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14 霊師の事

  夏の殺人的な日差しから逃れるようにして喫茶店に入ると、ひんやりとした冷房の空気が肌に触れた。

 晋は(ひと)()の閉じた日傘を持ってやり、店員に指示された二人掛けの席に誘った。

 仁美は、初めて会った時と同じ様な白いレースのあしらわれたワンピース姿に、薄いカーディガンを羽織っていた。いつ見ても万民が御譲様だと解る姿だと思う。一方晋はいつも通りのTシャツにジーンズ姿だった。お詫びにと申し出たデートであり、初めてのデートだった。晋は服装や振る舞いについて幸衡(ゆきひら)と毘沙門に相談したのだが、仁美が『昼』の恋人のようなデートと言った事から普通でいいのではないかという結論に達したのだ。

 汗を拭いながら呼吸を整えている仁美を見ながらメニューを開き仁美の前に差し出すと、柔らかい微笑みが返ってきた。

アイスティーとアイスコーヒーを注文し、去って行く店員の背を見送ってから、仁美は丁寧に言った。

 「ありがとうございます。」

 「え?」

注文をしてやった事への礼だろうか?と思って首を傾げると、仁美は補足するようにもう一度言った。

 「今日のデートの事ですわ。お忙しい中私のためにお時間を割いて頂いて、ありがとうございます。とっても楽しかったです。」

仁美のバッグに入っている観光雑誌にはマーカーや付箋が大量に付いていた。晋と出掛ける事も去る事ながら、観光する事をかなり楽しみにしていたようだった。仁美の希望をききながらエスコートする方の晋も、ここまで遊ぶ事に集中したのは初めてだった。

 「いや、とんでもない。俺の方こそ楽しませて貰いました。」

 「夏がこんなに暑いだなんて思いませんでしたわ。また涼しくなりましたら参りましょうね。」

高温注意報の出ている日中にこれ以上仁美を連れ回すのは良くないと考えた晋が途中で切り上げさせたのだが、仁美は周り切れなかった分はリベンジしようと言っていた。

 先の約束を当然のように口にする仁美の笑顔は、晋の心を揺らす。

曖昧に笑う晋に仁美が違和感を覚えた時、注文した飲み物がテーブルに置かれた。

汗をかいているグラスを見ていると、グラスの側面に歪んだ晋の横顔が映っていた。仁美が顔を上げると、晋は海を眺めていた。テーブルの上に置かれた晋の大きな手に仁美がそっと自身の小さな手を重ねると、驚いたように晋が仁美を見た。

 そして仁美の笑顔を見て、再び海を見た。

 「夏の海って眩しかったんですね。」

 「ええ、とってもキラキラしているんですのね。」

 「…君といると何もかも眩しいな…。」

目を細める晋に、仁美は一瞬だけ躊躇ってから言った。

 「私、海を見たのは今日が初めてでございました。」

 「え?」

 「こんなにたくさんの方がいらっしゃる所も、電車も、水族館も、今日は多くの事が初めてでございました。私も、眩しいです。晋様は私に新しい事を沢山教えてくださいます。嬉しいです。」

 「そっか、重忠(しげただ)殿の秘蔵っ子ですもんね。でもそんなの、俺じゃなくても…。」

いくら畠山重忠が桐の箱に入れて育てた世間知らずでも、望めば何だって叶うはずだと思った。晋にとっては仁美は唯一の色を教えてくれる特別な人でも、仁美にとっては晋は唯一ではない。

 可愛らしい笑顔を見る度に、好きだと思う。そしてその笑顔を守りたいと思う。けれど、守る方法は結局は晋と一緒にいないことなのではないかと思えてしまう。そんな葛藤が胸中に波のように寄せては引いてを繰り返す。自分の手に重ねられた仁美の小さくふくよかな手を見ていると、葛藤は満ち潮のように水位を上げていき不安になった。

