6 月夜の事
その日、恭は恋というものを知った。
月夜静はお嬢様だった。地龍において月夜家は名門中の名門であり、静は生まれながらに将来を約束されたサラブレッドだった。
月夜家は地龍で唯一の札師の家系だ。札師とは特別な札に筆で書いたものを具現化する術を使う者のことで、極めれば万能だった。ちなみに極めた者はない。そもそも何をもって極めたとするのか、例えば『昼』と『夜』のバランスの歪まない世界そのものを具現化して見せれば極地に立ったと言えようか。ともかく万能でありながら曖昧、術自体も複雑で困難なものだった。
静は、そんな札師としての天性の才能は歴代でも類を見ないと言われ、千年に一度の天才と持て囃されて育った。周囲の期待や羨望は静にとってランウェイを彩る観客に過ぎず、常に今より上の名声や地位を手に入れることしか考えて来なかった。生まれ持った才能、美貌、家名、すべてが静自身を祝福しているとしか思えなかった。この世界は静の人生を華々しく描くためのキャンバスだとすら思えた。
その傲慢が終わったのは十五歳の誕生日だった。
月夜の家には十六歳の誕生日に『夜』を召喚し契約する儀式をすると決められていた。この時契約する『夜』は一生使役することになるため、儀式は複数人で慎重に行い、より強い『夜』を召喚し契約することを目指していた。静は天才だからこそ失敗できない儀式だし、強い術者ならば当然それに伴うものを召喚できるため周囲の期待は計り知れなかった。前代未聞の天才が使役する『夜』だ、未だかつてない大物に決まっている。静自身そのことを疑いもしなかった。だからただ大物の『夜』と契約するのでは自身の力を誇示するためには弱いと考えた。そして行ったのだ、しきたりより一年早い十五歳の誕生日に、一人で儀式を。
静は儀式に失敗し、右腕を失った。契約した『夜』も書物にも載っていない異端種だった。周囲から得るはずの称賛も、札師の命とも言える利き腕も、すべて失い静の計画は頓挫した。一族の中で静の名は地に落ちた。傲慢を謗られ家の恥になった。静の華やかな人生は十五歳で幕を下ろしたのだ。
周囲の掌の返し方は正直驚くほどあからさまで、傷付くというより呆れた。誰もが静はもう駄目だと決めつけていたが、静は漠然と自信を失わなかった。根拠はない、ただ何か突破口はあるはずだし、ピンチはチャンスだし、私は天才だから。そう確信していた。負けん気や根性とかそういう類のものではなく、ただ何となく、何とかなると思ったのだ。楽天的に捉えていた訳ではない。誇りを失い信頼を失墜し悔しかったし周囲を憎らしく感じたのは事実だった。でも、諦める気持ちには到底なれなかった。自分はまだ死んでいない、生きている。静の目はかつてより強く、高みを渇望し光を宿していた。
天才をなめるな。そう思っていた。
そんな時だ。その男に出会ったのは。
「良い目だ。君は強くなるね。」
たまたま居合わせて、目が合ったその男は、静の名前も経歴も何も知らない人だった。静も男を知らなかった。腕を失ってからずっと慢心が故に規律を乱し報いを受けた自業自得の馬鹿女だという目で周囲から見られ、皆自分の敵のような環境で暮らしていた静にとって、久しぶりの好意だった。心地よかった。そして静を諦めていない言葉は、思ったより強く静の背中を押した。
胸が熱くなり、やる気が漲った。必ず周囲をあっと言わせるような成功を収めて見せるとポジティブな野心が湧いた。窮地に立たされてからの起死回生劇なんて、十五歳で儀式を成功させることよりずっと凄いことだと思った。
後日、その男は地龍当主の嫡男貴也だと知った。
「黒兎、私決めたわ。貴也さんのために戦う。必ず彼の作る『龍の爪』のメンバーになってみせるわ。」
契約した『夜』である黒兎は静の宣言にあまり興味なさそうに頷いただけだった。
それから何年経ったろうか。
