5 天狗の事
山の秋は早い。
学生はまだ反袖を着ているというのに、兼虎の住む廃寺には既にトンボが飛んでいた。雲も真夏のそれとは違っていて、少しずつ季節の移ろいを感じられた。今年も秋が来る。去年と同じように秋が来て、冬が来る。
しかし兼虎はその当り前に疑問を投げかけた。今年は例年とは違う。選択を迫られる。そういう気配がしていた。思えば人生の選択というものは音もなく突然目の前に現れる。逃れることも出来ず立ち憚り、否応なく選ばさせられる。兼虎が家を捨てたのも丁度こんな風に、前触れもなく分岐点に立たされ退路は絶たれ時間もない状況だった。予め決まっていた戦から逃げ、これ以上辛い選択をしないでいい生き方を選んだつもりだった。けれど選択は向こうからやってくる。どれだけ逃げてもやってくる。
正直もう懲り懲りだった。
兼虎が生まれたのは平家のある術者の家系だった。転生者こそいないが時の移ろいを一切感じさせない程、古く保守的な家だった。手柄を上げ、上のものに媚び、今より高い地位へ取り立ててもらう。そのために修行し強くなれ。子供の頃から礼儀作法や武芸などを叩きこまれ、家名を背負って名誉を得る事を生きる指針と教え込まれた。窮屈だが、それ以外の世界を知らなかったため、子供のうちはまだ何も疑問に思わなかった。けれど、家の外の者に会い、形成された人格が揺らいだ。自分には明らかに欠如しているものがあると気付いた。それは自我だった。教え込まれたことをするだけの人形のようだった自身に気が付き、そして途方に暮れた。無いと気付いたが故に生まれた兼虎の自我は、家名や地位や権力に無頓着だったのだ。家の求める自身と、目覚めた自我の間には大きな溝があった。それを埋める方法が見つからないまま大人になった。そしてその溝を埋めるどころか深め広げ続けながら戦い続け、その時になった。選択の時に。
地龍の仕事は『昼』と『夜』のバランスを保つことだ。小さなものから大きなものまでバランスは常に揺らいでおり、バランスを侵すものを斬ることが主たる任だ。
その日兼虎が仲間と当たった揺らぎの原因は、『昼』の人間が執拗に『夜』に干渉していたためだった。正確に『夜』を認識出来ない人間たちにとって『夜』は恐れの対象であると共にミステリアスで魅力的な何かであった。幽霊や妖怪や怪奇現象に飛び付き、好奇心で深入りしすぎたり、金儲けを企んでいたり、様々な人間が『夜』に関わるタイプの揺らぎは少なくなかった。だが、兼虎にとっては人間側に非のある揺らぎに出会うのは初めてだった。
だから分かってはいたが躊躇したのだ、人を斬ることを。
そして斬れなかった。
仲間が斬った人間は、地龍の鍛えられた武士とは違い、血肉の詰まった皮袋のように糸も簡単に弾けて散った。残骸は地に落ち、虚無の目を見開いていた。兼虎は恐いと思った。鍛え上げた武士でなければ斬れない『夜』と違い、『昼』の人間は弱く脆い。そして自身も同じ人間なのかと思うと、手が震えた。人を殺して守る世界に恐怖を感じた。
兼虎はその仕事で人を斬れなかったことを責められた。人を殺して得る名誉とは何なのか。
地龍の中で未だ続く源平の合戦が、今は沈静化しているがいつまた激化するか誰にも解らない。長老会は平家の血の気の多いものを唆し、源氏を挑発しようと画策している。仕事で名を落とした兼虎に名誉挽回の機会として声がかかった。源氏の下級武士を『夜』を使って暗殺しろという内容だった。不必要な人殺しで、殺し合いの狼煙を上げろというのか。
圧倒的な反骨心のようなもので胸は張り裂けそうな気がした。
この世界は、地龍という組織は狂っている。
そして全ての選択を、ひとつの答えとして出した。
地龍を捨て、一人で生きて行く。
