44 慟哭の事
東京の龍脈を覆う霧の所為で戦は混乱を極めていた。
時間・方向・敵味方などあらゆる判断を曖昧にしてしまうそれが、ただの霧でない事は明白だったが解決の術はまだ無かった。
その上、その霧に乗じて致死毒を持つ虫を放ち全てを骸の山にしようという京都七口・大江師房の策略は既に手の付けられない所まで進行していた。
しかもこの師房は、元々この戦乱に紛れて京都へ飛ぼうとしていた恭の足止めに成功し、今まさにその命を奪おうという寸前まで来ていた。
「恭くんの事は晋くんに任せるしかない。私達は毒の方を何とかしよう。」
師房と対峙する恭の加勢に行く際に晋は、毒の方を任せると言った。幸衡は言いながら、その場にいるメンバーを確認するように見まわした。そこには、藤原幸衡の他に、菊池実親・那須直嗣・平宗季がいた。
「そうですね。晋くんが恭くんを助けても、解毒出来なければ意味がありません。それに、親さんが…。」
直嗣が実親を見ると、実親がしゃがみこんだ。実親は先に直嗣を庇って虫の毒を受けていた。患部からは徐々に毒の侵攻を表すように異様な変色が始まっており、それに比例するように実親の顔色は悪くなっていた。
「大丈夫ですか…親さん、死なないでください。」
泣きそうな直嗣が肩を支えると、実親は汗を流しながら苦笑した。
「殺すなよ。」
「そうだったな。実親くんも毒に…。しかしこの毒がどんなものなのか分からない限り手も足も出ない。」
幸衡が思案顔をすると、宗季が前に出た。
『確か、この毒に感染した死体を見たって言ったよな。』
「兄さん?何か考えが?」
一時的に意識を同居させている宗季と光胤が会話を始めたが、周囲には光胤の声は聞えなかった。独り言を言う宗季を見る視線に気が付いて宗季が通訳を始めた。
「時間が無いため説明を省くが、今俺の中には兄の光胤がいる。兄が言うには、同じ毒でも死に至るまでの時間差があり過ぎると。親、患部を見せてくれ。」
実親が腕を出すと、宗季が患部に掌を当てた。
「兄さん、これで何か分かるの?」
『やっぱりな、これは『夜』の血を精製して作ったものだ。おそらくこの霧もそうだろう。』
光胤が言うには『夜』の血を精製して作る毒には、死に至るまでに個人差が大きく出るという。『昼』の人間ならば即死、術者ならば弱い順に早く死ぬと。瘴気と同じだ。
「つまり?」
宗季が内側に問うと、皆が固唾を呑んで見た。
『祓えば良いんだよ。』
さも簡単そうに言う光胤の言葉に、宗季が面々の顔を見た。
「この毒も霧も、『夜』の血からつくられたものだ。これを除去するには祓いの術が有効だろう。」
「…祓いの術?」
幸衡が訊き返した。実親は必死で意識を集中させて話を聞いていた。直嗣はそんな実親を支えながら宗季を縋るように見た。
「ああ。兄は『逢魔の血』の末裔で、幼い頃に父が兄の中の『夜』を祓うために何度も儀式を行っていた。兄が言うには、それをすれば解毒出来ると。」
本来ならば色々と追及したい幸衡だが、他に策がないためこの兄弟にかけるしかなかった。
「分かった。四の五の言っている暇はない。すぐに取り掛かろう。光胤くん、指示をくれ。」
『この霧の広がりが何処までいってるか知らねぇが、とにかく広範囲に渡って術を展開する必要がある。宗季、俺様が言う通りに演算構築を。幸衡はそれを出来るだけデカくしてくれ。』
光胤の言葉を通訳しながら宗季は刀で親指の腹を少し切った。幸衡と直嗣・実親も続き、宗季を中心に地面に一滴の血を落とした。全員で一つの術を実行するための簡易契約だった。
「直、あのドーム型の限界は?」
地面に殆ど倒れた体勢で実親が訊くと、直嗣は少し考えてから言った。
「多分…三キロ位で五分が限界です。」
「そうか…少し小さいな。当初の報告では戦火はもっと広範囲に及んでいた。十キロくらいまで広げたいな。」