静はとっておきの着物に袖を通し、使役している『夜』である黒兎を右手に変化させ手袋をして最高に華やかな自分を演出した。黒兎は元々実体を持たぬも等しい変幻自在の『夜』だった。最初こそその扱いに困ったが、静は黒兎を自身の失った右腕とすることでその力を最大限に使いこなした。『夜』たる手から生まれる札師の術は今までのそれを遥かに凌ぐ威力だった。より大きなものを、より具体的に強く具現化できるようになった。黒兎を手に変化させる事も、具現化させるものも、すべて術者のイメージする力にかかっていた。静の才能、天才と言われる所以とは、名門の家に生まれたことで得た強い術者としての能力よりも、そのイメージする力によるものが大きかった。
静は誰よりも強く未来をイメージする力を持っていたのだ。
それ故に辿り着いた。目的地に。
静は、憧れの舞台に立っていた。
『龍の爪』への就任のための場に。
貴也、義平、そして他のメンバーが静を出迎えた。
何年かぶりに見る貴也は以前より男性らしくなったように思われた。胸が高鳴った。今までこのために研鑽を積んできた。この人の前に立つに相応しい自分、過去を恥じないだけの今を用意してきた。自信を持って真っ直ぐに顔を見た。
「やっぱり俺の目に狂いは無かったな。君は強くなった。」
開口一番の貴也の言葉は今までの努力が報われる魔法の呪文だった。覚えていてくれた。それだけで静は泣きそうだった。
「失意の時にかけてくださったお言葉、そのお陰で私はここまで来ることが出来ました。あの日から、貴方様のために働くことだけを希い、そして叶いましてございます。本日より月夜静、全身全霊をとして貴方様のために戦う所存でございます。」
声が上ずっていた。上手くコントロール出来ない。貴也への気持ちはあからさまな程明白かも知れない。けれど仕方ない、初日でこれでは今後隠しきることなど出来ようがない。周囲にばれたって構わない、私情はどうあれ実力には自信があった。何を言われても仕事で黙らせればいい、そう思った。
「失意、とは心にもない事を言う。静はあの時ちっとも落ち込んでなどいなかっただろ。むしろギラギラしてたよ、今と同じように。お前の貪欲な所は良いな。これからよろしく頼む。」
貴也は静の気持ちに気が付いていないような自然な態度と人なつこい笑顔で手を差し出した。握手を求めている事に、すぐには気が付かなかった。地龍で握手は、普通しない。静は貴也の差し出した大きくて暖かい手を戸惑いながら掴むと、袖の隙間から何かが見えた。
琴
静の目が捉えたのは契約の術式。琴と記してあるように見えた。女の名。
愕然とした。
異例の握手は貴也の好意なのか、それともソレを静に見せたかったのか。静は貴也を見上げたが、変わらぬ笑顔が静を惑わせた。
ままならない。
そういう気持ちが芽を出した。育てば絶望と言う名の漆黒の花が咲く。けれど静という土壌で育つことはない種だ。貪欲で傲慢で独善的、身勝手を貫く静がその花を咲かせることはあり得なかった。
だから何だ。それが私の価値をどう変える。
変わるはずがない。私は天才だ。
いつかのように漠然とした自信が湧いた。自身の描く燦然たる未来を揺るがすものではない。けれど悲しいし腹立たしかった。どれだけ明るい未来を具現化する才能があっても、それは自分が努力できる範囲の事だ。他人の人生を思いのままに出来る訳じゃないし、そんなことを望んでいない。才能の限界領域だった。
現実を知ってしまった。貴也には女がいる。静が目指してきた椅子は、既に違う誰かが座っていた。
絶望したくても出来ない、どうにかしたくても出来ない、ままならない。
とにかくもう早くひとりになりたかった。
恭が晋を連れて参じると、現段階で集まった『龍の爪』のメンバー全員が坐していた。晋の後ろから小鳥遊が薄目を開けて着いてきたが誰も気に留めなかった。
貴也が恭に静を紹介しようとすると、美しく頭を下げた静に対し恭が微動だにせず目を見開いていた。黒く艶やかな長い髪を豊かな川の流れのように滑らせながらお辞儀する静の姿を、まるでスローモーションで見るかのように瞬きもせず網膜に焼き付けているようだった。貴也を含めその場にいた全員が恭の様子を訝しげに見ていた。静が周囲の様子がおかしいことに気がつき顔を上げると、まっすぐに恭と目が合った。
