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7 侍従の事

 「そろそろ帰ってくるか?」

奥州藤原氏当主・藤原(ふじわら)秀衡(ひでひら)の突然の言葉に、幸衡(ゆきひら)は答える事が出来なかった。


 鎌倉の秋は鮮やかな色彩を着飾りながら冬に向かっていく。紅葉と神社仏閣を見るために多くの観光客が連日のように押し寄せている。幸衡はそんな混雑に巻き込まれないように出勤し、観光客が納まった夕刻になってその色どりを楽しんだ。

 「紅葉を見ると秋だという気がしますが、今夜は随分と冷えますね。」

紅葉と歴史ある門扉の趣を眺めながら毘沙門が話しかけた。

 「早いものだな。私も今年で二十七だ。故に…。」

幸衡が暮れ行く空にもの寂しさを投影するように見上げた。

 「おや、幸もセンチメンタルに浸る事があるのですね。」

 「感傷ではない。だが…毘沙門殿は安達家当主として、今後どのような展望を?」

唐突に問う幸衡は秋風に長い前髪を揺らされていた。

 「展望…などといいう立派なものかどうかは分かりませんが…。」

毘沙門は幸衡の問いの意味も欲しい答えも察するに及ばなかったが、誠実に自身の中の答えを紡いだ。

 「兄には出来ない事を、やりたいですね。俺は兄とは違う、それを証明したいのです。何だか子供じみているでしょうか。兄と俺が違うなど当然ですし、兄は亡くなったのですから俺が何をしようと兄には出来ない事です。それでも、俺らしい生き方が出来れば、と思いますよ。」

毘沙門を縛る弁天という兄の存在は、重い軛でもあり、愛おしい影でもある。疎まないと言えば嘘かも知れないが、それでも欠くことの出来ない一部なのだ。

 「成程。」

話している内にすっかり陽が暮れてしまった。

 「何ですか、俺ばかりに言わせて幸は教えて下さらないのですか?」

 「私は奥州を率いる身ではない。故に展望など…。」

 「どうかしたのですか?」

いつもならば奥州の覇権を、と言って憚らない幸衡の釈然としない言葉に毘沙門は首を傾げた。しかし幸衡はそのリアクションを無視して帰ろうとした。

 「いや、何でもない。では、また。」

 「ちょ…幸、何か悩んでいるなら相談して下さいね。俺で良ければいくらでも力になりますから。」

別れ道で背を向けようとした幸衡に毘沙門は慌てて呼びかけた。幸衡はうっすらと微笑んだ。その白い微笑みは夜闇に溶けない美しさだった。



 幸衡は元々奥州からの出向扱いだったため、鎌倉に居を構えていなかった。

 現在の鎌倉勤務の武士たちの中にはいずれは故郷に帰り実家を継ぐ者や主に仕える者も多く、彼らは鎌倉に自分の家を持っていない。少数が下宿という手段を取っていたが、それらの殆どのケースは用意された寮を利用していた。寮と一口に言っても、ここに地龍組織の縮図のようなカースト制度が見られる。明らかな格差があるのだ。部隊の雑兵程度の身分の者は古い木造学生寮のような住まいで待遇も悪く殆どの事を自分で何とかしなければならない。それが身分が上がるに連れ、個室を持つようになり、エアコンが付いたり、バストイレが付いたりとグレードが上がった建物へ引っ越す事が出来る。そして地龍最高峰・龍の爪や源氏最強部隊・鎌倉七口ともなると高級ホテル暮らしだ。地下にジム・プール・サウナ・浴室などの施設を持ち、食事も家事の一切もすべてを寮の使用人に任せる事が出来る上、二十四時間対応コンシェルジュ付きだ。正に無いものは無いと思わせる程の贅沢な暮しを送れるとあって、下層の者達は絶大なる憧れをもっていた。強くなり、出世すれば、いつかはあそこに住めると。そして地龍の武士の実力の殆どが血統による。普段はっきりと目にする事の出来ない皮肉なヒエラルキーを具現化したような施設なのだ。

