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20 輪廻の事

  以前より少し低くなった空に浮かぶ鱗雲が、涼しい風に吹かれて西へ流れて行く。殺人的な程に刺す陽光は和らぎ、もの寂しさを漂わせながら季節の移ろいを知らせて来る。

 「休まらないね。」

静が誉をあやしながら恭に言った。

 「問題は山積みだからな。」

恭は静の隣で息を吐いた。

 もし恭が一介の武士であったならば、自分の担当地域の問題だけに向き合えばいい。そうそう事件に出くわすことも無いだろう。けれど恭は地龍組織の頂に立つ。故に全国各地の事件が恭の問題だ。尽きることはない。

 特に今年の夏は、夜好会の討伐があった。これは例年にない大きな案件だった。そしてその事件が残した課題は大きい。

 「兄さんならば、どうしただろうな。」

恭は滅多に言わない言葉を口にした。静は、それは弱音なのだろうと思った。

 「貴也さんは、恭ならどうする?って言うわ。いつだって恭の考えに興味を持ってたもの。」

 「そうか。ならば期待はずれにならないようにしなければな。」

恭と貴也は全く違う。故に貴也のやり方など真似する気にもならない。それでも立ち止まった時、貴也ならば、と思う。それはやはり弱音のようなものなのだろう。

 「檻と(らん)(きょう)は手の内にある。それは地下迷宮と転生システムのプロトタイプと言えるものかも知れない。これを追及していけば、少しずつ真実に近付いて行くだろう。」

揃い始めたピース。

 「優れた研究者を集めて急がせるんでしょう?」

静は、このピースの解明に全力を注ぐ事に疑問を抱かない。

けれど恭は…

 「いや。この件は水面下で進めようと思う。」

 「どうして?こんなに重要なヒントが集まったのに。それを内密に調べるって事は、人員もそう割けないって事よね?効率が悪いんじゃない?」

時間は無限ではない。

 「檻と鸞鏡が俺の手の内にある事は既に、(かね)(さね)公の知る所だろう。故にこちらの情報量を掴ませたくない。出来れば今まで通り、見当違いな所でもがいているように思わせておきたい。」

 「それだけ警戒するべき相手って事なのね。」

 「ああ、今回の夜好会討伐は多くの得るものがあった。だが、俺達が近づいている事を気取られれば、向こうは必ず仕掛けてくる。これ以上手段を講じられては、今の俺達には不利になる一方だ。時間も無い、急がば回れと言うだろう。ここは慎重に行動せねばならない。」

恭は意志を強く持てと自身に唱えるように顎を引いた。急いては事をし損じる。

 「…そっか。けど、勿体無いんだ〜。」

静の言葉の意味が分からず恭が首を傾げながら見た。

 「何が?」

 「今恭の周りにいる人達は皆類稀なる精鋭達でしょう。なのに活躍が公表されない。本当なら地龍中に名を轟かせて持て囃されてるはずなのに。」

転生システムの破壊に関わる事案を内密に進める限り、危険は多くハイリスクな案件ばかりとなる。それらに関わる武士達の仕事は公にされない。もし全てが終わり、何もかも明るみにする時が来るならば、その武士たちの名は歴史に残るものとなるのかも知れない。それを欲しがるのは実に静らしい。

 「その分の見返りは与えなければな。けれど皆、目的は同じだろう。転生システムの破壊と、その先にある時代。」

 「その時代を担って立つのね。」

幸衡(ゆきひら)春家(はるいえ)、現在の鎌倉七口や、千之(せんの)(すけ)をはじめとする新しい思想の部隊、(みつ)(たね)や晋と言った影で尽力する者、恭を支える面々は間違いなく比類なきゴールデンエイジだろう。新時代の息吹。

 「その時代を迎えるためにも、俺がちゃんとしないとな。」

恭の言葉は固く、少し不安と緊張を含ませていた。そんな恭の肩に寄り添うように静の頭が乗った。(ほまれ)の伸ばした手が恭の指を掴む。温度が、恭の不安と緊張を解きほぐした。



