31 継承の事
京都の夏は暑い。高い空や真白な積乱雲を睨みながら、宗季は胸中の不安を募らせていた。
「重盛様。」
茶屋で団子を食べている平家当主重盛を呼ぶと、視線だけで疑問を投げて来た。何故そう何でもなさそうにしているのだ。宗季は苛立ちを抑えて言った。
「おっしゃっている事の意味が分かりませんので、もう一度お願いします。」
「何や、宗季。お前とした事が聴き逃したんか?あかんで人が大事な話しとる時にぼんやりしとったら。」
「…いえ。ちゃんと聴いていました。だからこそ意味が分かりません。」
「せやから宗季、お前が俺の後を継いで平家当主になり、て言うたんや。」
重盛の口から出る言葉の羅列が、宗季の脳内で意味を解析するに至らない。未知の物質を解析出来ないと、エラー表示を続ける脳が働きを中断しようとしていた。
「俺は跡継ぎではありませんよ。それに直系の成盛様がおられるじゃありませんか。」
「成盛はもう還暦やで。それに直系連中は全員了承済みや。せやから宗季は成盛の養子になり。成盛も了解済みやで。」
「そんなの、父上は…。」
「そっちも根回し済みや。そもそも宗季を鎌倉七口に送り込む事を了承したんはその事があったからやで。あの岩みたいな親父が大事な息子を鎌倉なんぞにやるか?将来は平家当主にするつもりやって言うてようやく首を縦にふった言う訳や。」
「え?そんな前から?」
「せや。もっと言うなら俺はお前が子供の頃からそう決めとった。頭が良えとこ。型に拘るくせに、より優れとると見るやあっさり型を捨てるとこ。合理主義なのに大事なとこで心を蔑ろにせんとこ。潔くて、気前がええ。俺はお前が気に入ってん。せやから、俺が引退する時はお前に全権を委ねるよって、京都に帰ってきいや。」
「…本気ですか。」
「冗談に聴こえるか?」
「正直、そんな大事な話を、こんな町中の観光客だらけの茶屋で団子食いながら言われても、悪い冗談にしか思えません。」
「…これは内緒話やさかいな。」
「…極秘事項。」
「せやけど、決定事項や。肝に銘じとき。」
重盛の本気を確認すると、宗季は思いもよらぬ展開をようやく理解し始めた。眼鏡のフレームを触りながら冷静を保とうとしたが、指先が震えた。
「重盛様…。」
「なんや?」
宗季の指先の震えを見て、重盛は宗季の口から何が飛び出すかと身構えた。不満か苦情か、はたまた断り?見守られつつ宗季がようやく言った。
「いつもの、言ってもらってもいいですか。」
「何やそれ…。」
重盛は肩の力が抜けるのを感じた。
「宗季、気張りや。」
「…はい。」
腹が決まるのはまだ先だろうが、それでも状況を受け止めたらしい宗季がはっきりと返事をした。重盛は満足そうに微笑んだ。
「面会謝絶だって?」
夜勤明けの疲労を引きずった千之助が血相を変えて駆け寄ってきた。肩を上下させながら訊くと、宗季はそわそわと落ち着きなく動きながら言った。
「はい。兄さんに相談したい事があり、病室に行った所おらず…。病院の人に尋ねた所、面会謝絶で別の部屋へ移したと。」
「だって、元気そうだったのに…。」
入院してから随分経つが、光胤が何故退院出来ないのかはよく分からなかった。
「兄さんの容態については俺も知らないから、何とも言えない。ただ、急変して命に関わる状態だったとは考えにくい。実際怪我は治っていた。」
宗季が不安気に言うと、廊下の向こうから春家が駆けて来た。
「じゃあ、何だって急に面会謝絶?」
開口一番問う春家を二人が見た。答えを持つ者はいない。
「考えられる事は、二つ。」
しばらく黙っていた宗季が、少し冷静になったのか口を開いた。二本の指を立て示すと、春家と千之助がその指をじっと見て答えを待った。
「兄さんに何らかの容態が急変する要因があった事を我々が知らなかったパターン。もう一つは、兄さんはもうここにはいないパターン。」
宗季が徐々に声のトーンを落ち付かせて来たのを感じた春家が、後者が濃厚であると察した。
「いねぇってのは、面会謝絶はカモフラって事かよ?」
「光を入院していると見せかけておく必要があると?」
