27 幣帛の事
遥か悠久の夢の中で、否現の中で最早自身が何者であったか、その時何を思ったかすら忘却し、今を生きてきた。その事は自然の摂理であって罪悪だとは思わない。けれど、その過去が、かつて間違いなく自身の現在であったその出来事こそが全ての根源だというならば話は別だ。何もかもの起源がそこにあるというならば、それは決して忘却の彼方へ放置してよい事ではなかった。なかったのだ。その事を今、千年近くも経った今、新田祥子は初めて理解した。
目を開くとそこには、よく知る顔があった。
「殿?」
「祥子、大丈夫か?」
祥子は徐々に意識を覚醒させていくにつれ、義平が強く手を握っている事に気が付いた。
痛い程強く握られた手の温度が、いつか流した涙のように熱く感じた。
「ええ、上手く行ったの?」
問いながら体を起こすとそこには、あきら・さやか・千之助・仁美がいた。千之助と仁美は疲労を浮かべて浅く頷いた。あきらはいつもの空気を読まない明るさで答えた。
「うんうん、ばっちりだよ。祥子ちゃんにかけられた呪に干渉すると敵さんにばれちゃうから手は出せないけど、祥子ちゃんが狙われた理由になった記憶は手に入れた。」
あきらがブイサインして見せるのを横目で見ながらさやかが言った。
「でも、こんな方法で他人の記憶を覗き見るなんて…。」
「記憶を司る能力者である千之助、精神を司る能力者である仁美を仲介する事で眠っていた記憶を掘りあてるとはな。」
さやかの言葉を次ぐように義平が感心した。あきらは解説を始めた。
「ま〜、忘れちゃった事を思い出させるって言ったら、普通は催眠誘導とかそーゆーやつだって事さ。義平様が思い出した当時の記憶を、仁美ちゃんを通して祥子ちゃんに見せる。触発されて祥子ちゃんも過去を思い出す。それを千くんが促す。正に連係プレーだね!」
事もな気に笑うあきらだが、長い苦労があったことを皆理解していた。あきらとさやかの二人で祥子の記憶を手に入れると言ってから既に一年弱になる。その間あきらはずっと苦心してきた。祥子はゆっくりとあきらに手を伸ばし、優しく抱き締めた。あきらはくすぐったそうに笑っていた。
「ありがとう、あきら。これでようやく償える。私が始めてしまったこの愚かな連鎖を、断ち切らなくちゃ。」
償う。その言葉はその場にいた全員に痛みを与えた。
「祥子、お前の所為じゃない。お前は俺のために、力を手に入れようとしただけだ。実際俺は逸って死んで、お前はその術の構築に縋るしかなかっただけだ。だから、お前は何も、悪くない。」
あきらの術の結果、全員が祥子の記憶を見る事になった。そこにあった心を。もちろん術で見る事が出来たのは対象となった義平と祥子のものだけだ。それ以外の事は分からない。けれど、祥子を責める気にはなれなかった。
「いいえ。私が作った術が、この不毛な連鎖を生んだ原因になったんだわ。だって、間違いなく私の術を基盤に転生システムはつくられているんだもの。」
祥子は、否当時の祥寿姫は夫である源義平のために龍脈の力を使えるようにするシステムを構想していた。日本を支える原動力である龍脈の力を源氏が握ることになれば間違いなく世の中は源氏の思うままだったろう。祥子はそんな世を、義平が全ての頂点に立つ世を夢見て果てた。そのためだけの人生だった。そしてそれは実現する事は無かった。その祥子の人生が遺した構想を基盤として、何者かが転生システムを作ったのだ。
「つまり、祥子の術は、祥子の死後何者かの元へ渡ったって事だな。」
「一体誰の…雅貴様がそのような事をするとは思えないし、父かしら…。」
当時の地龍当主・雅貴はただ平和を願う人物だった。祥子にも義平にも雅貴がそのような事をするとは思えない。眉をよせる祥子の肩を抱きよせながら義平は言った。
