36 諸恋の事
「もう帰るのか?寄って行けば良いものを。」
地龍本家の自宅側玄関で、恭は残念そうに言った。その正面には恐縮して身を縮めた吉池千之助が両手に大きな紙袋を四つ抱えて立っていた。
「いえ。元々は仕事の報告で参上させて頂いたにも関わらず、プライベートなお時間を割いて頂いて、本当に恐縮です。その上、こんな残飯処理まで手伝わせてしまって。これは切腹ものの大罪なのでは…。」
「大袈裟な。賞味期限ギリギリのジャムをいくつか貰っただけで腹を斬らせる訳があるまい。それより、処分に困っているならもっと置いて行っても良いのだが。ここには使用人も多い故に消費もできよう。」
「いえいえ!本当に地龍様にそのような事をさせては吉池家後世までの恥になってしまいます。あとは春さんや毘沙門さんに配って、残ったら幸さんに頼むつもりですから。」
紙袋の中には大量のジャムの瓶があった。すべて同居人である光胤が大量に買い溜めていたものだ。元々賞味期限が近いため安売りしていたものを箱買いしたらしいが、消費する前に色々とあり未だ帰宅しない。いつ帰るか分からない光胤の買い溜め品を、折を見て人に配って処分するのは初めての事ではないが、いくら何でもこの量は前代未聞だった。
「そうか。難儀な事だな。」
甘党の光胤のジャムの買い溜めという「らしい」行為に微笑みながら労をねぎらう恭に、千之助はふと訊いた。
「そう言えば、晋くんは今日はいないのですか?」
「晋は家の方だろう。実家を新築していてな。春には完成する予定だ。この裏の獣道を道なりに行くとある。良ければ見て行くと良い。今のアイツは浮かれていて面白いから、一見の価値ありだぞ。」
「そうですか。それは、仁美さんと結婚するためにという事ですか?」
「いずれ、と言っていたが。準備をする事で決意が形になれば、晋自身後戻りは出来ない。晋なりに自分を追い込んでいるのかも知れないな。過去の柵も、未来の障害も、想像するだけで決意を鈍らせる。」
冬の外気に触れて恭の息が白く染まった。
「ちゃんと将来を考えるようになったのなら、良い傾向ですね。」
安心したように言う千之助をじっと見てから恭が笑った。
「吉池殿は意外と晋をよく理解しているようだ。晋を誤解する者は多い。外に理解者がいるのは喜ばしいことだ。」
「処理班では鬼神殺しは無慈悲で冷酷な殺人マシーンだと未だに言われています。けれど、あの太刀筋は心無い一撃必殺なんかじゃありません。ともすれば本人が死んだ事にすら気付かない程の鮮やかな切り口を見て、あれは彼にとっては優しさなんだと俺は思います。全部一人で飲み込んで、不幸になることだけが贖罪だなんて自己満足は死者への冒涜ですから。彼にはきちんと生きて行ってほしいと思いますよ。」
「素晴らしい。是非直接言ってやってくれ。」
意外な場所で同士を得たと恭は喜んだが、千之助はやっぱり恐縮していた。
紙袋の中を覗きながら晋は顔をしかめた。
「うわ。こんなにジャム消費できませんよ。光さんどうやって食べるつもりだったんですか?」
建てかけの家の前で晋と千之助はジャムを手に途方に暮れていた。
「いや、光の奴ジャムをそのまま食うんだよ。放っとくと朝食に五個くらい空ける時もあるし、帰って来た後とか飲むみたいに二・三個空けるんだよ。」
「マジで言ってます?」
「ああ、だから居れば余裕で消費出来たんだけど。」
「まだ入院してんですもんね。」
光胤が入院している病院から姿を消した事は秘密にしている。
「まぁ、ジャムの瓶が沢山!」
建築中の家の周りを歩いていたらしい仁美がいつの間にか千之助の紙袋を覗いていた。後ろには春家と毘沙門と幸衡の姿があった。