「箱型が完成していればもっとずっと精度が上がりますが、今は…。」
直嗣が弓を握りしめた手が震えていた。その手元を見てから実親が唾を飲んだ。
「よし、やろう。箱型。理論上は可能なはずだ。俺が手を貸す。」
「え、でも。」
「出来るさ、俺を疑うのか?」
もう立ち上がることもままならない実親が、吐く息と共に告げる言葉が、直嗣の手の震えを止めた。それを見てから実親は幸衡に言った。
「その術、直が展開する浄化結界の基礎を利用して広げよう。幸衡殿は術の構築強化を。大きければ大きい程に術は脆くなる。」
「分かった。宗季くんやろう。」
幸衡が言って、宗季は術式の展開に取り掛かった。幸衡に術を説明しながら構築して行き、ふと気が付いた。
「…でも、?いの術を受けた後兄さんは体を壊しただろ?今この術を行えば、この敷地内にある兄さんの体も影響を受けるんじゃないか?」
『ま〜、そうだろうな。でも死にゃしねぇよ。』
光胤の体は生まれつき『夜』の血を含んでいた。そのため、取り憑いた『夜』などの邪気や瘴気を祓うための祓いの術では効果は無かった。しかしその影響で体を壊し暫く寝込んでいたのだ。おそらくこの術を受ければ、光胤はまた同じようになるだろう事は解っていて提案したのだ。宗季は、内側の光胤から伝わる温かさを感じた。
「俺が、看病するから。」
『願い下げだっての。』
合理性のために、家名のために、自分のために、平家のために、地位や名声や権力のために、利に適った社会のために、いつも機械のように思考してきた宗季は、いつも自分を殺して生きて来た。それは、結果的に光胤を追い出して手に入れてしまった自身の立場に見合うためだった。相応しい存在とならなければ、光胤が出て行った意味がないと思ったからだ。光胤を犠牲にして得るものを、無駄に出来ないからだ。
『気張り過ぎだっての。良いんだよ、俺様に気なんか使わなくて。宗季の良いようにしろよ。俺様の事まで、宗季が責任持つ必要ねぇんだからさ。』
重盛が常に言う「気張りや」と言う言葉がよぎった。いつも戸惑う言葉。今一体どれだけ頑張れているのか、もっと頑張らなければならないのか、宗季を困惑させる言葉。
『お前は十分頑張ってるよ。』
光胤が言った。
宗季の中のしこりのようなものが溶ける感覚が広がった。それは無自覚ながらずっと欲しかった言葉だった。ひとつだけ、空いていたピースがようやくはまったような、有るべき所へ帰ったような、安心感があった。
「俺を甘やかすのは、兄さんくらいだ。」
『俺様は世の中は甘い位が丁度良いと思うけどな。』
光胤が微笑んだ気がした。昔見た優しい兄の顔で、宗季に向かって笑いかけた気がした。
宗季の涙が一滴落ちた。光胤との会話を知る事は出来なかったが、宗季の表情を見て兄弟の間で蟠りが無くなったのだと幸衡は分かった。
直嗣が弓を引いた。
「直、俺が位置を指示する。十キロ、せめて十五分は持たせるぞ。」
「…はい。」
未だ完成した事のない大技に、ぶっつけ本番で挑まなければならないとは、直嗣は口から心臓が飛び出しそうな想いだった。
失敗は許されない。その手に多くの命がかかっていた。
「余計な事考えるな。構築は俺が確認してやる。思いっきりやれ。」
「…はい。」
渇いた声が出た。
緊張している事を嫌でも自覚させる声だった。
実親の視線を感じた。結局土壇場で弱さを露呈する直嗣に、呆れているのでは無いかと思うと弱気になった。
「直。」
実親が直嗣を呼ぶと、直嗣は反射的に怒られると思った。身構えて実親を見ると、予想に反して微笑んでいた。
「いつもの、言えば?」
実親は直嗣を呆れて見限ったりはしていない。どれだけ醜態を曝しても、変わらず信じていてくれる。何となくそう思う事が出来た。
直嗣は弓を構えた。集中した時の直嗣が見せる、心奪う程美しいフォーム。
