30 視線の事
時々、誰かがじっとこちらを見つめていると感じる。
畠山仁美は、物心ついた頃には既に死線を彷徨っていた。突然変異で霊師などという特異能力を持って生まれたせいだ。霊師は人や物の記憶や心を読み、また操ることの出来る、謂わば精神を司る力だ。万能の力であるが故に、保持者には強い反動がある。霊師の力は元は『夜』が持つもので、禁術によって人の身に宿して成る。人の器ではその力に耐えられず、短命なのが定石であった。大昔に仁美の先祖でそんな馬鹿げた方法で霊師になった者がいたらしく、その遺伝で仁美は生まれつき霊師だった。
そういった経緯で仁美は生まれつき死にかけていた。
仁美の周囲にはいつも仁美を憐れむ声があって、仁美は布団の中でいつもその憐憫を他人事のように聴いていた。仁美自身は周囲が言う程不幸だとは感じなかったのだ。それと言うのも父・重忠の愛情による。重忠は心から家族を深く愛していた。仁美はその能力を以てその愛情を誰よりも理解していた。故に、生まれた事を否定する事はなかった。たとえ先のない命だとしても。寧ろ重忠に申し訳ないと思うくらいだった。
重忠はいつも仁美の手を包み込むように握り、優しく強い愛情で仁美の身を案じた。
そうして六歳になろうと言う年だった。仁美は深く目を閉じ、二度と開く事はなかった。
はずだった。実際仁美自身は死んだと思ったのだ。その時の事はよく覚えてはいない。仁美は朦朧とする意識の中で、重忠の強い覚悟を感じていた。そして気がつくと、いつもの布団の中だったのだ。
その日を境に仁美はすっかり元気になった。体調をくずす事もなくなり、他の子供たちのように外で遊べるようになった。けれど重忠は仁美を外に出す事はなかった。学校も買い物も、仁美は一度も外へ出たことのないまま十七歳になった。
健康になってからの仁美の周りの変化は他にもあった。霊師としての修行を強いられた事。重忠が仁美に触れなくなった事。時々視線を感じるようになった事。中でも重忠が仁美に触れなくなった事は、仁美の中にぼんやりとした不安を与えた。霊師は触れるだけで人の心を知ることが出来る。それを恐れて仁美に触れられる事を拒絶する者は多くいたが、重忠はそれではない。事実伏せっていた間は毎日のように手を握ってくれた。その時の嘘偽りない愛情を知っているが故に、仁美は重忠の愛情に変わりはないと確信していた。ならば何故、触れないのか。何かを、隠しているから。仁美は重忠が何かを隠していると知りながら、それを問う事をしなかった。仁美の感じた覚悟はとても強いものだった。きっと重忠は仁美を愛するが故に、その何かを隠し通す事を誓ったのだ。ならばそれを暴かない事が、仁美のすべきことだと思ったのだ。
仁美が健康になった理由が、重忠が施した禁術によって逢魔の血になったからだと聴いたのは、十歳になった頃だ。仁美が受け止めきれない霊師の力を、『夜』が代わりに受け止めているため、体への負担が無くなったのだと説明を受けた。術者の体に『夜』の血を混ぜる事で、人と『夜』の中間のような存在になるのだと言われた。仁美は自身でも随分と霊師と逢魔の血について調べた。自身に何が起こったのか知ろうと思ったのだ。けれどそのどちらもが禁術であるため文献は極めて少なかった。しかし少ない文献でも、そこに仁美の疑問を解き明かす全てがあると感じた。故に深追いするのは止めて、自己の鍛練に励んだ。
ぼんやりとした疑問や不安に蓋をして、仁美は家族の愛に満たされた狭い世界をそれなりに生きていた。おそらく不幸ではない、けれど幸福かと言われれば、分からない。故に、それなりだった。仁美は世の中を知らない。比較を知らなかった。自分の置かれた状況が一体どういうものなのか。幸か不幸か、仁美は世界を知らなかった。故に、自己評価はそれなりだった。
そんな折だった。矢集晋を見たのは。
戦い疲れた獣のような痩身。地龍中が恐れる鬼神殺しの異名。命を奪う事に躊躇いのない太刀筋。傷付き泣いている心。色彩のない目。
