9 退魔の事
三浦能通は根っからのボンボンと言うやつで、世間の厳しさを知らず、好きなことを心行くまでやり、欲しいものは簡単に手に入る、甘いぬるま湯のような幼少期を過ごした。
父親は転生組の三浦義澄で、現在の地龍では結構良い身分の武士の家系だった。義澄は能通が三男だったからか昔から教育に関心を持たず、厳しくされたことは殆どなかった。義澄は能通の自由に好奇心の赴くままに育てたため、昔から普通の武士とは違っていた。二人の兄とも随分違っていた。出世欲が乏しく、正義感ばかりが突出した、危なっかしい子供だった。
義澄はよく、自分は戦国時代にはキリシタン大名だったと話したが、能通にはさっぱり意味が解らなかった。けれど、その名残か教会に縁を持っており、退魔師としての師と出会ったのもそのルートからだった。師は正式な機関に登録されていない退魔師で、いかにもアウトローな感じの男だったけれど、人一倍正義に熱く、人を守るために魔と戦う覚悟は能通の心を打った。能通は師のような矜持に憧れて、日本を発つと言う時にはついて行こうと決めた。当然義澄は簡単には認めなかったが、結局は生きて帰ってくる事を条件に許したのだった。地龍の人間が組織を離れ、しかも国を離れるなど、前代未聞だったが、義澄が転生組の権力を全力で駆使して何とかしてくれたために成ったことだった。
日本を出てよく分かったのは、新しい事を知る喜びより、いままでの自分の立場だった。大海を知り己の小ささを知ったという意味でと言うよりは、地龍と言う組織と、自身の生き方について、いままでより良く見えるようになったのだ。
地龍が今のような、『昼』の味方でも『夜』の味方でもなく、ただ世界の存在を守るだけの闇の機関になったのは江戸時代くらいからだと言われている。それまでは多くの者が表舞台での権力抗争に参戦していた。それ故に世は乱れていたという。義澄がキリシタン大名だったと言ったのも、そう言った背景からだと汲みとれた。『夜』を斬る力を持って『昼』を統べようなどとは、とんでもない力の使い方だと能通は思った。力は正義のために使うべきだというのに、と。
能通の師は人間を守る者であり、その心や信仰を能通に教えた。けれど、世界を守る機関で育った価値観を上塗りすることは難しかった。『昼』と『夜』はバランスをとらなければならず、どちらかに加担してどちらかを斬ることは、自身を揺らぎとする行為で、本末転倒。世界という器のために、そこに暮らす人も妖も排除するという喧嘩両成敗の考え方は、いくら自由に育った能通であっても基本的な常識として染み付いていた。自身の考えと師の教えの間に交わらない部分を感じながらも、師に教えられた退魔の技術を応用し、自分なりの技を磨くことに専念し、ようやく形になり始めた頃、師は病気であっけなく死んだ。
仕方なく帰国した能通の中には、今までどうしても交わらなかった師の教えが淡い光のように溶けて同化するのを感じた。
世界という空の器を残すことにどんな意味があるのか?