それから山の廃寺に住み付き、天狗と呼ばれ恐れられて生きてきた。人として生を得たルーツである名を捨て、武士であることを捨て、積み上げた関係も経歴も全て絶ち、遂には人であることすらやめ天狗と呼ばれ、生きるために『夜』を使役し『夜』を斬り、漠然と生きるためだけに生きる骸のような自身に何も感じなくなり、ただ時を積み上げた。
その選択によってしがらみのない、自身の欲しかった生活を手に入れたつもりだった。
世界を守るという大義名分を翳して人を斬り、己れの手を血に染め続けることを良しとしなかった自分が生きるには、この暮らししかないのだと思っていた。
地龍当主貴也が尋ねて来るまでは。
貴也は言った。
「虎、お前のフラットな人格が、フィルターを通さない感受性が、生死を直視してどれだけ傷付き恐怖したか分かる。」
すべての経歴を調べ上げて来たセリフだった。得意気に笑っていた。まるで何もかもが自身の思い通りになると言わんばかりの傲慢な顔をしていた。
きっと必要であればすべてを迷いなく斬る、それが出来る人間だと思った。
「分かる訳がない。」
地龍の当主。その存在がまるで地龍という腐った組織そのものであるかのように憎しみが湧いてきた。そして追い返した。貴也は何かを言っていたが聴かなかった。
また来るだろうと思った。選択は逃れようがない。必ず答えを求めて迫ってくるのだ。過去にそうであったように、今回も兼虎は選択という分岐点に立たされていることに息が詰まる思いがした。
恭が再び兼虎を訪ねたのは、さくらが来るよりかなり早い時間だった。
恭がどうしても話したい事があると言うので兼虎は仕方なく部屋へ上げた。
改めて見ると、恭は貴也とは似ていないように思われた。凛としていて纏う空気が澄んでいた。そして何よりあの得意げな癇に障る笑みを浮かべない。表情というもの自体が乏しいようだった。
「兼虎殿、あなたはさくらに、地龍は味方ではないと言った。あれはどういう意味なのですか?」
恭は兼虎の目をまっすぐに見つめていた。
逃れられない選択そのもののようだと思い、目を伏せた。兼虎自身のみでなく、さくらにも転機が訪れているのだと実感した。
「…さくらは、あの子の家系の血が薄まったのは理由があるのです。」
「元々末端で、段々能力者が生まれなくなって、弱い血が混ざって、そうして薄まって行ったのではないのですか?」
「元々は結構強い能力の家系でした。ただ、過去の過ちを責められ、その罪に捕われた周囲から爪弾きに遭い、そして地龍の輪の外へと押しやられてしまったのです。さくらが地龍で生きるとなれば人はまず家名を問うでしょう。そうした時、さくらは名も知らぬ大昔の先祖の罪をもって、後ろ指をさされ蔑まれることになる。彼女は何も知らぬと言うに地龍はさくらを虐げるでしょう。」
地龍では家名は大きなアイデンティティだ。その名を顔として一生を生きて行く。
良い家に生まれればそれを守るため、そうでない家ならば家名を上げるため、悪い家に生まれれば一生後ろ指を指されて生きて行く。前科者を許さないというよりも、自身の家名を上げるためのライバルを減らすために、一度名を落とした家をいつまでも蔑み続けるという意図が強かった。
理不尽で当たり前のシステムだった。
「そんな…。」
「俺はずっと願ってきました、さくらの能力が消えることを。だが年々強くなって、そしてあの類稀なる安定した『波形』だ。俺はどうしたらいいんだ。」
兼虎にとってさくらは大切な唯一の弟子であり、娘のような存在だった。腐敗した地龍の枠組みの外で生きるさくらを、自身の手で守り続けたかった。正直兼虎だけの可憐な花が毒虫共に見つかってしまったような気持ちだった。
けれどその毒虫であるはずの恭の瞳は澄んでいて翳りのないものだった。
「誰なんです、その罪を犯した先祖は、誰なんですか?」