静の大きく強い瞳と小さな鼻と口、白い肌とピンク色の頬を、まるで初めて人間を見たような顔で凝視する恭の不躾さに、静が怪訝な顔になりかけた。その瞬間にその場の空気全体が変化した。熱と透き通った青空のような感覚。恭の目に映る静が、その空気に包まれ目を閉じた。
美しい、穏やかで、暖かい、そして清らかな色をした何か。
恭から発せられる『波形』は溢れて部屋全体を、もしかするともっと広範囲に広がっていった。
一目惚れというやつだ。と、全員がほぼ同時に認識した。
恭が静に一目惚れしたのだと、当人達を含め全員がようやく理解した。
その時、猛烈などす黒い殺気にも似た怒りを放ちながら晋が抜刀し、静へ向かって行った。一瞬遅れて義平と貴也が前へ出ようとした。晋の刀の切っ先は既に静へ向けられあとわずかで届こうとしていた。
「晋。」
大きな声では無かった。決して強い声音でも無かった。けれど晋はスイッチを切られた人形のようにピタリと動きを止めた。そしてゆっくりと声の主である恭を返り見た。
責めるような目では無かった。決して怒りの視線でも無かった。けれど晋は観念した下手人のようにその場に膝を付いた。そしてゆっくりと刀を置いた。
すべては一瞬の出来事だった。恭が静に一目惚れしてから晋が静に斬りかかり取り押さえられるまで、本当に瞬く間だった。その場にいたほぼ全員が起こった出来事が一体何だったのかさっぱり意味が分からないという顔をしていた。
晋は結局地下牢へ入れられてしまった。当然だ。仲間を、しかも身分の高い姫君を殺そうとしたのだから。けれどそうなったことよりも、暴走した晋を恭が一言で止めたことの方が印象深く残った。恭が止めなければ誰もあのスピードに反射できなかったとはっきりと理解してしまったが口に出す勇気のある者はいなかった。とんでもない猛獣、そしてそれを完璧に飼いならしている恭に対し、畏れに近い圧力で心臓を掴まれたような感情が湧いた。声を出すことも出来ぬ程の圧力。
「やはり興味深い。」
小鳥遊が心底嬉しそうに恭に笑いかけるまで、誰も恭を直視しようとしなかった。
当の恭は周囲の、異端を認識する奇異の眼差しなど意に介さぬ様子で貴也を見た。
貴也は表情こそ乱さないがその額に浮かぶ冷や汗が、さすがに焦りを隠せなかった。一歩間違えば静が死んでいたかも知れないという感覚が胃のあたりにまだ残っていた。静自身、何が起こったのか理解できていないのか動きがぎこちない。
しかし恭は平然としていた。まるで自分がいる限り静が死ぬ訳がないと言わんばかりの、当然のような顔で静を見てから、貴也の目の前へ出た。
「兄さん、俺、静の事が好きです。」
唐突に人の目も憚る事無く告げた恭に、全員が唖然とした。
今、このタイミングで言うことがそれなのか。
恭が静に一目惚れをしたのはその場にいた全員にとって一目瞭然の出来事であり、それをわざわざ口にする恭の馬鹿正直さにも驚き呆れた。
「報告するのが約束だったから。」
気真面目に律儀なことを言う恭に、空気を読めと注意してやろうと身を乗り出した周囲は、恭の目を見て動きを止めた。ぎょっとする程に澄んだ目をしていた。未来への無限の可能性に夢抱く少年のように希望に満ちた輝きを放ち、熱にうかされるように潤んだ瞳は、貴也でさえかつて見た事のない真剣なまなざしだった。
「そうか。」
貴也は穏やかに返事をした。
恭は黙って頷いた。
全員がただ不思議なものを見るように立ちつくしていたが、静本人だけが居心地が悪そうに眉をひそめて後退りをした。
しばらくすると、部屋には当事者がいなくなった。貴也と義平は仕事へ、静はいたたまれなくなったのか何時の間にかいなくなっていた。恭はおそらく晋の所だろうと思われた。小鳥遊もいなくなっていたが、彼への認識は恭のストーカーだったので誰も疑問にも思わなかった。
「何だったんだ。今のは。」
兼虎がようやく息を吐き足を投げ出した。
「分からん。色んな事が一気に起こり過ぎて…。」