仁美は一目で晋に心奪われた。これ程までに圧倒されたのは初めてだった。一体どれ程の事があれば人が『夜』色の『波形』を纏うのだろうか。逢魔などと物騒な名を持ちながら、温室の中で漠然とした幸せに点数を付けようとしていた仁美よりずっと、魔の名に相応しい姿だった。人ではないとすら感じた。
それからの仁美は、ずっと晋の事ばかりを考えるようになった。
数多の色を知りながら世界を知らない仁美と、広い世界を知りながら色を知らない晋。相反しているが故に、何かの縁を感じた。そして仁美は一つの欲求に駆られた。色の無い晋の世界に色を与えたいと。そうする事で仁美に世界を与えてくれる人だと思ったのだ。
仁美は人生で初めて重忠に頼みごとをした。晋との縁談を申し込んで欲しいと。重忠は初め難色を示していた。矢集は決して望んで嫁入りしたい家ではないのだ。その家に愛娘を嫁にやりたい親などいない。例え相手の人間性が良くとも、家名は重要だと言った。仁美は根気よく何度も頼み込んだが、重忠が首を縦に振る事はなかった。
しかし暫くして唐突に了承したのだ。掌を返したような変わりように、仁美はさすがにおかしいと思ったが、藪を突いて折角取り付けた了承をふいにする訳にはいかないと思い特に追及する事はなかった。
重忠が晋との縁談を取りつけた事で、仁美は初めて外に出た。外の世界はテレビや本で見るよりずっと眩しく見えた。広くて美しい世界の空気を肺いっぱいに吸い込んだ時、仁美は少し不安になった。自身が晋を利用する事で外へ出ようとしているだけなのかも知れないと思ったのだ。けれど晋に会って、そんな思いは一瞬で消えた。晋でなければ自分は外に出たいとすら思わなかったと分かったからだ。晋でなければ世界に意味などない。漠然とした幸福の温室で一生穏やかに暮らしていれば良かったのだ。世界に価値を与えるのは、想いなのだと知った。
「仁美殿?」
不意に呼ばれた仁美は、一瞬感じた視線を見失った。
声の方を見ると、そこには恭と小鳥遊が立っていた。
「地龍様。小鳥遊様。こんにちは。」
丁寧に挨拶をする仁美に会釈する二人は、どこかからの帰りのようだった。
「何故、門前で立っているのだ?」
「いえ、晋さんに会いに…。」
「晋か…。すまない。奴は急な要請で一つ仕事をこなしてもらう事になった。今日は帰らないかもしれぬ。」
「そうでしたか。それはお忙しい所へお邪魔してしまいましたわ。」
「折角来たのだ。寄って行かれよ。」
「お邪魔いたしますわ。」
恭に誘われ仁美がお辞儀をすると、小鳥遊が訊いた。
「どうかされたか?」
「…いえ。誰かが見ていたような気がしたのでございます。けれど、地龍様も小鳥遊様も感じられなかったのでしたら気の所為でございましょう。」
仁美の言葉に、恭と小鳥遊は周囲を見回したが特にそれらしい気配は感じられなかった。
「御気になさらず。よくある事なので。」
「よくある?ますますおかしいではないか。」
恭が訝しがると、仁美は肩をすくめ言った。
「父は…重忠は私の中の『夜』のものだろうと…。」
「逢魔の血か。しかし、そのような話は聞いた事がない。どうだ小鳥遊。」
「わしも、そのような現象は聞き及びませぬ。」
「…ええ、私も文献などを調べたのですが、そのような記述は…。とは言いましても、逢魔の血であり霊師であるというのは地龍中探しても私だけとの事ですので、例外はあるのかと思いますわ。」
「…まぁ、そうかも知れんな。」
仁美の曖昧な意見に、恭は適当に相槌を打った。
「で、矢集の奴めには何用か?」
小鳥遊の憎々しげな物言いを仁美は特に気に留めずに持参したチラシを出した。
「花火大会のお誘いでございます。」
柔らかい仁美の笑顔に、恭と小鳥遊は和んだ。
「花火か。大学時代に一度だけ行っていたな。仁美殿がいれば色を楽しめよう。」
「最近は私なしでも色を見る事が出来る時があるのだそうですわ。」
「そうか。」
「それでは、わしが伝言を賜りましょうか?」
「ありがとうございます。けれどまたお誘い申し上げますわ。」