 そして地龍当主付の役職であり、奥州藤原氏嫡子の血統と実力から、幸衡は当然その高級ホテルに暮らしている。因みに現在ここに暮らしている者は、鎌倉七口である菊池(きくち)(さね)(ちか)那須(なす)直嗣(なおつぐ)(たいら)(むね)(すえ)・佐々(ささき)高綱(たかつな)の他に数名だけだった。空き部屋はかなりあるが今のところ相応しい者はいなかった。

 幸衡の帰宅を待つのは、内装も居住者の自由に出来るその部屋は全てが白を基調にした清潔な空間だ。幸衡らしい真白な世界。まるで一面の雪の中にいるような聖域。

 多くの者が部屋や生活の管理を寮側に依頼していたが、幸衡は自分の生活の一切を自分で管理していた。まず空気清浄機の電源を入れてから、食堂は利用せず自炊をした。飼い猫の義経(よしつね)は幸衡が食事を始めると餌をねだる。一緒に夕食を済ませて片付けてから、風呂を沸かし、翌日袖を通すシャツにアイロンをかけた。決まり切った一連の流れ、寸分違わぬ繰り返し、けれど丁寧にこなす。

 「どうかしているな。」

毘沙門の「どうかしたんですか。」という問いが急に甦った。

 そう、どうかしているような気がした。

 今まで主である秀衡に逆らった事などただの一度たりともない。それは秀衡に対する忠誠ではない。幸衡自身の野望のためだ。たとえ奥州藤原氏の当主となれなくても、幸衡の力で奥州をこの時代の覇者としてみせるという野望。転生組という半永久的な当主が君臨していようとも、幸衡の力を否定する理由にはならない。血統も実力も申し分ない幸衡自身こそが、過去秀衡でさえ出来なかった奥州が天下を取るという偉業を成し遂げたい。そのために、今は、と野心を内に仕舞って秀衡に忠誠を誓うふりをして来た。

 だというのに、奥州帰還の命令に、応える事が出来なった。

 「らしくないな。」

幸い秀衡はすぐに、とは言わず考えておくようにと打診しただけだった。猶予はある。けれど、何故か素直に受け入れる気持ちにはならないのだ。

 いつまでも煮え切らない気持ちのまま風呂を済ませた丁度その時だった。インターホンが鳴った。時間を見ると夜十一時だった。毘沙門であったならば非常識だと叱責しただろう時間の来訪。幸衡が扉を開くと、そこには髪を濡らした実親が立っていた。

 「どうした?」

よく見ると実親の体は『夜』を討伐した痕跡などで汚れていた。

 「わり、シャワー貸してくれないか?皆まだ帰ってなくて。」

実親は近所の銭湯に行くかのように、洗面器に風呂道具とタオルを入れていた。

 「風呂ならば下のを…そうか、良いだろう。」

寮の地下施設は点検整備のため使用できない日であった事を思い出した幸衡は、濡れた実親を招き入れた。

 「本当悪いな。シャワーあびようとしたら水が出てきてさぁ、壊れてんのかなぁ。」

 「丁度まだ湯をはらっていない。今日は冷える故ゆっくりと入れ。」

 

 幸衡が部屋に上げると、実親は物珍しそうに室内を眺めた。実に幸衡らしい空間だと感想を述べようとした時、幸衡の電話が鳴った。実親は電話を取る幸衡に簡単なジェスチャーで風呂の礼を伝えると、間取は実親の部屋と同じなので勝手に扉を開けて入って行った。

 実親が風呂に入ると、部屋で幸衡が話す声が何となく聞こえてきた。

 「仕事かなぁ。」

恭からの指示を具体的に割り振ったり、下からの報告を取りまとめたり、幸衡の仕事はとても実親には出来そうには無かった。どう努力しても中間管理職が関の山だと思った。

 適材適所という言葉があるが、事務処理能力や采配に長けている幸衡は戦闘能力も高い。その上生活能力や自己管理能力、実親が見た限りでは幸衡に出来ない事はないようだった。例えどこにあっても適所となるだろう。全く持って羨ましい限りだが、これが血統による実力差だと言うならば羨望よりむしろ嫉妬の方が勝る気がした。実親から見て、幸衡は正に全てを手にしている存在だ。

