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1 過客の事

 博多発のぞみ十四号は、少し時刻が早いためか周囲に乗客の姿が無かった。

 (すすむ)はスポーツバッグを足元に置いて車窓の景色を眺めながらうとうとしていた。そうして気が付くといつの間にか新大阪を過ぎていた。始めは少なかった乗客もいつの間にか増え、隣の席には小柄な男が座っていた。何となく足元からゆっくり目で追って行くと、手に食べかけの羊羹が見えた。一本をそのまま。

 「嘘だろ。」

晋が頭を抱えた。

 「何が?お前も食うか?バーサーカー。」

相変わらず童顔で相変わらず甘党の葉室(はむろ)改め(たいら)(みつ)(たね)が当たり前のような顔で晋を見た。

 「何でまた一緒なんだよ。何かの嫌がらせだろ?しかも朝から羊羹とか。本当どうかしてんじゃねぇの。」

 「知らねぇよ。偶然だろ。因みにコレ三本目だから。お前が寝てる間に二本食ってるから。」

 「おえっ。いい加減セーブしないとヤバいだろ、歳考えろ。メタボまっしぐらに腹出ろ。(むね)さんに冷たい目で見られろドチビ。」

 「うるせえな、てめぇこそ、その辛気臭い殺し屋の顔、整形でもした方が良いんじゃねぇの?」

 「俺は良いんだよ、コレで売ってんだから。」

晋が皮肉めいた顔で言うと、光胤は言葉を失った。妙な沈黙が漂いそうになった時だった。

 「あれ?聴き覚えのある声だと思ったら、やっぱり晋と(みつ)じゃん!」

近所のコンビニに行くかの様な軽装で声をかけて来たのは、北条(ほうじょう)春家(はるいえ)だった。

 「よう、春。お前も一緒だったんだ?」

 「おう、恭から呼び出しだ。光は?」

 「俺様は主のおつかいだ。」

春家が自然に光胤の隣に座った。

 「え、春さんってこの甘党おじさんと知り合いなんですか?」

 「誰が甘党おじさんだ!春とは京都で会って意気投合したんだよ。な。」

 「そうそう、本当偶々でさぁ…。」

京都守護の春家と、京都を本拠地にしている平重盛(たいらのしげもり)の部下である光胤が、京都で知り合うのは当然の事だった。同じ地龍の武士であり狭い行動範囲ともなれば、遅かれ早かれ顔を合わせるのは必然だろう。

 「悪夢だ。」

それにしても、最悪のコンビだと、晋は思った。良い歳して大人気ない所とか、悪戯好きな所とか、悪ふざけが過ぎる所とか、人をおちょくるのが趣味な所とか、とにかくこの二人を一緒にするのは百害あって一利なしの混ぜるな危険コンビでしかないと思った。

 「何が悪夢?」

コーラの缶を開けながら訊く春家の顔を見て、晋は溜息を吐いた。

 「お二人共よく似てますもんね。そりゃ気が合うだろうなって言ったんですよ。」

 「あ〜?今悪夢っつったろ。なあ、バーサーカーよう。」

羊羹三本で酔ったように絡む光胤に、晋は窓の外に救いを求めるように見やった。

 「折角静かな移動時間を寛げると思ってたのに、神経衰弱コース突入とは、神は俺に休息を与える気がないらしい。ちくしょう。」

 「おう春、こいつなんか生意気言ってんぞ〜。」

 「そりゃあお仕置きが必要だなぁ。鎌倉に帰ったら、毘沙門様の地獄の説教部屋に入れてやんなきゃなぁ!」

 「ちょっ…春さん、それだけは勘弁して下さいよ。洒落にならないですよ。」

 「何、毘沙門て鎌倉七口の指揮官だろ?そんなに恐いのかよ。」

 「恐いも何も、晋に礼儀作法を叩き込んだのは毘沙門だよ。昔のコイツと来たら、年上に対する口の利き方も知らねぇクソ生意気なガキでさぁ。毘沙門が縦社会のなんたるかを仕込んでやるって言ってな。なぁ晋。」