「こんにちは。よろしければ好きなだけどうぞ。」
「まぁ、よろしいんですの?」
嬉しそうにジャムを見る仁美の後ろの男三人にも、千之助は懇願するように声をかけた。
「できればお三方にも消費に協力をお願いしたいのですが。」
「うちは米党なのですが、友が困っているとあっては捨て置けませんから、微力ながら協力いたしましょう。春さんは何でも食べますし家族も多いですから沢山貰ってくれるはずですよ。ね、春さん。」
毘沙門が押しつけるように春家を見ると、春家は幸衡を見た。
「幸だって、あきちゃんに持ってけよ。喜ぶだろ、幸が与えるものならなんでも。」
「あきらを何だと思っているのだ。まぁ良い。他ならぬ千之助くんの頼みだ。近所に配るくらいの協力はしよう。」
千之助が持ってきた袋に各々消費協力できそうな量を詰めていると、千之助はふと疑問に思った。
「ところで、どうして皆さんここに?」
晋に会いに来たはずだったが、思いがけず回ろうと思っていた人物が全員居合わせていた。荷物が重かったのでとてもラッキーだったが、理由は気になった。
「晋が塀の事でしつこく相談してくるので、見に来たのです。」
「申し訳ありません。元はと言えば私が家の塀の事を失念していたのがいけなかったのですわ。元々は庭木以外に何もありませんでしたので。」
三人に頭をさげる仁美の言う通り、矢集家は鬱蒼とした林の中にあり管理されていない庭木との境も曖昧だったため、塀が無かった。新築するに当たり所有している土地は整備したので家の周りは大分キレイになっていたが、不用心と言えば不用心だった。
「何、塀など後から何とでもなろう。それより今は家の方だろう。」
「確かに。セキュリティなら結界でもよくね?それか、すげー高い塀にして内側にドーベルマンを飼うとか!あ、式神って手もあるよな!いっそ警備雇う?」
仁美と三人の会話を見ている千之助に、呆れた晋が耳打ちした。
「家を建てたいって話したのは俺ですけど、今では完全にひぃさんがボスなんです。俺は、庭に女物の洗濯物干すと丸見えで不用心だから塀とか付ける?って訊いただけなのに、大騒ぎですもん。こんな不気味な森の中にセキュリティも何もないと思うんですけどね。」
実際家の外装・内装から始まり材料や風水的な事など、仁美が全てを取り仕切っているらしかった。
「楽しそうで良かったんじゃない?」
「まぁ、そうですけど。全部彼女の趣味ですから、とんでもないメルヘンハウスが出来上がったらどうしようって不安もありますよ。」
「ま、それはそれで面白いけどね。」
千之助が幸せそうな晋を見て、「浮かれている」と恭が表現した意味がよく分かった。
「ひぃさん、ジャムそんなに食べるの?ますます太るんじゃ…。」
仁美の袋にはジャムが八本程入っているように見えた。
「だって美味しそうなんですもの。」
元々ふっくらしている仁美がジャムを持っているのは非常によく似合う。
「晋、女性に対してそれは失礼ですよ。」
「そうだぞ、俺がそんな事言ったら、さやかは一瞬にして暴力行為に及ぶな。」
「あきらはエネルギー消費が謎だ。故にカロリー計算が意味を成さない。あれだけ食べて何故太らないのか、全く持って不可思議だ。それでもデリカシーというものは持って然るべきだろう。」
晋の太る発言に対する注意の集中砲火に、晋は苦笑いをした。
「ひぃさんの前では嘘ついてもバレますから、思った地点で観念してます。」
仁美の霊師の能力をすれば他者の思考など丸見えだ。
「成程。あえて口にするは晋くんなりの付き合い方という事か。」
「言ってる事と考えてる事に差がないようにしてるって事ね。ますます俺の所とは大違いだわ。さやかの奴、すぐ怒るからさぁ。本当不用意な事言えねぇっての。」