「…多田行綱ですよ。」
かつて平安の時分、平清盛に対し謀反を計画したことがあった。その鹿ヶ谷の一件が上手くいかなかった原因となった男、多田行綱。多田は清盛を恐れ、仲間を裏切り謀反の内容を清盛に告げたのだ。その後も風見鶏のようにその身を翻し続け、鎌倉殿に追放された。多田は裏切りの家名であり、この源氏の本拠地である鎌倉では特に多田の家は罪深いものだった。そして、さくらが地龍で生きるということは、多田の汚名を背負うことになる。
「な…ここは鎌倉ですよ。否、京だったとしても同じか。」
「さくらの祖父は、さくらが多田の名を継ぐことになるかも知れないと憂いていました。さくらはその名に押しつぶされて殺されてしまうかも知れないと。」
兼虎の表情は地龍へなど渡したくないと物語っていた。
「さくらは地龍で生きていくしかない。仮に貴方が健在な内はこうして暮らしていけるとしても、一人になったらどうなります?」
恭の言葉に、現実で頬を打たれた思いがした。
「それに、俺の見立てでは彼女の力はこれから増す一方です。決して逆はありえない。おそらく貴方の手には余る。組織の中で守られ守るしか生きて行く術はありません。」
それも何となく察していた事だった。
「兼虎殿はさくらのために『波形』を鍛えてきたのでしょう?ぶれない『波形』は見えないのと同じ、読めない。誰にも揺るがない強さを持つために。地龍の中でも、強く生きて行けるように。」
「だがっ…」
「兄と取引をしました。」
唐突に恭が言った。
「取引?何だそれは、俺を地龍に戻すためのものか?」
兼虎は自嘲するように言った。どうせそうに決まっている、地龍なんて腐った組織の人間がまともな訳がないのだから。
「いいえ。さくらの最善を模索するための取引です。言いましたよね?俺と兄は関係がない。俺は兄が貴方をどうしようがどうでも良いのです。興味がない。俺が興味があるのはさくらの『波形』だけです。」
本当に『波形』にしか興味のないような物言いは一見冷たく感じられたが、『波形』は人そのもの。ひいてはさくらを心配してのことなのだと思うと、兼虎は不覚にも胸が熱くなった。
「さくらにはどこか良家の養子になって貰ってはどうでしょうか。家名を捨て、力の鍛練に励めば良い術者になる。」
「だがそんな家は…」
「兄は当主ですよ。何とでもなる。それに地龍の武家で跡取りを欲している所は少なくないはずです。さくらの力なら引く手あまたでしょう。貴方が望むなら、なるべく綺麗な世界で生きられるように取り計らって貰ってもいい。もちろん、地龍内での生き方ばかりはさくら自身が決めることですが、環境は用意できる。」
「…本当に…。」
魅力的だった。甘言と思いながらも、さくらの一生の事だと思うとそれは最善のように思われた。もしかすれば武家の娘として鍛練はしても前線に出ることのない生き方が出来るかも知れない。
「取引の条件は何だ。」
そんなむちゃくちゃを可能にするための代償だ、安く済む訳がない。
「兼虎殿が兄のものになること。」
やはり、そのために貴也は兼虎に会いに来たのだ。想像通りの条件だった。しかし恭は言葉を続けた。
「そして俺に好きな人が出来たら報告することです。今は未だいませんが。」
「は?」
「それが兄の出した条件です。」
恭の顔は大真面目そのものだった。
兼虎はふいに体が軽くなった気がした。
地龍の頂でなんてくだらない取引をしているのだ、この兄弟は。刀を振るい人の命を絶つことや自身のレールから逃れたくて無様に模索し続けてきたことが、どうしようもなく馬鹿馬鹿しく思えてしまった。つまらない事に拘っていたのではないかとすら思う程に、開放感があった。そして何も考えずに快諾してしまったのだ。
やはり人生の選択は唐突で抗えない。
