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13 遮障の事

  初夏の早朝だった。まだ空気はひんやりとしていて、これから日中にかけてぐんぐんと気温が上昇するとは思えない心地よい肌ざわりだった。晋が暮らす地龍本家の離れとも呼ぶべき端の部屋から少し歩いた場所に、開けた庭があった。昔から貴也やその友が遊んでいた光景が今も簡単に蘇る場所だ。

 そんな場所で恭と晋は木刀を握り見つめ合っていた。恭は当主という立場になってから現場に出る事が無くなってしまった上、忙しくしているため、体が鈍ると言いしばしば晋と手合わせをしていた。この時間は多くを忘れて没頭できる重要なストレス解消の時間だった。

 既に何本目になるだろうか、二人は額に汗を流しながら構えていた。晋が半歩前に出た。逆手で握った木刀を振ろうとした瞬間に、恭の目が木刀とは反対の足の重心を確認した。晋の木刀の太刀筋を読み、すれすれでかわしながら空いた脇腹に軽く峰を当てた。そして勝負はついた。

 「降参、降参。」

晋がTシャツの裾をまくって汗を拭きながらテキトーに言うと、恭は汗もそのままに睨んだ。

 「何が降参だ。全く集中していなかっただろ。」

晋は恭の刺すような視線が痛むような顔で肩をすくめた。

 「悪い。」

 「何故だ。」

今の晋は今までで一番良い状態のはずだと思っていた。父・(ひろむ)の意志を知り、恋人・(ひと)()を得て、過去に積み上げた懸念を払拭した状態であるはずだと、少なくとも恭は思っていた。しかし、違うとすれば、それは…

 「俺の傷ならば気にする事はない。」

三年以上前に受けた恭の肩の傷は、本来完治すると言われていた。けれど未だに恭を苛む。晋が守れなかった証拠として、責任を感じているのならば不要だった。これは恭の油断や傲慢の招いた未熟の証、他人に担ってもらうものではないと思っていた。

 「俺を心配して手加減しているのならば不要だ。」

怪我人相手に本気を出せないと言うならば、と。しかし晋は首を横に振った。

 「いや、違う。いや、違わないのか。でもそうじゃないよ。そういう、意味じゃない。」

 「じゃあ、どういう…。」

晋はTシャツをめくったまま、恭に見せた。晋の腹には例の夜好会の事件で負った傷があった。傷は深く、完全に治るまでには少し時間がかかると言われていた。しかし、そこにあったのは、既に何年か前の古傷の痕にしか見えないものだった。

 「…それは…。」

 「治るのが、早いんだよね。ずっと、父さんが死んでから、って言うか八つ目の龍脈を継承してからって事なのかな。」

裾を下ろしてから、晋は恭の肩を掴んだ。

 「俺は龍脈の器だから、龍脈の力が俺を守ってるんだろうなって思う。俺、殺しの獣として育てられた人間じゃなくて、正真正銘本当の化け物になったんだな。」

晋が掴んだ肩から、手の熱が伝わってきた。

 「恭は…同じ龍脈の器なのに、治るのが遅い。それって、種を保有してる所為だよね。種が、龍脈の力も恭自身の力も使って成長してるって事だよね。」

 「…そうだろうな。」

治るはずの傷の治りが遅い、その事は恭も十分に考えていた。自覚はないが、種は恭を苗床としているのだと。

 「これで俺も正真正銘化け物になった、か。晋、俺は化け物か?」

 晋は黙って目を伏せた。いつの間にか陽は高くなりつつあり、家中も賑やかになり始めていた。恭が家の中へ帰ろうとしたが、晋は着いて来る様子が無かった。

 「晋、良い事を教えてやろうか。」

晋が顔を上げると、恭は何かを悟ったような笑顔だった。

 「俺は確信している事がある。」

 「何?」

 「龍種は間違いなく俺の代で芽吹く。」

予言に近いもの言いだった。

 「何で分かるのさ?」

 「(ほまれ)が姫だからだ。過去、龍種の継承者は皆男だ。」

 「…。」

恭が見せたあの系図を覚えていた。あれは晋にとっても悪夢の歴史を図解したおぞましいものだ。しかし、それに裏打ちされたイレギュラーがあるとすれば、確実に今までと違う何かが起こるという事だ。

