37 調略の事
恭と晋にとって大学生活最後の春がやってきた。
花は咲き、緑は芽吹いて、暦も目も温かさを実感しているというのに、突然冬に戻ったように気温を下げてみたりする、春は相変わらず面倒な女のように、緩急をつけたかけひきで焦らすように人を弄ぶ。寒さと温かさを往復しながら徐々に冬を忘れて行く日々の中で、恭は苦手な暖かい春風を感じながら思いにふけっていた。
思えば貴也に突然「大学生になれ」と東京行きを命じられて始まった生活も、もう四年目に突入するというのだから不思議だ。この四年は、決して貴也が望んだ平和惚けする日々ではなかったものの、多くの出会いと経験をした。
『昼』の人間に混ざって過ごす大学生活も貴重な体験だったし、多くの戦闘や、考察・研究を重ね、調査し自らが成すべき事と向き合ってきた。充実していた。
「それも、もうわずかか。」
「何が?」
呟いた恭に、晋が空気の読めない高めのテンションで訊いた。その顔を見てから、「もういい」と言って話を変えた。
「謹慎期間が過ぎても、殆ど謹慎してるのと変わらない生活だな、俺達。」
恭は大学と家の往復しかしない、する必要のない生活を、改めて実感した。
「え?俺は仕事も行かせて貰ってるし、多少出るけどね。恭がどっか行きたいなら付き合うよ?」
「や、いいよ。ここで足りてる。」
今の地龍の情勢は一触即発だ。当主に守られている弟の身で、ふらふらと遊んではいられない。恭は散っていく桜を見ながら大学の研究室へ向かった。
「しっかし、俺達かなり真面目に大学生したから、もう殆ど卒業出来るよね。」
「まぁ、あとは論文だけだな。それもだいだい出来ているが。」
恭はいつどんな状況となっても、なるべく大学を卒業したいと思っていた。貴也が厚意で行かせてくれた大学だ、きちんと務めあげたいという気持ちだった。そのために勉学に励んで来たし、その気持ちを周囲も汲んでいた。
「そんなに頑張られると、逆に緊迫した感じを実感するよね。」
「おそらくは卒業式までここにいる事は出来ないだろう。そのために出来る事はしておかなければな。」
恭に、陰陽師のように時を詠む能力などない。ただ、何かを感じるのだと言った。もう、わずかだという何かを。
「うん。」
晋が小さく頷いた。
これから何かが起こる。けれど、それがどんな事で、どんな意味を持ち、そしてどんな未来を生みだすのか、皆目見当もつかなかった。生きるか、死ぬか、そんな単純な戦場の道理では片付かない、面倒臭いものが渦巻いていて頭が痛かった。
「は?各地の武士達との連絡が途絶えた?」
貴也が声を荒げると、義平と重盛が気まずそうに目を反らした。
「ああ、こんな状況だしな。長老会の出方も不明だ。全国の配備を整えるよう連絡は密にしてきたつもりだったが、何故か急に途絶える家が続出してな…。」
「こっちもや。多分長老会の調略やろな。」
源平共に、各地にいる武家との連携が取れなくなったという。そして、それは調略によるものだと。貴也は口の中で反芻した。
「調略…。」
「向こうさんの言い分は朝廷の復活や。もしそれが成れば、武家は再び御庭番に逆戻りやろ。下手に立て付いて逆賊にでもなってみ。御家断絶は必至や。上手い事言うて調略するには丁度ええ理由や。」
長老会が戦の準備のために、各地の武家を取り込んでいる。長老会にとって、戦が起こる時は法皇の復活の時。即ち大義名分は長老会が持つことになるのだ。このまま地龍本家側に付いているという事は、逆賊となる事だ。
「法皇が蘇るってんなら、向こうに付くのが道理だしな。」
すべては天皇家を神として形作られたヒエラルキー故に、その命により源平を討つ目的の戦ならば、武家達が長老会に付くのは当然の判断だった。