「後者ならば、おそらく重盛様の命令によるものだ。兄さんが重盛様の腹心の部下である事はかつてよりも知れた話だ。工作員としては顔や名が知れれば動きにくくなる。」
「だから入院している事にする?」
「おそらく。ここにいない事を隠すために、誰にも会わないようにしなければならない。」
「だからって面会謝絶って。」
千之助の不快そうな顔を見て、春家が肩をすくめた。
「そーゆーの、俺達に言わないって所が水くさいよな。」
「夜好会の件で反省していたと思ったのに、また一人で勝手に無茶しようって言うんじゃないだろうな。」
千之助が心配を口にすると、春家がその肩を軽く叩いた。
「それが光の仕事なんだろ。大丈夫。あいつは地龍で一番甘い奴だからな。甘いもん用意して待ってれば帰って来る。」
春家の他人事のような言い様は、周囲が心配しても仕方ないと言っていた。確かにそうだ。今までも、人知れず危険な敵の懐へ入り戦ってきた。それが光胤の戦い方なのだ。
三人は一息ついて自販機で飲み物を買って座った。
「宗季殿はどうして光に会いに?確か光に追い返されて鎌倉勤務に復帰したんじゃなかったんですか?」
千之助は友の弟として話すか、平家の上流武士として話すか迷ってから、結局敬語を選択した。
「そうだ。ただ、少し相談したい事があって…。」
平家当主への打診。まだ機密事項だが、兄に相談したかった。
「光に相談って、良い洋菓子屋を紹介しろとか?」
「わざわざそんな事のために京都まで戻らない。だいたい、兄が甘いもの以外に相談に乗れないような言い様…。」
「だってこないだ、上白糖と三温糖について力説してたぜ?こいつ本当に甘いものの事しか考えてねぇんだなって、呆れたわ。」
「春さんに呆れられたら終わりですよ。」
「お、千之。言うようになったね〜。」
宗季の知らない間に兄・光胤が築いた人間関係は、上辺ではなく心を繋いでいる。宗季はそんな兄を尊敬していた。
「宗季殿。」
気が付くと千之助がじっと宗季を見ていた。
「光はね、いつも甘い物の事ばっかりですけど、酔うと弟の話ばっかりになるんです。」
千之助の横で春家が深く頷いた。
「宗季殿は光の、もう一つの人生を生く人です。逢魔の血として生まれなければ、光は平家の上流武士としての道を生きるはずでした。嫡男としての期待を背負って。光はあれで頭も切れるし腕も立つ。きっと優れた武士になったでしょう。光も、そういう“もしも”を思う事があるんだと思います。そして、その“もしも”を生きるのが宗季殿、貴方です。貴方が誇れる道を生く事は、光の理想を実現する事でもあります。」
千之助が宗季を通して光胤を見る。宗季は、光胤の苦しみや思いを知らなかった。どんな想いで宗季との決別を選択し、孤独な道を歩んできたか。
「大丈夫。俺達はお前の味方だ。光がいない間、お前が光を求めるなら俺達が力になるよ。」
春家が宗季の頭をぽんぽんと叩いた。宗季は迷惑そうに手を払ったが、春家も千之助も微笑んでいた。
「兄は幸せ者だ。そして、そんな兄を持った俺は、もっと幸せ者だな。」
今重盛が光胤の力を必要とするとすれば、それは間違いなく転生システムに絡む者達への接触。その情報収集にあたっているとすれば、危険レベルは今までの比ではない。宗季は、光胤の身の安全だけをただ強く祈った。
「決めた。」
唐突に決意した宗季が、宣言した。
「俺、兄さんに誇れる道を作ってみせる。」
宗季は眼鏡のフレームを上げながら、その双眸で展望を見た。
鎌倉の寮と言う名が似合わぬ高級マンションの一室で幸衡は、アイスコーヒーをテーブルへ運んでいた。
「御館様、突然どうなさったのですか。」
幸衡の疑問は当然だった。恭と話があると言って鎌倉へ来ていた奥州藤原氏当主・秀衡が、何故か幸衡の家に現れたのだ。休みを貰っていた幸衡の、相変わらずモデルルームのような白い部屋にずかずかと上がり込み勝手にソファーに座ると珈琲を要求してきた。
「私の可愛い幸衡の顔を見たかったのだ。何か悪いか?」
白いスーツのタイトスカートのスリットから伸びる艶めかしい足を、わざと組み替えて見せつけてくる。ウエーブのかかった艶やかな髪と、ボタン三つ開けたシャツの隙間から覗く、豊満な胸がどうだと言わんばかりに視線を強制的に独占しようとする。単純明快なハニートラップの魅惑のプロポーションは、ただからかっているだけなのだと知っていても冷静さを揺るがす。
