18 転化の事
春家が檻に伸ばした手を止めたまま動揺していると、中から勢い良く檻を掴んだ。その手は血管に流れる黒い血を透かした人の手に見えた。
「春…。」
聴き覚えのある声が春家を呼び、春家ははっとした。
「光か?無事なのか?」
「…甘いもん持ってねぇ?」
声はやけに疲弊しているのか抑圧されているのか、かすれた小さな音量だった。しかし、その言葉で光胤の無事を確信するに至った。晋と修吾が駆け寄り、春家が檻から引きずるように光胤を外へ出した。
「悪いな、甘いもんは持ち歩かない。」
春家の言葉に落胆したような笑みを漏らした光胤は、かつての晋のような、否それ以上に禍々しい瘴気を纏っていた。どす黒い、妖気のようなものが滲む。
「ミツさん?」
駆け寄る修吾が光胤に声をかけると、光胤の声にも安堵が漏れた。修吾の無事を確認した事で漏れた安堵を感じ取った修吾は困ったように少しだけ笑った。
「…シュウか。悪いな、心配かけて。ありがとよ。豪華助っ人の登場に、俺様感動したぜ。」
「幸も道白も千之も来てるぜ。」
「マジで?すーげ、それもう地下迷宮攻略戦線前衛部隊じゃね?俺様なんかのために悪いね。」
「夜好会絡みですから、順当な編成って事じゃないですか?」
光胤のために集められた精鋭に感動を漏らす光胤に、水を差す晋を見た。少し目を見張ってから、溜息を零すように相槌を打った。
「そうかもな。」
光胤の皮膚の薄い所を通る血管が、やけに黒い。腕を、首を、こめかみを、黒い配線のように見えるそれが、普通でないと言うことは一目瞭然だった。春家は、あきらの話を思い出した。転化。ここにこうしていると言うことは、光胤が檻の中の『夜』を喰らったと言う事。既に光胤の体の多くは『夜』となりつつあるという事。
「大丈夫か?」
「おう、最高に最低な気分だぜ。」
春家を見返す目は、白目が殆ど灰色に見えた。
「光…。」
春家が何かを言いかけた時、場の空気が変った。
「何か来たな。」
光胤の言葉に春家と晋が頷いた。修吾が晋を見たので晋が説明した。
「多分、光さんの檻が開いた事が分かったんだろ。同じように俺達を檻に入れようって事じゃないかな?外に『夜』の気配がする。囲まれてるみたい。」
「そんな…ユキさんとビシャモンさんとセンさんは?」
修吾が怯えて言ったが、確かに幸衡と毘沙門の到着は一刻も早く望まれた。春家は刀を抜き、倉庫の出入り口へ向かいながら言った。
「その内来るだろ。あきちゃん、千之に上への報告と売買ルート討伐の増援と処理班の手配頼んどいて。今夜はパーティーになりそうだぜ。」
「りょーかい。幸くん達はもうすぐ着くよ。千くんは既に手配を始めてる。」
今夜ここで蛇姫を打ち取る事が出来れば事実上夜好会は討伐されたことになる。養殖場や売買された『夜』の討伐は他の部隊に委ねて問題ないだろう。元々後衛の千之助には報告や配備の手配を委ねた方が効率がいい。
春家はこのまま仕留める覚悟と言う事だ。
「待て、春。」
倉庫を出ようとする殺気立った春家を光胤が呼び止めた。振り返ると、春家以上に殺気立った光胤が視線で射殺さんばかりに春家を見ていた。
「鬼は俺が殺る。手出すなよ。」
復讐。珍しく邪悪な炎を滾らせる光胤に、一瞬ぞくりとした春家は倉庫を出ながら返した。
「馬鹿、早いもん勝ちだろ。」
春家が出て行くと、晋も刀の柄に手をかけた。それから不安気な修吾と、やけに血の気の多い光胤を見やり、言った。
「光さん、『夜』を喰ったんですか?」
確認は最早蛇足でしかない。
「悪いな、死んでも生き残ろうとしたら、死んだ方がマシな方法しか無かったわ。」
笑えない冗談は逆に深刻さの助長しかしない。
「リミットは?」
「夜明けってとこ。」
晋と光胤の短的な会話に、修吾は不安の色を濃くする。
