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30 帰還の事

 (さね)(ちか)直嗣(なおつぐ)の帰還に、鎌倉は大いに盛り上がった。元々極秘任務だったため、知らぬ者は何故かお祭り騒ぎだなと首を傾げていた。

 「よく戻ったな。本当に。」

(よし)(ひら)が二人を熱い抱擁で迎えると、帰還後は終始困ったような顔をしていた直嗣が突然声を上げて泣いた。ずっと直嗣の中に張り詰めていた何かが、やっと緩んだようだった。それを見て実親も目がしらが熱くなった。

 「隊長、ただいま…。」

直嗣がようやく絞り出した声に、義平は涙を堪えるように大きな声で笑った。

 「お帰り!」

義平がまるで家族を迎えるように、もう一度強く直嗣を抱き締めた。

 「きっと弁天が守ってくれたんだな。」

 「言えてますね。あのお節介な弁天さんの事ですから。」

義平の言葉に実親は肩をすくめて返すと、ようやく直嗣が笑った。

 「来い、報告を済ませよう。」

 二人の肩を叩きながら義平は貴也の元へ案内した。

 久しぶりに見る貴也は以前より希薄な印象を与えた。どこか憔悴したような顔で微笑んで二人を迎えたが、一見して命かながらの死線を越えて来たのは貴也の方という感じだった。

 「よく戻ったな。おかえり。」

 「は…ありがとうございます。」

二人を迎える言葉もどこか覇気が無いように感じられて戸惑った。実親が恭しく頭を下げるので、直嗣もそれに続いた。

 「あの…すみません、地下迷宮探索と名打っておきながら、完全攻略とまでは。」

 「いや、恭が邪魔をしたみたいだし、謝るのはこっちだ。」

 「いえ、恭殿がいらっしゃらなかったら俺達は戻って来る事はなかったかと。偶然とは言え、本当に幸運な事でした。しかしそれ故に、恭殿と晋殿が負傷された事、我らの所為です。」

 「いや、違うな。恭達も、君達がいなければ戻る事は出来なかっただろう。お互い様って事だよ。それでも気が済まないって言うなら、恭に直接言ってやってくれ。」

 「はい。必ず。」

それから二人は尋問と言って良い程に地下迷宮について話し続けさせられた。ようやく戦地から戻ったと言うのに、休めるのはまだ先になりそうだった。



 「ね〜、約束したじゃん。」

もう何度目になるか、義将(よしまさ)が晋の肩を揺らした。

 「うん、そうね。でも今は無理じゃん。もうちょい待っててよ。」

晋は包帯の取れない目で義将を見るように顔を義将の声のする方向へ向けた。その手元では何故か林檎と包丁を持っていた。

 「でも見えてるでしょ、それ。」

義将が指さした林檎は綺麗に剥かれていた。晋は地下迷宮後の状態はしばらく目が見えなくなったくらいで特に外傷もないため、未だ床に伏せっている恭のために何かしたくて仕方ないと言った。だが本当の所は晋の目も重傷であった。本来あの状況で目が潰れなかったのは奇跡的であり、回復の見込みがあるとは言えどんな後遺症が残るかは不明だった。恭の方も大量の瘴気を吸い込んでおり、体に蓄積されたそれらが抜け切るまでには十ヶ月程を要するだろうという診断が下った。その診断を受けてか、貴也が命令違反等の罰則として恭と晋に下したのは、一年の蟄居謹慎だった。相変わらずベタベタに甘やかした処分だったが、二人がダメージを受けた事自体が伏せられていたため、対外的な対面は保たれていたようだった。知将(ともまさ)は二人の容態を伏せた事を含めて貴也の愛情の深さに心酔していたが、恭はただ呆れただけだった。

謹慎と言っても知将の家は大学の敷地内に位置するため、大学に通うのは許されていた。今は無理でも、回復状態によって徐々に大学へ行く事も出来そうだった。結局元の暮らしに戻って大人しくしていろという意思表示なのだろう。