三人で話していると、廊下をずかずかと幸衡が歩いて来て何やら書類を恭へ渡し話し始めてしまった。仁美は何とか挨拶する機会をうかがったが、その内に幸衡は恭を連れて去って行ってしまった。
「御挨拶しそびれてしまいましたわ。」
「御気になさらず。茶でも入れさせましょう。わしで良ければ付き合いますが?」
「どうぞ、よろしくお願いいたしますわ。」
小さな老人の案内に導かれた客間は晋の暮らしている部屋より随分広かった。
出された緑茶の温度を確かめるように啜る小鳥遊を見つめてから、仁美はそっと訊いた。
「小鳥遊様は、どうして今もなお長老会付きという肩書を名乗っておいでなのでしょうか?長老会は既になくなってしまったはずでしょう?」
仁美の問いは多くの者が影ではとやかく言っても小鳥遊自身にぶつけて来た事のない疑問だった。小鳥遊は、まさかこんな所で直接問われるとは思わずに一瞬躊躇したが、ゆっくりと口を開いた。
「長い間長老会の人間で居過ぎたから、じゃろうか。今更歩んで来た道を変えられんのじゃ。」
「覚悟…のようなものでしょうか。強い意志を感じますわ。」
仁美は小鳥遊に、重忠に似た覚悟を感じた。
「地龍様は、いずれ長老会を復活させようと思っておられる。」
「え?」
「かつてのような企ての温床ではない、ちゃんとした分権機能をもった組織を作りたいとおっしゃった。今の地龍は地龍様の独裁じゃ。良い意味では一枚岩か。このままの方が運営は易かろう。じゃが、彼の御人は権力の集中は健全な運営の妨げになると仰る。そのために、わしの力を必要だとまで言ってくださる。」
「素晴らしい方でいらっしゃいますのね。」
「左様。正に地龍の将たる御人。わしは地龍様のために、長老会の名を捨てないと決めたのじゃ。」
「地龍様の周りには、小鳥遊様のように地龍様をお慕い申し上げていらっしゃる方が沢山いらっしゃいますのね。」
「…矢集の奴めも、その一人じゃ。」
「そうですわね。晋さんにとって地龍様は、心臓のようなものですわ。その鼓動が、晋さんを突き動かすのです。」
仁美はまるでそれを目に見えるかのようにはっきりと言った。長く恭と晋を見て来た小鳥遊は、その表現がよく分かるような気がした。
「恭、恭恭恭、恭ったら!」
恭が幸衡から無理矢理押し付けられた書類に目を通していると、唐突にしかも喧しくしつこく呼ばれ仕方なく目をあげた。
「何だ、静。一度呼べば分かる。」
「なら一度で返事してよ。」
「返事をする隙を与えなかっただろうが。」
「そんなの知らないわよ。」
「…。」
相変わらず不遜な態度で美しく笑う静の顔を見て、恭は黙って息を吐いた。
「…で、用件は?」
「花火大会に行きましょうよ。」
「唐突だな。」
「だってさっき知ったんだもの。」
「即断即決か。で、いつだ?」
「今夜。」
「…は?」
「今夜よ。」
恭はしばらく動きを止めた。
さっき仁美が誘いに来たという花火大会は、今夜だったのか?恭は晋の予定を今夜は帰らないかも知れないと言った。そして仁美はまた誘うと返した。けれどそれは今夜だとすると
「諦めたのか。」
恭がひとりごちた。
幸衡が別の書類を恭の机に置きながら言った。
「武士の妻たるものの心得だろう。仕事優先だ。」
「何よ、それ!厭味?」
「静も武士の妻ならばそれらしく、慎みというものを覚えた方が良い。」
「な!男尊女卑じゃない?今のは!女は黙って付いて来いっての?言っとくけど、私はアンタより強いわよ!」
「寝言は寝て言うから寝言と言うのだ。静のは妄言か。」
「死にたいの?」
勝手に言い争いを始めた静と幸衡を無視して、恭が口を開いた。
「幸衡、晋の任務に増援して日暮れまでに片付けさせろ。任務終了後は速やかに戻るように伝えろ。」
「は。直ちに。」
すぐに手配を始めようとする幸衡に、恭は追加した。
「幸衡、お前も今日は早く帰れよ。」
「…はい。」
薄く笑う幸衡が、早く帰宅して妻あきらと花火を見るかは不明だった。
「静。」
「うん?」
「花火大会に行っても良いが、条件がある。」
恭の不敵な笑みに、静はただ首を傾げた。