 「やめて下さい。思い出したくないんで。」

 「未だにどっか行く度に毘沙門に土産買って挨拶に行くらしいぜ。」

 「どんだけ頭あがらねぇんだよ、それ!うけるな!」

晋が気まずそうに目を伏せた。足元のバッグにはその毘沙門用の手土産が入っていたのだ。

 晋をからかって盛り上がる二人を余所に、晋が唐突に立った。

 「おい、どうした?」

 「ちょっと便所です。」

車両を出て行く晋の後ろ姿を見送ってから、春家は光胤に訊いた。

 「どうだ?様子。」

光胤は首を振って肩をすくめた。

 「駄目だな、ありゃ。あれから三年経ってるからなぁ、そりゃ直後よりかマシに見えるけどなぁ。」

 「父親を殺したんだもんな…。」

 「しかも、その父親殺しの異名をぶら下げて全国渡り歩いてんだぜ?そんな命令出すなんざ、地龍様は本当に晋のダチなのかよ?」

光胤が話しながらチョコレート菓子の箱を開けると、春家がすかさず手を伸ばした。

 「あの二人にしか分からないものがあるんだろ。」

 あの戦から時は三年を経過していた。

多くが傷付き死に、多くを失い世は乱れた。恭は自身の負傷を押して復興と再生に尽力してきた。貴也を失った悲しみを糧にするように、立ち上がったのだ。

 重盛がかねてより、貴也の亡き後を継ぐのは恭であり、その準備をしておくようにと言っていた甲斐があっての事か、恭は迷う様子も無くすぐに自身の政策に取り掛かった。まずは、『龍の爪』の再構成だった。貴也が手元に置ける腕ききを集めたのとは正反対に、恭は日本各地の有力者を指名した。長老会の暗躍により地龍組織の内部分裂は深刻なものとなっていたが、これによって統一された治政を図る目的だった。そして『龍の爪』結成のために晋を使わしたのだ。

 晋は元々、呪われた当主殺しの家系矢集(やつめ)として忌み嫌われて来た。それが、戦の終幕に鬼神と恐れられた父親・(ひろむ)を討った事でその立場を大きく変える事になったのだ。恭を守るために父親を殺した深い忠誠に感銘を受ける者、血を分けた父親を殺す冷酷さに恐れを抱く者、そしてその獣が地龍当主である恭の飼い犬である事による畏怖を抱く者。あらゆる意味で晋は一目置かれ、地位が向上したのだ。もうかつてのようには晋を蔑む者は居なくなった。

 そして晋はその鬼神殺しの看板を下げて地龍当主名代として、全国平定のため回っていた。今の晋は各地を牽制するには最良の人材だった。はじめは『龍の爪』のメンバー集めのために。それが終わると、各地の戦の後処理や長老会の残党狩り、手に負えない揺らぎの討伐など、全国各地に仕事は山積みで殆ど鎌倉へ帰る事は無いままで三年の月日を過ごしていた。

 光胤も公家政権派や長老会の残党狩りで全国を駆け回っていたため、晋とはよく顔を合わせていたが、晋の精神に入った亀裂が癒える事は無いように思えた。だからこそ、恭には今の晋を政治の道具として扱うのではなく、友として側に居てやるべきだと思っていた。春家が言うように何か理由があったとしても、それはあまりに残酷なように思われた。

 「地龍様だろ?俺様達の新幹線の席に細工したの。」

 「え?偶然じゃなかったの?」

光胤が切符を見ながら言った。出張の切符などの手配はそれぞれの所属場所の事務方が手配している。しかしそれの最上層部は結局は地龍本家だ。恭が一言言えば新幹線の座席の指定くらいどうにでもなる。