「いや、大昔の事だ。今更どう転んだって名探偵にだって解けやしないさ。」
「そーゆー事。ここからは過去を振り返っても仕方ないよ。あきら達は未来に生きるんだから。」
あきらは明るく笑い、隣に座るさやかの背を叩くとさやかが心底迷惑そうに睨んでいた。
「さ、千之助と仁美は休んで。協力を感謝するわ。お礼は後ほど。祥子様も、今は術の影響で一時的に記憶を取り戻しているけれど、呪いには干渉していないのでまた忘れてしまうと思います。あとは私たちにまかせて下さい。」
さやかに促されその場が解散となった。
残った祥子と義平は沈黙に想いを溶かした。
共有する空気はいつの世も変わらない。長い間魅かれながら遠ざかり、戦を言い訳に目をそらしてきた核心は、始まりの人生にあった。義平にとっては武士の志の犠牲になったもの。祥子にとっては主を支える事で果たそうとしてきたもの。
「祥寿。」
義平が弄ぶように口にした名は約千年ぶりに呼ぶ最愛。
「懐かしい夢を見たわ。決められた縁に武士の妻としての勤め、私はすべき事に囚われて本当の気持ちを言う事を悪い事だと思っていたわ。本当に愚かな事。私は義平様が好き。言えば良かった。そうしたら、あんな死に方する事も無かったのに。」
最初の人生で死に別れて以来、義平は祥子を束縛するように愛した。執着するように愛を口にするようになった。それは後悔の表れだろう。義平の心が、今だけはと硬い自尊心の扉を少しだけ開いた。
「ごめんな。お前を蔑ろにした。勝手に死んで、ごめんな。」
何が何でも生きて欲しいと願った祥子を一蹴した義平の心に、祥子の入る隙間などなかった。あの頃は強さを証明し頂に立つ事がすべてだった。それだけが義平の全てだった。死に際するまで、祥子への気持ちにすら気付かぬ程に盲目だった。
二人は再び沈黙の中に想いを託し、ただ寄り添った。
蝋燭に火を灯すと、部屋に優しい明るさが広がった。不気味な質感の壁は、まるで生きているかのような肉質で歪な凹凸を灯に照らされていた。
「龍の卵はもうすぐ孵る。そうすれば、すべてをやり直せる。正せるんやな。」
ソレは、灯を見つめて言った。
「システムエラーを削除して、正常なあるべきシステムを起動させるための、新たなエネルギー源が、ようやっと手に入る。そうやろ?」
男の影はゆらゆらと壁に浮かび上がったが、それは男の輪郭とは違うものだった。大きく、獣の形をした、異形の影。そしてその異形の影が問う先には、一人の壮年の男が坐していた。穏やかな面ざしの、優しげな男だ。静かな佇まいだが眼鏡に反射した光が、その真意を表しているであろう目を隠しているので、読みずらい。善か、悪か。白か、黒か。
「兼実。」
男は異形に向かって兼実と呼んだ。九条兼実、と。兼実が目を細め続きを待つと、感情の希薄なもの言いで続けた。
「あれは種だと、貴也は言ったな。雅貴に良く似た前地龍当主は。そうだ、正にあれは種だ。ようやく芽吹く時が来た。この時が訪れるのを長年準備して来た。だからこそ、慎重にならねばならない。もう二度とエラーを起こさぬよう。」
「せやけど、それは当時の貴方様がまだ『昼』の者であったが故の必然や。今はちゃう。今は、我等『夜』の王になる御方。貴方様がその玉座に座す時、世の中は変わる。」
嫌みたらしく笑う兼実に、男は侮蔑のような目を向けた。
「私が欲しいのは玉座ではない。」
「やったら、何ですの?」
「お前には分かるまいが、すべてを手にする者は王ではない。神だよ。」
男の言葉に、兼実は肩をすくめて理解を放棄した。
そんな兼実の異形の影を眺めながら、男は自身の過去を思った。
■一二二五年■
大江広元が死ぬ一二二五年までの間、広元は九条兼実の造り出した『輪廻そのものとなるシステム』の書き換えに邁進した。広元は元々『昼』の政治家だ。地龍の人間との関わりが深かっただけの、ただの人間だった。特別な力はない。だが、特別優れた頭脳があった。術者ではないもののその頭脳で術式を書き換えるという他の誰にも出来ないだろう事をしたのだ。