斬ることは簡単だ。
ならば自分は自分の力で、助けられる武士になろう。
ようやく自分の生き方、憧れた師のような矜持を得た気がした。
能通は自分の戦い方はおそらく今の地龍では認められることはないだろうと考え、あえてまともな部隊には所属せず放蕩する三男坊を演じた。自由でなければ目的は果たせない、自分の戦いはできないと思ったからだった。そもそもどこか入りたい部隊があれば義澄の名前でいくらでも何とかなるし、放蕩していても三男など期待されない上、退魔師などという変り種はどこも迎合しない。組織の中にいながらにして、自分一人で出来る形を模索しようとしていた。
『昼』の情報収集のために海辺に洒落た喫茶店を開き、『夜』のみを滅するために特注の銃弾を用意した。変わり者と呼ばれても良い、斬るのではなく守ることでバランスの揺らぎを解消させてみせる。能通の戦いは孤独で厳しかった。
貴也から声がかかった時も、能通の戦いを貫けなくなるのならばと断ろうと思っていた。貴也は能通の求めるものを一緒に見つけると言った。必ず見つかると言ったのだ。何故そんなことが言えるのか全く分からなかったが、その目は知っていることを言っているような曇りないものだった。能通は信じると言うより、流される形で『龍の爪』に入った。
けれど今、ずっと求めていた戦いが、ここにあった。
恭という少年の中に、能通は探していた矜持の光を見たのだ。
喫茶店から小鳥遊に飛ばされた場所は、さすが恭が座標を固定しただけあって絶妙な配置だった。川崎と川崎に擬態した『夜』は一見双子のようで、何かを警戒するように木々の間に立っていた。その周囲にある木の影、二か所に義平と実親、春家と兼虎が二人ずつのペアで様子を窺っており、大きな岩影に恭と宗季と能通が隠れていた。上から見ると『夜』を囲んで三角形になるような配置だった。
一本の木に、春家と兼虎がほぼ一列になって身をひそめていた。
「さっきの、まずかったんじゃないか?」
兼虎が春家を斜め後ろから見つめて言った。
「俺が?」
「親殿がああ言う気性なのは周知の事。あまり責めては不憫ではないか。」
「同情かよ。」
「そんな立場にないこと位は分かっているが、だが見てられん。」
兼虎は実親の周囲に当たり散らす様を快くは思っていないが、どこか共感できる気もした。弱い犬程良く吠える、と言うが、何かに怯えているように感じられた。兼虎が人を傷付けることを恐れるように、プライドを守ることに精一杯で返って自身を貶めるような負の連鎖を同情的な気持ちで見ずにはいられなかったのだ。
「親は矛盾してる。いつかその矛盾に足をすくわれる事になる。」
地龍の縦社会を重んじながらも、自身は成り上がりたい。生まれた宿命を背負う事を絶対としながら、自身は解き放たれたい。身勝手だ。それを肯定していればまだ良い。だが実親は憤りを全て外に発散する。それが春家には解せないところだった。
「だが仲間だ。少しは仲良くやってくれ。」
「俺に言う?俺はメンバーの中でもマシな方でしょ?親に言えよ親に。はっきり言ってアイツがいなきゃ大分マシだよ。」
「春殿。滅多な事を口にしないで頂きたい。」
兼虎は妙に真面目な顔で声を押し殺して訴えた。
春は耳のあたりに兼虎の視線を感じながら、肩で溜息をついた。
「ハイハイ。」
お互いの言い分は解っていた。けれど上手い場所に着地出来ないのは、どう考えても原因が実親にあるように思われた。
木の影で義平が実親を見ずに話しかけた。
「親、よく見ておけ。恭のやり方を。」
「これが最高峰の武士の戦いですか?子供にも劣る甘さを行使する事が。」
『昼』と『夜』の中立たる地龍の武士が、人間を助けるなどという甘言は、実親にとっては信じられない程愚かなことだった。その甘さこそ武士となる過程で最初に捨てることを迫られるというのに、何故、地龍の最高峰と謳われる部隊が境界を越え人に加担するのか、それは揺らぎではないのか。実親は憤りを抑えることができなかった。
「いや、甘さは弱いから切り捨てられる。甘いと言われようが実現できるのは最高峰の武士だからだよ。」
義平の言葉は実親を貫いた。
強ければ、何でも叶う。多くを持つ。
