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22 恋慕の事

 鎌倉は七口守護である平兼(かね)(とら)の個人診療所は今や大きな拠点となっていた。始めた当初は小さく、ごくごく趣味の範囲であった場所だが、兼虎の優れた医療系術者としての能力のおかげで、多くの弟子兼隊員が集う重要な場所となった。七口小隊としては異例の戦闘のみではなく、主に医療を専門とする部隊となった事も、ひとえに兼虎の優秀さからだ。

 だが、この診療所は住居兼趣味の場所として始まったせいで、休日というものがなくなってしまった。休日も診療所にいると自ずと仕事に手をつけてしまう。その上兼虎の予定に関わらず来客も多い。

 そんな兼虎を見かねて、かつての弟子だった多田さくらが手伝いに来る事は珍しくなかった。

 「悪いな、手伝ってもらって。」

毎度のことながら礼を言うと、腕まくりしたジャージ姿で振り返ったさくらが答えた。

 「いいえ。逆に勉強させて貰えてお礼を言うのは私の方って言うか…。」

兼虎は優しい笑顔でさくらを見た。さくらはその顔を見て首を傾げた。

 「何ですか?」

 「いや、そういう謙虚な所、変わらないな、と思って。」

 「そ…りゃあ、そう簡単に変わりませんよ。」

謙虚で優しく、どちらかと言えばいつも人の影にかくれてしまうような、密やかな可憐さを持つさくらが、変わらず目の前にいる事を兼虎は愛おしく思った。

 「そうでもない。地龍は過酷だ。人を簡単に変える。戦いの現場は、人の本質を暴くような場面が多くある。だから、変わらない事は尊い。少なくとも俺はそう思う。」

 地龍の仕事の中でも、『昼』を殺める事は最も過酷だと、兼虎は今でも思う。同じ人間を殺す、その事は動物的な本能の奥の奥で嫌悪する。教えられた倫理や常識やルールが無くとも、きっとそれを忌避したろうと思う。その事で人は変わってしまう。多くの仲間がそうであり、そして兼虎自身もそうであったように、殺す事は人を変える。

 今や『昼』の人間ではなく、地龍の武士となったさくらが、かつてと変わらない笑顔である事はとても意外であり、また嬉しい事だった。

 「さくらのお爺さんにも面目が立つよ。」

さくらの祖父からの依頼でさくらを鍛えていた兼虎は、心からの安堵を素直に口にした。

さくらと共に作業を続けていると、さくらはいちいちノートにメモを取ったりしているのが目にとまった。

 「熱心だな。」

 「ええ、医療術ってすごいです。私ももっと勉強したいんです。」

優しいさくらには、最前線の戦闘に特化した直嗣(なおつぐ)の部隊より、兼虎の部隊の方が合うように思えた。

 「うちの部隊にも、さくら程熱心な者は少ない。そんなに興味があるのなら、転属するか?」

兼虎の穏やかな物言いに、一瞬面食らった様子のさくらだったが、すぐに可愛らしい微笑みを返した。

 「それ良いですね。是非お願いしたいです。」


 まるで親子のように穏やかに談笑するさくらと兼虎を、診療所の扉の前で立ちつくす人影が隙間から見ていた。

 「嘘…でしょ。」

人影の正体、義将(よしまさ)は扉にかけた手をそっとおろした。そしてただ小さく呟く事しか出来なかった。

いつも一緒にいたさくらとの唐突な別れを突きつけられ、呆然とその場を後にするしかなかった。

 義将とさくらとの関係は、直嗣の部隊で出会ってからだ。はじめに義将がおり、そこに後からさくらが入って来た。当時からさくらは異色で、一目見ただけで違うと分かった。それは『昼』として生きて来た基盤があるからだし、そして良い意味で朱に交わらないからだ。おっとりとした様子のさくらが、何があっても決して屈しない事に、義将はさくらの強さを感じた。その強さを、義将は尊敬し、愛おしいと思った。

