8 徒波の事
冬の冷える早朝、幸衡は体の芯まで冷えるような外気を想像しながらカーテンを開けた。時計はいつもと同じ六時を指していた。
リビングの暖房を入れようとして手を止めた。昨夜確か止めたはずの暖房が付いていた。床には雫が落ち、脱衣所には濡れたタオルが放ってあった。そこまで確認すると、幸衡は一度だけ浅い溜息を付いてそれらを片付けた。洗濯機を回しつつ、朝食を用意した。十人分はある程の量を作り、珈琲を二杯淹れた。それからようやく幸衡は、リビングの大きなソファーに横になっている人物に近づいた。
「あき。起きろ。」
どこから出したのか毛布にくるまっているその人物は、もぞもぞと動いただけで起きなかった。その人物に寄り添うように眠っていた義経が先に起きて、朝食をねだろうとしていた。
「あき、あきら。」
恭との同居経験から人を起こす忍耐を習得している幸衡は簡単には引き下がらない。しばらく肩を揺すると、その人物はようやく毛布から出てきた。
「あ、幸くん。おはよ〜。」
毛布をはぐと、そこには短い髪にはっきりとした顔立ちの女性がいた。比企あきら、幸衡の婚約者だった。寝ぼけ眼の彼女は、何故か全裸だった。
「おはよう。朝食だ。食べるだろ?」
「うん!おなかぺこぺこ!わ〜い、幸くんのご飯!」
全裸のまま立ち上がるあきらに、幸衡は仕方なさそうに適当に着るものを持ってきた。背が高く引きしまったバランスの良い体は、しばらく会わない間に随分鍛えられたものだった。
「真冬に裸で寝るな。風邪をひく。」
「うん!気を付ける!」
袖を通しながら「幸くんの匂いだ〜。」と嬉しそうにするあきらを、幸衡は食卓へ促した。子供のように元気よく「いただきます。」と言うなり、その細い体のどこに入るのかという量を食べ始めた。その様をながめつつ幸衡は珈琲を飲みながら訊いた。
「あき、いつ来た?」
「昨日の夜!いや、もう今日になってたかな。」
「どうやって入った?」
「幸くんの妻ですって言ったら入れて貰えたよ。」
「馬鹿な…ここのセキュリティーは地に落ちたか。」
「嘘嘘、御館様にちゃんと手形貰ったの。」
「当人を無視して…。」
「おやおや、幸くんがそれを言うかい?あきらを無視して勝手に鎌倉勤務を続行している幸くんが。」
幸衡は先日、奥州藤原氏当主・秀衡からの帰還命令を拒否した。婚約者である比企あきらの恐山修行からの帰還に合わせて帰って来るようにという至極当然の命だったが、無視したのだ。あきらが怒るのも無理はない。
「悪かった。腹が立ったのなら早々に見限ってくれ。それだけの覚悟でした事だ。」
「そんな覚悟勝手にしないでよ。別にあきらは怒ってないよ。」
「…では何故来た?」
「そりゃ〜、愛しい幸くんと、幸くんを改宗させた主様に会いに。」
にっこりと笑うあきらの前にはすっかり食べ終わり綺麗になった食器が並んでいた。
奥州至上主義教の敬虔な信者である幸衡を短期間で改宗させ、あまつさえ手足にして働かせているという新しい地龍当主に、あきらは興味がある様子だった。
「…分かった。恭くんに紹介しよう。だが、あき…俺について来れば、あきも帰る場所を失うかも知れないんだぞ?」
「それは愚問というものだよ、幸くん。あきらが幸くんと別れる訳ないし、御館様が幸くんを手放すなんてそれこそありえないよ。己の価値を測り間違えるのは失策の元だぞ☆」
「その通りだ。」
あきらの指摘を素直に肯定すると、あきらは暴走を始めた。
「それに、あきらは幸くんとなら放浪生活だって厭わない覚悟さ。あきらが熊や猪を捕まえて来る人で、幸くんはおいしい料理をする人だよ。うんうん、何だか上手くいきそうだね。」
「無人島で二人だけの国家を築くのは最終手段にさせてくれ。」