 源氏本家の一室で、源義平が呆れた声を出した。

 「しっかし、涼しい顔して無茶苦茶やるよな〜。幸ちゃんさぁ、これ上手くいかなかったらどうするつもりだったの?」

 幸衡が報告方々義平を訪ねると、義平は報告書を見ながら言ったのだ。義平を呆れさせたのは、夜好会討伐での幸衡の策についてだった。

 蛇姫捕縛のために幸衡が実行した作戦は非常に危険なものだった。

蛇姫を檻へ転移させる事。そのために大きすぎる蛇姫の力を削ぐ必要があった。削ぐと言っても消耗戦に持ち込んでも勝てる見込みは無かった。そのため、蛇姫から直接力を吸い取ってしまうというのだ。

 手品や魔法と言っていい程の荒唐無稽さだった。

 「恭の豪快デタラメがうつったんじゃないか?」

義平の言葉に、幸衡は顔色も変えずに答えた。純白の視線がまっすぐに義平を捕えていた。

 「確かに、賭けではありました。しかし、やる価値があると思いました。故に実行したまでです。」

 「価値ね、まぁ結果的に価値は大いにあった訳だけど。」

 「蛇姫の力を離れた場所へ移し、またそれを別の力に転換して使用する事が可能であれば、それは龍脈から転生システムへ力を利用する方法に極めて近いもの。これまで鸞鏡の構造解析を進めてきたあきらの仮説を試してみる千載一遇の機会でしたので。」

幸衡の言う事は尤もだが、それは飽くまでも結果論だった。

 「失敗した場合は?」

 「…決して無策だった訳ではありません。ですが、私は殆ど成功すると確信しておりました。あきらの仮説は私も何度も推敲しました故。」

自信があった、と言う事だ。義平は頷いた。けれど気になった事は少し別の所にあった。

 「幸とあきらって家でもそんな仕事の話してんの?」

 「プライベートな質問にはお答えしかねます。」

一瞬真面目くさった線引きをしたように思ったが、義平が見ると幸衡は微笑を浮かべていた。解りずらい冗談、「ご想像におまかせします。」という意味だろうか。幸衡はそのまま、報告書を置いて去ろうとした。

義平は複雑そうに肩をすくめながら言った。

 「悪いね、俺達転生組の所為で苦労をかけて。」

義平の言葉に去り際の幸衡は一瞬目を見張る程美しい笑みで返した。

 「転生組の皆さまが引退して下さらないと、我々の時代が訪れませんので。」

本気なのか冗談なのか厭味なのか全く判別がつかないまま、義平は引きつった笑顔を無理やりに作ったが、幸衡はそれを見る事もなく去って行った。

 「かわいくねぇ…。」



 京都にある地龍の医療施設は一見普通の病院のように見える。けれど『昼』を受け入れる事はない。そして医療従事者達も皆地龍の者だ。こういった施設は全国各地に数多くある。地龍専門の病院であり、また各医療班の拠点でもある。

 そんな施設の一室に、光胤は長期療養を余儀なくされていた。

眠る光胤のベッド脇で、(むね)(すえ)はじっと座っていた。

全身の骨折や打撲、斬り傷や火傷の所為で、ミイラ男のようだ。そんな光胤を宗季は無言でじっと、ただ見詰めていた。

 そんな宗季の後ろから、唐突に声をかけた男がいた。

 「そない見つめたら穴開くんちゃうか?」

柔らかい声に、宗季は驚いて振り返った。そこには和装を着こなした平重盛が立っていた。さらさらの黒髪と少しつり気味な切れ長な目が随分懐かしく感じた。実際宗季が重盛に会うのは一年ぶりくらいになる。普段は鎌倉七口として鎌倉に腰を据えている宗季は、京都にいる重盛に会う機会は少ない。とは言え、長老会壊滅後は源平の関係も改善されつつあり、かつてのように平家からの派遣としての立場はあってないようなものだ。いつでも堂々と帰郷する事が出来る。そして重盛も鎌倉にある地龍本家にしばしば出入りしているため、会おうと思えば機会はいくらでもあるのだ。

