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35 非凡の事

 北条家の夕餉に家族が揃うのはどれくらいぶりだろうか。春家(はるいえ)、さやか、(はる)(ふみ)(はる)(すみ)(はる)(おみ)が同じテーブルで食事をするのは。皆で談笑しつつ和やかに食事をしていると、春文は嬉しそうに声をあげた。

 「聴いて!俺、今日直さんに班長任された!」

 「え?」

 「まぁ凄いわ。立派ね。御祝しないとね。」

さやかの歓喜の声が部屋を明るくしたが、春文の隣で唖然としている春純の表情が徐々に曇っていくのを、春家は視界の隅で捕えていた。

 「そうだな。めでたいめでたい!春文、それはいつの事だ?」

 「義将(よしまさ)さんの後任だから、春以降かな?」

 「そうなの。じゃあそれまでにしっかり勉強しなくちゃね。北条家嫡男として恥じないようきっちりとお勤めするのよ。」

 「はい。」

さやかの言った「北条家嫡男」と言う言葉に敏感に反応した春純が肩を震わせた。

 「よしよし、分かった!」

勝手に盛り上がるさやかより大きな声で春家は言った。

 「んじゃめでたいついでに、春臣、お前の東京行きの推薦状書いてやる!」

 「え?本当?」

期待いっぱいに訊き返す春臣を遮ってさやかが声を荒げた。

 「えっ、ちょっと何を勝手に。殿、分かっているんですか?和田家は北条家の直系が仕えるような家ではありません。それに春臣はまだ子供、東京なんて…」

 「もう、決めたことだ。」

いつになくぴしゃりと言う春家に、さやかは口を噤んだ。家長の言う事は絶対だ。

 「やったぁ!お父さん、ありがとう!」

 「周りは色々言うだろうがお前の決めた事だ。自分で解決しろよ。北条家の者として自覚を持って務めるように。これは遊びじゃない。簡単に辞められないんだからな。お前が義将を主に選んだんだ。行くからには一生仕える覚悟をしろ。」

 「はい!」

春臣は少し顔を赤らめて興奮気味に背筋を伸ばして返事をした。

 「で、春純。」

事態に取り残されていた春純が顔を上げると、春家はいつも通りの自然な笑顔で言った。

 「お前、京都に行くか?」

 「え…?京…都?」

 「ああ。六波羅探題は代々北条家の仕事だ。あっちには叔父さんもいるし行くなら話通しておいてやる。」

 「殿…どうして急に京都などと…。」

さやかが狼狽していた。

 「京都は都会だから揺らぎが多い。それに古い都だから『夜』も妖怪や神様が多くて面白い。きっと色々勉強になる。『昼』『夜』のバランスを守ることの意味、春純なりに分かるかも知れない。」

 「守ることの意味?」

 「誰かに勝ちたい、負けたくない、そういうのは大事だ。でも勝敗が決した後はどうする?勝ても負けても春純は春純だろ。一回離れて、広い世界を見て考えな。」

 「何をおっしゃっているんですか?」

さやかが苦言を呈そうとしたが、春純が遮った。

 「俺、行く。行きたい。」

 「春純の場合はただの留学みたいなもんだ。嫌になったらすぐ帰ってくればいい。叔父さんにわがまま言って迷惑かけるなよ。俺が面倒だ。」

 「はい!」

曇りがちだった表情が打って変わって晴れやかに、しかも何かを成そうという男の表情になっていた。さやかは息を飲んだ。

 「それから、これは条件だけど。」

春家は追加した。「条件」という言葉にドキリとした。さやかは睨むように春家を見ていた。

 「毎日さやかに連絡する事。万が一欠かしてみろ、一日目には飯が喉を通らなくなり、三日目には胃に穴が空き、五日目には入院だ。一週間後にはICUかもなぁ。良いか、これは連帯責任だからな。誰か一人が欠かしたら全員立場を返上して帰って貰う。無期自宅謹慎ってとこかなぁ。」