 そして不意に(ひろむ)の横顔を思い出した。

 家の中から外を見る寂しそうな横顔を。

 その顔を見上げる度に、窒息しそうな気分になったのを、今になって鮮明に思い出すのだ。


 喫茶店で涼んでから電車に乗り鎌倉へ戻った。

 駅から出ると、木影を選んで歩いたが道路の照り返しは容赦ない。晋は仁美の隣を歩きながら仁美を見下ろした。仁美は日傘をさしていたため、その表情を知る事は無かった。

しかしそれが返って好都合だった。顔は見ない方が言いたい事が言える。

 「晋様、私ずっと外の世界を知らずに生きて参りました。ずっと、色を知らずに生きていらっしゃった晋様と同じように、ずっと世界を見る事なく生きて参りましたの。」

晋が何かを言おうとしたのを察知したかのようなタイミングで仁美が言った。晋は黙って傘を見ていた。

 「同じですわ。いえ、私と同じなどと申し上げては晋様が不愉快に思われるかも知れませんね。けれど、私は私を恥じたりは致しません。そう、決めておりますの。」

仁美は日傘を手放すと、傘が道路に落ちるのも気にせず、黙ったままの晋の腕を掴んで見上げた。

 「一人ではありません。御一緒させて下さいませ。同じものを見せて下さいませ。晋様でなくても良いなどと言う事はありませんわ。私には晋様でなくてはならないのですわ。」

仁美が言っている事が、喫茶店で呟いた「俺じゃなくても…。」と言う言葉の事だとようやく気が付いた。晋は一生懸命な仁美の表情に一瞬揺らいだ。このまま頷けば、きっと仁美は満面の笑顔を返してくれる。その誘惑に心が負けそうになった。

 蝉の鳴き声が耳朶を打ち、そしてまたあの矢集の古い家を思い出した。木の匂い、古い畳、手入れされていない庭、そして父の横顔。

 晋は腕を掴む仁美の手を掴んで強引に引っ張った。そしてそのまま仁美の体を塀側に押しやって見下ろした。小さな仁美を逃がさないように、塀に手を付き少し身を屈めた。

 「付き合うってどういう意味か分かっていますか?俺にどうされても知りませんよ?」

罪悪感がした。本当はガラス細工のように優しく扱いたいのに、乱暴にしている事への心苦しさ。やりたくない事をやっている。でもやるならば中途半端は駄目だ。出来るだけ低く、冷たい声を出した。背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

見上げる仁美を見ながら、心の中で念じた。嫌いになってくれ。嫌いになって別れて重忠の元へ帰ってくれ。そう念じる度にその奥底でこの温かい愛情を失いたくないという気持ちが熱を持った。

 「何をそんなに怯えていらっしゃるの?」

仁美はとても落ち着いていた。本当に疑問をそのまま口にしただけという顔だった。

 「え?」

 「私は貴方が例えどんな方でも嫌いになったり離れたりはいたしませんのに。」

 「俺は矢集です。」

その名の忌まわしさは幻想ではないのだと、強い意味を込めて言った。けれど仁美は堂々としていた。

 「その名がお嫌いなら捨ててしまえばよろしいのですわ。養子になって畠山の姓を名乗ればいいと父も言ったはずでございましょう?それに私の名がお嫌いならば、私はいくらでも名を捨てますわ。」

 「どうして、その事を…。」

 「晋さんが私を名で呼んで下さらないと申し上げた所、地龍様がお教え下さいました。」

 「…恭の奴…余計な事を。」

 ひとみという名の女性に縁があった事は仁美には言わないつもりだった。恭がばらした秘密は晋にとっては墓の中まで持って行くつもりだった事だ。けれど、そんな些細な秘密一つだって許しはしないというのか。仁美の目は直視するには少し勇気が要る程のまっすぐな眼差しだった。

 「晋さんが望む私になれるのならば、私はどんな名でも構いませんわ。」

仁美は頑として聴かない強固な態度だった。

 「どうしてそこまで…。」

どんな理由で仁美が晋を好きだと言っても、それはきっと何か些細なもので壊せると思っていた。簡単に失うものだと、勝手に決め付けていた。けれど、仁美は晋がどんな人間であっても変わらないと言いきった。何故、もう晋にはその疑問しか出て来なかった。