 「ご無沙汰しております。」

宗季が椅子から立ち恭しくお辞儀をすると、重盛は見舞いに持ってきた菓子の箱を手渡した。宗季は箱を受け取りつつ、椅子を勧めた。

 「先程まで吉池殿がおりました。春家殿も毎日みえます。他にも、多くの方が見舞ってくださいます。兄は、多くの方に慕われているのですね。父も驚いておりました。」

 「光胤は人の本音に光を当てるさかいな。あほ程まっすぐやろ。」

 「ええ。…(らん)(ちょう)の羽には瘴気を浄化する力などないそうです。」

光胤が『夜』に転化しかけた時、体にたまった『夜』の瘴気を浄化したのは、千之(せんの)(すけ)が修吾に託した蘭の羽だった。そのおかげで光胤は転化を免れた。けれど、鸞鳥の羽にそのような力はないと、あきらを始め医師たちは口を揃えて言った。

 「そうか。そんならそれは、羽やのうて蘭ちゃんの想いなんやろな。」

 「さすが兄さんだ。…俺、兄の窮地に駆け付けられなかった事を悔いていたんです。けれど、兄にはこんなにも仲間がいたのですね。皆が兄を慕う気持ち、よく分かります。弟の俺から見ても、兄は格好良いですから。」

宗季は誇らしげに重盛を見た。

 「ブラコンも大概にしいや。はよ兄離れせんと立派な武士にはなられへんで。」

 「善処します。」

宗季が薄く笑うと、反比例するように重盛が目を伏せた。

 「結局俺自身も光胤によう頼うてしもうとる。無茶させてもうて、かわいそうな事したな。」

重盛の言葉に、宗季はまるで自分自身の事のように答えた。

 「重盛様は兄にとって恩人ですから、兄は重盛様のためならばどのような事も厭いません。それが兄の喜びなのです。」

廃嫡となった光胤は居場所が無かった。それを与えたのは重盛ただ一人であった。光胤の恩人であり、忠誠を誓った主なのだ。主のために一生懸命になる事、それは光胤にとって喜びに他ならないと、宗季は知っていた。

 「人を忠犬みたいに言うな。」

二人の会話に、不機嫌そうな光胤の声が割りこんだ。

目を覚ました光胤と目が合うと、宗季は優しく微笑み一歩後ろへ下がった。重盛は光胤を覗き込んだ。

 「起こしてもうたな。」

 「いえ、むしろ来たんなら起こして下さいよ。こんな体勢ですみません。」

光胤は心配そうにする重盛を見て、恐縮そうに謝った。

 「ええんや。しっかり休み。」

 「情けないです。こんなになって、皆に助けられて。主にも心配かけて、本当に申し訳ありません。俺様、今回の分取り返すんで、挽回のチャンス下さい。」

病院のベッドで、動く事もままならないというのに光胤の目はぎらぎらと輝いていた。

 「今は、ちゃんと休んで、ちゃんと治し。…けど、挽回の機会言う訳やないけどな、お前に頼みたい仕事がある。それはすぐとちゃう。もっと、先の話や。」

 「はい。是非やらせて下さい。」

内容も聴かずに二つ返事をした光胤だが、重盛の真面目な瞳に、少し戸惑った。

 「主?」

 「…地下迷宮攻略に参加して欲しい。」

重盛の言葉に衝撃を受けた光胤は、反射的に体を起こそうとしてしまい、その痛みで呻いた。

 「お…俺様が…ですか?」

 「今回の夜好会の件含めここの所の調査で、地下迷宮にあるんは転生システムの核なんちゃうかいう結論に達しそうや。転生システムの破壊は転生組の悲願。おそらく多くの転生者が攻略部隊に参加する事になるやろ。もちろんそうなれば俺も参加するつもりや。その時は、光胤、お前の力を借りたいて思うとる。来てくれるか?」

 「…マジで言ってんですか。そんなもん行かない馬鹿はいないですよ。やっぱ駄目って言われても行きます、絶対行きますからね。」

興奮したように念を押す光胤に、重盛は嬉しそうに何度も頷いた。

 「しかし、何故兄なんですか?」

宗季が疑問を素直に口にした。光胤は余計なことを訊く宗季を恨めしげに見た。話の向きによって覆されてはたまらないと言わんばかりの目だ。しかし、重盛はその心配はないとばかりに落ち付いた様子で、光胤の頭に手を伸ばした。ふわふわとした質の髪をすくように指を入れると、その奥に隠されていたものを暴くように髪を退かした。