春家はまだ緊張が治まらないとばかりに胸を押えていた。
「晋、大丈夫でしょうか。」
弁天が溜息のように言った疑問に答えられる者はおらず空中で霧散した。祥子が空気を変えるように大きく明るい声を出した。
「しかし、あの恭が一目惚れとはね。」
「これで兄弟の三角関係か。」
「まさか。貴也が相手にしないんじゃ不成立だよ。」
「貴也が相手にしない保証がどこにある。貴也が相手にしなくても、月夜の姫君なら身分も申し分ない、正式な縁談としてまとめられる可能性もあるだろ。」
「確かに。地龍当主に跡取りが必要ですから、本来ならとっくに結婚させられていてもおかしくないでしょう。」
「じゃあ、いよいよ年貢の納め時か?」
「…貴也はわざと避けてるんじゃないかしら。」
「は?縁談を?何で?」
「誰かいい人がいるんでしょう。誓いを立てるくらいだから。」
祥子の言葉に皆が息を飲んだ。
静は晋のいる牢の前に立つと、わざわざ大きな声で言った。
「目的も果たせずに罰だけ受けるなんて、獣の名が泣くわね。」
暗いコンクリート壁に囲まれた冷たい牢の中で、殺気に満ちた鋭利な眼光が動いた。
「何でお前が。」
笑いに来たのか、晋はそう言おうとしたがやめた。普通自分を殺そうとした者を恐れたり嫌うことはあっても、わざわざ会いに来るなんてありえないと思い直したからだ。
「今のあんたの気持ちを一番理解できるのは私だと思って。」
全く意味が解らなかった。むしろ腹立たしいこと極まりないと感じた。先程は直観的に殺意を覚えたが、今は知った所で同じだと思った。
「良家のお姫様なんかに、矢集の家に生まれたかわいそうな俺の気持ちなんて分かる訳ないって?」
「…っ。」
本当の事だがその言い方は無いと思った。が言い返す言葉を探していると、静が牢のすれすれまで近づいて来て呟いた。
「甘えてんじゃないわよ。周りが同情するのは解るけど、あんたが自分で自分を憐れむのは違う。あんたは幸せよ。私を殺そうとしても冷たい牢で数日断食してればご主人さまの元へ帰れるんだから。普通は首よ。」
その通りだと思った。
晋は牢ごしに静の顔を直視した。整った顔立ち、小さくて細い体、本来守られるべき姫君のそれだと思った。その目を除いては。強い、炎のような、怒りとも取れる目の輝きは一体何なのか。晋は食い入るように見つめた。
「生まれはどうあれ自分の好きにやってる。あんたは十分幸せよ。それをあんたは自ら、かわいそうな矢集さん家に生まれた晋くんで居続けてるだけ。」
「それが業を背負うってことじゃないのかよ。」
「自分の欲しいもののために一生懸命になること、その上で邪魔になるものと本気で戦っていくこと、そういう事が業を背負うってことよ。組織のしがらみに捕われることなんかである訳がないわ。」
鮮烈なまでの闘志。生きるための炎。静の晋を見つめる目は美しかった。
今までにそんな事を言う人に出会ったことは無かった。こんなにも堂々と凛々しく我欲を掲げ生きる人を、潔いと、格好いいと思ってしまった。自分とは違う、とも。
「やっぱりあんたに俺の気持ちなんて。」
「嫉妬でしょ。私に嫉妬したのよね。」
「え?」
「私は貴也さんの近くに行きたい一心で努力してここまで来た。…でも貴也さんは既に誓いを立ててた。」
誓いとは所謂結婚式でする誓いと同義で、ある儀式を行い互いに約束をするのだ。誓いを立てるのは愛し合う者のみで、地龍では恋愛結婚は主でないため、誓いを立てる場合で最も多いのは秘密の関係だった。家や周囲には知られてはならない恋人同士が、互いの気持ちに嘘偽りのないことを証明し約束するためにする術であった。
つまり貴也には人に言えない恋人がいるということだった。
晋はそんな話聞いたことが無かったし、にわかには信じられなかったが、地龍当主ともなれば自身の好いた相手と夫婦になることは困難なのかも知れないとも思った。
「どうして解るんだよ。」
「『夜』を飼うとね、目が良くなるのよ。」