きっと何かに導かれているのだ、兼虎はぼんやりとそう思った。
「変わった兄弟だ。よく似ているが、その実全く違う。太陽と月のように。」
それからしばらくして恭は、兼虎の元へ通う最後の日となったさくらの様子を見に行った。さくらは相変わらず綺麗な『波形』をしていた。
恭とさくらは兼虎の住んでいた廃寺からの帰り道を、肩を並べて歩いていた。夕焼けが肌を赤く染めていて、濃い影が坂道に長く伸びていた。
「私、地龍で生きるんだね。」
恭が貴也にさくらの行先を頼むと、貴也は迅速に行動してくれた。恭や兼虎が想像していたよりずっと良い家に行くことが決定し、きっともうさくらも事情を聞かされていた。
「さくらの人生を勝手に決めたことを怒らないのか?」
「ううん。恭くんが私のために考えてくれたことでしょう?それに、祖父が言ってたの。生きる場所は能力が選ぶものだけど、生き方は自分で決めるものだって。」
「良いお爺さんだ。」
「本当に。」
さくらは初めて恭に会った時、圧倒的な差を感じた。住む世界が違う、という言葉の本当の意味を体感した気がした。昔から周囲と一線を引かれることがよくあり、さくらは自身と周囲の差に無自覚だった。でもその時はっきりと分かったのだ。さくらが恭に感じた差こそ、周囲がさくらに感じていたものだと。さくらは他の人とは違うのだ、と。だから何となく地龍で生きることになるだろう事は分かっていた。
「さくらは変わらないでいて欲しい。」
「私は私のままでいるよ。恭くんが好きだって言ってくれた『波形』を守っていくつもり。」
何度も通った廃寺の長い階段を二度と上る事はないのだと思うと、さくらは無性に感慨深くなった。こうして『昼』の人間として何も知らずにいられるのはもう最後になる。そして、恭とこうして友達でいることも。地龍の人間になってしまえば、恭は当主の直系、手の届かない人になる。さくらは階段を下りながら、一段毎に『昼』を失う気がした。恭との思い出を失うような気がして、足を止めた。
「恭くん、私地龍で生きるよ。いつか多田の名を名乗れるくらい強くなるから。また会えるよね。」
さくらが真剣な声で恭に告げた。
恭からは逆光で顔が見えなかったが、『波形』は今まで見た中で最も華やかで切ない色をしていた。
さくらは何も分からないなりに覚悟をしているのかも知れない。おそらく親元を離れることになり、そして学校も今まで通りには通えなくなる。習い事程度だった術者としての修行を主とし、それで将来身を立てなければならないと教えられるだろう。何もかも百八十度変わる。恭はさくらを少し不憫にも思っていた。
けれど変わらないものもある。
さくらの『波形』と、恭の気持ち。恭はさくらが『波形』を守り続けてくれるなら、優しく育んだ友情の念を、これからもずっと抱いていけるような気がした。
「ああ。必ず。」
恭が手を差し出すと、さくらははにかんだようにやさしく握り返した。
「バイバイ。」
恭は夕焼けに消えて行くさくらの影を見ていると、唐突に晋を思い出した。「バイバイ」と言いながら去っていく晋はいつも泣きそうな顔をしていた。
その夜、恭はさくらの去り際の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。それはシンクロした幼い晋の姿だった。
月は皮肉な笑みを浮かべて闇夜に浮かんでいた。