「南無八幡大菩薩。」
呟いて射る矢が、実親の決めた位置に吸い込まれるように収まった。
空中は実親が座標を固定した位置に造った障壁に刺さった。地面は直嗣の矢に呼応する引き合う原理を持つポイントを作り、宙に射た矢が美しい放物線を描いてそのポイントへと刺さった。目標面積が広かった事で、箱型にするための点となる個所を増やす事にし、合計で十六本の矢を使用した。直嗣の所有していた矢はそれで全て使いきった。矢を温存するようにと言った実親の言葉を思うと、直嗣は本当に良かったと思った。きっとこうなる事を予想していた訳ではないだろうけれど、直嗣にとっては尊敬の念を抱き直すに足る事だった。
全ての点が揃うと、大きな箱型の結界が展開し始めた。
「準備は完了した。」
幸衡が言うと宗季が祓いの術を開始した。宗季の手元を起点にして直嗣の箱型の構築基礎を辿り広がって行った。まるで空中に血管のように光の筋が流れて行き、それに沿って霧が薄まって行った。
「何とかなりそうだな。」
幸衡が肩を撫でおろすと、実親が倒れた。
「親さん!」
「大丈夫だ、それより集中しろ、直。完全に術が成功するまで、持たせろよ。」
実親が倒れたままで空を見上げると、霧の隙間から微かに青空が見えた。それを見てぼんやりと今は昼間なのかと思った。
師房に射られた矢から無理矢理に力を供給させられ、無駄に頑丈な自らの結界に閉じ込められた状態となった恭は、毒の苦しみと術力の急激な減少で窮地に陥っていた。
外部から強引に転移してきた晋も、罠だらけの結界内で身動きが取れず、師房はニヤニヤとその状況を愉しんでいた。
恭が晋に馬乗りになったままで、晋の胸に掌を当てて心臓を掴むように押しつけた。
「後悔するなよ。」
「するかよ。」
師房は二人がやろうとしている事が全く読めずに眉をひそめた。
「契約により命じる。」
「契約により従う。」
恭と晋が同時に口にしたその時だった。結界に歪みが生じた。
「な…何だ?」
「この結界の構造解析は終了している。」
恭の言葉は師房には意味不明なものだった。
「どれだけの力を注ぎこめば壊れるのか、分かっていると言っている。」
恭の言葉と同時に、矢から伸びていたワイヤーが大きな音を立てて切れ、結界は破裂するように割れて消えた。
「え…何故…。」
師房が状況を把握する間を与えずに、晋と恭は刀を握り踏み込んだ。
風が吹き抜けるような速度で、師房が瞬きをした次の時には黒烏と刃霞が師房の胴を斬った後だった。
社会に疎まれ、社会を憎むしかなかった師房の、全てへの破壊欲求は今、自身の破壊によって幕を下ろした。否定に否定を返す鏡のような生き方を貫くために、いつからか肯定を映す事を否定し、破壊することでしか満たされないと決めつけていた。それを止める術を持つ者もおらず、ただ全て無に帰す事だけを求めて歩き続けるしかなかった。似たような傷を持つ者を集め、その傷を利用し良いように使って捨て、邪魔な者を殺し、十分過ぎる程に破壊を重ねて来たと言うのに、師房は歩みを止める術もなく。終わりは、全てが終わる時なのだと思っていた。けれどそんな師房にも、ようやく終わりが訪れた。止める者が現れた。この世の中には、生と死や肯定と否定と言った二択しかないと思っていた。師房は薄れゆく意識の中で、ならば破壊の対となるのは再生だと思った。師房が破壊ならば、それを止める恭は再生。この世を創り直す者。師房の濁った眼に、恭の肩に背負った未来が光のように映った。巡る魂がいつか、再生された世で幸福たらんことを祈り、目を閉じた。
それは恭が晋との主従契約により晋の術力を吸い上げ、師房の構築した結界に許容量以上の力を注ぎこむことで術を破壊させたのだった。そして残りの『封縛樹』を使用し地面を凍らせ地雷の発生を阻止し師房に近づいたのだった。その一連の出来事を、当事者の師房も見ていた者も誰も理解出来た者はなかった。二人がいつその策を相談したのかも誰一人として分からなかった。
