2 恋詫の事
旅の始まりは最悪だった。
傲慢と私腹を肥やした醜い肉体を恥ずかし気もなく曝しながら臭い息を吐く中年の男は、忌々しげに残飯を見るような態度で吐き捨てるように言った。
「何が名代だ。お前は地龍に綽なした矢集の末裔だろう?罪人の血が流れた汚らわしい身で我が地に足を踏み入れるとは、何たる屈辱。しかも自分の父親を殺した事を誇らしげにするなど、最低な人間の屑が。そのような者を寄こすなど地龍殿は何をお考えか。我を怒らせたいだけではないか?それとも馬鹿にしておいでか?」
口腔内まで肥満なのかイチイチ聞き取りにくく唾を飛ばしながら罵倒する顔は、ガマガエルがないているようにしか見えなかった。
「何とか言ったらどうだ、なぁ?」
いっそこの金と権力に執着するだけの亡者のぶくぶくに太った腹を掻っ捌いて民衆に分けてやった方が世のためなのではないかと思った。短絡的に殺しを選択してしまう思考回路をジョークだと自分に言い聞かせてから、眠りがちな理性を強引に揺さぶり起こしたが、元々大して働いていなかったためか提示してくる選択肢が笑って誤魔化すしかなかった。仕方ないので出来る限り最良の笑顔をつくってみた。
「俺、笑うの下手?」
蕎麦を啜りながら晋が何気なく問うと、驚いたように義将が目を見開いた。
「え?何言ってんの?」
「いや、何か笑う度に引いて行くんだよね。寂しいよね。」
義将はこの三年ですくすくと育った。長身の晋程とは言わないまでも随分と背も伸び、今では立派な青年の外見をしていた。幼い人好きのする顔立ちはおもかげを残しながらも、男らしい頼もしい顔つきになり、会う度に少し驚いた。
「あ〜…あれでしょ、凶悪なやつ。」
義将が答えながら蕎麦茶を飲んだ。
折角鎌倉に帰って来たのだがら、と言って晋と義将は久々に会う事にした。義将のように若い新人はとにかく経験を積むのが一番だという直嗣の主義で日々忙しくしている義将は、仕事の合間の昼食に会う事を提案し、現在二人で蕎麦を啜っているのだった。
「何それ?俺の笑顔って凶悪なやつなの?」
「戦ってる時とか特にね。あと、わざと笑う時とか、何か取って食いそうな感じだし。」
「そうなの?」
なるべく穏便に事を荒立てまいとして笑っているというのに、大概の場合引かれるのだ。恐がられ脅迫している事にされたり、好戦的に思われて実力行使になってしまう事も多かった。三年で学んだのは、上手く笑えていないという事に気付いた事くらいだと思った。そう言えば以前恭にも言われたなと思い出していると、義将は腕を組んで考えながら言った。
「本当は優しいのにね、勿体無いよね。でも裏返せば俺にだけ特別優しいって事だよね。特権、みたいな。」
成長したかと思いきや、たまにこういう素直な可愛さを見せるからたまらない。晋は義将の頭を撫でた。
「優しくないよ。俺が優しいとしたら、義将がそうさせてるだけ。」
「じゃあ優しさを忘れたら俺が一緒にいてあげるね。そうしたらいつも優しくなれるから。」
「そうだね。でもそれじゃ義将に悪いよ。トイレとか風呂とか大変じゃん。」
「え?そんなに密着するんだ?」
義将の笑顔を見ていると雁字搦めになっていたしょうもない考えが解れる気がした。相変わらず和田家の空気にやられてしまう。依存性があり、一度知ってしまうと求めずにはいられなくなる生暖かい心地よくて落ち付かない空気だ。それを知ってか知らずか、義将はいつも晋に懐いて来る。晋はその成長を見る度に、いつか愛想を尽かされるんじゃないかと怯えながら伸ばされた手を取った。その血に染まった鬼神殺しの手で。
幸衡は北鎌倉の庭園にある池を眺めながら、水面に映る空と雲のバランスに無意識を浮かべて立っていた。暫くして「そう言えば腹が減ったな。」と思い始めると無意識はどこかへ失せてしまい、今度は食べ物の事ばかりがよぎった。
