3 蘭麝の事
地龍という組織が守る二つの世界のバランス。
その二つである『昼』と『夜』。
三年前の戦より地龍という組織の内側が揺らぎ、それに呼応するように『昼』『夜』のバランスもガタついた。特に『夜』は大いに揺らいでいた。
「『夜』が『昼』を飲み込み永久の常闇を手にしようという噂がある。」
恭が単刀直入に責めるような言葉をぶつけた。相手は実質的な『夜』の代表者と言われている存在だった。
『まさか。常闇などと愚かなこと。我等の中には【昼】に寄生しなければ生きられない者や、【昼】を食べなければ生きられない者もおります。そもそも【昼】より生まれる者も少なくないのです。【昼】を飲み込んでしまうなど自殺行為。【昼】は生かさず殺さず、家畜というやつですよ。』
『夜』には『昼』のように法律で統治されたひとつの社会がある訳ではなかった。それぞれに風や空気が漂うように在るのでもあり、野分や辻風のように起こるのでもある。一部が寄り合う小さなコミュニティーがいくつもあり、そしてそれらを束ねるコミュニティーがあるのだ。強い者は群れず気ままに、地龍と契約し働く者や、『昼』にまぎれ生きる者、山で生まれ崇められる者や、建物の影を転々とする者、あらゆる者が粒子のように漂っていて、あらゆる者が荒ぶるように沸き上がるのだ。その中の一番大きなコミュニティーの長となっている『夜』が、『昼』で言う謂わば総理大臣のような立場となり地龍との窓口となっていた。
「我等が守るは『昼』『夜』のバランスのみ。そちらの理由がどうあれ我等がバランスを揺るがすと判断すれば、斬るに足る。」
『そのような乱暴な…。知らぬが故に安穏と生きる【昼】とは違い我等【夜】は地龍という組織を認識しております。地龍の者に会えば斬られるのではないかと怯えて生きる者も多い。そのように圧力をかけられては益々…』
『昼』は殆どの場合『夜』を見る事が出来ない。故に地龍や『夜』の存在を知るのは国の上層部や特別な霊能者などだけで、他の大多数が何もしらないままで生きている。しかし『夜』はまるで逆だ。すべてを目視出来るし、『昼』との境界に地龍という組織が門番のように立っている事を知っている。その境界に触れれば殺されるという事も。実際に多くが殺され、『夜』側は地龍を恐れながら恨んでいる場合が多い。
「何か勘違いしていないか?」
『は?』
「我等は今たまたま、揺らぎが起きてから対応する方法でバランスを整えようとしている。しかし、本来方法はいくらでもある。『昼』『夜』の双方を地龍で統治し揺らぎが一切起こらない社会を構築する事とて困難ではないのだ。」
『な…何をおっしゃるのですか。』
恭の言葉は地龍の圧倒的な武力と組織力を背景としているだけに、全くの嘘とは言えない発言だった。
「事実しか言っていないが。恐怖政治だろうが武力制圧だろうが、我等の目的を果たせるのならば問題はないのだ。我等が守っているのは民ではない、枠組みだけの事なのだから。」
バランスを整える事だけが、唯一の目的であり存在理由だと言い続けてきた恭の揺るがない眼差しが「やる気になればやる」と物語っていた。
『…脅し、ですか?』
「脅し?脅しというのは歴然たる力関係の差が無ければ成立しない。貴公が脅しと受け止めるならば、それは地龍と『夜』の力の差だ。」
恭の脅迫に、ようやく『夜』の代表は諦めたように息をついた。
『…元より我は【昼】に侵攻するなど不可能と言って来ました。しかし、地龍は先の戦により隙がある様子。そもそも地龍はその特別な力を除けば【昼】と同じ人間の体故、バランスの揺らぎに対する処置も、【昼】に寛容であるように見受けられる。我等異形を心も魂もない化け物だと思えば斬る事に一切の呵責などありますまい。地龍に対する遺恨ある者も多く、この隙を突き地龍に報復をと企む者は少なくないようです。そしてその機に乗じて【昼】へ侵攻しようと思う者も。』
「そこまで分かっていて手をこまねいているのは、それが貴公の願望でもあるという事か?」