けれど広元は術者でないがためにミスを犯した。術というものの原理を読み解き、自ら構築することは、術者でない者には限界があった。なにしろ術自体をどれだけ思い描いても自身では扱うことが出来ないのだ。どこまで行っても机上の空論でしかない。実験をする事も出来ない。故にミスは必然だった。
広元の作りたかったシステムは、「自分だけが転生し続ける」「自分だけが唯一君臨し続ける」システムのはずだった。しかし、彷徨える亡者の魂を多く巻き込んでしまったのだ。
一二一七年になると、広元は自ら出家し、転生システムの起動に集中する事にした。まだ幼い雅貴の孫を良いように丸めこみ、システムの起動に利用しようというのだ。広元の政治の手腕は既に幕府の絶大な信頼があり、それは地龍でも同じだった。雅貴と違い、地龍の在り方に大きな改革を与えた。今まで無かった『昼』の政治を利用した『昼』『夜』の警備体制を築いたのだから。その信頼を利用し、システムの起動を計画した。いくら幼き地龍当主の血脈が手を貸してくれるとは言え、チャンスは一度きりだ。テストはない。
広元は自らのミスに気が付く事無く、広元の死と同じくして転生システムを起動させた。
これにより、一二二五年以前に死んだ者が無作為に転生システムに巻き込まれる事となった。
「広元様?」
ぼんやりと回想をする男を、兼実が見ていた。怪訝な顔をしたその若い造形も、異形が選んだ器に過ぎない。名も、男が与えたものだ。
「何でもない。兼実、そろそろ伏線の回収時期だろう。予定通り動けよ。」
男が言うと、兼実はにんまりと笑って去って行った。
長年の源平合戦、暗躍する長老会、暴走する京都七口、後白河復活の儀式、矢集裕の潜伏幇助、人形師等の多くの闇組織、夜好会の侵食、『夜』の養殖、異形の部下達、紛れこませた罠、擬態する伏兵、多くの策を弄して男は一人で次の手に進む。
「さぁて、夢を見る時間は終りだ。そろそろ叶えてやらねばな。」
男がひとりごちると、その耳朶を琵琶の音が打った。
『君の神にも仏にもならせ給ひ候ひなむ後、たのしみさかへ候とも、千年の齢をふるべきか。たとひ万年をたもつとも、遂には終のなかるべきか。』
琵琶を奏で歌う盲目の男が、ぼんやりと光を放ちながら浮かんでいた。
歌うは平家物語の一説だ。君主が死んで、自身だけが生き残ることができるだろうか。たとえばそれがどれだけ長い時間だとしても、必ず終わりは訪れるのだと。
「何が君が。私にはそもそも使えるべき君主などいない。お前こそ、いつまでそうして下らぬ歌を歌って私に付き纏うつもりだ。流転三中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者。三度唱えて成仏しろ。」
蝿を振り払うような仕草で琵琶法師を一瞥した。言葉はかつて出家するものに授けられたそれだ。迷いの世を転々とせず仏門に入り真実を見よとたたみかける。素気無い嫌味でしかない。しかし琵琶の音は止まない。
『大悲擁護の霞は熊野山にたなびき、霊験無双の神明は音無河に跡をたる。一乗修行の岸には感応の月くまもなく、六根懺悔の庭には妄想の霞もむすばず。いづれもいづれもたのもしからずといふ事なし。』
平重盛が子・維盛は、平家が落ちて自ら出家し、熊野で極楽浄土を夢見た。慈悲深い心が如き霞、霊験あらたかな光が月のように降り注ぎ、邪念なき懺悔の全う、すべてが極楽往生への夢だった。赦しと安らかな死、そして来世への旅立ち。当時の日本人の拠り所だ。琵琶の音は古の教えを歌う。輪廻の輪を外れた男を、元の流転に導きたいと願うように。