 「ちょっと、俺も?」

直嗣に班長の任をまかされた春文は今後も実家に残るのでさやかへ毎日連絡する必要がない。けれど何故か連帯責任だと春家は言う。

 「もちろん。春文は精々二人が連絡を欠かさないように願う事だな。」

春文は鋭い視線で二人を見た。二人はどこ吹く風だった。春文は不満そうにしていたが、これで春文が毎日二人に定期連絡を欠かしていないか確認をするはずだ。三人が離れても、音信不通の疎遠になることは回避された。春家は三人の関係を面白そうに眺めていたが、さやかはその横顔を更に刺すような目で睨んでいた。



子供たちが去った食卓で、息を潜めていたさやかがようやく口を開いた。

 「殿、どうしてあんなことおっしゃったのです?」

 「どうしてって、それが一番良いと思ったからだけど?」

あっさりと言う春家に、とうとうさやかの怒りが抑えきれなくなった。

 「勝手すぎます!いつもいつも唐突に、身勝手に決めて、こっちの気も知らないで。あの子たちの事だって、今まで全然関わって来なかったくせに、たまに口を出したと思ったら…あんな重要な事。あの子たちを育てたのは私なのに…。」

 「それがお前の仕事だろ。」

さらりと簡単に言ってくれる。『昼』の社会の変化に伴って地龍の家族の在り方も多様化してはいる。けれど基本は変わらない。封建社会だからだ。一部の例外を除いて女性の生き方と男性の生き方は違う。女は武家の妻となれば子を産み育てる事が役目だし、男は武士としての勤めに邁進するものだ。家を守り、組織を支える。それが在り方。

 「っ…そうですけど…そうですけどっ!」

 「子育てに参加出来ないのも俺は仕事があるからだ。それに北条家がこういう家だって事、お前は分かった上で嫁いできたはずじゃねぇの?それを今更くだくだと…。」

中でも北条は名門。特に古い風習や価値観が息づいている。

 「ぐだぐだ?…ぐだぐだ言って悪かったわよ!でもそう思うんだもの仕方ないじゃない!春臣はまだ子供よ!今はその場の気分で物を言っているにすぎないわ。将来を左右する重大な決断をするにはまだ早すぎる。それが和田家だなんて。どうせ行くならもっと良い家を私が用意するのに!春純の事だってそう!春文が班長になったんだもの、そのまま続けていれば春純だって任命されたはずだわ!それをみすみす棒にふって京都ですって?広い世界だなんてそれらしい事言って、次男を厄介払いしたんじゃないでしょうね!」

さやかの怒声が響いた。春家がいない間は静かなものだが、二人揃えばしょっちゅうだ。使用人はもちろん、子供たちも、離れた家屋にいる両親すら「また始まった」と思っているのだ。こうなっては春家も我慢ならない。元々我慢はきなかい質だが。

 「お前はいつもいつも、よくそんなに歪んだ見方が出来るよなぁ?そんなに俺の事が嫌いかよ!」

 「大っ嫌いよ!」

 「知ってるよ!相変わらず可愛くねぇ女だな!性格ブス!」

 「殿の方こそ、昼行燈じゃない!のらりくらりと人を化かしたような事ばっかり!いつか往来で刺されても知らないから!」

一番刺したいのはさやかだろうと思ったが、この日の春家はぐっとおさえた。

 「春臣は、三男だ。」

 「…何を当たり前のこと…。」

唐突に抑えた口調で言いだした春家を、さやかは怪訝に見た。

 「武士の三男ってのは継ぐ家もないし、どうしたって将来の身の振り方を選択しなくちゃならない。どっかに養子に出すとか、自分で身を立てるとか、誰かに仕えるとか、とにかく一生家にいる訳にいかないだろ。それを一番分かってるのは春臣自身だよ。訊けば和田義将の人柄に惚れ込んで決めたらしい。面倒見も良いらしいから今はまだ荒削りだけど立派に育ててくれるだろうよ。家柄や血統はともかく、武士が主をこの人と見込んで決めたんだ。それは一生命を賭してお仕えするって意味だよ。春臣はその主を義将と決めた。あとは春臣次第だ。」