 どれだけさくらに断られても、毎日一緒にいるのだから押し続ければ良いと思っていた。根気よく時間をかければ良いと思っていた。しかしさくらが転属するとなると、そうはいかない。今までのように毎日顔を見る事は出来ないし、何とか理由をつけなければ会う事も無くなるだろう。

 「それは嫌だなぁ。」

落ち込んだ義将の目の前に、見憶えのある姿が映った。

 「義将殿ではないか。久しいな。元気か?」

それは地龍当主である恭だった。濃いブルージーンズに、白のブイネックのシャツの上からグレーのフード付きのパーカーを着たラフな姿だった。手には本屋の紙袋があった。

 「地龍当主も買い物とかすんだね。」

 「…頼めば済むんだがな。買い物くらいたまには自分でしたい。」

地龍当主になるまではごく普通の生活をしていた恭には、当主の生活は窮屈な事も多いのだろう。東京のマンションで一緒に暮らしていた頃は、自由で気ままだった。恭も、晋も、そして義将も。今とは違う、懐かしい日々。

 「ああ。それでその格好なんだ?変装?」

 「黒いとすぐにばれる。」

常に黒いワイシャツと黒いパンツ姿なので、皆恭へのイメージが黒一色になりつつある。

 「確かに。意外性はある。でも普通に分かるよ、恭兄ちゃんだって。今度から帽子とか眼鏡とかすれば?」

 「成程。参考にしよう。」

言いつつ二人は並んで歩き出した。かつてよく並んで歩いた頃より義将は随分身長が伸び、今では恭より少し大きい。かわいい顔も随分と男らしくなり、いつの間にか立派な武士の貫録まで滲んでいるように思えた。恭は義将のジャージに包まれた逞しい体つきを見ながら、時の流れを感じた。

 「昨日まで一緒に暮らしていた気がする時もあるのにな。」

 「なに年寄りみたいな事言ってんの。ま、分からないでもないけどね。晋兄ちゃんはスパルタで、幸兄ちゃんは世話焼きで、父さんは変態。相変わらずな人達見てると、あの頃に戻ったみたいな気がする時あるし。」

父さんは変態、がツボに入ったらしい恭は笑いをこらえていた。相変わらず女言葉で一人寂しい暮らしをしているらしい知将(ともまさ)の姿が目に浮かんだ。

 「ま、何年経っても義将殿は俺達の可愛い弟だろうがな。」

 「あはは、ありがとうございます。俺もこれからも兄ちゃん達に可愛がってもらう気満々なんで、よろしくお願いします。」

すっかり大人びた義将だが、笑うと少しあどけなさが垣間見える。そこがまた恭達をくすぐる可愛さだ。

 「先ほど気落ちしているように見えた。何かあったか?」

恭の問いに、義将はゆっくりと口を開いた。


 「さくらが転属?」

恭の疑問符に、義将は診療所の前で聴いた話をした。そして、また肩を落として呟き始めた。

 「うん。確かに、さくらちゃんは優しくて、いつも誰かを気づかってて、敵を倒すってよりは、仲間を治す方が性に合ってるのかも知れないけど…でも…。」

 離れたくない。それはエゴだろうか。

 「まあ、さくらは昔からマイペースだからな。ああ見えて度胸もある。でなければあの『波形』は保てまい。」

 「そうだね、さくらちゃんが決めた事なら、応援しなきゃだよね。」

好きな人の幸せを祈れずして何が男か、と自分に言い聞かせようとすると、恭が言った。

 「関係に決着をつける良い機会かも知れないな。」

 「え?」

 「義将殿はさくらに想いを伝え、その上で十分に考える時間を与えた。さくらと言えども、自分を想っていると知ってそれなりに義将殿について考えた事だろう。さくらが転属するというならば、この機会に二人の関係をはっきりさせるべきなのやも、と言ったのだ。」

