4 鸞鏡の事
「これは、鸞鏡ですな。」
人形師の声は震えていた。
「鸞鏡?」
光胤が首を傾げながら箱の中身を覗き込んだ。
その箱は小さな棺桶のような形をしていた。表面には明らかに何かの術式が刻まれており、材質はステンレス的な手触りの何か謎の金属だった。
そして中には、美女が体を折りたたむようにして眠っていた。白く柔らかそうな肌、長く繊細な睫毛、艶めく唇、今にも目を覚ましそうなその姿を見て、人形だとはまず思わない。このような精巧な人の形をしたものがあるはずがない。はずがないと断言するのは、その姿の精緻より何より生気があるからだった。生きている。そう、生きている人形なのだ。薄いピンク色の頬の温度感など、幸衡の涼しい顔より遥かに人間らしいそれだ。
「鸞鏡とは、鸞鳥の柄の鏡の事ですが、ここをご覧ください。」
人形師が眠れる美女の腕を指すと、そこには美しい鳳凰のような絵が刻まれていた。
「鳥の絵、ですか?」
「左様。鸞鳥です。幻の神霊。そして、この人形の動力源です。」
「鸞鳥が、動力源の、人形ですか。」
光胤はイマイチ理解できないままで、美女を見下ろした。ただ眠っているだけの、その姿を。
そもそもこの人形は、三年前の戦の後、長老会や元朝廷の屋敷などの整理というガサ入れが行われ、とある屋敷から出てきたものだった。はじめは人かと思われてひと騒動あったのだが、重盛が人形だと言い出したのだ。ただの人形ならば別段騒ぐ必要はないのだが、重盛には何か考えがあるらしかった。光胤は重盛の命令で、その人形の正体を調べるために人形師の隠れ里へやって来たのだ。
「鸞鏡とは、特別な霊獣である鸞鳥を使用する事で、人を映す鏡のように人そっくりに動く人形なのです。」
人形師の声は徐々に興奮を高め、よく見れば手までが震えていた。
「初めて見ました。このような一品が、まさか本当に存在していようとは…素晴らしいです。これは間違いなく国宝級の、財産です。しかも、まだ生きている。」
人形師の里は大昔からこの地で人形を作り続けてきていた。古くから人形を作る技術の研鑽のみに邁進しており、かつては天皇や将軍などの統治者に人形を献上する事で栄えた。しかし、そういった権威の象徴が意味を持つ時代も遠く過去となり、今では何時までも過去の栄光にしがみ付き時を停滞させている怪し気な集団となっていた。
光胤の目の前で鸞鏡に興奮している人形師は、里の長で奏雲と言った。禿頭に相反した白い髭をたくわえた仙人のような姿をした職人気質の顔立ちがいかにも取っ付きにくそうだった。
「鸞鳥は本当に幻の鳥なのです。平和な時代にしか現れないと言われており、いつどこに姿を現すか謎なのです。そのような鳥を使用して作る人形ですから、鸞鏡は素晴らしい統治者を讃える最高級の一品として造られたはずです。」
興奮の所為か饒舌な奏雲が光胤を促した。
「ここを見て下さい。」
奏雲が人形の背中を指すと、解錠の印を切った。音もなく背中が開き中の回路を曝した。動くからには複雑な回路を持っていると思いながら覗き込んだ光胤だったが、意に反して中はシンプルだった。ただ丸いオーブのようなものが入っていただけだったのだ。
「これは?」
「これが、鸞鳥です。」
奏雲がオーブを取り出すと、それは浮きそうに軽い水晶玉で、淡く光を湛えたその中に羽が浮いていた。羽は赤に五色を交え鮮やかで美しかった。何かの芸術的オブジェのようなそれを、光胤は何か既視感を覚えながら見つめた。
「生きてるなら、何で動かないんです?」
光胤が問うと、人形師は鸞鏡の核であるオーブを回路に仕舞いながら答えた。
「さぁ、それは何とも。鸞鳥は平和な時代にしか現れないものですから、世が乱れて眠ってしまったのかも知れませんな。」