幼きより憧れた強さの象徴は自分を貫く権利だった。それをまざまざと蘇らせたのだった。
実親が欲しかった強さとは、そして今持つ強さとは一体何なのか。二つの間には天と地程の差があるのではないか…。作戦の真っ最中だと言うのに、実親は耳鳴りがして集中できなかった。
大きな岩の影では、恭が着くなり岩の表面をぺたぺたと触っていた。
「どうするんです?」
宗季が刀の柄を握ったままで訊くと、恭は落ちていた石を宗季に放り投げた。
「この間のやつをやります。晋をマーカーにして弾を飛ばす。」
宗季は刀から手を離し石を掴みながら訊き返した。
「え?」
「でも今回は銃弾です。物質を飛ばすのは調整が要る。たがその時間はない。なるべく平行移動でやってみます。なので、宗季殿はここに転移の陣を描いてください。能通殿はその陣に向かって撃って下さい。」
恭の言っている言葉の意味が、二人には解らなかったが、今はやるしかなかった。
「斬撃を転移する技、完成していたんですか…。」
「まだ完璧とは言えません。改善の余地はある。だから今回はぶっつけ本番です。」
宗季は、恭が斬撃を転移させたいと言い出した時から、いずれやるだろうとは思っていたが、こんな早く実用させて来ようとは夢にも思わなかった。本人はぶっつけ本番などと言うが、出来る自信がなければやろうとは思わないだろう。想像の範疇をとうに超えているのだと感じた。目が離せない、もっと見ていたい、強く惹かれるのを自覚した。
その時、今までどこにいたのか晋が顔を出した。
「恭」
恭が、宗季の描く陣を見ながら返事をした。
「川崎さんの腕に弾を転移させる。お前はマーカー役だ。解るな。」
「了解。」
命令は簡潔だった。経過の説明も作戦の意図も何もない、シンプルな指示だった。晋は再び木々の中へ消えて行った。
「恭殿、あれで分かったのですか?」
「大丈夫です。あとはタイミングです。」
宗季も能通も恭の落ち着き払った返事に動揺した。むしろ自分たちにもっとしっかり説明をしてくれと思ったが、言えなかった。
宗季が陣を描き終わると、それを見ていたように、晋が木の影から『夜』の方へ向かって現れた。
全員が目を見張った。
晋は完全に術者の気配を絶ち『波形』を消していた。『夜』は警戒し戦闘態勢で晋を見た。川崎の器は前へ、擬態の方は後ろへ動いた。人間の体である川崎を盾にするような動きをすることから、擬態の方を逃がそうとしているように見えた。既に包囲されているとは知らず晋にだけ注意を向けていた。
「川崎、何で逃げるんだよ。」
晋が訊いた。『夜』は答えなかった。
晋が少しずつ前へ進んだ。
「川崎、何で?」
もう少しで手が届きそうな距離だった。
晋は丸腰だった。『夜』はどうやって晋から逃げようか、もしくは器を捨てようか考えていたのだろうか、晋の動きを警戒しながらもまだ動こうとはしなかった。
恭は、岩の影で目を閉じていた。岩にかくれて『夜』と晋のやりとりは見えていなかった。けれど見ていたのだ。
「もう、少し…。」
恭が呟いた。恭は意識を集中させながら、能通に合図をした。能通は銃を構えた。
晋が『夜』へ向かって手を伸ばし、驚いた『夜』が突然体を反らした、その瞬間だった。
「今だ。」
恭が合図をして、能通は恭が描いた陣に向かって発砲した。
周囲に大きな銃声が響いた。
その音ですべてが同時に動いた。
銃弾が晋の伸ばした腕の後ろから出現し、軌道は完全に川崎の胸へ当たる場所だった。晋が転移の気配と同時に体をずらし、自身の腕をわざと弾の前に差し出し、反対の腕で少し川崎を押した。『夜』は一瞬の事に反応出来ず、逃げようと足に力を入れたが、弾は丁度晋の左腕を貫通し、川崎の右腕に掠るように当たり、そして後方の木々の方へ消えて行った。
川崎は弾が当たった傷口から黒い靄のようなものを吐き出しながらその場に力なく倒れた。
それを見て、川崎に擬態していた『夜』は体を変化させながらその場を離れようとした。その進行方向を春家が刀を構えて阻み、進行方向を変えた先に更に実親が立ち、残された隙間から兼虎が現れると、『夜』は逃げることを諦め襲いかかろうと体を大きな獣に変化させていった。
「久々の仕事だぜ、髭切。」