「お戯れを。」
何とか返す幸衡を、にやにやと楽しそうに眺めてから珈琲に口を付けた秀衡は、「やっぱり幸衡の入れた珈琲は違うね。」などとのんびりと言った。幸衡は腰をおろしつつ様子を見守っていた。昔から意味の無い事はしない人だ。人を化かしたような態度でのらりくらりとやり過ごしているが、必ず意図はある。油断してはならない。幸衡の白い『波形』は風の無い湖のように波紋もなく静まりかえっていた。
白い肌、長い睫毛、整った顔立ちに、涼しげな表情、幸衡の誰もが振り返る程の美貌は衰える事なく、警戒している表情でさえ秀衡の目を楽しませていた。
「なぁ、幸衡。お前程の野心と打算を持ってして、私の夫となるという選択は無かったのか?」
「…それこそお戯れ。」
唐突の発言は予想の斜め上からの強めのジャブ。
「戯れだと思うのか?奥州藤原氏当主であり転生組の私と結婚すれば、その実権はすべてお前が握る事となる。何より手っ取り早いだろう。それとも、私に魅力がなかったと?」
幸衡は自身の夢である、奥州の覇者となる事・『昼』『夜』の実権を握る事を叶える為の努力と計算を欠かさなかった。そのために見つけたのが妻・あきらだったし、そのための研鑽だった。けれど、そのすべてをショートカットする事の出来る唯一の道は、秀衡と結婚し一気に当主となる事だ。考えなかった訳ではない。けれど…
「まさか。御館様の女性としての魅力は私には些か刺激が強すぎる事は事実ですが、その選択肢は…面白くないと思いました。」
「ほう?興を求めていたとは知らなかった。」
秀衡は面白そうに言った。
「御館様に対し、私は若輩。その本質がどうであれ世間的には釣り合いが取れません。おそらく実権を握るどころか舐められて弄ばれるのが関の山でしょう。」
「成程。確かにな。お前がお前の意志で何をしようと、私の命でした事だと評価されるだろう。」
良い事は秀衡の評価となり、悪い事は幸衡の失態となる。そんな事は簡単に想像できた。転生組である事はそれだけで特別な事なのだ。その名に勝るものを幸衡は持ち得なかった。
「それでは私の支配欲は満たされません故。」
「興の次は支配欲と来たか。」
「支配欲、自己顕示欲。自らの優れたるを他者へ圧倒的なまでに見せつけたい。多くから評価を受けたい。全てを統べたい。私の手で奥州を覇者としたい。前人未到を成したい。欲望は常に人を動かすもの故、私はそれを是としております。」
自己中心的で自信家。勝手な言い分だ。だがそれが気持ち良い。
「相変わらず、自己にも他者にも正直で潔い男よの。ますます磨きを上げたか。」
「御館様、再び奥州への帰還要請にいらしたのでしたら、私は」
今秀衡が幸衡に接触する目的があるとすれば、既に断った奥州への帰還要請しか思いつかなかった。奥州に帰っても幸衡が鎌倉でしている仕事以上の役割は与えられないだろう。奥州は秀衡と泰衡を中心に決まったヒエラルキーを守っている組織だ。それを崩す力は、今の幸衡は持っていない。このまま帰っても埋もれるだけ。幸衡の答えは決まっていた。
「奥州藤原氏当主の座を譲る。と言ってもか?」
「…え…」
予想の遥か彼方のとんでもない方向から狙撃された気がした。幸衡は涼しい表情は保ったまま、間抜けな声が出てしまった。
「私は元々お前を後継にと育ててきたつもりだ。」
「しかし御館様には泰衡様が…。」
秀衡の息子・泰衡もまた転生組だ。後継者ならば泰衡がいる。
「元はと言えば泰衡が決めたことだ。」
「泰衡様が?」
「泰衡は初めの人生での失敗を長く悔いて来た。私が死に、奥州を守るために源義経殿を売った事。挙句頼朝殿に奥州を奪われた事。自らの選択と、将たる器でない事を悔いて来た。そしてその想いを相応しい者の育成に傾ける事にした。幸衡、お前が生まれた時、我等は決めたのだよ。お前に奥州を託そうと。」
幸衡の知らなかった昔話は、都合のいい夢のようにしか思えなかった。
「…そのお話には一つ疑問がございます。」
「何だ。」