「はぁ。」
光胤は人形師の話を話半分に聴いていた。実感が沸かなかったのだ。「平和」というものにはおそらく定義がない。合法・非合法のような明確な線引きを持たない正義や悪のように曖昧な気がした。大きな戦が無くとも、揺らぎは無くならないし、誰かが死ぬ。『昼』と『夜』はどれだけ時を重ねても自身でバランスを取る事が出来ないままだ。きっとこれからも地龍の力なくして『昼』『夜』が存続していく事はないだろう。そしてその地龍は万能ではなく、最終的には斬る事でしか解決を見ない蛮族だ。そんな世が平和だろうか。表面上の平和だろうか。光胤は鸞鳥の美しい羽に平和を重ね見る事は出来そうになかった。
「そう言えば…。」
鸞鳥の羽に対して覚えた既視感の正体に気が付いた。光胤はポケットから昨夜貰った蘭の羽を出した。明るいところで見ると、赤に五色を交えた鮮やかな羽だった。鸞鳥のそれにそっくりだった。そして馨しい蘭麝の香り。
「それ…は?」
光胤の羽を見るなり奏雲は心臓が止まり目玉が飛び出しそうな程の衝撃を受けた。
「光胤殿、それはどうなさったのですか?」
声や手だけでなく、遂に唇までもが震え出した奏雲は、雪山で遭難したので無ければ何かの中毒患者にしか見えなかった。あまりの動揺と興奮ぶりに光胤は完全に引いてしまい、目をそらした。
「昨日ここへ来る途中で貰ったんです。」
いつまでも荒い息使いで光胤を見つめ続ける奏雲が落ち付くのを待って、光胤は羽をしまった。
「で、どうなさるおつもりですか?」
光胤の引いている様子を気にも留めずに奏雲は迫って来た。
「どうって?」
「直すのでしょう?」
奏雲の目は輝いていた。
「直すって…鸞鳥は眠っているのでしょう?どうやって直すのです?叩き起こすのですか?それとも世を平和にするとか?」
奏雲は光胤の言葉を面白そうに飲み込むと、鼻息荒く言った。
「新たな鸞鳥を入れれば良いのです。」
「は?鸞鳥は幻の霊獣なんですよね?しかも平和な時代にしか出て来ないんでしょう?」
奏雲は光胤のしまった羽を指さした。
「それが、鸞鳥です。それを捕えれば、鸞鏡が作れます!」
奏雲の嬉々とした様子とは裏腹に、光胤はぞっとした。
あの可愛らしい蘭の小さな体を、この冷たい櫃に押し込めて退屈な人間の娯楽の一部にようと言うのか。無意味な権威や名誉の象徴にするために犠牲にしようというのか。
この瞬間、光胤は奏雲の前で蘭の羽を出してしまったことを猛烈に後悔した。
重盛の命令は人形について調べる事であり、修復ではないという事を毅然とした態度で告げたが、奏雲は引き下がらなかった。結局重盛に相談するしかなくなり、光胤は唇を噛んだ。
とりあえず人形は再び箱に仕舞い、光胤が客間に持ち帰った。しかし中身を知らなかった先程までと違い、今はその箱が何かとてつもなく異様なものに思えて身震いがした。光胤は携帯端末を取り出すと、しぶしぶ重盛に連絡を取った。
「主、例の人形ですけど…。」
光胤が話し始めると、重盛は嬉しそうに言った。
「奏雲は喉から手が出る程欲しい一品やったやろ?」
「ちょっと、知ってたんですか?あの人形の正体を。」
「鸞鏡、やろ?鸞鳥は神霊の類やさかい、高級品いうだけやない人形としての価値は想像を絶するやろな。」
「そこまで分かってて何でこんな辺鄙な里まで人形を運ばせたんですか?」
そもそも人形について調べるために人形を運ぶのではなかったのか。光胤は重盛の様子に戸惑った。裏があるのはいつもの事としても、最初の目的である人形の詳細について調べる必要がないのであれば、本当の仕事は別にあるということだ。
「餌や。」
「餌?」