「そのような戯言を。流転は救いでもなければ神聖なものでもない。そこに人の手が届くと言うならば、それはもう人の領域なのだ。それを手に入れられる。それが何よりも魅惑的なのだ。手に取ってはならぬものならば、子供の手の届かない所に置いて置かなければならない。手が届くところに置いておいた方が悪いのだ。私は既に魂の浄化も流転による救済も望まぬ。全ての業を以て、夢を叶えてみせよう。」
広元は自身の能力を過信していた。しかし、人並み外れて優れているのもまた事実。広元の手は、およそ人間の届かぬ領域に届くのだ。それゆえの必然なのだと言う。そこにあるから、手に取ったのだと。当然の事だったと。
『一業諸感の…』
一業諸感とは前世の業による現世の報いの事だ。
男が、大江広元が始めた転生システムの暴走という始まりの罪を、今この身にて償う事を求めていた。しかし広元は歌を遮った。
「下らぬと言っている!悪業煩悩、無始の罪障、すべてを雪ぐ事を今更私が望むと思うのか。だからお前は死んだのだ。いい加減に理解して人に面倒な説教をするのを止めて成仏する事だ。安心しろ。今更お前の魂はシステムの影響を受けないだろう。」
はじめからすべて分かっていてやったこと。今更後悔や赦しなどを、自身に許可したりはしない。そのような事そのものが許されない事だ。広元の覚悟は絶対に揺るがない。それだけ欲しいものがあった。そして今まさに、その手にしようというのだ。今更いかなる犠牲も被害も厭わない。ただ手を伸ばし続けるだけだ。
広元が苛立ちを表すと、琵琶法師は悲し気な琵琶の音と共にすうっと姿を消してしまった。
庭に毬を転がすと、誉はその小さな手で毬を持ち上げた。
「ほまっち、おいで。」
晋が呼ぶと、誉は笑顔でその腕の中で収まった。晋はその小さな体をしっかりと包み込むと、誉の手の上からそっと毬を持った。
「かわいい柄だね。静姉が買ってくれたの?」
「ううん。お父さん。」
見上げた誉の大きな潤んだ目は、静によく似た意志の強さを感じた。
「恭のやつ…娘にこんな可愛いものを買っているとは。想像したらちょっと笑えるね。」
「おかしい?」
「おかしいよ。どんな顔で選んでるの?あの仏頂面で?」
「ぶっちょうづらって何。」
「え〜?こ〜いう顔!」
晋が必要以上に顔を歪めて不機嫌な表情を作ると、誉は声をあげて笑った。
「恭の真似!」
「似てない!」
「似てるね!こ〜んな顔してるでしょ。普段。こ〜んな。」
「あははっ、してない。もっと、こ〜ゆ〜顔だもん。」
誉も負けじと恭の無表情の真似をし始め、二人はしばし恭の愛想の無い顔の真似をして笑い合った。
しばらくすると、誉は突然笑うのを止め、空を見上げた。
何かに耳を澄ますようにじっと見上げていた。晋も耳を澄ませてみたが、何も聞こえなかった。天を仰ぐ誉の瞳は、他の誰にも見えない何かを見ているように見えた。誰よりも鮮明に世界の色を映す恭の瞳に似ていた。不可侵の領域。ただ隣で見つめるしかない、神聖な何か。晋は恭にするように、ただじっと、その目に映る何かをその目を通して想像した。
そうしてしばらくすると、誉が動き出した。
「ほまっち?」
晋の腕の中からするりと抜け出すと、数歩歩いてから再び空を見上げた。
「何かいた?」
敢えて問う。子供に向かってする優しい問いかけで。普通に。
晋の問いから暫くして、誉は言った。
「お父さんが守ってるもの、知ってる。」
「え?」
晋の疑問に、誉は振り返りながら言った。
「たまごでしょう。」
「たまご…。」
晋の心臓がどきりとした。卵と聞いて思い浮かんだのは、ただ一つだけだった。
卵。それは貴也が種と呼んだもの。龍種。
「もうすぐ生まれる。」
空気に耳を澄ますように誉が言った。
何かの啓示を受ける巫女のようだった。