 「誉が生まれた時、俺がどれ程嬉しかったか分かるか?誉は俺の、否、俺達の希望だ。」

あらゆる意味において、誉は晋にとっても大きな希望だった。次世代の存在を目にした時、責任を感じた。決して失敗は出来ないのだと。例えば運命に押しつぶされそうになってしまっても、今までのように自分一人だけの問題ではないのだと知った。そして、恭がそれを希望という名で呼んだ時、初めて晋は未来というものを好意的に見た。

 「…そうだね。」

 「やるべきことをやろう。望む未来を得んがために。」

―――やるべきことをやれ。

裕の決意は自己のためではなく、未来のためのものだった。晋はその意志の上に生きている。そして継承する身だ。

世界の色彩は循環している。縁は複雑に絡み合っている。人は決して一人になれない。今までの人生で、晋はようやくその事が分かった気がした。

 「そうだよね。」

恭の背はいつも通り晋の先にある。晋はその背を頼りに歩いて来た。

 「でも、その戦いに、あの子を巻き込んで良いのかな。」

恭が先に行ってしまったので一人になった晋はすっかり古傷の顔をした新しい傷を指でなぞった。

小さな恋人、仁美の柔らかな笑顔を思い出した。

矢集の業は幻ではない、正真正銘人でない晋を、そうと知っても好意を持ち続けてくれるのだろうか。もし、それでも好意を持ってくれたとしても、それに甘えて良いのだろうか。晋の行く道は、ただの武士の道ではない。仁美を巻き込んで傷付けてしまうかも知れない。そうする位ならば、痛みを伴っても突き放すべきなのではないかという気がした。

 気の早い蝉がないていた。

 晋は無性に不安になった。

いくら待っても裕が帰って来なかったのも、たしか暑い夏の日で、蝉がないていた。ふと思い出した。裕はいつも家の中から庭の方を寂しげに見つめていた事を。あの横顔を見る度に、子供ながらに不安になった。

 あの不安を、どうしようもなく思い出して、苦しくなった。



 恭は報告書のページをめくった。

 崩壊した長老会という組織から闇が噴き出すように、隠されていたものが明らかになって来ていた。人形師のようなカルト教団を隠し、夜好会と繋がりを持ち、法皇復活の謀略を企て、調べれば調べる程に何かが出てくる。そして長年空洞だった長老会の軸となっていたのは転生組でありその転生組に知恵を与えていたのは、間違いなく地下迷宮の主である九条兼実であろうと思われた。しかし、三年前の戦の時ですら影も見せなかった九条兼(くじょうかね)(さね)は、再び幻のように消えてしまっていた。地下迷宮への出入り口が発見されたという報告もない。手詰まりだった。