 仁美は塀に付いたままの晋の腕に手を伸ばしかけ、そして暫く迷うように宙を彷徨ってから、静かに下ろした。それから俯いて呟くように訊いた。

 「霊師(ぎょくし)を御存知ですか?」

 「確か…禁術だったよな?触れるだけで、他人の記憶や感情や思想をすべて知ることが出来るって言う。」

 突然仁美が何を言い出したのか晋はよく分からなかったが、とにかく仁美にまかせる事にした。

 「ええ。そんな万能な術は神のそれでございます。人の器には見合いませんわ。故に禁を犯して手に入れても、器がもたずすぐに命を落とします。他にも、治癒・操作・透視・肉体強化・未来予知など多くの禁術がありますが、どれも同じです。決まって短命なのです。そんな馬鹿げた禁を犯して霊師になった者が、私の先祖にいらしたそうです。それ以来畠山家には、たまに霊師の力を持った者が生まれてくるのです。」

 昔は地龍内で多くの危険な術が開発されていた。より優れた術者である事の証明のため、より強くなるため、より地位を上げるため、あらゆる欲望が故に危険に手を染めた。現在ではその多くが揺らぎと判断され禁術指定されている。大きな力を手に入れるための術は当然のハイリスクで、短命というのは鉄板中の鉄板だった。決して珍しい事ではない。そして、その子孫にその力を持つ者が稀に生まれるというのも聴いたことがあった。

 晋は、仁美を見下ろしたまま黙っていた。

 仁美は消え入りそうな声で告げた。

 「…それが私です。」

陽の傾きかけた道路に、木々が濃い影を落としていた。仁美の声は影に吸い込まれて消えて行った。晋はその背を追うように訊いた。

 「君が霊師?」

 「ええ。」

肯定。けれど、ならばおかしい。霊師は短命のはず、仁美の年齢まで生きているはずがないのだ。晋の口にしない当然の疑問を受けて、仁美が次いだ。

 「私は霊師の能力を持って生まれたために幼くして死ぬ運命でした。けれど、父が私を生かすために、禁を犯し私を『逢魔の血』にしたのでございます。」

 霊師は、人間の器に『夜』の力を入れるという方法で造られる。人の器に過ぎた力を入れるため、器が持たず短時間で壊れてしまう。けれど、その器に『夜』を混ぜる事で能力に負けない器を作りだす事が出来れば、確かに器は壊れない。けれどそれは机上の空論だ。理論上可能だからと言って成功するとは限らない。それを重忠は実行したというのか。娘のために。

 「霊師として生まれた虚弱な幼少期を布団の中で過ごし、その後は隔離され『逢魔の血』をつくり出すための儀式を幾度となく繰り返して参りました。そして体が定着するまで何年も修行をして参りました。」

 仁美が重忠の秘蔵っ子であり、隠して育てて来たと言われていた本当の理由は意外なところにあった。決して歳老いて生まれた娘が可愛いあまり外に出さずめでて来たのではなかった。霊師として生まれた仁美は生きるために外へ出る事が出来なかったのだ。

 けれど、『逢魔の血』は現在では禁術だ。禁術を犯した場合の処分は最悪死罪となる。それが分かっていて重忠は仁美を生かす道を選んだというのか。深い愛情故の覚悟を感じた。仁美は重忠の大切な娘、その事は揺るぎない事実なのだ。

仁美は特別な子供だったのだ。故に外を知らず、憧れて過ごして来たのだろう。

 「おかげで私は地龍史上唯一の完全な霊師となったのでございます。また、『夜』の血を得た事で『夜』の目を手に入れる事となりました。この目で晋様、貴方様を見つけたのでございます。そしてこの力で貴方様にこの世界の色を見せて差し上げられたのでございます。」

 生まれつき仁美は呪われていた。おそらく多くがそう言っただろう。けれど、仁美も重忠も諦めなかった。諦めず立ち向かい、そして今目の前に立っているのだ。晋は驚きの余り、声も無く少女の姿を呆然と見つめていた。