『めっそうもない。我がコミュニティーで起こった決起はすべて我が治めたのです。ただ、その外で起こる事については聞き及ぶだけで…口を出す権利も無ければ力もない。それに、そのような反乱は地龍にしてみれば蚊に刺されるようなものでしょう?』
恭の脅迫を逆手に最後には厭味をぶつけてくる位には自尊心を傷つけられたらしい代表者は、恭の反応を待った。恭は既に話す事はないとばかりに立ちあがると、見下すように見下ろして捨て台詞とも取れる言葉を放った。
「では、皆殺しにされても文句はあるまい。」
独白のような言い方が、本気で全てを造作もなく殺すのだと思われて戦慄した。呼びとめる事も、何か返す事も出来ずに、その静かな怒りを纏った背を見送るしかなかった。
「お見事。」
『夜』の代表者との話も済み、帰路を行く恭の斜め後ろから幸衡が満足そうに言った。
「否、もう少し腹を探れたろう。あの程度の厭味で腹が立つとは情けない。」
「血の気のない将がいようか?結構な事だ。それに抑止力としては十分な程に釘をさせただろう。これでヤツの関わる範囲内で事が起こる事はあるまい。それに、皆殺しの許可を取った事にもなる。」
不遜に物騒な事を言う幸衡を恭が一瞥した。
「まさか。仮にそうだとしても、俺はそれが解決だとは思わない。」
「と、言うと?」
「まぁ見ていろ。どうせ当主をやるなら俺の好きにさせて貰うさ。」
幸衡はただ無言で頷いた。恭には恭のビジョンがあり、幸衡はそれを手伝いながら地位を得る事が目的なのだ。反論など不要だった。
真夏とは言え山の夜は随分と涼しかった。光胤はTシャツの上に羽織った反袖のシャツの袖を心許なく思った。長袖か、せめて七分にすれば良かったと思ったが、昼間になれば袖すら煩わしい程の暑さをくらう事になる。それでも海無し県の夏の湿度は、例えば鎌倉の肌に貼りつくような暑さとは違い爽やかだったので幾分体も楽なのだが。
深夜の小さなサービスエリアは閑散としていて、闇の中にぽつんと佇む光が不気味だった。車を停めて近付いて行くと、何台かのバイクが停まっていて静かな割に人がいるようだと思った。
小さなコンビニと汚ないトイレしかないサービスエリアは普段から寄る人が少ないらしく、品揃えも決して良くはなかった。いつもなら甘いものを買い込む所だったが、あまり目ぼしいものも無いので水を買って外に出ると、バイク集団の声と思しき男達の騒ぐ音が聞こえた。品のないマシンだと思ったが、やはり持ち主に品性の欠片もないらしいと思いながら光胤は水を一口飲んだ。
その時、目の前に涼しい風に乗ってキラキラと何かが舞って来た。不意に掴むと、それは鳥の羽だった。
「良い匂い。」
甘い香りがした。光胤はそれが良い匂いだと思ったが、同時に『夜』の匂いだとも理解した。山奥で深夜、というシチュエーションだ。『夜』がいてもおかしくはない。むしろ『夜』のテリトリーだろう。そう思いながら風の吹いて来た方を見ると、駐車場の端の殆ど山の斜面の様な場所に人だかりがあった。バイク乗り達だという事は一目瞭然だった。匂いはその人だかりの中からするような気がした。
「おい。」
光胤の声に男たちは驚いて振り返ったが、光胤の容姿を見ると無視をした。
光胤は今年三十になるそこそこ良い歳の大人だったが、外見は童顔で背も小さく高校生が良い所だった。完全に舐められていたが、それもいつもの事なので特に気に留めなかった。
男たちの隙間から匂いの正体を見ようと覗くと、そこには子鹿…のような耳が見えた。光胤は手の中の羽を見て首を傾げた。完全に鳥型の『夜』だと思ったのに。そして男達はそれを珍しそうに取り囲んでいるようだった。
「おい、よせ。」
強引に割って入ると、それは鹿耳をもった人間の子供のように見えた。容姿の不思議さに驚いて凝視すると、尻尾と思しき部分があり、それは羽の集合体だった。光胤はやはり匂いと羽の正体はこの『夜』だったと確信した。それと同時にその『夜』が弱っているように見えた。
「お前等、こいつに何かしたか?」
光胤の言葉に、男の中の一人が言った。
「うるせぇな、お前なんだよ。関係ねぇだろ。」
「関係?寧ろこの場合関係ねぇのお前等じゃね?」
『昼』側からの『夜』への干渉は御法度だ。
「何言ってやがる…俺達はそれをどうするかって…。」