「イカれた人形師どもを一掃するための餌や。上手くすれば『夜』も黙らせる事が出来るかも知れん。」
重盛の言葉は既に光胤を弄んでいるとしか思えなかった。
「…何か全然聞いてないんですけど。」
「そやったか?そら堪忍な。まぁ気張りや。」
「ちょっと、ちょ…。」
結局何も話していないまま重盛が一方的に通信を切ってしまった。目的が変ったというのに、仕事の具体内容も聴いていない。どういう事なのか全く分からなかった。
「とりあえず、餌ってことは、何かが釣れるまで待機?」
光胤は首を傾げながら箱を見た。銀色の異様な箱は禍の元のように見えた。
鎌倉の地龍本家の一室では男たちが寄ってたかって悪だくみをしているとしか見えない会議が行われていた。
「餌は撒いたで?あとは食いつくんを待つだけやな。」
重盛が訳知り顔で嗤うと、義平が呼応するように呆れ顔になった。
「鸞鏡なんてとんでもねぇ代物ぶら下げられて釣れねぇようなら、俺達が思ってるよりまともなんじゃねぇの?」
二人の会話を黙って聴いている恭の隣で幸衡が口を開いた。
「鸞鏡を餌に人形師を釣り上げてどうなさるおつもりですか?」
「人形師の里は地龍組織の歪みの一つだ。その歪みを正す。」
人形師の里は地龍の中でも最も停滞した価値観を持つ組織のひとつだった。大昔、国の統治者に一流の人形を献上する事で地位を得てきたが、地龍の人形師がただの人形をつくる訳がない。『夜』を使用した人形が多かったのだ。用途も観賞ではなく、今で言うロボットやアンドロイドのようなもので多岐に渡った。
それを公に称賛された時代は江戸時代と共に終わりを告げた。その後は上流階級の娯楽として密かに楽しまれて来たが、地龍組織としては『夜』を利用した術などは悉く禁術指定されてきた経過があり、必然的に非合法となった。今では人形師たちのかつての作品などはすべて禁術の類であり、新しい人形を作る事は出来なくなっていた。それでも、人形師の里では今でもより優れた人形を作る事を唯一の目的として、秘かに人形制作が行われているという噂だった。
「特に、現当主である奏雲は歴代の中でも群を抜いて才能があると言われている。表には出ないが多くの作品を生み出したと言う。」
「人形師の里は長老会の庇護を受けてやりたい放題やったさかい、今までは手を出されへんかった。」
「けど、長老会が瓦解した今、ようやく闇の里にメスを入れられるって訳だ。」
「奏雲は弟子も多くその才や作品において評価も高いですが、既に高齢です。おそらく自身の名を歴史に残すに相応しい、人生の集大成のような作品を求めているでしょうね。鸞鏡、ならば相応しい、という事ですか?」
「良い餌だろう?」
恭が笑いもせずに言うが、幸衡は微妙な間を持って訊いた。
「しかし、その餌で何を…。まさか人形師達が人形を作るために『夜』を狩る所に颯爽と現れて『夜』を助ける事で『夜』から感謝されようなんて幼稚な発想ではありませんよね?」
好きな子に良い所見せたいがために仕込みのチンピラに絡まれている所へ助けに入るという古典的演出をする陳腐な男のような、心底くだらない作戦だった。
「鸞鳥などといういるかいないかも分からぬ『夜』を手にいれるには大規模な隊編成が必要だろうな?」
「餌が餌だけに大袈裟な事態になるでしょうね。」
「『夜』を虐げる旧体制の地龍を、新体制の地龍が斬る。という分かり易い構図を見せつけるには、茶番くらいが丁度良かろう?」
恭の馬鹿馬鹿しい策に幸衡が肩をすくめると、重盛が面白そうに付け加えた。
「人形師共と『夜』の反乱の両方がいっぺんに片付く一挙両得の算段やな。あとは光胤に頑張って貰おうか。」