「蕎麦…。」
ぽつりと口をついて出てしまったが、一人なので気にしなかった。しかし後ろから柔らかく明るい声が返って来た。
「良いですね、蕎麦。御一緒しましょう。」
矢で心臓を射抜かれたかと思う程の衝撃を受けた。気配を消して近付いて来るとは忌々しいと思いながら振り返ると、声の主である毘沙門こと安達道白が笑顔で立っていた。文句を言ってやろうと思っていたのだが、その顔を見ると毒気が抜かれてしまう、いつもの事だ。
「毘沙門殿…否、何でもない。」
幸衡が暗黙の内に蕎麦屋の方角へ連れ立って行くと、毘沙門はにこにことして着いて来た。幸衡は毘沙門のこの表情以外を見た事がなかった。
幸衡は、恭が当主となって鎌倉に戻る時に当然の顔をして着いて来て以来、鎌倉勤めを続けていた。側近の晋が長期全国出張をしているのを良い事に恭の右腕的地位を得て、今や参謀と言っても差支えがないのでは無いかと自画自賛してほくそ笑んだりする。絶対的奥州至上主義者である幸衡の出世がいずれ奥州の地位向上に繋がる事は間違いと思うと働く事の楽しさは言い表せない。
「あはは、幸、悪い顔してますよ。」
毘沙門がいつもの笑顔で指摘してきたのでむっとした。
毘沙門は鎌倉七口の指揮系統を掌握している優秀な男だ。しかしそれを理解するのに幸衡は少し時間がかかった。はじめは、見た目はごく普通で、むしろ地味な方だと思った。誰とでもそつなく関わり、傍から見ていて取り立てて突出した所があるように思われなかったし、飽くまでも常識の範疇というスタンスが如何にも凡庸に見えた。
「その洞察力は感心だが、私に使うのはやめてくれ。」
そう、毘沙門は常識的な人物だった。杓子定規な程に常識という枠組に重きを置いており、変わり者や非常識というものを嫌がった。地龍社会は縦社会で家名や地位が何より重要視される。その中では毘沙門の「常識」という生き方はとても大切な事だ。けれど、誰もが上へ上へと手を伸ばし犇めき合うピラミッドの中で「常識」だけに捕われていては、出世は去る事ながら現状維持とて時に難しい。故に幸衡は凡庸さは家を朽ちさせる腫瘍だとすら思っていた。けれど、毘沙門は違った。「常識」というものを武器にしているのだ。異常なまでの常識さ。それが毘沙門の正体だと気が付いた。
「幸は美人ですから、悪い顔も様になりますけどね。」
そしてその「常識」を裏付けるものは、洞察力と視野の広さだった。人の名前や顔は一度で完璧に記憶しているし、会話内容は当然の事ながら表情や仕草からあらゆる情報を読み取っている。その上でそつなく常識的に立ち回るのだ。本当に抜け目のない、笑顔の悪魔だと思った。多くが信頼と恐怖から「正論が服を着ているような男」と言った。
「まぁまぁ、そんな顔しないで下さい。蕎麦は常識として年上の俺が奢りますから。」
「常識とは素晴らしいな。」
どこまでが計算なのか分からない毘沙門のいつもの笑顔を見ながら幸衡は世界は広いなと思った。
蕎麦屋に着くと、何やら騒がしい客がいるようだった。飲食店のような公衆の場所で騒ぐと言うのは実に非常識だ。毘沙門の眉が動いた。幸衡が何か言おうとしたが、それより早く毘沙門が席へ近づいて行った。
「こう言った場所で騒ぐのは感心しませんね。他の客の迷惑になるとは思いませんか?思わないのであれば義務教育からやり直すべきです。」
ごく常識的に社会人として大人として注意する毘沙門の視線の先には、良く知る顔があった。
「げ、道白…。」
「え?」
一時帰宅していた春家と、重盛のつかいで来ていた光胤が、毘沙門の顔を見上げた。
「御久し振りです、お元気そうでなによりです、春さん。しかし、良い大人が恥ずかしくないのですか?」