 幸衡の好意に甘えてゆっくりと風呂に入って温まり、体から湯気を出しながら出ると、インターホンの音がした。電話だの来客だのが多いなぁと思いながら脱衣所から顔を出すと、玄関の扉が閉まる所だった。閉って行く扉の隙間から、コンシェルジュの熊谷(くまがい)小百合(さゆり)の姿が一瞬だけ見えた。

 

 扉を閉めて振り返った幸衡の手には紙袋があった。風呂上りの実親を見ると、その紙袋を持ち上げて声をかけた。

 「実親くん。風呂上りにお茶でもどうだ。熊谷殿の菓子だ。」

 「小百合さんの…。」

幸衡は実親の返答も待たずに手際良くお茶の用意をした。義経が実親に座れと促すように足に纏わり付いた。

実親は仕方なく座ったが、小百合と幸衡の関係を邪推してか憮然としていた。

 「安心しろ。熊谷殿では私と釣り合わない。故に男女の関係になる事はない。未来永劫な。」

 「そんな言い方…。」

 熊谷家は熊谷(くまがい)次郎(じろう)(なお)(ざね)の子孫の家系だが、途中血が途絶え養子によって家名のみを継承したという経過があった。それ故に由緒ある家名に反して血統は歪んでしまい名を上げるような活躍はなく、地位もそう高くは無かった。野望を持つ幸衡にとってみれば熊谷家は歯牙にもかけない血統だ。それでも、実親にとっては申し分ない家系だし、何より小百合本人の人柄を好ましく思っていた。

 「私は私、君は君だ。」

実親から見ても幸衡は文武に秀で眉目秀麗であり全てを兼ね備えた存在だ。小百合がそんな幸衡を選ぶのは当然に思えた。どう考えても何一つ敵う気がしない相手への嫉妬は憎しみに進化する事も出来ずしょんぼりとした劣等感を胸に落とした。

小百合の手造りだという抹茶ロールケーキは甘さが控え目で美味しかった。実親が緑茶をすすっていると、幸衡が小百合の紙袋に容器やらを入れて実親に差し出した。

 「シャワーの修理の話をしに行くのだろう?ついでに返しておいてくれ。」

 「え…いや、それは小百合さんに悪い。」

何故このような夜中になったかは不明だが、幸衡のために手造りして来たものを、実親が「美味しかったよ。」などと言って返すのはどう考えてもおかしい。返す必要のある容器に入れて渡した事から考えても、小百合は幸衡がそれを返しに来る事を期待している可能性がある。それが実親では不愉快に思うかも知れない。

 「実親くんがすぐにシャワーの件で熊谷殿に連絡をしなかったのは、まだシャワーを浴びていなかったからなのだろう?」

シャワーが壊れたのだから当然体を洗えていなかった実親が、すぐにコンシェルジュに連絡をしなかったのは、揺らぎ討伐後の物騒な姿で小百合に会う事を避けたかったためだ。好意を抱いている相手に、少しでも良く見られたいと思うのは当然の事だ。それを看破していた幸衡は、念を押した。

 「これが君の手から返却されれば少なからず彼女は察してくれる事だろう。私もここでの生活に波風を立てたくはないのだ。故に風呂を貸した礼だと思って頼まれてくれ。」

 幸衡の平静な顔が、それをきっかけに出来るか否かは実親次第だと物語っていた。

 「そういう風に気回すとこまでやられると本当に非の打ちどころが無いんだけど。俺も幸ぐらい何でも出来たら、転生組を煩わしく思ったかもな。」

 超人のような幸衡が、転生組に敬意を払うどころか老害だと言い放つのも無理はないように思われた。転生組と言うビップさえいなければ上に立つに違いないのだから。しかし、幸衡はもの寂しそうな顔で返した。

 「どうだろうな。御館様を軽んじる私は自らを省みる事をしなかった。今にして思えば残忍酷薄な人間だったかも知れない。己が野望のために犠牲にするものの分別も付かなかったのだから。」