 「そんな偶然ある訳ねぇだろ。毎回毎回都合良く隣の席になるかっての。俺様もう偶然を装いきれないからな?絶対晋も気付いてるからな?」

光胤はしばしばこの「偶然隣の席だね〜」を繰り返しているのだ。良い加減仕組まれている事位分かっている。恭が晋の様子を見て欲しいと言っているのだろう事も理解出来た。だからこそ、そこまでするならば、一緒にいてやれば良いものをと思わないでは居られなかった。

 「ド直球が売りの恭が、遠まわしに心配するなんて、かわいい子には旅をさせよう☆って事なんじゃね。」

 「何それキモ。」

春家のあまりにテキトーな返しに、光胤は舌を出して不快感を表した。



 東京に着くと春家と光胤は鎌倉に直行すると言ったが、晋は知将(ともまさ)の所へ行くと言って別れた。

 三年前は怒涛の流れで恭が地龍当主となったおかげで、碌な挨拶も出来ずに知将の元を去らねばらなかった。四年も世話になって随分な最後だったが、知将は大学の手続きや引っ越しの片付けなど色々と協力してくれた。今は、中学を卒業後の義将が本格的に鎌倉に下宿して活動する事になったため、あれだけ賑やかだったマンションで一人で静かに暮らしていた。

 家族というものの温かさに憧れていた晋に、理想のそれを与えてくれた知将を、今でも理想の父親だと思っていた。一人で寂しいからだと言いながらこの三年もしょっちゅう連絡をくれた事にも感謝していた。人寄りが好きで世話好きで騒がしい暮らしを誰より楽しんでいた知将が、広いマンションで一人でいると思うと、晋も寂しい気分になり、時間を見つけては知将の家へ寄っていた。

 その夜も、晋と知将はいつものように二人で酒を酌み交わした。

 「もぅ、晋ちゃん、ちゃんと食べてる?ちゃんと寝てるの?」

 「はいはい、大丈夫ですって。そんなに心配しなくても俺もう二十五ですよ。」

 「歳なんか関係ないわよ。こないだだって、怪我して入院したじゃない。心配したんだから。」

 「それは怪我じゃなくて腸炎で…。それにそれ半年前です。」

 「え?そうだったかしら?あ、あれよ、頭切ったじゃない?」

 「それ一年前です。もう治ってますから。」

 「打撲だっけ、捻挫だっけ?とにかくしょっちゅう怪我するんだから、私もう気が気じゃないのよ。」

 「すみません。」

 「まったく、反省してないでしょ。恭ちゃんは何て言ってるの?」

 「…今度怪我したら口きかないって。子供じゃないんだから、勘弁してほしいですよ。誰も好き好んで怪我する訳じゃないんですから。」

 「ほら〜、恭ちゃんも心配なのよ。晋ちゃんの薄情者〜。」

言いながらすっかり酔っ払った知将が眠ってしまったので、晋はその肩に毛布をかけてから再び盃に戻った。盃の内側の波紋を見ていると、何となく三年前の静寂に包まれた夜を思い出した。

 三年前、貴也が死に、裕を殺し、恭が地龍当主になった。あれから数日間、晋は何も口にせず殆ど眠らずにただじっとしていた。時折話しかけられる言葉は、晋の耳に届く前に音を失い希薄な塵のようになって失せていった。体中を循環する血液が汚泥のように感じられ、体を切り裂いて全て出しきってしまいたくなる衝動を実行する程の体力もなく、ただ虚ろな淀んだ空気を見るともなく見ていた。

 地龍本家にある晋が間借りしていた部屋は、子供の頃のままの殺風景だった。知将のマンションと同じ、何もない、誰もいないかのような部屋だった。そんな部屋でじっとしていると、いつしか自身も溶けて無くなる気がしたが、矢集である晋は空気に拒絶され溶ける事も許されないようだった。何故生きているかとか、死にたいとか、そんな事もどうでも良い程に自棄になっていた。なるようになろう。ただ時に身を任せていよう、そんな風にしていれば何れ死ぬ。そう思っていた。