いつもの笑顔のままで言う毘沙門とは対照的に、まずいことになったと顔に書いてある春家は目を泳がせていた。
「弁天と同じ顔で、そういう事言わないで…。」
「俺が兄さんと同じ顔なのは俺の意志ではありませんのでご容赦ください。おや、そちらは平光胤くんでしたね?いつも弟君・宗季くんにはお世話になっております。」
「…え、いや、こちらこそ、これからも愚弟をよろしくお願いします。」
店で大きな声で会話をしていた事を注意しながらも、挨拶を忘れない毘沙門の丁寧な姿に、光胤は面喰ってしまった。三人がそんな良く分からない状態になっているのを余所に、涼しい顔をした幸衡はしれっと光胤の隣に腰かけた。
「久しいな、光胤くん。随分活躍しているようだな。どうだ?平家から奥州に乗り換えないか?今なら甘いもの食べ放題の特典をつけよう。」
「アホか。そんなすーげぇ魅力的な特典ぶら下げても釣られねぇよ。俺様は主に褒められたくて働いてんだっつの。てめぇの涼しい顔に褒められて誰が喜ぶかっての。」
幸衡の涼しい顔はデフォルトなので光胤の言葉を否定する事は出来ないが、重盛とて同じ様なもののような気がして納得いかなった。それでも飼い犬とは主人を中心に生きるものなので仕方がない事だと思った。
「そうですよ幸。そういった交渉は然るべき場所と然るべき手順を踏んでするものです。このような所で出会い頭に誘われたのでは、例え逢い引きだとしても断られるでしょう。」
真面目に指摘しながら仕方なく春家の隣に座る毘沙門は、窓際に置かれていたメニューを春家に取って貰っていた。
「それもそうか。では後日、持参金を用意して交渉に行こう。」
「ちょっと、身受けの話になってんの?俺様買われるの?春、何とか言ってくれ!」
毘沙門が来てからやけに静かな春家が硬い表情で光胤に言った。
「すまん、今俺は口のチャックを閉めている。」
「…喋ってんじゃねぇか。」
普段から下らない事ばかり言っている春家の、たまに言う究極につまらない言葉に、光胤は心底呆れていた。
毘沙門の来訪で静かになった店内には、いくつかの客の会話がBGMのように漏れ聞こえてきた。どれも聴き取れる程の大きさではなく、心地良く程良い客の入りだった。
光胤がデザートのあんみつを食べていると、幸衡と毘沙門の注文したざる蕎麦がやって来た。
「デートに誘った?」
少し大きな声で聞こえて来たワードは少し周囲の関心を引くものだった。
「声が大きいよ。」
「ごめん、ごめん。だって、びっくりして…。」
すぐに小さな声になったその会話の続きが気になり、四人はつい聞き耳を立ててしまった。
「で、どうなったの?デートする事になったの?」
「ううん、考えさせて欲しいって言われた。」
「そりゃそうでしょ。唐突に…誘われるなんて想像もしてなかったと思うよ?」
「そうかも知れないけどさぁ、いつまでも弟みたいな扱いは嫌だったんだ。それに、付き合ってって言った訳じゃないし。デートくらいしてくれたって良いと思ってさ。」
「う〜ん…。」
「ねぇ、高校の同級生なんでしょ?取り持ってくれない?」
「いや〜…俺あの子苦手なんだよねぇ。多分向こうも俺の事苦手だと思うし。そうだ、恭に頼んでみようか?」
「いやいやいやいや、それは悪いよ。恭兄ちゃん忙しいんでしょ。」
「何それ、俺を暇人みたいに。」
そこまで聞くと、四人は目を合わせ妙な間を持った。
光胤がスプーンを舐めながら囁いた。
「これって聴いちゃいけないやつじゃね?」
「否、きこえて来ただけだし?寧ろもう少し続きを聴きたいに一票。」
春家が小さく挙手して言うのに対し、幸衡が蕎麦をすすって言った。
「おそらく話しているのは晋くんと義将くんだな。話しの流れからして、義将くんが同じ亀ヶ谷小隊所属であり晋くんの高校時代の同級生の多田さくらくんに好意を寄せていると言う事だろうな。」