 恭は思いつめた溜息をつきながら再びページをめくった。

 「ねぇ、さやかちゃん、その本取ってよ。」

 「はい、あきら。あ、皆で食べようと思って、クッキー焼いて来たの。食べて食べて〜。」

 「え、凄〜い。さやかさんお菓子作りとかするんですね。」

 「さくらもたまに作ってくれるじゃない。私はこういうのからっきしだけど。」

 「ねぇ。」

 「静もやったら出来るわよ。今回は仁美と作ったのよ、ね。」

 「はい。御一緒させて頂きました。お口に会えば良いのですが。」

 「美味しいわよ。今度晋にも作ってあげたら?」

 「晋ってお菓子とか食べるっけ。祥子(しょうこ)さんこそ(よし)(ひら)様にどうですか?」

 「ねぇ。」

 「今更手作りお菓子とか、槍が降るわよ。」

 「確かに、尽くされたい訳じゃなさそうですよね。」

 「私だって春家(はるいえ)には作らないわよ。」

 「そうなんですの?それは残念ですわ。」

 「ねぇったら。」

 「何よ、あきら。さっきから。」

 「何よ、じゃないよ。あきらは遊びに来てるんじゃないんだってば。何で、静ちゃんと、さくらちゃんと、さやかちゃんと、仁美ちゃんが、いるのさ!」

あきらが丁寧に一人ずつ指さして言った。

 「…それは俺の台詞なのだが。」

部屋の一角で恭が低く呟いた。

 部屋は地龍本家の、恭が普段執務室として使用している広い部屋だった。予定の無い時は恭が仕事に使用しているが、内部的な会議などに使用するかなり広い部屋だった。和風の板の間で、恭は上座に文机を置き、傍らに報告書や資料などを積み上げていた。その部屋の真ん中に何故か女性陣が集会を開いていたのだ。

 「あきらは、(らん)(きょう)の構造解析が終わったから、今度はあきらなりに再構築してみようと思って…。」

あきらは床に模造紙を広げ、その上に胡坐をかいて座り込み、カラフルなペンで人形の図に大量の演算やら陣やらを書き込んでいた。短い髪は無造作で化粧もせず、服装も男性もの…おそらく幸衡の服ではないかと思われるものを着ていた。胡坐が馴染んでいる様子からしても、恭は初めて挨拶に来た時とのギャップでしばらくあきらだと気が付かなかった。内心驚いていたが、その驚きは後で幸衡にぶつける事にして黙っていた。

そして、その模造紙に片手を付いてやけに色っぽく横座りをしている祥子が落ち付いて言った。

 「それなら、ここの方が資料が揃っているでしょう。広いし、丁度良いじゃない。」

その横でジュースの乗ったお盆を持ってきたらしい静が動じずに言った。仕事がないのかラフなワンピース姿だった。おそらく暇だったのだろうと思った。

 「私はただ差し入れを持ってきたのよ。そしたらさくらが来たから、丁度良いから一緒にお茶しようと思って。」

静の横で恐縮したように縮こまっていたさくらは、亀ヶ(かめがやつ)小隊定番のジャージ姿だった。直嗣(なおつぐ)の部隊は直嗣信者が多く、直嗣の真似をしてジャージを着る者が多いので、影でジャージ隊とも呼ばれる事があった。さくらは他を知らなかったため、運動に適した装いがジャージなのだと勘違いして始めたのだが、今ではすっかり板に付いていた。見た目は完全に運動部の女子マネージャーだが。

 「いや、仕事中に邪魔しようと思った訳じゃなくて…ごめんね。」

あきらの隣で手作りクッキーの箱を開けるさやかも全く悪びれがなさそうに口を開いた。相変わらずひと目で武家の妻と解る凛とした着物姿だった。

 「あら、私は祥子様に呼ばれたので、何か手伝える事があればと思って来ただけですよ。」

さやかの隣で優雅な正座をしている仁美は、淡いピンクのふわふわとしたワンピースに身を包み、こにことして悠然と言った。

 「私はさやか様が地龍本家へ行かれるとおっしゃるので、あわよくば晋様にお目にかかりたいという下心で参りましたわ。」

 恭が呆れた薄目で女性陣を眺めたが、全く出て行く様子も謝罪する気もないようなのが分かると、無視して報告書に戻った。

 恭が諦めたので女子会が再び始まった。あーだこーだと勝手な事を黄色い声で交わすのをBGMにして恭が報告書をめくっていく。女性達はさやかのクッキーを食べながら賑やかに談笑していた。