目とは視力のことではなく、他人の『波形』や呪術、不穏な気配や危険を察知すると言うような、本来見えないものを感じる力のことだ。誓いはある種の術だ、静の目には察知できたのだ。貴也と握手した時に見えた術式は、確かに誓いを立てた証拠だった。静は目が良いのも考えものだと思った。
「どうすんだよ。」
漠然とした問いだった。
静は、本当は早く一人になりたかった。夢見た晴れ舞台であるはずの今日が、失恋して、その弟に惚れられて、その側近に殺されかかる。デタラメだ。何もかもがデタラメ過ぎる。あの十五歳の誕生日に似ている気がした。転機はいつも大切な日で、すべてが壊れる。
「そうね、それこそあんたみたいに相手の女をぶっ殺してやろうかしら。」
「やめとけよ。嫌われるだけだ。」
「…言えてる。」
矢集晋の殺意を向けられた時は、正直本気で死ぬと思った。けれど同時に共感した。貴也の誓いを立てた腕を斬り落してやりたいと思わなかった訳ではないから。同じものだと思ったのだ。晋の殺意と静の傲慢は同じようなものだと思った。だから放っておいてはいけないと感じた。あの漆黒の花を咲かせる訳にはいかないと思ったのだ。
「で?」
「変わらないわよ。貴也さんのことを抜きにしたって『龍の爪』は最高の組織よ。私の実力で手に入れたんですもの。私は地龍最高の札師ってことになるわ。」
「最高がそんなに良いのかよ。」
馬鹿馬鹿しい。そんな称号に何の意味があるのか晋はくだらないもののような気がした。
「私は天才なの。私には最高のものが相応しいわ。最高の地位、名声、称賛、そして最高の男…はゲットし損ねたけど。」
「諦めんのかよ。」
「ゆくゆくはね。でも今は無理。そんな簡単に諦められるくらいなら、最初から頑張れてないもの。貴也さんのために戦うことはずっと憧れだったんだもの。」
言ってることは傲慢なのに、なんとも清々しい。不思議な人だと思った。恭が一目で好きになった人。
「あんたも、そんなヘドロみたいな汚い『波形』をこじらせてないで、しゃんとしなさいよ。他人に嫉妬してる場合じゃないでしょ。あんまり留守にすると、あんたの主はあんたの不在に慣れちゃうわよ。結果捨てられても知らないから。」
「励ましてんのかよ。」
「そうよ、私を励ましてるの。」
「勝手な女。」
「失礼ね。静お姉さまって呼びなさいよ。身分の上の者、年上、女性は敬うものよ。全てを満たした私にもっと礼をはらうべきだわ。」
「嫌だね。俺はあんたが嫌いだ。」
「素直で結構。でも私はあんたのこと気に言ったわ。晋。」
何者にも囚われない風のようだと思った。晋の前に居るのは、今までに無い新しい風、そう感じた。
全く理解できない新しい理念を持つ静に、晋はどう対処したらよいか分からず目を泳がせると、恭がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「晋、もう出ていい。」
「え?」
「静が交渉したらしい。」
晋が静を見ると、静は晋に背を向けわざと素気なく言った。
「私が許すって言ってるんだから、もうそこにいる必要はないでしょ。」
「俺は…。」
恭が牢を開け晋を外へ出してやると、晋は静に何か、おそらく礼のようなものを言おうとしたが先に静が口を開いた。
「あんたはもっと欲張りになりなさい。普段抑圧してるからちょっとした事で感情が暴走すんのよ。」
静が晋に教えられる最大限の言葉だった。未来を描くための原動力。
「何の話をしている?」
恭が訳の分からない状況に疑問符を投げかけると、静は挑発的な謎めいた笑顔を向けた。
「コイバナ。」
恭が晋の引きつった顔と悪戯な静の笑顔を見比べているうちに、静が飽きたように去ろうとした。去り際に一言付け足すように言った。
「あ、恭。本当に私が好きなのなら、最高の男になりなさい。私は私に相応しい最高のものしか認めないわ。」
高飛車に艶っぽく目を細めて恭を流し見てから立ち去っていった静の残像を、恭はいつまでも見つめていた。
「最高か。」
何が恭をそうまで魅了したのか、晋には分からなかったが、すっかり静のペースにハマってしまった恭はただの男だと思った。