重盛から放置された事と、奏雲の執拗な説得の所為で、人形を修理するか否か答えを出すまで人形師の里で過ごす事を余儀なくされた光胤は、不気味な人形の箱と一緒に眠る事になった。
重盛が餌、と言った以上は光胤の返答を待つ事なく奏雲が何らかの動きに出る事を想定しているはずだ。光胤は布団に入ってからもしばらく考えていた。おそらく奏雲は、鸞鏡を作りたいのだ。人形を見る目が普通ではなかった。欲望がありありと映っていた。だとすれば、必要不可欠な部品である鸞鳥を探すのではないか。もちろん光胤は訊かれても蘭の事を言うつもりはない。けれど、光胤が深夜サービスエリアで揺らぎ討伐をした事など調べればすぐに分かるし、その周辺の捜索も容易い。蘭の事が気になった。
蘭を人形の部品などにする訳にはいかない。今すぐにでも助けに行きたかった。けれど、おそらく光胤は人形師たちに監視されている。今動けば相手の思う壺だ。となれば光胤がやるべき事は監視された環境で逆に監視する事だ。
上等だ。二重スパイは十八番なのだから。光胤は羽を見ながら頷いた。
必ず、守ってみせる。
ようやく考えがまとまり始めた時だった。光胤の携帯端末が鳴った。重盛からの指示を期待したが、出ると千之助だった。
「よう、千。どうした?」
「どうしたじゃない。大丈夫か?」
「何が?」
「光、お前その仕事一日で済むからって、今夜約束したろ?連絡が無いから何かあったんじゃないかと思って。もしかしてただ忘れてただけか?」
そう言えば人形の件は、人形師に人形を見せて終わる仕事だと思っていたため、まさか泊まり込みになるとは想定していなかった。そのため夜には千之助と飲む約束をしてしまっていた。完全に失念していた。
「わり、忘れてた。まだ人形師の里だ。ちょい事情が変わってな。」
「そっか。仕事じゃ仕方ない。」
何事もなさそうな光胤に本当に安心した様子の千之助の声音に、光胤は笑った。
「心配し過ぎだよ、俺様を誰だと思ってんだよ。」
「光が強いのは分かってるが、三年前みたいな事もある。」
三年前の戦で光胤は維隆から受けた刀傷と解毒のために行った祓いの術で、自身で想定していたよりはるかに深いダメージを負った。暫くは復帰出来ず、千之助には随分と心配をかけた。
「あんな事滅多にねぇよ。俺様は誰かとは違って痛ぇのは大っ嫌いだかんな。怪我したくねぇから危なくなったらさっさと逃げるよ。」
誰かが晋である事は明白だった。恭のために簡単に身を擲つ晋の在り方は間違っている。けれど今の晋にそれを言う事は出来ない。ぎりぎりのバランスで何とか自己を保っている晋の断崖絶壁のような足場を崩すような事は決して言えない。
「それなら良いが。家族もいるんだし、軽はずみな事はするなよ。」
廃嫡とは言え家族は消えてなくなったりしない。光胤には両親も弟もいる。光胤に何かあればまず家族が悲しむのだ。千之助が言う事はもっともだった。前衛には命をかけて戦うという理念のようなものがあるが、後衛や千之助のような裏方の術者はそれを快く思わない。当然だ、仲間が命懸けで戦うなど気持ちの良いものではない。
「へいへい。分かってるって。俺様もいい加減いい大人だからな。」
「いい大人は光みたいに甘いものばっかり食わねぇよ。」
千之助はいつものように愛ある突っ込みを入れて電話を切った。光胤は肩で笑うと、布団に仰向けになり天井を見つめた。
家族。
そう言えば蘭は、母を地龍に殺され、父は怒りに燃えていると言っていた。蘭が鸞鳥ならば、殺された母親というのは人形の中身だろうか。
光胤は心がざわざわとして人形の箱を見た。
人形はまだ、生きている。それは即ち核である鸞鳥が生きているという事だ。もし、蘭の母親ならば…
「返す…?」