「みったんが完全に転化するのは、もって夜明けまでって事だね。おっけー、夜明けまでにどうにかする方法を見つけるよ。それまでは持ちこたえてくれよ。」
あきらの声はいつもの軽快なリズムでありながら緊張を含んでいた。あきらが一人で複数の役割をこなしながら、光胤を助ける方法を探す事は出来るのだろうか。晋は人手の足りなさに歯がゆさを覚えた。否、数ではない、能力なのだろう。戦況は相手が上回っていると言う事だ。
光胤は小さな体を、まるで巨体を持ち上げるような重量感で立ち上がった。そして周りを見回した。
「刀は…ねぇな。」
光胤の刀はおそらく鬼に奪われたまま。取り返す必要があった。
倉庫の外では既に春家が戦闘を始めた気配があった。一人では多すぎる敵の数、早く加勢するべきだ。そうでなくともすぐに倉庫へ入って来るだろう。
唐突に光胤は晋に言った。
「おい、俺様がこのまま転化しちまったら、お前が俺様を斬れ。」
「え?」
光胤は自身の中身が変革している事を感じている。そしてそれを止める術などないだろうと思っていた。
「俺様は強ぇからな。確実に仕留められる奴に頼まねぇと。」
光胤のスピードについて来れる者は少ない。その力を保持したまま『夜』へと転化すれば戦闘力は並のクラスではないだろう事は明かだ。
「馬鹿言わないで下さいよ。」
晋にそのような事を言う光胤を、過去想像した事は無かった。心が、弱っているのだろうか。
「長くはもたねぇ。頼む。」
頼み、まさか晋に頭を下げる事があろうとは。あの生かす事に執着していた甘い光胤が、過去幾度となく殺すだけの晋を批判してきた光胤が、主義の違いでぶつかってきた光胤が、まさか晋に自分を殺せと言う事があろうかと。嫌な夢でも此処まで性悪ではない。
「…光さんらしくないですよ。ふざけないで下さい。」
晋の言葉に、光胤が真正面から晋の顔を見た。すると意外に澄んだ目で光胤を見ていた。これまでこんな風に向き合ったことがあったろうか。光胤は、晋ならばこの局面で迷う事無く斬る事を選択すると思っていた。あの、四年前に父親を手にかけた時のように。
けれど違っていた。
「いつも甘い寝言ばっかり言うくせに、こんな時ばっかりそういう事言うのは間違ってます。何とかします。絶対に、死なせないですよ。死なせないです。」
あれだけ濁っていた『波形』が、やけに澄んでいて、はっきりとした強い意志で光胤を想っていると分かった。
「男子三日会わざればってか。しばらく会わねぇ内に随分良い顔するようになったじゃねぇか、矢集。」
この四年、あれだけ濁り切って最早『夜』と見分けがつかない程の闇を纏っていた晋が、たった数か月会わない間に、何があればこんな風に別人になるのか。光胤は衝撃に近いものを覚えた。
「ほんじゃあ、頼むわ。俺様を助けてくれ。」
「頼まれなくても。」
晋の返しに鼻を鳴らして光胤は倉庫の外へ駆けて行った。
晋はその後ろ姿を見送ってから、腰に下げた二振りの内の一振り・夜霧を外すと修吾に押し付けた。修吾はずしりとした刀の重みに戸惑いながら晋を見た。
「自己責任、だろ。自分の身は自分で守りな。俺に殺されたければ死なないこった。」
「…え〜…マジで?」
晋は言い残し、本当に倉庫を出て言ってしまった。
修吾はとりあえず『夜』が入って来るまで外に出る事はやめた。倉庫の中には空の檻と修吾だけが残された。空の檻を見て、元々空だった事を思った。
「…って言うか、ボクに見えるのかなぁ。」
倉庫の外で戦っているものを修吾は視認できないとすれば、いくら刀を渡されても戦う事は出来ないのではないかと思った。それはあまりのムチャブリなのでは、と。恐ろしさが増したので、とりあえず刀を抜いて身の周りの変化に注意を払っていようとした。その時、刀の鞘にぶら下がっていた木札が目に付いた。
「あ…これ、ヒロさんの。」
裕の刀だった夜霧には、かつて見た裕の存在を思わせる物があるのは当然だった。けれど、それはそんな思い出の品であるだけのものではない事を思い出した。