窓から見る夜は、切り離された別の世界のようだった。明るい家の中と、暗い夜の外、それは『昼』と『夜』の姿だろうか。恭は、決して『昼』が明るくて楽しい世界だなどと夢を抱いたりはしていないが、それでも自身よりは因果を背負っていない分清らかな世界なのかも知れないと思っていた。結局はそれが『昼』だろうと『夜』だろうと、斬るということは、殺すということは、それだけ業が深いに違いない。汚れているのかも知れない。そういう世界をさくらはこれから知り、どう生きて行くのだろうか。あの汚れを知らない無垢さを抱きながら生きて行けるのだろうか。変わらずに。残酷だ。『昼』を知る分地龍とういう組織の業が醜く見えるかも知れない。生まれつき地龍であったなら何の疑問も抱かずに暮らせたかも知れなかったのに。けれどもしそうならあの『波形』は生まれなかったかも知れない。何もかもがままならない、そう感じると皮肉めいた月の笑みが恭を嘲笑っているように思えて眉根を寄せた。
どれだけ汚れていようとも、恭はまだマシだった。
晋の生きる道よりは、はるかに上等だった。
地龍の仕事の中にも、汚れ仕事というものがある。それは人間を斬ることだ。
『昼』と『夜』のバランスを乱す揺らぎを斬る上で、普通の仕事は揺らぎを見つけ、調べ、原因を断つ。だが最初から人間を斬ることでしか解決を見ないと判断される時がある。あきらかに人間に非があるもしくは『夜』が人間に取りつくなどの場合。それ以外にも地龍の術者が暴走したり『夜』に取りつかれたりするなど、術者を斬るしかない場合。そういう時は、汚れ仕事担当の術者があたるのが常だった。
地龍の武士は皆仕事柄仕方なく人を斬ることがあるし、その覚悟もしている。だが武士も人だ。出来れば誰だって人を斬りたくはないのだ。だと言うのに皆が嫌がる人殺しを生業とする者は、皆に感謝されることも無く恐れられ疎まれるばかりだった。
そして古くからその仕事をしてきたのは、矢集の家だった。
地龍当主を殺す呪われた家系として、周囲から敬遠され、皆の嫌がる仕事を押し付けられ、その上そのことで更に恐れられていた。
矢集は人殺しを愉しんでいる。何故だが分からないが、周囲は晋という人物をよく知りもせず、平気でそんなことを口にしていた。
恭は、如何に共に過ごし居場所や他の仕事を与えようとも、晋の生まれつき背負ったその業のようなものをどうにかすることが出来なかった。出来うる限り共に背負うことしか出来なかった。
それなのにさくらを多田行綱の子孫という生まれながらの業と無縁だと思うのは矛盾している。自覚はしていた。
「さくらを家名の業から遠ざけようとするのは、晋への裏切りでしょうか?」
恭はいつの間にか後ろにいた貴也に投げかけた。
「さあな。でも、お前が晋を裏切っても、晋の忠誠は揺るがないだろうな。」
恭は心が痛んだ。晋を裏切ること自体よりも、晋が信じていてくれることが辛い気がした。さくらを業から解き放つことで、晋を救えない事を購えるとでも思ったのだろうか。
急に空しく、そして切なくなった。結局は晋をさくらに近づけなかったことは、さくらの純真無垢な『波形』を見て晋がどう思うか何となく分かったからだったのかも知れない。羨望、嫉妬、憎しみに近い感情を持つだろう。理不尽で無慈悲な生まれながらの業が、こんなにもさくらと晋を別つのだと『波形』が物語っていたのは確かだし、恭がさくらの『波形』を気に入ることは少なからず晋を傷付けた気がした。
結局は綺麗なものを愛するのか、と思ったかも知れない。
血に、汚泥にまみれ、闇を纏いながら行く修羅の道で、孤独を感じてしまったかも知れない。晋に会わなければ、焦燥に近い感覚だった。
「晋を迎えに行きます。」
夜の闇の中を足音も立てずに歩く人影が見えた。夜に溶け込む闇色の『波形』が晋を闇そのものにしてしまいそうだ。虚ろな双眸に鋭利な赤い光が一筋走った。
泣いている。恭は何となく思った。
「晋」
声をかけると、驚いたように顔を上げた。
「迎えに来た。」
駆け寄ると晋は全身血だらけだった。
血液で肌に張り付いた髪を指で払ってやると、晋は息を吐くように力なく微笑んだ。