 「…さくらちゃんに、答えを出してもらうって事?」

 「良くても悪くても離れる事になる。良い機会だろう。」

恭の言う事は尤もだと思った。さくらと離れるとしたら、この中途半端な関係のままでは自然消滅しかねない。その前に、義将と付き合うのか無理なのかはっきりとさせる。そうすれば、付き合うならばお互いに時間を作って会えば良いし、無理ならば金輪際とは言わないまでも会わない。そうするべきなのかも知れない。

 「相変わらずはっきりきっぱりしてるね。」

迷いや淀みのない恭のまっすぐさに、義将は歳をとればとる程に尊敬の念を抱いた。人生は歩み進める程に分岐点がある。その度に迷い足を止める。恭のような人は稀有なのだと知った。特別な人なのだと。

 「ま、懸想事に理屈は通用せんがな。」

恭が言いながら持っていた本屋の紙袋から一冊の薄い本を出し、「丁度良い、これをやろう。」と言って義将へ差し出した。見ると、『絶対上手くいく恋愛』などというタイトルだった。半ば無理やり渡されると、持て余すように表紙を撫でながら訊いた。

 「何で買ったの?」

既に静と結婚している恭には必要のない代物だ。

 「晋にやろうと思ってな。」

 「…晋兄ちゃん恋愛のハウトゥー本なんて読まないと思うな。」

 「いや、あれでこういった事には不器用だからな、心配なんだ。」

 「…へ…へぇ。そっか…恭兄ちゃんも大変だね。」

絶対間違っている!と心の中で叫びながら引きつった笑いを浮かべる義将は、とりあえず本は晋のためにも自分が貰っておこうと思った。



 結局うだうだと悩みながら翌日になり、義将はいつものように部隊の仕事に向かった。

 鎌倉七口は基本的に鎌倉の守護と源氏当主の直轄部隊としての役割がある。源氏当主直轄の命令は非常時に下る事が主であり、普段はそれぞれが持つ部隊がメインだ。元々は鎌倉の守護のために設けられた部隊だが、現在は通常の部隊で手に負えなかった大きな揺らぎの討伐を受け持っていた。

 貴也が当主であった頃は、七口のメンバーが地龍当主の私兵である『龍の爪』を兼任していたため役割も責任も大きいものだった。けれど恭が当主になり『龍の爪』を解かれたため、七口の仕事に専念できるようになり、七口のメンバーは各々の部隊に力を入れるようになった。その所為か各部隊の特色ははっきりとしている。

 中でも直嗣が指揮する亀ヶ(かめがやつ)小隊は才能ある若者の育成に力を入れている。直嗣の言う育成とは経験値アップであるため、地域問わず多少小さな案件でも面倒な状況でも積極的に受け持っている。

 義将が所属する班の集合場所である亀ヶ谷切り通しの六地蔵の前に行くと、別の班のメンバーが集まっていた。

 「あれ?今日うちの班じゃなかったっけ?」

義将が訊きながら駆け寄ると、男達は時計を見た。

 「いや、俺達はあと十五分で出る予定。和田の班はその後だろ。」

言われて時計を見ると確かに集合までに三十分あった。少し早く来過ぎたようだ。直嗣は仕事の大きさによって隊編成を区切っている。小さな案件は四・五人の班に分けて割り振っている。男たちは五人おり、人員は揃っていて時間を待っているのだろう状況だ。時間厳守は基本、揃っているからと言って早めも遅めもない。

 「そっか。早過ぎたんだ。」

仕方ないので一緒に時間を待っていると、男たちの雑談が始まった。

 「しっかし和田の班は大変だな。」

 「え?何が?」

 「だってよ〜、なぁ?」

 「そうそう。皆言ってるぜ。」

口ぐちに言う言葉に厭な予感がした。

 「子供に女に、まともなのは和田だけだろ?いくら和田家の御曹司だからって、女子供のお守なんてついてねぇよな。」

義将の班は、亀ヶ谷小隊で最も歳下の十五歳と十六歳の少年たちと、唯一の女性であるさくらで構成されている。一番年下が義将の下についたのは、元々義将が最年少であった事から直嗣が適任と判断したためで、義将はその事を誇らしいとすら思っていた。そして、紅一点であるさくらを重荷に思った事などただの一度たりともない。