晋は見えない目で、日がな恭の部屋で過ごしていたが、日が経つにつれ飽きてきたらしく、目が見えないのに林檎を剥くなどの奇行に走り始めていた。

 「いや〜、出来そうだなって思ってたんだよね。刃物は得意だし。まさか、ここまでハイクオリティーだとは、俺は俺が恐ろしい。」

 「もし出来そうだと思ったとしても目を瞑って林檎を剥くのは止めた方がいいと思うが。」

恭はベッドで横になったままで、器用に林檎を剥く晋を眺めていた。

 「な〜に言ってんの。結果オーライでしょ。はい、あ〜ん。」

 「どこに差し出している。」

わざとなのか明後日の方向に林檎を差し出す晋に、恭は溜息をつきながら手を伸ばした。

 「ねぇ、恭兄ちゃんからも何か言ってよ。」

勝手に晋の手元から林檎をつまんで食べながら義将が言った。

 「確かに、晋と義将殿は稽古の約束をしていたのだろうが、晋の目が回復しないのでは困難だろうな。元より鍛練を怠らぬ真摯な姿勢であったとは言え、何故そう焦る?」

恭が林檎を咀嚼しながら言うと、晋も一切れ齧り始めた。

恭の問いに暫く沈黙を返していた義将を無視して晋が明るい声で言った。

 「これ、ちょっと剥くのに時間かかりすぎたね。」

長時間晋の手の中にあった所為で、ひと肌に温まった林檎を食べながら肩をすくめると、ようやく義将が口を開いた。

 「道場で試験があるんだ。」

 「試験?」

 「受かれば、揺らぎの討伐に連れて行って貰える。」

 「つまり、初陣だ?」

晋が嬉しそうな声を投げると、義将は沈痛な面持ちで頷いた。

 「その試験のために特訓したくて。だから…。」

 「それならば何故もっと早く言わなかった?」

 「二人とも、何か大変そうだったから言えなくて。父さんも、自分でなんとかしなさいって言うし。」

恭も晋も、地下迷宮の亡霊が矢集(やつめ)(ひろむ)だと知って以来戦々恐々としていた節があった。その上二人で猛特訓を始めてしまい、確かに義将の付け入る隙は少なかったかも知れない。

 「そうだったんだ。ごめんね。俺、自分の事ばっかりで、義将の事ほったらかしだったもんな。」

 「ううん。晋兄ちゃんが大変なのは知ってたから。」

いつか、死んでいて欲しいと言った父親が現れた事で晋がどんな精神状態なのかは、義将には分からなかったが、それでも大変な状態なのは確かだった。

 「晋、なんとかしれやれ。」

 「へ?」

 「これだけの事が出来れば何とかなるだろ。」

恭は林檎を指して言った。

 「俺は寝る。いいから行け。」

恭は体が鉛のように重いと言って殆ど眠って過ごしていた。体の輪郭から湯気のように黒い靄が纏わり付いていた。横になる恭がもう一度晋の名を呼ぶと、晋はのろのろと立ち上がった。それとこれとは全く違うのだが、それは恭も百も承知で言っているのだ。

 「じゃあ、とにかく今出来る事をやりますか。」

 「うん、ありがとう!」

二人が恭の部屋を後にする時、晋が壁に頭をぶつけて痛がっていた。恭は、けしかけたは良いが先が思いやられるなと思った。



 三月の声を聞くと、鎌倉では風も少し厳しさを和らげ、春の気配を感じていた。

 実親と直嗣の報告から分かった事は大きな手がかりだった。一か八かの賭けのような任務に行かせた甲斐があり、作戦を立てた張本人である三人はほっと肩を撫で下ろした。貴也と義平と重盛(しげもり)の三人は。

 「鬼の角?」

 「ああ、今回地下迷宮の瘴気に対抗した物は、三つ。鬼の角、矢集裕が持っていた手形、そして黒烏(くろう)。」

 「龍の牙か。つまり、その手形ってのも同じような代物って事だろうな。」

晋が瘴気の中で意識を保っていた事、そして目が潰れなかった事は鬼の角と黒烏を所持していたからだった。また、地下迷宮を脱出する際にそれらは大きな力を発揮した。脱出のための転移をする際、どうしても一度結界から出る瞬間がある。その瞬間の全員を結界の代わりに守ったのは黒烏だった。

 黒烏(くろう)(あけ)()は龍の牙と言われるもので、破魔の力は最強と言われる代物だった。鬼の角も同じく、強い『夜』の体の一部であり、鬼自身が瘴気に耐えうる力を持つ故に、力を発揮したと考えられた。

 「蛇の道は蛇か。それをどうにかするために我武者羅に刀を振るのではなく、同じものをぶつけて相殺させるか、もしくはより大きなものを持って打ち消すか。」

義平は思案しているようだったが、少し嬉しそうでもあった。

 「ようやく地下迷宮攻略の糸口が掴めた言う事やな。」

言ってから重盛は首を傾げた。

 「そう言えば、何で恭くんは主従契約を使えへんかったん?」

恭と晋は主従契約という絶対命令の力を持っている。それを使えば、多少の摂理を無視した無理は通るはず。それだけの強制力のある契約だ。完璧と言わないまでも状況を打破する事は可能だったかも知れない。