実親はいつになく殊勝な幸衡に面食らったようだった。

 「…よく分からないけど、幸は皆に優しいし、頼りにされてる。酷薄な人間なんかじゃないよ。勝手に嫉妬して卑屈になって悪かったよ。俺頑張ってみるわ、ありがとう。」

 「いや、すまない。私も恭くんに出会って変わったのだ。そう、変わったのだよ。」

幸衡は部屋を後にする実親を見送ると、不思議な気持ちに襲われた。かつての自身であったならば、同僚とこのような関係を築けただろうか、と。

 恭に出会う前の幸衡は野望の隷属だった。実現のプロセスを幾度となく計算し、打算で人を値踏みして自分との優劣で採点した。野心を燃やし続けるために薪をくべ続けて来た。しかし、意味も分からず恭の元へ派遣されて、幸衡の内部は変革した。恭という人は幸衡の打算も値踏みも採点も、何もかもにおいて上を行く人だった。初めて人に仕えるという事を知った。圧倒的に認めざるを得ない将たる器に魅せられた。この人に付いて行きたいと思った。初めて人を尊敬した。そして恭と共に時を重ね、恭を見続けて来た事で、多くのことを学んだ。今だからこそ言える。かつての幸衡は人心を軽んじて来てしまったと。あらゆる面において優れていたが故に見落としてしまっていたと。

 「このような私が、非の打ちどころがないなど、片腹痛いな。」

優れた将は人心を掌握するものだ。その能力は去る事ながら人を惹きつけるカリスマ性を持つ。そんな歴史を以てすれば火を見るより明らかな事を軽んじて、一体何が覇者だろうか。

 秋風が窓を打つ音を聴きながら、秀衡の付きつけた宿題の答えを模索していると、再び電話が鳴った。

 「(みつ)(たね)くん、今何時だと思っているんだ。」

 「何だよ、寝てるんなら出なきゃいいじゃねぇか。それより幸、こないだの人形師の里の件で世話になったからよぉ、今度お礼に奢らせてくれよ。」

 「あれは別に光胤くんに恩を売ろうと思ってした事ではない。故に不要だ。」

 「いつもは何でも恩に着せて来るくせに釣れねぇ事言うなよ。面白いメンツ揃えとくからさ。じゃ、また連絡するわ。」

言うだけ言って一方的に電話を切るやりくちが、主重盛(しげもり)に似ているのは気のせいだろうか。幸衡は恨めしそうに既に通話を終了している携帯端末を睨んでいた。



 「おい、矢集(やつめ)じゃねぇか。」

晋が振り返ると、道場の中央にかたまった人の群れが晋を指さしていた。

その日晋は義将(よしまさ)と稽古をする約束をしていた。稽古自体は邪魔が入らない外でやる予定だったが、義将の予定が押したので道場まで来て欲しいとの連絡があり、鎌倉の大きな道場へ足を運んでいた。

 晋にとって道場は良い思い出がない。この道場には身分の高い家の子供が多かった事もあり、呪われた下賤な矢集の子孫は道場に足を踏み入れてはいけないと言われ、立ち入る事が出来なかった所為だ。別に道場に憧れてはいないが、否定されると傷付く。幼少時の心の傷は一生治らなかったりするものだ。晋は未だに何となくこの場所が嫌いだった。

 「相変わらず恭様の金魚のフンしてるらしいじゃねぇか。」

 「呪われた矢集の血が恭様にお仕えしようなんざ、身の程を弁えろよ。」

 面々はよく知る顔だった。

鎌倉の古い武家の子孫たち。長い間地龍当主に仕えてきた事を誇りとして受け継ぐ家系の、中身の薄い子孫たちだった。心からの忠義を知らず、ただ受け継がれた名誉を守る事を武家たる矜持だと勘違いしている、血が濃いだけの脳なし共。

 子供の頃から晋はこの手の輩に虐げられ続けてきた。幾度となく傷付けられ、そして幾度となく殺意を堪えた。堪え切れなくなってする反撃も、殴るくらいで、酷くても歯や腕が折れる程度だった。晋が受けた折檻よりはるかにマシだった。

 それでも身分の差故に晋に罰が下って牢に入れられ反省を強いられた。その度に殺意を噛み殺してきた。それも全てが恭のためだ。恭と共にいるため。晋の所為で恭に醜聞が立てば引き離されるかも知れない。晋が問題を起こせば恭とはいられないかも知れない。すべての我慢が恭のためだった。