 「そんな事ないよ。俺はこの班で良かったと思ってるし。」

はっきりと言う義将に、少し不快感を表しながら男たちが次いだ。

 「何強がってんだよ。別に隊長の前じゃねぇんだから良い子ぶらなくて良いんだぜ?」

 「多田の事だって、『昼』上がりで、しかも多田家の末裔なんて、厄介者だって思ってんだろ?」

 「確か、地龍様に取り入って良家の養子にして貰ったんだろ?亀ヶ谷小隊の入隊だって隊長に取り入ったんだろ。」

 「そうだな、女なんだから、その辺はな。」

 「それとも何、和田もハニートラップに引っ掛かってんの?」

言いながらにやにやと笑う男たちを見て、義将は拳を強く握った。

 「さくらちゃんがそんな事する訳ないだろ。一緒に戦って、彼女の実力は知ってるはずだろ。その上でそんな事言ってるなら、ただの妬みだよ、そんなの。」

どこぞの御曹司の多い部隊だ。プライドは人一倍の曲者が多い。さくらが目障りなのだろう。地龍で育っていないさくらには余計な知識が無く、直嗣の教えを誰より素直に吸収している。弓の腕などは部隊一だろう。それが分かっているから、余計にさくらを快く思わないのだ。家を背負っている訳でも、出世願望もないさくらが優れている事が、不愉快でたまらないのだ。

 「何だよ、和田。他人を庇ってやる程お前は余裕ってか?」

他者を蹴落としてでも上に、その欲が無ければこのような鎬を削る部隊に所属したりしない。短期間で叩き上げる超ハードな部隊で、誰より早く強くなって上へ。それが殆どの隊員の願望だ。仲良しごっこをするためでも、仲間づくりのためでも、ましてや恋のためでなど有り得ない。皆必死なのだ。

 「まさか。俺は必死だよ。でも、陰口を叩いても強くなれない。それだけ。」

まっすぐに純粋な瞳で見返す義将に、男たちは閉口した。

 「時間だ。行くぞ。」

班長がつぶやくように言うと、全員黙って去って行った。

 後ろ姿が消えたのを確認してから、義将はようやく溜息をついた。

 下手したら殴ってたな。握り締めた拳を解いて鼓動を整えた。

 そこに、ゆっくりとした足取りでさくらが現れた。

 義将はさくらを見つけると、再び鼓動が高鳴った。いつものようにジャージ姿の小さな体に長い弓を携えていた。さくらの弓には弦がない。小さく華奢なさくらが戦闘で弓を使うのには純粋に筋力が足りていないと判断した直嗣がさくらのために編み出した術で、弦も矢も術によって造り出すため、必要なのは背だけなのだ。これはさくらの実力あっての技であり、現段階で真似出来る隊員はいない。こういった部分が他の隊員を焦らせ妬ませる要因なのだ。義将はその気持ちもよく分かる。それだけさくらは優れている。

 近付いて来るさくらを見ると、転属の話を思い出し義将の胸は痛んだ。目を見る事が出来ずに、長い弓を見た。弓把から上を二所籐、下を密にした本重籐の弓だ。随分古風だと思った。今時銃もボーガンも何でもあるし、何でも有りなのだ。素直でありながら独自の拘りを見せるさくらを象徴するような弓。そのしなやかな曲線を視線で追っていると、さくらが訊いた。