「それは春さんが嘘や隠し事をするからでしょう?」
春家の不誠実を注意する毘沙門の鋭利なツッコミに、春家は閉口した。
「春さんは昔から、嘘ばかり平然とつくのですから。しかもそれが後になってばれるんです。本当に質が悪いですよ。嘘をつくのなら完璧に相手を騙しきらなくては、相手に失礼です。」
「それは誠意なの、道白くん?」
謎の持論を展開する毘沙門に、春家は首を傾げた。
「嘘もつき通せば真実になるという訳か。毘沙門殿の嘘ともなれば、誰も見抜く事ができまい。」
「そこ褒めて良い所なの、幸衡くん?」
乗っかって称賛する幸衡に、春家は首を逆側に傾げた。
「何か恐くなってきた。道白さん、今まで俺に言ってくれた事の中に嘘なんてありませんよね?」
「おや、完璧な嘘は真実よりも誠であるものです。自白しては意味がありません。」
晋が恐る恐る訊くと、毘沙門は穏やかに諭すので、千之助が心配し始めた。
「ちょっと、今のは否定する所でしょう?晋くんが人間不信の目で毘沙門さんを見てますよ!」
「おい、俺も急に恐くなってきたわ。道白があの時言ったアレとかアレとか全部心にもない嘘だったんじゃねぇかって。いや、待て。つまりもしかしたら、いつもの『だから春さんは駄目なんです』ってのも嘘…。」
「あ、それは本心です。」
「そこだけ肯定すんなよ!しかも食い気味でくんなよ!」
春家の悲痛な叫びをスルーして、幸衡だけがやけに真面目に納得していた。
「成程。毘沙門殿の嘘か、実に興味深い。今後に役立てさせていただこう。」
「何か分からないけど恐いから役立てないで。」
すっかり盛り上がってしまった時、仁美から小さなくしゃみが漏れた。
「ひぃさん大丈夫?寒い?」
晋が自分のマフラーを仁美のポンチョの襟の上から巻いてやると、毘沙門が春家に分配したジャムの袋を渡して言った。
「冬の屋外に長時間いるものではありませんね。風邪をひいてはいけません。帰りましょう。」
「ちょっ、道白!ジャムの量が尋常じゃねぇんだけど!」
「そうだな、我々は作戦で慣れているが、仁美殿には酷だろう。では、家の完成を楽しみにしている。」
「ちょっと、無視?俺こんなにジャム食ったら糖尿病になるって!」
「そうですね、皆さん、光のジャムの消費に協力してくださってありがとうございます。では俺もまだ仕事があるのでこれで。」
「千之も無視?いつの間に俺の扱い覚えたんだよ?」
「いえ、こちらこそありがとうございました。また連絡しますね。さ、行こうかひぃさん。」
「はい、では失礼いたしますわ。」
「…ちょっと…。」
それぞれが去って行き、春家がうなだれていると後方から毘沙門が声をかけた。
「春さん、早く帰りますよ。」
「は〜い。」
置いて行かれたと思っていた春家は嬉しそうに毘沙門の後を追いかけて行った。
地龍は一つの国のようなものだ。日本の裏側の、もう一つの日本。そこには既に別の法や秩序があり、生活がある。
地龍の目的は『昼』『夜』のバランスを守ること。故に揺らぎに関わる仕事は第一線。第一線で働く中でも討伐を行う武士や術者は花形だ。隊を率いるなどとなれば花形中の花形。しかし、それ以外にも多くの仕事がある。術力の弱いまたは無い人間でも出来る仕事だ。武器や調度品を管理したり造ったりする人もいるし、戦闘服を始め特殊な服を作る人もいる。経理や情報管理なんかの事務もあるし、家々に仕えるお手伝いさんやら乳母やらなんて職業も多い。地龍内は古い風習が風化しにくいが、徐々に女性の社会進出も進み多くの現場に女性が働いている。もちろん、家事をする、育児をする、などの職種が最も多い。けれど非戦闘員たる女性で最もエリートとされるのが、上級の武士が住む寮(とは名ばかりの最高級ホテル)のコンシェルジュの仕事である。イメージはとても華やかであり、実際の仕事内容には触れず多くの女性の憧れの職業だ。『昼』で言うならば客室乗務員のイメージが近いだろうか。