 「そんなの…。」

いつになく理路整然と意志を述べる春家に、さやかは反論できなかった。

 「春純は、春文に捕われすぎだな。」

 「え?」

 「対抗し過ぎて肩に力入り過ぎ。本来の力の半分も出せてない。あれじゃあ自滅する。」

 「そんな…。」

自滅。恐ろしい事を告げられさやかは目を見開いた。春家は続けた。

 「さやは嫡男である春文が俺の後継ぎだって言ってるらしいけど、双子だしどっちでも良いんじゃねぇかって俺は思う。でも、それは強い方じゃない。良い当主がただ強い奴じゃないって事分かってる方だな。」

先程の春家の言葉が思い返された。『昼』『夜』のバランスを守ることの意味が分かるかも知れないと言った。けれどそんな事はさやかも、地龍中が分かり切っている事だ。地龍の役割だと。

 「『昼』と『夜』のバランスを守る事の意味、ですか?でも私だって地龍のお役目はよくよく教えてきました。先代から受け継いだものをしっかり継承してお家を守る事が肝要であると。」

さやかの教えは尤もだ。長く続いて来たものを継ぐのだ。そして自分もまた次へ継承するのだ。自覚をもって努めなければならない。けれど春家は首をふった。

 「そりゃ古い歴史を継承する事は大事だ。でもただの中継ぎ役なんざ凡百のそれだろ。自分を積み重ねて次へ渡す。今までに無い新しい誰よりも優れた自分を遺す。北条家が古くからトップクラスなのは継承して来たからじゃねぇ。進化してきたからだ。新しい時代の自己を確立させろ、一歩先へ進んだ概念を生み出せ、常識を塗り替えろ。そうでなけりゃ最前線は走れねぇ。」

春家のギラギラとした目がさやかを見ていた。さやかの見たことのない春家の野心の光。飄々とした信用ならない夫ではなく、大望を抱く武人のそれ。

 「さっきさやが言った通り、子供たちはさやが育てた。その通りだ。だからこそ、今あれだけ立派に育った。俺の一言で多くを理解する。一を言って十を解する非凡さは、持って生まれたものじゃない。さやが育んだものだろう。俺が突然やってきて勝手に決めるって言ったけど、俺が出来るのは選択肢を与える事だろ。俺のあらゆる力で、道を与えてやるつもりだよ。子供たちが行きたいって言うならどこへだって行かせてやる。やりたいって言うなら何だってやらせる。さやに出来ない事を俺がする。それが俺のやり方だ。」

春家の本心なのだろうか、さやかにも熱が伝わってきた。今まで決して考えをさやかに吐露する事はなかった。さやかがどれだけ口喧しく言っても、かわしたり、問題をすり替えたりするばかりで口論が絶えなかった。けれど、初めて春家の芯の部分に触れた気がした。

 「何ですか、急に真面目に語りだして。馬鹿じゃないですか。」

さやかは返す言葉も態度も見つからず、ついいつものように憎まれ口を叩いてしまった。けれどそこには戸惑いや、納得があって、怒りは表現できなかった。

 「馬鹿とは何だよ。本当に可愛くねぇ女だな。」

 「可愛くなくて結構です。馬鹿殿の妻が可愛いのでは釣り合いというものが取れませんから。」

 「うるせぇ性格ブス。外見は人より美人だよ、自覚しろ。イヤミな女!」

 「あらそれは残念、それでは馬鹿面の殿が滑稽で惨めでしたね。今後は顔を隠して並びます。」

 「あー言えばこー言うな!黙れよ!」

詰め寄る春家の頬に、さやかの細い指が触れた。

 「あら、女一人黙らせられないとは、たいした御方ではありませんこと。」

春家はさやかの手を強引に掴み引き寄せた勢いで唇を重ねた。

 「馬鹿な上に獣とは、とんだ御方に嫁いでしまいましたわ。」

 「今更後悔しても遅い。」

 「後悔などいたしませんわ。自分で決めた道ですもの。あとは自分次第です。」

さやかの凛とした雰囲気が、少し柔らかく緩み、優しい笑みがこぼれた。

近所迷惑な夫婦喧嘩が収まったと見え、家の者達は皆肩を撫で下ろした。



 北条三兄弟の今後の身の振り方が明らかになってからというもの、(もり)(みち)の気分は晴れなかった。友であり一生及ばないながらライバルである春臣が和田家へ出仕するというのはあまりに衝撃的だった。あれだけ優れた人が下位の家に仕えるとは。