「恭がよごれる。」
「いい。」
恭は何か言おうと思った。さくらに会うために晋を遠ざけたこと、そのまま晋が仕事に行ってしまったこと、さくらを家名から逃がそうとしたこと、晋の業を軽減することができないこと、自分のふがいなさ、何を言えばいいのか解らなかった。そして言葉を紡げないままでいると、晋はゆっくり歩き出した。
その晋の手を、とっさに掴んだ。
血まみれの手はぬるぬるとして厭な感触がした。指先が凍てつく程に冷たく、震えていた。
「晋」
「恐いんだ。」
「人を殺すことが?」
「違う。人を殺すことを恐いと思わないことが、恐い。」
晋の手が恭の手を微かな力で握り返した。
「死を死とも思わなくなって、人を殺め続け、このまま骸を重ね続けて、その先にいるのが恭だとしたら?」
「…。」
「死体の顔が恭に見えるんだ。俺はいつか恭を殺すのかも知れない。」
晋の頬を濡らしているのが血なのか涙なのか分からなかった。それでも恭は多分泣いているのだと思った。
「恭、大丈夫だ、って、そんなことは無いって、言ってくれ。」
「大丈夫。そんな事はない。俺が死んだら晋が一人になる。地龍がどれだけ晋を疎んじても、俺が晋の居場所になるって約束しただろ。一人にはしない。」
「…うん。」
「帰ろう。晋がいない間にいろいろあった。話すよ。」
夜闇に溶けて飽和する晋の『波形』を、恭は美しいと思った。
数日後、兼虎は地龍の本家に呼び出された。
長い時間ではなかったが、住みなれたあの廃寺には愛着があった。けれど自身の選択の結果として再び家を捨てることになった。
新しい家は兼虎一人には十分すぎる程立派だった。その事だけでもお礼を言うべきか、それともさくらのことを言うべきなのか。取引をした結果として考えれば礼を述べるのは不自然か。兼虎は自身の立場や状況を把握しきれないままで地龍本家まで来てしまった。
地龍本家の空気は、懐かしさと息苦しさをまざまざと思いださせた。古い木の匂い、湿気と、そして術者の気が混ざりあっている。かつてしのぎを削った競争社会、そして逃げ出した場所。本当に自分がここに居ていいのか、兼虎はどうしようもなく心地悪い気がした。
本家に入ってからは、周囲はやけに恭しく頭を下げて来る。まかり間違ってもはぐれ武者にする態度とは思えなかった。戸惑いを禁じえないまま、通された部屋にいたのは、あの傲慢な当主と、源氏の当主義平だった。
兼虎が言われた通り座るや否や貴也は話し始めた。
「虎、俺は地龍を変えたい。くだらない戦に権力抗争、血で血を洗う組織の在り方はもうたくさんだ。だから俺には変革のための仲間が必要だ。お前には、鎌倉七口及び『龍の爪』のメンバーとして革命のために働いてもらうつもりだ。」
貴也が兼虎に言ったことは、兼虎の想像とは全く違うものだった。最初に貴也が尋ねて来た時から、兼虎のようなはぐれ者を地龍に呼び戻そうとするのは汚れ仕事をさせるためだと思っていた。しかし、鎌倉七口に『龍の爪』などと、それこそ地龍の武士ならば他人を斬ってでも手に入れたい名誉だと言うのに、まさか無責任にすべて投げだした兼虎の元にやってくるとは思いもよらなかった。そして思った、これは取引などではない。格別の取り計らいに違いない。救われたのだ。そう思わずにはいられなかった。
「でもな虎、俺はどうしても変えてやれないことがある。それは揺らぎを斬ることだ。『夜』を斬り『昼』を守るのでは俺達地龍が揺らぎとなってしまう。地龍はバランスの境界の上に立つ者、中立でなければならない。今のお前になら分かるんじゃないか?人を斬ってでも守る世界の価値が。」