そして、最高峰の一つである鎌倉七口が多く住む鎌倉の寮に務める、熊谷小百合はそのエリートと言える。職業だけは。
生家は決して良いとは言えなかった。家名だけで人を判断する古い封建社会の地龍の中で、家名で苦労している者は多い。小百合もその一人だったが、現在は実力で良い職につけた。けれど、その職を一生涯続けるつもりはない。地龍の女性の最高のステータスは玉の輿だからだ。良い家の男をつかまえて結婚し、二度と家名に振り回されない人生を生きる。これが最大の目標だ。コンシェルジュの仕事に対する純粋な熱意は10%くらいで、残りはだいたい結婚相手を探す事だ。幸い、寮に住む者は皆出世した男ばかり。選び放題だ。もちろん、釣り合いの取れるよう女を磨いてきたつもりだ。
小百合の「良い男」の条件はいくつかあるが、一番は強いことだ。花形とは言え戦場の最前線であるが故、危険はつきもの。勿論強くなければなれない仕事だが、それでも危ない。折角良い男を捕まえて結婚しても殉職されて実家に帰されたのでは元も子もない。その後で他に良い男を探しても未亡人では相手に選んで貰えないかも知れない。とにかくそれは最悪のケースだ。強くて死なない人、何ならちょっとくらいズルくても良いから自分の命を優先出来る人。この最高峰の寮から選ぶのだから家名や名誉や権力などの立場はまず心配いらないはずだ。ならば条件は強い事。それが優先される。
「さゆ、兄貴に幸さん倒してって条件つけたんだって?鬼じゃね?」
「何がですか?」
休憩室で紅茶を飲んでいると、隣に座っている菊池陽菜が顔をしかめた。
「兄貴って恋愛とか超鈍感の奥手だから、断られたって事に気付かないで、めっちゃ鍛えてるよ?」
「いいえ。決して断り文句ではありませんよ。」
陽菜は寮に住む鎌倉七口の菊池実親の妹だ。小百合と同じく玉の輿を望んで全国行脚しているらしい。気の強さが顔から滲み出ているので、男の方からは簡単に寄って来ないだろうと小百合は思っていた。境遇や目的の一致から勝手にシンパシーを感じたのか陽菜は小百合に親し気に関わってくる。付き合ってみれば素直で可愛い所もあるので、今では数少ない友人として認識している。
「え?まさか本当に出来ると思ってる?」
「出来る…かどうかではありません。」
紅茶と残り物のスコーンの横には、賞味期限間近のジャムの瓶があった。
「へぇ。試してるんだ?」
「人を信じる事は、結局は自分の選択です。後悔したくありませんから、しっかりと人となりを見せて頂くつもりです。」
「…さゆって案外兄貴と似たとこあるね。」
「え?」
「人を信じるのは自己責任。兄貴が言ったんだって。」
「そうですか。」
「自分で決めた事だから、相手が自分の思っていた人と違っても、相手を責めるのは筋違いだってさ。確かにそうかも知れないけど、それって結構寂しいし、冷たいよね。信頼はお互いに通いあって成るものでしょう?全部自己完結してたら関係は成らないと思うけど。」
「…そうですね。でも、信頼も愛情も目には見えないものです。それを真とするならば、それを体現する別の何かを得ようとする。それは当然ではありませんか?」
「それが、努力する事なの?」
「いいえ。」
小百合はそれ以上は踏み込ませなかった。
陽菜はそんな小百合を面白そうに眺めていた。