師房の死によって、師房が展開していた術や放った虫などが消え、ひとまず被害の増大は抑えられたようだった。
恭と晋はその場に倒れ込んだ。恭に刺さった矢は結局抜く方法も分からず、師房が死んでも体内に入った毒も消えなかった。徐々に侵攻する毒の苦しみに恭が呻いた。晋も元々の戦闘での消耗もありながら師房の術を破壊するために術力を供給したため、既に起き上がる事もままならないようだった。
「晋、ありがとう。」
「うるせぇ、呼ぶの遅せぇんだよ、これで死んだら地獄の底まで追いかけてくかんな。」
「そっちこそ、死ぬ気で戦うなと何回言えば解る、単細胞が。誰がいつお前が死ぬ事を許可した。主の命令もきけないとは、とんだ駄犬だな。」
「御主人様のしつけが良いもんだからさぁ。放し飼いにされても御主人様から離れられないんだわ。」
「お前が心配で安心して死ねない。」
倒れた晋から見える恭の手は既に毒の回った不気味な色をしていた。
「そら良かった。」
晋は震える声を制御できなかった。
「晋、死ぬなよ。」
「それは、こっちの台詞だって。」
死にかけの恭が今際の際だと言うのにまだ晋を気遣い続ける事が、晋を縛りつけるような痛みを与えた。
見上げると、いつの間にか青空が広がっていた。
みるみる内に霧が消えていくのが分かった。
晋は、幸衡達が何とかしてくれたのだと思った。これで、恭が毒で死ぬ事はないと。喜びと安堵で少し力が出た。晋は首を回し恭を見た。
すると、倒れて動けない恭の目の前に思わぬ人物が立っていた。
「父さん…?」
燃える部屋の中で、貴也は何故か満たされたような表情をしていた。
法皇のミイラとされていたものは既に灰と化し、部屋は逃げ場の無い程に炎に包まれようとしていた。
長成が連れていた護衛達は火事だと慌てふためき逃げようとしたり暴れたりと騒ぎたてたが、今は矢集裕の手により床で屍と化していた。
「何故、矢集…我等長老会に与したんや無かったんか。」
裕の目は長成を映しながらも、まるで人間を見るそれではなかった。とても長老会に敬意をはらうようには思われなかった。
「はじめから…そのつもりは毛頭無かった言うんか。ほんなら、何で…。利用されとったんは、我等の方やったんか。」
割れた壺を抱きながら落胆に震える長成は、ふと気が付いた。
「ほんなら九条殿は…何のために我等に協力したんや。」
消え入りそうな呟きだった。最早それを知った所で事態に何の変化も与えない事は明白で、長成自身知りたいと強く思う程の力は残っていなかった。
絶望の惨状。
それを見てもう声も出せずに怯える長成は、裕に睨まれて壺を抱えたまま震えていた。
「これで長老会という組織は存在理由を失ったな。」
貴也が言うと、長成は苦し紛れに笑った。そして懐から小刀を出して首に当てた。
「これで勝ったやなんて思うたらあかんで。この国の頂は、玉座は神のおわすべき場所。それを成すまで、何度でも何度でも生まれ来る。それがために転生しとるんやからな!」
長成が叫びながら小刀で首を斬った。倒れて行く姿は炎の中に消えて行った。
長成は自らの転生し続ける理由を、かつての政の姿を取り戻す事、否過去以上の栄華を手にする事に見出していたのだろうか。確かに此処で長成を殺しても、転生組である以上何度でも繰り返すのだろう。その姿を見届けるようにしてから貴也が裕を見た。
「貴也、火が回る。早く出るぞ。」
義平が叫んで刀を抜いた。重盛も刀を抜き裕に向けた。しかし火の手が強まり二人と貴也を分断していた。視界を悪くした義平が貴也を呼んだ。
裕は熱を感じないかのように火の中を進み貴也に近付いて行った。
「貴也っ!」
重盛が叫ぶと、炎の中から貴也の声がした。
