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11 逢瀬の事

 麗らかな春の朝の少し冷たくて柔らかい光が、新たな季節の到来を知らせてくる。

 幸衡(ゆきひら)は朝食を済ませ、出勤前に掃除機をかけていた。大雑把なあきらが同居するようになって家事が増えたため、少し早起きになったが、それもしばらくすると慣れて朝の時間に余裕が出来るようになった。時計を気にしながら掃除を続けると、床でごろごろとしているあきらにぶつかった。幸衡は眉をひそめて見下ろした。あきらは目を閉じたまま幸衡の刺すような視線から避けるようにゴロリと転がった。しかしそれは進行方向なのですぐにまた邪魔になった。しびれをきらした幸衡が、ようやく咎めるように名を呼んだ。

 「あき。」

するとあきらは急に目を見開いて幸衡を見上げた。

 「幸くん、祥子(しょうこ)ちゃんの呪いは本当に祥子ちゃんを苦しめたいだけのものなのかなぁ?」

 「ん?上の見解では新田殿に余計な手出しをされないための足止め工作だったと聴いているが?」

ただゴロゴロしていたのでは無かったらしいあきらの話を聴こうと、幸衡が掃除機を止めてあきらの横に腰を下ろした。

 「う〜ん。そうかも知れないけどさぁ。祥子ちゃんは確かに凄い人で、使える術は数えきれない程だよ。その中でも祥子ちゃんしか出来ない術もいっぱいある。でもさぁ、その中のどれかが転生システムをどうにかする事が出来るとしても、祥子ちゃんは知らない訳でしょ?それって、足止めしようとかする方が怪しくないかい?」

 「相手が気付いていない内は放置しておいた方が良いと?」

あきらが探偵の推理の如く空中で人差し指を振りまわすのを、気真面目に目で追いながら幸衡が疑問符を投げた。

 「あきらなら、少なくとも自分で藪をつつくような事はしないなぁ。だって、狙われなければ、祥子ちゃんが鍵を握ってるなんて誰も思わないじゃない。」

 「…では、呪いの目的は足止めではないと?」

幸衡があきらの疑問の先へ行こうとする。けれど、あきらは再び目を瞑って唸った。

 「う〜ん。考えすぎかなぁ?」

 「…いや、あきの言う通りかも知れないな。」

あきら同様しばらく思案顔だった幸衡が頷くと、あきらは嬉しそうに目を開き起き上がった。

 「信じてくれるの?」

 「あきの野生のカンはよく当たるからな。私からも恭くんにその話をしてみよう。あきもあきなりに探ってみてくれ。」

 勢いよく起きてみると、意外と幸衡とあきらの顔の距離が近かった。幸衡の色素の薄い長い睫毛の隙間から春の陽射しを反射して輝く瞳が覗いていた。その美しさに一瞬呆けてから、あきらは再び唸った。