「恐い女。」
呟いた晋を恭は驚いたように見たが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「まったくだ。晋、俺は最高の男とやらにならなければならない。」
「つまり、俺は最高の男の側近になるってこと?」
「そういうことだ。」
「なかなか良いね。手伝うよ。」
「ああ。頼む。」
月が大きくて丸い。日に日に満ちる姿は、静の憤りが膨らんでいく様に似ていた。もう限界だ。爆発しそうだ。と言わんばかりに膨れ上がった月を見て、静は震える溜息を吐いた。
「プライドが高過ぎるのも考えものね。」
『何故?そこが長所かと思っていたが。』
黒兎の低くて優しい声が右腕から骨を振動させて耳に届く。まるで自分の中から聞えるような声。
「そうね。ねぇ、私勝てるかしら。」
『お前は最高の女だ。』
「分かってる。でも恋の戦いは、どうなんだろうね。」
『今までと同じだ。思い描いて、努力するだけ。』
「そうだね。」
『そうだとも。』
「ちょっと泣く。」
『了解。』
月は明日から欠ける。
月の見える大きな屋敷の庭に立つと、貴也の影はまるで分身のようにくっきり地面に浮かび上がった。歩みの先にいるのは貴也より二回り程小柄な青年だった。その黒い髪や目がやけに映える青白い肌をした薄笑いの青年は、貴也を見つけると嬉しそうに声をかけた。
「ここのセキュリティーは最高難易度や。」
「久しぶりだな。重盛。」
平重盛。通称小松殿と呼ばれる現平家当主だ。転生組で元は平安時代、史実上の源平の合戦の終わりを見ずに病死した。頭は切れるが本意が読めない、不思議な男だと貴也は思っていた。
二人の関係は幼い頃貴也が、京都にある重盛の屋敷に転移し忍び込んだことによって始まった。貴也のいる鎌倉から京都への転移は結構長距離だ。その上、重盛の屋敷はかなり強い結界があった。相当な使い手でも結界内への転移は不可能と思われた。それを年端もいかぬ子供である貴也がやってのけた。しかも悪戯半分に。重盛は末恐ろしい子供だと思った。それから二人はたまに会い話すようになった。
重盛は気まぐれで現れる貴也の暇つぶしに付き合うようなスタンスで、いつも薄笑いを浮かべながら穏やかに話した。対外的に源氏側である地龍当主と、平家当主の誰にも秘密の関係を、面白がっているように。
「毎回そう易々侵入されると流石に驚くわ。それが長老会が喉から手が出る程欲しい龍の卵の力なん?」
始まりの時、地龍当主が龍と交わした契約の卵。いつか無事に孵すと約束したそれには、龍の力がある。代々当主が継ぐと思われている卵の大きな力を、京都の朝廷や貴族の集団である長老会は欲していた。
龍が与えた力で地龍という組織が出来あがった。龍のすべての力とはどれ程のものなのか、想像を絶する事だけは確かだ。それを手に入れればこの世の覇権を握るも同義だと長老会は考えていた。それ故の戦、それ故の源平合戦だった。卵をめぐる醜い争い、争いを鎮めるための契約の証である卵によって生まれた新たな戦は千年以上の時を経てもまだ終わらない。
実際のそれがどんなものなのかは地龍当主以外に知る者はいないというのに。
「座標の固定は恭がやってくれる。龍種が無くても出来るよ。実際やってたろ。」
当主になる前から貴也はこの転移をやっていた。一番困難な座標の固定は弟の恭がやっているという。重盛は会ったことが無かったが、そんな事をするのは既に人知を超えていると思っていた。座標を固定した後は貴也が馬鹿力で押し切って飛ぶだけ。そんな膨大な力を使い、涼しい顔をして談笑して、再び鎌倉へ帰るなど、貴也自身も化け物じみていると思っていた。とんでもない兄弟だと。
「種?卵やのうて?」
「俺は種に近いと思ってる。」
「どんな所が?」
重盛の素朴な疑問にいつもライトな対応をする貴也が珍しく考える素振りを見せた。
「…争いの種、だよ。」
「ほうか。」