「各地の武家を取り込んで戦力を拡大、か。俺達を追いつめてるつもりって事だな。」
「ま、実際追い詰められてるけどな。」
貴也が弱気なのか溜息まじりに言ったので、二人は少し戸惑った。見た目は衰弱している貴也だが、その内なる芯の部分の熱さや強さは揺らがないと思っていたためだ。子供じみた文句を言いながらも、決して弱音は吐かない貴也のスタンスは、どこかで精神の絶対なる強靭さだと思いこんでいた。何があっても変わらない、不可侵の強さだと。
けれど、そんなものは無い。
幾度となく転生を繰り返してきた義平と重盛は、よく分かっていた。そんな理想は幻想だと。けれど、貴也にはそんな幻想があるという、確信に酷似した感情をおこさせる何かがあった。
人を信じさせる、動かす何かが。
「さすがに、このまま調略が進んだ状態で戦になれば、囲まれて終わりの一網打尽やで。」
「どうすんだ、貴也。」
二人は今一度、貴也の心の内を探るように訊いた。
「どうもしないさ。」
貴也は、まるで今まで瞑っていた目を開いたように、見た事のない光を湛えていた。
「え?」
訊き返しながらも二人は、その目に宿る圧倒的な光に見入った。
「法皇は復活しない。いや、させない。」
決意、執念、謀略、光の中に見える感情は何だろうか。解らないながらも、頷いた。
二人は、最期まで貴也を信じる選択をした。
その光を、信じずにはいられないのだ。
それが、貴也という男だった。
「早くした方がいいんでない?」
伊康が小首を傾げた。
「そーだな。早くしないと可愛い赤ん坊が〜。」
まだ生まれて間もないような子供を片手で雑に抱いた雅憲が、おどけた声音で言った。
「卑劣な…。」
男は絞り出すように一言、呟くのが限界だった。
男は地方武士とは言え広域を治める大きな武家の主だった。子供は男の嫡男だった。待望の跡取り息子であり、男にとっても部下達にとっても目に入れても痛くない、それこそ宝そのものだった。
その宝が、突然やってきた押し込み強盗のような連中に捕まってしまった。
唐突に長老会からの使いだと言ってやって来た三人組は、高倉伊康・藤原雅憲・葉室光胤と名乗ったが、その名は聴いた事がなかった。そもそも家名が、今は無きものと思っていた者達だった。死んだはずの家の末裔、幽霊のような不気味さを持っていた。そんな不気味な使い達は、平家を裏切って長老会に与するようにと要求した。もちろんそんな事は出来ない。長年、それこそ家の成り立ちから今に至るまで平家である事を疑った事はない。平重盛というその人に忠誠を尽くす事が、男の家の指針だ。けれど、彼らのそれは要求ではなく、強要だった。いや、命令だった。
男は膝を床に付いたままで、俯いた。
男の周りには、既に抵抗を試みた部下達が倒れていた。俯いたままで見まわした所、死んでいる者はいないようだが、早く手当をしなければならなかった。
痛みに呻く部下の口に、飴を押し込みながら傍観している光胤を見て、男は悔しさに唸った。
「ぐっ」
男の苦悶の声に、雅憲が愉しそうに笑い声を上げた。子供が劈くように泣いたが、それがさも面白いのだと言わんばかりに笑っていた。
耳障りな下卑の声に怒りで手が震えたが、男の周りで倒れている部下達が目に入り堪えた。部下達は他家に自慢出来る手練れ揃いだ。それを糸も容易く倒した上無傷の相手に、男一人では到底敵わない事は明白だった。それに、子供が人質になっている。
伊康はニヤニヤしながら、男の肩に足を乗せた。軽く体重をかけて、押したり緩めたりしながら、今にも笑い出しそうな様子で言った。
「何が気に入らないの?法皇様が復活して朝廷に全権が戻れば、武家政権は終わりだよ。法皇様が戻られた時に、法皇様の敵対側にいるって事は、逆賊になるってことだよ。だったらその前に長老会に付けば?なんて超〜良い誘いじゃない?」