 「う〜ん。」

 「どうした?」

 「仕事増えた。」

怠惰な言葉に呆れたように幸衡が溜息をついた。

 「どうせ暇なのだ。故に構わないではないか。」

 「そんな事ないよ。あきは幸くんと一緒にいるためにここに来たんだからね。祥子ちゃんの手伝いは飽くまでもおまけだよ。」

 「そう言うな。私のためだと思ってやってくれ。」

熱心に頼む幸衡に屈しない強固な態度であきらは口をとがらせた。

 「ぶ〜。ちゅうしてくれたら頑張れるかも。」

あきらが半ば冗談で突きだした唇に、幸衡はあっさりと自身の唇を重ねた。

ゆっくり立ち上がった幸衡は薄く笑って見下ろしていた。

 「頼んだぞ。」


 あきらは朝の幸衡のどれ程に美しく心奪われたかを、祥子の仕事の手伝いをしながら何度となく語り続けた。祥子はすっかり飽きたとばかりに言った。

 「ジゴロねぇ〜。あきら、アンタ騙されてるわよ。」

 「いいの。あきらは幸くんが大好きなんだから。」

例え都合良く利用されていたとしても構わないとあきらは言った。けれど、おそらくそうではないのだと野生のカンが言っていた。

 「…どこがいいんだか。」

心底どうでも良いとばかりに言う気だるげな静の声に、あきらはむきになって食ってかかった。

 「ちょっと、どうして静ちゃんがここにいるの?あきら別にここに遊びに来てるんじゃないんだからね。」

 「あら。あきらがいて良いなら私がいちゃいけない訳ないじゃない。」

 「な…なんたる不遜!変わらないね、静ちゃん。」

高飛車な静の態度にあっさり敗北をきしたあきらが肩を落としていると、祥子が思い出したように言った。

 「そう言えば、静。今日は晋のお見合いの日だったわね。」

 「ええ。朝から各方面の世話焼きが集合してて、もう面倒臭いったらないわ。」

畠山(はたけやま)重忠(しげただ)の末娘・(ひと)()と晋の見合いが行われるのは、その日の昼過ぎだった。御譲様に粗相があってはいけないと、朝から恭が口をすっぱくさせて注意を繰り返し、毘沙門が身支度に口を出しに来ていた。幸衡や小鳥遊(たかなし)も心配そうに様子を見ていた。

 「そう言えば幸くんもそわそわしてたなぁ。」

 「まぁ、愛されてる事。」

その様子を聴きながら微笑ましいとばかりに笑う祥子に、あきらは軽く訊いた。

 「祥子ちゃんだって、晋くんを随分可愛がってるじゃない?封縛樹(ふうばくじゅ)を作ってあげるなんて、出血特別大サービス中の大贔屓だよね。」

 「それは、そうよ。可愛い男の子に甘えられたら悪い気しないじゃない。…それに、結果論になるけれど、あの子には随分過酷な運命を背負わせてしまったもの。私達転生組がいなければもっとマシだったはずだわ。せめてもの罪滅ぼしよ。」

 転生システムが龍脈のエネルギーを消費しているがために、龍種は急速な成長を余儀無くされ、管理の役割を負った八つ目が生まれてしまった。それを知ってからの祥子は、転生者さえいなければ、そう思わない日はない。

 「祥子さん…」

運命と戦う恭を側で見守り続けている静は、祥子にかける言葉が見つからなかった。しかし、あきらはいつもの調子で返した。

 「それは一面的な見方だよ、祥子ちゃん。確かに転生システムが大きな歪みを生んで、その皺寄せをモロにくらっているのは恭くんと晋くんかも知れない。でも、だからこそ得たものだってある。根底を覆すような見方は失礼だよ。今の彼等が幸か不幸か決めるのは本人達なんだから。」

 「あきら…そうね。転生していなければ、私がこうしてあきらや静に会う事もなかったのよね。」

 「あきらもたまには役に立つわね。」

 「たまにってなんだい。あきらはいつも役に立っているよ!それより静ちゃんと恭くんのラブラブライフについて教えてよ!」

 「なっ!嫌よ!何であきらなんかに!」

 「祥子ちゃんと鎌倉様の熟年夫婦話にはもう飽きたんだよ!あきらは常に新しいものを求めているんだ!さぁ、あの仏頂面の地龍様にどんな風に口説かれたんだい?さぁ、あきらに話してごらん、静ちゃん!」

 「きゃっ、あきら、どこ触ってんのよ。ちょっと、祥子さん、助けて。」

あきらが勢いだけで静を押し倒し迫っている様を眺めながら、祥子はぼんやりと記憶の上澄みをなぞっていた。

 「常に新しいものを…。」

そう、そんな時代が祥子にもあった。常に自分が最先端を走ると決めていた。故に多くの術を生みだし、構想を続けた。うっすらとした上澄みの下に沈殿している記憶に触れる事なく、祥子はただぼんやりと耽っていた。顔に残った呪の痕跡が少し熱を持った気がした。