光胤は『夜』を引き裂いた。自然と漏れる笑みは、光胤の中で侵食する『夜』の破壊衝動が歓喜する昂りだ。
「くそ…頭が良い具合にネジ飛んでる感じだぜ。つまんねぇ殺戮に無意味に笑える俺様とか、マジで甘くねぇな。」
「光さんってば、ヤバいヤクきめてる人みたいで恐いですよ。」
「重度の殺戮中毒で血見ねぇと手が震えるヤバイ依存症の鬼神殺しに言われたくねぇし。」
晋と軽口をたたく事で何とか自己を保とうとしていると、こちらに近付いてくる、圧倒的に大きな『夜』の気配に気が付いた。
「鬼だ。」
春家がつぶやいた。
夜闇の中から、まるで生まれ出ずるように現れる邪悪な塊は、想像している鬼というものより小さく、少しガタイの良い人間程度だ。けれどそれが返って恐ろしかった。その小さな器に凝縮したような濃度の濃い瘴気が詰まっているのが見て取れたからだ。硬く、重く、強く、そして早い。戦わなくても分かる圧倒的な力。光胤が簡単に負けた訳だ。
けれど今は一人ではない。
春家は光胤を視界の隅に捉えた。光胤は体から闇色の『波形』を放ちながら鬼を睨んでいた。鬼の腰には光胤の刀が携えられていた。
「あの鬼野郎、ぶっ殺してやる…。悪いけど、手出すなよ、あれは俺様のえものだからよぉ。」
光胤の体から増幅された『夜』の負の念が溢れ、破壊を求めて暴れているようだった。その衝動を押えながら歯を食いしばる光胤の顔は、魔が嗤うが如き邪悪さを湛えていた。
「わ〜お。ワイルドな光さんたら、素敵☆了解しましたよ。光さんのえもの横取りして後で文句言われたくありませんから。」
「食い物の恨みは恐ろしいって言うからなぁ。ま、俺達は雑魚で我慢しようぜ。」
晋と春家は軽口を返しつつも、転化が進む光胤の様子を気にかけていた。
とりあえず光胤に同意しつつも、援護に回ろうというつもりの二人を無視し、光胤は前ぶれも無く鬼に突っ込んで行った。
「ちょっと、光さん…。」
「おいおい…。」
一度負けた相手に、あれだけ猪突猛進に挑めるものは少ないだろう。二人は唖然とした。
「挨拶とか、名乗りとか、何もないんですね。」
「言葉通じないんじゃね?」
倉庫に一人残した修吾の元に『夜』が近付かないように、晋は外の『夜』を斬って行った。別の方角から、幸衡と毘沙門が駆け付けるのが見えた。
春家は増援に少し安心してから、光胤の援護をと刀を構えていた。
鬼と光胤はまるで示し合せた殺陣のように縺れながら、常人では追い付かない速度の世界で鬩ぎ合っていた。
鬼の長い刃のような爪が、光胤の肉を引き裂こうとし、光胤はそれを避けながら鬼の顔面を蹴りつけた。『夜』の濃度を増した事で、光胤は以前より鬼に対抗できているようだった。けれど小柄な光胤の攻撃は望む程鬼にダメージを与えない。リーチの足りなさや、高位の『夜』である鬼の強さに、歯が立つだけ大したものだった。
春家は何とか光胤に加勢しようとしたが、スピードが既に人の領分ではなかった。それでも今の光胤と共同戦線が可能なのか、春家は目を細めた、その時だった。光胤が鬼の爪に脇腹の肉を引き裂かれたように見えた。その勢いで吹っ飛んだ光胤が一回転して地面に着地した。どうやら爪を避けた所為でバランスを崩したらしく、傷は大した事はないようだった。
パキ
何かに亀裂が入る音がして見ると、光胤が奪われていた刀を握っていた。鬼の腰から奪い返し、その鞘を攻撃の盾代わりにしたらしく、鞘が亀裂から完全に割れて破片となり地に落ちた。
光胤が刀の鞘を壊すのは何度目だろうか。いちいち盾に使う所為なのだが、今の光胤はそんな事を気にしている様子はない。むしろ鞘を抜く手間が省けたと言わんばかりに刀を握り、嗤った。
「み…。」
春家は名を呼ぼうとして、喉で押しとどまった。
―――そこにいるのは、本当にみったんかい?
