉だ。春家は唇を噛んだ。
「これから殺し合う敵と言葉を交わす必要はない。」
春家と晋の間に入り、先陣を切ったのは一角だった。一角の強烈な刀を受け止めた春家は、そのパワーに押されて下がった。
それを見た鬼たちが、地龍の軍勢に向かって攻撃を開始した。広元に養殖された鬼は高濃度の瘴気を纏い、パワー・スピード共に人を上回る。人間はその瘴気を吸う事も危険だし、動体視力が付いて行かない。七口の鍛え上げられた精鋭達も、鬼を前にしては防戦一方だ。
しかし止めどうもなく暴れていたように見えた鬼の一体が、あの不快な叫びを上げ倒れた。その背には輝く弓矢が付き立っていた。
「僕の矢からは逃れられない。」
直嗣の矢だ。周囲は一瞬目を奪われたが、直嗣は油断せず次の矢を射ようと構えた。
別の場所でまた鬼の死に際の叫びが響いた。倒れた鬼の前には宗季が立っていた。
「斬撃の転移術の精度は親より俺の方が上だ。」
武術大会で実親の切り札となった斬撃転移は、宗季との修行により精度を高めたものだ。当然宗季も会得している。そしてその精度は宗季が勝っていた。宗季も油断せず次の鬼を仕留めようと構えた。
軍勢の中で飛び抜けた人物を見定めると、一角は舌なめずりをした。そんな一角に突き刺すような刃を向ける春家が吠えた。
「余所見をするなっっ!」
激戦が更に加速する中、晋は七口の兵士達を相手にしていた。今や晋はお尋ね者だ。地龍の武士は皆晋を殺そうとする。矢集晋という人間がどんな人物か知らず、知ろうともせず、誰かの受け売りの憎しみを純粋に信じ込み、一心に悪を討とうと向かってくる。晋はその怨嗟の渦に身を投げた事の現実を目の当たりにした。知らない者からの憎しみ、殺意、意味の分からない状況。飛んでくる火の子をはらうように憎しみの刃を薙ぎ払っていると、いつの間にか目の前には宗季が立っていた。
「どうだ、お尋ね者の気分は。」
「初対面で嫌われるのとか、慣れてるんで。あんまり変わらないですね。」
晋は刃霞の血振りをしてから宗季をロックオンした。そして晋の方から向かって行った。宗季と刀を合わせた事はない。しかし戦い方ならば知っている。晋は宗季の無駄のない動きの隙を窺うような素振りで刀を交えた。宗季はわざと隙を見せるように動いた。
「俺のクセを読んで隙を突こうなどと小賢しい。」
宗季の意図的に空けた右脇腹を、晋が突こうと動き、宗季はその晋を討とうとした。
「宗さんの合理主義は揺らがない。だからこそ分かり易いですよ。」
晋が言うと、晋は既にもう一振りの刀・夜霧を抜いており宗季の左を狙っていた。宗季は即座に反応できずにその刃の鋭利な閃きを見た。
しかし次の瞬間に宗季がくらったのは刃に肉を裂かれる感触ではなく、強烈な打撃だった。全く予期していなかった強烈な打撃に、ボールを投げたような間抜けな放物線で体を投げ飛ばされ、成す術なく遠方の地面に転がった。
刀が空を切った晋は、じと目で一角を見た。
「何すんだ。」
どこから見ていて、どうやって春家との戦闘をぬけ出して来たのか一角は、晋が勝とうという瞬間に何故か宗季を吹っ飛ばしてしまったのだ。
「雑魚で遊んでんじゃねぇ。仕事しろ。」
一角は晋の顔を見ずに再び別の戦闘へ戻って行った。
「はぁ?」
晋は一角の意味不明な行動に首を傾げたが、どうせ気に入らないから嫌がらせをしているのだろうと思った。そして宗季の事は放置して戦闘に戻った。
直嗣が弓を構え、鬼を見定めると、目を疑った。
「子供?」
それは鬼では無く人間の子供に見えた。まだ、とても幼い。幼児だ。
直嗣が戸惑っていると、子供の方が直嗣に気が付いて見た。その視線を交わした瞬間、直嗣はそれがただの子供ではないと悟った。その目は蛇のようないやらしく纏わり付く殺意で、嫌に好戦的だ。そして子供は言った。
「やぁ、久しぶりだなぁ。直ちゃん。」
見たことも無い子供の顔で、まだ高い子供の声帯だ。けれど直嗣は本能的に気が付いた。その子供の正体に。
「平景清…。」
直嗣は体中に電撃が走るような衝撃を受けた。
「何故…。」
平景清は以前、直嗣を謀って情報をリークさせ源平を戦争させようとしていた戦闘狂だ。その策を止めに入り命を落とした弁天の事を、直嗣は一日たりとて忘れたことはない。今も胸に重くかかる遺品の十字架は、直嗣を武士たらしめる戒めだ。景清は事件から日を置かず平家当主・重盛に首を斬られた。ここにいるなど、誰が想像できようか。
「何故って、随分じゃねぇか。俺は転生組だぜ?死んでもまた生まれるんだよ、お前と違ってな!」