「何故、私に隠しておく必要があったのですか?」
至極真っ当な疑問。何故幸衡に隠すのか。後継者として言い聞かせて育てれば良いものを。この理由が正統でなければ、昔話は後付けの嘘になる。幸衡は試すように問う。しかし秀衡は笑った。
「確約された地位に甘えられては育たぬろう。お前の言う欲望が。」
得意気な笑顔が、幸衡を圧倒した。
「…これだから、転生組は。」
「あはは。そう、ふざけた連中だろう転生組と言うのは。そんなふざけた生にも終わりは来る。幸衡、その時は帰っておいで。皆お前を待っているよ。」
秀衡の笑い声からは、昔懐かしい奥州の景色が見えた気がした。
「御意。」
幸衡は恭しく頭を下げた。
地龍本家の一室で、恭は源氏当主源義平と向き合っていた。義平の斜め後ろには、鎌倉七口のリーダーである毘沙門こと安達道白が控えていた。
「鎌倉の、このエリアは龍脈の聖域だ。龍脈が自然結界を張っているため、このエリア内に『夜』は入れない。だが、昨夜このエリア内に『夜』が出たと報告があった。」
恭が指す先は、広げた地図上の円だ。地龍の歴史上、その円の中に『夜』が現れた事はない。日本を維持する龍の九つの心臓。強大な力を持つエネルギー体であるそれは、転生システムの原動力とされている程だ。力に魅かれる『夜』が求めようとも、強い結界で守られ『夜』が近づく事は出来ない。その聖域とも言われる結界の内側に『夜』が出ると言う事は
「龍脈が弱まっている。」
恭が重く言った。転生システムに力を吸い尽され枯渇しようとしている第一の龍脈は、鎌倉にある。長く枯渇を危惧されてきたそれが、とうとう目に見える影響を表し始めてしまった。龍脈の枯渇は、龍種の目覚めの時だ。そして、転生システムを司る者もまた、その時を待っている。
「時は近い。か。」
義平が呟いた。その拳は強く握りしめられていた。
「そこで、七口には今まで守りの無かったこのエリアの警備を強化して欲しい。弱まっているとは言え龍脈は特別なエネルギーの塊だ。魅かれる『夜』は多いだろう。」
「分かりました。俺の部隊の人員をそちらに割きましょう。」
毘沙門は七口の仕事の分配などを細かく管理している。
「待て待て、毘沙門。お前の部隊は今でも手一杯だろう。能通か実親の方と交替にしろ。」
「長老会関係の押収品倉庫の警備に高綱殿の部隊が専属で付いています。その分の穴を能通、兼虎で当たっている状態です。七口に来る仕事は鎌倉警備より厄介な揺らぎ討伐がメインです。それらに残りのメンバーを割いています。夜好会の件の後始末からこっち、『夜』の動きは活発です。はっきり申し上げて人員不足です。」
毘沙門が説明すると、義平が黙った。この状態で最終局面を迎えられるのか、と。
「道白殿。」
恭が呼ぶと、毘沙門が恭を見た。その顔は、子供時代を思い出せなくする程に頼もしく当主のそれだった。
「今後、鎌倉は多くの『夜』が狙う地となる。地下迷宮攻略戦を控える中、強化すべきは攻略部隊の編成だけではない。地上に残る部隊もまた、過酷な戦いを強いられる事となるだろう。そういう意味では戦は既に始まっているのだ。揺らぎ討伐の仕事の分配は幸衡に何とかさせる。道白殿は地上部隊の筆頭として采配を頼みたい。」
普段でさえ地龍武士が揺らぎの発生のすべてに当たれている訳ではない。多くの武士が地下迷宮に駆り出されるとして、地上は『夜』にとって狙い目になることは明らかだ。第一の龍脈の地・鎌倉を守るのは必須。毘沙門はこの仕事の重要性を理解した。
「分かりました。警備を再編成します。」
毘沙門が地図を見ていると、扉の向こう側から大きな声が聞こえてきた。
「殿。鎌倉殿。こちらにおいででしょうか?」
張りのある大きな声だ。その声を聞くなり義平が顔をしかめた。
「うわ、頼経だよ…。」
「殿!いらっしゃるのでしょう?お邪魔いたします!」
問答無用で扉を開け入ってくる男は、大きく筋肉質で逞しい体躯のいかにも武士らしい人物だった。
「源頼経殿、どうかなされたか?」
恭が声をかけると、深く頭を下げた。
「これは地龍殿。大切なお話の最中、たいへん失礼いたします。なれど我が主義平様にどうしても至急確認したき義がありまして…。」