晋は何か嫌な緊張感を覚えた。一瞬で口の中が乾いて、上手く言葉を紡ぐ事が出来なくなった。何とか振り絞った言葉は、どこか自分の声でないようにさえ思えた。
「生まれるって、赤ちゃん?」
卵から生まれるものは、子供だ。一般的には。けれど、それはただの卵ではない。
「違う。生まれるのは力。とっても大きな力。」
誉の天啓はあまりにも的を得ていた。そして、何より誰よりも真に迫っていた。確信しているのだと思った。
「それは龍の…。」
龍が託した龍の力のスペア。龍の力。契約の龍神の意志によって生まれ出るものであるのか。晋の問いを妨げ、誉は答えた。
「力には心は無いの。ただの力だから。心は人があげるもの。」
それは道具でしかない。使うのは人だ。
神の力に人の意志をとは皮肉なものだ。
「俺は、そのためのものなんだね。」
晋は矢集という業を、誉の持つ確信の上に乗せて裏付けを得ようとした。
契約の管理者としての八つ目の心臓の役割は、人としての意志ではなく、システムの一部としての存在なのだと。使う人の方ではなく、道具の一部でしかないのだと。
誉はただじっと晋を見てから、ゆっくりと頷いた。
「でも、スーには心があるね。」
八つ目という力に、晋という心を与えると、一体何になると言うのだろう。晋は自身の持つ心の善良さに自信が持てなかった。
人の善たる意志をして神の力を使う事は、もしかしたら神への捧げものなのかも知れない。
「龍と人との契約はそれ自体が、善良な意志に基づいて行われたものだ。その契約はそれこそが、信頼の証。そして幣帛。」
いつの間にか誉を迎えに来た恭が、晋の背後から言った。
幣帛。神様への、捧げもの。人が善たる事そのものが、幣帛なのだと、恭は皮肉めいた事を言う。
けれど、確かにそうかも知れないと晋は思った。そもそも龍神と人との契約は温い。罰則がない。地龍の術者が使う、一般的に契約と呼ばれる術はお互いに大きなリスクを負う。契約に背いた場合の罰則が大きい。けれど、龍神と人との間にそれはない。いや、知らないだけなのだろうか。
「神様は、そんな捧げものが欲しかったの?それなら煩悩を消した方が早そうだ。」
晋は適当に流しながら、誉を抱き上げた。
恭は誉の頭を撫でながら、晋の思考回路を読んだのか言った。
「世の中は『昼』『夜』の入り乱れた正に混沌としたものだったと言う。人は龍に縋るしか無かった。契約違反は『昼』の消滅に繋がっただろう。罰則は大いにあったのだ。人には龍神との契約一択しか道は無かった。龍神がその後の人の在り様に何を思ったかは知らんがな。少なくとも、人を信じる事を選んだんだろう。」
「ただバランスを整えたかっただけかもよ?」
「ただ劣勢な方に武力投資しただけなら、長期的な全面戦争になるだけだろ。契約は、『昼』『夜』の共存だったのだ。虐げられてきた『昼』の人間であった者の中で、報復ではなく平和を作る事の出来る者を、求めていたのだろう。」
古い話だ。憶測でしかない。それならば都合の良い、心地よいストーリーを作っておきたいものだ。誉は真面目な話をする恭を見てきょとんとしていた。先ほどまでの巫女のような雰囲気が一切なくなっていた。
「それより、この可愛い柄の毬って恭が選んだんでしょう?どうして俺も買い物に連れて行ってくれないのさ。」
誉の持つ毬を指して恭に迫ると、恭が眉を寄せて言った。
「お前を連れて行くといちいち煩いからだ!」
その顔が、先程の晋の真似と似ていたので、晋と誉は再び笑いだした。恭は意味が分からないながら、二人の笑顔を見て微笑んだ。
「転生組の調査、ですか?」
病室のベッドに胡坐をかいていた光胤が姿勢を正した。
病室の遮光カーテンが、真昼間の部屋を真夜中と錯覚させていた。
「せや。新田祥子殿の記憶を探って過去を調べた結果、転生システムの元となるもんが見つかったらしい。そういうんの解析は専門家に任せるしかないけどな、時間はたっぷりある言う訳やない。俺等は俺等なりに動いていかなあかん。」