最悪家名を失っても由緒ある血筋は消えない。二人ならばどうとでもやり直せるのは事実だろうと思われた。けれど幸衡とは違いあきらは本気のサバイバルを提案していた。
「あはは、あきらは鬼界ヶ島だろうが地獄だろうがどんと来いなのに。」
「そうだろうな。」
逞しいもの言いに、幸衡は薄笑いで頷いた。
五年ぶりの再会は、まるで毎日会っていたかのような自然さだった。それはあきらの明るくおおらかな性格によるものだろう。
「あ、そうだ、地龍様には幸くんから紹介してもらう必要はないよ。あきら、祥子ちゃんに仕事手伝ってって頼まれてるんだ。その関係で自分で挨拶行ってくるよ。」
「え?」
あきらは新田祥子の唯一の弟子だ。元々比企家は女を術者にしない家系だったが、祥子が幼いあきらを見出したのだ。祥子は自身を狙う何者かの類があってはと公言しないが、実質的に子弟関係と言って間違いない。
そして現在祥子が取りかかっている仕事というのは先だての人形師の館から押収した、転生システムのヒントとなる人形・鸞鏡の鑑定だ。
思わぬ形で地龍の中枢に加わる形になったあきらを幸衡は、やはりただ者ではないと思った。
あきらは朝食を済ませると一応身支度を整えた。丁度休日だった幸衡に見送られ元気よく「いってきます!」と言って部屋を出た。出たと見せかけて戻り、不意打ちで幸衡の唇を奪ってから、幸衡の反応も見ずに寮を後にした。まずは、地龍当主への挨拶を済ませてから新田祥子の元へ行く予定だったが、道中はずっとあきらに唇を奪われた幸衡のリアクションを想像してにやにやしていた。その様は傍から見たらただの変態だった。
しかし、そんなあきらも地龍当主・恭に会うために地龍本家の門を通る時には襟を正した。毎日幸衡が過ごしている場所だと思うと感慨深かった。
そして恭を目の前にすると幸衡にしていた頭のネジが飛んだ様子とは別人の、正真正銘お嬢様の所作で頭を下げた。その姿は恭がはっとする程に凛としていた。
「はじめまして、比企あきらと申します。藤原幸衡様の婚約者です。以後お見知り置き下さいませ。」
比企家と聴いて恭は内心「幸衡らしい」と思った。比企家は地龍での高い地位と共に、現在では数少ない『昼』の政治家としての顔を持つ家系だ。即ち幸衡の言う『昼』からの政権奪還に必要な駒と言う事だ。そのための相手として申し分ない身分の婚約者。どこまでも野心の塊だ、と納得したのだ。
「こちらこそ。幸衡にはいつも世話になっている。本来ならば奥州へ帰り比企殿と家庭を持つはずの所を、俺の所為で申し訳ない。」
恭が頭を下げた。
「安心致しました。幸衡様はここで大切にされているのですね。幸衡様の有能たるを良いことに利用しているなどという事あらば、私は比企家をあげてでも事を構える覚悟でおりました。」
突然物騒な事を言うあきらに恭が面白そうに返した。
「奇遇だな。俺も同じく、幸衡程の者を奥州で埋もれさせるつもりならば戦をしてでも手中に留め置くつもりだった。」
「家臣一人に戦などと、随分入れ込んでおいでなのですね。」
「それだけの価値のある男だと見込んでいる。比企殿も、そうであるからこそわざわざ俺を見極めに来たのだろう?」
あきらの目的を看破していた恭の言葉を合図にしたように、あきらが不躾な視線を向けた。
「奥州での幸衡様は己が目的のために邁進する貪欲な御方でございました。けれど今の幸衡様は己がためではなく他がために働いておられます。それは他ならぬ地龍様のためでございましょう。私は今後幸衡様の御側にて、幸衡様の選ばれた未来を見守らせて頂く所存でございます。」
「…このまま鎌倉にいても構わないと?」
「正直、私は幸衡様の御意志であれば奥州でも鎌倉でも構わないのです。ただ、地龍様に御承知置き頂きたいのです。我等が御館様・藤原秀衡様は、幸衡様を次期当主としてお育てになられた事を。」
「…幸はそれを…。」