「うるさいな、お前は!いつも言ってるだろ、俺の権限の全てを使用する許可を与えたんだから、いちいち俺に確認を取るなって!」
頼経に最後まで言わせずに、義平は怒鳴った。
「なれど…。」
「俺は頼経を信頼してやってんだ。自信もて!」
「はぁ…。」
無茶苦茶を言う義平は、源氏当主としての仕事の全てをもう長らくこの頼経に任せていた。自分は転生システム破壊に専念し、実際当主として働いているのは頼経なのだ。しかし当主は義平なので、真面目な頼経は義平に裁定を求めようとする。義平は突き放す。繰り返しなのだ。
「…では、失礼いたしました…。」
話しも聴いて貰えなかった頼経が肩を落として帰ろうとすると、毘沙門がその背を呼び止めた。
「あ、待って下さい頼経殿。」
幽霊のような顔で振り返る頼経に、毘沙門は地図を指した。
「あの、鎌倉の警備体制についてなんですが、希望人員配置と七口の人員数に差がありまして、できれば源氏の皆さんにご協力いただけませんか?」
「も、もちろんです。鎌倉は我等源氏の拠点ですいくらでも協力を惜しみません。」
頼経が食いつくと、勝手に快諾してしまったことに気付き、慌てて義平を見た。
「だから、頼経が正しいと思ったなら、それで良いって言ってんだろ。良いから、二人で話合って来い。」
義平がしっしと手を振ると、毘沙門が苦笑いをしながら頼経と出て行った。
「頼経の野郎、いつになったらあの情けない面がマシになるんだか。」
去った後の扉を見やりながら義平が言うと、恭が返した。
「いずれ源氏当主となるのだろう?本人はその事を?」
「まだ言ってねぇよ。言ったら卒倒しそうで言えてない。転生組が当主を引退するなんて、有り得ないもんな。直系で実務を全てこなしてても、自分が当主になるなんて想像もしてないんだろ。ま〜、でも本当今の源氏は頼経が動かしてるからな。俺なんてただの飾りよ。あとは、自信があれば言う事なし、なんだけどな。」
体に似合わず小心なのか、頼経は腰の低い男だ。
「だが、あれはあれで長所かも知れん。慎重なのは悪い事ではないだろう。」
恭が言うと、義平は肩をすくめた。
「そーかもな。」
外でけたたましく鳴く蝉の声響いていた。
東京の道路は人を殺さん勢いの日光を反射して、上から下からと炙られてすっかりひからびそうな猛暑だった。和田義将は、父・知将と二人、久々の親子水入らずで帰路についていた。
「おじいちゃん思ったより元気そうで良かったね。」
「ええ。本当に心配させるんだから。でももう歳ねぇ。おじいちゃんも言ってたけど、私はこれから和田家を継ぐ事になるわ。あのマンションは引き払って和田家に入る事になるの。義くんには鎌倉から帰って来てもらって、龍脈守護の仕事を引き継いで貰わなくちゃならないわ。」
突然和田家当主基将が倒れたと聴かされたのは一昨日の晩の事だった。命に別条はなかったが、この事で歳を実感し弱気になった基将が和田家を知将に譲ると言い出したのは昨日の昼頃の事だ。元々すぐにお見舞いに駆け付けるつもりではいたが、あまりに唐突に事態が転がったので、正直知将も義将も動揺しかない。
「義くん、おじいちゃんも元気だから急がないけど、用意してちょうだい。」
「分かったよ。」
直嗣の部隊でようやく頭角を現し始めた矢先だ。義将も不完全燃焼で鎌倉を離れる事に不満はある。
「ごめんね。」
知将が謝ると、義将は首を振った。
「お父さんは悪くないよ。俺だって和田家直系だもん。いつかはこうなるって分かってたし、覚悟は出来てるつもり。タイミングは、そりゃ良くはないけど。でも、この時のために修行して来たんだもんね。」
「立派になったわね。」
知将はしみじみと義将の精神的成長に喜びを感じた。
「でさ、お父さん。さっきマンション引き払うって言ったけど、俺が住んじゃダメ?」
「どうして?義くんも本家に住めばいいじゃない。」
「あそこなら龍脈に一番近いし、色々分かってる分動きやすいじゃん。もちろんお父さんが駄目だって言うなら諦めるけど。」
二人で暮らしてきたマンションは思い出も多い。義将の育った場所だ。