 「これや。」

光胤は自身の頭部を見る事は出来ないながら目を上へ向けていた。重盛が指摘した場所には、小さな突起物があった。宗季は目を見張った。

 「角?」

光胤の頭部には、小さな角がひとつ隠されていたのだ。

 「転化しかかった所為だろうって。まぁ低俗霊ならまだしも、勢いで鬼まで喰っちまったからなぁ。その名残?的な。大丈夫、特に害はねぇらしいから。」

 「大丈夫って…。で、これがどうして兄が地下迷宮に行く理由になるのですか?」

光胤の変化に戸惑いながらも宗季の至極当然の問いに、重盛は落ち付いて答えた。

 「地下迷宮探索の報告の中に、鬼の角を持っとった事で、迷宮内の瘴気の中で正気を保ったいう情報があってな。もしかすると光胤なら不足の事態が起こった時、迷宮内を自由に動き回れるんちゃうか思うてな。」

鬼を喰らい鬼の角を手に入れた光胤ならばあるいは。二人は聴いたことのない話に、困惑した顔をしていた。

 「それからな、光胤が拘っとった夜好会の檻やけど、あれは地下迷宮を解き明かすために必要なものやったわ。調査御苦労。ようやった。」

 「いいえ、少しでも役に立てたなら良かったです。檻に閉じ込められたから言うんですけど、あの中はやっぱり普通の空間じゃないですよ。もし地下迷宮ってとこが檻の中と同じ環境だってなら、かなり厳しいと思います。」

 「そうか…。他にも、檻の事で思い出せる事あるか?」

重盛は光胤の記憶に呼びかけるように問う。光胤は少し目を閉じた。そしてうっすらと思い出した。

 「そう言えば『夜』に飲まれながら、歌が聴こえたような…。」

 「歌?」

 「祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘の声、諸行(しょぎょう)無常(むじょう)の響あり。」

光胤が呟くと、宗季は首を傾げた。

 「何故平家物語?」

 「さぁ?」

兄弟が疑問符を飛ばし合っている中、一人重盛は眉をひそめた。

 「諸行無常…。」

蛇姫の言葉がよぎる。

重盛は不穏な何かを感じていた。きっとそれは恭も同じだろう。死んだ蛇姫の残骸を見る恭の目には、困惑と不安が映っていた。重盛の中に薄い闇が立ちこめようとした時だった。

 「主、お願いがあるんですけど…。」

光胤がおずおずと声をかけた。重盛も宗季も、どうせ甘味を要求するのだろうと思いつつ続きを促すと、光胤は視線で指した。その先にはテーブルの上に置かれた抜き身の刀があった。

 「また鞘壊したんか。」

重盛が半ば呆れたように訊いた。光胤は苦笑いを浮かべていた。

 「分かった。手配しといたる。」

重盛は特注の鉄製にでもしてやろうかと考えながら病室を去ろうとした。見送る兄弟に、ここで良いと言わんばかりに手を上げ、言った。

 「二人とも、気張りや。」

相変わらずの言葉を残して、重盛は蝋燭の灯が消えるように去って行った。

残された二人は、目を合わせ、笑った。



 「これ以上あきらを拘束するつもりなら、いくら祥子ちゃんでも許さないよ。」

あきらは夜好会の案件以降、事後調査などに使われまくってろくに休んでいなかった。元より自由な質のあきらが大人しく働いているのは無論幸衡あっての事なのだが、それも限界と言わんばかりに祥子を睨んだ。

 「知らないわよ。私が命令してる訳じゃないもの。嫌なら帰ったらいいじゃない。少なくとも私は止めないわ。」

祥子はそっけなく言った。けれど実際、適度に休んでも誰も文句は言わないはずだと思った。

 「やだ。あきら頑張ってるもん。でも途中で投げ出したら幸くんに嫌われる。ここまで頑張ったのに水泡に帰すのは悔しい。…それにあきらより幸くんの方が頑張ってるんだ。帰っても居ないのに、帰る意味なんてないよ。」