 既に一部で噂の的となっている。何かやらかして絶縁されたのではないか、とか、三男は優秀ではなかったから捨てられたのではないか、とか、和田家と何かあり人質ではないか、とか。憶測が憶測を呼んで事実から遠ざかっていた。

 盛道が思う春臣は常に晴れがましい舞台で活躍し続ける人だ。自分はそれを眺めているだけで、届かぬ悔しさと、目指す憧れと、友としての誇らしさを抱きながらも、ずっとそういう関係なのだと思っていた。負の感情に任せて嫌いだと思えば自己嫌悪に陥り、理性によって好意を肯定すれば息苦しくなる。どこにも感情の置き場所のないままで、ずっと側にいる友だと思っていたのに。まさか地方武士の部隊へ入隊してしまうとは。今後は偶然にも会う事はないかも知れない。

 純粋な寂しさと、葛藤を遠ざけられる安堵と、何も解決していないままの空虚さが胸を占めていた。

 「つまらない。」

 あの日「つまらない」と揶揄されてから考えてみると、以前からよく言われる言葉ではあった。正論を言うと「つまらない」と返された。あの日やけに胸に刺さったのは、武士としての能力が劣っている事、春臣に置いて行かれてしまう事の焦燥感を刺激したのかも知れない。

 「おや、毘沙門殿の御子息では?」

肩を落として歩く中学生に声をかけたのは、買い物帰りの藤原幸衡(ゆきひら)とその妻あきらだった。スーパーの袋から食材が透けて見えたが献立は推察出来そうになかった。それにそれは無粋、非常識だ。

 「こんにちは、幸衡さんあきらさん。」

 「こんにちは☆学校の帰りかい?良いね、学ラン。昔懐かしいよ。幸くんはブレザーだったけど、学ランも捨てがたいよねぇ。白と黒のコントラストが幸くんの美しさを更に際立たせるよねぇ。うんうん。」

 「今日も元気ですね、あきらさんは。」

あきらのテンションに気圧されながら言う盛道は明らかに気落ちしている。幸衡はその事に気をとめずに言った。

 「北条春家殿の御子息が東京の和田家へ行くことになったと聴く。君の友人だったな。」

 「はい。昔から優秀でした。いつも皆がびっくりするような事をするんです。今回の事は今までで一番びっくりしました。」

 「確かに、意外性抜群だが、和田義将殿を知る者からすれば得心が行く。彼の人柄は魅力だ。」

 「確かに〜!守ってあげたいって感じ?あきらは幸くんに守られたい!」

幸衡はあきらがぶんぶんとふりまわしているスーパーの袋が破けないか心配そうに見ていた。

 「そうなんですか。それ程の方でしたか。そうですよね。春臣さんが慕って追いかけるくらいの方ですから、当然ですね。」

 「人を見る目においても、さすが北条家と言ったところだ。」

また北条家の肯定。いつもいつもいつもいつも、隣に盛道がいるというのに、周囲はいつも春臣を賞賛した。そして盛道自身もまたそれに同調する道化のような有様。何て惨め。

 「それに比べて僕はつまらないんです。」

 「つまらない?」

唐突に心の声が漏れてしまった。幸衡が訊き返して初めてその事に気が付き、慌てて訂正しようとした。

 「いえ、すみません。いいんです。忘れてください。」

必死で否定したが、一度生まれた言葉はもう取り返しがつかなかった。

 「それは、正義とは何か、と言う問いと同義だ。」

幸衡は答えたが、盛道はその答えの難解さに息を飲んだ。

 「人は合法非合法と言った明確な規範以外に概念を共有する事は不可能だ。つまり、一つの事象に於いて見ても、人の数だけ考えは違う。まして正義、愛、興などは特に抽象的であり複雑な概念だ。人間の感情というものは一因によって成されるのではない故、多角的に捉える必要もあるが、他人のそれを理解し掌握する事は最も困難な分野だろう。自身に於けるそれですら自己分析し制御出来ている者は少ないと考える。故に君がつまらない人間かどうか、という問いにはまず、それを君に思わせた相手の意図から紐解く必要があると言う事だ。」