 あきらの目には祥子の顔のひびの奥に赤い光がほんのり光ったように見えた。



 春を歌うように植物が芽吹いた。空に広がる青、柔らかい雲の白、桜の薄いピンク色、葉の若い緑色、光を反射した鮮やかな色彩があちこちで目を覚ます。

 晋はくすんだ目でそんな新しい季節に気が付かないまま、待ち合せの場所へ向かって歩いた。お見合いと言うからには、重忠が立会い、堅苦しい料亭などで決まり切った会話をするものと思っていたが、重忠が用意した場はお見合いと言うよりデートだった。公園のベンチで待ち合わせをして、あとは二人で、と言うのだ。晋は仁美の容姿を知らないし、いきなり二人きりとか色々と不安要素はあったが、言われるままにするより他にないのだ。重い足取りで歩いた。

 スーツのコーディネートは完全に幸衡に持っていかれ、言葉使いは毘沙門に徹底的に叩きこまれた。嫌でも一度受けた以上は、畠山重忠という重鎮の娘に失礼があってはいけないと恭に煩い程に言われた。断る事を前提にしているとしても、そうと解る態度をしてはいけないのだ、女性に恥をかかせることのないように、と小鳥遊は姑のようにとくとくと説明した。他にも(よし)(ひら)などは単純に楽しんでちゃちゃを入れに来ていた。

 そんな事くらいは晋も分かっている。子供ではないのだ。それでも気は重かった。いくら畠山重忠の娘という立場で生まれても、政治や親の気分に振り回されるのは可哀想だ。重忠が年をとってから生まれたためか、仁美は異常に可愛がられて育ったらしい。そんな特別製の箱入り娘が、呪われた矢集家の嫁など、おそらく舌を噛んで死んだ方がマシだと思っているに違いない。きっと今日が済めば、向こうから断ってくれるに違いない。この数時間だけの辛抱だ。首を回して気分を入れ替えると、晋の目には目的の公園のベンチが見え始めた。

 御譲様を待たせる訳にはいかないと早く出たはずだったが、ベンチの前に人が立っているのが見えた。

 近づいて行くと、小さくてふくよかな少女が晋の姿に気が付き、腰を屈めてスカートの裾をつまむ如何にも御譲様らしい動作で挨拶をして見せた。少女は陽光を浴びた事がないかのような透き通る白い肌をしており、清楚な白いフリルのワンピースに身を包んでいた。色素の薄い茶色のふわふわとしたロングヘアーが、幼い、ともすると中学生にも見えるような可愛らしい顔の横で軽やかに揺れていた。全体的におっとりとした印象の少女を、その丸みを帯びた体型が更に助長しているようだった。少女は晋を目の前にすると、見るからに温室育ちの汚れを知らない姫君といった風貌で、柔らかく春の陽射しのように微笑んだ。

 「あの…。」

 「矢集晋様でいらっしゃいますね。御待ちしておりましたわ。私畠山重忠が末の娘、仁美と申します。」

 「あ…はい。よろしくお願いします。」

あまりにあどけない様子に、晋は反応に困ってしまった。

仁美の背は小さく、目測で百五十センチないようだった。百九十センチ余りある晋が見下ろすと、まるで子供のようだ。

 「やっとお目にかかる事が出来て、嬉しいですわ。私、晋様にお会いするのを、とっても楽しみにしておりました。」

 「え…でも、俺は…。」

全く邪気のない仁美の笑顔に晋は動揺した。無理矢理政略結婚させられそうになっている可哀想な姫君、の様子がまったく感じられない。

 「どうして、俺なんかと会うのを楽しみにしてくださったんですか?」

 「ふふっ、私、ず〜っと晋様にお見せしたかったんですの。」

晋の前でふわふわと笑う仁美に、晋は唖然としつつ目に疑問を浮かべると、仁美がベンチを指した。

 「どうぞ、御掛けになって。ずっと見降ろしていたら疲れてしまいますわ。」

ずっと見上げている方がずっと疲れる気がしたが、仁美に反論する事は出来ず大人しく導かれるままにベンチに腰を掛けた。当然隣に座るだろうと思われた仁美は、座る晋の前に立つと晋の膝に置かれた手を、自身のふくよかで小さな手で包んだ。

