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378 功績の事

 月見の歌会の夜以降、四国への厳しい目が緩和した。

すべては紫微星(しびせ)様の慈悲による救済。平家は四国を支配せず、復興コンサルとしての立場を守りながら、健全な四国運営の再建を目指している。その誠を知れば、罰を下された罪人への冷遇ではなく、紫微星様の清き望みが叶う事を応援する気持ちになろうというもの。

久々にくらった紫微星様らしい出来事に、信奉者たちは射抜かれた。やっぱり信じて来て良かった。と謎の満足。

けれど、武闘大会閉会式で蘇芳(すおう)が言ったように、在仁は全能の神では無い。人々を遍く救済する役目を持たないのだから、勝手に期待して求めてはならない。自制する気持ちは何処へ向かうって、在仁の望みを支えたいという献身に変換されていく。誰に求められずとも、いつも在仁自身は誰かのために出来る事をせんとする。だからこそ、紫微星様であり、だからこそ慕われる。その慕う気持ちは支持力になって、地龍を動かす。清浄で正常な世を目指して。


 ◆


 紫微星様の世直しに世の中が湧く中、真珠(しんじゅ)は相変わらず地龍本家へ花嫁修業に通っていた。

「情夫事件」のあった長宗我部(ちょうそかべ)家の週末旅行は、最初は真珠も誘われていたのだが断った。あれは夫婦旅行の体だったし、真珠は忙しかったのだ。清め人の修行は、いつもながらのんびりとしたもので真珠の生活を何ら圧迫しない。花嫁修業は清め人の修行優先とされているので、スケジュールに無理はなく、まして詰め込み教育ではない。今後地龍様の妻となるのは確定しているのだから、付け焼き刃の教養を詰め込んだって仕方ない。人生を支える必要な知識や技術を、きちんと身に付けねばならない。出自を元にして侮られる事のない、立派な妻にならんと真珠は自覚して誠実に学んでいるし、それを理解して周囲だって本腰入れて努力している。だから誰も急かす事はない。だったら何が忙しいって、記憶系術の研究だ。具体的には祖母・(きく)の記憶を取り戻すための研究が、忙しかったのだ。

 菊の記憶を取り戻す事は、真珠の大きな目標だ。真珠は絶対に結婚式に祖父母を呼びたい。祖父・(まゆみ)は順調に回復していて、参列を約束してくれている。けれど菊は依然として容態が改善しない。真珠は菊と言葉を交わしたい。亡き母・(かや)の事を聴きたい。菊への望みは膨らむばかりで、真珠の中の優先順位は徐々にそちらに傾倒していた。

 少し前までは、結婚式までに間に合ったら良いなと控えめに思っていた。それが絶対に間に合わせたいという欲が出たのは、先日、戦で昏睡していた武士たちを目覚めさせる事に成功したためだ。真珠は初めて自らの力で何かを成した手応えを感じた。そして、あの技術を応用して、菊の記憶を取り戻す事が出来るのでは、と在仁(ありひと)に指摘されてから、それに憑りつかれるように頭を離れなくなった。出来るかもしれない、という希望があって、落ち着いてなどいられない。

あの後、千之助(せんのすけ)に相談しつつ、自分一人でもあれこれを思考を巡らせ、書物を読み漁り、関係有識者たちの意見を乞う日々だ。

 幸いにも、真珠は毎日のように地龍本家に出入りしている。地龍本家には地龍最高峰の頭脳を持つ専門家が沢山勤務しているのだ。恥を忍んでアタックして、あれこれと問うてみると、誰も彼も好意的に受け止めて親切に意見を述べてくれる。それは真珠が君崇(きみたか)の妻となる身だからではない。まして将来清め人となるからでもない。一生懸命で学ぶ意欲のある、素直で純粋な若者だからだ。