あきらの声が脳のどこかで警鐘となって響いた。
光胤ではない顔だった。
戦う事以外に何もない生き物となって嗤ったように見えた。
光胤は野性動物のように吠え、唸りながら刀を振りまわして鬼に向かった。デタラメだ。光胤の太刀筋ではない。デタラメな戦い方で、鬼の爪をかわし刀を振る。僅かにスピードが鬼に勝っているかのようにすら見える。
そして曇間から月光が顔を出し、闇夜を暴いたその瞬間。刀が鬼の左腕を貫き、鬼が寸の間動きを鈍らせた。光胤はそのまま鬼の懐に入ると、その首筋に勢いよく噛みついた。
春家が息を飲んだ。春家の後方で、晋と、駆け付けた幸衡と毘沙門が動きを止めた。
鬼の体が痙攣し、少しの抵抗のように筋肉が張り詰めるのが見えたが、光胤が首の肉を噛みちぎり、動きを止めた。
月光は再び雲に隠れ、闇夜が再び景色を覆い隠した。
鬼は既に息絶えていると思われるが、光胤は鬼を喰らう事をやめない。
「ちょっと…光さん何してんすか。そんな事したら転化が進んじゃうじゃないですか…。」
実際光胤の纏う『波形』は既に闇夜に同化しているようだった。
『おやおや、随分面白い事になっておるではないか。』
声は上から降ってきた。
『【夜】の餌になるのではなく、その【夜】を喰ろうたか。その上わらわのペットを喰らうとは、随分意地汚いのう。しかし、喰われるも喰らうも同じ事。結局はわらわのものとなる定めじゃ。』
見上げれば、倉庫の屋根にちょこんと座る小さな女の子がいた。
「蛇姫?」
幸衡が半信半疑ながら呟くと、少女はふわりと夜空を舞うように屋根を降り地面に立った。その目は金の蛇。
『ほう、わらわも随分と有名になったものじゃな。じゃが、そのような事には何の意味もない。そち等もわらわのものとなる末路故に。』
「まさか、このような愛らしい姿をしていようとはな。これだから女は分からぬ。」
「おや、幸。それはあきらさんも含まれるのですか?」
「無論、筆頭はあきだ。あれは史上最高に意味の分からぬ女だ。」
「そうでしたか。それは探究し甲斐がありますね。」
幸衡と毘沙門は言いつつ少しずつ間合いを取ると、蛇姫への攻撃の機会を窺った。多くの『夜』を配する高位の『夜』である事を思えば、決して油断できない相手だ。
晋を交え、三人で蛇姫を囲むような配置に着くと、動きを待った。
「『夜』の統一は成りそうですか?」
『…そうじゃな。そのためのつまらぬ画策故、成らねば損じゃな。』
「何故『夜』を統べんと望む?」
『【夜】は強い。かつてその【夜】を唯一統べていたものがおった。それが龍神じゃ。龍の筋目を辿れば、わらわが、蛇姫が、その座に相応しい者であると、ある御方の導きあっての事。』
「兼実公が、貴方を唆し夜好会を作ったのですね?」
『わらわは利用されておるのではない。わらわが利用しておるのじゃ。いずれ【夜】の帳が下りる時、【昼】は二度と太陽を見る事はないじゃろう。うぬら間抜けな門番がい眠りをしておる間に、わらわは多くの【夜】を【昼】にばら撒いてやったわ。』
蛇姫は語りながら徐々にその本当の姿を表し始めた。長い蛇の尾が、徐々に伸び、肌の鱗が幽かな月光に反射して硬度を感じさせた。
「う〜ん、でも、間抜けな門番も目覚ましちゃったんですよね。本当もうすげ〜よく寝た、的な感じで。」
晋が怯まずに刃霞を構え、先陣を切った。
晋の振った刃霞の刃は蛇姫の護衛のような尾に受け止められた。見たとおりの鱗の堅さで、傷一つ付けられそうにない。晋はそのまま尾に沿って刃を撫でて走ると、反対側から毘沙門が襲いかかる。蛇姫は視線を向けただけで結界を発生させ毘沙門の攻撃を弾いた。