目の前で嫌悪しか感じられない笑みを向けてくる幼児に、直嗣は怒りで戦慄いた。
「景清ぉおおおっっ!」
怒りに任せて無数の矢を射たが、照準の定まっていない矢が当たる訳もなく、景清はにたにたと笑うだけだった。そして憤怒の直嗣を嘲笑うようにポケットから小さな錠剤を出し口に放り込んだ。するとみるみる内に体が硬化し大きくなっていった。弱い幼児の体から高濃度の瘴気があふれ出し、一瞬のうちに濃紺の筋肉質な大男の姿になっていた。双肩から肉を突き破って出てきた岩のような角が、それの名前を鬼だと教えていた。
「鬼に、なったのか?」
信じられない光景だった。人の転化は聞いたことがある。けれどまさか人の身が強制的に鬼になるとは。
「これは広元の大発明だ。一錠で脆弱な肉体がこの通りだ。最高だろ。ま、今の俺の体はまだ未発達だから持続時間は短いが。それでもお前を殺すのには十分すぎる時間だぜ。さ、遊ぼうぜ、直ちゃん。」
巨大な体躯の鬼と化した景清が、まるで直嗣を取って食うかのような勢いで突進してきた。直嗣の三倍はあろうかという体へ直嗣は矢を射たが、全てがその硬い肌に弾かれて消えた。景清は丸腰のまま直嗣の目の前まで来ると、ハンマーのような拳を振りまわしてくる。直嗣はそれを刀で受けたが刀は簡単に折れた。圧倒的なパワーだ。
「残念だったな。今の俺は養殖の軟弱な鬼とは比べモノにならねぇんだよ。」
まずい。直嗣は考えたが景清は暴力を止めず避ける事で精一杯だった。
景清が手を振り上げた。その腕程の太さがあるかのような指から残忍な刃のような爪が鋭利に光った。
直嗣は対抗するにも、手段も時間も間に合わず、息を呑んで見上げた。
次の瞬間、景清の爪の餌食になったのは直嗣ではなく別の男だった。
「何しやがる、高綱。」
不愉快そうに言う景清が、高綱の腹を貫いた爪を引き抜くと、高綱は地面に倒れた。
「た…高綱さん。どうして…。」
直嗣は何が起こったのか分からなかった。直嗣を庇って爪を受けたのだろうという事を何となく察したが、今にも事切れそうな高綱に何を言えば良いのか、どうすればいいのか、全く分からなかった。
「やっぱり裏切りやがったか。高綱。てめぇの事は最初から信用しちゃいなかった。てめぇの理想は御立派過ぎる。現実はそう甘くねぇって事にいつか気付いて駄目になるって思ってたよ。」
景清がたいそうつまらなそうに見下ろすのを見て、直嗣は高綱が本当に裏切り者だったのだと知った。
「自分も早く気がつくべきだった…。貴様のような戦を好む人間がいる場所に、自分の望む未来など無いという事に…。」
「高綱さん…。」
直嗣が高綱を抱きかかえようとすると、高綱はそれを拒否するように何とか動かした腕で直嗣を押した。弱い力だったが、直嗣は抗えなかった。
「馬鹿な奴だな。ま、どうせ高綱もまた生まれてくるんだろうけど。双方を裏切ったお前に居場所はないぜ。それに、今その命を擲ってまで直ちゃんを助けた所で、お前が死んだ後でじっくり俺に弄り殺されるんだから、全くの無意味ってもんだぜ。」
何が楽しいのか快楽に溺れるような笑みで高綱を見下ろす景清に、直嗣は嫌悪と憎悪で腸が煮えくりかえりそうだった。
「いいや。景清、お前の計算ミスだ。時間切れだよ。」
高綱の体が急激に体温を失っていた。吐く息の中に含まれる言葉を拾うような会話だ。
「何?」
景清が首を傾げた時だ。濃紺の大鬼の体から一気に瘴気が抜けて、徐々にしぼんでいった。
「何故だ。まだ時間はあったはず。」
景清の体が人間の幼児に戻って行く。高綱は薄く笑いながら答えた。
「まだ薬の耐性がない…からだ。それは大人の…薬。」
高綱がゆっくり目を閉じた。
「高綱さんっ!」
直嗣が呼びかけると、最期の力で言った。
「…恭殿こそが、本当の未来を築く人物だったのかも知れない。…直、生きて、未来を…。」
完全に沈黙した高綱は、既にただの躯となっていた。直嗣が呆然としていると、すっかり元の幼児体に戻った景清が憎らしげに言った。
「恭、か。選ばれた最期の苗床。確かに、広元以外に世界を創り変えるリーダーがいるとすれば地龍当主しかいねぇだろうな。しかもアイツは闇を知ってなお光を信じられる最高の阿呆だ。貴也も相当に食えなかったが、恭は手に負えねぇ。俺はああ言う奴が一番嫌いだぜ。なぁ、矢集。」
景清が言うと、背後からすっと晋が現れた。幼児化したというのに余裕で直嗣の前にいたのは晋が来たのを察していたからだったのだろう。直嗣が晋に警戒すると、晋は景清を抱きあげて言った。
「ま、恭は頑固ですから。景清さん、こんなちっちゃい体で無茶しないで下さいよ。」