 その所為だろうか、馬鹿共は今でも晋を格下だと思い込んでいる。血が濃いだけの、生まれ持った地位に甘んじて育った脳なし共は。晋を蔑み、恰好のストレスの捌け口ででもあるように、寄ってたかって嘲笑ってくる。

 男達の一人が晋に向かって鞘のまま刀を向けて来た。晋はそれを、まるで人とすれ違うように自然に軽やかに避けた。晋に避けられた所為で男はそのまま一歩前に出た。晋はその鞘を掴むと、振り回すように放った。その勢いで男が吹っ飛び、尻もちを付いた。男達は晋の反撃に驚き、そして格下の無礼とばかりに憤慨した。

 「何をする、矢集!」

晋は男たちを見た。その視線にはかつての弱さや幼さは微塵も残ってはいなかった。男たちは晋の落ち着いていて、静かな佇まいに一瞬反応する事ができなかった。

 静まり返った道場の入り口に、丁度義将がやって来た。晋を探そうと思っていたが道場の異様な空気に気が付き眉をひそめた。皆の視線を追うと、空気の中心に何かが立っているのが見えた。禍々しい狂気の塊のような、獰猛な獣のような、吹き出す瘴気のような、体の芯を冷やす程の恐怖を感じる何かだった。

 「この際だから言っておくわ。」

その何かが口を開き、義将はようやくそれが晋である事を認識した。しかし、あまりに違っていた。義将の知るあの晋とは別人のような空気に、声をかける事が出来なかった。晋は義将に気が付いていないのか、目が合うような事もなく言葉を次いだ。

 「今まで俺が一方的にやられてたのは、恭のためであって、その気になれはお前らを殺すのなんて簡単なんだって事。」

 見下すような言葉に、男たちが怒りを口に迫った。

 「矢集ぇ!」

 「矢集、さん。だろ?」

家名では圧倒的に上の位であるはずの男たちに対する傍若無人な態度は、道場中を敵にまわすには十分だった。

 「クソ野郎が。父親を殺した事を鼻にかける下郎が。」

 「薄汚い野良犬の分際で、地位を得、あまつさえ我等を見下そうというのか!あさましい強欲が!」

口々に罵倒し始め、晋を囲んで今にも袋叩きにでもしそうな勢いだった。しかし晋が動じる事はなかった。

 「不様だな。武士が口で語るのは身を貶めるだけだろ。陰湿で低俗な罵詈雑言を並べるのが趣味なのか?」

 「矢集ぇ!」

 「矢集、さん。だと言ったろ?目上の人間は敬えよ。」

 「誰が眼上か!」

 「強い者が弱い者の上に立つ。解り易くて当然の道理だろ?それとも、まさか俺より強いつもりじゃないよな?」

 「ふざけるな!てめぇみてぇなクズに負ける訳ねぇだろ!俺達は代々地龍様にお仕えしてきた由緒正しい血統だぞ!」

子供のまま大人になったのか男たちはヒエラルキーの変化にも気がつかない。晋は既に、地龍当主の側近という地位を得て、役職の上では男達より格上なのだ。そしてそれを得るだけの実力がある。

一斉に襲い掛かった男達を、腰に刺した()(がすみ)夜霧(よぎり)の二振りを抜くまでもなく、一人の手から刀を奪い簡単に散らした。多勢に無勢を全く意に介さない動き。

 「実力差が分からない程弱い奴が、恭の役に立つ訳ないだろ。いっそ消えろよ。」

晋の目に映る闇は、既に人と言うには禍々しく奈落の底を映すようだった。殺意。その気を空気を感じただけで男たちは動けなくなり、震える唇で無理矢理に紡いだ言葉は儚い程に弱弱しかった。

 「…鬼神殺し…。」

 「化け物が。」

戦意を喪失した男たちに背を向け、道場を後にしようとしていた晋が少しだけ振り返り、誰に言うでもなく呟いた。

 「俺は人だ。恭が望む限りは。」

その言葉を聞いていたのは義将だけだった。


 結局義将はそのまま晋と稽古をする予定をキャンセルしてしまった。全てを見ておいて、どの面さげて稽古をすれば良いか分からなかった。分からなかったので、考えた結果幸衡の部屋を訪ねた。