幸衡が淀みなく持論を展開させる事に驚き、内容がよく頭に入って来ない。盛道は口をパクパクさせながら、「分かっただろう」と言わんばかりの幸衡の表情に答える言葉を探していた。

 「んも〜、幸くんてば、盛りんがびっくりしてるじゃないか!つまり、盛りんが面白いかつまらないかって言うのは、人による!って事だね!」

 「盛りん…。」

間抜けなあだ名が意表を突き過ぎて聞き逃しそうになったが、当たり前の事を返されただけだった。そんな事をあれだけ小難しそうにつらつらと唱えるなんて、なんて恐ろしい男なんだ、藤原幸衡。と思ってしまった。

 「では、父はどうですか?幸衡さんは、父の事をどう思いますか?」

 「そうだな…。常識人。」

幸衡が思案しながら最初に紡いだ言葉は、盛道にとっては「つまらない」と同義語に聴こえた。

 毘沙門は常識を重んじる。そのルールを決して破る事はなく、自分にも他人にも厳しい。盛道を同じく常識人として育てる事を一番に掲げており、幼きより耳にたこが出来る程言いきかされてきた。もし、盛道が「つまらない」のだとしたら、それを製造した毘沙門もまた同じなのではないかと思うのだ。

 実際盛道は毘沙門をよく知らない。伯父である弁天が亡くなってから次期当主そして鎌倉七口を任されたが、それまでは地味な役職だった。自身の役割は安達家の後継ぎとして相応しいよう盛道を育てる事だと言っていた。毘沙門自身には何もないような口ぶりだった。剣術を始めとした戦闘力も、政治的采配も、仕事において優れていると聴いた事は無かった。ただいつも穏やかで微笑をたたえ、感情を揺らさない、平静な人だ。特筆した所のない、地味で、真面目だけが取り柄の、平凡な、常識人。それが盛道から見た毘沙門で、それは「つまらない」大人かも知れないと思った。

 想いをめぐらせている盛道をよそに、幸衡は思考の末の言葉を続けた。

 「異常な程に常識人だ。」

 「それは常識的なの異常なの?」

あきらが首を傾げると、幸衡も首を傾げた。

 「分からぬ。だがそうなのだ。不思議な御人だ。毘沙門殿程尻尾を掴ませぬ人もおるまい。平平凡凡としたどこにでもいる男の顔をして、平気で腹芸を仕込んでいる。侮れぬ事だ。」

 「幸くんをして侮れぬとは、凄い人なんだね!」

盛道は話の風向きが変ったのに呆然とした。普通の男の顔をして、謀りごとを企むと言うのは意外過ぎた。息子の自分ですらただの普通の平凡なよくいる男だと思っていたのだ。

 「先ほど、正義とは何か、と言ったが、毘沙門殿と私の正義は全く性質を異にしている。私は大きな野望を抱きそれを成さん事こそを是とするが、毘沙門殿はあるものを守り通す事を是としている。本来二つは相容れぬもの。変革を齎さんとする私と、保守的な毘沙門殿。しかし、保守というのもまた戦いではある。変化は必然、時の流れに逆らう事になろう。その中でどのように守って行くかというのはある意味でとても困難なのだ。勝ち過ぎず、負けず、全ては繊細な采配が要る事。凡俗には不可能な事だ。私はその事に気が付くまでに時間がかかってしまった。そしてそれまでの間、毘沙門殿に寸分の価値も見出してはいなかった。」

 「つまり、ある意味では現状維持は挑戦より難しいって事かい?」

 「まさしく。そしてまた、自身を無価値で取るに足らぬと思わせる事こそが、毘沙門殿の武器だ。故に侮れぬ。そして君は知らぬようだが、その武器をして手に入れた人脈というものはもっと侮れぬ。それは最早地龍中に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなものだ。もし毘沙門殿が一度謀反を企てたなら地龍は一晩にしてひっくり返る…やも知れぬな。」

 「成程、それ程の人脈は利害関係だけじゃ成立しないだろうね!やはり人格者は人望も厚い訳だ!その政治手腕に惚れているって訳かい。幸くんは戦闘より頭脳を買うタイプだからね!」