 「何だか哀れになってきたわ。」

結局はどこまでいっても幸衡を中心に回っているあきらの世界を、病的にすら思う。

 「絶対に良い事ある。あきらのカンがそう囁くんだ。」

あきらがうわ言のように言った時だった。襖が無遠慮に開かれた。そこに立っていたのは、幸衡その人だった。やつれたあきらと、祥子が呆然と見上げていると、幸衡は丁寧に頭を下げた。

 「失礼致しました。北の方様がいらっしゃるとは存じ上げず。」

あっけに取られながら会釈をする祥子の横で、神が降臨したかのようなリアクションであきらが口を開けたまま瞬きも忘れて幸衡を見つめていた。

 「あき、迎えに来た。帰ろう。」

 「…え?幸くんがあきらを迎えに来てくれたのかい?待って、ちょっと待ってて、すぐ片付けるから。」

あきらが慌てて広げた書類を片付けようとすると、祥子が手伝いながら言った。

 「私がやっておくわよ。」

 「いいえ、私も手伝いましょう。」

祥子の申し出を断り、幸衡も加勢した。

 「今回の事でかなり状況が進んだわね。あなた達の力はとても大きいわ。ありがとう。」

祥子は書類をまとめながら言った。あきらはそれを横目で見たが何も言わなかった。

 「いいえ。私は職務を全うしているだけの事。」

 「あら、殿から、幸衡は転生組の引退を目的としていると聴いているけれど?それが職務なのかしら。」

祥子は義平に対して幸衡が投げた言葉を引用し、すこし意地悪を言ったつもりだったが、幸衡は長いまつげを微動だにさせずに帰した。

 「ある意味では、そうとも言えるでしょう。地龍組織は、そこから始まる。貴方方を失って後、どうなって行くのか、そこからが真価を問われる事となりましょう。私はその時代を築く事をこそ私のやるべき事と考えております故。」

祥子は幸衡の美しい顔を今までただの造形美としてしか捉えて来なかった。その中に詰まった思想や意志の気高さに驚いた。

 「そう。頼もしいのね。」

 「惚れちゃダメだよ。」

釘を刺すあきらを笑う祥子に、幸衡は言った。

 「兼実公が貴方を危険視しているのは、貴方にしかないものがあるからなのでしょう。蛇姫は口封じに殺された。何か重要な事を言おうとしたと考えるのが妥当でしょう。最期に言ったのは、世の理、時、そして諸行無常。」

呪いの解けていない祥子に問う事は無意味だ。けれど、幸衡は問う。あきらは黙って祥子の横顔を見ていた。

 「諸行無常…。」

祥子が反芻した。

 「盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)?」

あきらが問うが、祥子は少し首を傾げた。

 「諸行(しょぎょう)無常(むじょう) 是生(ぜしょう)滅法(めつほう) 生滅滅巳(しょうめつめつみ) 寂滅(じゃくめつ)()(らく)