 月灯りが畳に障子戸の格子を几帳面に描き映していた。

 晋は部屋の真ん中に裕の骨壺を置いて、自分はその正面に正坐した。晋が自棄になっている内に裕の遺体は恭の命令で一通りの弔いが行われたが、公式ではなかったし矢集家には墓がなかったので骨壺の行き場所は無かった。訊けば、代々に渡って地龍当主を手にかけてきた所為で罪人として処分されてきたためだと言う。それを知って恭に一層感謝した。裕は恭の父も兄も奪った張本人だと言うのに。

いっそ海にでも撒いてしまおうかと思ったが、結局どうする事も出来ずにそうして手元で持て余していた。

 「父さん、俺全部殺したよ。褒めてくれるよね?」

呟いてみたが、灰が返事をする訳がなかった。そもそも生きている時ですら碌に会話をした事など無かった。それでも失ってみると、幼い頃に感じていた大きな暖かい手の感触だったり、寂しそうな慈しむ眼差しだったり、名前を呼ぶ声だったり、地下迷宮で助けられた事だったり、交わした刀の感触だったり、首の軽さだったりが湧水のように溢れて来て止まらなかった。

 愛していたのか、憎んでいたのか、結局分からないままで、血を分けた父親を手にかけたという事実だけが胸に重く圧し掛かっていた。

 今まで幾度となく人を斬ってきたその命と、例えばどう違うのか、むしろ当主殺しの罪人を葬ったという点では正義とも言えるのではないかとも思った。ならば何故こんなにも心が痛むのだろうか。晋の心は恭から貰ったものだ、きっと恭に殴られた時に壊れてしまったに違いない。そうでなければ正しい事をして痛むはずはないのだから。そうでなければこんなにも辛いはずがないのだから。晋は耳が痛くなる程の静寂の夜に、ただ虚ろで無意味な思考を混ぜ返して時が過ぎるのを待っていた。夜が明けるのを、必死で待っていた。

 「よくやった。」

晋が無駄な上に気持ちの悪い考えを慌てて本を閉じるようにして終了させて振り返った。

 恭が襖に身を預けて立っていた。師房(もろふさ)の鉄矢を肩から抜くのに苦労した所為で傷は悪化し、恭は包帯の体に着物といういかにも病人の姿をしていた。満身創痍だと言うのに月灯りを背に立つ姿は凛としていて気高かった。

 「恭が褒めるのかよ。」

晋が言うと、恭はゆっくり瞬きをした。それから踵を返した。

 「来い。褒美をやろう。」

歩く度に肩が痛むらしく恭の後姿は傾いでいて、晋は申し訳ない気持ちになった。

 恭に付いて行くと、いつも貴也が座っていた地龍当主の上座に座って晋を促した。晋は下座に座って深々と頭を下げた。

 「矢集晋、地龍当主側近を命じる。」

 「…は。全身全霊を賭してお仕えいたします。」

息を飲んだ。自失状態だった自分が、その一瞬で自我を取り戻すような感覚がした。それと同時に、矢集裕の息子である晋が、地龍当主の側近だなどと本当に大丈夫なのかと思いながらも、ただ恭を信じてやれる事を全力でやるしかないと思った。今まで通りに。

 「そして、側近としては例外的な仕事となるが、しばらく全国平定に奔走して貰いたい。」

 「…全国?」

晋がゆっくり頭を上げると、恭が正面に夜霧(よぎり)を置いた。

 「今、世は乱れている。長老会の残党や、拡散させた思想、それぞれの家の立場や、利害、あらゆる状況で簡単に俺に従うという訳には行かないだろう。それらを一つずつ、解決して来て欲しい。」