男は、伊康が打算で物を言う事に唾を吐くように睨んだ。反抗的な瞳に腹を立てたのか、伊康の足に力が入った。泣き叫ぶ子供をあやしもせずに、雅憲は興味無さそうに言った。
「忠義とか武士の魂とかそーゆーのに拘るのも悪かねぇけどさぁ、一族根絶やしになるよか良くねぇ?」
男は、二人の主張に歯を食いしばったまま、言葉を飲み込んでいた。
そのような事を承服する事は出来ない。けれど、断れば此処で一族郎党皆殺しは間違いないだろう。
いつまでも黙っている男に、痺れを切らした伊康が男の肩にかけた足に体重を乗せ、男の顔を床に付けた。
「いい加減にしてよ。アンタの熱いハートは認めてあげるから、終わりにしよ。早くうんって言えば、済むだけじゃん。僕、飽きて来ちゃったよ。もーその子殺そうよ。」
「そーだな。俺、こーゆー白黒はっきりしねぇの駄目だしな。」
雅憲が泣きわめく子供を小包か何かのようにぞんざいに持ち変えた。その様子に、伊康が食い付き、男を放置して駆け寄った。
「あは、潔癖な雅憲らしいや。ね、どうやって殺す?つか、おじさんもどーせ頷かないし、殺しちゃう?僕おじさんのあの目だ〜いっ嫌い。武士の誇りっての?本当に癇に障るよ。あーゆー何もかも当然って目されるとさ。僕の熱いハートが煮え滾っちゃうよ。ね、殺そう?もう皆殺そう?」
「いいな、やっぱちゃんと白黒つけるべきだよな。俺達が勝つためには、あーゆーてめぇは白だって信じて疑わねぇ奴を、真っ黒に染め上げて絶望させてやらねぇとな。てめぇが間違ってたって言わせて、懺悔させて、それから殺そうぜ。」
地龍組織を台頭する武士達を、個の分別なく全て恨んでいる伊康と雅憲は、生まれついての不遇への鬱憤のすべてをそれらの殺戮へ向けようとしていた。
本来は師房からの命令で、何人かに分かれ各地を回り、より多くの武家を長老会に寝返らせることが目的であったのだが、方法は問われていないので事故だと言って皆殺しにしても良いような気がしていた。自分達は不幸であり、その根源たる武士達を殺す事は当然の事だと思っていたので、そんな暴挙も許される範疇だという認識だった。
頑なな男の態度にすっかり飽きてしまった二人がああだこうだ言い合っている間に、しばらく黙って飴を舐めていた光胤が男の目の前にしゃがみこんだ。
「なぁ、あんたの志は立派だけどさぁ、本当の忠義を貫くなら、今は恭順した事にして時を待つべきじゃね?」
光胤が男の耳元でそっと囁くと、男は顔を上げ、光胤を見た。
「きっと小松殿もそう言いますよ。」
伊康と雅憲に聞こえないように様子を窺いながら言うと、男の手の上に赤い飴を一粒置いた。赤い色は平家の色だ。
「あんたは…。」
何か言いかけた男に、光胤は人差し指を立て黙るよう示した。
「蝶です。」
揚羽蝶は平家の家紋だ。
その言葉に男は意を決したように頷いた。
「解った、君達に従おう。」
大きな声で、殆ど叫ぶように男が言うと、伊康と雅憲は驚いた表情で振り返った。
先程までの死んでも折れない態度を一変させたので、戸惑いからか二人はただ男を見ていた。
「だから、その子を返してくれ。」
言う男に、つまらなそうに雅憲が子供を放り投げた。伊康も両手を頭の後ろで組むと、肩をすくませた。
光胤は子供をふわりと優しく受けとめると、男に返した。男は壊れ物のように優しく抱くと、怪我をしていないか確かめた。それから怪我人の手当などの手配を始めた。
「おい、光。お前何言いやがった。」
雅憲が殺しそうな眼光で光胤を射た。光胤は、板チョコを齧りながら返した。
「別に。早くしないと、短気な雅憲が本当に子供を殺しちまうぜって言っただけだ。」
光胤の言葉に、雅憲が頷いた。