幸衡の解説を聞いてから毘沙門は少し考えた。
「これ以上は例え漏れ聞こえて来てしまったとしてもプライバシーの侵害です。」
毘沙門が箸を置くと立ち上がった。
晋が義将と蕎麦湯を飲みながら話していると、突然晋の目の前に毘沙門が現れた。
「こんにちは、晋。先日は御土産をありがとうございます。義将くんも、御久し振りです。また背が伸びたようですね。喜ばしい成長です。」
リラックスした姿勢で話していた晋が、毘沙門を見た瞬間に背筋を伸ばし身なりを整えて返した。
「こ、こんにちは。その、土産は…大したものではないので恐縮です。…道白さんは、昼食ですか?」
晋の後ろで義将が軽く会釈をした。毘沙門は頷いてから言った。
「はい。申し訳ないのですが、偶々貴方方の会話が耳に入ってしまいまして。どうも結論を得る事は出来そうにない様子。余計なお世話とは思いますが、宜しければ我々にも協力させて頂けませんか?」
晋と義将は顔を見合わせた。
「つーか、こいつ等何でこんなに大人しくなってんの?」
光胤が春家と晋を指さして訊くと、毘沙門は「人を指さしてはいけませんよ。」と微笑んでいた。
毘沙門が晋と義将を呼び、席は六人掛けいっぱいに座った状態になった。
「勝手に話しを聞いてしまった以上、罪滅ぼしに協力せざるを得ません。常識です。」
「何事にも対価を支払うのは当然だな。それにここは鎌倉だ。御恩には奉公、得るためには動かねばなるまい。故に道理だ。」
面白がって深入りしているだけにしか見えない毘沙門と幸衡を見ながら、晋は、春家と光胤以上に混ぜるな危険の悪夢コンビがいたとは、と瞑目した。
「春さん、何とかして下さいよ。」
「はぁ?出来る訳ねぇだろ、道白の制御装置を持ってたのは弁天だけだっての。今の奴は最強最悪のモンスターだ。」
「いや、春さんが派手に問題起こしてくれれば道白さんの意識はそっちに向かざるを得ないはずです。」
「何だそれ、俺に生贄になれってのかよ、薄情者、冷血漢、裏切り者。」
「いつもやってるじゃないですか。」
「あ、てめ、そういう事言うのはどの口だ。あん?この口か?」
春家が晋の口をおさえていると、毘沙門が笑顔で言った。
「そこの二人、うるさいですよ。」
「「はい、すみません。」」
春家と晋が強制的に黙らされた後、毘沙門は義将に向き直った。
「義将くん。」
「はい。」
「こういった事は同じ職場にいれば少なからずある事です。しかし、同じ部隊の中で痴情の縺れなどが起こると作戦の士気に影響が出ます。解りますか?良くても悪くても、それらを仕事に持ち込まないのが常識です。」
「はい。そうですね…。」
「なので、この件はどういう結果になろうと直嗣くんの耳に入れておかなくてはいけませんよ。」
「分かりました。」
「その上で、直嗣くんに仲を取り持って貰っては如何でしょうか?隊長である直嗣くんならば、部下の事は熟知しているはずです。上手くお二人を繋いでくれるはずです。」
毘沙門が諭すように言うと、義将が困った顔で晋を見た。晋は謝罪のポーズをしたままで黙っていた。
「でも、直さんは困るとすぐ親さんに訊いちゃうし…親さんが分からない事は他の七口の人達の所へいっちゃうから…その、周知の事実になっちゃうんです。そうしたら、さくらちゃんに迷惑がかかっちゃうから。」
春家が噴き出したが、毘沙門に見られて黙った。
「確かに。直嗣くんは戦闘に関しては抜きん出ているが、それ以外の事はまだ若く周囲に教えを請う立場だ。実親くんはよく面倒を見ているが、こういった部隊内の人間関係の事は正解がない。故に他者の助力を請う可能性は高い。」
幸衡が涼しい顔で分析をしていた。