重盛は曖昧な返事をした。貴也が答える前に逡巡した部分にはもっと別の何かがあるように思えたからだ。種。それがどんな意味を持つのか、今は分からずとも将来必ず解る時が来る、重盛は重要なワードだと認識した。
「兼虎を知っているだろう。」
「兼虎?ああ、あの天狗か。」
「兼虎を天狗にしたのはお前だと聞いたが?」
「そう。あの男は見かけによらず繊細で神経質や。貴也が気に入る思て、解り易い所へ置いといてやったんや。気きかせた甲斐あったやろ。」
「おかげざまで。」
貴也の苦笑いを重盛が満足気に眺めた。一体何をどこまで考えているのか、意味深な笑顔をする重盛を、貴也は実はたいして何も考えていないと思いこもうとした。無理だった。
「重盛、正式に人を派遣しないか?」
本当は此処へ来るまでに色々と思案した貴也だったが、底知れない重盛の顔を見てるうち、単刀直入に言う事にした。
「それは悪源太に戦力貸したれ言うとるん?平家当主いう立場の俺に。」
「間接的にはそうだ。『龍の爪』のメンバーに丁度いい奴をお前が選んで俺に貸してくれ。」
「平家のもんを入れるんか。」
「俺は経歴も家柄も関係ない組織を作りたいんだ。」
「その証拠に平家もんを入れようて?矛盾してへん?パフォーマンスのために平家もんを誂えるんは。」
源氏と平家の垣根を越えたい。その為に画策するのは結局は越えていない事の証明にしかならないかも知れない。考えすぎれば元の木阿弥となる。けれど何にでも始まりはある、どんな形でも始めることが必要なのだと貴也は考えていた。
「そうかもな。本当はお前を誘いたいんだが。」
源氏当主と平家当主を手に入れる。けれどそれは無理だ。今はまだ。
「お気持ちだけ貰とくわ。」
「そう言うだろうと思ったんだよ。」
「ほんなら、平家のスパイを送り込んでもええって事やんな?俺は本気でやるで?」
「そうしてくれ。言ったろ。俺はお前が欲しかったんだ。お前には俺のやることを見ていて欲しい。」
「そんなに信じてええんか?」
困ったような顔だった。重盛がそんな顔をするのは意外だと思った。貴也は少し調子にのる程に嬉しくなった。
「友達を信じられなくなったら俺も終わりだよ。」
「友達ね。貴也のそういう所はほんまズルイわ。ほんなら俺の目になる有能な男を送り込んだるわ。」
「俺好みのカワイイ子ね。」
「まかしとき。」
平家当主の代わりに送られてくる人材。
それを想像し、貴也はここからが正念場だと顎を引いた。貴也がつくる地龍の土台はここから始まるのだと。今までにない源平の繋がりを作る事は、必ず将来的に現状打破の突破口になる。どんな事をしても欠かせないピースだと考えていた。
そしてその考えを、義平も重盛も了承すると確信していた。これ以上保守的な現状維持に何の意味があるのか、行き詰っているのは転生組である二人の方なのだから。上手く行っても行かなくても、何かをやる価値はある。
龍種にそれだけの価値があるのか、それは必要なのか、貴也は胸の中の父に幾度となく問い、そして夢の中の恭に言い続けた。いつか自分が決断しなければ何も変わらない。最悪変わらないどころか組織の腐敗に乗じて打たれる長老会の一手をまともに食らう事になる。そうすれば地龍は世のバランスを維持するための機関ではなく、世の支配者となるかも知れない。それだけは阻止しなければならない。かつての契約が、代々の当主が、父が、あらゆる正義や矜持が、武士の誇りが、本当の意味で無に帰す。朝廷や貴族の覇権争いにあるのは欲望だけで他の感情が欠けているように思えた。例えば、愛することや優しさ、慈しむことや哀しむこと、夢や希望、そして後悔。何も持たない、欲望に取りつかれた怪物なのだと思った。最早それは最大の揺らぎ。絶たねば、世界はバランスを失い再び混沌とする。貴也はそれと戦っていた。使命感ではない、個人的な都合で。
時間がなかった。
それ故に多少強引でも事を起こす必要があった。
恭が恋を知ったその日、地龍の運命の歯車が回り始めた。
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