 「晋様は私が、恐ろしいですか?『夜』の目を持ち、霊師の力を自在に操る私が。私がその気になれば触れるだけで、思考も、気持ちも、記憶も、晋様の全てを知る事が出来るのでございます。そんな私を、こばまれますか?」

 よく見ると仁美の小さな肩が震えていた。

きっと恐かったのだ。ずっと、自身がただの御譲様でないと言う事を晋に打ち明ける事を、そしてその結果拒まれる事を、ずっと恐れていたのだ。晋はその肩に手を触れようとして、しばらく躊躇した。それから、力なく手を下ろした。

 「恐い。俺は傷付くのが恐いんです。君を傷付けて、自分が傷付くのが、恐いんです。」

 全く別の境遇、けれど共有出来る孤独があった。分かち合えるものがあった。それでも、仁美はその境遇も過去も決して恥じないと決めていると言った。それはきっと重忠のためだ。禁を犯してでも生かしてくれた父・重忠の愛情を前に、仁美が自身を恥じる事は恩をあだで返す事と同義だ。そのために仁美は堂々と生きているのだろう。

 それを思うと、その強さを思うと、晋は気遅れした。晋との大きな落差を感じた。晋は恨みや憎しみを胸の中で飼い続けて来た。自身を律する芯を持たずに『波形』を濁らせてきた。正反対だと思った。陰と陽だと。

 眩しい訳だ、と。

 しばらくして、仁美は晋に笑顔を向けた。やわらかい、温かい笑顔だった。

 「…でしたら、私を御側においてくださいませ。私は晋様にだけは傷付けられる事はありえませんわ。けれど、他の方は違いますわ。どうぞ、お側において守ってくださいませ。」

眩しい笑顔の仁美は引き下がらない。

 「俺は色を失う程殺して来ました。家系を別にしたって十分忌むべき存在です。」

 「私は生きるために人である事を捨てたのですわ。私は十分化けものと誹られるに足るものなのです。どれ程普通に憧れても、いいえ、憧れる程に己が異常を自覚するだけですわ。」

 「俺は…。」

 「私を、恐れますか?」

 仁美の目は晋を逃がさない。晋は何かを言わなければ、と思ったが、言葉が出てこなかった。これ以上何を言っても、晋の家系も裕の罪も晋の運命も、何を理由にした所で、すべては仁美を侮辱するような気がした。

 矢集は呪われているから、そう言えば仁美はどうなる?霊師であり『逢魔の血』となった仁美を決して呪われているとも忌まわしいとも思わない。けれど、晋が矢集を忌まわしいと言えば、直結して仁美を忌む事になる気がした。

 「…ごめんなさい。俺が俺を卑下する程に、君を貶めるなんて…そんなつもりじゃないんです。」

 「でしたら、もう、お止めになってくださいませ。」

 「え…。」

 「私申し上げましたよね?晋様が何者であっても、私が誰でも、世界は変わらないと。」

化け物でも、罪人でも、鬼神殺しでも、それが今の晋であるならば、それで良い。そんな晋ごとすべてを許容しようというのだ。

晋は一度下ろした手を、ゆっくりと伸ばすと、そっとその小さな肩に触れた。震えていた仁美の肩が晋の手が触れると、すっと止まった。そして少しだけ乱暴に抱きよせた。

 「俺の方がずっと、臆病だな。」

仁美は勇気を出して晋にすべてを打ち明けた。晋は打ち明ける事をせず、仁美から離れようとした。卑怯だ。これ程までにまっすぐに晋に向き合ってくれている仁美に、どれだけ不誠実だったか。申し訳なさが胸中を閉めていた。そんな晋の背に、仁美の小さく柔らかな手が触れた。