 「初めて…じゃないよね?今みたいな事。」

義将は思わずさくらの目を見てしまった。まさか見られていたとは思わなかった。

 「知ってたの?」

 「まぁ…私の事だしね。皆私によくしてくれるけど、どっかで快く思ってないなって事は、そりゃあ分かるよ。」

さくらが養子になった家は恭が頼み貴也が選んだ家だ。申し分ない程の地位を有している。それ故にいくら快く思わなくても皆直接さくらに当たる事は出来ないのだ。喧嘩を売って不利になるのは喧嘩を売った方になりかねない。たとえ名乗っていなくても家名がさくらを守っているのだ。

 「でも、義将くんが守ってくれてた事は、知らなかった。ありがとう。いつも強いね。」

 「さくらちゃんこそ、強いね。全然へこたれないんだ。」

仲間に誹られても、気にしている様子はない。一見弱弱しい女の子でしかないというのに。

義将の言葉に、さくらは困ったような笑顔で肩をすくめた。

 「…う〜ん。ちょっと違うの。ず〜っと『昼』で生きてきて、突然地龍の人になったでしょう?だから全然現実感湧かないって言うか、自分の事じゃないみたいで。」

 「さくらちゃんの事悪く言われてるのに?」

 「う〜ん、そう、だね。家の名前とか、血筋とか、そういうので差別する感覚?っていうのがイマイチ分からないんだよね。『昼』には、少なくとも私が生きて来た世界には、そういうのは無かったから。私がやらかした罪の罰なら分かるよ?でも私自身とは関係ないって言うか、どうしようも無い事で悪口言われても、ねぇ?それでどうしろって言うのか、よく分からないんだよね。落ち込んでめそめそ泣いてれば良いの?それこそ意味なくない?」

義将の中には地龍の価値観が根付いている。けれど、父・知将が『昼』の人間だった亡き妻を想い、『昼』に似た家庭で育てた価値観も備わっているのだ。そのため、さくらの言う事も何となく分かる気がした。

 「俺は駄目だ。俺は父さんの事とか、母さんの事とか、今でも悪口言われると傷付くよ。」

知将の性癖だとか、母が『昼』の人間だとか、和田家嫡男のくせに貧弱だとか、義将を悪く言うネタは数多くある。その一つ一つに義将はいちいち傷付く。

 「それは義将くんが優しいから。あと、責任があるから、でしょ?」

 「責任?」

 「家を継ぐって、そういう事なんでしょう?地龍の人たちにとっての名前の意味、私本当には分かってないと思う。でも、そこには責任が伴うんだよね?義将くん見てれば解るよ。大事にしてるって。」

さくらのどこか申し訳なさそうな優しい笑顔が、義将を柔らかく包んだ。

 「やっぱり好きだな。」

反射で口にした言葉に、さくらは目を大きく見開いていた。

 「驚いた顔も可愛いね。」

殆ど照れ隠しで言うと、さくらが顔を赤らめて眉を吊り上げていた。からかわれたと思ったのだろう。結局こうしていつもはぐらかしてしまう。もしかしたら、さくらは義将の気持ちを本気だと思っていないのかも知れないと思った。怒った顔も可愛いさくらを見ていると、残りのメンバーもやってきて時間となった。



 晋と(ひと)()は、新しく建てた墓の前で手を合わせ、目を閉じた。晋が目を開けると、仁美はまだ目を閉じていた。しばらくその横顔を見ていると、ゆっくりと目を開けた仁美が晋を見た。

 「何をそんなに真剣に拝んでたの?般若心経?」

 晋にとって仁美は不思議が多い。仁美は地龍唯一の霊師(ぎょくし)だ。触れれば感情も思考も記憶も、他人の全てを知ることが出来るという。けれど普段は使用していないらしい。使用不使用が自在であるらしいそれが、いつ使われているのか傍から見ても知る事は出来ない。今こうして一心に手を合わせる仁美が何を見ているのか、晋には到底理解が及ばないのだ。