蘭の元に、母親を返してやりたい。
光胤は心臓が高鳴るのを感じた。
千之助が電話を切ると、向いに座っていた春家が既に缶ビールを飲みながら首を傾げた。
「光、何だって?」
「仕事が終わらないそうです。」
携帯端末を仕舞いながら春家を見ると、千之助に向かって缶ビールを差し出していた。
「んじゃ今日は俺達だけでやりますか。ほら。」
春家に無理矢理に渡された缶ビールで乾杯をすると、千之助は一口だけ飲んで溜息をついた。
「何だよ?光がいねぇとそんなに元気出ねぇのかよ?」
「いえ、そういう訳では…その、俺が春家さんと一緒に飲んでるのが、未だに慣れないだけで…。」
「何それ、俺の事嫌いだったのかよ、千之!酷い、傷付いたぞ、俺は。傷付いたから今夜は飲みまくってやる!」
「いやいや、始めからそのつもりじゃないですか。」
千之助が溜らず突っ込みを入れると、春家は嬉しそうに笑っていた。
吉池千之助にとって北条春家という男は一生口をきく事のない存在だと思っていた。春家は北条家の嫡子で、いずれは北条家当主となる人だ。北条は地龍を動かす大きな勢力のひとつで、地龍内ではトップクラスの家だ。そんな身分の高い御人と顔を突き合わせて酒を酌み交わすなど、千之助にとっては悪い夢でしか無かった。
それもこれも古い悪友である平光胤の所為なのだが。光胤が京都のどこかで偶然知り合い意気投合した所為で、友達の友達は友達的な輪に強引に組み込まれたのだ。いくら公私を分けても、位が違い過ぎる、住む世界が違うのだ。緊張しすぎて酒の味がしない。
「その、春家さんこそ、俺と二人じゃ物足りないでしょう。俺は光みたいに突拍子もない発想力もないし、至って普通です。しかも前衛の武士じゃないから話も、その合わないでしょうし。退屈させてしまいます。」
「あっはっは!千之!何おもしろい事言ってんだ!」
「笑う所ではありません!」
既に酔っ払っているのか春家の爆笑は意味不明だ。
「俺みたいな下の下の身分の者にとっては春家さんみたいな人は毒です。もう緊張しすぎて飲むしかありません。飲み過ぎて記憶を失って、記憶操作術者として失格の烙印を頂戴するしかありません。」
千之助が一気にあおると、春家は手を叩いて盛り上がっていた。そんな過剰な程に陽気な春家を見ていると、初対面の時を思い出す。光胤が面白い奴がいるからと言って連れて来た時は心臓が口から飛び出すかと思った。しかし春家はその身分に反して気さくでよく笑う人だった。成程光胤が「面白い奴」と言うだけの事はある、人としては良いのだろうと納得した。それでも、北条家嫡子の看板は千之助にとって丸腰で獅子を前にしているような状態だった。
「千之〜、冷てぇな。敬語はやめろって言っただろ。」
「無理です。絶対無理です。」
「何だよ、じゃあ俺が命令すればきくのか?」
「馬鹿言わないで下さい。そんな意味不明な命令をする上司は部下から信頼されませんよ。」
「あっはっは!面白い!やっぱ面白いなぁ千之は!」
何が面白いのか笑う春家は、千之助にとってはもう意味不明な異星人でしかない。それでも機嫌が良さそうなので少し安心した。
しばらくそうして春家の意味不明な陽気な会話に相槌を打っていると、時計のアラームが鳴った。見ると丁度十二時だった。
「すみません、昨日夜勤だったので止めるの忘れてました。」
慌ててアラームを止めると、春家が少し息をついて訊いた。
「なぁ、光って昔からああなの?」
「え?ああ…と言うのは、どういう意味でしょうか。俺の知る限り光は昔から変わってませんよ。良くも悪くも初志貫徹なんです。」
「すげぇよな。俺の友達もさ、子供の頃に決めた事、ずっと守って生きてたんだ。死ぬまで貫き通したんだ。光見てるとさ、そいつの事何となく思い出すんだわ。」
