384 連行の事
「十月ももうあとちょっとで終わりかぁ。」
呑気に言いながら新聞を捲っているのは、春家だ。
「十月って言うと、こないだまで夏だったのにって思うけど、十一月って言うともう年末だなって気分になるよな。」
どうでも良い主観を述べている場所は、やはり道白の家。道白はまるで自宅のように寛ぐいつもの春家を見て、嘆息した。
「良いんですか。こんな所にいて。」
「良いでしょ。嫌われ者の俺がいない方が。」
いじけたように言う春家は、武闘大会で無残な敗北を期して以来、居場所が無い。当主失格の烙印を押されたとて、魔王様との約束により当主を退任する事は出来ない。正に憎まれっ子世に憚る的な感じで、誰にも望まれていないのに北条家当主であり続ける地獄に、流石の春家もげんなり。
道白は哀れもうかと思ったが、春家が無防備な顔で言った。
「道白は良いよな。引退して自由気ままでさ。俺を置いて旅行三昧とは、羨ましいこって。」
「俺はこれまで勤勉に安達家のために尽くしてきましたから、相応のセカンドライフだと自負しています。旅行のお土産はいつも勝ってきてあげているじゃないですか。」
道白は安達家当主を辞してから、妻と夫婦旅行を満喫している。妻・すみれには今まで苦労をかけた分、しっかり御礼をするつもりで旅をしているのだ。春家には毎回きちんと地酒とおつまみのセットをお土産として渡している。
「へぇへぇ。ありがとうございます。」
お土産は大変嬉しいけれど、春家は道白の優雅なセカンドライフが羨ましくてしょうがないのだ。どうして春家より年下の道白が隠居生活を謳歌しているのか。考えると憎らしくさえある。
「羨ましいなら春さんも行けばいいじゃないですか。夫婦旅行。当主だからって旅行くらいできますよ。それに春さんがいなくても、誰も困りませんし。」
「おおい!はっきり言うな!可哀想だろ、俺が!」
「可哀想なのは春さんじゃなくて周りですよ。自覚してください。だから…、いえ。」
「言えよ!だから春さんは駄目なんだろ!最後まで言えって!言われなくなったらマジで駄目っぽいだろ!」
道白に見捨てられたら行く宛ては無い。春家の縋るような必死さに、道白はしょうがない人だなと思った。
呆れた様子の道白から視線を逸らした春家は手元の新聞を見た。時事は一応チェックしているが、未だに武闘大会関係の記事があるし、昏睡から目覚めた武士たちの事も連載のように載っている。少し前には四国情勢について毎日載っていた。ここ最近のトピックは紫微星様ネタがあるかないかの差くらいで、そう動きを感じない。どの家門も新年会を意識してあまり大きく動かないのだ。ここからの二か月強、功績を得るために動くより、失敗を犯さぬように大人しくしているべき、というのが常識だ。だからこそ、北条内が春家をどうにか当主から引きずり下ろす方法を模索しているのは、おかしな事だ。
「つかさぁ、何で俺は優勝しなかったからって理由で、こんだけ凹殴りに遭って、晋衡は無傷な訳?あいつ地龍最強部隊の隊長だしょ?優勝しなくて幸に殺されないの?」
北条内が紛糾しているのは、春家が武闘大会で優勝しなかったからだ。春家はそんな無茶苦茶な、と思う訳だが、道白はそれだけ期待されている事がどれだけ凄いのか分からないのだから、天才という生き物は残酷だなと思った。
「蘇芳は晋衡が手塩にかけて育てた後継者ですよ。その蘇芳と戦って負けたのは、立派に育て上げたという事です。あの決勝戦は言わば卒業試験みたいなものですから、咎められるなんてあり得ません。地龍の未来を担う立派な武士を育て上げた事を、称賛されて然るべきです。」
「何よそれ。俺だって息子に負けてんですけど?」
春家がぶすっとすると、道白は正気を疑う目をした。
「春さんが負けたのは臣ですよ?臣は十代で和田家に出仕して、以降北条とは関わっていないじゃないですか。春さんは北条より家格の低い他家の武士に負けたんですよ。晋衡とは似ても似つかないでしょう。負けるならせめて文に負けるべきでした。それならば、ここまで荒れなかったでしょうね。」