 「ねぇ、さやかちゃん、そこの青いペン取って。」

 「はい、あきら。あ、そうだ、仁美がねぇ、今度晋くんとデートに行くって言うんだけど…。」

 「二人で手を繋いで、映画を見たり、ショッピングしたり、憧れるわ〜。」

 「いいじゃない。ドラマみたい〜。」

 「ねぇ。」

 「こ〜んなに可愛い仁美を、晋がちゃんとエスコート出来るのか心配だわ〜。」

 「確かに。何かあったら怒っていいのよ。」

 「むしろ私達に言いなさい。とっちめてやるから。」

 「ねぇ。」

 「歩くのが早いとか、気が利かないとか、優しくないとか、想像できる項目がいくつもあるわね。」

 「ねぇ。」

 「何よ、あきら。さっきから。」

 「仕事中なんだってば。」

あきらがペンを空中で振ると、恭が少し目を上げた。

 「…それは俺の台詞なのだが。」

BGMの音量が大き過ぎると、恭が苦情を口にすると、静が退屈そうに反論した。

 「え〜、ちょっと休憩したって良いじゃない。恭も食べる?」

 「結構だ。何故そうまで他人の色恋に関心を持つ?」

 「だって〜…ねぇ?」

静が他の面々を見渡すと、全員が曖昧に頷いた。それから祥子が補足するように解説した。

 「地龍は政略結婚が殆どだもの。私達地龍の女にとって恋愛なんて甘い果実のようなものよ。昔は源氏物語に心奪われた女の子がどれ程いたと思っているの?今も昔も変わらず、女はこの手の話が大好きなのよ。」

うんうん、と頷く女性陣を見ながら恭は再び溜息をついた。

 「祥子さん、説得力の無駄遣いはやめて下さい。いい加減おちょくられているのが分からない俺じゃないですよ。」

 「あら、可愛くない。」

色っぽく笑う祥子にこの手の舌戦で勝てる余地はないので諦めて再び報告書に戻ろうとした時だった。

 「あの…。」

部屋に響いた可愛らしい声は、仁美のものだった。仁美の目はまっすぐに恭を見ていた。恭は何故仁美が恭を見ているのか全く分からず少し戸惑った。

 「…俺に言っているのか?」

 「はい。その、地龍様…に、お伺い申し上げたい事がございますの。」

突然の仁美の申し出に、全員が黙って様子を見守った。

 「…あの、晋様が私を名前で呼んで下さらないのには、何か訳がございますの?」

あまりに深刻そうな切り出しから出てきた、あまりに小さな問いだったため、全員の目が点になっていた。ただ、一人、恭だけが舌打ちをするように吐き出した。

 「あの、馬鹿。まだ、くだらない事に捕われているのか。」

 「その、何か言い淀んでおられる御様子でしたので、何か御事情がお有りなのかと…。」

不安そうに首を傾げる仁美に、恭は優しい笑顔で言った。

 「いや、心配する必要はない。何、つまらない事だ。あれの好きになる女性の名はいつも何故か『ひとみ』と言う名なのだ。それが後ろめたいのだろう。その内にあれの中で解決するだろう。気にするな。」

恭の言葉に、女性陣全員が一気に息を吸い込んだ。

 「何よそれ!」

 「気にするわよ!むしろ凄く微妙な気分になる!」

 「そうだよ、恭くん。それは知りたくなかったな。」

 「そうね、知らない方が良い事もあるわよね。」

 「むしろ恭のデリカシーを疑うわ。」

 「確かに。幸くんがあきらじゃないあきらを呼んだ過去があるのは抵抗があるなぁ。」

全員の猛バッシングを受けながら、恭は首を傾げた。

 「名前などどうでも良いではないか。どうせただの記号だ。晋という人間に好意を抱いているのであれば、名前など関係ないだろう。」

あまりに無神経でありながら、ある意味では真理のような言い方をするのは卑怯にも聞こえた。面々は不快そうにしていたが、仁美がゆったりとした口調で返した。

 「矢集という名の持つ業もまた、目に見えず手に取る事の出来ない幻想なのでしょうか?私は、晋様がどのような御名前でも構いませんわ。ですから、私の事もまたそのように思って頂きたいと存じます。」