 「此処には、晋さんの御両親が眠っていらっしゃいますのよ。私お話したい事が沢山ありますもの。」

 白くて小さくてふくよかな仁美の容姿は誰が見ても癒しを感じるだろう。絵に描いたような幸福を着た御譲様にしか見えない。けがれを知らない清らかさを纏った仁美に、霊師となるに至った過酷で壮絶な過去の片鱗すら見つける事は出来ない。

 「そうだね。こうして手を合わせられるのは、ひぃさんのおかげだよ。ありがとう。」

 矢集(やつめ)家の墓は地龍公式には罪人の墓だ。弔う事すら許されない。故に仁美が父・重忠(しげただ)の手を借り内密に建てた。墓を建てたいと言った時、恭は大いに喜んだ。本当は矢集は龍との契約履行の管理人としての使命のために地龍当主を手にかけて来たのであって、罪人ではないと言えれば、密かに墓を建てる必要はないのに。けれどそれを公にする事は、龍脈の枯渇や転生システムの起源などに触れる事になり、組織の混乱を招く。恭は申し訳なさそうにしていた。

 「いいえ。私は私の入るお墓を建てただけですわ。」

仁美の言葉に、晋は動きを止めた。晋の返答を待たずに、仁美は言った。

 「お慕い申し上げております。私と結婚して下さいませ。」

聴き間違いかと思って仁美を見つめたが、仁美は晋をじっと見つめていた。晋は仁美の言葉が幻聴でない事と、真剣である事をじわじわと実感してから、ゆっくりと動揺した。

 「…ちょっと、ずるいでしょ、そういうの。」

 「何がですの?」

 「何がって…。」

 墓を前にムードもへったくれもない不意打ちともいえる逆プロポーズをしておいて、仁美は悪びれもない。晋は『昼』のベタベタな定番に憧れる仁美らしくないと思った。プロポーズは夜景の見えるレストランで男から、とか言い出しそうなものなのに。けれど、それが逆に真剣さを感じさせた。ただの幸せな恋人同士ではない事を、仁美はよく理解しているのだと、感じた。八つ目という宿命が晋にとってどれだけ大きなものかを、知っていて言っているのだと。晋はゆっくり仁美に向き直り、身をかがめると視線を同じ高さに合わせた。

 「まず、俺と本当に結婚したいなら言っておきたいことがある。」

 「何ですの?」

 「ひぃさんに矢集の子を産ませる訳にはいかない。あの穴に、ひぃさんを埋める事になるのは御免だから。」

穴を掘り返し、こうして墓を建てた今でも、その意味は変わらない。八つ目の使命のために使い捨てにされた女たちの骸が葬られた場所だと。このまま八つ目であり続けるならば、仁美は子供を産めば用済みとなり、いつ死んでもおかしくない。先祖の死因は不明だが、そう感じざるを得なかった。それだけ不吉な穴だった。

 「晋さん…。」

 「もし全部、済んで、八つ目の役割が終わったら、そしたら…。だから結婚するにしても何時になるか分からないし、その時が来てももう子供を望める年齢じゃないかも知れない。それに、今俺と結婚の約束をする事は、将来を確約することにはならない。どちらかが怪我や病気で死ぬかも知れないし、心変わりするかも知れない。それに何か事情が変わって結婚できなくなるかも。そうなった時、返って結婚の約束をした事が重荷になるかも知れない。それが分かってて、それでも俺と結婚を望む?」

具体的な将来設計などした事がない。晋はこれから先自分に待ち受けるものが漠然と大きく過酷であると想定しても、その先までは考えが及ばない。故に約束は、決して容易く出来るものではない。

 「晋さん、それは当たり前の事ですわ。約束は将来の確約なんかには成り得ないです。時は流れるし、状況は刻一刻と変わるものです。思いもよらない事が起こるのが人生ですわ。だから私は貴方に人生を保障して欲しいのではありません。気持ちを、確かめたいのです。今の本当を見せ合いたいのですわ。もしこの先どんな事があっても、決して今を嘘にしたりは致しません。私は貴方を愛しております。」