あきらの言葉は恭を少なからず驚かせた。幸衡から聴いていた話では、立場上は奥州藤原氏当主となるはずの幸衡が転生組の所為で家臣としての人生を強いられているのだという事だったからだ。
「ええ、御存じありません。ですが、いずれ必ず奥州を担って立つ御方で御座います。その上で御側に置いてくださいませ。」
あきらは深々と頭をさげた。恭はそのあきらの態度に嘘はないと感じた。
「…秀衡殿は俺個人への忠誠故に優れた人材を寄こしたのだと思っていたが、成程、俺を助けたようでいて、実際俺は利用されていたという訳か。相分かった。幸衡はいずれ奥州に御返ししよう。同じ展望を抱ける友としてな。」
恭への忠義から腹心である幸衡を差し出したのではなく、地龍当主付きという立場に置く事で幸衡を育てようとしていたのだ。
恭は秀衡の意図を知り、笑うしかなかった。幸衡は有能だが孤高でありその野望も協調する所がない。優秀な人間の奢りであり、また独善的な所がある。その事の是非を問う事は無いが、この天才の忠を得る事が出来れば万事に有利である。つまり秀衡との利害は一致している。ゆくゆくは奥州当主となるなど、それこそ好都合だ。全国の有力者との意志統一は恭にとって非常に重要な治政の要だ。恭は、何もかもが秀衡の想像通りだとすれば、本当に食えない女だと思った。
あきらの言わんとする事を理解した様子の恭に安心したように、あきらは顔を上げると、付け足したように言った。
「よろしくお願いいたします。…それから、こちらはついでなのですが、私本日より新田祥子様のお仕事のお手伝いをさせて頂きますので、よろしくお願い致します。」
「…ついで…。」
恭にとってはそのついでの方が本題に思われた。
幸衡がベランダから出かけて行くあきらを見下ろすと、分かり易くピンク色の『波形』ではしゃぐ後ろ姿が見えた。テロ的に唇を奪って去る婚約者が他にいるだろうか?首をかしげてから、不毛な疑問は忘れる事にして部屋を片付けた。祥子の仕事を手伝うと言うからには、一日二日で帰る事はないだろうと想像し、あきらが生活するための最低限を揃えたりする事に一日を費やした。そうして陽が暮れる頃には二人分の夕食を作った。二人分といってもあきらの食べる量は多いのでキッチンは大家族のような有様だった。
しかし、七時を回ってもあきらは帰って来なかった。よく考えたら帰宅時間を訊いていなかった。もしかすると、祥子の家で食べて来るかも知れないなどと思い始めた時、インターホンが鳴った。あまりにもタイムリーだったので何も確認せずに扉を開けた。
「あき、鍵を持っているのにインターホンを鳴らすな…あ。」
開けた扉の前にいたのはあきらではなく、笑顔の光胤だった。
「よう!来たぜ!」
「…何故?」
「言ったろ?奢るって。俺様プレゼンツのサプライズだぜ!」
得意げな光胤の後ろから毘沙門と春家が顔を出した。
「ちょっと、光胤くん、幸の承諾済みでは無かったのですか?非常識ですよ。」
「サプライズなんだろ?承諾済みじゃ意味ねぇだろ。」
戸惑う幸衡が脳内で所有のグラスの数を数えながら訊いた。
「おい、一体何人いるんだ?」
「え〜っと、俺だろ、春、毘沙門、千だから、四人だな。とりあえず。」
答えながら勝手に上がる光胤に、仕方なく幸衡は面々を招き入れた。「とりあえず。」という言葉を追及する暇を与えずに光胤は「良い部屋だな、おい。」などと言いながら「あ、こいつ吉池千之助、俺のダチ。すげ面白い奴だから。」とぞんざいに千之助を紹介した。千之助はただただ恐縮していた。
奢ると言っただけあって光胤は色々と持ちこんで来たので思わぬ宴会となった。幸衡は帰って来そうにないあきらのための夕食の処分所が出来たとばかりに、料理を並べたところ乾杯もなく勝手に飲み始めていた光胤と春家が首を傾げた。