「だから内緒で話してたのに、厄介な人達に聴かれちゃった訳です。」
晋が咎めるように周囲を見ると、光胤が二つ目のあんみつを食べながら言った。
「あはは!人の口に戸は立てられねぇからなぁ!ご愁傷様!」
「何広める気満々になってんだよ甘党。甘いもん食い過ぎて脳みそ溶けてんじゃねぇか?この事誰かに話したらてめぇの食いもんにタバスコかけんぞ。」
「あん?てめぇこそ血浴びすぎて生臭ぇんだよバーサーカー。柄にもなく恋愛相談なんか受けて、荷が重いんじゃねぇの?しばらく殺しは止めてじっくり考えられるように、刀と鞘接着剤でくっ付けといてやるよ。」
一触即発で言いあう晋と光胤に、毘沙門が務めて穏やかに言った。
「こらこら、下品ですよ。晋、年長者には敬語を使うようにと教えましたよね?忘れたのですか?三歩歩いたら忘れる生き物だったのですか?残念です。光胤くんも、年下の喧嘩を買うのは大人気ないですよ。年長者は常に下の手本となるよう振舞わなければなりません。気をつけて下さいね。」
「「はい、すみません。」」
結局毘沙門の言葉は常に正論で、反論出来る者がいないのだ。笑顔を絶やさないままで、とくとくとたたみかけ続けて来る。これをやられ続けると、春家や晋のように毘沙門の説教を何より恐れる人物が完成するのである。
「では、こうしてはどうでしょうか。デートではなく、皆で出掛けようと誘うのです。誰か他者が同行するのであれば断る理由はなくなるはずです。直嗣くんには、そのために休日のシフトを調整してくれるように頼むのです。取り持つという抽象的な相談ではなく休日の調整という具体的な要求であれば、直嗣くんが困ってしまう事もないはずです。」
「成程、それは現状目の前にある全ての問題を解決する素晴らしいアイデアだな。故に、賛同しよう。」
「…分かりました。でも、誰と…。」
「さくらは亀ヶ谷小隊の紅一点ですからね。下手に同僚を誘ってそっちに取られたんじゃ本末転倒ですから。」
晋が言うと、毘沙門は少し考えてから口を開いた。
「晋、誰か良い人はいないのですか?」
「え?いや、俺この場合の最良人物なんて思いつきませんけど。」
直嗣や実親は隊長格なのできっとリラックスして楽しむ事は出来ない。それなりに同格で気を使わないで済み、尚且つライバル関係に陥る心配のない人物、という条件に見合う人物を脳内検索してみたが、鎌倉に三年のブランクを持つ晋がピンと来る人物はヒットしなかった。
「いいえ、違います。晋に恋人はいないのですか、と言う意味です。」
毘沙門の言葉に晋が声も出ない程に驚いた。
「この殺人鬼の恋人って何だよ、死体か幽霊だろ?あはは!」
光胤が笑うと毘沙門が「こら。」と言ったので黙った。
「あの…いないです。」
どう答えていいか分からず、たどたどしくなってしまった。毘沙門は寂しそうに微笑んだ。
「そうですか。残念です。君にはそういう人が必要だと思ったのですが、そして恭もその意図で広い世界を見せようとしたのだと思ったのですが。」
「え?」
「いいえ、気にしないでください。義将くんが信頼を寄せる晋が恋人と一緒に、というのが最良だと思っただけです。晋にも何れ良縁がありましょう。」
毘沙門の言葉は晋がすぐに消化できない類のものだった。恭が「分かったか?」と訊いた言葉と同じ、難解な記号。暫くキャパオーバーで呆然としていた晋だったが、その間にも話は先へ進んでいた。
「でも、義将くんは既に相手をデートに誘ったのだろう?では回答待ちという事だ。故に策を弄するのは、その答えを聞いてからでも良いのではないか?」
「そうですね。もしかしたら色好い返事を頂けるかも知れませんし。」
勝手に話しに割り込んで来たくせに様子見の結論を出すと言うのは実に日本人らしい終わり方だった。