 「晋の力は完全に枯渇してた。そもそも、晋は転移のセンスが恭程じゃない。契約の強制力があっても恭の補助なしに術のクオリティーは上がらないだろ。あの状況だ、どこに転移してたか分かったもんじゃない。それに、強制的に物事をどうにかするって事は、リスクを顧みないって事だ。晋の潜在的な力の全てを使い切って術を実行したらどうなる?」

貴也の言葉に義平は吐きだすように答えた。

 「死ぬな。それにそうまでして転移先の座標が未知ってあたり、危なすぎだな。」

 「本当に最後の最後、万事休すってタイミングでなきゃ、恭は晋を犠牲にする可能性のある策には踏み切れなかっただろうよ。」

 「ほうか。今回は他の可能性があったさかいな。それにしても、土壇場の判断力と言い、実力と言い、ほんま末恐ろしいな。恭くんは。」

重盛の関心は地下迷宮の探索結果よりむしろ恭に向いているようだった。

 「あと、実親が地下迷宮で毟って来た紙切れがあるんだが、調査中だ。結果が出次第報告する。」

貴也の言葉は、別へ関心の移ってしまった重盛には届かないようだった。



 麗らかな春の陽気漂う昼下がりの事だった。春とは言え日陰はまだ寒く冬を思わせ、屋内は返って外より寒く快適でない場所が多かった。晋は猫のように、恭の部屋のなるべく陽の当たる場所を選んでまどろんでいた。恭は相変わらず起きている時間の方が少なく、眉根を寄せた可愛くない寝顔をして過ごしていた。

 「ただいま〜。」

玄関の方から義将が中学校から帰宅した声がして、晋はゆっくりと立ち上がった。その気配に恭が目を覚ました。

 「義将だよ。帰って来たみたい。」

 「うん。」

言いながら晋が部屋の扉を開けると、そのまま立ち止まって動かなくなってしまった。

 「どうした?」

 「女の子の良い匂いがする。」

晋が深刻な声で言うと、言い終わる前に晋の溝落ちに拳が入った。

 「いやらしい!」

高い、聞き覚えのある甘い声に、恭が目を向けると、戸口で溝落ちを押えながら蹲った晋の向こう側から、静の姿が現れた。

 「静…。」

呆然と見つめる恭に、遅れて玄関から入って来た義将が言った。

 「玄関で会ったんだ。恭兄ちゃんに用だって言うから入って貰ったよ。」

 「…ああ。」

見開いた目は瞬きを忘れたように静を映していた。

 「おい、義将、こんな危険人物を家に入れるなんて、どれだけ恐ろしい事をしたか分かって…うっ!」

蹲る晋が言い終わる前に、今度は蹴りが脇腹に入った。


静を恭の部屋へ残し、晋は義将とお茶を入れていた。義将は手際よく紅茶を入れながら訊いた。

 「あの人誰?恭兄ちゃんの彼女?」

 「う〜ん。想い人?」

目の回復しない晋が手伝うでもなく義将の隣に立って答えた。

 「ふ〜ん。」

興味を隠しきれない様子で義将が聞き耳を立てた。


晋と義将が部屋から出て行くと、静はじっと恭の姿を見つめてから、咎めるように言った。

 「仕事から帰ったら、地下迷宮へ行って全治一年って訊いて、とんで来たのよ。大丈夫なの?」

恭は静の言葉を余所に、来るならば事前に言ってくれればもう少し部屋を掃除して空気を入れ替えておいたのに、などと思いながら静を眺めていた。すると、ベッドのすぐ脇まで来て床に膝を付き、恭の正面に向き合って言った。

 「心配したのよ。」

静は本当にとんで来たらしく戦闘服のままで、よく見れば所々汚れていた。恭はそんな静の頬についた土を指で擦った。

 「静、そんな『波形』をして男の部屋に来るなんて、押し倒されても文句は言えない。」

 「あら、残念。今は動けないでしょう。」

鼓動の高鳴りを誤魔化すように挑発的に微笑む静だったが、恭の目に映る色彩は嘘を付かない。恭は無表情のままで上体を起こすと呟いた。

 「どうかな。」

静の細い腕を強引に掴み引き寄せるとベッドに押し倒し、上から見下ろした。恭の黒曜石の様な目が静を見ていた。目を反らすと布団は恭の匂いがした。静の手首を押えている恭の大きな手は、静がどう反抗しても解けそうに無かった。