その様子を見ていた幸衡は冷静な表情のまま周囲を見渡した。すると、駆け付けた時晋が立っていた場所の後方に、倉庫の扉があった。少し開いた隙間から中が見えた。小さく揺れる懐中電灯の光が、空の檻を映しだしていた。
「光…。」
春家が呼ぶと、光胤は鬼を喰らうのをやめ振り返った。闇の中に赤い二つの目が光っている。名を呼ばれたから振り返ったのではない。春家を見る目は、獲物を見るそれだ。
「光。」
春家がもう一度呼ぶと、光胤は鬼の体から刀を抜き春家の方へ歩いて来る。歯列の隙間から洩れる息が、野性動物の呻き声だ。傍若無人な太刀筋の刃が春家目掛けて振り下ろされた。その刃が煌いた瞬間、春家の目が変った。
春家は軽くいなすと、次の一手が来るより先に峰で光胤の胴を強く打つ。痛みに怯む光胤を見ながら、血振りでもするように振りまわしてから構えた。
「光胤、悪いけど、本気で行くわ。俺、これ以上友達亡くす訳にいかねぇからさぁ、殺す気でやるけど、死ぬなよ。」
普段の飄々とした表情や態度は完全に消えてなくなっていた。春家の明るい仮面の下の、本気の顔。
光胤の目が春家をロックオンしたままで、刀を握り直すと、再び襲いかかった。
春家は動体視力の限界まで集中して、光胤の動きを追った。普段の考えながら戦う光胤ではない。磨かれた戦闘技術も、宗季の兄であるDNAを感じさせる合理的な策も、繊細を一切欠いた野獣となっていた。春家は、試しに光胤の足元へ束縛する術を仕掛けた。案の定簡単に引っ掛かる。けれど力技で無理矢理に引きちぎってしまう。
とにかく適当にダメージを与えて大人しくさせたい。春家はただ無策に春家に突っ込んでくる光胤の単純な動きを読み、軽い電撃や爆発などの術を仕掛けてみるが、直撃しているにも関わらず、怯む事無く突っ込んでくる。ただ無闇に光胤を傷付けているだけだ。このままやり続けては、本当に殺してしまいかねない。そう思った時、光胤の刃は春家の肩を掠めた。
「否、殺られるのは、こっちか…。」
どれだけ動きが単純でも早さは圧倒的に光胤が上回る。その上鬼を喰らった光胤の体は多少の術ははねのけるしものともしない。
春家は集中し直した。
光胤の動きを出来るだけ先読みし、一撃で何とか決定的な有利を得たい。
光胤の視線を追い、春家目掛けて突き出された刃をすれすれで避けながら、その腕を峰で思い切り打った。嫌な音がした。骨を砕く断末魔。
光胤が獣の咆哮を上げると。折れた腕をだらしなくぶらさげたまま、恨めしげに春家を見た。そして折れていない方の手を春家に伸ばした。反射的にその腕を掴んだ春家は、次の瞬間痛みに悲鳴を上げた。
春家の腕に、光胤が噛みついていた。
「やめろ!」
春家が叫んだが、光胤はその目を見ていない。春家の腕から流れる血を噛み付いたまま飲み込むのが見えた。
これは光胤ではない。
「光胤!やめろって!腹減ってるからって、友達喰うとか、マジでありえないだろ!どんだけ食い意地張ってんだよ!」
では光胤はどこにいる。
「光胤!本当に俺が分からないのかよ!お前の友達が、仲間が、分からないのかよ!俺に言っただろ!地龍を変えろって、もっと皆が幸せになって良いんだって、言ったよな!俺達武士は冷酷なバランサーに徹したって、もっと一人一人が幸せになって良い、そういう地龍にしたいって、俺に言っただろ!俺はお前の夢が好きだぜ。だから、同じ夢を見たいって、そう思ったんじゃねぇか。そのお前が、俺より先に死ぬなよ!優しい世界をつくる前に死んだ弁天と同じことしてんじゃねぇっ!」