 お陰様で、真珠は沢山の情報や知識を集積する事が出来ている。

 だが、菊の記憶を取り戻すための方法は、まだ見つからないままだ。

 少々煮詰まって来ると、思いつめる真珠を周囲が心配し始めた。見かねた在仁は、真珠に強制的に気分転換をさせようと、用を申し付けた。それは、地龍本家で暮らすあさひの様子を見て来て欲しいというものだった。

 現在の地龍に清め人は三人しかいない。その内の一人である逢初(あいぞめ)は意識不明で入院したままであるから、実質二人という事。ご存知の通り、在仁とあさひだ。あさひは超重要な人物であるから、本家で庇護されているのはあるべき姿。とは言え、出不精のあさひは引き籠っていて、激レアな生物と化している。元気かなぁ、と心配になるのは当然だ。

 真珠は在仁の命を受けて、君崇と一緒にあさひの部屋を訪ねた。


 ◆


 「何か凄い手柄を立てたらしいね。」

アメリカ人みたいなデカいマグカップを持ったあさひが、褒めるでもない言い方で言った。

大きなテーブルには、貴重そうな書物が積まれている。使用人が真珠と君崇に持って来たお茶は普通の湯呑だが、このテーブルにお茶を出されると零したらヤバいなと緊張してしまう。真珠と君崇は、細心の注意をはらってお茶を飲んだ。

 「凄い手柄?」

挨拶もそこそこに好きなように話すあさひのラフさは、本来誰よりも偉い超ビップの清め人らしいものだ。誰にもへりくだらない、マイウェイ。これぞ清め人。在仁が珍しいタイプなだけだ。

真珠は、将来清め人になった時には、そうした貫録を持って堂々とせねばと思う。地龍様の妻としても、清め人としても、誰に阿る事もすべきでない。だが態度だけでは駄目だ。そうするだけの人物とならねば。そのための学びは、尽きる事がない。

真珠が真剣にあさひを観察して学んでいると、隣の君崇が言った。

 「戦で昏睡していた武士たちを目覚めさせただろう?あれは真珠の手柄だよ。あの功績のお陰で、真珠の地盤がしっかりとしてきたね。」

 「え…ああ。ですが、あれは元々は御師様にお元気になって頂きたくてさせて頂いた事でございます。それを自分の地固めの足掛かりと致しますのは、些か筋違いのような心地悪さがございます。」

在仁に捧げる行為が、結局自分の為になってしまった。ちょっと目的が違う。

 「生真面目だなぁ。葛葉(くずのは)さん喜んでくれたんでしょ。だったら一石二鳥だし、真珠さんの立場が盤石になるのは、葛葉さんだって嬉しいはずだ。真珠さんを支える人たちも嬉しくて、目覚めた武士も、その家族も嬉しいはず。一粒でどこまでハッピーなコスパの良い大手柄だよ。もっと喜べば?」

 大雑把なあさひの称賛に、真珠は面食らった。

 そう言われると、そうだが。真珠はあからさまな言い方に戸惑いながらも微笑んだ。

 「どなた様にもお喜び頂ける結果でございます事は、嬉しく存じます。」

控えめに受け止める真珠に、あさひは嘆息した。

 「小さい事を大きく誇示するのはみっともないけど、功績は主張していかないと意味がないんじゃないの?生きてるだけで称賛と信仰の対象になるのは葛葉さんくらいだよ。権力社会で戦っていくなら、武装する技術と度胸くらい覚えた方が良いよ。僕なんか、清め人だぞって言う唯一のカードで身を守るしか能がないんだ。でも、最強のカードだからね、こうして好きに暮らしているよ。」

 それは、まるで何の実績もないけれど清め人であるという事実だけを誇示していると言わんばかりだ。それには君崇が否定した。

 「あさひ殿は清めとしての勤めを果たしてくださっています。終戦へも大きく貢献してくださり、また野分(のわき)に関する事なども、その知識は必要不可欠でした。これまでの功績へのあるべき賛辞が届いておりませんか?」