場の緊張にそぐわぬ明るい声で義平が刀を抜いたと思うや、次の瞬間には既に『夜』の後ろに立っていた。『夜』が振り返ると、義平の愛刀・髭切は鞘に半分納まっていた。今刀を抜く所だったろうか。そう思った時、『夜』はようやく自身の体が分断されていることに気が付いた。その場にいた全員が刀を治めると、先程まで立ち込めていた緊張と邪悪な気配が消え、澄んでいて刺すように冷えた冬の大気が戻ってきた。
「晋!」
恭の叫び声がして集まると、腕から血を流して座る晋と、ぐったり横たわる川崎がいた。兼虎がいつの間にか川崎の傷の手当をしており、低く落ち着いた声で言った。
「大丈夫だ。暫くは痛みがあるだろうが、傷はもう消えた。」
「…良かった。」
晋が肩を撫でおろすと、兼虎は目を細めて晋の腕の手当を始めた。
「虎さん、いつから医療方面の術者になったんすか。」
銃弾の貫通した左腕を掴まれた晋が痛みをこらえながら訊いた。
「前からだ。武士の家系故求められることなくてな。役に立つ事は少ないが、密に鍛練を積んできた。」
「凄いっすね。怪我治せるなんて、並の術者じゃないですよ。」
「完璧に治る訳じゃない。それが出来たら神様だな。精々応急処置だ。だから後でちゃんと医者に行け。晋殿のは貫通しているからな、止血が限界だ。」
兼虎が傷口を縛ると、晋は何故か嬉しそうにそれを撫でた。
「ありがとうございます。」
晋の言葉は一見兼虎に治療の礼を言ったようだったが、全員に対してだった。
「よくやった。」
恭が晋の頭に手を置いた。
「で、上手くいったのか?」
貴也が珈琲を飲みながら訊くと、全員が頷いた。
能通の店には『龍の爪』が全員集合していた。
恭は皆に礼を言ってから小鳥遊と帰り、晋は川崎を送って行くと言って、川崎をおぶって出て行った。
「川崎さん?の霊体も元に戻ったし、『夜』も他に分裂した体を残したりはしていないみたいって事で、解決だな。」
「唐突に始まった全員でのミッションだったけど、結構なチームワークだったんじゃない?」
義平と祥子は事件の解決を喜んでいた。
ようやく仕事を終え、暖かい屋内で暖かい珈琲にありついた面々は、先程までの顔とは全く別の余裕のある表情をしていた。
「『龍の爪』のメンバー探しも残りあと一人だけど、今のところバランスは良いみたいね。」
恭の采配とは言え、なかなかのチームワークだと思えた。人間的な部分で折り合いがつけられなくても、仕事にそれを持ちこまないのはプロとして当然の事だし、気にする程のことではないと静は思っていた。けれど実親は憮然とした表情だった。その態度に気が付かなかったふりをして春家は話を続けた。
「兼虎の医療術は普通の医者より遥かに上ってことも発覚したしな。水くさいぜ、そんな力あるのに隠してたとはな。さすが天狗様。」
「いや、そんなに大したことはない。専門家に比べたらまだまだだ。だが、皆の力になれれば嬉しい。」
「素晴らしいです。兼虎殿が居れば安心ですね。」
「これで、随分と面子が揃ってきたということですね。変り種ばかりですが、使えないこともないようですし。」
「言うねぇ宗。言っとくけど、お前今回、転移の陣しか描いてねぇからな。」
「それは違うわ。最初の『夜』を斬ったのは宗季よ。」
「はいはい。」
場が盛り上がって来たタイミングで、祥子が口を開いた。
「残りはどんな方にするんですか?」
『龍の爪』のメンバー数は十名。能通を迎えたことで、残りは一人となっていた。最終メンバー。これだけの個性派揃いで集めてきた最後の一人に、自ずと期待してしまうのは仕方のないことだった。
「今回は恭がいたから出来た作戦でしたし、この部隊に必要なのは射手ではありませんか?」
あらゆる術者がいる組織の中で、選ぼうと思えばいくらでも変った戦闘スタイルの者がいる。けれど、一番シンプルに考えて、足りてないのは遠距離型だ。飛び道具。能通よりもっと射程の広い者。
「狙撃手か。銃か矢、もしくは両方か。」
話が残り一人となった部隊のメンバーについてになると、貴也はニヤニヤしながら呟いた。
「いや、刀もだな。」
全員が一瞬固まり、そして引きつった笑いを始めた。