幸衡は強敵だ。勝てないかも知れない。でも戦わなくてはならない。そうした時、武士ならば命を擲ってでも戦うだろう。しかし、小百合の望みは夫となる者が生き残る事。生きるための強さを持っていることだ。実親にそれがあるのか、小百合はそれが知りたいのだ。
菊池陽菜にとって小百合の恋愛は複雑だ。
玉の輿狙いの同士としては上手くいって欲しい。けれど、相手が兄となると思うところは色々とある。菊池家は決して玉の輿とは言えない家だ。実親に嫁ぐという事は、実親自身の努力で勝ち取った今の地位、一代で築いたものに乗るということ。どう転がるかは全く未知数だ。上手くすれば実親の代から始まって何代か先には結構良い位の家になるかも知れない。けれど望みは薄い。血が薄いからだ。菊池家も熊谷家も血が薄いから術力の高い者が生まれない。潜在能力が低い事から努力しても功績がなく、故に身分が向上しないのだ。どこかで濃い血を入れたいと思うのが普通だ。実親と小百合では遺伝子的に身分の向上する可能性は低いと言える。一般論だが。玉の輿としては、実親はあまり良い物件ではない。
友達としては、恋愛話は非常に楽しい。相手が兄でも、だ。うきうきするような恋をして、成就して、幸せになってもらいたい。
妹としても同じだ。実親は妹から見ても相当につまらない男だが、真面目さだけは保障できる。頑固で強情で石頭で堅物で、類義語をどれだけ並べても飽き足らない程の岩のような意志があるが、それは長所だと思う。そういう所を理解してくれる人が一緒にいてくれたら良いと結構本気で思うのだ。
精神論だが。そんな愛だの夢だのという目に見えない精神論が現実をどれだけ幸福にするかは疑問だ。陽菜のような泥水を飲んで来た中級武士の出身者は結構現実主義なのだ。それでもまぁ、人並みに理想を抱く位は許されるはずだと思う。白い家、夫と子供、小さな庭には犬、笑顔の溢れる家庭。想像すると虚しいのでなるべくしない。
とにかく、小百合の恋愛は友達としては応援するが、同士としては何とも言い難い。
「でもそれって、自分にも言えるんだよな〜。」
陽菜が実親の家でくつろいでいると、風呂上りの実親が訝しげな顔で見て来た。
「何だよ、兄貴。ジロジロ見てんじゃねぇよ。」
「俺の部屋だし。見られたくないなら来るなよ。」
ごもっとも。実親の部屋は最高級ホテル並みだ。陽菜はすっかり入り浸っている。
「男のくせに風呂が長いんだっつーの。何か良い匂いだしさぁ、風呂でアロマとか読書とか、マジできもいんだけど。何なの?女子なの?」
「うるせぇな。仕事でストレスたまるんだよ!俺がどんな方法でリラックスしようが勝手だろうが!お前の方こそ、俺が精神を落ちつけようとヒーリング系の音楽流した隣で、大音量でパンク流すなっての!」
「私だってストレスたまるんだっての。思いっきりノった方が発散できるんだって。兄貴もやってみれば分かるよ。」
「俺はいいわ。帰ってまで体力使う意味が分からん。ともかく風呂空いたから、入れよ。」
家主である事を尊重して風呂は後から入ることにしている陽菜は、長時間待たされて毎回後悔する。けれど風呂の順番の一点を除いては何も敬意を示してはいないので我慢するのだ。それだけこの部屋は素晴らしい。
「は〜い。」
陽菜が風呂場へ行こうとすると、実親があることに気がついた。
「おい、ジャムまだ残ってんじゃん。配ってくれるって言ってなかったか?」
テーブルの上にジャムの瓶が三つ積んであった。幸衡から押し付けられたが処理し切れずに陽菜に処分を頼んだのだが。文句を言いつつ見ると、別の事にも気が付いた。
「陽菜、この鍵どこの?」