 「一緒なら、恐くありませんわ。」

 「ああ。俺を見て。俺はきっと上手く伝えられない。でも、俺の全部を知って欲しいから、君になら何もかも暴かれたい。」

 仁美に重忠がいるように、晋も仁美がいれば自身を貶める事は出来ないと思った。今までのように、自分は鬼神殺しの呪われた矢集なのだと化け物の役を演じる事も、身を擲って死に物狂いで刀を振る事も、周囲の心配を蔑ろにする事も、何もかも仁美への背信行為であるように思われた。

 「ふふっ。でも私、晋様のお言葉で聴きたいですわ。」

 「俺も、君の事をもっと知りたいよ。」

晋が仁美を離すと、道路に落ちた日傘を拾い、仁美に差し出した。

仁美はその傘を握る晋の手を両手で掴むと、そのまま傘の中に入り言った。

 「私このような身ですから、人の内面が一目で分かる事がございますの。ですから、私、晋様の内面に一目惚れいたしましたのよ。」

言うだけ言うと、晋の手から傘を取り先に歩き出した仁美は小さな足でちょこちょこと小走りしていた。

 「…ちょっと、そういうのずるいでしょ。」

 仁美の目に晋がどのように映っていたにしろ、それはきっと嘘ではない本当の晋だろうと感じた。どれだけ晋自身が自覚していなくても、仁美がそうだと言うならば、きっとそうなのだろう、と。

 「何かおっしゃいました?」

立ち止まり振り返りながら訊く仁美に、数歩で追いつくと隣を歩きながら晋は返した。

 「かわいいって言ったの。」

 「まぁ!」

分かり易く飛び跳ねて照れる仁美は、嬉しそうに歩いていた。それにつられて晋も笑った。

 道路にはアンバランスな二人の影が長く伸びていた。



 「ミツさん、これって見つかったら殺して良いヤツデスよね。」

修吾は先を歩く光胤に向かって押し殺した声で言った。光胤は足音を立てないように歩きながら周囲に気を配っていた。

 そこは一見ただのオフィスビルだが、表示の無い地下が存在していた。それを知ったのは、養殖場と呼ばれる『夜』を育てる倉庫から夜好会の構成員を尾行した結果だった。

 光胤の術により相手に気付かれる事なく現在地を把握する事が出来たため、数日の監視の後、妖しい場所に目ぼしを付けた。そしてその日、昼過ぎの暑い日差しの中、男がその場所を離れた後で侵入する事にしたのだ。光胤は鸞鏡の箱を開けるために幸衡から教わった解錠の術を応用し鍵を開けた。その隠し扉を開くと、そこには地下への階段があった。光胤は電気もないその暗い階段を見下ろし、一寸躊躇った。地下は逃げ場がない。修吾を連れて不確定な場所へ入るのは危険だ。けれど、そんな光胤の迷いも知らず、修吾が背を押し「早く行きましょう。」と笑った。仕方なく光胤はその地下へ入って行った。修吾がポケットからペンライトを取り出し先を照らした。光胤はその灯りを頼りに先へ進んだ。

 「殺し屋ってのは依頼が無くても殺すのか?」

地下を壁伝いに歩くと、部屋は一つだけだった。光胤はそのドアノブに手をかけた。

 「ボクって、趣味と実益を兼ねてるんデス。」

 「プロなら線引きはちゃんとするもんだぜ。」

そっと扉を開くと、中からも人の気配は無かった。光胤が肩を撫でおろすと、修吾が部屋の中を勝手に歩き始めた。

 「つまり、殺しは無し?」

光胤は携帯端末の灯りを頼りに、部屋の中を見回した。そこにはアルミのパイプを組んだだけの棚が並んでいた。棚の上には大小様々な箱が並んでいた。

 「てめぇの身を守りな。」

袖すり合うも多少の縁で殺しそうな修吾の物言いに、光胤はそっけなく答えた。例えば晋相手であれば「殺しは御法度」と命令出来る。それは晋の実力をもってすれば殺さずとも何とか出来ると思うからだ。けれど修吾は違う。修吾は『昼』の人間だ。自分の命を守るためならば、正当防衛は有ると思った。