 この奥まった部屋に引きこもっているから何も知らないのか?君崇が暗に問うと、あさひは苦笑した。

 「いやいや。清め人は二人しかいないもんだから、比較して嫌になるだけ。僕は僕の清め意思に従って生きているよ。問題は何もない。情報も足りているさ。」

 だから真珠の手柄の事も知っていたでしょ、と示すように肩を竦めた。

 「御師様に気後れなさるとおっしゃるなら、弟子の私の方が、でございますよ。」

 あさひの自嘲に、真珠は苦笑を向けた。あさひは系譜が違うのだから同一視される筋合いが無いが、真珠は紫微星様の弟子であるからあの聖人イズムの継承を勝手に期待されてしまう。それは重荷だ。世の人たちは、正確かつ詳細に、清め人というものを理解していないので、勝手に聖人化したり役割を押し付けたりするものだ。だが、清め人本人はそんな事は知った事では無いのだ。

 「ほっときなよ。そんな戯言。」

清め意思は傲慢。あさひは軽く一蹴した。

 それからマグカップの中身を飲み干すと、あさひがテーブルの下から本を引っ張り出した。

 「丁度良いから、今話しておこうかな。」

言いながら開いたのはただの日本地図だ。あさひが何か描き込んであるが、普通の地図。それを真珠と君崇が覗き込むと、その上にあさひが手を置いた。

 「僕、旅に出たいんだ。」

 「は?」

 ぽかんとした二人に、あさひは笑った。

 「旅行じゃないよ。敢えて言うなら、旅人になりたいって事かなぁ。」

 「たび、びと?」

 君崇が理解出来ずに反芻すると、あさひは地図を眺めながら言った。

 「僕の生家は代々鎌倉の清め人で、僕はその英才教育を受けて育ったからさぁ、あまり外の世界を知らないんだ。子どもの頃にね、家にあった書物で、昔の清め人は全国を旅しながら清めて歩いたって知った。その時から、ずっとそういう清め人に憧れを持っていたんだ。けれど僕は鎌倉の清め人になるさだめだったから、誰にも言えなかった。」

その話を聞いた時、真珠は思い出した。以前、あさひは机の下に観光ガイドブックを積んでいた。あれは旅行へ行きたかったのではなく、旅の妄想をするアイテムだったのかも、知れない。

 「でも、真珠さんのおかげで、僕の夢が叶うかも知れないと思って。」

 「へ?」

 「ほら、真珠さんはこの鎌倉に嫁ぐわけでしょ。鎌倉の清め人になるって事だ。だったら、僕の役目は真珠さんに任せて、旅に出ても良いんじゃないかな。」

 「え、あ…いえ。えっと、どうでございましょうか?」

真珠はその是非が分からず、君崇を見上げた。君崇はびっくりした顔をして黙ってしまった。

それを見て、あさひは訂正した。

 「あ、今すぐとかじゃないよ。少なくとも、最低でも野分をどうにかしてからだな。それが終わったらの話。」

 野分を消す。それは在仁の生涯をリミットとする大仕事だ。いつ果たされるとも分からない案件の終了を以て、というのは、あまり現実的でない感じも受けた。けれど、野分を消すまではここを離れる訳にいかないという責任感には、安心出来た。

君崇は、そんなあさひに誠実に向き合うように背筋を伸ばした。

 「そうですか。分かりました。ではこちらもそのつもりで、準備しましょう。」

 「本当?」

 あさひが嬉しそうに問うたのは、子どものような明るい笑顔だった。

 それを見たら、真珠はその夢を支持すべき、いや、したいと思った。

 「ええ。私も、それがあさひ様の清め意思の導く道でございますれば、力になりとうございます。ただ、そのためには私が絶対に清め人とならねばならない訳で、す…が。」

皆から清め人になる事を求められる中でも、あさひの人生まで背負うのは、加重だ。真珠の清め意思が覚醒しないと、あさひの夢が叶わないなんて、責任重大。あさひだって、自分の努力と無関係のものに夢を託すのは賭けであるから、穏やかではあるまい。