「デートに誘われた?」
恭が珍しく素っ頓狂な声で反芻した。
その顔が面白かったらしく、話をした張本人である多田さくらと、隣で相槌を打っていた静が笑った。
「笑うな。」
「だって、恭くんの顔…見た事無い顔してたから…。」
「間抜けな顔してたわよね。」
いつまでも面白がるさくらと静を忌々しげに見ながら、恭は咳払いをして言葉を次いだ。
「で、いつなんだ?」
「え?」
「だから、義将殿からデートの申込があったのだろう?それはいつになったんだ?」
恭の問いに賛同するように静が好奇心で輝く瞳を向けていた。
「え、や、違うよ。私は、その、受けてないの…返事は、まだしてないの。」
「え?そうなの?何で?」
「だって、義将くんは八つも年下だし、つまり私は八つも年上で…。」
当然の事を繰り返しただけのさくらの言い訳には動揺以外に汲みとれるものが無かった。
「それは義将殿も重々承知の上だと思うが。」
「私だって恭より年上だけど?」
「そ、そうなんだけど…私は静ちゃんみたいに美人でもないし、生まれとか育ちとかも変わってるし、その…。」
もじもじと言い続けるさくらに兎の姿をした黒兎が口を出した。
『義将の母は「昼」の人間だったと言う。その分境遇などには寛容なのではないか?それにさくらが自身の身分を気にするのであれば、義将は和田家直系だ。上手くすれば玉の輿のようなもの。願ってもない縁ではないか。』
「まったく、相変わらず黒兎は乙女心を分かってない。何でデートの誘いが、そんな打算にすり替わるのよ?義将はさくらの事が好きなのよ。問題は、さくらが義将を好きになれるかって事よ。それオンリーよ。」
静に言われて肩をすくめる兎は何だか可愛らしかった。
「それならば、より話は単純だ。義将殿は良い人間だ。問題はなかろう?」
恭の言葉はシンプルにまとまってしまっていたが、静には言いたい事が分かった。
「…そうね、義将は良い子なのよね。素直だし、努力家だし、人懐っこくて可愛いし。ねぇ、さくら、何で迷うの?他に誰か好きな人でも?」
静は一度デートしてみる位良いのではと言った。けれどさくらは言葉を濁して困ったように笑った。
正直な気持ち、さくらはあの高校三年の春に恭に恋をしてしまったのだけれど、それをどうこうしようと思って来た訳ではないし、今更何とも思ってはいない。ただ「好きな人」と言われると、恭の事が好きだったのだけれど…と思うだけで。
勿論、恭には静がいるし、今では友となった静の事も好きなので、その過去は誰にも言うつもりはない。言うつもりも行動するつもりもないのならば、いつまでも捕われていないで次の相手に切り替えるべきなのだ。そこに丁度良く義将が現れたのだ。本来は迷う場面ではない。
けれど、さくらには疑問があった。
「何か、私が知ってる義将くんと、別人じゃない?」
さくらの知る義将と、周囲の評価には少し誤差がある気がした。
ほぼ同時期に入隊した義将は、そもそもの英才教育による基盤とセンスがあり、さくらとは戦闘分野において競る事がないながらも、年下でありながら先輩のような存在だった。それでも八つも年下という差から、さくらにとっては頼もしい弟のような気持ちで接して来た。
不敵に笑う義将、強気で無邪気な義将、さくらをからかう生意気な義将、いつの間にかさくらより高くなった視線、思ったより大きな手、強い力、そういうさくらにとっての義将という存在は、恭や静にとっての義将とは違うような気がした。
「別人って?」
静が変な事を言い出したさくらに問うた。
「だって、義将くんって、生意気でいつも私の事からかうし、自信満々で、全然可愛くないんだもん。」
恭と静は頭の中でさくらが言うような義将を想像してみたが、どう考えても無理だった。