 「…私が、ですか?」

晋の眼前に夜霧が妖し気な光を湛えていた。貴也を斬った刀だと知らなくても曰く有り気な気配を漂わせていて、晋は少し肌が泡立つのを感じた。

 「そうだ。簡単ではない。おそらく時間がかかるだろう。終わるまでは殆ど帰って来る事も出来ない。」

晋は恭の言葉を飲み込むのに少し時間をかけた。それは恭の側にいないと言う事だ。「俺を捨てるの?」と喉まで出かかったが思い留まった。恭は「側近」そう言ったのだ。終われば戻って来れる。恭は待っていてくれる。帰る場所がある。晋は深呼吸をして言った。

 「地龍様の御心のままに。」

再び深く頭を垂れてから、夜霧を握りしめた。想像以上にしっくりと手に馴染んだ。()(がすみ)の柄とまるで同じ握り。裕との共通点を、親子たる証のように実感した。

 「お前ならきっと分かる。」

恭が最後に言った言葉は、晋には不思議な記号のようにしか見えなかった。

 いつの間にか三年前を思い出して遠い目をしていた晋に、いつ目を覚ましたのか知将が言った。

 「一人じゃないのよ。」

地下迷宮から帰った時の、知将と義将の温もりを思い出した。

一人じゃない。

 「分かってます。でも、俺は…。」

知将は黙って酒を注いだ。

 知将はかつて妻を失っている。春家は弁天を、光胤は(これ)(たか)を、恭は貴也を、皆誰か大切な人を失って生きている。それでも生きている。晋は何となく気遅れした。自分だけが、踏み出せないままでいる気がした。

 夜明けと共に知将のマンションを後にした。知将は「義将をお願いね。」と言って手を振った。

 晋は、久しぶりの鎌倉へ、帰るべき場所へ向かって歩き出した。



 目覚めると、外はもう明るかった。鎌倉での暮らしは、当主であると無いとでは全く別もので、その激務に恭は改めて貴也を尊敬した。昨夜の就寝時間が遅かったせいか寝覚めがイマイチだった。首を左右に曲げながら襖を開けると、そこは恭の想像とまったく違った光景だった。

 「何でいる?」

脳内ではそれなりに驚いた時の感嘆詞などが浮かんでいたが、寝起きの恭にそこまでのテンションは無かった。否、普段から無かった。

 「今朝帰って来た!起こしたけど起きないからさぁ〜、一応声かけたんだよ?」

普段居間として使用している部屋には、本当に今帰って来たのだと言わんばかりに空けていないスポーツバッグが転がっていた。晋はいつもの軽い口調で笑った。まるで毎日一緒にいるかのように、この三年殆ど顔を合わせていなかった事など嘘のような馴染んだ空気を纏っていた。

 「朝早すぎるだろ。常識で考えろ。」

恭は晋の隣に座りながら呆れ声で言ったが、顔はどこか嬉しそうだった。

 「うわ〜常識とか言ってる。パパはいつからそんなつまらない大人になったんでしゅかね〜。」

晋の膝の上には二歳になる恭の娘・(ほまれ)が満足気に座っていた。

 「やめろ。何で誉を抱いている。静はどうした。」

 「あ、何その静姉がいたら俺に誉っちを抱かせる訳ないみたいな言い方!言っとくけど静姉が預けたんだからね!」

言い争う二人を前にしても誉は晋の腕の中が最高だと言わんばかりの上機嫌だった。

 「…馬鹿な…。何故偶にしか来ないお前にそんなに懐いているんだ。」

 「う〜ん…そりゃ、恭の娘だからじゃない?そして将来は俺のお嫁さん。」

 「誰がお前なんぞにやるか!」

恭の軽い手刀が晋の頭に乗った。晋はやけに嬉しそうに笑った。

 「えへへ。」

 「何だよ。」

 「父親の顔した。」

 「父親だ。」

事実を指摘されているのに何故か照れくさくなり恭は少し頬を赤らめた。

 「そうだね、パパー♪」

 「誰がお前の父親だ!」

 恭と静は三年前、貴也を失った穴を埋め会うように寄り添い、一年後には長女・誉が誕生した。

まだ長老会の残党や、公家政権派閥、九条兼(くじょうかね)(さね)の真意やその仲間の有無が分からない以上、龍種の継承資格を有した器を欲する者がいるかも知れない。恭は誉を大切に守りながら育てている。