「どうする?どうするってどういう意味だよ?」
「だから、ひき逃げで捕まらないように…。」
「馬鹿、余計な事言ってんじゃねぇよ。」
「でも、これ何なんだよ?」
「何でも良いんだよ、とにかく埋めちまえよ。黙らせれば問題ねぇだろ。」
男たちは光胤を無視して再びもめ始めた。どうやらバイクで轢いたと思ったものが『夜』だったという事らしかった。
「お前等、最低だな。助ける気がねぇなら帰れよ。」
光胤が軽蔑を露わにすると、男たちは目を合わせてから光胤に向かって来た。
「助けるって、病院とか警察とかって事だろ!そんな事されたら困るんだよ!」
「この際、一人も二人も同じだ!」
「畜生っついてねぇっ。アンタに恨みはねぇが、その気味の悪いガキと一緒にあの世に行ってくれ!」
男たちが束になって襲って来たが、『逢魔の血』である光胤の動体視力をしては静止しているのと大差はなかった。簡単に避けながら、『夜』を見ると怯えたように尻尾(羽?)を逆立たせて男たちを睨んでいた。そしてその目が一瞬輝いたように見えた。何かの力を使用しようとしている目だと直感的に思った。
「駄目だ、やめろ。」
光胤が叫び男たちを蹴り飛ばし距離を離すと、『夜』の肩を掴んだ。
「何しようとしてんのか分かんねぇけど、その体じゃ無茶だ。」
光胤の目を真っ直ぐに見つめ返す目は描いたような団栗眼で愛らしい見た目だと思った。
そんな二人の後ろで蹴られた男たちが、もう手が付けられない程に目の色を変えて光胤をロックオンしていた。
「あ〜あ、こんな時間に、こんな場所に、処理班呼ぶと、ま〜た俺様が小言言われんだよな〜。でもま、お仕事お仕事。」
光胤は仕方が無さそうに刀を抜いた。男たちは今まで光胤の腰に括り付けられていた刀の存在に全く気がつかなかったため、一瞬たじろいだが、何かの冗談だと思ったのかすぐに立ち向かって来た。しかしその一歩を踏み出す所で意識は途切れたのだった。
光胤は倒れた男たちを雑に引きずって一ヶ所に固めると処理班に連絡を済ませてから『夜』を見た。
「大丈夫?」
『地龍…?』
見た目通りの透き通る可愛らしい声だった。光胤を見る目が明らかな恐怖だったが、それに気が付かないのか光胤は目線を合わせるようにしゃがんだ。
「そう。怪我は?っつっても俺様は医療系の術者じゃねぇから治してやれねぇんだけど。歩ける?」
『地龍が…どうして私を助けるの?』
「どうして?どうしてって、今のは明らかにあいつ等が悪いだろ。それより、どっか痛いとこねぇか?」
『…変…なの。地龍は【夜】を殺す。違うの?』
「違う。地龍は『昼』と『夜』のバランスを守る。別にどっちかの味方じゃない。今のは『昼』が悪い。だからお前を助けた。それだけ。」
『…よく、分からない。でも、ありがとう。』
『夜』は光胤の言葉を咀嚼するように暫く考えてからお礼を言った。光胤は少し笑ってから羽を差し出した。キラキラと不思議な光を湛えた良い香りの羽を。
「いいえ、どういたしまして。あ、これ、お前のだろ?」
『…あげる。』
「え?」
『お礼。』
小さな手で光胤の羽を握る手を押し戻す『夜』は小さな種類なのか、単純に幼いのか、全く判別がつかなかった。
「じゃあ、貰っとく。本当はさ、良い匂いだなって思ったんだ。大事にするな。あ…え〜と、名前、何?俺様は光胤、平光胤って言うんだ。」
『…らん。』
「蘭。綺麗な名前。お前に良く似合うな。」
光胤が褒めると、蘭は嫌だったのか照れているのか顔を伏せて肩を震わせていた。
『足、痛い。送って、みつたね。』
しばらく俯いていた蘭がようやく切れ切れにそう言ったので、光胤は蘭をおぶって山に入った。
道中蘭が途切れ途切れに話した事は、母親が地龍に殺された事や、その所為で父親が地龍への報復に躍起になっているという事だった。光胤は胸が痛んだ。しかし、それと同時に、地龍という組織を認識していながらにして全く理解していない『夜』の実態を見た気がした。
「あのさ、俺様達は確かに『夜』を殺す。でも、例えばさっきの男たちにも、蘭みたいに家族がいて、居なくなったら悲しいんだって事、考えた事ある?」