けれど、あさひは軽く言った。

 「いや。そこは心配してないよ。だって真珠さんは葛葉さんが見込んだ逸材だからね。絶対に良い清め人になる。それだけは確定事項だ。」

 さらっと言われると、真珠はどう返していいか困った。あさひはそんな真珠を励ますつもりも無く続けた。

 「真珠さんの意思とは関係なく、そうなるんだ。気負わなくても、未来の方からやって来るよ。」

 あれだけ清め人としての資質を自問したあさひとも思えぬセリフだが、真珠にとっては先輩であるから不思議な説得力だ。真珠はとりあえず頷いた。そんな真珠の戸惑いを視界に入れつつ、君崇が言った。

 「ですが、旅と言っても、他家門への移籍ではないのですよね?」

 「そうだね。どっかの家に所属しようとは考えていないんだ。一人でフラフラと旅出来るとは思っていないし、旅の形は考えないといけないよね。」

 「でしたら、地龍本家に籍を置いて頂き、こちらから同行者と費用を出します。旅程や宿泊場所の手配などもこちらでさせて頂きますので、そのための形をご相談させてください。」

ぐいっと君崇が言うと、あさひはびっくり。いつになるか分からない夢の言質を取っただけのつもりが、思わぬ具体的な話になっているからだ。まるですぐにでも旅に出られそうな雰囲気に、あさひは可笑しくなって笑った。

 「あはは。気が早いな。まぁ、そうしてよ。僕は世間知らずだし、誰か世話してくれる人がいないと旅なんて出来ないからね。」

 楽しそうに笑うあさひを見て、真珠も君崇も、立場を忘れて年上として嬉しく思った。少年の夢が叶うと良いな、と。

 「じゃあ、夢を叶えるためにも、頑張らないとな。」

 何はともあれ、今ある課題を片付けないと、旅はお預けだ。あさひが地図をテーブルの下に戻して、テーブルの上の書物を見遣った。

それは全て、あさひが書き起こしたもの。世襲の清め人である斎藤家には、代々の貴重な書物が大量にあった。だが斎藤家は野分の封印地となって立ち入れない。野分を消すために、何かヒントがあるかも知れない書物を持ち出す事は出来ないのだ。だが、幸いな事に、書物の内容は全部あさひの脳内アーカイブにある。一言一句とはいかないまでも、知識としての漏れはないはず。だからそれを書き起こしているのだ。皆でそれを精査すれば、何か手がかりがあるかも知れないから。

あさひは入院中の在仁の病室にも、大量の書物を置いて行った。あれを在仁もにらめっこしているが、今の所は何も進展はない。

 こうしてあさひが地道に頑張っているのを知れば、名ばかりの清め人でなど無いと分かる。真珠はあさひに感謝しながら、書の山を見た。

 「すごい量ですね。」

 記憶力には自信がある真珠だって、本を一冊復元する作業を想像するだけで重労働だ。それを、こんなに沢山。

 「実家にあった書は、清め人の指南書だけじゃなくて、あらゆる分野が混在していた。正直、関係ないかなって思うものもあるんだけど、実家の本が今後無事に残る保証はないし、僕が覚えている内に残しておくべきかなって思って。おかげで作業が膨大になったのは、自業自得だよ。」

 「古い知識は誰かが残さなければ消えていくだけですから、とてもご立派な事です。」

君崇は学術的な観点からも重要な作業であるように感じて、あさひの行動を称賛したくなった。と、同時にこの膨大な多分野に渡る知識を見ていて、思った。

 「ここにも稀有な知識人がいたな。真珠、どうだろう。あさひ殿にも相談してみたら?」

君崇が提案したのは、菊の記憶を戻す為にあさひにも何かヒントを求めてみてはという事だ。それを聞いた真珠ははっとした。

 「何?僕で役に立てる事があるなら、何でも聞いてよ。」

あさひが親切そうに言うのは、厚意と言うより、今後旅人になるために真珠が必要不可欠なので、恩を売っておこうというようにも、見えた。相手の親切に打算がある方が、甘えやすい気がして、真珠は素直になった。