だが、未だかつて地龍当主に女はいないのだという。未だかつてない未来の訪れを証明する、誉は特別な地龍の姫巫女だ。

 「で、済んだのか?」

 「あらかたね。今後は鎌倉を拠点にさせてもらうつもり。」

 「そうか。おかえり。」

 「ただいま。」

恭からの課題であった全国平定の旅は大かた終わりつつあった。後は何かあれば駆けつけるとか、少し交渉の余地のある場所などがあったが、とりあえずようやく終わったのだ。

 「で、分かったのか?」

誉の小さな手を指で弄びながら訊く恭の問いは、全国平定の旅を命じられた時の難解な記号だった。

 「…分からない。」

晋の目は相変わらずの平坦で荒んだ色の世界を映していた。

 「そうか。」

 「…ねぇ、恭は色のない世界を想像した事はある?蒼穹も、夜の帳も、潜血も、悪夢も、吉夢も、皆黒だ。皆皆、全部黒。」

恭は黙ったままで晋を覗き込んだ。もしかしたら以前より悪化しているのではないかと思った。

 「でも、黒は恭の色だ。俺は常に恭と共にある。ねぇ、俺は今でも人かなぁ。」

おそらくこの三年間ずっと晋は闇の中を手探りで歩いているのだろう、そしてその闇は晋自身の姿すら覆い隠してしまっているのだろう。それを思うと恭は今でも傷が痛むような気がした。

 「…お前は大事なものが見えてない。だから人だ。」

恭が薄く微笑むと、晋は明るくおどけて見せた。

 「複雑〜。」



 夕刻になり恭が書類を片付けていると、スキップするような軽い足音で近付いた静が後ろからひょこっと顔を出し、恭を見上げて言った。

 「晋が帰って来て良かったね。」

静は、あどけなさを残す可愛い少女から、艶めくような美しい女性となり、三年の歳月を感じさせた。けれど恭に見せる顔はむしろ以前より可愛らしくなっているように思った。

 「どうしたの?」

静を見下ろしたまま何も言わない恭に疑問符をぶつけながら小首を傾げる姿が可愛いので、恭はまたじっと見つめたまま黙ってしまった…のは半分で、もう半分は静の言葉に原因があった。朝から晋が戻った事についてあちこちから「良かったね。」と言われ続けていたのだ。

 幸衡(ゆきひら)は開口一番「晋くんが戻ったと聴いた。良かったな。」と言った。

 (よし)(ひら)は遠くから恭を見つけるなり走って来て抱擁し肩を叩き「良かった良かった。」と言った。

 小鳥遊(たかなし)は明後日の方を見ながら「その、お宜しい事です。」と呟くように言った。

 毘沙門は本当に安堵したように微笑んで「それは良かったですね。」と言った。

 他にも親しい者は皆口裏を合わせるように同じ事を言った。

 恭は三年前、自ら考えて晋を側に置く事をしなかった。それは恭なりに思う所があっての決断だった。しかし、三年前と言えば貴也が死んだ直後で、晋は実の父親裕を手にかけた事をどう受け入れて良いのか分からずにいた時だった。そんなお互いに拠り所を求めている時に離れる事は心底心許なかったけれど、恭自身が決めた事だったためその想いは胸の内に秘めて来た。つもりだった。

 元々の素行もあってか、恭が晋の心配をすれば皆協力して気にかけてくれたため、恭は何となく心配される立場なのは晋だと思ってしまっていた。

 けれど、晋の帰還に対するこのリアクションを見ると、心配されていたのは恭の方だったのだと思い知った。自分ばかり平気なふりをして、周囲に心配をかけていたとは何とも情けないような気分になった。