 「涅槃経(ねはんきょう)?」

 「一切万物は生滅(しょうめつ)流転(るてん)して止まる事がない。」

祥子が何かをなぞるように唱えた。

 「それが世の理?」

 「理を司る事、それは転生システムそのものではないかしら。」

 「だが、今度こそ成功させる、と言った。つまり現行のシステムは失敗という事だろうか。」

三人はようやく書類を片付け終わった。そして長時間根をつめていた仕事に一旦の区切りをつけて解散しようとした。帰り際に祥子は訊いた。

 「ねぇ幸衡、あなたの道にあきらは必要?」

あきらのために一肌抜く気持ちで問うた。あきらが驚いて目を見開いた。

 「間違いなく。」

幸衡の純白の言葉。濁りのない本心。

祥子はあきらにウインクをして別れた。あきらはこれは幻に違いないと思いながら、夢見心地で歩いた。



 「光さんどうすか?」

養殖場と呼ばれていた倉庫から、調査道具などを運び出しながら晋が訊く。一緒に荷物を運びながら春家が答えた。

 「あ〜まだミイラやってるよ。」

 「気になるならお見舞いに行ってやればいいのに。」

紙ばさみを持った千之助がペンを走らせつつ言うと、晋が車に荷物を積みながら嫌な顔をした。

 「いや、絶対嫌がられますよ。よろしく言っておいてください。」

 「あはは、確かに。」

けらけらと笑う春家に反して、車で荷物の点検をしていた毘沙門が首を振った。

 「そんな事はありませんよ。光胤はあれで晋を気にかけています。素直でないだけの事ですよ。晋も、変な所で遠慮せずに行ってあげて下さい。」

 「道白さんみたいに人間を好意的に受け止められないんですけど、俺ひねてんすかね?」

 「光は口が悪いからしょうがねぇな。まぁだいたい本心だ。」

 「尚更悪いです、それ。」

四人はあらかた片付けを済ませると、ようやく一息ついた。

 「これでようやく帰れますね。」

 「お疲れさまです。」

毘沙門と晋が労い合うと、春家がぼやいた。

 「幸に事後処理任されたからって頑張り過ぎだろ。お前には七口の仕事もあるってのに。それに長い事帰らないと家族から総スカンくらうぞ。」

 「それは春さんだけですよ。信用されていないからそうなるんです。」

 「…う、思わぬ攻撃。晋だって、帰らないで良かったのか〜?彼女待ってたぞ。あんま待たせて浮気されても知らねぇぞ。」

春家は一旦帰宅していたため、北条家で暮らしている仁美に会ったらしかった。

 「あの環境で浮気する相手って、春さんのお子さんしかいないんですけど。」

 「あっはっは!そりゃねぇな!」

春家の子供は長男が十六になる。仁美が十八なので歳の差からいけば二十六歳の晋より近いのだが、春家から見て息子は子供でしかないようだった。

 「幸も殆ど休まず仕事に追われている様子ですから。俺達だけ休む訳にいかないでしょう。ま、こちらの撤収で向こうも一息つけると思いますよ。通常業務もありますしね。」

毘沙門が話題を軌道修正しつつ千之助を見た。

 「俺も揺らぎ討伐の処理がありますから、早く戦線復帰しないと…と言いたい所ですが、一旦鎌倉へ呼ばれてるので一緒に帰りましょうか。」

千之助が車の鍵を出すと、全員が車に乗り込んだ。

 「春さん、運転は交替ですからね。」

毘沙門が釘を刺すと、「げっ」と言いつつ既に寝る体勢だった。

 「シュウは無事に逃げたんでしょうか。」

ハンドルを握る千之助が想いを馳せるように言った。

 「大丈夫でしょ。あれでしぶといから。」

 「縁とは簡単には絶ち切れないものです。これを機に『夜』との縁を持ってしまわないと良いのですが。」

毘沙門の言葉に、晋は友の無事を祈るような気持ちになった。その気持ちを察してか、千之助は晋に訊いた。

 「で、宿題はどうなった?」

 「何の宿題ですか?」

 「甘さを受け入れ難いと言うなら、それを受け入れる事が報いになるのかも知れない。」

千之助が修吾に投げた問い、それに対して晋は宿題にさせてくれと言った。

 「それってシュウの宿題でしょ?」

 「俺は少なくとも君にも当てはまると思ってるんだけど。」

毘沙門と春家の沈黙。それは肯定だった。長年の晋の生き方を知る者として、晋の身の軽さは危険であり、冒涜だと感じていた。己が身の危険、そして周りの好意への冒涜。

 「参ったな。」

総攻撃をくらったように晋が逃げ場もなく嘆息した。

 「はいはい、俺が悪かったです。ずっと無神経でした。」

千之助は追い詰める意図ではないながら追い討ちをかける。

 「光に言ったんだろ。死なせないって。」

弱気になった光胤が漏らした選択を、晋は否定した。

 「俺は別に楽しんで殺してる訳じゃないですよ。父親を殺して何とも思わない訳じゃない。罪の意識とか、悲しさとか、俺の中にもあります。だから今更、善人ぶるつもりで言った訳じゃないんです。ただ単純に、光さんにはそう言う事言って欲しくなかったんです。」

変化を感じた。晋の中の何かが、少し変わっていると。

 「何かあったのですか?」

この四年閉ざされた晋の心が、少しずつ開かれようとしていた。

 「色彩の循環を知ったから、なのかも知れません。」

晋が車窓から外を見ながら言った。

それは仁美が晋に教えた世界だった。

めぐりあい。巡る縁。

 「全ては廻っているものです。」

毘沙門が深く頷き言った。

 万物は巡る。

 それは世界の理。

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