「いやいや、そんなオールラウンダ―いないでしょ。」
「心当たりはある。」
義平が言うと貴也はカップを置いた。
「じゃあ、決まりだな。」
住宅街の家とコンビニの間にある細い路地には、小さな黒い鉄格子が掛っていた。鍵はかかっておらず、何のための柵なのかよく分からない造りだった。ただ柵があるので誰も入らない、それだけの誰も気にとめないような風景の一部だった。
その柵の奥の細い道を、恭と小鳥遊は歩いていた。生憎の曇天で、気温も低く、恭は手を制服のポケットに入れて歩いた。
「今回もお見事でしたな。」
少し後ろを歩く小鳥遊が、いつもの怪しげな声で愉快気に言った。
「いや、今回はぎりぎりだった。やはり未調整でやるには危険過ぎたんだろうな。」
考えている時間も、調整をする時間も、そして余裕も、とにかく足りなかった。故に結果は本当にぎりぎりセーフで丸く収まったが、晋を怪我させた事は恭の中で大きな反省点だった。あのタイミングで晋が機転を利かせて体勢を変え無ければ、弾は確実に川崎の命を奪っていた。本当に際どかった。恭は久しぶりに心臓が止まる思いをした。今だに指先が凍えるように冷たいのはその緊張のせいだろうか。
「銃弾の転移など、普通は発想すら致しませぬ。誤差の範囲でしょう。矢集めも軽傷だったのですから、恭殿の望みは叶ったのでしょう?」
「俺の望み?」
「矢集めの学友を生かす事です。」
川崎を生かすこと。それは晋のためだった。数少ない晋の味方を失う訳にはいかない。恭はできる限りをしたかったのだ。それで駄目なら恭が斬る覚悟だった。晋にはやらせる訳にはいかない。そう思っていた。
「…俺は揺らぎとなったと思うか?」
「私的な理由で『昼』を生かし『夜』を斬ったとあれば、それは『昼夜』の境界の揺らぎとなりましょう。けれど、今回は一方的に『夜』が『昼』を侵していました。それに意図せず試験的な実戦の機会となりました。許容範囲ではありませんか?」
「そうだろうか。…ジャッジする者もいないんだが。」
「恭殿を審問会にかけようなどと申す者もおりますまい。」
そんな事になれば貴也が何をするか分かったものではない。
「世の中、俺に都合良く出来てるんだな。」
「一匹の獣を飼うだけでもこれだけ苦労されておられるのに、よくおっしゃる。」
いつの間にか細い路地を抜け、本家が見えてきていた。その道は空間を繋ぐ特別な抜け道で、帰宅するのには丁度いい近道だったのだ。家の門の前で振り返らずに恭は言った。
「川崎さんは晋の恩人だ。俺もいつかそれを返したいと思っていた。それだけだ。」
「では次はないと?」
「そうだな。」
恭は静かに答えた。
晋は意識の戻らない川崎をおぶり、川崎の自宅まで送っていく坂道を歩いていた。
本当は晋の傷はすぐにでも医者へ診せるよう勧められたのだが、川崎を送ることを優先させたのだった。銃弾の貫通した腕は思ったより痛みがなかった。おそらく兼虎の処置のおかげだろう。もしくは傷に慣れ過ぎて麻痺しているんだろうか。
晋は背に川崎の温度を感じながら、昔を思い出した。晋をかばった川崎が怪我をしたあの後も、こうして一緒に歩いた事を。あの時も川崎の体温を感じながら、胸が締め付けられるような想いを抱いた。
「晋くん。」
川崎が意識を取り戻し、晋を呼んだ。貴也の話では、川崎は弱っていたせいで霊体が記憶喪失だった。そのため霊体が体に戻った後はきっと何も覚えていない。
だが川崎は何となく、晋に助けられたのだと感じると言った。
晋は何も説明しなかったし、する訳にもいかなかった。『昼』の人間である川崎が『夜』を知ることはよくないことだから。
川崎の腕の怪我のことなど、最低限のことを伝えた晋は、つぶやくように伝えた。
「川崎、ありがとう。」
川崎の頭が揺れた。
「私が助けて貰ったんでしょ。何でお礼言うの?」
「前に俺を庇って怪我しただろ。あれ、俺嬉しかったんだ。だから、ずっと恩返ししたくて。」
「あの時は嫌がってなかった?」
「え?」
「女に守られたって、悔しそうにしてたから、余計なお世話だったんだと思ってた。」