「俺様プレゼンツのサプライズのはずなのに、何でこんなに料理があんだよ?」
「あ、さっきの…なんだっけ?あき?って奴の分か?それにしちゃあ、すげぇ量だな。力士か?」
普段の冷静な幸衡しか見たことの無い四人は、勝手にあきを女だとも思わずに、尋常ではない料理の量から巨漢を想像していた。幸衡はビールの缶に口を付けながら言った。
「婚約者だ。」
「はぁ?婚約者?幸婚約者とかいたのかよ?うける!」
「つか女なの?あきちゃんなの?力士なの?」
「こら、失礼ですよ、お二人とも。」
「だってこの量見ろよ?どんだけ食うんだよ、あきちゃん!」
「幸はりきり過ぎじゃね?息子の里帰りにはりきる母親の夕食じゃね?」
既に酔っているのか、組み合わせが悪いのか、やけに笑う二人を見ながら幸衡は今朝のあきらのキスを思い出した。後ろ姿の浮かれた『波形』を。
「すみません幸、二人とも悪気は無いのですよ。ただ何も考えていないだけなのです。」
「ぎゃははは!出た!毘沙門のブラック発言!」
「は〜い!何も考えてませ〜ん!な、千之!」
「俺を巻き込まないで下さい!」
飲み喰いしながら盛り上がる面々を余所に、幸衡は平静な顔で呟いた。
「…そうかも知れないな。」
「うん?」
「本来ならあきらは約束を反故にした私を責める立場だった。それでも私を選んでくれた事は少なからず嬉しかったのだろうな。」
五年の修行を終えたら結婚する約束だった。元よりあきらとの婚約は政略であり家同士の関係だ。今回秀衡に逆らった事で幸衡の立場が悪くなれば、比企家が婚約を破棄する事もあり得た。そんな中で、あきらが下山して取るもの取りあえず駆け付けた事は、幸衡にとっては想定外の事だった。
目から鱗が出たとでも言わんばかりの幸衡に、四人は一瞬黙った。
「おい、幸。あきちゃんじゃなくて、あきらちゃんなのか?」
「え、そこ?今もっとすげぇ事言わなかったか?」
「だって気になるだろ!俺様そういうのはっきりしねぇと駄目なんだわ。」
「…もしかして、比企あきら様じゃありませんか?」
あきら、と言う名の女性だという事で閃いた千之助が訊いた。
「なんだよ、千、知ってんのか?デカイ女なのか?大食いチャンピオンとかか?」
「そんなの知らねぇよ!つか何だよ、地龍の大食いチャンピオンって。そんな下らないイベントねぇよ。俺なんかが比企家の姫君の御尊顔を拝める訳ねぇだろ。噂だよ、噂。何でもすげー術者なんだってさ。」
「ちょっと待て千之、比企家っつったら『昼』の政治に関わってるって言う家だろ?」
「それは実に幸らしい婚約者ですね。」
「マジかよ〜!権力なの?家名なの?あきらちゃんはそのための政略結婚なの?」
春家も毘沙門も政略結婚に相違ないのだが、幸衡をして比企家との姻戚関係の構築はあまりにも出来過ぎていた。殆ど摂関政治のやり口だ。果ては恭の娘・誉と自身の子孫との姻戚を狙うのではないかと想像してしまうレベルだった。
「少なくとも五年前までの私はあきの持つ血筋こそが最も重要だった。故にあきもそうだと思っていた。」
あきらとの結婚という幸衡の野望にとって重要なものをふいにする覚悟で選択した恭の道だった。だが、あきらはそんな幸衡を選んだ。ともすれば家名も地位も名誉も何もかもを失うかも知れない幸衡を選んだのだ。あきらはおそらく幸衡とは違っていたのだろう。
「今は、違うのかよ?」
春家が問うと、幸衡は首を傾げた。
「どうだろうな。」
「少なからず好意を抱いていなければ、こんな風に美味しい料理を用意して帰りを待ったりはしないのではありませんか?」
毘沙門が飲みながら訊いた。あきらのために簡単ではあるが調度品を揃え、部屋を掃除し。料理を作る一日は、それなりに楽しい時間だったと振り返った。