「春家さん…。光はね、ただの馬鹿なんです。本当に皆幸せになって欲しいって思ってるんです。そんな八方丸く収まる都合の良い方法がある訳がないのに。綺麗事だけじゃやっていけないって事は本人が一番よく分かっています。汚れ仕事も多くやって来ましたからね。当然のように周囲からは否定されて来ました。本人は廃嫡の身でしょう?その劣等感もあるのかなぁ、否定されると余計にムキになるんです。認められたい、認めさせてみせるって。本当に馬鹿でしょう?でもただの馬鹿じゃない。愛おしい馬鹿です。だから重盛様も光を使うんじゃないでしょうか。」
いつしか緊張も忘れて語ってしまった千之助がはっとしたが、春家は優しい微笑みで千之助を見ていた。
「分かるなぁ、それ。光ってば俺に、『お前偉いんだったら早く皆幸せにしてくれよ』って大真面目に言って来るんだ。度肝抜かれたわぁ。地位に胡坐かいてるつもりは無かったよ?でも目が覚めた。」
「俺もです。…記憶操作に長けた術者って、昔は今よりもっと相手にされてませんでした。揺らぎの討伐方法が殺す事のみだった所為で関係者の記憶を消すなんて必要ありませんでしたから、俺みたいな術者は不要の長物でした。けど、光は目を輝かせて言ったんです。『お前みたいな奴を探してた。』って。あれは本当に嬉しかった。」
千之助のような裏方で、しかも記憶操作などと言う能力は、一世代前には通用しないものだった。それが、地龍の当主が貴也を経て恭となり徐々に変わっていた。特にここ三年は目を見張る程に大きく変わった。記憶操作の術者となった若かりし頃は、まさか自分が役職を得る事になるなど思いもよらなかったのだ。時代は変化している。けれどずっと昔から千之助の足元を照らしてくれるのは光胤という、どうしようもなく甘い友の存在だった。
「光は良い友を持ったな。」
「ええ、本当に。でも春家さん、本人に言ってはいけませんよ。光は調子に乗り易いんですから。」
「あっはっは!やっぱ千之は面白いなぁ!」
再び爆笑する春家を見ながら、千之助は二本目の缶に手をかけた。
「春家さんはヘンテコな人です。」
北条の看板を背負っていながら全く気負いも威圧もない自然体の春家は、千之助が知る上流階級のイメージとは全然違っていた。光胤が認めた男。きっと同じ甘い夢をみる事が出来ると思ったからこそ、千之助に会わせたのだろう。
「ヘンテコサイコー!」
本格的に酔って来た春家が輪をかけて一人で意味不明な盛り上がりを見せていた。千之助はただ笑うしかなかった。それでも夜が更けるにつれて楽しくなって来るから不思議だ。千之助は、光胤も一緒だったらもっと楽しかっただろうにと思いながら笑った。
光胤がそうして良く寝れもしないままで翌日になってみると、人形師の館は昨日よりも静かだった。昨日は工房らしく何かを打ち付ける音が響き、何をしているのか分からない作業が散見された。しかし、時間帯のせいなのか今はそれらの気配がない。
疑問に思いながらも光胤は出された朝食を、前日の夕食と同じ様に毒でも盛られているのではないかと警戒しながら食べ、監視の目に気付かぬふりをして散歩に出かけた。
光胤が里を見渡すと、山に囲まれ田畑が広がり、民家は殆どない。本当に人形師のための隠れ里なのだと知った。ここならば、何をしていても不審に思う者もいないし邪魔も入らない。都合の良い工房だ。それを確認しただけで寒気がした。長老会の庇護下で隠れて何百年も、こんな辺鄙な里で怪しい術の研究を続けて来たのだろうか。何のために?ただ人形師として研鑽のため、ただ最高の人形をつくるため、それだけのために?