「ありがとな、二人とも。後は恭が何とかしてくれるから、力貸してやってくれ。静にも伝えてくれ、恭を頼むって。」
声を聞いて二人が火の中へ飛びこもうとすると、炎の中に映る二つの人影が陽炎のように揺れた。
一方が刀を振り、もう一方が倒れて行った。
それを呼吸も忘れて見ていた二人の足元に、硬い音と共に石が転がって来た。
見ると、深い蒼い色をした透明な石だった。貴也が常に所持していた石。貴也が最も愛した人の痕跡。琴と言う名の『夜』が残した欠片は、その艶めいた表面に炎を映して、そして溶けるように消えて無くなった。貴也に寄り添うように、去って行った。
「矢集!」
義平が叫ぶと、炎の隙間から矢集裕が朱烏を持って消えるのが見えた。
「転移したんか、どこへ…。」
「…恭の所か…。」
義平と重盛は目を合わせると、裕の後を追った。
晋は自身の目を疑った。
「父さん…?」
自分の声がまるで他人のように余所余所しく聞こえた。
振り返った晋の目の前に、恭を見下ろす矢集裕が立っていたのだ。
肩に貫通した鉄矢の所為で思うように身動きが取れない恭が、晋の声に呼応するように見上げた。
裕のコートは焼け焦げながら未だ煙を上げており、良く見れば全身が血に染まっているようだった。鬼神と呼ばれるに相応しい姿だった。恭はその裕の手元を見て視線を止めた。裕が持っていたのは朱烏だった。恭の黒烏と対になる地龍本家に伝わる刀。兄・貴也が所有している赤い刀だった。
―――何故
恭は再び裕を見上げた。
恭の毒は解毒されたのか変色していた肌が元の色に戻っていた。その手に、裕はそっと朱烏を握らせた。
恭の漆黒の瞳の中で光が回転するように揺れたのを、晋は見張るように見た。
朱烏の柄を貴也の手が握り締めていた。手頸から先のない手が貴也はもういないのだと告げた。それを持ってきたという事は、裕が貴也を殺したのだと悟った。
晋は頭が真白になった。父親が貴也を殺したという事実を全て白紙に戻したいと言わんばかりに。
そして恭は唐突に思い出した。
忘れたはずの父親の最期の姿を。
それは朱烏を握る手だった。今目の前にあるそれと同じ、全く同じ姿。
恭はその貴也の手にそっと自らの手を重ねた。すると手は空気に溶ける砂のように消えてしまった。幻のように、儚く、空しく、無くなってしまった。
恭がゆっくりと裕を見上げた。その目から涙が零れた。
「これで、おじさんのやるべき事は終わったんですか?」
恭が問うた。
晋はそれを無声映画のように見ていた。何も、聞えなかった。否、聞きたく無かったのだ。
「そうだな。恭、晋を頼む。」
晋からは見えない裕の表情は、やるせなさと悲しみが内混ぜになったような薄い微笑みだった。
恭はその顔を見て、目を見開いた。
理解したのだ。裕の「やるべき事」の正体を。
そして恭は晋を見た。
恭が口を開こうとした時、鼓動が激しく鳴った。
目眩がする程の高鳴り、それは熱を持ち、痛みを発した。
心臓が破裂するように、体内で暴れ出すように、脳を焼き切るように、全身が千切れるように、猛烈な痛みが走った。恭は苦悶に倒れた。地面に当たった矢がより深く体内に刺さったが、その痛みを感じない程の苦しみだった。未だ意識を保っている事が不思議だった。体の巡りを支配し作り変えようとするような強制的な感覚だった。これが龍の心臓なのか…。呼吸困難になりそうな喉から、何とか晋を呼ぼうとした。何かを訴えようとしていた。
晋は思考を止めた。
脳内を占めていたのは、敵の排除。裕が叩きこんだ、殺す事しか知らない獣の本能で、限界の体を奮い立たせた。
刃霞の柄を、逆手に握ると裕に向かって低く構えた。
裕はその晋を一瞥すると、苦しむ恭の背に刀を突き立てようとした。
その動作はまるでスローモーションのようにゆっくりとしていた。刃が恭の背に刺さろうとしていた。
「やめろぉぉおおお!」