さくらのことだ。大切な弟子の、かつ娘のようなさくらの存在が、世界を守ることに価値を与える。きっとまた、何度窮地に立たされても斬ることを躊躇うだろう。けれど刀を振るうことを覚悟した。兼虎の気持ちを理解してくれる人がいると知ったし、何かが変わる予感がした。ここに居れば、この人のために刀を振るい続ければ、いつか世界は変わっていくのだと、妙に確信めいた気持が湧いてきた。
「はい。」
貴也が満足そうに笑った。いけすかないと思ったその笑みが、信頼に足るものだと確信した瞬間だった。
その日から、兼虎は地龍当主直轄の特権組織『龍の爪』所属兼、源氏当主直轄の最強部隊『鎌倉七口』は巨福呂坂守護となった。
そして新しい直属の主である義平の発案で、親睦を深めようと宴席が設けられた。後から他の『龍の爪』のメンバーも来るというので、先に三人で始めることになった。
「恭殿には完敗でした。さすが弟君、黒烏をあそこまで使いこなしておられるとは。」
「恭に黒烏を抜かせたか。さすが俺の見込んだ男だ。あれはなかなか刀を抜かないからな。」
「抜かずに事を治める力があるってとこが凄いとこだよな。まったく恭は侮れないぜ。ただの弟の椅子に座らせとくなんて勿体無い。いっそ『龍の爪』に入れたらどうだ?なぁ貴也。」
義平が言うと、貴也は心底馬鹿馬鹿しいと言いた気に鼻で笑うと手を振った。
「馬鹿を言え。恭にはやらせないよ。」
「何故でございますか?恭殿ならば申し分ない素質でいらっしゃる。」
「あれの器は誰かの下で生かされるもんじゃねぇの。」
「なんだよそれ。恭に部隊でも持たせるのか?」
「ああ。いずれでっかい部隊の将となる男だよ。」
意味深に微笑む貴也は酔っているのか目が潤んでいるようだ。
何かそれ以上触れられない空気になり、義平は一気に酒をあおった。
「ところで虎、お前どうやって地龍から逃れてあの廃寺に辿り着いたんだ?普通に考えて無理だろ。」
明るく尋ねる貴也に、激しく同意してくる義平は既に酔っているようだ。
「確かに。周囲も反対するだろうし、追手も来るだろ。もしかすると、揺らぎの元となることを懸念して殺しに来るかも知れない。」
「ええ、それは、そのように取り計らってくださった方がいるからです。」
兼虎の意外な言葉に、二人は一瞬で酔いの醒める厭な感覚を抱いた。
「誰だよ?」
貴也が恐る恐る訊くと、兼虎の口からは想像していた名前が出てきた。
「小松殿です。」
貴也と義平は顔を見合わせた。
貴也が何か言おうとしたその瞬間に部屋のふすまが開き、春家と弁天、そして少し遅れて祥子が入ってきた。皆が口ぐちに兼虎に挨拶をしている所へ、貴也が再び口を開こうとしたが義平に腕を掴まれた。振り返り見ると、義平が首をふった。
「やめよう、酒が不味くなる。訊きたければ今後ゆっくり訊けばいい。虎はもう俺達の仲間なんだから。」
「そうだな。」
兼虎は遅れてやってきた仲間達と挨拶をしながら飲みかわしていた。
「近いうちに。」
貴也がつぶやくと、義平は溜息をつき仲間たちの輪に入って行った。
「本人に直接訊くさ。」
誰も聴いていない独白だった。
貴也は杯を傾け、そこに映る自身の目を見た。皆とは違う、当主の目だと思った。父と同じ、地龍の当主の目。昏い、先の見えない黒色の瞳が自分を見つめ返していた。
「兼虎殿。」
大きくはないが確かに通る声で恭が言った。兼虎が近づくと、柔らかく微笑んだ。
「ようこそ。今回は色々と俺が卑怯な手を使って貴方とさくらを利用してしまった。今になって少し申し訳ない気もしています。」
「とんでもない。こんな過分な扱いを受けるなど、俺は恭殿に救われました。さくらもそうです。『昼』に生き『夜』に狙われ死ぬより、地龍で生きる方がいいんです。生きていれば、それだけで。」
「そう言って頂けるとありがたいです。今日は俺の側近を紹介しておこうと思いまして。これから会うことも多いでしょうから。」