 「で?どうするの?」

静はもう一度恭の目を見た。その瞳の中に、静自身が映っている事に気が付いた。鏡のように恭の目の中の静を良く見ると、静を纏う『波形』が映っていた。鮮やかな明るい色の『波形』。初めて見る色。静は自分がどんな『波形』をしていたか、初めて知った。食い入るように見ていると、恭が低い声で音を上げた。

 「…限界だ。」

静の腕を放すと、ベッドへ倒れ込んだ。肩から瘴気を滲ませながら目を閉じる恭に静は小さく笑った。

 「本当にあんたって無茶苦茶。一人で鬼を倒したり、亡霊を追って地下迷宮へ行ったり。」

恭の乱れた黒髪が目にかかるのを、静は指先でつまんだ。恭は目を閉じたまま身を任せていた。

 「心配をかけた。」

 「鬼は平安時代から倒されてこなかった奥州じゃラスボスクラスの超強い『夜』だし、地下迷宮は生還者ゼロの死地と言われたダンジョンだし、もうこれは認めざるを得ないかな。」

 「え?」

恭が目を開くと、静は天井の隅を見て言った。

 「恭が最高の男だって、認めてあげるって言ってるの。」

 「それって。」

 「この私に相応しいって事よ。」

静は恭の目の中の自身を認識して、ようやくけじめをつける気になった。どれだけ言葉で否定しても、あんな『波形』をしていたのでは嘘は明白。年下の、何を考えているか全く分からない男に、いつの間にか翻弄されて、心奪われていたのだと。憧れとは違う、心の高鳴りに、気が付いたのだった。

 「でも今はまだ駄目。ちゃんとけじめをつけなきゃ。貴也さんに振られてくるから、それまで待って。」

恭は再び目を閉じた。

 「自分に対して律儀だな。」

 「兄から弟に乗り換えるのよ?きちんとしなくちゃね。」

静が恭の睫毛をなぞりながら輪郭を辿り耳を撫でたので、目を閉じたままで恭はくすぐったそうに笑った。

 「ごめん義将、俺間違ってたみたい。恭の彼女だわ。」

 「そっか。さすが恭兄ちゃん、美人と付き合うな〜。」

義将と晋がお茶を乗せたお盆を持ったままで、恭の部屋に入るタイミングを見失っていると、再び客の来訪を告げるインターホンの音が響いた。


 「本当に、感謝の言葉も見つからない。我々が生きて戻る事が出来たのは、恭殿のおかげです。」

これ以上ない程の土下座で、恭に平服したのは、尋問とも言いかえられる探索報告を終えた実親と直嗣だった。ベッドに座って壁を背もたれにした恭が、床に頭が付かんばかりのお辞儀をしている二人を見下ろしていた。

 「やめて下さい。あれは俺の軽率な行動の所為で起こった事故です。お二人の任務の妨げになってしまった上、全員を危険にさらしてしまった。本来ならばこちらからお詫びに行かなければならない所です。感謝など、全くの見当違いです。」

 「いえ、恭殿にとっては偶然でも、俺達にとっては救世主でした。感謝させて下さい。」

困惑した様子の恭に、横から晋が明るく言った。

 「恭、親さんが感謝したいって言うんだし、ありがたく貰っときなよ。」

 「貴様は軽い!」

 「痛い!」

実親の平手が晋の頭に決まると、直嗣が噴き出した。

 「あはは、何ソレ。二人、いつの間にそんな漫才コンビみたいな技習得したの?あはは。おかしい。」

 「…直が笑ってる。」

静が驚いて呟くと、実親は眉を下げて笑った。

 「ようやく本来の姿が現れて来たようだ。」

 「そっか。本当はよく笑う子だったんだ。」

晋と恭と義将と笑っている直嗣を見ながら、静と実親は胸のつかえが取れていくような落ち着いた気持ちになった。

 「あの、直さん、俺達謹慎になっちゃって。出来ればお願い訊いてもらえませんか?」

晋が申し訳なさそうに言うと、直嗣は優しく微笑んだ。

 「人見(ひとみ)(しゅう)()くんの様子を見に行ってくれ、でしょ?」

 「え、何で。」

 「実は僕も気になって。あの後病院に入院してたんで、様子見に行ったんだよ。」

修吾は地下迷宮から帰った時には意識が無く、地龍の医療班の治療を受けた後、事故患者として病院へ入院させられた。恭も晋も、修吾の事が気になっていたが、体調も回復しない上に謹慎処分もあり様子を見に行く事は出来そうもなかった。