 「この世界の美しさを、お見せしたかったんですの。」

仁美が手を握った瞬間、晋のくすんだ目に春の陽光が飛び込んで来た。輝きは晋の目を通って内側を照らし、体を循環すると感嘆の声となって出た。

 「う…わぁ…。」

晋の目には、ずっと失われていた色が映っていた。恭の目を通してしか知る事のなかった、鮮やかな色彩豊かな世界が、その眼前に限りなく広がっていた。

 「…なんで…。」

晋がただただ驚きと感動に包まれていると、仁美が満面の笑みを見せた。

 「貴方様がお父様と戦う所を拝見させて頂いておりました。晋様のその目は、色を御存知ないのだと、すぐに分かりました。私なら、晋様に色を見せて差し上げる事が出来る、ずっとそう思って参りました。どうですか、美しいでしょう?世界はこんなにも色に溢れている。」

何もかもが喜びに充ち溢れているのだと謂わんばかりに仁美は笑った。

 「ああ…凄い…。」

 「地龍がどうであっても、『昼』や『夜』が死に絶えても、世界はこうして色彩を放ち続けるのです。」

仁美は小さな丸い手を晋の大きな武士の手に重ねたまま、畳み掛けるように言った。

 「晋様が何者であられても、私が誰でも、世界は美しいのですわ。」

晋は無限に続く色の溢れる世界を、瞬きも惜しんで見ながら、仁美の言葉が胸の芯にじんわりと沁み込むのを感じた。

 「…そうか…そうなんだ。」

 「ええ、そうですわ。」

 そしてずっと目の前にあった何かに、ようやく気が付いた。

 常に目の前にあったそれを、受け入れられないがためにずっと見ない事にしてきた。

晋は目を閉じて知らないふりをして、ずっとずっと卑怯にも自身を騙して生きて来た。しかし、今、全てはこの小さな手の前に暴かれたのだ。

―――分かったのか?

 恭の声がしたような気がした。

 「分かった…。」

晋は目を見開いたまま、呟いた。

―――やるべきことをやれ。

 「父さんのやるべきことは、俺の居場所を作る事だったんだ…。」

 (ひろむ)は恭の父親を手にかけた後で姿をくらました。それから長老会という最初から地龍本家と敵対していた組織に与して、テロリストとしての立場を確固たるものにした。

 長老会にお膳立てしてもらった通りに貴也を殺したが、その心臓と種の継承は迷うことなく恭へと向かった。八つ目としての使命を果すための継承を実行した。

 そして晋の前で恭を殺そうとした。しかしそれは八つ目の使命に背く行為ではなく、ただのフリ、謂わばパフォーマンスだった。そうとは知らない晋は裕を手にかけた。

 そのお陰で晋は、呪われた当主殺しの矢集としてではなく、逆賊となった父親を殺した忠臣という立場を得た。裕が自ら悪者となって死ぬ事によって、地龍への忠義を果たし地位を上げた。

 確かにそれが無ければ、当主殺しの息子というだけであったなら、きっと地龍当主の側近という地位は今より遥かに風あたりの強いものだったろう。古巣である鎌倉は元より晋に辛く当たる、しかし今それが軽減されているのは間違いなく、裕に用意されたこの立場あっての事だ。