「ちっちゃい言うな!」
景清を抱えたままで晋は地面を見下ろした。高綱の亡骸を見る晋の目は昏かった。直嗣はその目に、少しでも心が残っていると思い口にした。
「高綱さんは、後悔してた。恭くんに賭ければよかったって。君も…。」
「今更でしょ。」
晋の素っ気なさに満足そうに笑い景清は言った。
「矢集から戻る場所を奪ったのはお前らだろ。生まれつき呪われた家の末裔だったコイツに、地龍は何かしてやったのか?虐げ、なじり、忌み嫌って来たんだろうが。どんなに否定したってコイツの中身は地龍に対する憎悪でいっぱいだよ。今更綺麗事並べたって何の足しにもなりゃしねぇんだよ!」
下品に高笑いする景清の言葉を否定しようと、直嗣は晋を見た。
「晋くん…。」
晋は肩をすくめた。
「ですね。」
まさかの肯定だった。直嗣は、晋という人物が完全に分からなくなった。今まで一緒に戦ってきた、仲間だと思っていたのに。そして今目の前で亡くなった高綱もそうだ。
がっくりと項垂れる直嗣を放置し、晋はその場を後にした。
「何で直嗣を殺さない?」
「今日の目的はおつかいでちゅよ〜。」
「おい、子供扱いすんな。殺すぞ。」
「所詮は人間のガキだろうが。そういうセリフは刀を抜けるようになってから言え。」
晋から今まで抑え込んでいた怒気が漏れ出し、景清は黙った。大人しく従順だと思っていた晋の隠された本性は、景清には手に余る程の怒りだった。
晋は倉庫から遠ざった。地下迷宮へ転移するには倉庫周辺の結界から外れなければならないからだ。
「矢集、遅いよ。早く。ずらかるよ。」
前方でカグヤが呼んだ。三種の神器を奪う目的は完了している。今の目的は逃げる事だ。
鬼に対抗しうる主戦力は七口隊長の三人だ。直嗣は意気消沈。一角が宗季をふっとばし、春家を足止めしている間に、鬼たちは地下迷宮へ転移し始めていた。晋は景清をカグヤに押し付け、先に転移させた。
それから一角がいるだろう方向を見た。あの春家を一人でどうにかしようと言うのかと。鬼たちが減ったおかげで戦闘は随分収まり静かになったが、倉庫の前では派手な爆発音などが何度も響いていた。
春家の刀がとうとう一角の胴を討ったと思ったが、厚い障壁に当たったような感触がして弾かれた。
「何だ、それ。」
春家の刀が当たったのは、一角が背負った三種の神器・八咫鏡だ。触れた時の金属音も感触も無だった。
「八咫鏡。神器の名は伊達ではなかったか。」
一角の呟きに、春家は怪訝な顔をした。
春家が別の疑問を口にしようとした時だった。晋が走ってきた。
「一角!」
合流する晋を煩わしそうにしながら一角は訊いた。
「何故戻った。」
「みんなもう戻った。俺達も早く戻ろう。」
「他の連中などどうでも良い。神器は?なくしていないだろうな。」
「…ありますよ。ちゃんと。」
「ならば良い。走れ。」
一角は言うなり走りだした。晋も後に続いた。当然、春家も追撃して来る。
「高綱はどうした。」
「死んだ。」
晋が答えると同時に、春家の斬撃が銃弾のように飛んできた。このまま二人で走って逃げきるのは無理がある。晋は、ある程度倉庫から離れ、二人で応戦し、隙を見て転移するしかないと考えた。横眼で見ると一角も同意見なのか走り続けていた。晋が一角の様子を見た一瞬の隙に、意図か偶然か春家の斬撃が向かって来た。晋が避け切れず刀を構えようとすると、一角が晋を蹴り飛ばした。宗季とは違い、回転して着地する事に成功した晋が、一角を見ると、晋を庇って斬撃をくらったのか腕に切傷が出来ていた。
「一角…。」
晋が声をかけようとしたが、一角はその間を与えずに身につけていた八咫鏡と草薙剣を外し晋へ投げた。大きさに反して重力の無いそれらは触れた場所から何かの息吹を感じた。
「邪魔だ。先に行け。」
それらと一緒に投げてよこしたと思しき地下迷宮の手形が発動し、晋は背面の空気に吸い込まれるように転移した。
気が付くと、晋は地下迷宮に戻っていた。その手には三種の神器があった。
「一角…俺を守ったのか?」
晋は呆然と神器を抱いていた。先に戻っていた鬼たちが晋をねぎらうように取り囲んだが、一角の不在を案じるものはいなかった。それが鬼喰いとして疎まれている一角の立ち位置なのだと知った。
夜空の雲がゆっくりと流れ、木々の影の濃淡を変える。小柄な鬼の前には、地龍始まって以来の天才と謳われる剣士が一人。二人は刀を構えて睨みあっていた。
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