知将の『昼』の女性との結婚は、周囲からの猛反対にあい、結果和田家を追い出される羽目になった。そして辿り着いた家が、あのマンションだ。知将にとっても思い入れが深い。義将があそこに戻りたいと言うならば、そうさせてあげたいと思った。
「でも義くん。あそこに戻っても、誰もいないのよ。義くん一人よ。大丈夫なの?」
「大丈夫。それに、一人の時間を長く続けるつもりはないから。」
義将が言うと、知将は目を点にしていた。
「ヤダ、義くん。下心ね。駄目よ、女の子連れ込んだりしちゃあ。」
注意しているのか、はしゃいでいるのか分からない知将独特のテンションで騒がれ、義将は懐かしさを覚えた。一緒に暮らしている時はいつもこう賑やかだった。この父親のおかげで二人きりの生活に寂しさを覚えたことは少なかったように思う。
「大丈夫だってば。そうする時はちゃんとお父さんに紹介するよ。」
「ま、男らしくなって。」
知将は再び成長を喜んだ。
義将はそれを見て笑った。
「義くん、そういう将来の事も大切だけど、ちゃんと戦いの方も頑張らなきゃダメよ。」
「分かってるよ。そのための鎌倉生活でしょ。」
「本当に分かってるのかしら。義くんは桁違いを見過ぎて分からなくなってるんじゃないかしら。」
「どゆこと?」
「だから、一人でどんだけ強くなっても駄目だって事よ。私達上に立つ者なんだからね。ちゃんと皆をまとめる力とか、人が付いてくる器とか、そういうものが一番大事なの。強いのは隊長としての説得力だし、まぁ必要不可欠だけど。義くんがこれから身に付けていかなきゃならないのは、牽引力よ。」
いずれ家を治めると決められた人間に必要とされる統治する力。それは一人で鍛練に励んでいても手に入らない。義将にこれから求められる者は、人の上に立つ器だ。知将はそれをはっきりと提示した。
「そうだね。分かったよ。」
「ま、そうは言っても、義くんは昔から皆に好かれるし。問題無いとは思うけどね。」
「どっち?」
「やってみれば分かるわ。私も協力するから、一緒に東京を守っていきましょうね。」
知将の微笑みは、父として、そして母としての頼もしいそれで、義将は決意を新たにした。
「ねぇお父さん。俺が東京に帰るのさ、来年の春くらいまで待ってもらえる?」
「いいけど…何で?」
話している内に二人はマンションの前に辿り着き、かつてのように二人でドアを開けた。暫く嗅いでいなかった実家の匂いがして、義将は急に少し子供に戻ったような感覚に襲われた。
「例の武術大会に出たいんだ。鎌倉の地方予選の枠で。」
「男ね〜。」
鎌倉・京都・奥州など、大きな家の領地はそれだけ多くの武士が鎬を削っている。激戦区だ。東京ではなく、鎌倉で。と拘るのは敢えて激戦区での勝ち上がりに挑む事。その心意気やあっぱれと、知将は頷いた。
「いいわ。やりたいようにやってきなさい。ただし、東京に戻ったら今までみたいに自由はきかないわよ。義くんは今までみたいに下っぱじゃない。これからは部下を持つ身になるんだからね。自分の事より部下の事に責任を持たなきゃならない。」
知将は言いながら義将の肩を強く叩いた。
「だからこそ、今は思いっきりやんなさい。」
知将のバックアップがあってこそ、今までやってこられた。その事を失念しがちな義将だが、ここぞと言う時に背を押す親のありがたみを実感した。
「ありがと。やれるだけ、とことん頑張るから。」
義将の決意は燃えていた。知将が知る限り、来春開催される武術大会に義将と同じように燃えまくっている武士は少なくない。こうまで地龍中の武士をたきつけて、一体恭は何をしようと言うのか。知将は全く分からなかった。
「義くん。そうは言うけど、こっちにも色々あるから。これからは鎌倉と東京を行ったり来たりするのよ。ついでに少しずつ荷物も運んじゃいなさいね。」
「は〜い。」
早速世話焼き母さんになる知将を見ると、義将は益々自分がいつまでも子供に思えて少し照れくさくなった。義将はいつかこの知将を越える武士になって、逆に心配してやろうと、密に夢見るのだった。
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