この先何があっても、約束が果たされなくても、それでも今ここで交わす心は嘘になったりしないのだと。そのための約束なのだと、仁美は晋を諭すように自身に言い聞かせるように言った。

 「…俺も、ひぃさんを愛してる。いつか、結婚しよう。」

 「ええ、きっと。」

晋の答えに、仁美は深く頷いた。

 「誓いを立てようか?」

晋は口約束を形にするべきかと考えた。地龍の恋人同士がよくやるように、誓いを立てるべきかと。問うと仁美は満面の笑みを向けた。

 「いいえ。私指輪が良いですわ。『昼』の方達は指輪で誓いを立てるのでしょう?憧れておりましたの。」

 「っふ、ははは。ひぃさんらしい乙女趣味だね。いいよ。婚約指輪を買おう。給料の三か月分のね。」

 「まぁ、素敵。」

 「俺の給料は人を殺して得てるものだから、屍の上に成る花嫁ってことになるけど、気にしないよね?」

 「まぁ、興奮いたしますわ。」

晋が手を出すと、仁美はその小さな手をそっとのせた。



 電話で晋の婚約の報告を受けた義将は、自室で何故か恭から貰った恋愛指南本を握って喜んだ。それから、そのままのテンションで自主練に向かった。さくらがいつも自主練している時間だ。場所も知っている。何もかもが勢いだったが、そういう力も時には必要だと思った。

 訓練場の扉を開けると、思った通りさくらが一人で弓を引いていた。

 「さくらちゃん!」

作法も何も無くずかずかと上がり込み、さくらの目の前に立つと、さくらは呆然と義将を見ていた。

 「どうしたの?突然?私何かやらかした?」

 「さくらちゃん、俺、ずっと訊きたかったんだけど。…その、転属するって本当?」

 「え?」

 「兼虎さんの所で、転属するって言ってたの聴いて、ずっと気になってて。」

義将の強張った顔を見て、さくらがあっけにとられたままで答えた。

 「…しないよ。私、ここにいるよ。」

静かな訓練場に、二人の呼吸だけが響いて、鼓動までもが響き合いそうな程の距離だった。

 「私ね、直くんに言われたの。仲間を治すのは凄い事だけど、誰も傷付かないように戦う事も、凄くない?って。それでこの部隊に来たんだよ。だから、どこにも行かないよ。皆のために戦う直くんがここにいる限り、私は一緒に戦う。私に出来る事がある限り、ここで一緒に戦うよ。」

 「…そうなんだ。そっか、良かった。」

義将が肩を撫で下ろすと、さくらが少し怒ったように睨んだ。

 「それにしても義将くん、立ち聴きなんて感心しないな。」

 「ごめん。…あ、もしかして、さくらちゃんは直さんの事…。」

義将が先程のさくらの話を曲解して好意に直結させようとした時、さくらが大きな声で遮った。

 「違う、違うよ!直くんは尊敬してるけど、違う。そういうんじゃないよ。」

 「…そうなんだ。良かった。」

再び肩を撫で下ろす義将に、さくらが困った顔で訊いた。

 「義将くん、私を好きになるのは、義将くんの大切なものを傷付けない?」

 「え?」

 「私は自由だから、好きに生きてるけど…義将くんは違うでしょう。和田家を継ぐ事。そのために私は相応しい相手じゃない。その事が義将くんの道を歪めてしまうのは、私の本意じゃないんだよ。」

 「そんなの…。」

 「私きっとつまらない大人の理屈言ってるよね。でもね、今ならまだ、引き返せるでしょう?義将くんにはこの先きっと全てを兼ね備えたぴったりの人が現れると思うの。だから、私を見るのはやめなよ。」

 「さくらちゃん…。」

 「やめた方がいい。」

 いつもはもっと近くに感じる小さく柔らかなさくらが、手の届かない歳の離れた大人の女性に見えた。

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