 「実は、祖母が記憶を失っており、私はそれを取り戻す手立てを探しております。」

 そして、真珠は菊が記憶を失った経緯や、今の症状などを詳細に説明した。

 少し長い話になったが、あさひはずっと真剣に耳を傾けてくれた。そして、話が終わると、ゆっくりと書の山を見遣りながら言った。

 「なるほど。随分と難題に挑んでいるんだね。」

 感想は、思考を繋ぐための相槌で。心がこもっている感じでもない。あさひの思考がどこかに辿り着くのを期待して、真珠は黙って待った。そして少しして、あさひが真珠を見た。

 「菊さんって、本当に記憶喪失なの?」

 「え?」

 超根本的な事を問われて、真珠は狼狽した。

 「火事場から救出された後、一度も言葉を発する事なく、意思疎通が出来ません。お医者様は、言葉すら失われたのではと。」

 「言語ごと記憶から失われたって、感情はあるんだから、感情表現とか意思表示はあるでしょ。ただ毎日寝起きして食べて、ぼうっとしてるって症状は、記憶喪失で合ってるのかな。門外漢の僕が言う事じゃないけど。」

第三者の視点というのはとても重要だ。君崇は新しい風を感じて、口を出した。

 「では、あさひ殿はこの事をどうとお考えに?」

門外漢と言ったあさひを逃がさない。君崇の問いに、あさひは腕を組んだ。

 「真珠さんが、戦で昏睡していた武士を起こした方法を思い出してみて。武士たちが別の次元で覚醒していると仮定して、一度眠らせる事で、こっちの世界で起こす事が出来たんだったよね。それと重ね合わせてみたら、どうだろう。菊さんの体はこっちの世界で普通に生活しているけれど、菊さん自身は別の次元にいるんだ。だから、その次元から菊さんを連れ戻さないとならないんじゃないかな。」

 戦で昏睡していた武士たちは、夢の中を現実と誤認して夢の世界で生きていた。夢の世界で覚醒していたので、起きている状態であった。だから起きている人間をいくら起こそうとしても、起きるはずがなかった。一度眠らせて、そして起こす事で、このねじれは解消し、武士たちを救う事が出来た。

それと同じように、菊の意識は別の場所で覚醒している。というのがあさひの推察だ。

真珠は、多くの学者の意見を問うてきたが、これは新解釈だった。そして、何だかとっても腑に落ちる気がしたのは、菊の様子を見ていて、そういう感じだと思ったのだ。ぼうっとして暮らす菊の意識はどこにあるのか、と。

 その新解釈に、君崇が訊いた。

 「別の次元とは?」

そこまで問うのは不躾過ぎる気もしたが、あさひは別段嫌そうにせずに積んだ書の中から、一冊引き抜いた。そしてぱらぱらしてページを開いて見せた。

 「菊さんは呪いに関わっていた。だから、これは呪いによる影響かも知れない。とすると、別の次元というのが当人の精神世界とかではないと思うのが妥当だよ。呪いと別次元を組み合わせると、思い出すのが、静寂猫(しじまねこ)だ。静寂猫は風穴(ふうけつ)を利用して、幽世(かくりよ)現世(うつしよ)を行き来する事が出来る、古い『夜』だ。」

書には、古来の『夜』が書かれているが、静寂猫の記載はない。ただ、神出鬼没の『夜』たちを、幽世から渡ってきたと記されていた。

 「幽世と現世を繋ぐ渡り戸は、実はどこにでもあるんだ。知らずして渡ってしまい、幽世に迷い込むという話は、大昔から数多ある。人は渡り戸を自在に行き来出来ないが、静寂猫たちは呪いを帯びている故に、自由に渡り戸を行き来する事が出来るんじゃないかな。もちろん、それ以外にも条件はあるんだろうけれど。けど、菊さんも当時は呪いを体に帯びていたから、渡り戸を渡る条件を満たしていたのかも知れない。」