光胤の言葉に、蘭は戸惑ったようだった。まだ子供かも知れない蘭にこのような事を言うのは大人気ないのかも知れないと思いながら、雑談のつもりで光胤は続けた。
「『昼』と『夜』は一緒に生きていくのは難しい。今回みたいに揉めた時、どっちかがどっちかを傷付けて、それで恨んで報復して、それで恨み返して報復して、そうやって行ったらどっちも生きられなくなる。それをどうにかするために、俺様達は神様と約束して『昼』と『夜』をなるべく分けて、どっちも同じくらいのバランスで在れるようにしてるんだ。本当は話合ってどうにかしたり、決まりを作れば良いと思うけど、『昼』は『夜』が見えないし、『夜』は『昼』みたいに統一された国家を持たない。間に入る俺様達も持ってるものは武力だけ。結局境界で起こる事を斬る事でしか解決出来ないんだ。情けないけどな。」
蘭は初めて触れる光胤の話を、海の向こうのおとぎ話のような目で見ていた。
「蘭の父さんが俺様達を恨むのは当然だ。同じように、さっきの男たちの家族から蘭が恨まれてもおかしくないんだ。」
『え?』
「例えばだよ…死ぬってそういう事だと思う。」
『みつたね、は、それでも殺すの?』
「ああ。そうだな。きっと。でも、俺様は本当は甘いのが大好きなんだ。だから、本当は皆幸せになれば良いのにって思う。」
『らんも、そう思う。』
美しい子鹿に似た耳に、人に似た二足歩行のシルエット、輝く羽をまとめた尾、まんまるの瞳、可愛らしい透き通る声、素直な言葉、蘭は何かの神か精だろうかと思った。
光胤は蘭を無理やり家の近くで下ろした。
「ここからは自分で帰りな。地龍を恨んでる父さんに見つかったら蘭が怒られるだろ。」
『でも、みつたね、助けてくれたのに…。』
「良いんだよ。恨める矛先があった方が良いんだ。だから、今日の事は蘭と俺様の秘密な。」
『…分かった。』
秘密という言葉の甘美に魅かれたのか蘭は少し嬉しそうに頷いて光胤の手を離した。
「じゃあな、気付けろよ。」
光胤が手を振ると、蘭は名残惜しそうに振り返った。
『またね。』
光胤が山を降りると、サービスエリアでは丁度処理班が作業を終えた後だった。
「おう、千!悪いな、夜中に呼び出して。」
光胤が呼びかけながら走って行くと、警察の鑑識のような出で立ちの男が紙ばさみを持ったまま振り返った。
「本当だ。光、お前は毎度毎度予定外の呼び出しをしてくれる。」
男は吉池千之助。現場の証拠隠滅や死体処理・記憶操作などで『昼』から地龍や『夜』の存在を嗅ぎつけられないようにする役割の処理班で主任を務める光胤の友だった。特に千之助は記憶操作能力に長けていた。
「悪い悪い。たまたま出くわしちまってさ。で、どう?」
忙しそうな千之助に本心から謝罪をしたのだが真に受けてはいないようだった。
『夜』はその名の通り夜間に活動を活発化させるものが多く、揺らぎの発生による戦闘とその事後処理は夜間が多い。千之助を始めとする処理班も夜間は常時待機状態にあるため、呼び出しにはかち合わない限り駆けつける。それに光胤と千之助の仲だ、多少混み合っていても融通を利かせて駆け付けるのが当然だった。それも含め感謝はしているのだ、伝わらないが。
「ああ、あの男達か。いつもながら光の見事な峰討ちのおかげで朝まで起きそうにないね。しかし、見たところ奴等は善良とは言い難い。前科もあるし何より先月免許取り消しになっている。」
千之助が駐車してあった男たちのバイクを見ながら言うと、光胤が納得したように頷いた。
「それで慌ててたのか。ま、それでも人を殺してまで守りてぇもんだとは思わねぇけど。」
「俺は殺してしまった方が世のためだと思うがな。こう言う輩は何度でも繰り返すと相場が決まっている。」
溜息をつく千之助に、光胤が悪戯な笑顔を向けた。
「じゃあさ、記憶いじって警察署の前に捨てて来ようぜ。」
「それこそ出過ぎた真似だな。ま、多少改竄を加えた後ここに捨てて帰ろう。朝までに警察が来るように手配しておいてやる。」
「あはは、さすが千!そう来なくちゃ!」
嬉しそうに笑う光胤を、千之助は困った人を見るように見てからポケットから飴を出して渡した。