ここに、いるはずだ。
「光胤って奴は強いはずだろ!誰に認められなくてもてめぇ貫ける、すげー強い武士だろ!異端だろうが関係ねぇ、お前はお前だろ!何流されてんだ、だせぇ事して落胆させんじゃねぇよ!」
春家が光胤に噛みつかれていない方の手で、思い切り光胤の頬を殴った。光胤が強く噛みついていた腕が引きちぎれるかと思う痛みだったが、殴られた勢いで離したらしく無事だった。
口の中を切ったらしい光胤が血を吐きながら吐息を漏らした。
「まずい。」
微かに聞えた言葉に、春家は耳を疑った。
「は?」
顔を俯いたまま、血を舐めた光胤が、もう一度言った。
「お前、マジで不味いな。不味過ぎて正気に戻ったわ。」
「…あ〜、そう。そりゃ良かった。」
春家が腕に付いた歯型を撫でながら、光胤を見ると辛うじて意識を保っている状態だと分かった。寒いのか、それとも恐いのか、体が震えていた。内側から変革する反動だろうか、光胤の意志とは関係の無い、抗えない衝動が、ぼろぼろの体をまだ動かそうとする。
「ちょっと、俺様の事縛っといてくんない?」
言いながらその場に座り込む光胤は、弱気な色を混ぜていた。
「悪いけど、俺そーゆー趣味ないわ。」
春家が敢えて雑に返していると、倉庫の扉から怯えながら修吾が顔を出した。修吾の後方で、幸衡が混戦状態とは思えぬ涼しい顔で倉庫から出てきた。
修吾は倉庫の外を見回して、どうやら蛇姫以外の『夜』はいないようだと判断したらしく、そうっと出てきた。その手には夜霧が大切そうに握られている。
「…ミツさんっ。」
「お〜、シュウ無事?何か縛るもん持ってねぇ?」
光胤が訊くと、修吾は光胤の折れた腕を見て、固定するものが無いか問われたと勘違いしたらしく、地面に落ちていた鞘の破片を拾い、自分のベルトをはずし始めた。
「うん、何か違う気がする。」
光胤が首を傾げると、春家が光胤の頭を軽く撫でて言った。
「まぁ良いんじゃね。思いっきりやっちまったし、応急処置してもらいな。俺はアッチ行くわ。」
今の光胤を放置する事は危険だ。そうと分かっているが、蛇姫側の苦戦もあり春家は已む無くその場を後にして幸衡に合流した。『昼』である無力な修吾と一緒にいる方が、戦える春家といるより緊張感が高まって自我を保てるかも知れないという思いもあった。
「あ、ミツさん、センさんから預かってた物、渡すの忘れてました。」
修吾がベルトを外す時にポケットからはみ出していた羽に気が付き、光胤に差し出した。
羽はどれだけ時間がたっても色褪せる事なく蘭麝の香りを漂わせ輝いていた。夜闇の中でもはっきりと分かる神聖な光。修吾の手から、そっとそれを受け取ると、羽の輝きが指先から浸透していった。血管を流れていたどす黒い瘴気が浄化されるように伝わり、全身を駆け回った。
修吾は光胤を見ずに、ベルトの長さを調整しようとしていて何も気が付かないまま話しかけた。
「それ、センさんがミツさんの恋人って言ってましたけど。何なんデスか?」
「…いや、そうだな…想い人ってとこかなぁ。」
「え?羽デスよね?何の羽デスか?孔雀?」
「鸞だよ。鳳凰が年を取るとなるとも言うけど、まぁ、そういう神鳥だな。」
「う〜ん、よく分かりません。って言うか、鳥が想い人ってどうなんデスか?はい、腕出して下さい。」
修吾が準備を整えたらしく光胤を見た。
「えっ、ミツさん泣いてるんデスか?」