「全くだぜ。」
だから放っておいてくれれば良かったという言い方だったが、光胤は無視してチョコを噛んだ。
「本当に光胤くんってば、甘いんだから。」
雅憲と全く同意見だとばかりに伊康がぼやいた。
「俺様は甘党だから。」
「それって意味違くない?」
「ま、任務は完了だし。次行こうぜ次。次こそはもっと骨のある奴だと良いよな。あと、もうちょい清潔な屋敷希望。見ろよ靴下の裏。」
雅憲が足を上げて足の裏を見せて来た。古い館だからなのか、曲者と見て駆け付けた部下達が下足だったからなのか、靴下の裏は真っ黒になっていた。
「もうこれ洗っても落ちねぇやつだし。新しいヤツおろすかな。」
「え〜、それはちょっと潔癖すぎでしょ?靴下は穴が開くまで履けばいいじゃん。」
「うわ、何言ってんだよ、お前不潔か?」
「僕は熱血だよ。」
「自分で言うな。殺すぞ。」
下らない事で騒ぎながら男の館を後にする雅憲と伊康の後方で、少し安堵したように肩を撫で下ろした光胤に、男は深々と頭を下げていた。
携帯端末の画面を見ながら師房は為顕に業務連絡をした。
「雅憲・伊康・光胤は終わったようだ。次に行かせる。」
新幹線の車窓から景色を見ながら眉を吊り上げた為顕が、師房の横顔に視線を移しながら言った。
「ほう。意外だな。順調に任務をこなすとは。師房がやり方を問わなかった地点で、誰かは調略対象を殺すと思っていたのだが。」
「どうせお前は誰かが死体を土産に帰って来るのを期待していただけだろうが。まぁ同意見だが。しかも雅憲と伊康が最もその可能性がある班だったが…。」
師房がペットボトルのお茶に口を付けて言葉を濁した。為顕はその続きを確認するように口にした。
「光胤、か。」
光胤は、雅憲と伊康が二人で行くというのを聴いて自ら志願して付いて行ったのだ。
調略方法を指示しなかった師房は、班分けもそれぞれの好きにさせていた。片腕を犠牲にして全員合意のリーダーとなった後でも、師房はなるべくメンバーの好きにさせるようにしていた。個を殺す事は、勝利への渇望や武家政権への恨みを殺す事になりかねないと考えての事だった。
しかし、雅憲と伊康が二人で行くと言い出した時は、師房も二人が調略対象を全滅させるかも知れないと思った。メンバーの中でも雅憲・伊康・業周の三人は直情的な性格で、考えるよりも先に手が出るタイプだ。光胤が雅憲と伊康の衝動を上手くコントロールして事を治めているとすれば、今までの光胤の評価を変える事となる。ちなみに師房にとっての光胤の評価は、「腕の立つ食いしん坊」以上でも以下でもなかった。
師房は頷く代わりに答えた。
「ただのカスじゃなかったか、ある意味では見込み違いだな。」
「思ったより頭が切れると?ならば良い見込み違いだろ?」
「いや、どうだろうな。その爪をどういう意図で隠しているのかにもよる。」
どういう意図、という言葉の意味を掴み切れずに、為顕は怪訝な表情で言った。
「…ただの甘いもの好き故に、では?」
「埋めるぞ、カスが。光胤は俺達とは似て非なる者、かも知れないという事だ。」
光胤から感じる同類の匂い、生まれつき負け犬の、世間に対する憎しみを原動力に走る哀れな玩具のような雰囲気、それは嘘で造り出せるものではない。しかし、似て非なる者、同じようで違う者、だとしたら…。師房の頭の中にある想像を、完璧には掌握できないながらも、為顕は不敵に笑った。
「…死ねば皆同じ躯だ。故に俺は躯を愛する。真なる平等な姿をな。もし師房が光胤を不要だと思うならば、俺に殺らせろ。」
仲間でも敵でも関係ない、師房がそう思うならば、と。
確証もなく言葉にした可能性の話で、既に殺気を帯びる為顕に、師房はさすがに戸惑った。
「仲間を殺したがるのか?」