 春の陽射しのような柔らかな笑顔だった。

 そんな仁美の恋する乙女ぶりに、全員が見惚れた時だった。

 あきらが大きな声を出した。

 「そうか!名前はただの名前だったんだ!」

 「なぁに、急に。」

 「祥子ちゃん!鸞鏡に使うエネルギー源は、鸞鳥じゃなくても良いんだよ。重要なのは鸞鳥っていう箔さ!人形師たちは珍しい神獣で造った一品っていう箔が欲しかっただけだったんだよ!って事はだよ。人形でなくても良いんだ。この鸞鏡の荒い構造をプロトタイプにして、『夜』からエネルギー供給を受ける装置を作るとしたら…。」

あきらは言いながら模造紙に計算を書きなぐり始めた。その手元を覗きながら、さやかが言った。

 「鸞鏡は、(らん)(ちょう)からエネルギーを得るために鸞鳥そのものを核にして入れ込む構造よ。それを鋳型にして転生システムを作ったと言うのでしょう?でも、もし龍脈からエネルギー供給を受けるとしたら、離れた場所から離れた装置へのエネルギー転送を常時行う事になるわ。本当にこれが鋳型と言えるのかしら。」

静はあきらの計算の一部を指でなぞっていた。

 「そうね。そういう考え方をする場合、鸞鏡と転生システムに共通点は微弱だわ。でも逆に考えれば、龍脈を装置の核に入れ込む方法って事になるわよね。」

静の発想にさくらは目をぱちくりとさせた。

 「え〜っと、つまり?龍脈は装置の中に入っているって事?でも龍脈は複数あるんだよね?装置も複数あるのかなぁ。」

おっとりと仁美が後に続いた。

 「龍脈というのは龍の心臓の事なのでしょう。龍の体ならば、龍脈を内包しているのではありませんこと?」

そこまで意見が出ると、あきらは再び大声を出した。

 「そっか!って事は、龍脈にエネルギーを供給して貰うためには、龍じゃなきゃいけないって事だ!」

あきらの言葉の意味を誰一人として理解していなかった。ただ一人祥子だけは顔の半分を押えて顔を伏せていた。

 「恭くん、地下迷宮の報告書はある?」

あきらが恭の側にずかずかと歩いていくと、恭は大量の書類の中から一冊のファイルを引き抜き差し出した。あきらは速読よろしくパラパラをめくって閉じた。

 「例えば、龍脈からエネルギーの供給を得るためには、龍脈と装置を繋ぐ必要があるよね。そのための地下迷宮の奇妙な構造だったんだよ。壁が生き物の体内みたいな肉感があったんだよね。それは龍の体内を再現しているんじゃないかな。龍脈イコール龍の心臓に、エネルギーを供給するべき自分の肉体だと思わせることで、システムへのリンクを作ったんじゃないかな。」

あきらの意見に、恭が身を乗り出した時だった。

 祥子が床に倒れ込んだ。

 「祥子さん!」

静とさくらが駆け寄ると、祥子は顔の半分を押えたまま意識を朦朧とさせていた。あきらは祥子の手の隙間から呪いの痕跡が赤く光っているのを見逃さなかった。

 「静、どこか休める場所へ…。」

さやかが言いながら立ち上がると、静が頷いてさくらと共に祥子を運ぼうとしていた。さやかがそれに着いて行こうとすると、あきらが強い口調で呼びとめた。

 「さやかちゃんは残って。龍脈と装置を繋ぐには正確な位置情報を組み込む必要がある。あきらには無理だよ。」

この事態で祥子の心配より仕事を優先させるのかと、さやかが憤った目であきらを見ると、あきらは強い視線を向けていた。そんな様子を見て、仁美が立ち「では私が祥子様と御一緒致しますわ。」と言って去って行った。