 今の晋のすべては、裕がその身の全てを用いて作り上げたものだ。

 「それは素敵なお父様ですわ。」

仁美が言うと、晋はその目から何かが落ちるのを感じた。

 「…何か、目から鱗が…。」

裕は、いつからそんな事を考えていたのだろうか。今にして思い返してみれば、裕の行動は徹底していた。ずっと、晋の前から姿を消した時にはもう、決意していたのかも知れない。

 晋の手によって死ぬ事を。

 それがあの鬼神と呼ばれた男の愛情の示し方だったのだろうか。

 晋はぽろぽろと零れる大粒の涙を止める事が出来なかった。

 裕を手にかけた時ですら泣けなかった。ずっと泣けなかった。蓋をして、見なかったことにしてきた故に、涙する理由が無かった。

しかし今はある。父親を殺した事の悲しみや、父親がその命を賭して貫いた愛、そういったものが胸を焦がす。

 突然泣き出した晋に対し驚く様子もなく仁美は歌うように言った。

 「人は時に世界から色を取り込み心を照らします。そして時に心に生まれた色を夜の帳に放します。そうやって人は色彩を循環させているのですわ。しかし晋様のように自ら色を封じてしまわれると、全てを蓄積させるしかなくなってしまいます。沢山の色が混ざり合って濁ってしまいます。」

仁美に促されるように見ると、遠くで桜を眺めている人の『波形』は桜を写し取ったような薄いピンク色をしていた。自然から色彩を取り込む、浄化する作業なのだろうと思った。

 「御覧になってください。」

仁美が再び促し、晋は仁美の目を鏡のようにして自身の『波形』を見た。

ずっと濁り切っていた。まるで『夜』のように禍々しいと言われていた『波形』が、浄化され澄んでいた。

 「晋様は晋様が思っていらっしゃるより、ずっと純粋な御方ですわ。だって、こんなにも綺麗な『波形』をしていらっしゃるんですもの。」

 あまりに驚きと感動の連続だった。

 晋にとっては全てが夢で、幻で、目を覚ましたら無くなってしまいそうに思えた。

 裕が人として生きる晋のために用意した、矢集の名に屈しない立場の上を歩くのは晋だ。どんな理想を託して作った道だとしても、晋はその事に気付かずに三年もの時を盲目なままで歩いて来た。それでも、その中で多くの人に出会ったし、多くのものを得た。すべてが裕からの贈り物であり、愛情だと、今ならば解る。

 そしてその道の先に待っていたのは、この不思議な少女だった。

晋の泣き顔を見て微笑む姿を見ていると、もうどうしようもない程に涙が溢れて止まらなかった。

 きっと、裕が与えたかったもの、それはこの少女なのだ。

 もし、運命というやつが本当にあるならば、今がそうだ。

 「晋様、私、晋様をお慕い申し上げております。」

仁美は何の衒いも無く言い放った。当たり前の事を当たり前に口にするように。

 晋はもう十分に分かった。仁美は重忠の言いなりになるような姫君ではない。この縁談はそもそも重忠の意向では無かったのだ。すべて仁美の意志によるものだ。と。

―――でももし、晋自身に好意を抱いてくれる人が現れたなら、家名も宿命も関係ありません。すべて忘れて晋自身で向き合えばいいのです。

『夜好会』の取引現場で毘沙門が言った言葉を胸で反芻した。

 「俺は、きっと君に出会うために、彷徨って来たんだ。ありがとう、ずっと君に会いたかった気がするよ。」

晋が涙声で切れ切れに言うと、仁美は柔らかい掌で晋の頭を撫でた。

 「…やっと、御逢いできましたね。」


 そうしてどれ程の時が経ったろうか。晋が気が付くと、すっかり夕方になってしまっていた。

 「あの…すみません、俺。こんなみっともない所お見せして。」

 「いいえ、とんでもありませんわ。」

 「でも…」

泣き腫らした目で、申し訳なさそうにする晋を見て仁美は少しだけ考えてから言った。

 「では、今度仕切り直し、して下さいませ。私、『昼』の人々がするようなデートというものをしてみたいですわ。」

晋は嬉しそうに返した。

 「はい、はい!是非!」

「送ります。」とベンチから立ち上がると、小さな仁美が更に小さく感じられた。きょとんとして見下ろす晋を見上げて小首を傾げた。「はい。御願い致しますわ。」と言いながら差し出した仁美の手を、晋はそっと優しく掴んだ。