「仲間も敵も死ねばただの躯。だが敵だけでなく、仲間の躯もなければ、平等とは言えないだろ?ありとあらゆる躯が揃わなければ。」
「お前…この師房の死体欲しさに付き纏うんじゃねぇだろうな。」
「よく分かったな。」
「埋めるぞ!」
師房が持っていたペットボトルを握りつぶして、中からお茶が噴き出した。
一条維隆と源業周は、京都七口の中で最も遠方担当となっていた。とりあえず南側から、師房の指示通り京都へ向かって移動していた。現在は九州だ。
移動する電車の中で、維隆が説教口調で業周に言った。
「良いですか、業周くん。これは調略です。簡単に刀を抜かないで下さいよ。」
「分かってるって。維隆さんは保護者みたいだなぁ。少し黙ってて貰えると上手くいく気がするよ。」
「なっ。業周くんは偵察の意味も御存知なかったではありませんか。だから注意しただけです。」
「はぁ?知ってたし、知ってたけど、俺は女の子のお尻しか追わないの!男のケツとか寧ろ蹴り飛ばしたい派だし。」
「何なんですか、その派閥…。」
元々女にしか興味がない上、感情のままに行動に移す業周の制御は、思いの外骨だった。
「維隆さんこそ、本当は光胤さんとが良かったんでしょう?ふられたからって俺に当たらないでよ。」
「別に、そういう訳ではありませんよ。私は誰とでも構いません。しかし、敢えて選ぶならば、光胤くんとならば仕事がスムーズに行くだろうと思っていただけです。」
とは言ったものの、内心はぎくりとした。維隆は光胤という男に興味があった。どこかでシンパシーのようなものを感じていたのだ。故にその正体を探りたかった。その機会は逃したが。
「ほらやっぱり。どーせ俺とじゃ不満でしょうよ。でも俺と光胤さんとでそこまで違うと思わないけど。寧ろ暴飲暴食しないだけ俺の方が維隆さん好みでしょうよ。あ、逆に世話焼きたい的な?」
光胤のひたすら甘味を食べ続ける所は、確かに目に余る。けれど、それはどこか精神的な依存のようなものに見えたし、尊大な口調も精神のアンバランスさを感じさせた。けれど、そういう事ではないのだ。維隆が光胤に拘る理由は。光胤ならば維隆の知りたい事の答えを持っているかも知れない、と思ったからなのだ。維隆は携帯端末を握った。
「少なくとも、業周くんのように調略対象が男性だと見るや暴行に及んだりはしない所です。」
「いや〜、やっぱ髭面のオヤジ口説く趣味ないし?寧ろぶん殴りたい派、みたいな?」
「だから、どういう派閥なんですか、それ。とにかく二度としないで下さい。逆に面倒ですから。」
「無理だし。本当は維隆さんだって殺したいくせに、偉そうに言うなよ。」
「無理じゃありませんよ。殺戮は適度な運動程度が望ましいのです。二人で城を一つ落とすのは明らかにオーバーワークですよ。」
「無理だし。我慢できないし。」
「じゃあ、髭を蓄えたの中年男性の中身が美女だったらどうするのですか?」
「見た目オヤジじゃん!」
「では美女の中身が中年男性だったらどうするのですか?」
「見た目が美女ならイイよ。」
「本当に?業周くんを蠱惑する眼差しは、実は中年男性のそれなのですよ?どんなに美しい容姿をしていても、その中身は、髭を蓄え、メタボの腹部を抱え、油汗を浮かべた、中年男性なのですよ?」
「ちょっと、やめて。マジで。」
「では、次の調略対象が例えどのような容姿であろうと、その中身は小野小町も驚愕な美女という事でお願いします。」
「頭こんがらがって来た。」
意味のない言葉遊びにすっかり煙に巻かれた業周が頭を抱えている内に、維隆は携帯端末をチェックした。メールが来ていた。小鳥遊翁から。
『報告せよ』
たった一言の、簡潔な催促だった。維隆は少し笑った。