 「で、どうでした?」

 「いなくなっちゃったって。」

 「え?」

 「僕が行った時には、もう消えた後だった。」

 「そうですか。」

元々修吾は殺し屋だと名乗っており、犯罪者である可能性が高かった。遅かれ早かれ姿をくらますだろう事は想像していたが。

 「結局、どうなったんだろうな。」

死にたがりの青年が、どんな答えを得たのか、また得なかったのか、知る事は無くなってしまった。

 「多分だけど、大丈夫、だと思うよ。」

 「え?」

 「亡霊…晋くんのお父さんがね、修吾くんを生かしたと思う。だから、きっと彼はこれからも生きていくんだよ。」

穏やかな直嗣の目に、言葉にならない根拠を感じた恭は頷いた。晋は複雑そうに口を歪めていた。

 「父さんは一体何がしたいんだろうな。」

殺したいのか、生かしたいのか。晋の中の裕は謎を深めて行った。

 「つか、殺し屋が生き続けるって良かったのかよ?」

何となくまったりとした空気に、実親が突っ込みを入れると全員が首を傾げた。

いつの間にか陽も傾いた頃、恭の部屋の扉をノックも無しに豪快に開けた知将が大きな声で言った。

 「あら、随分賑やかだと思ったら、こんなに沢山お客様が!恭ちゃんのお友達ね!これからご飯にするから食べって行ってね。義くん手伝って〜。」

一気に場の空気を掻っ攫っていく知将のパワフルさに、客人達は呆然としていた。

 「あれはまさか、かの猛将・和田知将殿か?」

実親が見てはいけないものを見てしまった顔で問うと、晋が真顔で答えた。

 「そ、あれが、かの筋肉ママ・知さんです。」

 「賑やかで楽しそうじゃない。」

 「本当に。幸福な環境だ。」

静の安堵の声に、恭は噛みしめるように答えた。



 それから、静は足しげく恭の元へ通うようになり、その度に(かね)(とら)祥子(しょうこ)の薬や札などを持参した甲斐あってか、思ったよりも回復が早まっているようだった。

晋の目も回復に向かい、ぼんやりと見えるようになったと言い、それまで試験の傾向と対策を話し合う事を主にしていた義将の特訓も本格化して行った。

 そうこうしている内に季節は春を過ぎようとしていた。

 ある夜恭は喉の渇きを覚え起きると、何かにつまずいた。見ると、床に晋が丸くなって眠っていた。寝ぼけて恭の部屋に入ったのだろうか、と思い起こそうとすると、その寝顔に目が向いた。下瞼に隈のように影を作っている瘴気の痕跡が、泣き顔のように見えた。孤独を抱える寂しげな顔に。そして髪を切ったせいで顔を出した今も痛々しい首の傷が、恭の胸を締め付けた。全ての始まりであり、過去の象徴のようだった。決して変えられないのだと、後悔を刺激する痛み。どんな事があっても、きっとこの痛みは無くなりはしないだろう。死ぬまで、過去の選択を問いただし続けるだろう。もっと良い道があったのではないか、最善はどんな方法だったか、本当に在るべき姿とは、塗り替えられないものを塗り替えたがる往生際の悪い思考が頭を占める。恭は首を振って部屋を出た。

 恭は水を飲んだ帰りに晋の部屋へ寄りかけ布団を手に取った。カーテンの隙間から洩れる月光が映し出す晋の部屋は、何もなかった。生活する最低限の環境、まるで独房のようだ。晋に人らしい余白をのりしろの部分を作るのは恭には難しい事のように思われた。孤独を癒す何かを。それは恭が与えるのではなく、晋自身が見つけなければならないものだった。

 恭は布団を持って部屋に戻り、床で眠る晋に雑にかけた。夜中に寂しくなって無意識に恭の部屋に来たのだろうか、恭は勝手にそう考えると胸がつまった。

例えば、恭にとっての貴也や静・仲間達のように、晋にとっても家族と思えるものがあれば少しはマシだったのに、と思った。晋の唯一の家族である裕のあの無表情を思い出しながら、唇を噛んだ。