「確かに!幸の料理うめ〜っ!こんな飯食えるなら俺様も幸に好かれたいぜ〜。」
「…次回からは予告して来てくれ。そうすれば料理くらい用意しておく。」
嬉しそうに食べる仲間達を見て、幸衡は純粋に嬉しくなった。そして同じく美味しそうに食べるあきらの顔がよぎった。
「マジかよ!やった!今度は甘いもんも作ってくれ!」
「何?幸の好意のパラメーターって料理なの?完全に胃袋から掴んでいく狡猾さが幸らしいぜ〜。」
暫く五人で飲み食いしつつ騒いでいると、光胤が思いついたように他の者に声をかけ始めた。はじめに言っていた「とりあえず四人」の意味に気付いた時には、直嗣・実親・宗季などの追加メンバーが居り、グラスが足りなかった。
「今度はもう少し食器も増やしておこう。」
「いえ、光が勝手にやってる事ですから。幸衡さんにそんな事させられません。必要なら俺が用意します。」
恐縮した千之助がぺこぺこと謝ると、幸衡は破顔した。
「確かに、君は面白いな。」
千之助にとっては雲の上の存在である幸衡に遜るのは当然の事であり、身分の低い者ならば皆そうするはずだったため、何故春家と言い幸衡と言いやたら面白がるのか全く分からなかった。きょとんとする千之助に、幸衡は補足するように言った。
「吉池千之助くん、君の名は聴いている。地龍に君程優れた記憶操作能力を使う者はいないし、専門班を作った実績は評価に値する。故に君は君が思っている程凡庸ではない。」
「え?」
「君のような者を恭くんは求めている。我等の行く道に必要な存在だ。故に、今後ともよろしく。」
幸衡は嬉しそうに千之助のグラスに自身のグラスを軽くぶつけた。
千之助は、終始おろおろとしていた。そしてまたその様を面白がられていた。
増殖した宴会は深夜まで続き、全員が帰ったのは朝方になってからだった。幸衡も珍しく深酒をして酔っていたが、顔色は変わらず白いままだった。酔ってはいたが几帳面な本能が働き片付けをした。元々毘沙門や実親など良識のあるメンバーがあらかた片付けて行ったのだが。幸衡が眠気と酔いで朦朧とする中、やっとあきらが帰宅した。
「ただいま…起きてたんだ。」
「…遅かったな。」
応えたものの幸衡の様子はぼんやりとしていた。
「うん、祥子ちゃんと…幸くん酔ってるの?」
「さっきまで仲間内で飲んでいた。」
「楽しそう。今度あきらも入れて!」
酔った幸衡はぼんやりする視界で、嬉しそうに近付いて来るあきらの顔を認識するために、自ら顔を近づけた。幸衡を至近距離にして浮かれている明るい色の『波形』だった。幸衡は案外自分自身もあきらと同じ色の『波形』をしていたのでは無いかと思った。
「幸くん?」
そして目を見開くあきらの唇を一方的に奪うと、踵を返した。
「何でもない。寝る。おやすみ。」
幸衡の背中がすたすたと寝室へ消えていった後も、あきらはしばらく呆然としていた。
「…仕返し?」
翌朝、祥子の元へ行くあきらと一緒に、いつものように地龍本家に出勤した幸衡は、廊下で晋に会った。晋は昔から本家の一室を間借りしているため、出勤と言っても建物内を移動しているだけだ。そのため、廊下で会った時が仕事中なのかプライベートなのか分からない時が多かったが、とりあえず声をかけた。
「おはよう晋くん。」
「おはようございます。」
挨拶をしながら晋は、幸衡の後ろから千手観音のように手だけを出している人物が、ものすっごく気になった。明らかに初対面だ。にも関わらず、完全にふざけたアピールをしていた。少し角度を変えてその人物を覗き込むと、幸衡より少し背の低いショートカットの女性だった。細いけれど鍛えられた体が、一目で厳しい修行と実戦経験を経た者であると分かった。強い、ふざけているけれど間違いないと晋は確信した。
「幸さん、その後ろの人誰ですか?」