そんなことを言ったろうか。晋は完全に覚えていなかった。覚えているのは、暖かい川崎の温度と、守られることの情けなさ、弱さを噛みしめるような痛み、幼さ故の未熟さと渇望、そういうことのない混ぜになった感情。そして喜び。
「それは照れ隠しだよ。本当は嬉しかったんだ。本当に。」
「変わった?」
川崎の頭が再び揺れた。
「ああ。恭に好きな人が出来た。」
「うん?」
「恭が変ったのに、俺が昔のままでいられないから。変わるんだ。」
「そうなの。」
決意しなくても人は変わる。それは止められない。けれど、決意しなければ変われない方向に、晋は歩んで行きたかった。恭の隣を。
「川崎、俺お前のこと好きだよ。」
ずっと、ずっとそうだった。川崎に守られて得た喜び、嬉しかったと言ったのは、その場から助けられた故ではなく、心を救済されたという方が近かった。好きだったのだ。平気で飛び込んでいく川崎の天真爛漫さ、そして屈託なく笑う明るさ、晋の肩を触る手の温かさ。守りたいと思う事で、守られていた。『昼』でしか会えない優しい陽の光。
手の届かない愛しい存在。
「私も好きだよ。」
川崎の頭が晋の肩に柔らかくのった。顔を埋めるように擦り寄せられる川崎の、冷たい鼻の頭が首に当たった。
「晋くんあったかいね。」
全身が熱かった。
寒空を嘲笑うように、耳まで熱かった。
川崎の家に着くまで、二人は黙ったままだった。
海辺の喫茶店は日が暮れると、暗闇にぽつんと残された灯のようで、少しもの寂しい。何人かが去り、たまに客が来たりして、最終的に貴也と能通だけが残った。
「やっていけそうか?俺のチームで。」
貴也は上着を着ながら訊いた。
「ええ、そうですね。」
貴也が見つかると言った組織は、能通が考えていたようなものではなかった。それぞれの個性がぶつかりあいながらも、目的は同じだった。可能性の分岐を見た。多様な未来の片鱗を。能通が理想を描くように、それぞれに展望があって、それはしのぎを削りながら強く前進するように思われた。
貴也の目指すものは能通には解らないが、それでも付いて行く価値がある気がした。
「お前と似たような奴もいるしな。弁天は優し過ぎるし、虎は人を斬るのが嫌で家出した。組織の中にも色々な奴がいる。お前は一人で戦わなくてもいい。」
「…貴也さん。」
「俺達は世界のバランスを保つために存在しているけど、方法は決まってない。今は斬る事が主流だが、本当はどんな方法でも良いんだ。説得して何とか出来ればそれでもいいし、全部ぶった斬って終わりも良し。バランスの揺らぎ自体を起こらないようにする方法を探したっていい。全部選択だ。俺達は解決方法を自分たちで選べる。重要なのは選択する立場にある事を忘れないことだ。お前はお前のやり方を模索していけばいい。そういう組織にいつかなるから。」
また、あの目だった。知っていて言っている目。
「選択するには力が要るだろ?」
能通は貴也の射るような目に見据えられて答えに詰まった。
「力は選択肢を増やす、だから必要だ。解るな?」
貴也の言葉はかつての師の言葉に重なる気がした。
優しさや正義は弱い。力はそれらを歪める。けれど理想は弱者には手に入らない。矛盾して能通の心を惑わせる。引き金は正しさのためにひかれるものなのか。
「力を求めることは悪いことじゃない。俺達と一緒に、新しい未来を見よう。能通。」
不思議な人だと思った。
まるで邪念を祓う言霊。
退魔のような。
「そうですね。これも選択肢ですよね。」
もがき、あがいた末に現れた新しい選択肢。これも力を得たが故に齎された新たな扉だろうか。
能通は見たいと思った。自分の目指した先に訪れるものを。力を求めた先に手に入る理想の姿が、思い描くそれと同じものなのかどうか。
「貴也さん、貴也さんがつくる未来にかけてみて良いですか。」
「俺が作るのは土台だよ。そのための柱集めだ。」
能通が訊き返そうとすると、貴也はマフラーを巻いて店の扉を開けた。
「能通。俺は月だ。光に報いるために必死で光を受ける。照らせるのは夜道だけ。夜が明けたら太陽に向かって進め。その先にこそお前の未来がある。」
貴也の声は暗闇の中に消えて行った。
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