 「無闇に殺すな。色々面倒だ。」

最低限の注意に留めると、修吾は悪戯な笑顔を向けた。

 「え〜、あの空の檻に入れちゃえば何も面倒な事なんかないじゃないデスか。」

 「…んじゃ、シュウ、てめぇが入るか?」

光胤はぞっとした。人間はこうして負を循環させ悪びれもない。光胤の心の底からの軽蔑を食らい、修吾は肩をすくめた。

 「勘弁してくださいよ。ボクは生き残るためにリスクを負ってるんデスから。」

修吾にとってはただの雑談であり軽口であった。そんな思いもよらない所で光胤を怒らせてしまった事に、バツが悪くなり誤魔化すように棚の箱に手をかけた。何処かで見たことのある形の箱だと思って開くと、想像通り腕時計が入っていた。

 「時計だ。」

修吾が他の箱を見て周った。光胤もゆっくりとそれらの箱を確かめて歩いた。

 「市松人形と、万年筆、あ、こっちにはバイオリンもありますね。これ、何のオブジェでしょうか?」

修吾が箱から奇妙な置物を取り出し光胤に見せると、光胤は目を細めて低い声を出した。

 「器だな、これは。」

 「は?」

 「あの檻の中のもんを入れるための器だ。この硯なんかは憑喪神の成り損ないだし、この絵画は画家の思念がべったり、この指輪は色んな持ち主の因果を持ってる。こういう曰く付きの物は『夜』が憑き易い。檻の中で増幅されたアレが形を求め出す頃、こんなお誂え向きの器が目の前にあれば間違いなく入るだろうな。」

 「え、あの檻の中のモノが、こんな古いガラクタの中に入るんデスか?それで、どうするんデス?」

 「売るんだろ。」

光胤は修吾の取りだした置物を箱に納めると蓋を閉じた。修吾は未だ納得できない顔をしていた。

 「あの檻の中の状態じゃ見えねぇだろ。見えねぇもんに大金払う馬鹿が何処にいるよ?裸の王様か?」

 「でも、いくら見えてもこれじゃタダの廃棄物収集デスよ。」

 「んな事ねぇよ。付加価値があるだろ。」

 「お化けが憑いてマスって?」

光胤は部屋を見回し、棚以外に怪しいものが無いのを確認すると、修吾を促して外へ出た。

 「ああ。髪の伸びる人形。変化する絵画。勝手に奏でる楽器。一人でに動く置物。腐れオカルト野郎どもが大喜びする気持ち悪い一品の出来上がりだ。中にゃあ、何故か持ち主が不審死を遂げるとか、思い通りに他人を呪えるとか、持ってるだけで幸せになれる…なんつー触れ込みもあるかもな。」

 「え〜…胡散臭いデスよ。」

 「だが、全部本当だ。」

階段を登りながら光胤が言うと、修吾が足を止めた。

 「え?…冗談でしょ?」

光胤は低い声で答えた。

 「まさか。お前等が養殖してるもんは間違いなく本物の『夜』だよ。そういう類のもんを生みだす元になるもんだ。」

修吾は眉を歪めて光胤を見上げていた。

 「持ってる奴が必ず死ぬ物、なんて物あったら殺し屋は廃業かもな。他人の邪心を映す水晶なんてあれば占い師も廃業か。望みが叶うお守りは?他人を意のままに出来る指輪は?なぁ、そんな物が本当に手に入るなら一体いくら払うんだろうな?」

修吾は乾いた声しか出なかった。

 「嘘でしょ。夜好会が売ってるものは、そういう物だって事デスか?本当にそんなものがあるんデスか?」

 「…使い方次第だよ。」

言って地上への扉を開くと、一気に光が飛び込んできて眩暈がした。

 「まぁ、少なくとも『昼』には無理だな。」

光に目が慣れるまで暫く顔をしかめている修吾が聴いていたかは、分からなかった。

 ようやく目が慣れると、光胤は再び鍵をかけ直し修吾を急かした。修吾の用意した古い車に乗り込み、男の足取りを再追跡し始めた。車は修吾がどこからか持ってきたもので、おそらく廃車か盗難車だろうと思った。