そう言った恭の後ろから細長い人影が現れた。
「矢集晋です。以後、お見知り置きを。」
晋の目は、まるで値ぶみでもするかのように兼虎をじろじろと見ていた。
兼虎は一瞬動けなくなった。
蛇に睨まれた蛙、自身をそう感じた。気分ひとつで、圧倒的で無慈悲な強さを行使し兼虎など塵と化すだろうことを察した。
人殺し
漠然とそう思った。
矢集の名は知っていた。そのおぞましい家系の存在はむしろ都市伝説だと思っていたくらいで、実際に目にすることがあろうとは夢にも思わなかった。
兼虎は矢集の禍々しい家名というより、その『波形』に恐怖を覚えた。
深い闇色の『波形』は奈落の底のような死そのもののような不気味さを湛えながら、近づくものすべてを引き込もうとせんばかりの狂気を孕んでいるように見えた。恐ろしかった。できれば近寄りたくはないし、そもそも兼虎という個を認識されたくなかった。そのまま、目を合わせることも出来ずに挨拶だけを済ませ、そそくさと晋の側を離れた。いつまでも晋の絡み付く蛇のような視線を感じて、嫌悪感と憎悪が込み上げ鼓動が高鳴った。
「大丈夫ですか?」
気が付くと恭が兼虎の顔を覗き込んでいた。周りを見回すと、遠くで晋は貴也と何か話しているようだった。少しほっとした。
「ええ。」
「水でも持ってこさせましょうか?」
「いえ、お気遣いありがとうございます。あの、何故矢集殿を御側に?」
恭は少し沈黙し、そして問いを返した。
「気に入りませんか?」
「いや…正直恐ろしいです。あの『波形』は人間というよりむしろ『夜』に近いような…恭殿のように見る力をお持ちの方がどうして…。」
「晋がはじめから今の『波形』だった訳ではありません。むしろ初めは、淡い乳白色の甘い色をしていました。晋は矢集の業を背負い一生懸命生きて、そして今に至ります。地龍という組織が晋をああしたのです。けれど俺は組織を恨みはしません。晋の生きてきた、戦ってきた証があの『波形』だ。俺はそれを愛おしいとすら思います。」
無類の『波形』好き。恭は自身をそう言った。兼虎はその言葉の本当に触れた気がした。
「俺は生きるために逃げ、彼は生きるために立ち向かい、それがこんなにも違う色を生みだしたんでしょうか。矢集殿の『波形』は、俺が立ち向かえなかったものそのものなのかもしれません。だから恐ろしい。」
「それで良いんです。俺は、晋を恐ろしいと思う人は、人として正しいとも思います。晋を『夜』と言いましたが、人と『夜』の違いとは何でしょうか?生物学的な部分以外には明確な境界はないはずです。悪い人間もいれば、清い心根の『夜』もいる。人格的な面に違いなどないと思います。けれど我々は人を襲う化け物としての『夜』の面ばかりを鑑み、そして常に警戒しています。そこでいけば、やはり晋は『夜』に近い存在なのかも知れないと思います。」
「矢集の家の血だから、人や当主を斬る家系だからと恐れられる所が、ですか?」
「危険性は皆無ではない。故に防衛本能が働く。それで良いんです。兼虎殿が色んな意味で晋を快く思わないことは分かっていて紹介したのですから。」
「え?」
「兄は耳障りの良い言葉で貴方を魅了するでしょうが、地龍の本質も現実も忘れてほしくなかったので。ある意味で晋は地龍の闇を体現した存在ですから。」
「…そうですね。理想を同じくする将に出会い、いささか興奮していたのは事実です。でも地龍で生きる以上、刀を振り続けるしか道はない。覚悟はするつもりです、自分なりの覚悟を。」
「ええ。俺もです。俺も変えたい世界があります。」
兼虎を見据える恭の真摯な眼差しが、貴也より遥かに遠い未来をとらえているようだった。
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