 仁美は重忠に頼んで鎌倉にしばらく滞在する事になっていると説明し、その間は北条(ほうじょう)(はる)(とき)の屋敷に居候すると言った。北条春時は春家(はるいえ)の父親で北条家当主だ。春家も京都守護の任を賜るまではその家に住んでいた。今は春時夫妻と、春家の妻さやかとその子供たちが暮らしている。北条家は広く、使用人も多いため、晋は丁度良いだろうと思った。それでもおそらく仁美は賓客として迎えられるのだろう。

 「春家さんはお子さんが多いですから、賑やかでしょう。」

 「ええ、とっても。私とは兄弟のような歳の差なんですの。だからとっても楽しいですわ。私こういう賑やかな暮しに憧れておりましたの。」

重忠お気に入りの仁美は家の中でも大事に桐の箱にでも収められていたのだろうか。晋は想像しつつ小さな頭を眺めた。地龍広しと言えどここまで絵に描いたような御譲様は珍しい、きっとそういう事なのだろうと思った。

 「俺も、家族団欒でわいわいするのって憧れます。もちろん今は皆よくしてくれるんで結構賑やかなんですけど。何か、普通とか、平凡っぽいものに憧れるんですよね。」

知将(ともまさ)の所帯じみた所や、義将(よしまさ)の遠慮のない末っ子ぶり、幸衡の押し付けがましいまでの世話焼き、大学時代のあの暮らしは晋の中では最も憧れに近かった。

 「分かりますわ。私、テレビや雑誌を見て『昼』の方たちの暮らしにずっと興味がありましたの。『昼』も『夜』もない日常の中で、家族と友達と恋人と生きていくのですよね。私もそんな当然を味わってみたいのです。」

 「ははっ。変わったお姫様ですね。」

 「あら、普通が良いんですのよ。変わっていてはいけませんわ。」

 「じゃあ、変わっているのが普通という事で。」

 「…それはよく分かりませんわ。」

仁美は晋の言葉遊びにおっとりと首をひねった。

 そして二人は道中、仁美がしたいデートについて話した。仁美は、江ノ電に乗りたい、江ノ島に行って水族館に行きたいと、『昼』の少女のように目を輝かせて話した。晋はそのひとつひとつに相槌を打っていた。

 それはまるで特別な逢瀬のようだった。きっと今日の見合いを知る者の誰もが、二人がこのように打ち解けていることを想定していない。つまらない社交辞令のカードを切り続ける下らないゲームをしていると思っているに違いない。晋はそれを思うと、密やかに交される逢瀬のような今を愛おしく思った。

 そんな話をしている内に北条家に着いた。仁美は門までで良いと言ったが晋は「さや(ねえ)に挨拶して行かないと後で道白(どうはく)さんに殺されるから。」と言い張り、しっかりとさやかに挨拶し、浮かれている仁美を引き渡してから帰路に着いた。

 別れ際にお辞儀をした仁美の姿は、どこぞの洋館に住んでいる深窓の御令嬢のようだった。ただ仁美はふっくらとした体型なので、美味しいお菓子を食べ過ぎた御令嬢だろうと思った。

 

 仁美と別れて再び色を失った晋は、それでも思っていたより寂しい気持ちにはならなかった。良い事があると日常との差に落胆するものだと思っていたが、想像よりダメージはない。それはまだ手に、仁美のあの小さな手の感触が残っているからだろうか。