「光は甘すぎる。揺らぎは干渉したもの全てを消すのが最も明解で最も安全な方法だ。余計な縁を結んで傷付くのは光自身なんだぞ?」
光胤が遠慮なく飴を口に放り込むと、求めていた糖分に脳が満たされていく気がした。
「殺戮は軽い運動程度ってね。」
「…何だそれは。」
「さぁ?」
眉間にしわを寄せる千之助を煙に巻くような笑顔を作った。
光胤は元より甘党を自称し揺らぎの討伐での殺しは好まなかった。それ故に記憶操作を得意とする千之助を重宝するのだ。しかし、千之助から見れば、三年前の戦よりこちらその殺さないスタイルが顕著になったように思われた。話しはしないが、光胤の心にも少なからず傷を残した戦だったのだろうと察した。
処理を千之助に任せて去ろうとする光胤のズボンの後ろポケットから美しい羽が見えた。
「光、それは?」
「ああ、お礼だってさ。良い匂いがすんだ。」
光胤が差し出した羽からは甘い不思議な香りが漂っていた。
「何か…薬臭くないか?」
「はぁ?馬鹿、すげぇ良い匂いだろうが!もういいよ、千には理解できねぇよ。」
同意を得られず首を傾げた光胤に千之助は特に興味も無さそうに言った。
「蘭麝の香り…というやつだろうか?」
「蘭…。」
蘭という言葉に光胤はどきりとした。あの小さくどこか神聖な気配のする生き物は、無事に帰っただろうか。
「麝香はかつて鹿から取った漢方の一種だったらしい。ま、俺は匂いなど興味はない、気を付けて帰れよ。」
千之助は手元の紙ばさみに視線を戻しながら、光胤に素気ない別れを告げた。光胤も黙って手を上げてから車に戻った。
「鹿…。」
しばらく羽を見つめてから光胤は気を取り直して車を出した。
夜明け間近、千之助は再び呼び出しを受けた。その場所が思いもよらず近場だったので部下を何人か手配して直ぐに向かった。深夜に管轄エリア、と言ってもあってないようなものなので縄張り争いなどは存在しないが、そのエリアの外まで呼び出された事も、別の仕事のおまけだと思えばストレスが軽減されるというものだ。
現場に着くと、矢集晋が駆け寄って来た。いつ見ても細長いシルエットだが、以前より少し不健康に思えて心配になった。
「よう、久しぶり。ちゃんと食べてるのか?」
紙ばさみを手にボールペンの先で千之助が晋の方を指すと、眉を下げて笑う顔が無邪気に慕ってくる可愛い後輩だった。
「はい、食ってます。でもその分動いてますよ。健康第一ですよ。」
きっと体ではなく精神的な何かが、不健康に見せるのだろうが、言えなかった。
「千さん、いつもすいません。」
晋が申し訳なさそうに頭を下げたが、その絵面が完全におかしかった。チンピラかホストもしくはパンクロックの人にしか見えない晋が、鑑識の冴え無い男にしか見えない千之助に頭を下げる図は、もはや全く意味の分からない状態だ。客観的に見て居心地が悪いので、見た目の割に礼儀正しい晋の低姿勢はあまり好きにはなれなかった。
「いやいや、俺の仕事だから。気にしないで。それに丁度近くにいたんだ。」
戦闘要員の術者は揺らぎの討伐が終わると、すぐに処理班を呼んで立ち去ってしまう事が多い。こうして処理班を待っていて礼などを言う者は少なく、非常に好意的に思うのだが、それでも絵面が悪いので気持ちだけ貰っておきたかった。
「そうなんですか。」
千之助は何の縁か、光胤と同じ様に晋の現場処理も多い。きっと何かのサイクルが丁度合うだけなのだろうが。
手慣れた要領で死体を見ると、いつもながら見事な太刀筋を窺わせた。一撃必殺、無駄の無い殺し方だ。同僚は皆一様に殺し慣れているという感想を恐怖や軽蔑を含ませて言うが、千之助はむしろ故人は痛みは去る事ながら死の恐怖すら感じる事なく瞬きをするように人生を終えたのだろうと思う。
「似てるな…。」
このような死体を見るといつも、似ていると思う。
光胤の選ぶ生かす事と、晋の選ぶ殺す事は、生と死という絶対的な差を持ちながらも根底ではよく似たものなのだと思わないではいられないのだ。
「何が似てるんですか?」
訊き返されたが、晋と光胤の不仲は聞き及んでいたのでそれ以上の言及は控え話題を変えた。