 「しっかし、そうやって聴いてみるとボク達マジで気味の悪いもの作ってたんデスね。」

 「…だからそう言ってんだろ。悪趣味にも程があるっての。」

唾を吐くように言う光胤は男に付けた術を追っていた。修吾に用意させた周辺地域の載った地図を開くと、指で道をなぞっていた。修吾はそれを視界の端に捕えながら運転した。

 「でも、高額を払って取引したがる人が後を絶たないって理由も、分かる気がしました。」

 「人間は欲深いからな。」

 「地龍の人だって人間じゃないデスか。」

 「当然。寧ろなまじ力がある分俺様達の方が質が悪いかもな。」

幾度となく世を恣にせんと戦が繰り返された。どれも地龍は深く関わっていた。光胤は『昼』ばかりを批判するつもりなど無かった。

 「謙虚なんデスね。」

 「これが謙遜ならただの厭味だろ。シュウ、お前も殺してきた分だけ業を背負ってる。そういう奴は『夜』がたかる。気をつけろよ。」

 「恐い事言わないでくださいよ。でも、それなら地龍の皆さんこそ『夜』がたかるんじゃないデスか?」

 「道理だろ。俺様達は一人じゃ生きていけねぇよ。『夜』の良い餌だ。強くなれば強い『夜』の餌になるだけ。果てはねぇ。だから組織の中で互いを守り合って生きてんだ。」

光胤が地図を畳んだ。

 「へぇ。そうなんデスか。世の中ってのはどこも同じデスねぇ。」

修吾が相槌を打つと、光胤が横からハンドルを軽く掴んだ。ぎょっとした修吾が光胤を見ると、光胤は今までにない真剣な顔で修吾を直視していた。

 「出来るだけ回りに何もない場所で寄せろ。ギリギリまで寄せて停めろ。」

 「え?」

 「早く!」

光胤が怒鳴った勢いに押されて、修吾は慌てて数十メートル先の周囲に街路樹のみしか見えない路肩へぎりぎりまで寄せて停めた。ガードレールに擦りそうな程の距離で停めたので、光胤がドアを開ける事は出来そうになかった。

 「何デスか?一体。」

 「逆探知されてる。」

光胤の額から汗が流れるのが見えた。修吾は息を呑んで見た。

 「いいか、シュウ。ここで二手に分かれよう。取引ルートと檻の調査はシュウに任せる。お前はこの地図を頼りに男の車を追え。少しでも向こうの様子がおかしいと思ったら地図は捨てろ。車に付けた方の術にはまだ気付かれてねぇとは思うけど、逆に探られる可能性がある。気を付けろよ。深追いは禁物だ。」

 「ミツさんは?」

 「俺様は…そうだな。上手くすれば、上層部と接触。下手打てば…否、何でもねぇ。」

 「ミツさん?」

 「降りろ。」

光胤は修吾のズボンのポケットに無理矢理地図を押し込むと、運転席側のドアノブに手をかけた。

 「え、ちょっと、ミツさんっ。」

 「いいか、このケータイには登録が一件しかねぇ。もし俺様が戻らなかったら、そこにかけて事情を説明しろ。いいな。」

うろたえる修吾の手に携帯端末を握らせるとドアを開け、修吾を蹴り飛ばした。勢い良く蹴りだされた修吾は、道路を転がりながら車から離されてしまった。突然の出来事に戸惑いながら体を起こした瞬間だった。

 地響きのような花火のような爆音と共に、光胤を残した車が炎上していた。

 「え…?」

修吾は呆然と車を見た。燃え上がる車の中に光胤の影を見る事は出来なかった。

 逆探知されていると光胤は言った。

 修吾は炎を見ながら手に力を入れると、その手の中に光胤に渡された携帯端末がある事に気が付いた。確認するとズボンのポケットに地図が入っていた。のろのろと地図を広げると、道路を動く赤い印があった。

 修吾はもう一度車を見てから、ゆっくりと瞬きをして、それから立ち上がった。爆発を聴いて人が集まって来る前に修吾はその場を後にした。

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