 陽が暮れた暗い道を歩きながら自らの手を見ると、長年刀を握り続けてきた傷だらけの手があった。幼い頃に見た父・裕の手とよく似ていると思った。その手がさしのばされる事、その手に撫でられる事、その手に抱きしめられる事、無意識に求めたそのどれもが叶う事はなかった。だからと言って裕は晋を嫌っていたのではなかったのだなぁ、としみじみと実感した。

 晋が裕に求めていた愛情は、そんな単純な事だったと言うのに、裕が晋に注いでいたものはもっと大きくて深い愛情だった。いつも晋は浅はかで、眼先の事に捕われる。でも本質はもっと見えずらい所で晋が見つけるのを待っている。その奥ゆかしさが腹立たしいと思う。

 

 地龍本家に帰り廊下を行くと、丁度静が通りかかった所だった。

 「あら、おかえり。高貴な姫君とのお見合いはどうだったの?…ってちょっと、何あんた、その顔。泣いたの?何で?その姫君ってまさか重忠殿顔負けの大女だったの?いじめられたの?それとも何か失礼を働いて仕返しされたの?お腹痛いの?」

晋の分かり易く泣き腫らした顔に、静がぎょっとして問い詰めた。

 「え?…ああ、そんなに分かる?」

晋が自分の目元を指先でなぞった。静はその間も「転んだの?ふられたの?あ、騙されたとか?」と可能性を列挙し続け、終いには大声で恭を呼び始めた。静の慌て方が面白くなった晋が、静に抱きつきながら泣き真似をした。

 「わ〜ん、静姉〜、慰めて〜。」

 「よしよし。」

静が晋の背中をぽんぽんとあやすように叩くと、廊下の奥の方から荒い足音を立てて恭がやってきて強引に晋と静を引きはがした。

 「離れろ!」

 「わ〜い、分かり易いやきもち〜。」

晋が指さして言うと、恭が晋の頭を強く叩いた。

 「うるさい!」

 「あははっ、痛い。」

晋が頭を撫でながら恭を見ると、恭は不思議なものを見るような目で晋を見ていた。

 「晋、お前…何があった?」

恭の目には、晋の浄化された『波形』が映っていた。

 「やっと、分かった。恭が俺に気付かせたかったもの、父さんの意図、色彩の巡り、そういうものの先に、彼女がいた。」

 その言葉は、恭がこの三年以上の間、否長年待ち望んでいたものだ。

 たとえその有無で未来や宿命が変わらなくても、それは大きな変化なのだ。

 恭が目指す、皆で生き残る勝利のためには、必要不可欠なパーツだ。

 「そうか。…これで先に進めるな。」

恭が安堵したように吐息混じりで言った。

結局何で泣いたのか分からない静は状況を飲み込めない様子で二人を見守っていた。

 「さて、詳しく聴こう。」

言いながら部屋へ促す恭の悪戯な笑顔を見て、晋は苦笑いをした。

 「逃がさないわよ。」

興味津々の静が晋の背を押した。

仕方なしついていく晋の横顔に、しつこく静が訊いた。

 「で、結局何で泣いたのよ?」

 「う〜ん…デトックス的な?」

 「意味分からないわ。」

目を細めた静に、先を行く恭は乱暴に言葉を放った。

 「そいつは昔からよく泣く。」

その言葉を受けて静は晋をじっと見た。晋がその視線を受けたままたじろいでいると、静は先に恭を追いかけた。

 「やーい、泣き虫―。」

 「…っ静姉がいじめる!」

 「静は以前からいじめっ子だ。」

再び恭が雑な言葉を放ったため、それを元に静と晋がしばらくくだらない言い合いをしていた。

 「静姉のいじめっ子!Sっ子!女王様!」

 「晋のマゾ!駄犬!ウドの大木!」

 恭はそんな他愛のないやりとりを楽しそうに交わす晋を眺めて微笑んだ。

 「そこのでかい子供二人、早く来い。」

恭が呼ぶと、純粋な子供のような笑顔が返ってきた。

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