春家が負けたのは、春家の三男・春臣。和田家の主力部隊である和田七曜隊の隊長だ。既に他家で生きる春臣は血縁であって、北条ではない。負けてはならない相手だったのだ。どうせ負けるならば北条家嫡男・春文の方がマシだった。それならば晋衡と同じように後継者が機を熟したという風に見えなくも無かったから。
「そんなん言ったって負けたもんはしょうがないでしょうよ。俺だって歳を取るんだから、ずっと強いままなはずが無いって、どうして思わないかね?俺は道白よりもおじいちゃんなのよ?」
「年をとっても期待値が下がらないって凄い事だと思いますよ。望まれている事に感謝して頑張れば良かったのでは?」
「十分頑張ったでしょうよぉ…。何で俺だけ優勝しか許されないのよ。」
「ご愁傷様です。」
「適当になるな!」
「どうでも良いので。」
「酷すぎるだろ!」
面倒くさくなった道白は、春家が広げた新聞を奪って読み始めた。元々道白が購読している新聞だ。春家はそれを恨めしく見ていた。
「じたばたしても一生涯当主なのは逃れられないんですから、観念して今からでも真面目に働いたらどうです?ぎりぎりスプーン一杯分くらいは取り戻せるものがあるかも知れませんよ。」
「望まれてもいないのに?」
辛辣な道白は春家を見ずに新聞を捲った。
「家の連中は俺に何もして欲しくないんだって。むしろいなくなって欲しいの。だから今更真面目に当主やろうとしたって、誰も喜ばないし、スプーン一杯も取り戻せっこない。俺は嫌われ者の下着泥棒ですからね。」
いじけた春家の「下着泥棒」発言に道白が吹き出しそうになった。
「それ、智衡殿が流しているデマでしょう?なに真に受けてるんですか?え、まさか本当に?」
「やってないよ!つかこの噂流したの智くんなの?酷すぎない?なんで俺が下着泥棒なんだよ!」
北条は春家の当主退任を望むあまり、春家を犯罪者にしようとしている、という荒唐無稽な噂が広まっている。過去の春家の所業を精査して終身刑に出来ないかと探していたが、出て来たのは痴漢・覗き・盗撮・下着泥棒だという。被害者をはじめ世の女性たちは終身刑を望むのだろうが、法的には終身刑相当の罪ではない。結果、ただ春家がクソ野郎だと知らしめる事になり、北条は恥を晒しただけだ。この無残な噂がまことしやかに流れている所為で、北条内はもう酷い有様だ。
「このままじゃマジで俺、暗殺されるからね?祟るよ?」
「そもそも。この絶対嘘だとしか思えない噂を信じられてしまう事は、春さんの自業自得なんですよ。」
「何でさ?俺こんなに誠実に生きて来たのに。」
「冗談は春さんの人生だけにしてください。」
「俺の人生まるごと冗談にすんなよ!」
まったくぎゃんぎゃん煩いな。道白は無視して新聞を眺めた。
新聞には、昏睡していた武士たちが目覚めて、少しずつ復職し始めている事で、これまで不安視されていた武士不足に光が差したとあった。終戦後の社会はまだ確立されていない。戦で失った武士の補填は、これから育つ人員待ちであるから、時間がかかるのだ。そこへ昏睡者の復帰は願っても無い事。とは言え、扱いは難しいかも知れない。彼らは即戦力とは言え、終戦後の部隊内は結構変わっている。ルールも事務も、鬼対策を不要とするために組織図すら変わった場所もあるだろう。彼らは戦時下しか知らない武士であるから、終戦後の世に順応するのは大変だ。それは仕事だけでなく、私生活も。眠っていた時間に、世の役に立たなかった分を後ろめたく思う者も少なくないし、受け入れる側もどう接して良いか困惑する部分もあろう。
道白はそういう繊細な部分を想像しながら、ふと春家を見た。特に北条は大きな家門なので昏睡から復帰する武士がたくさんいるのではないだろうか。春家は当主として、心配するべき事はたくさんあるはずだ。
なのに春家は今日も呑気に人の家で新聞を広げて、世間話。大丈夫かよ、と思う道白は諦めの境地だ。どうせ他人事だし。
道白が春家ではなく北条を心配していると、春家は道白が持っている新聞を対面から読んでいた。
「へぇ。放火だって。世の中はいつまでも物騒だねぇ。」
春家が言うので見れば、そこには連続放火事件とあった。連続とは穏やかではない。道白はそんな事件があったとはと思って真剣に読んだ。