晋が訊くと、幸衡が後ろを振り向いた。幸衡が振り向く瞬間に悪ふざけを無かった事にして、すまして立っていた。その逆に怪しい態度に眉をひそめながら、幸衡は紹介した。
「比企家の御息女で私の婚約者、あきらだ。あき、こちら矢集晋くんだ。」
「ふむふむ、君があの鬼神殺しの猛獣くんだね!噂はかねがね!へ〜、ふ〜ん。」
比企家は月夜家に並ぶ名門中の名門だ。幸衡の婚約者と聴いて納得の血筋だった。しかしその当のお嬢様であるあきらは、不躾なまでに晋をじろじろと舐め回すように見ていた。
「あ…あの。」
「うんうん。良いね良いね。何かこう、ぐあ〜っと運気が高まってるよ。右肩上がりの鰻昇りだよ。何か良い事あるよ。良かったね☆」
親指を立ててウインクしてくるあきらに、晋は完全にどう対応して良いか分からず幸衡に助けを求めた。
「は?え…と幸さん?」
「あきのカンは昔から当たるんだ。」
「カン…なんですね。」
「うん、あきらの野性のカン!」
占いや予知などではなく、完全なるカンだと言いつつ、再び親指を立てるあきらのハイテンションが晋を圧倒した。晋はあきらがかなり変な人だという事だけは分かった。
三人で話していると、廊下の向こうから近づいて来た人影に向かって、あきらが飛び付いた。
「静ちゃん!」
「あきら!」
たまたま通りかかった静は突然飛び付かれ、さすがに驚いていた。
「何でここにいるの!」
「それはこっちの台詞よ。アンタ恐山に修行に行ってたんじゃ…。」
良家の姫同士の親交があるのか、二人はかなり親しそうに見えた。
「終わったんだよ!それより静ちゃんこそ、何で…は…まさか、幸くんを狙って。駄目だよ、幸くんはもうあきらのなんだからね!静ちゃんが縁談を断ったのは一生の不覚だと思うけど、それでももう遅いんだからね!」
「馬鹿言わないでよ!誰がこんな政治ロボットを狙うのよ!」
「政治ロボットだと!何て的を得た悪口を言うんだ!さすが静ちゃん…幸くんが惚れるだけの事はある…。」
「惚れていない。あき、私の味方なのか敵なのかはっきりしてくれ。」
「何を言うんだ幸くん。あきらは幸くんの味方に決まっているさ。だからこの泥棒猫的ポジの静ちゃんと徹底抗戦の構えだよ!」
いつまでも静と幸衡の関係を疑い続けるあきらは普段のハイテンションに輪をかけた興奮状態だ。見かねた幸衡が止めに入った。
「静は恭くんの伴侶だ。故に見当違いだ。」
「何だって、静ちゃん!ビッグな玉の輿…幸くんを袖にする訳だ…。」
「べ…別に、そんなつもりで選んだ訳じゃないわよ。」
「家柄じゃないって言うのかい?そんな…長所が家柄だけのあきらはどうしたら良いんだ。あ、でも幸くんは人を家柄でしか見ない政治ロボットだからノープロブレムだった♪」
「あき、本当に私の味方なのか?」
「もちのろんさ!」
味方と言いながら暗に幸衡の悪口を織り交ぜるあきらを横目で見ながら、幸衡は肩をすくめた。
「すまない二人とも、騒がせた。」
「ばいば〜い、またね〜。」
元気に手を振りながらあきらは、先を行く幸衡の背について行った。
残された晋と静はその背中が行ってしまうと、一気に脱力感に襲われた。
「変わった人だね。何か、幸さんから全く想像出来ないタイプの…。」
「ええ、昔からあの調子で我が道を突き進むのよ、あきらって。幸衡とあきらが婚約したって聴いた時、どうせ政略結婚だろうと思ったのよ。それが悪いって訳じゃないしね。でも、あの二人ってあれで結構バランス取れてるのよねぇ。不思議だけど。」
「へぇ。確かに、何か幸さんがいつもより明るい気がする。」
「あきらって自由奔放で猫みたいだから、かしら。」
「それだ!」
それでは婚約者ではなくペットなのだが、晋と静は妙に納得して別れた。
あきらは祥子の所へ行っていたのか幸衡が帰る頃になって再び戻ってきた。本当に猫のように行動するなと思いながら、二人で帰路についた。