すべらかな生地の感触を撫でながら、部屋中に広げられた浴衣の量に圧倒されている仁美を無視して、静は新しいものを差し出してきた。
「これなんかどうかしら?」
淡いピンクの清楚さや可憐さが、仁美の乙女心をくすぐる。
「素敵です。けれど、何故浴衣を貸してくださるのでしょうか?」
「そりゃあ、デートだからよ。夏、花火、ときたら浴衣でしょう。」
「でも、晋さんはお仕事でお戻りにならないと地龍様が。」
「大丈夫。戻ってくるわよ。大人しく引き下がるより、信じて待つ方が武士の妻には大切な事だと思うわよ。」
「…私特にお約束もしておりませんし、このような事は御迷惑になるのではないでしょうか。」
「良いんだって。迷惑くらいかけてあげれば。聞き分けが良過ぎると飽きられるわよ。」
「え?」
ぎょっとする仁美を放置して静は帯を選び始めた。
「本当はね、全部恭の命令なの。」
「地龍様の?」
「私が花火大会に行きたいって言ったらね、仁美に浴衣を貸すのが条件だって。」
「どうして…。」
「多分、晋のためじゃないかなぁ。恭は晋に普通の幸せを感じて欲しいのよ。ずっと上手くいかなくて、歪んでいっちゃったから。二人の関係って不思議なの。誰も入り込めない二人だけの領域があって、常に繋がってる。なのにどこかで遠い。主従契約ってそういうものなのかしら。」
「人が亡くなるという事は、残された誰かがその分を背負う事になるのですわ。お二人が受け継いできたものには、先祖代々の多くの荷が重なっております。きっと、お二人はそれがお分かりでいらっしゃるんですわ。」
仁美の言葉は思いやりの塊のように聴こえた。けれど静はあえてそれを壊したいと思った。
「そんなの、恭自身が幸せになっちゃダメって事にはならないじゃない。だから、今夜花火を見るのよ。」
静は満面の笑みで帯を差し出した。
「はい。」
仁美は帯と一緒に静の想いを受け取った気がした。
夕方になって慌てて帰ってきた晋は、何を言われて急いだのか血相を変えていた。
「急いで帰って来いとは言ったが、汚いな。」
恭が玄関に立つ晋の姿を眺めて酷い感想を言うと、晋は意味が分からないと首をふった。
「ちょっと、恭、怪我したって言うから、急いで…どう言う事?」
「馬鹿者。お前と違って俺は滅多に怪我などしない。幸に晋に早く帰るように伝えろと言ったんだ。ま、寄り道しないように幸が気を利かせたんだろ。」
「気の利かせ方が悪質だろ。」
突っ込みながら頭を掻く晋は、血や土の汚れがべったりと付いていて物騒な見た目だ。
「とにかくシャワー浴びてこい。」
「は〜い。」
「着替えは置いておくから。」
浴室に行こうとする晋の背に放たれた恭の不可解な言葉に、晋は首を傾げた。
「どゆこと?」
いつまでも自分の置かれている状況が分からないまま晋が疑問符を浮かべる。浴衣姿の晋の目の前にいるのは、淡いピンクの浴衣に身を包んだ仁美だった。
「これです!」
嬉しそうに花火大会のチラシを広げて見せる仁美の可愛らしさに目を奪われている晋に、静が言った。
「今夜これから花火大会があるのよ。仁美が誘いに来たの。思いっきり可愛くしといてあげたんだから感謝してよね!じゃ、私も支度があるから!」
「…ありがとう?」
去りゆく静に、疑問形でお礼を言いつつ、状況を整理する。
「つまり、俺はひぃさんと花火大会に行くために呼び戻された?」
「感謝しろよ。じゃ、俺も支度があるから。」
「…ありがとう?」
不敵な笑みを浮かべて去って行く恭に、晋が疑問形でお礼を言うと、隣で仁美が深々と頭をさげていた。
「じゃあ…よく分かんないけど。上司命令のデートに行きますか。」
晋が言うと、仁美は嬉しそうに頭を上げて満面の笑みで晋を見上げた。
「二人の支度って何なんだろう?」
「お二人も花火をご覧になるそうですわ。私のために時間を割いてくださったので、ご自身の支度が遅れてしまわれたのかも知れません。申し訳ない事を致しましたわ。」
歩きながら空を見上げると、薄夕闇が広がっていた。
「別にひぃさんが頼んだんじゃないんでしょ?なら良いんじゃない?」