 部屋に残ったのは、恭とあきらとさやかだけだった。

 「あきら…。」

さやかは、あきらが何かを伝えるためにさやかを呼び止めたと理解していた。問い詰めるように名を呼ぶと、あきらは黙って頷いてから、はっきりとした口調で言った。

 「祥子ちゃんの受けた呪いは解けてなんかいない。」

あきらが模造紙の上に散らかしたペンを見つめながら言った言葉に、恭とさやかが反論をした。

 「どういう事だ?」

 「そうよ、祥子様がご自分で…。」

呪いは祥子自身が解析してもう問題ないと判断したものだ。今代において祥子以上の知識量と実力を持つ術者はいない。その祥子が言った事を、あきらは否定したのだ。

 「そうだね。でも祥子ちゃんだって間違う事はあるよ。」

 「そんな事はないわ、祥子様が間違うなんて。」

祥子を尊敬するさやかが声を荒げたが、あきらは意見を曲げなかった。

 「…そうだね。祥子ちゃんは優秀だ。だからこそ、この呪は有効だったんだ。」

恭はあきらの言葉に目を見張るように訊いた。

 「何が分かった?」

 「多分、祥子ちゃんは記憶の一部を封じられてるんだと思う。」

 あきらはずっと考えて来た。祥子の様子がおかしいと。祥子が呪われた時、あきらは恐山で修行をしていて下界の事を何一つ知らなかった。その事を深く悔いた。たとえあきらがいても現状が変わらなかったとしても、何もしないのとは天地の差がある。口では何と言ってもあきらにとって祥子は唯一無二の師匠であり良き理解者だ。その祥子の様子がおかしい事くらい分からないはずがなかった。義平もきっと分かっていたはずだ。けれど義平は武士であって陰陽師ではない。事は常に水面下で動き続けている。その事を知らずに長い時が経過して来てしまったのだ。

 「そもそも祥子ちゃんが邪魔だとしても、こちらが祥子ちゃんをキーパーソンとして認識していないなら問題はないはずだ。下手に手を打っては逆に勘付かれる。そのリスクを押してでもどうにかしたかったものが、祥子ちゃんの中にあるんだ。」

 「成程。」

 「祥子ちゃんが鸞鏡の構造解析を手伝えなんて、変だと思ったんだよ。実際来てみたら殆どあきらがやることになった。鸞鏡やその構造について話そうとするといつもあの呪いが邪魔をするんだ。絶対に何かある。」

鸞鏡の構造解析は、祥子には無理だ。あきらには分かっていた。呪いは何かを遮障するためのものなのだと。悪しき妨げが、あの赤い光の正体なのだと。

 「対抗策は?」

恭とさやかは真剣にあきらの話を聞いていた。もしかしたら信じて貰えないかもしれないとも思っていたので、少し鼓動が高まった。

 比企(ひき)家の女は政治の道具だ。それを無視して術者になったあきらの言葉を真摯に受け止めてくれるのは、あきらにとって祥子と幸衡だけだった。今までは。ここは言葉の通じる場所なのだと分かった。幸衡の選んだこの場所は、自分の正しいと思った事を正しいと言える場所なのだと。それが分かったあきらは、唾を飲み込み覚悟を決めたように言葉を次いだ。

 「分からない。でも急ぐ必要があるよ。祥子ちゃんが自分の呪を解けたと思っているのは、記憶を改ざんされているからって可能性があるんだ。時間をかければ祥子ちゃんの記憶は書き換えられてしまうかも知れない。それが敵の目的だと思う。転生組の祥子ちゃんは殺しても再び生まれて来る。時間稼ぎにしかならない。だから、肝心の記憶を消してしまう事にしたんだ。呪いを受けてから時間が経ち過ぎてるから、今から対策を講じてどこまで対処できるか、分からないけど…。」

 複雑な呪いだ。今から解析してどうにか出来るのか、未知数だった。

 「そんな…。」

口を押えて肩を震わせるさやかに、あきらは訴えた。

 「さやかちゃん、力を貸して。これは内密にやらなきゃならないんだ。呪いのコントローラーは敵が持ってる。呪いの正体に気付いたと知れれば別の手を下して来るはずだ。敵に知られずに呪いを解いて問題の記憶を手に入れなきゃいけないんだ。」