 突然の来訪に幸衡は嫌な顔ひとつせず部屋に上げ、丁度食事時だからと言って夕飯をふるまった。義経も義将との再会を喜ぶようにすりよっていた。久し振りに食べる幸衡の手料理は、知将(ともまさ)の家で過ごした短く濃密な時間を思い出させて胸が詰まった。

 「(ゆき)(にい)、俺…恐かったんだ。」

ぽつりと呟くと、幸衡は穏やかな眼差しを向けた。その眼差しに促されるように道場で起こった事を話した。すると、幸衡は白状するように告げた。

 「晋くんにそうさせたのは私だ。」

 「え?」

 「晋くんは昔から恭くんと共にいた。共にいるために、なるべく大人しくしていなければならかった。目立たず、問題を起こさず、ただ耐える、そうしなければならなかった。それでも、獣と呼ばれる程度には暴れていたようだが、晋くんにとってはよくやってきたのだろう。」

 「じゃあ、あの晋兄ちゃんが本当の姿だって事?」

 「いや。今と以前とでは立場が違うのだ。恭くんは地龍様となり、晋くんはその側近だ。晋くんは恭くんの飼い犬としての務めを果たさなければならない。より凶暴で、より手の付けられない、恭くんの命令以外では動かない猛獣として振るまい、周囲を牽制する仕事だ。それは周囲から恐れられ憎まれ敬遠される立場だが、呪われた矢集家の末裔であり、父親殺し・鬼神殺しである故に有効な、晋くんにしか出来ない事だ。」

 「そんなの…。」

貧乏くじ。義将の脳裏にはそんな言葉が浮かんだ。何かのしわ寄せが理不尽に晋にばかり向かっていて損をしているように思えた。

 「そうするべきだと進言したのは私だ。故に私を責めろ。」

 「何で、そうするべきだって言ったの?幸兄ちゃんの野望のため?」

 「そうだ…いや、政治的にはそうだ。けれど何も晋くんが憎くてするのではない。」

 恭の政のために、ひいては幸衡自身の野望のために、確かにそうだ。けれど、それだけではない。そのために晋を犠牲にしようとしているのではない。幸衡にとって晋は弟のように想う対象だ。晋の苦悩を思えば胸が痛む。それも恭に出会う前には無かった感情だった。

 「…恐かったけど、悲しかったんだ、俺。晋兄ちゃんきっとまだ泣けないんだ。悲しいのに、苦しいのに、誰にも言えないんだ。」

義将は晋の虚のような目の奥にあったのは地獄ではなく、葛藤なのではないかと思った。

 「私も、晋くんの中にある狂気に、恐怖する事がある。けれど、彼をそうしたのは生まれや血脈ではなく、父に捨てられた孤独や父を殺した悲しみからだと思う。故に義将くん、君は今まで通りでいるべきだ。好意を示し続けるべきだ。もし晋くんが君の思うような人間ではなかったとしても、君は晋くんにとって大切な存在なのだ。」