「そう言えば、畠山重忠様の肝入りだと聴いたぞ。」
「はぇっ?」
晋の返事が裏返ってよく分からない事になっていたが千之助は少し笑って続けた。
「かなり気に入られて、養子になれとまで言われたとか。」
「…噂って恐いですね。」
晋は恭の命令で全国を歩いている三年間、各地の有力者との関わりが多くあった。その中の畠山重忠という男は地龍の中でも有名な男だ。武士としての魂、男としての生き様、人としての志、全てにおいてまっすぐに筋の通った人柄を持ち、広い範囲を治める有力者であり、そして何より転生組だ。あらゆる方面で各所にパイプを持ち頼りになる人物である事は間違いなく、恭の意向で『龍の爪』のメンバーとなって貰うために畠山重忠の元を訪ねたのは二年程前の事だった。その御人が晋をいたく気に入ったという話は、瞬く間に全国に広まっていた。晋にとってはその話自体が有難迷惑のようなもので思い出したくはないのだが、たまに会う知人は皆それに触れいじりたおしたがるのだ。
「いっそ何も考えずに誘いを受けて、その曰く付きの家名など手放してしまえば生き易いんじゃないか?」
ただ晋をからかいたいのではなく、真面目にそう思っている様子の千之助に、晋は複雑な表情をした。
「そう単純じゃないですよ。」
千之助から見ても三年前の戦よりこちら晋の様子は沈んでいた。元々負の割合が多く思えたが、今は胸が痛むような悲しい『波形』をしている気がした。失踪したの、死んだの、実は生きていたの、当主殺しだの、とにかく悪い話しか聴かなかった父親でも、その手で殺したとなれば負う傷もあるのだろう。それこそ「単純じゃない」のだろう。
千之助は悪い事を言った気になり、ポケットから飴を出して晋に差し出した。晋は訝しげに受け取り、そうっと口に放り込んだ。晋とは不仲な光胤用に持参している飴だという事は黙っていようと思った。
「それにしても、千さんがこの近くにいたなんて珍しいですね。」
千之助の基本エリアは京都を中心に近畿地方が主だった。もしくは友達直結ラインで光胤専属という裏メニューがある。
「深夜に光に呼び出されたんだよ。」
お決まりの裏メニューの行使には然程の衝撃は受けず、晋はただ自分の心配をしていた。
「え?やべ〜また帰り一緒だったらどうしよう。」
度々乗り物で一緒になるという晋が心底嫌がっていた。
「いや、それは心配いらない。今回は車だ。」
深夜呼ばれたのはサービスエリアだった。光胤が今回公共交通機関を使用する可能性は極めて低い、おそらく晋にとっては朗報だろう。
「へ〜、珍しいですね。」
「大きな荷物を運ぶのに仕方無かったらしい。」
「荷物?」
「確か、人形師に人形を届けに行くとか?」
「何すかそれ。逆じゃないですか?」
確かに、人形師は人形を出荷する方で、受け取る方ではないような…。晋の疑問が感染して千之助も首をかしげた。
「…そう言えば変か?じゃあ俺の記憶違いか。」
「いや、それは無いですって。」
記憶操作に長けた術者の素養として一般的に言われているのは、記憶力が良いという事だった。故に記憶操作能力では右に出るもの無しと言われる千之助の記憶力は並ではないのだ。
「かいかぶりだよ。」
それはただの迷信だと言う千之助を見ながら、晋は義将の記憶力ならば素質有なのではないかと気付いた。けれど義将は前衛型の戦闘要員だ。記憶操作など酔狂な趣味でもない限り会得する事はあり得ないと思い、宝の持ち腐れだと結論付けた。
「上手くいかないっすね。」
「何が?」
晋の脳内で行われた何かの感想に、思わずつっこんでしまったが、当然の事ながら晋からは返答が得られなかった。
「ここはもういいよ。待っててくれてありがとな。早く帰って休め。」
千之助が晋の背を叩くと、晋はそれに押されるように歩きながら笑った。
「ありがとうございます。久々に千さんの顔見れて嬉しかったです。じゃ、お先です。」
黎明の影に溶けるように姿を消した晋の残像を見送りながら、千之助は蘭麝の香りを思い出した。甘い、静寂に包まれた宵闇の香りを。
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