それはここ最近立て続いている事件で、犯人はまだ捕まっていない。現場から呪性が検知された事により、晦冥教ではないかと想像させるが、司法局は詳細情報を開示していない。捜査の進展は不明ながら、犯人は遠からず捕まるのではないかと載っていた。
司法局が情報を開示せずに捜査しているので、事件自体が明るみに出ていなかったようだ。けれど放火が連続したため、隠しておけなくなり報道されたのだろう。司法局が晦冥教案件を極秘捜査したがるのは、警戒心の強い蜻蛉を捕まえるためだ。報道されてしまったのは、不本意だろうが、仕方ない。
道白はそれを読んでから、春家に言った。
「そんな事を言っている場合…。」
小言を言おうとした道白の声を、玄関の戸を叩く音が遮った。
「何でしょうか。」
道白は妙な気配を感じて立ち上がった。ここは来客が少ない。今日の来客予定は無いので、アポなしだ。それだけでも何かあったのかと警戒する。春家は好奇心からなのか、道白の後ろからついて来た。
道白が玄関扉を開くと、そこには黒服の男が複数立っていた。
司法局員だ。
「北条春家様。連続放火事件の重要参考人として、ご同行願います。」
はっきりと伝えられた言葉の意味が分からず、道白も春家も、ただぽかんとしたのだった。
「…え?」
◆
その日、在仁は本家の書斎で新聞を見て驚愕した。
「え?」
先日から発生している連続放火事件の容疑者として、春家が司法局に連行されたというのだ。
「ちょ…え?」
在仁は意味が分からず新聞を一旦元の形に折りたたんで、日付を確認した。エイプリルフールでもないし、悪戯で発行された偽物でもない。正真正銘の本日の朝刊だ。
それをしっかり確認した上で、在仁は再度新聞を開いた。恐る恐る開く手が震えたが、空気を読んでか読まずか白蓮が来てのっそりとその上に鎮座した。
「いや、あの…。」
どいて、と言いたかったが、むしろ今は現実から目を逸らしたいような。
挙動のおかしな在仁を、勉強中だった真珠と、護衛中の稔元が訝し気に見た。
そこへ、ほんの少し離席していた胡桃がドタバタと駆け込んで来た。真珠と稔元が胡桃の慌てぶりに驚いた顔をした。
在仁が新聞から白蓮をどかしながら胡桃を見ると、胡桃は大きな声で言った。
「北条春家様が逮捕されました!」
新聞から目を逸らしただけでは現実から逃れる術が無いと思い知った在仁は、新聞を開いて胡桃に向けた。
「俺も今、知りました。」
「え、もう新聞に載ってるんですか?早い。」
胡桃と真珠と稔元が寄って来て、三人で新聞を見下ろした。
「連続放火事件でございますか。」
「連続放火事件って、司法局が開示していないやつですよね?」
「武家屋敷が狙われて、ほとんど全焼だそうです。使われたのは呪いの炎で、消火には浄化札が使われたとか。案の定、後で調べたら呪いが検知がされて、おそらく晦冥教の仕業だろうって事で、司法局が秘して捜査しているみたいです。」
稔元の問いに胡桃が答えると、真珠が当然の疑問を口にした。
「それが、どうして春家様を容疑者となさるのでございますか?」
「確かに、新聞にはそこまで書いてないですね。捜査中となっていますから、春家様の容疑は確定ではないのですよね?」
稔元が記事をよくよく読んで胡桃に問うと、胡桃が二人の問いに答えた。
「今までは呪性に関わる詳細調査には、四天などの専門家を要していました。それでも司法局が望むような証拠をつかむ事は出来なかったんです。けれど、最近アップデートされた呪性検知機は凄く高性能で、呪術に使用された術力残滓を拾う事が出来るようになったんです。そのお陰で、放火現場から術力残滓を調べて、術力鑑定にかける事が出来たという事です。」
「…つまり、放火現場に残された呪術から、春家様の術力が検出された、という事なのでございますか?」
「それって、決定的な動かぬ証拠ってやつなのでは?」
「それで司法局へ連行されたのでございますか?」
三人の慄きに、胡桃は青い顔で沈黙。肯定だ。
書斎内にいやな沈黙が落ちた。三人の視線は自ずと新聞に向いた。新聞には、司法局へ連行された春家は、拘留されて取り調べを受けているという。春家は北条家当主であるから、司法局も手抜きは厳禁。徹底的にやるだろうと締めくくられたニュアンスは、厳しい尋問に遭う事を示唆していた。