 「何か…恥ずかしい。」

頬を赤くして呟く恭を、静は面白そうに笑い飛ばした。

 「いなくて寂しいのは恭の方だったものね。」

 「やめてくれ。」

 「それに気が付いてないのは晋の馬鹿だけよ。」

 「…そんなの分かられてたまるか。」

それこそ羞恥の極みだと思った。

 この三年間、恭がどんな想いで過ごして来たかなど、今の晋には分かる訳がないし、そんな事を望んでいないのだ。長年晋と共に過ごして来た恭とは違い、今の恭は地龍当主だ。その事は何よりも大きな事だ。恭が恭である事よりも、大切で重要な事。貴也が貴也である前に地龍当主であったように。

 「眉間にシワよってるよ。」

静の指摘で恭は目を閉じてから開いた。それで恐らく改善されたはずだ。

 「なおった?」

 「うん。」

背中に静の体温を感じていると痛みを伴う幸福感が去来した。

 恭は貴也を弔わなかった。

 地龍当主と言うものになってみて初めて分かる事が沢山あった。

その一つが貴也が父親を弔わなかった事だ。龍の種の苗床としての役目は、養分として全てを種に吸い取られる事だ。魂すら全て。故に貴也には弔う魂がない。敢えて言うならば恭が受け継いだ龍の種の中にあるのだ。それが自ずと分かった恭は貴也の葬儀も墓も何も手配しなかった。何も残っていない空の墓標に語りかける気にはならなかったし、周囲にもそれをして欲しくなかった。かつて恭が貴也に思ったのと同じようにその事を冷たいと思われたが、それでも譲れなかった。

 その代わりに裕の事は手厚く弔った。全てを賭して運命と戦った裕を、今では尊敬すらしていた。地龍の誰もが罪人と誹ったとしても、恭にとっては強く誇り高い武士だったのだ。どうか来世ではもっと穏やかな人生を送って欲しいと思った。矢集家には墓が無かったので、捨てられる覚悟で骨壺を晋に渡した。晋はどうしたら良いか分からない様子で部屋の真ん中に置き話しかけたりしていた。恭は正直その姿を見た時は失敗したと思った。あまりに痛々しい姿だった。傷付いたままでその事に気が付きもせずに正常な思考を手放した晋の『波形』を見て、このままでは駄目だと言う事だけは分かった。その時ようやく決心が決まったのだ。意志を受け継ごうと言う決心が。

 予め定められた使命を全うする運命とは別の、貴也の、裕の、人としての意志・願い・想い・祈り、そういうものを恭は何となく理解する事が出来た。そういうものを、きちんと受け入れようと思ったのだ。でなければ、彼等の死がただの循環装置の維持機能の一部でしかなくなってしまう。何も残らなくなってしまう。それは、晋の虚ろを肯定するだけの、停滞と虚無の世界だ。それは、それだけは承服しかねる事態だった。裕は、晋を人にしたのは恭だと言い、晋を頼むと言ったのだ。それは頼まれなくても当然の事だったが、裕がそれを頼んだ想いは晋に理解して欲しかった。今は無理でも、いつか必ず気が付く日が来ると信じて晋を遠ざけた。裕の望んだものを手にするためには、圧倒的に足りてないのだ。それは恭だけで構成された視野では足りないのだ。

 だからこそ…。

再び想いを馳せる恭に、静は呆れたように言った。

 「人の事ばっかり。」

 「そんな事はない。俺は幸せで無ければならない。だが、それは一人では成らないんだよ。」

 貴也の想いは、恭の幸福だ。

 恭はその想いをきちんと受け入れていこうと思った。おそらく最も難しい事だ。現に今も幸福に痛みを伴う。結局は三年前から立ち直っていないのは恭も同じなのだ。それでも月日は百代の過客(かかく)だと言う通り、問答無用で速度を早めも緩めもせず過ぎ去る。去ったものに何時までも目を奪われていては、来るものを迎える事は出来ない。

恭は静の体温を受け入れるように微笑んだ。

 「腹が減ったな…。」

恭が言うと静が大きな声で笑った。

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