恭の口が声もなく動いた。
―――晋、駄目だ。
けれど晋はもうそれを見てはいなかった。
ただ眼前の敵に向かって刃霞を振った。
「やるべき事をやれ。」
裕の声がした気がした。
それと同時に裕の頭が地面に転がった。少し遅れて体が横たわった。
晋の目が少しずつ心を取り戻して行った。
ようやく晋が自分がした事を理解した時、震える手から刃霞が落ちた。
晋が呆然と見下ろすと、その顔は憔悴し切った中に安堵を感じる穏やかなものだった。
晋はゆっくり膝を付くと、裕の頭を拾い上げた。
そして天に向かって吠えた。
恭は朦朧とする意識の中で、晋の吠える姿を見ていた。
涙が視界を阻害し、いつしか嗚咽を漏らしながら泣いていた。痛みによる涙なのか、悲しみによる涙なのか、それともこの運命に対する怒りなのか、何も分からないままで。
涙も流さずに吠える晋の分まで声を上げて泣いた。
慟哭が、痛ましいまでに悲痛な叫びが響き渡った。
いつしか霧は完全に晴れ、解毒は終り直嗣の結界も解除されていた。遠まきに一部始終を見ていた幸衡・宗季・光胤・実親・直嗣は、ただ茫然とその場で固まってしまっていた。
そこに、息を切らせた義平と重盛が転移して来た。しかし、事は全て終わった後だった。
「間に合わなかった…。」
義平が言うと、重盛が返した。
「これが、始まりや。ええか、ここから始めるんや。」
貴也が遺した未来が切り開くものに、全ての望みを託すように、願いのように言った。
立ち尽くしたままで、満身創痍のまま慟哭の雨の中にいる二人を見ていると、いつの間にか戦で生き残った者達が集い始めていた。
知将が、義将が、小鳥遊が、さくらが、そして仲間達が段々に集まり晴れ渡る空の下に、浄化された澄んだ風が吹き抜けた。
「ああ。そうだな。」
義平と重盛は同意し合うと恭と晋の元へ駆け寄った。
二人のまだ若い青年の体は、傷付き弱って頼りなく感じられた。
重盛の腕の中で叫ぶ事も止めただ自失状態のまま動かなくなった晋は、最早ただの抜け殻のようだった。人では無い『夜』のような濁った闇色の『波形』を纏った人形が、父親を殺す事で人間の心を斬り落としたように思えた。重盛は、色を映さない瞳を掌で抑えるように包み込むと、ただ抱き締める事しか出来なかった。その胸に強い光が放たれていた。きっと八つ目の龍脈が継承されたのだろう。「八つ目」である事の道は、転生組である重盛ですら想像出来ない過酷なものだろうと思うと、かける言葉も見つからなかった。
義平の胸で、ただ涙を流す恭の姿は純粋で汚れを知らない子供のように見えた。この双肩にすべてを背負わせるには、運命はあまりに大きすぎると思った。
「兄さんは、何て…?」
嗚咽の隙間から恭が義平に問うた。義平は自分も泣きそうになるのを堪えながら言った。
「後は恭が何とかしてくれるから、力貸してやってくれってさ。」
恭のやぶけてはだけた胸が、内側から光っていた。太陽に手を翳した時のように、体の組織を赤く透かして発光する熱が、段々に治まって行き、恭が深く長く息を吐いた。継承された心臓を確かめるように、ゆっくりと、息を吐き終えると、それから震える指で涙を拭いた。
「最後までテキトーなんだ…。」
「恭…。」
義平が肩を抱くと、その力に体を預けて恭は前を見た。
晴れ渡る澄んだ空気の広がりと、仲間達が恭を見ていた。
「力、お借りします。」
恭が、泣き枯らしたかすれた声で、しかしはっきりと言った。
義平と重盛は深く頷いた。
義平は、大声で叫んだ。
「ここに継承の儀は成った!地龍当主、神門恭様の元、地龍は新たな時代を迎える!」
その叫びを勝鬨として戦の終了を告げた。
そして生き残った者達は恭の前に深々と首を垂れた。
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