「成程。それは義将殿がそれ程さくらを好きだという事なのだろう。気が進まないのならば今回は断ればいい。それ程の恋詫び、どうせ簡単に諦めはすまい。」
恭が事も無気に言った。
断るなら断るで、忍びないし後を引くような状況になりたくない。さくらはどちらにしても気が進まなかった。
「大丈夫だ。義将殿がいちいち根に持つ事はない。知将殿が手塩にかけた御子らしく、人としての基盤が間違いないからな。それでも何か困った事があれば俺に言えば良い。さくらは大切な友だからな。」
恭が言うと間違いないと思えるのは何故なのだろう。さくらは胸のつかえが取れる気がした。
「ずるい、恭。さくら、私にも相談してね。そうだ、今度祥子さんも一緒に女子会しましょう。」
「それ良い。楽しそうだね。」
「それなら知将殿も誘ってやってくれ。噂では孤独をつまみに酒を飲んでいると聴く。」
恭が言った言葉の難解さに二人は微妙な目を向けた。
「女子会に何でオッサン誘うのよ。」
「女性の集いなのだろう?」
真顔過ぎてそれが冗談なのか本気なのか判別が全くつかなかった。
「え?女子…え?」
さくらは終始おろおろするばかりだった。
後日、さくらは義将の申し出を断った。事の顛末を聞いて蕎麦屋でのメンバーは皆残念がったが、義将本人はまったくめげていなかった。諦めるつもりは毛頭ないので次回再び相談に乗って欲しいと言うので、大人達は心打たれてすっかり本気のバックアップ体勢になっていた。晋はそんな義将が眩しくて、少し気遅れした。
「上手く笑えないのに、恋人とか…ちゃんちゃら可笑しいね。」
眠る誉を抱いていると、その重みを実感して少し恐くなった。こうして生まれてきたものを今までどれだけ斬って捨てて来たろうか。晋は考えてはいけない方向にばかり考えてしまう。
かつて貴也が言った。「正しさは秩序のためにあるのであって、決して人の心を支えたり救ったりはしない。」と。地龍は『昼』『夜』のバランスのためにあるのであって、それはそこに生きるもの達のためと言うよりは、社会という枠組みを維持するためだけにある。枠を守るために犠牲を厭わないやり方を残忍だと思うが、そもそも枠が無ければ『昼』も『夜』も生きられはしない。そしてその枠の中でどう生きるかは、飽くまでもそれぞれが選び得る道なのだ。
多くを犠牲にして多くを守って、それを正しいと思う。けれど正しさは晋を肯定はしても救いはしない。誉の重みは理屈を超えて晋に圧し掛かる命の重みだ。結局は救われたい、赦されたい、そういう情けない程当たり前でちっぽけでありながら全く手に入るとは思えないものの重み。
恭は晋が誉をじっと見つめているのを眺めながら、起こさないように言った。
「可笑しくはないな。」
父親を殺しておいて上手く笑う奴とはどんな奴なのか?胸の中に浮かんでくる皮肉があまりに露骨だったので晋は自嘲した。
「笑えよ。」
「可笑しくないのに笑えない。」
恭は頑なだった。
「つまんねぇ奴だな。」
「お前よりマシだ。」
地龍の構造や在り方に疑問を投げ、自戒を求めるのは、あまりに愚かだ。その組織のトップである恭の真面目くさった顔を見ると馬鹿馬鹿しさに気が付く。一番清濁の攻防に神経をすり減らしているのは恭なのだ。ただでさえ陰鬱さを引きずっている晋が考えるのは恭に悪い気がした。
「そう言えば恭も笑うの下手だったわ。ゴメン。」
「おい。」
鎌倉と言う場所が晋に与える、安穏や郷愁や悔恨や憧憬や様々な感情がどうしようもなく晋を覆い尽くしてしまっていた。しかし、それは恭も同じように見えた。夕日を眺める恭の横顔はかつて見た、寂しそうな幼い顔に重なった。
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