ベッド脇の椅子に座った平重盛が真剣に言った。
「それが、内定なんですか?」
光胤の体はまだ万全ではない。随分長い時間がかかるのは、それだけ酷い怪我だった事のほかにも理由がある。光胤が、生物学的には既に人間ではないからだ。
「新田殿の術を盗めるんは少なくとも転生組が関わらな無理やからな。」
「巡り巡って渡った誰かって事はないんですか?」
「転生組が生まれ始めたんは鎌倉時代やで。その誰かかて大昔の人物やろ。」
「…それが九条兼実って事なんじゃなかったんですか?」
「ま、無関係やないやろけどな。光胤、お前蛇姫に主人の名前聞いたんか?」
「いえ…訊きはしましたけど、言いはしなかったですね。」
「そういうこっちゃ。どっちみち仲間がおるはずや。もしかしたら、こっちの情報筒抜け言う事もある。」
「そんなに近くにいたら、とんだ役者ですね。」
長年仲間のふりをしてきた敵など、数多くの内定をこなしてきた光胤でもぞっとする。
「各々内密に調査を始める事になった。」
重盛の言葉に、光胤は表情を曇らせた。
「荒れますね。」
「地龍組織は長老会の件での内部分裂がようやっと収束した所や。それを、また身内のあら探しみたいな事するんは危険やろうな。」
「最悪、組織が空中分解って事になりませんか?」
「ほうしたら小さな派閥に分かれて頭を決める戦が起こるかもなぁ。正に戦国時代や。」
「そんなの簡単に付け込まれて、組織自体が顔も見た事ない敵さんのものにされるかも知れませんね。」
「…ま、十中八九そのコースやろね。」
「案外それが狙いで、敵なんてまぎれてないんじゃありませんか?」
光胤が希望を込めた憶測を口にすると、重盛が溜息交じりに答えた。
「甘いんは味覚だけにしいや。こっから先、温い考えは捨てな生き残れへんで。」
甘さは光胤の核とも言える思想だ。重盛はよく分かっている。だからこそ忠告するのだ。甘さを原因に足元をすくわれたら何にもならない、と。
「肝に銘じます。」
光胤の殊勝な返答に深く頷くと、重盛は改まって言った。
「ほんなら、再び暗躍してもらおか。」
「仰せのままに。」
重盛には、光胤の下げた頭に覗いた突起が、禍々しさよりも懸命さを物語っているように見えた。
春の生暖かい強風が、あっという間に桜を散らしてしまった。
いつの間にか、恭は二十七歳になっていた。十年ひと昔と言うが、本当に十年前には考えもしなかった今を生きていると思う。怒涛の時だった。あの頃、十年前の恭はまだ若く、環境の変化にも疎かった。変わらず兄貴也の愛情があって、その事に感謝も無ければ面倒さも無い、当たり前の事として生きている未来しか、恭の中には無かったのだ。だからこそ、未だに不思議に思う。ここに貴也がいない事を。
そうして恭が時という目に見えぬ泡沫に想いを重ねていると、その日会う予定であった客人・畠山重忠が現れた。
「若者が黄昏るのは早いですぞ。」
おおらかな微笑みでどっしりと座る重忠は、熊のようだ。
「俺とて偶にはぼんやりとしたいと思うものだ。」
恭は軽口を返しながら重忠を見た。大きく深い慈愛のような、優しく広がる博愛のような、柔和な『波形』が広がっていた。多くから長年慕われる人格者に相応しい色だ。
「そうですか。そのような貴重な時間を割いて頂き申し訳ない事です。実は本日はお願いがございまして参りました。」
まっすぐに恭を見る意志の強い目が、また誰かを想って熱く輝く。恭はその輝きをじっと見ていた。静かに頷く恭に促され、重忠は早速本題に入った。
「実は、近頃私の領地に土蜘蛛が出ると言うのです。土蜘蛛は古い妖怪故、情報も定かではないのですが、ともかくその土蜘蛛が暴れ回っていて手が付けられないのです。畠山家の部隊も多く出動させていますが未だ決着が着かぬ状況でして。出来れば助力を乞えないかと…。」