今朝の朝刊にこの記事が載るとなると、もう地龍中に情報が広がっているだろう。
これはえらいこっちゃ。在仁が思考を整理しようとしていると、今度は真赭がやってきた。
「紫微星様。司法局の日下様がいらしております。お約束がありませんが、どうなさいますか?」
アポなしで鶚が来るのは緊急か。真赭が慌てているのを見れば、鶚の態度が緊迫していたのではと想像する。在仁はもちろん受け入れた。
「すぐにお通しして下さい。」
◆
通い慣れた在仁の書斎は、いつになく張り詰めていた。
鶚がテーブルを見れば、新聞が置かれていた。在仁は鶚の視線を追って、先に口を開いた。
「日下様、丁度良いところへお越しくださいました。」
「…もう、御耳に入ったのですね。」
新聞なので、耳では無く目か。鶚が報道の早い事だと思った。
「現場に、春家様の術力が残されていたと、伺いました。」
在仁が言うと、鶚が目を見開いた。司法局は捜査情報を開示していないので、それはオフレコだ。けれどここは奥州藤原氏の中枢であるから、情報など何でも手に入るのだろう。鶚は闇っぽいものを感じながら言った。
「ええ。確かな証拠が出ていますので、現在はご本人に確認中です。」
確認中などと曖昧に言われると、在仁は余計に心配になる。
「春家様がそのような事をなさるはずがございません。そもそも、犯罪現場に術力残滓を残すというのは、九州にて煤竹先生が嵌められた時と同じでございます。何かそうした方法があるのでございましょう。なれば今回とて、それは決定的な証拠になどなり得ないではございませんか。」
かつて煤竹が九州の研究所に勤務していた頃、九州で起こった爆破事件の現場に、煤竹の術力残滓が検知された。けれどそれは犯人の偽装工作だったのだ。そういう方法が前例としてある以上、今回とて放火現場から春家の術力が検知された事は、春家を有罪たらしめる証拠にはなり得ないのだ。
在仁の主張に、鶚は難しい顔をした。
「それを含めて、現在は捜査中ですから。」
やんわりと在仁を遠ざけるような言い方をするので、在仁は眉を顰めた。
「本日日下様のお越しになられた由は、その事では無いでございますね。」
「ええ、厳密には違います。」
厳密には。在仁はその意味を考えながら、一度居住まいを正した。鶚は誠実に仕事をしているのだから、何も私怨で春家を貶めようというのではない。春家は絶対に無実であるから、司法局の捜査が続けられている限り、冤罪で処される事はあり得ないのだ。在仁はぐっと気持ちを飲み込んで、鶚への信頼で蓋をしてから、鶚を見た。
「伺いましょう。」
気持ちを切り替えて、鶚に向き合った在仁を見て、鶚は丁寧に頭を下げた。まだ捜査中である案件を問われても、答えられる事は無いので助かった。僅かなりに安堵して、本題に入った。
「実は、今おっしゃった放火の現場から、昨夜救出された者がおります。」
在仁は連続放火事件の記事を思い出した。
確か、数日前から呪いの炎を使って放火された複数の屋敷は殆ど全焼。屋敷にいた者には助かった者もあるが、死人もある。助かった者は病院で浄化措置を取られ、問題なく回復しているらしい。そのことを思い出しつつ相槌を打つと、鶚が言った。
「その者の症状なのですが、呪性は浄化済みなのですが自我が薄いと申しますか。寝起きをして食事を取る事は出来るものの、言葉を発する事もなく、ぼうっとしている状態なのです。その様子が、鷹司菊様に、よく似ていると思いまして。」
「御婆様に?」
黙って聞いていた真珠が少し腰を浮かせて前のめりになった。
「ええ。菊様がそうなられたのも、火事が原因だったはずです。何か関係があればと思い、伺いました。」
「…それは、お忙しい中、わざわざありがとうございます。」
連続放火事件の容疑者を確保した矢先の現在であるから、鶚は忙しいはずだ。なのにわざわざその話をするために訪ねてくれたなんて、さっきは悪者にしようとして悪かったな。在仁は反省も込めて頭を下げた。
「いいえ。真珠様が、菊様を治そうと足繁く通っておられるのは知っています。何とかしたいという思いは、我々も同じですから。それに、今回の被害者もまた、ご家族がおり回復を願っています。我々の仕事は犯人を捕まえて罰する事ですが、同時に被害者に寄り添う事でもあると思っています。公平公正であり、正しき義のために、誠実に勤めを果たしているつもりです。」