「けれど、ここまでして頂いたのです。感謝に堪えませんわ。」
「…そう言えば、浴衣、似合ってるね。何か、新鮮。」
「ありがとうございます。静様が貸してくださったのですわ。私、着物を殆ど着た事がありませんでしたので、静様が広げられた沢山の浴衣に驚いてしまいました。」
「静姉の家は着物生活らしいね。学校以外で洋服着た事無かったって言ってたよ。さや姉は今でも着物しか着ないし。良いトコの武家の御譲さんはそういうもんなのかと思ってた。ひぃさんはずっと洋服なんだ?」
「ええ。一応教養として着付けなんかは習いましたけど、殆ど着た事はありませんわ。ですから、少し緊張いたします。」
「そうなんだ。着物って背筋が伸びて気が引き締まるよね。俺も滅多着ないから様にならないけど、嫌いじゃないよ。」
晋はそっと手を差し出した。仁美はその手に小さな自身の手を重ねた。
「足、痛かったら言ってね。」
「ありがとうございます。」
ゆっくりと歩く晋の気遣いに、仁美は微笑んだ。
「何だか、女性のエスコートに慣れておりませんこと?」
「え?嫌だなぁ、変な事言わないでよ。慣れてないよそんなの。慣れてる訳ないじゃない。何なら見てくれて構わないよ。」
仁美の霊師の力で晋の心に嘘偽りがない事を確認してくれと言う晋に、仁美は頭を振った。
「いいえ。結構ですわ。私、普通の恋人になりたいんですの。ですから見ません。」
「気にしなくて良いんじゃない?」
「え?」
「俺達どうやっても世間一般で言う普通の定義からは外れてる。規格外なんだから、無理に普通に振舞う事なんて無いんじゃないの?俺達らしく、それで良いんだよ。だからひぃさんは不安になったら俺の心を見れば良い。俺はいつでもひぃさんを大切に思ってるよ。だから俺にもひぃさんの色を見せて。俺はひぃさんのくれる色が好きだ。」
晋が紡ぐ言葉は、手を伝う振動で仁美の胸に届く。
「そうですわね。私、ずっと家の中で生きてきて、外の世界はテレビや本で知るだけでした。だから、とても憧れていて。外で生きていらっしゃる方々と同じような事をしたかったのでございます。」
「しよう。ひぃさんのしたかったこと全部、俺と一緒にしよう。俺達らしく。」
晋の申し出に、返答を返そうとした時だった。
仁美は鋭い視線を感じた。
「ひぃさん?どうしかした?」
仁美はきょろきょろと辺りを見回した。
「いえ…。」
強く、貼りつくような視線だった。
いつもより、はっきりと、近くに感じた。
「誰かが、こちらを見ているような…。」
仁美の言葉に、晋は慌てて周囲に気を配ったが、それらしい気配は感じる事が出来なかった。
「ひぃさん、どっちの方?」
「…いえ。解りません。すみません。」
段々薄れていき、仁美も気の所為かも知れないと思い始めた。
「あの…晋さんが気が付かれなかったのですから、きっと気の所為ですわ。御心配おかけして申し訳ありません。」
「いや、でも…。」
晋には、仁美の気の所為とは思えなかった。仁美は雰囲気や気配と言うものにとても敏感だ。仁美が感じたと言うならば何かあるように思われて仕方が無かった。
「今日の昼間、地龍様と小鳥遊様にも確認して頂いたのですが、やっぱり何も無かったのでございます。ですから。御心配には及びませんわ。」
「昼間って、昼間にも同じことがあったって事?」
「いえ…昼間と言うか…もうずっと感じているのでございます。」
「ずっと?」
「ええ、私が逢魔の血となって以来、ずっと、誰かの視線を感じるのでございます。」
「それって…もう十年以上もって事だよね?」
晋が驚きながら問うと、仁美はゆっくり頷いた。
「時々です。時々、誰かがこちらを見ていて…けれどそれがどこからなのか分からないのです。しばらくすると消えてしまいます。」
「そのこと、重忠殿には?」
「もちろん申し上げましたわ。お父様は、私の中の『夜』のものだろうと。」
仁美は恭にしたように説明した。晋はしばらく考えるようにしてから言った。
「でも何かストーカーみたいで気持ち悪いね。」