テーブルに置きっぱなしの鍵の束の中に、見なれない鍵があったのだ。実家の鍵、バイクの鍵、実親の部屋の鍵、どこかのロッカーの鍵、何かの金庫の鍵、自転車の鍵らしきもの、陽菜は昔から大量の鍵を持ち歩いているが、その中に一つ。結構既視感があった。
「あぁ…それ、直嗣さんがくれた。」
「…え?」
道理で見憶えがあるはずだ。同じ寮の別室に住む直嗣の鍵ならば実親の部屋の鍵に似ていて当然だ。
「って、え?どういうこと?」
実親が陽菜を呼び止めると、陽菜は早く風呂へ入りたそうに言った。
「だから、直嗣さんが信頼の証に持ってて欲しいって言うから。」
「信頼の証に家の鍵って何なの?つかどういう事なの?ってか何?つきあってんの?」
「付き合っては…多分ない。」
「多分って何?お前が最近やたらウチに来るのって直に会うためだったの?」
「違うし、それは純粋にここのセレブ生活が最高だからだし!兄貴がいつ今の地位を失うか分からないから今の内に堪能しとかなきゃと思ってだし!」
「恐い事言うなよ!女って恐過ぎだろ!」
実親の追及を無視して風呂場へ行ってしまった陽菜を追う訳にもいかず、呆然と鍵を見つめた。
「信頼の証に鍵って…どういう価値観なんだよ?付き合ってないのに家の鍵渡すなんて、俺がやったら通報されるレベルなんじゃ…。」
実親のつぶやきは部屋に虚しく響いた。
窓の外の冬空が、ますます虚しさを助長した。
夜のニュースも終わり、テレビを消した時だ。インターホンが鳴った。こんな時間に訪ねてくる相手に心当たりが無く、そっと扉を開けると、そこには陽菜が立っていた。
「直嗣さん、こんばんは。」
「陽菜ちゃん!どうしたの?」
直嗣はびっくりして自分の声とは思えない高いトーンの声を出してしまった。その残響が長い廊下にハウリングしてやたら恥ずかしくなり我に帰った。
「ジャム、食べる?」
陽菜の手にはコンビニのビニール袋に入れられたジャムの瓶が三つあった。
「兄貴がどっかから貰ったんだって。食べきれないからって、それで…。」
千之助が配った光胤のジャムは、巡り巡って今は陽菜の手にあった。実親が処分を陽菜に依頼し、小百合に渡したが、それでも残ってしまっていたのだ。風呂から出ると実親がいつまでもジャムと鍵の処遇についてねちねちと言って来るので、仕方なく遅い時間にも関わらず直嗣を訪ねる事となったのだ。
「陽菜ちゃん、もしかして、お風呂あがり?」
陽菜の短い髪はまだ濡れていた。
「え、あ、うん。」
「駄目だよ、お風呂上りに外出したら。冬なんだから。あがって。あったかい飲み物でも入れるから。」
直嗣は湯冷めを注意したが、男一人の部屋に招いている事には注意を払わなかった。陽菜は戸惑いながら苦笑いをして直嗣の後に着いて行った。
「直嗣さんて、部屋着もジャージなんだ。うける。」
「え?変かな?」
お湯を沸かしながら訊くと、陽菜は首をふって笑った。
「ねぇ、紅茶が良い。ある?」
「紅茶?多分あるよ。紅茶が好きなの?」
「ううん。ジャムあるから。入れようと思って。」
ビニール袋からジャムの瓶を取り出す陽菜に、直嗣は感心したように言った。
「紅茶にジャム入れるの?おしゃれだね。イギリス人みたい。」
「何それ、うけるし。」
面白そうに笑う陽菜の前に、淹れたての紅茶とスプーンを置くと、直嗣は正面に座った。
しばらく二人は黙ったまま紅茶を飲んでいた。
それから、陽菜がぽつりと言った。
「あの鍵さ、兄貴が気付いた。」
「そっか。」
「付き合ってるのかって。付き合ってなかったら鍵を貰うのはおかしいって言われた。」
「親さんらしいね。」
「直嗣さんが鍵を信頼の証って言ったのはさ、部屋には信頼した人しか入れないって事なの?」