「まことに、ありがとうございます。」
毅然として主張されると、春家に肩入れして冷静さを失した事が恥ずかしくなる。在仁はマジですまぬ、と心の中で土下座した。
そこへ、真珠がずいっと前ににじり寄って言った。
「現在の私どもの仮説は、御婆様の自我は幽世に囚われてしまったというものです。御婆様の症状は、御婆様の自我のみがすっぽりと失われた状態と思っております。その自我は、件の火事にて幽世に渡ってしまったのでございます。あさひ様がおっしゃるには、現世と幽世を繋ぐ、渡り戸は何処にでもあるものなのでそうです。なれど、それを渡る事が出来ますものは限定されます。例えば、静寂猫などの『夜』の中でも特定の生物。普段、人は渡り戸を渡る事は出来ません。にも関わらず、大昔より人が幽世へ渡るという現象は報告されているのだそうです。つまり、何か条件を満たしましたら、人は渡り戸を渡り幽世に参る事が出来るのでございます。御婆様が自我のみを幽世に渡してしまわれたのは、そうした限定条件の中で起こった偶然では無いかと想像するのでございます。」
つらつらと仮説を話す真珠に、鶚は気圧されつつ頷いた。
「幽世…。はぁ。つまり、その条件を特定し、再度整える事で、菊様の自我を取り戻す事が出来るとお考えなのですね?」
「その通りです!」
ずいっと更に前のめりになった真珠の肩を、在仁がぽんと叩くと、真珠は鶚との距離が近いのに気付いて少し下がった。婚約者がある身で、異性と至近距離になるのははしたない。真珠が咳払いをしてクールダウンを試みた。
そして最後鶚を見た。
「あの!その被害者の御方に、会わせて頂けませんでしょうか。それと、現場も調べさせてください。それからっ…。」
話し始めたらクールダウンが無に帰して、真珠はまた早口になりかけた。
それを制止するように、鶚が手のひらを真珠に向けた。
「分かりました。全面協力します。いいえ、こちらから全面的に協力を要請します。どうか、事件の被害者を助けてください。」
鶚は被害者の健全な社会復帰を望んでいる。それも司法局の仕事だと思っているのだ。だから菊の事だって懸案としてずっと残っている。今回の被害者に菊と酷似する症状が見つかった時、真珠ならば何か分かるかも知れないと思ったのは、真珠を助ける由ではなく、被害者に寄り添う気持ちだ。
既に真珠は昏睡者を目覚めさせた実績があり、信頼に足る。私的関係を優遇したのではなく、実績を持った確かな有識者として、司法局からの正式依頼を以て真珠の力を必要とした。
真珠はその意味を受け止めると、少し恐くなる。けれど、これからはそうした重責を担うに足る者とならねばならない。これは真珠の戦いでもある。そう自覚すると、力強く頷いた。
「では、被害者のデータや、事件当時の状況などの詳細を全て共有します。被害者への面会はすぐに手配します。ただ、事件現場はまだ捜査中なので、少し時間を下さい。なるべく早く整えますので。」
「どうぞよろしくお願いいたします。」
真珠と在仁が頭を下げると、鶚は忙しそうに去って行った。
やはり事件捜査の最中なので忙しいのだ。在仁はそれを見送ってから、真珠を見た。
「真珠に御用でございましたね。」
鶚の目的は真珠の助力を得る事。在仁を訪ねたのは、それを得るための協力要請のためだったのかも知れない。在仁は真珠のはりきり顔を見て微笑んだ。
「真珠。頑張るのは結構でございますが、寝食を欠いてはなりませんよ。危険な事も禁止でございます。絶対に護衛を伴って下さいね。そして、何でもご相談ください。」
「はい!もちろんです!」
毎度聞き分けの良い真珠が約束を違えるはずがない。在仁はよし、と頷いた。そこに、真珠はおずおずと言った。
「御師様、是非とも御師様もご同行下さい。一人では不安なので、御力添えくださいませんか。」
「ええ、喜んで。俺に出来ます事ならば、何でも致しますよ。可愛い弟子の為でございますから。」
流石に真珠一人に背負わせるには荷が重い。真珠は何の専門家でもないのだ。在仁は真珠のために千之助たち超専門家チームに声をかけようと思ったのだった。