「泣いてない。泣いてないけど痛い。」
蘭の羽を握ったまま、体の中の余分な『夜』が消えて行くのを感じるまま、徐々に人として当然の傷の痛みが覚醒し出すまま、光胤は涙らしきものを流した。
「マスカラでも付けてるんデスか?何か涙めっちゃ黒いんデスけど。」
「多分、こういう仕組み。」
「はぁ?」
おそらく体中の瘴気やら邪気やらと言ったものを排出する器官として、真っ黒な涙が出たのだろうと思った。
「ションベンみたいなもんだ。」
「え、何かきたない。」
修吾は光胤のよく分からない状況を無視して、骨折した腕を固定した。それから、他にも負傷個所があるようなのを見つけて、出来る範囲で応急処置を試みようとしていた。
「なぁ、夜好会が無くなったら、お前どうすんの?」
されるがままになっている光胤は、呟くように問う。
「そうデスね、死ぬまで、生きます。」
修吾の人生は、一人で報いを受けるのを待つ人生だった。
「そうなんだ。でも、俺様には、シュウが生きたいようには見えねぇけどな。」
「…そうデスか。そうデスね。ボクは、死にたいんデス。死にたいから、死ぬまで、生きるんデス。」
裕が殺しに来るまで、必死で生きる人生。
殺しに来ないということも分かっているし、約束の意味は修吾を生かすための方便だと言う事も分かっていた。それでも、因果が巡る先にある死を望んで生きてきた。
けれど、それは一人だから。
「ふ〜ん。それは嫌だな。」
「え?ミツさんが、嫌なんデスか?」
裕が晋が光胤が、修吾を生かそうとしても、その意味を修吾は本当には理解していない。
「そうだろ。好きな奴には生きてて欲しい。だから、シュウが死にたいなんて、嫌だろ。ま、シュウが死ぬために生きるっていうなら、俺様は命がけでお前を死なせねぇけどな。」
「何で、そんなに一生懸命ボクを生かそうとするんデス?」
「シュウが俺様を心配してくれたみたいに、俺様もシュウが心配なんだ。シュウが死んだら、きっと結構悲しいだろうな。何、お前俺様の事嫌いなの?俺様を悲しませたいの?」
「勝手な…。」
勝手な言い分。でも、不思議と喜びが生まれた。
「お前にそっくりな奴がいてさ、本当いつも辛気臭せぇ顔して、自分一人で生きてるみてぇな奴。でも皆そいつの事好きでさ、そういう気持ちに無自覚で、無茶苦茶やって踏み躙る最低な奴。俺様、そいつの事大っ嫌いだった。シュウはそういう奴になるなよ。」
修吾は光胤の甘い主義を嫌いだったと言った晋の顔を思い出した。似ていた。正反対な二人、どこかで似ているのは根底にある望みが似ているからだろうか。
「…ボクはずっと一人でした。だから、そういう、ミツさんの言うような最低な奴デスよ。嫌いな奴デス。なのに、どうして見捨てないんデスか?」
「てめぇを貫く覚悟もねぇつまんねぇ奴になる訳にはいかねぇからな。俺様はてめぇの甘さを貫くって決めてんだ。でなきゃまた春に怒鳴られるからな。あのちゃらんぽらんの春に説教させちまった。本当悪い事したぜ。シュウ、お前は俺様をそういうダサイ奴にするつもりか?」
どうしてそうやって人の好意とか善意を無条件に信じて、絶対的な力だと思えるのか、修吾にはまだよく分からないけれど、きっとどれだけ裏切られて傷付けられても光胤はその信条を曲げる事はないのだろうと思った。
「…いいえ。ミツさんはカッコいい人デス。」
最高に格好良い人で在り続けて欲しいと思った。
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