どこまでもまっすぐに晋を想う義将の背を押すように、幸衡は言った。義将には義将にしか出来ないことがある。それを教えるように、諭すように、はっきりと言った。

 そしてその想いに呼応するように義将が尋ねた。

 「(すすむ)(にい)がどんな晋兄でも、大好きな兄ちゃんだし尊敬する師匠だよ。幸兄も、そうでしょ?」

義将の澄んだ問いは、幸衡に一つの答えを口にさせた。

 「義将くん、三年という時は傷を癒すには短いが、人を変える程度には長い。私は既に奥州と天秤にかける程に愛してしまったのだよ、我が主と友を。」



 数日後、幸衡は事務処理をしながら恭と晋を見るともなく口を開いた。

 「実は先日、御館様より奥州への帰還命令があったのだが。」

 書類に目を通していた恭と、恭の書類を仕分けていた晋が驚いて幸衡を見た。幸衡はいつもの平静さで、まるで仕事中の雑談のように続けた。

 「私は恭くんに仕えたい故、断った。」

 「え?」

 「は?」

奥州至上主義の幸衡の言葉とは思えなかった。

今までの幸衡であれば、地龍本家とのパイプも出来、自身の能力も証明出来た事から、喜び勇んで奥州に帰り、野望に燃えるのではないかと思われた。

 「御館様からは了承を頂いたが命令に背いてしまった故、奥州に私の帰る場所はないかも知れぬ。その時は今までの出向扱いではなく、直接雇って貰えないだろうか?」

幸衡は顔を上げると恭の目をまっすぐに見た。

 「…それは、勿論。幸がいてくれるなら百人力だが、どういう心境の変化だ?」

 「そうですよ、幸さん。何か企んでるんですか?それとも秀衡様と何かあったんですか?」

二人で勘繰ってくるので幸衡は首を振った。

 「特に何もない。ここの仕事はやりがいがあり、主は仕えるべき器だ。仲間も頼もしく、友も離れがたい。何より学ぶ事が多い。故に…奥州より魅力を感じたのだ。今しばらくは、この先の未来を私はここで、恭くんと晋くんの側で見ていたいのだ。」

恭に尽くすのは幸衡自身の野望のためとは言え、恭の事は心から慕っている。そして鎌倉の仲間達も皆同じ。

幸衡はずっと、自分が何でも出来ると思っていた。けれど、一人で何でも出来るからと言って偉い訳では無かった。幸衡のやり方には心がない。人を無碍にして得た未来に、人は何を得るだろうか。幸衡一人では描けなかった未来図を、恭はその目で見て、必ず実現して見せるだろう。そんな未知なる道を、皆と歩きたいと、そう思ったのだ。

 「本当に幸さんてば恭にぞっこんだよね。」

 「既に俺の道に幸は必要不可欠だ。秀衡殿から返却要請があっても返す気は毛頭ない。そうだな…幸を巡って戦でも起こすか。」

恭が冗談を言って笑うのにつられて幸衡も笑った。

幸衡にとって恭は唯一認めた君主であり、放っておけない弟のような存在だ。この人を放って奥州に帰るなど、今はもう考えることすら出来なくなってしまっていた。

 「もし大願叶って奥州の実権を手にする事あらば、遠く奥州の地から君の力になると誓おう。」

転生システムがなくなったらなら。

恭と晋は黙って頷いた。



 「良いのですか?秀衡様。幸衡は貴方様が手塩にかけて育ててきた奥州藤原氏を担って立つ人物なのでしょう?それをみすみす鎌倉にくれてやるなど。」

奥州平泉では、幸衡の帰還命令拒否を受けて泰衡(やすひら)がいきり立っていた。それを見た秀衡は優雅に背もたれに体重をかけて座っていた。

 「これで良いのだ。そもそも本当に帰って来られても困る。あれにはまだ鎌倉で学ぶ事が多くある。」

 「では何故帰還命令など…。」

 「言ってみただけだ。見てみろ、わしの命令に逆らうなど今まででは考えられぬだろう?そういう風に変わって欲しかったのだ。あれは頭が良く腕も立つ。けれど人の心を動かすというのはそういうものではない。そういう事を知って欲しかった。そういうものを持たない者に奥州を担う資格などあるまいて。」

秀衡の全てを見透かしたような言い様に、泰衡は頷いてから言った。

 「成程、そのために試したのですか。いつ我等転生組を失っても良いように幸衡を次期当主とすると決められた張本人である秀衡様が、幸衡を手放す訳は無いと思ったのですが。ですが…本当に帰って来ないつもりだったらどうなさるおつもりで?」

 「いやいやいやいや…どうしよっか?」

年齢不詳の美女の見た目をした秀衡が媚びるような目付きで泰衡を見ながら小首を傾げた。泰衡は溜息を付いて、咳払いをした。

 「まぁ、その、先の事は良いです。いずれ結論は出ましょう。それより目の前の事がありますから。」

 「何、目の前の事って。」

 「幸衡に話したのでしょう?婚約者である比企(ひき)あきらが五年の恐山修行を終えて下山して来るタイミングに合わせて、奥州に帰って祝言を挙げるようにと。幸衡が帰って来ないとなると、あの子はどうするのですか?」

 「…どうしよう?」

秀衡が首を逆方向へ捻った。明らかに冷や汗をかいていた。

 「知りませんよ。」

 「…どうしよう…。」

初冬の寂しい風が奥州を吹き抜けた。

6




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