元々は絶縁状態だった母方の祖父である小鳥遊翁は、長年長老会に仕えていた。現在は地龍当主の目付役という名の監視として貴也の元にいるが、何があってか所謂二重スパイという奴に鞍替えしたらしい。孫である維隆を京都七口のメンバーにねじ込み、内部を探らせているのだ。維隆は武家政権に対する鬱憤を晴らせる機会があれば何でもいいと思い、祖父を利用してやるつもりだった。敵という敵全てを殺し尽くし、勝利し生き残るための手段ならば、選別の余地などないと。けれど、長年それこそ敬虔な信者のように長老会を、朝廷という概念を崇拝し尽くして来た祖父・小鳥遊翁という男があっさりと掌を返した事実に、維隆の心は少なからず揺れていた。予め築いた承認される立場を犠牲にしてまで地龍本家に付くのは何故なのか。
欲しいのは正義ではない。師房の言うように、正義は勝者が得る王冠のようなものだ。維隆が欲しいのは認められる場所だ。勝利し生き残る先にそれがあると思うからこそ戦うのだ。掲げる旗はただのエゴだと自覚している。維隆が喉から手が出る程に欲しい、肯定され存在を望まれるその地位を捨てて地龍本家に付く小鳥遊翁の真意とは何か。愚行か、または維隆の知らない何か、勝敗や生死ではない何かなのか。
そんな気持ちをぶら下げたまま、七口としての殺人鬼たる維隆と、小鳥遊の内通者としての維隆の二重生活を続けているのだ。
小鳥遊の簡潔なメールの文章は報告の遅延に対する苛立ちではない。連絡手段に古典的な通信術を要求する祖父小鳥遊に、どうにか電子メールを教え込んだ維隆にとっては漢字で送られてきただけでも、かなりの進歩だった。そのメールを見ると、さすがに少し微笑ましい気持ちになった。
「何笑ってるの?まさか、女からのメール?」
業周が不機嫌そうに声をかけてきたので、微笑みながら答えた。
「祖父です。」
「おえっ。」
美女どころか高齢の男性だった事が、業周のどこかにダメージを与えたようで、気持ち悪そうに窓の方に向いてしまった。すっかり興味の無さそうな業周に安心して、維隆はメールの返信をした。
『京都七口は全国行脚中。各地の武家の調略は頗る順調です。夏までには、準備が整う算段です。今の内に京都の守りを固めるべきかも知れません。』
送信ボタンを押すと、隣の業周は寝息を立てていた。維隆はその寝顔を見ながら呟いた。
「私も、決断しなければなりませんね。」
小鳥遊の言うままに生きるのか、長老会の犬として大義名分を得て内なる苛立ちを発散させる生き方を取るのか、それとも…。夏までに、否、戦が始まるまでに、道を選ばなければならなかった。今はそのための勝ち馬を見極める時期だと思った。そしてそのヒントを、光胤ならば知っていると思ったのだ。同じ内通者の光胤ならば。
「え?京都に行く?」
春家が唐突に京都配属の任を受けたのは、六月の事だった。
「ああ、元々京都守護ってのは六波羅探題の時分から北条の仕事だからな。急な話だが、いつかは行かなきゃならない事だったし仕方ないな。」
春家は眉ひとつ動かさず冷静に言った。持っている荷物は少なかったのは、単身赴任するつもりだったからだ。今京都へ行けと言うのは、明らかな戦の準備。最前線を任されたのだと認識した。妻子は鎌倉にいた方が安全だ。それに、一生を京都で暮らすのではない。いずれは鎌倉へ戻り、北条家を継ぐのだ。それが何か月か何年かは不明だったが、春家は覚悟を決めていた。
「でも、今…。」
「直、よせ。もう決まった事だ。そうだろ?春。」
宗季が訊くと、春家は頷いた。
「俺の後任は道白が来るから。何かあったら何でも道白に言ってくれ。俺よりずっと頼りになるよ。」
碌な別れの挨拶もなく、春家は足早に去ってしまった。
鎌倉七口の面々は顔を見合わせた。
「道白?」
「誰?」