「あき、私は変わったろう?自分でもそう思う。がっかりしたのではないか?」
「そうだね、変わった部分もあるかもね。でも、幸くんは昔からず〜っと優しいよ。公私混同しないだけさ。」
「では私は公私混同するようになってしまった、と。」
「幸くんの場合、公が私で、私が公で、はっきり線引きするのって無理じゃない?だから良いんだよ。幸くんは幸くんで。思うようにやれば。それが幸くんだよ。」
「ある時は己が野望を第一に掲げ、ある時は御館様の忠臣であると嘯き、またある時は地龍様の右腕だと誇り、まるで徒波が立つが如き様だ。私は随分軽薄で移り易い心を持っていたのだな。」
「でも、そんな幸くんを好きな人がいっぱいいるね。」
「ありがたい話だ。」
「言ったでしょ?幸くんは昔から優しいんだよ。困ってる人を放っておけないし、何でもやってあげちゃう。それに好きな事に夢中になったら、それしか見えなくなっちゃうんだ。奥州の天下っていう夢に魅せられてずっと走ってきたでしょう。今は地龍様に夢中。変わらないよ。根本的には何も変わってなんかいない。実に幸くんらしい限りだよ。あきらは安心したくらいさ。」
あれだけ奥州至上主義だった幸衡が五年間で心変わりして恭を選んだことは、一見徒波が立つが如き移り気だ。しかし、あきらの目からして見ると、実に幸衡らしい選択だった。
奥州では野心の塊だった幸衡に、光射す道を示す存在として恭を得たということも、その中で信頼できる仲間を得たということも、あきらにとって喜ばしい限りだった。
「そうか。」
何も考えていないようで実はよく見ていたり、ちゃんと解っているだろうと思えば頭からっぽだったりと、いつも掴めないあきらに振り回される事が幸衡は決して嫌いではなかった。
「さ、帰ろう♪幸くんのご飯楽しみだな〜。」
鼻唄を歌いながら歩き出すあきらに半歩遅れて幸衡は歩き出した。あきらは体に似合わず多飯食らいで、その性格の通り大雑把で自由奔放だ。規則正しく生活している幸衡とは正反対だ。
「…ちなみにいつまでいる予定なんだ?」
「え〜っと、まぁしばらくは。」
恐る恐る訊く幸衡の様子に全く気が付かないあきらは適当に答えた。この様子ではいつまで滞在するか分からない。もしかすると祥子の仕事がどうであれずっといるつもりなのかも知れないと思った。既に幸衡の了承を得る事なく同居する気のあきらは秀衡でも操縦不能な自然災害的な存在だ。おそらく幸衡が奥州に帰還しないとなって大騒ぎをしたのだろう、そして仕方なく手形を手配し鎌倉へ送り出したのだろう事は想像に難く無かった。一度言いだしたあきらを止められる人間はいないのだ、例えあきらの親兄弟であっても無理な相談だ。
幸衡は溜息を付いた、観念するしかないと。
そして妥協出来ない点だけを解消しようと口を開いた。
「ではなるべく早くベッドをもう一台手配する。故にそれまで私のベッドを使え。私はソファーで寝る。」
「ヤダ!一緒に寝る!」
「駄目だ。あきは寝相が悪いし、全裸になる。故に断固断る。義経と寝ろ。」
「ケチ!」
「ケチで結構。」
「冷血漢!鬼!悪魔!政治ロボット!色白!猫好き!料理上手!イケメン!」
悪口のレパートリーが無さ過ぎて後半はただ幸衡の特徴を連ねているだけだったが、声が大きすぎて周囲に迷惑だし恥ずかしかったため、幸衡はすぐにあきらの口をふさいだ。
「分かった、分かったから黙れ。」
「じゃあ、良いの?」
あきらの目が輝いていた。反対に幸衡は瞑目した。
「…せめて服を着ろ。」
「うん、分かった!幸くん大好き〜!」
あきらという台風は過ぎ去るどころか更に猛威をふるいそうだった。
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