―――やるべき事をやれ

唐突に耳に蘇った。裕のあの擦れた声が唱える呪文のような言葉を。やるべき事、それは裕の信念だろうか。それとも、何か確固たるやるべき何かがある事を示唆しているのだろうか。漠然と指し示した言葉は、返って晋を迷わせるように思われた。

 裕は恭にとって父親の敵だった。けれど命の恩人でもある。奪う者、そして救う者。その差はどこにあるのだろうか。何を以て奪い、そして何故救うのだろうか。あの迷いのない生き様は、矛盾しているようでいて、一つの道のようでもある。

 恭にとって裕は器用な人間ではなかった。特に父と会う時の裕の顔は、いつも寂し気なそれで。父は裕を友だと屈託なく言ったが、裕の父への気持ちはどこか複雑に見えた。気遅れしているような態度で、いつも目を合わせず、猫背で、申し訳なさそうにしていた。それでも恭の目は、確かな好意の色をとらえていた。

 裕は父を好いていたのは確かだった。けれどそれを邪魔する何かが裕の中にはあった。恭はそれが何なのか知りたかった。何故裕が父を殺すに至ったのか、その真相があの寂しげな表情にこそある気がしたのだ。

 「八つ目。」

恭はふいに呟いた。

そう、裕は地下迷宮で矢集を八つ目と言った。

恭は飛び起きた。そして部屋中の書物をひっくり返し始めた。

 陽が昇り、部屋の中が明るくなり始めた頃になって、晋が目を覚ました。

 「…これ、どういう状況?」

恭はベッドの上にはおらず、部屋中が書物で散乱していた。晋の布団の上にも本が乗っており、それを丁寧に拾って床に置き直しながら恭を探した。恭は窓際で外からの明かりで本を読んでいた。

 「電気点ければ…。」

 「お前が寝てたからな。」

 「…起こせばいいじゃん。やめてよ、そういう妖精さん的な優しさ。どきどきする〜。ってか俺なんで恭の部屋で寝てんの?」

 「それは俺が訊きたい。気付いたら寝てたから布団までかけてやったんだ。感謝しろ。」

 「まじ?寝惚けたかな?」

首を傾げながら頭を掻いて、晋は目を逸らした。

 「約束。」

恭が本から目を上げずに強い口調で言った。

 「え?」

 「約束したろ。思っている事をちゃんと言うと。誤魔化すのはよせ。俺が気に病む。」

地下迷宮でした約束。晋は目を見開いた。

 「恭が気に病むのは困る。」

 「そうだろうな。」

恭がページを捲ると、晋が両手で目を押えた。

 「恐くなった。」

くぐもった声で言った晋に、恭は恐る恐る顔を上げた。

 「何が…。」

 「分からない。父さんの事が分からなくて恐いのかも知れない。父さんは俺を助けてくれた。シュウの事も助けた。でも恭の父さんを殺した。貴也さんは復讐しようとしない。でも瞳さんは父さんの死を望んでる。それも息子の俺の手で死ぬのを。それ程憎まれているのに、俺はどうすればいいのか分からない。恨めば、憎めば良いのか、分からない。俺は俺が分からない。一人で寝てたら、唐突に恐くなった。だから…。」

覆っていた手をどかすと深い隈を湛えた晋の暗い目が戸惑うように落ち着きなく動いていた。

 「お前な。」

恭は溜息を付いた。同じ不安、そして疑問。恭と晋は同じ過去という因果にとって繋がっているように思われた。

 「俺にはずっと恭しかいなかったから。恭の側が一番落ち着くし、一番落ち着かない。」

 「どっちだ。」

 「両方だよ。」

 「…お前、恋人でもつくれよ。」

 「何それ、リア充の憐れみ?」

 「なんだリア充って。お前は俺以外にお前を信じてくれる人を作るべきだと思っただけだ。」

 「謹慎中に言われても…。」

晋が恋人を作るのは謹慎中でなくとも困難に思われた。『昼』の人間と関係を持つ訳にはいかないし、地龍で矢集と知って好意を持つ者は少ない。いくら晋が好意を抱いたとしても、環境は限りなく晋に厳しいような気がした。けれど、それでも、晋にはそういう相手が必要だと思った。

 「じゃあ次は知将殿の部屋へ行ってくれ。」

 「無理!」

晋が想像して身を震わせた瞬間に、朝食の時間となり知将が部屋の戸を開けたので、朝から晋の絶叫が響き渡った。





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