仁美の感じる視線が、仁美の中の出来事ならば誰も介入できないし、事実である事を証明する事も出来ない。原因も不明だ。過去誰もが首をひねるだけだった。けれど晋は心配と不安を織り交ぜて「気持ち悪いね。」と言った。仁美はやけに共感してくれたように感じた。
「そう…ですわ。何だか気味が悪いのでございます。」
ぎゅっと強く握りしめた手と手の感触が、励ますような強さだった。
「そんな良く分からない視線からだって、俺は守りたいと思うよ。力になれるか分からないけど、調べさせて。」
「はい。ありがとうございます。」
晋が言うと、仁美は頷いた。
空はすっかり暗くなり、夏の生ぬるい夜風が吹き抜けた。
前方上空で破裂するように大輪が花開き、色とりどりの光をまき散らすのが見えた。
「わぁ。」
消え入りそうな微かな感嘆を漏らす仁美に、晋は初めて花火を見た日を重ねた。
大きな音が体中を振動させて、空には花が咲く。幼い義将の甘い匂いが胸をくすぐって、優しい空気に泣きそうな程愛おしくなった。きっと何があっても一生忘れないと思ったあの時の記憶。
「色が無くても、幸せな時はたくさんあったよ。」
「ええ。全てが今の晋さんを形作る大切なパーツですわ。過去を否定しては未来を肯定できないと、お父様がおっしゃっておいででしたわ。」
「さすが重忠のおっさん。良い事言う。」
「私も、どんなに世の中を知らなくても、幸せでした。家族の愛に包まれて、それだけで私は生きてこられたのです。」
「ひぃさんの色がこんなにも優しいのは、多くの愛情を知っているからなんだね。」
祭会場は少し先で、人ゴミの気配が何となく感じられた。花火が始まってから行っても、きっと大して良い場所は取れないだろう。二人は無言のまま立ち止まり、その場で空を見上げた。行き帰りの見物客がぽつりぽつりと通る道路で、花火の轟音の中、隙間をぬって話した。
「けれど、出会ってしまいました。」
仁美は運命のように、必然のように、明らかなターニングポイントを指した。
「晋さんを見た時、私の世界は変わってしまいました。」
花火の光のひとつひとつが、色を持ち、形を持ち、輝いて、そして散って行く。仁美が見て来た多くの人生の欠片のように、美しく儚い。
「優しい愛情に包まれた私の世界は、音も無く崩れてしまいました。世の中には、悲しい事、辛い事、腹の立つ事がいくらでもあって、そんな渦の中を身を割かれるような想いで生きている人がいるのだと、知ってしまいました。幸福を斬り刻んで、修羅の道を走って、世の中に嫌われて、嫌い返して、生きる事は、生きている事はどうしてこうも人を苦しめるのだろうと、唐突に哲学の海に投げ出されてしまいました。」
夜空に咲く花火は、宇宙の不思議のように咲いては散ってを繰り返す。銀河が生まれ、そして消える。繰り返して宇宙は形を変えていく。目に見えない人の心は一生の内にゴールを持つだろうか。仁美は、晋に会いたいと望めば望む程に、晋にプラスになるものを与えられるだろうかと不安になった。晋は不思議の塊。一目見た時から誰よりも特別。
「人は出会いと別れを繰り返すと言います。そして影響し合うのです。それもまた循環なのですわ。私と晋さんが出会う事が、必ずしも良い事とは限りません。私は、晋さんの特別になりたいと思います。出来れば良い意味で。」
「ひぃさん、それは努力次第だと思うよ。生まれつき決まってる訳じゃない。望む形があるなら、そうなるように頑張れば良いんだ。少なくとも俺は今までそうしてきたよ。」
男の人の低い声の振動。近くで聴くと少し高鳴る。緊張と、高揚。
仁美にとって晋は特別分からない。宇宙の不思議。
「恋は不思議。」
仁美のつぶやきは花火の音にかき消されて、晋の耳に届かなかった。
「私の宇宙は既に生まれてしまいました。晋さんは私の特別不思議で一番輝く星。ずっと見ていますね。」
たとえこの先どんな事があっても。
空を見上げる晋の横顔は、仁美の目に輝いて映っていた。
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