「土蜘蛛…か。平安時代、源頼光が倒して以来、出たという話は聞かないが。まぁ良い。畠山殿が苦戦しているならば人を送ろう。話を聞くに無駄に多くの兵力を送る事に意味はあるまい。こちらで相応しいと思った者を近日中に送ろう。」
恭は重忠の申し出をあっさりと受けた。快諾した割には表情は冴えない。じっと重忠を見ていた。
「して、その依頼のため当主自らわざわざ鎌倉へ?土蜘蛛が暴れて手が付けられない状況を放り出して来ずとも、電話一本で対応したものを。貴殿は俺の側近の妻となる人の父親だ。多少の無理はきくつもりだ。貴殿とてそういう時のために苦労して造ったパイプではないのか?」
恭は突くように言った。重忠の一族への愛情は並々ならない。それを素晴らしい事だと誰もが賛辞を呈するが、恭の目に映る色は美しいばかりではない。そう、愛が美しいばかりであるはずがないのだ。その中核を覗き込むように、恭は重忠に問うた。真意を。
「いえ、お恥ずかしいのですが…今日は仁美を迎えに来たのです。長らく北条家に御厄介になっております故、矢集殿との婚約も決まり一度帰省し身の周りを整えるようにと。しかし今我が領地は申し上げました通り安全とは言い難い。それで、部下達が大変な時に顰蹙なのですが、娘を迎えに。そして、それならば土蜘蛛の件、地龍殿に直接お会いした方が良いと思ったのです。いや、個人的な事を優先するなど当主として失格です。情けない。」
嘘はない。恭の前で嘘をつける者などいない。
恭は息を吐いた。近しい者を疑うような真似はしたくない。しかも、何を疑っているか恭自身分からないのだから、更に良くない。
「…これは、当主としてでは無いので、素直に答えて下さい。重忠殿は、転生システムを終わらせたいと、望んでいるのですか?」
恭は単刀直入に訊いた。イエスかノーで答えられる問答。嘘発見機。これで懸念が消えれば幾分気も晴れる。春の憂鬱が与えた杞憂だと一蹴する事が出来る。
重忠は重いものを首に下げているかのようにゆっくりと頷いた。
「転生組は幾星霜の時を重ね多くの経験をしてきた。楽をしたいとか怠けたいとか、そんなものは死んでから存分に味わえば良い。普通の人にとって人生は一度きりで、だからこそ輝く。けれど転生者は、いつ終わるとも知れない生を繰り返す。輪廻と因果の奈落へ続く闇のようだ。そんな我等に光を与えたのは地龍殿、貴方だ。唯一、転生を終わらせてくれる人。数多の転生組の重すぎる生を、その相肩に背負うのはきっと生半可なことではないだろうが。」
そこにあったのは、恭が思いもしなかった複雑な色だった。千年近い時の中で一体どれ程の事があったのだろうか、単純な是非を問えるものではなかったのだと思い知った。簡単な問答だなどと、恭は自身のあさはかさを悔いた。
春風は歪んだ愛の中で溺死した母親のような纏わりつく手で恭の頬を撫でる。吐き気に似た嫌悪がした。人は単純に二極化出来ない。正義も悪もない。『昼』も『夜』も分けられない。決定的なことから目をそらしたままで、未来を切り開く事は出来ない。大切なことをすぐに失念してしまう自身が、やけに愚かに感じ、また人としての必然のようにも感じた。だからこそ、恭は自分のやり方で立つ。龍神との契約で交わされたものが人の善良さならば、それをもって恭は成そうと思う。それが幣帛に見合う程の尊さを持つかどうかは、神が決める事。
「いいえ。俺には仲間がいます。頭は無脳で良いのです。必要なのは人材の確保です。幸い俺はそこに困った事がない。だから俺は歩き続ける事ができる。」
恭はただ、戦うだけだ。
仲間と共に。
「なんとも羨ましい。」
微笑む重忠の笑顔はどこか切なげだった。
11