「そりゃカルト教団だな。」
気持ちの悪い人形師、その思想、それを支えてきた空間、すべてに反吐が出る程嫌気がさした。
深呼吸をすると、都会では味わえない新鮮な空気に少し爽快感を覚えた。そして昨日は気が付かなったが、里は不思議な静寂につつまれていた。閉鎖された空気感が占めており、生きものの気配がない。自然に囲まれた時に特に感じる、空気中を漂う生命の息吹や、山のエネルギーが全く感じられない。
「死んでる?」
呟いて景色を眺めていると、目の前の田んぼの畦に農作業をしていたらしい姿の老人が言った。
「眠っているんです。」
光胤が老人を見ると、老人は先に光胤の眺めていた山を仰いだ。
「大昔に、人間があの山の神様の妻を殺してしまった。山神様は悲しみの末深い眠りについてしまったという。」
「ふ〜ん。それってこの村に伝わる伝承か何か?」
「ええ、ですがただの御伽噺ではありません。あの山には四季がないのです。花は咲かず、芽吹かず、枯れず、時を止めたまま、ずっとあのままです。」
光胤が老人の声を聞きながら山を見た。山は丁度光胤が蘭と会った辺りだ。サービスエリアは山の反対側の方角にある、おそらく繋がっている地形だろうと思われた。
「そりゃ珍妙な。」
「山神様のお怒りでしょう、あの山の恵みにより生かされていたこの村では作物がならないのです。」
「え?じゃあ、じいさん何してんの?」
「私は大昔より人形師様に仕える下働きです。時折こうして田畑を見て回っております。」
ただそれだけで、何も意味などないのだと言う老人に、光胤は適当に相槌を打ってから、ふと訊いてみた。
「そうなんだ。なぁ、この里って、何がしたいの?」
「…山が眠り、時を止めたのは自然だけではありません。ここはすべてが停滞しているのです。ただ繰り返すだけです、あらかじめあった以上のものはありません。」
老人の言葉もまた時を止めたようにぼんやりとした思考の歌のようだ。
「そう…そうなのかもな。」
何百年も人形を作る事だけに邁進してきたこの村は異常だ。時を経て意味や意義が変化しない、生き方や在り方が歪まない、始めのままの姿で在るなんて事はあり得ない。そんなのはデタラメだ。
「なぁ、山の神様ってどこにいるのか知ってる?」
「神様ですか?生憎神様を見た事はありませんので…しかし、そうですね。あの山の頂上に小さな祠があるときいたことがあります。もしかすれば、それがかつて山神様のお住まいだった場所、なのかも知れませんね。」
光胤は眠る山の頂上を睨んだ。
「母は殺され、父は怒り、か。」
光胤は蘭の言葉を思い出した。
「じいさん、さんきゅう。」
礼だけを告げ、一瞥もせずにその場を後にすると、監視の気配も付いて来た。
その監視の気配に気付かないふりをして思考を続けた。
もし、蘭が鸞鳥ならば、地龍に殺されたという母は鸞鏡の核で、怒りに燃えているという父は山の神なのかも知れない。山の神は怒り土地を眠らせた。それによりこの里に四季がない。作物がならないだけでなく、そこで暮らすものの時まで眠らせてしまった。故に人形師たちはひたすらに人形を作り続けるだけの組織なのではないか。それが山神の復讐だろうか。
「俺なら皆殺すだろうな…。」
こんな奇妙な空間をつくるより簡単で分かり易い復讐だ。
光胤は蘭の声を聴いた気がした。あの可愛らしい声、弱くて、清い音色。無償に甘い香りが恋しくなり羽を見た。美しい羽の放つ馨しい香り。その甘い香りが光胤をくすぐる。
いままでの光胤は重盛の命令ならばどれだけでも頑張れたし、これからだって同じ。
どこまでも認められたいし、褒められたい。
欲求に底はないし、根本的な望みは変わらない。
けれど明らかに三年前とは違う。光胤には重盛がいるし、宗季が、千之助が、春家が、他にも多くの信頼できる存在がある。
その事に気が付いたのだ、維隆を失って初めて光胤は客観的に自分を見た。必死になって全てを擲って戦わなければならない程光胤は空っぽではないと。認められたい、褒められたい、愛されたい。けれど同じだけのものを他者に与えたい。それこそが光胤の思う甘い世界の在り方だ。自分が欲しいだけの甘さで、相手に向かって行きたい。それを循環させたい。思い切り甘い夢を抱いて生きて行ってやる。
勝手に決意したそれらの事を彷彿とさせる甘い香りだった。
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