結局何が何だか分からないうちに、事は進んでいるようだった。
そして翌日、その道白がやってきたのだった。
「安達道白です。どうぞ、よろしくお願いします。」
純和風の整った顔立ちに、糊の利いた白いシャツ、優しげな眼差し。良く知っている人物にそっくりな、否同一人物と言っても過言ではない容姿をした男が、聞き覚えのある声で挨拶をした。
「弁天…?」
誰かがぽろりと言葉を零した。
「いえ、弟の道白です。生前は兄・道玄がお世話になりました。」
何もかもが弁天そのもののような生き写しの弟・安達道白は、困ったような顔で微笑んだ。
「え〜っと、とりあえず俺、春さんの後任という事で、新入りながら七口を率いる運びとなりましたので、至らぬ点も多いかと思いますが、ちゃんと付いて来てくださいね。」
兄弟とは言え、ここまで似るものなのかと圧倒されている面々の中で、実親がふと見ると、優しい穏やかな口調で頭を下げる道白を見ながら直嗣が震えていた。
「おい、直どうし…。」
実親が何か言おうとした時だった。直嗣が勢いよく前に出ると、直角に頭を下げた。
「すみませんでした!弁天さんの事、俺の所為で弁天さんが亡くなった事…。」
全員が息を飲んだ。
場の空気が凍った。
声をかけようとしていた実親の出しかけた手が、宙に止ったまま固まってしまった。
直嗣の肩が震えていた。地面を向いたその顔を見る者は誰も居なかったが、固く目を瞑っている表情が分かった。
「顔を上げてください、直嗣くん。」
申し訳なさそうな声だった。
「兄は、道玄は、俺と違って変な人でした。人のために何かをする事が大好きな人だったんです。だから、直嗣くんが兄の命を大切に使ってくれれば、それで兄は本望なんだと思います。だから、俺に謝る必要なんてありませんよ。どうぞ、これからよろしくお願いします。」
弁天とそっくりな声で、顔で、諭すような言葉を紡ぎ手を差し伸べる道白に、直嗣は覚悟を決めたような潤んだ目で答えた。
「はい!」
満足したように微笑む道白は、やはり弁天その人のように見えた。
「え〜っと、じゃあ挨拶も済んだ所で、これからの七口の配備と体制についてなんですけど、いいでしょうか?」
「え?」
道白は話題転換する教師のように手を叩くと、相変わらず微笑みを湛えたままではっきりと言った。
「こういうのはきっちりしてないといけません。俺、春さんに任されたとは言え、春さんみたいにいい加減にやるつもりはありませんので。とりあえず、座って下さい。長くなりますから。」
言いながらテーブルに書類を広げ始めた道白に、全員が唖然とした。
「春さんから引き継いだ時に、いろいろと気になる所があったので。この際はっきりさせておきましょう。」
いままで春家がテキトーと言ってイイ感じにぼかしてきた部分や、なあなあになっていた部分、何となく多めに見て貰っていた部分など、あらゆる事にテコ入れをする意向であるとその口調がはっきりと告げていた。
現鎌倉七口は『龍の爪』との兼務の者も多く、任務も多岐に渡っていた。そのための七口直轄小隊の強化と編成に、非常時の配備と連絡系統についてなど、道白がきっちりはっきりさせておきたい事は山ほどあるようだった。
「では、会議を始めましょう。」
道白の優しい声は、さっきとは打って変わって地獄の鐘の音のように響いた。
会議と言う名の、殆ど説教のような会は、朝になっても終わらなかったという。
後で兼虎が道白について春家に問うた所、弁天は道白を夜叉や羅刹を配する将として毘沙門と形容したと言った。微笑みを絶やさず穏やかな物腰の、鬼軍曹だと。
それを聞いて全員が深く頷いた。
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