 「で、では祖母の意識は幽世にあると、おっしゃるのでございますか?」

真珠は思わず問うた。これは、たった今話を聞いただけのあさひの私見に過ぎないのに、こんな責めるような態度は失礼だ。分かっていても、気持ちが走ってしまった。

 真珠の必死さにあさひは真摯に向き合った。

 「僕はそう思うよ。だから菊さんの意識を取り戻すためには、菊さんを幽世から呼び戻す必要がある。」

 「幽世から…それは、どのようにするのでございますか?」

 「渡り戸はどこにでもあると言っただろ。それを見付けて迎えに行く…のは現実的じゃないね。幽世に渡って帰って来られる保証はないから、危険過ぎる。となると、菊さん自身に戻って来て貰うのが最善だろうね。」

 「ご自身で、お戻りになれますか?」

 「菊さん自身が戻りたいと思ってくれているならば、こちらからのアプローチで誘導すれば、可能性はゼロじゃないと思うけど。」

菊が戻りたいと思っているならば、という前提は案外と残酷だ。菊は心中するつもりだったのだ。心中に失敗して生き残った。だから死を望んでいるかも知れない。そしたら、現世に戻りたいなどと思う事は無いかも知れない。真珠は少し自信が無かった。けれど、君崇が力強く言った。

 「それは絶対に大丈夫です。菊様は真珠の婚礼姿を見たいと、絶対に思ってくださっているはずです。檀様の呼びかけや、真珠の話は、きっと菊様に届いていると僕は信じます。」

 無反応だけれど、菊は全部分かっているはず。それは希望的な事だったけれど、君崇が絶対にそうだと言うならば、真珠は信じられる気がした。

 「ふうん。もし、こっちの出来事を認識できていると仮定するなら、意識は案外近くにあるのかもね。そしたら、条件が整えば自然と戻って来るんじゃないかな。人は魂と体が合わさってひとつだから、意識だけが幽世にあるのは不自然な事だ。意識は体に引き寄せられているはず。なら、少しでも渡り戸が開けば、意識が体に引っ張られて強制的に戻るかもよ。」 

 「渡り戸を開く、条件を、ご存知ですか?」

真珠が恐る恐る問うたのは、ここまで有力説を語っておいて、肝心のそこが不明では無意味だからだ。手が届きそうなのに、絶対に届かない事ほど苦しい事はない。真珠の願うような視線に、あさひは言った。

 「知らない。それを記した書は見た事が無いし、知っている人はいないんじゃないかな。ただ、菊さんが実際に意識だけ幽世に渡ってしまったと言う事から考える事は出来る。その時と同じ条件を揃えれば、渡り戸は開くかも、知れないってね。」

 ただの憶測であるから、あまり重くは言わない。だがあさひは誠実に私見を述べた。

真珠はそのあさひの心に感謝をしつつ、何度も頷いた。

 「同じ条件、でございますか。一度、精査してみようと思います。良きご意見、まことにありがとうございます。また、ご相談させてくださいませ。」

 同じ条件を整えるのは、もしかしたら難しいかも知れない。菊はもう呪いを持っていないし、あの家は全焼している。もう一度菊に呪いを与えて火事の中に放置するなんて、まさか出来るはずもない。となると、困難は不可能レベルか。真珠は諦めるにはまだ早いと自分に言い聞かせながら、あさひに今後の協力依頼をとりつけて帰宅する事にした。

 転移扉で別れるまで、ずっと君崇が手を握っていた。それは一人ではないと感じられて、真珠にとってとても勇気づけられる事だった。

 それから真珠は更に忙しくなったのだった。

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