「同じ家の鍵を持つのって、家族しかいないと思ったんだ。僕にとって家族は無償の信頼と愛情が当たり前に成り立つ関係だから。信じるのに覚悟も決心も責任も無くて良い存在だって思ったんだ。それを陽菜ちゃんに渡すって事は、僕が陽菜ちゃんにとってそういう特別で当然な人になりたいって事。だから渡した。」
「私が、直嗣さんの思うような人じゃなくても?」
人を信じるのは自己責任。そう実親が言ったのは、他者と自己の間にどうしたって認識の差が生まれるからだ。そんな人だと思わなかったなんて身勝手な落胆でお互いに傷付くのは間違っていると言っているのだ。
「家族は、もし自分の知らない一面を知ったとしても、それで落胆したりしないよ。別に理想を抱いたり期待したりして付き合うわけじゃないでしょ。いてくれる事が大切なんだ。」
「私は、直嗣さんにとって家族なの?」
「陽菜ちゃんが嫌なら諦める。それでも僕にとって陽菜ちゃんは特別な存在である事に変わりはないけど。」
紅茶の鮮やかに色がやけに目に飛び込んできて、陽菜は少し息を吐いた。
「どうして?」
初めて会った時、直嗣は陽菜に特段魅かれていなかったと思った。その後も。ならばどこにきっかけがあっただろうか。陽菜は覚えがない。
「あの日、畠山の領地で会ったでしょう。あの時僕は凄く寂しかったんだよ。優しさも、信頼も、信念も、選択肢は無数にあって、人はどれ程でもすれ違って、僕はそういう事を突きつけられてしまったんだ。」
あの時の直嗣は畠山重忠の内定調査の任務を請け負っていた。そして結果は黒に近いものだった。けれど本人と直接話してみて、それは畠山重忠なりの理由と覚悟があるのだと感じたのだ。弁天が優しさを貫くように、実親が成り上がる事に邁進するように、誰もが何かを軸に目標に向かって歩いている。それはもしかしたら他の何かを犠牲にしてしまうようなものなのかも知れない。それでも行く。だからすれ違い続ける。それはもうどうしようもない事なのだ。その事は直嗣にとっては、とても寂しく、孤独を感じる事だった。
「そんな時、君が現れた。あの時君は、どうして頑張れるのって訊いた。そして君は僕を臆病だと言った。僕はその通りだと思った。君が教えてくれたんだ。」
「そんなの、大事なことじゃないじゃん。」
当然の事、思った事をただ口にしただけの事だ。
「そんな事ない。陽菜ちゃんは僕の弱いところを見つけてくれる。僕はずっと不安なままだから、それは結構安心するんだよ。」
「何それ、とんだMじゃん。」
「あはは、そうかも。でも僕はどんなに臆病者の弱虫でも、頑張らなきゃいけないんだ。」
「優しさも、信頼も、信念も、選択肢は無数にあって…直嗣さんは頑張る事を選んだんだね。」
「僕に選択肢なんか無いよ。そうするしかないんだ。」
直嗣が胸のあたりを掴んだ。今までにも何度かその仕草をする事があった。陽菜はその手に握られた何かを見て、決意だろうかと思った。その手を握ってあげたい、衝動的に思う事もあった。けれどいつもその何かを強く握っている手をじっと見つめるだけなのだ。
結局陽菜は鍵の事を明確には出来なかった。実親に言われて訊いただけで、元よりそうする気はそれ程無かったのだ。それがプロポーズを意味するのか明確にしたいならば、始めから黙って受け取ったりはしない。直嗣は陽菜の信頼を求めて来た。だから鍵はその証なのだろうと思った。一般的な意味ではなく、もっと深い精神的なニュアンスがあって、言葉には出来ない想いなのだろうと察せられた。
陽菜には分かり始めていた。直嗣には何か大きなものが重く圧し掛かっている事が。それに触れたら、もう後戻りは出来ないだろう事が。
11