人脈、人望、毘沙門の知られざる部分を、盛道はうまく整理できないで聴いていた。

 「あ、でも毘沙門殿だって別に弱くはないんだろう?七口リーダーな訳だし。」

 「まぁ。自身の腕無くして人を従える事は出来まい。だが、果たしてどれ程のものかは疑わしい。それもいずれ知れる事。武術大会には強制参加なのだからな。」

 「え、父は武術大会に出場するのですか?」

 「うん、七口は強制参加なんだって!楽しみだね!」

 「そうなんですか…。」

そういった話しを毘沙門は家族にしない。いつも家族の事ばかり話して自分の話はしない。仮に訊いたとしてもあまり具体的に話してはくれない。盛道は毘沙門の平静な顔を仮面だと知り、その中身を覗く事に興味と恐怖を抱いた。

 「毘沙門殿はその頭脳を買われて現職を得たのだ。戦闘においては期待せぬ事だ。万が一勝ち残った所で、私が下すのだからな。」

不敵に薄く笑う幸衡の容赦のない言葉に盛道は息を飲んだ。

 「あっは〜!子供相手に大人気ない!ここはお父さん活躍すると良いね☆って言ってあげる所だよ!でもそんな空気の読めない幸くんも好き!」

あきらが降り切ったテンションで幸衡にまとわりつくのを見て、世の中にはいろんな夫婦がいるなと思った。盛道は自宅で両親の親としての顔以外の顔を見たことがない。常に平静な、穏やかな、常識的な空間。それが当たり前だと思っていた。

 だから、憧れた。北条春臣の非凡さと非常識さ。盛道にはないもの。突飛で突出していて唐突で、格好良い。

 けれどどうだろうか、もし盛道が思っていた常識が、「異常」だとしたら。それはもう常識ではないのではないか。異常に常識過ぎる事が盛道を形成した基盤ならば、盛道は普通ではないのではないか。その事に、今の今まで自分自身ですら気がついていなかった。自分自身さえも騙されていた。常識の仮面に、騙されていた。

 「いえ、そうかも知れません。父は、そんなに強くないのかも知れません。」

 「盛りん…幸くんが、何か、ごめんよ。」

 「でも、それが、父の武器なんですね。」

盛道が幸衡をまっすぐに見た。

 「そうだな。目立たず、平凡な男だと思わせる事。それが最大の武器だ。」

 「ありがとうございます。」

盛道は深々とお辞儀をした。それから丁寧に挨拶をして去ろうとした。去り際に思い出したように訊いた。

 「幸衡さん、父は、幸衡さんから見て面白いですか?」

 「とても。」

盛道はその言葉を聞いて嬉しそうに微笑んで去って行った。

その少年の後ろ姿を見送りながら、あきらは言った。

 「いつまでも目立たなくて平凡な人じゃいられないよ。戦は近い。分かっているだろ?」

 「愚問を。今の地龍には毘沙門殿が必要だ。」

 「そう言ってあげればもっと喜んだかもね☆」

 「他者に価値を与えるのは己れの役割。他の価値観に揺らいでいる内は子供だ。」

 「実際子供だよ!あはは!幸くん子供の相手向いてないね!」

幸衡が大笑いするあきらを横目で見ながらため息をついた。

 「子供はあきに任せる。」

 「イエッサー!任された!」

常用スペックの振り切ったテンションで飛び跳ねるあきらは今日も楽しそうだ。

 「人は派手な見た目に目を引くものだ。北条家の近くにいる事もまた、安達家の策やも知れぬな。」

やることなすこといちいち派手なのが北条家の特徴だ。優れたる事を見せつける事で権威を主張する。しかしその横で北条家に負けず古くからの名家である安達家が静かに佇んでいる事を、一見して見落としがちだ。皆が北条家に注目している間、安達は音もなく事を成す。正反対の二つだからこそ、そうなったのかも知れない。

 「つまり、安達家は敵にまわしちゃダメって事だね!」

 「良くできました。」

幸衡の優美な笑みがあきらの心拍数を極限まで高めるかのように、あきらはぴょんぴょん飛びはね「褒められちゃったー!」と大騒ぎしていた。



 盛道が帰宅すると、毘沙門は玄関先で電話をしていた。帰宅した所に電話がかかってきたらしかった。

 「塀ですか。そうですね。晋一人ならばいざ知らず、女性が暮らすのですからセキュリティはしっかりした方が良いですよ。え、コンクリートか柵か垣根か、ですか?それはどうでしょうか。家の事ですから、プロに訊いた方が良いのではありませんか?」