 あきらの真剣な訴えに、さやかが恐る恐る頷いた。

 「私に、力になれることがあるなら。」

前線を退いて久しいさやかは少し自信なさそうに言った。

 「大丈夫だよ。あきら一人じゃ無理だもん。一緒に頑張ろう!」

あきらがさやかの手を握ると、恭は頷いた。

そして内密ながら正式な仕事として命令するように、二人に訊いた。

 「やってくれるか?」

さやかは覚悟を決めたように頷いた。

 「ええ、他ならぬ祥子様のためですから。出来る限りを尽くします。」

 「えへっ。あきらは幸くんに褒められたいから、頑張るよ!」

恭は、この局面に至っても揺るがないあきらの強情さは、幸衡に匹敵するだろうと思った。どこかで似ているのだ。とすれば、口では己が利のためだと言っていようとも他者のために尽力する気持ちなのだろうと察する事が出来た。

 「理由はともあれ、任せたぞ。」

長時間読んでいた報告書を閉じると、恭は次の一手を打つべく前を見据えた。


 祥子の様子はしばらく経つと治り、無事に帰宅したとの事だった。あきらは、敵が封じたい記憶に触れると遮障されるだけで、それ以外には何もないはずだと言った。実際その通りのようだった。戻った静と事態の情報を交換し合った恭は、ようやく一息ついた。

 「それにしても、女子会の力は凄いな。直前まで雑談を交わしていたのに、あっと言う間に鸞鏡の構造を分析してしまった。」

わいわいとお茶を飲みながら騒いでいたはずだったのに、あきらの閃きを皮切りに鸞鏡と転生システムの構造にについてあれよあれよと言う間に分析してしまった。まるで、ただの話題転換でしかないかのような自然な流れで、そして自由な発想で。

 「あら、女を舐めてたのね。」

 「あのように有意義な意見が出るのならば、以後も積極的に続けてくれて構わない。」

微笑む静は、恭が女子会を誤解したままのような気がしたが面白いので訂正するのを控えておいた。女子会などと銘打っているが、実際のところ地龍最強女性陣の集会に他ならない。その事の凄さが成せる技なのだが、誰もがその高みを自覚しないため、それが分かる人物はいなかった。


 晋が恭の命令で届け物などを済ませて帰って来ると、廊下を曲がった先で小さくてふわふわした何かと軽くぶつかった。ふと見下ろすと、そこには畠山仁美が目をまんまるくさせて見上げていた。

 「えっ!ひ…え?」

晋は驚いた反射で曲がり角を戻った。

 「あら、あらら?晋様、どうして戻ってしまわれますの?」

ちょこちょこと追いかけて晋の服の裾をつまむ仁美が一生懸命問いかけても、晋は両手で顔を覆ったまま背を向けていた。

 「いや…その…心の準備が…。」

思わぬ遭遇に、どう対処して良いか分からない晋に仁美は首を傾げた。

 「心の準備、ですの?何を準備いたしますの?私、もしかしたら晋様にお目にかかれるのではないかと期待して参りましたのよ。晋様?」

仁美が晋の正面に回り見上げると、晋は指の隙間から仁美を見下ろした。

 「あの…どきどきする準備です。」

 「あら、うふふ。私も、どきどきいたします。」

頬を赤らめる仁美の照れた笑顔の可愛らしさに、晋は顔を覆ったまま壁に頭を押し付けた。

一人になるとどうしようもなく不安になるというのに、仁美の幸せを未来を考えると苦しくなるというのに、こうしていざ目の前にすると高鳴る鼓動に抗う事が出来ない。

 晋はこの焦れる気持ちを、いつかきちんと打ち明けて、そしてきちんと離れなければと思った。

 仁美のために。

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