毘沙門が電話を切ると、盛道に気が付いて微笑んだ。

 「おかえりなさい。」

 「ただいま。すごくプライベートな相談でしたね。」

 「ええ。頼って貰える事は嬉しい事です。」

毘沙門の返答に、盛道は一瞬言葉に詰まった。そして、意を決して切りだした。

 「ごめんなさい。僕はお父さんの事を誤解していました。」

長年毘沙門に対して思っていた不満を、直接言った事はなかった。故に敢えて謝罪する必要はない。けれど、しっかり告白し清算しておきたかった。勝手とは思いながらも、気持ちを告げた盛道は頭を下げてからまっすぐに毘沙門を見た。すると毘沙門は何故か頭を下げ返した。

 「そうでしたか。誤解と言うものの多くが、誤解される方にも原因があるものです。誤解を招いたのは俺の責任でしょう。すみませんでした。」

 「いえ、そんな…。」

まさかそんな理由で謝罪されるとは思わず戸惑っていると、毘沙門は続けた。

 「その誤解をどのように解いたにせよ、盛道は自らの力で解決できたのです。それは素晴らしい事ですよ。そして今後は、疑念が生まれた時はまず、その疑念を疑いなさい。」

 「え?」

 「心に一つ疑念が生まれると、人はその渦に取り込まれてしまいます。するとたちまち冷静さを欠き、客観的な目を失い、判断を誤ってしまいます。まず、自らを疑いなさい。そして情報を集め、客観的に判断なさい。たとえそれが如何に濃い疑念だったとしても、状況証拠が揃っていたとしても、決して他人に判断を任せてはいけません。自分で納得して決めたことでなければ、部下は命を預けてはくれません。周囲の信頼は得られません。」

 「はい。」

毘沙門の教えは、昔から理路整然とし過ぎていて教科書のように現実感がなかった。けれど、よくよく身に置き換え考えてみると、とても大切なことなのだと言う事が最近になりようやく理解できるようになってきた。

 「盛道、貴方も成長し幼い子供ではありません。自ら考え、行動しなくてはなりません。借り物の正義に責任が持てますか?それでは何の説得力もありません。」

言われた事をするだけの時間はもう終わるのだ。

 「お父さんの言う事に対しても鵜呑みにしてはならないという事でしょうか?」

 「もちろんです。これから盛道は自らの身でもって俺の教えを検証していく事になるでしょう。貴方は貴方の答えを見つけると良いです。我々名家の跡取りは皆、継承するという役割があります。世が穏やかならば中継ぎの歯車でしかありません。しかし何かあれば、変わらず守る事は途端に困難となりましょう。時代は常に我等に試練を課すでしょう。盛道は自身のやり方で、家を守ってみせなさい。」

盛道が当主として安達家を守る時、毘沙門はこの世にいないかも知れない。家を託すという事は、人生を託すという事だ。信頼がなくてはならない。盛道は、毘沙門の信頼を裏切らぬようにと心に言い聞かせた。

 「まずはお父さんの番ですけどね。」

 「胃が痛くなる事を言いますね。盛道と違って俺は当主になるなんて考えても無かったので大変なんですから。まったく。」

弁天が死に、弟の毘沙門が跡取りとなったが、まだ後を継いではいない。毘沙門は自分の代をすっとばして盛道を当主にして欲しいと意見したらしいが、通らなかったらしいと聴いた。盛道は思う、祖父は毘沙門の治める安達家を見たかったのではないかと。非常識な程に常識を重んじ、多くに慕われ、情報戦に長けた、見た目は冴えない普通の男でしかない、地味で穏やかな安達道白という男が作る家に、興味がないはずがない。盛道自身も楽しみなのだから。

 「僕、頑張ります。」

 「ええ、俺も頑張ります。」

優しい毘沙門の手が頭を撫でると、盛道はくすぐったくなり肩をすくめた。

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