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29 色彩の事

 晋が恭の夢を覗き込むと、意識はすっかり夢の中に吸い込まれてしまった。まるで幽体離脱でもしたかのように体は制御を失い地に転がった。

 晋の意識はキラキラととりどりの色が瞬く世界にいた。幼き日の恭の目に映る美しい世界。オニキスのような瞳に映る色彩が、恭の特異性だった。晋の魅入られた世界。しかし、そこは瘴気が侵食した悪夢の中だった。歩いていくにつれ周囲は泥沼のような不気味な様子に変わっていた。不意に晋の耳元で誰かが囁いた。

 「人を殺すしか脳のないその腕で、恭のために何が出来る?」

振り返っても誰もいなかった。

 「私の夫を殺した敵を取ってくれると約束したじゃない。裏切り者。」

瞳の声がして戦慄した。しかし周囲に姿はない。

きっと晋自身の深層心理が語りかけて来るのだろうと思った。心の奥にある小さな不安やしこりのようなものを具現化させて語りかけて来るのだろう。

 「やめろ!」

恭の叫び声がして、晋が走り出すと、そこには蝋人形のような歪な人間の姿をしたものが無数に形成していく所だった。蝋人形は徐々に形を作り、見ている内に晋の顔を造形した。

 「何だ、これ。」

人形達が出来の悪いからくりのようなぎこちない動きで恭へ迫って動き出した。

 「俺は恭が居なければ辛い思いをしなかった。」

 「これ以上、矢集の生き残りとして迫害されて生きるのは御免だ。」

 「当主殺しの汚名を着て生きて行くくらいなら死にたい。」

 「殺したい、死にたい、殺したい、死にたい、殺したい…。」

 「俺は人じゃない。人になりたいなんて望んでいなかった。」

 「契約を行使して、今すぐ、ここで、俺に死ねと、命じて。」

 「俺は人として生きる事も許されず、父親の愛情に飢え、周囲には疎まれ、色を持たない。なのに、恭は何もかもを持っている。家族も愛も才能も色も、全て、何もかも。ずるい、ずるいよ。俺ばかりが損をして、世界は酷い。恭に俺の気持ちが分かる訳がない。こんな惨めな気持ちが。俺は恭が嫌いだ、憎い、殺したい。契約で俺を縛って飼いならしたつもりか?見てろ、今にこの首輪を千切って恭を殺してやる。」

無数の晋の顔をした人形が、それぞれに恭に恨み事を言いながら迫って行く。晋は震えた。これが恭の悪夢。恭を苦しめているのは、晋だったのかと。そして晋は刀を抜き、人形を全て切り刻んで行った。人形は割れた陶器の破片のように地に落ちてからも、ぶつぶつと呪詛を吐き続けていた。恭は耳を塞ぎ、目を閉じ、縮こまって身を小さくしていた。

 「やめろ、やめろ、やめろ…。」

晋は恭の耳を塞いでいる手を掴むと、力いっぱい揺すった。

 「恭、やめろ。それは俺じゃない。恭にとって俺はそんなに哀れな存在なのか?俺は恭以外の誰に憐れまれても同情されても平気だ。でも、恭にだけはそんな憐憫の目で見られたくない。俺を見ろ、今のこの俺を。俺の色を見ろよ!これはお前が与えた色だ、この色がそんなに可哀想な色なのか?恭が教えてくれた人としての心は。しっかり見ろよ!」

晋が怒鳴ると、恭はその目を恐る恐る開いた。黒い潤んだ目。晋がその目をしっかりと覗き込むと、目には晋が映っていた。いつもの濁った汚ない色の『波形』で、晋は少し笑った。十五年以上かけて手に入れた色は、他人のそれよりずっと重くて深い闇のような色だった。恭が好きな美しさも無く、晋の望んだ普通さもない、矢集らしい色。でもやっと手に入れた色。皮肉で、残酷ではあっても、愛着はあった。人たる色だから。

 「晋…?」

恭が確認するように呼んだ。

 「恭、気がついたか?」

 「夢を見ていた。晋が俺に死ねと命じろと迫るんだ。俺が晋を縛り続ける事が、苦痛だと泣くんだ。」

 「それは俺じゃないって。」

 「お前はいつも死にたがっているような戦い方ばかり…防御も疎かで、危険を顧みない。それで何度死にかけた?その度に俺がどんな気持ちになるか…。」

 「…悪かったよ。俺が考えなしだった。ごめん。今度から防御もするし怪我もしないようにするから、だから泣くなよ。」

 「泣いてない。泣いてるのはお前だ。」

 「だから、それは俺じゃない。恭の中の俺はいつも泣いてるの?」

 「…お前が俺を選んだ事を後悔してるんじゃないかって…ずっと不安だった。死にたがる修吾を見てたら恐くなったんだ、晋も死を望んでいるんじゃないかって。」

水底で見た悪夢の数々は、恭をとり殺そうとしていた。けれど、晋はライトな声で事もな気に言った。

 「案外馬鹿な事で悩むよね。」

 「…馬鹿な事か。」

 「後悔の準備って俺の事だったんでしょ?俺の人生だよ。後悔くらい自分でさせてよ。きっと昔のままの俺だったら出来ない事だったと思うから。」

単色の感情の無い世界で後先考えずに、ただ生きるだけのあの頃には出来ない事。

 「…そうだな、そうかも知れない。」

 「恭こそ。俺は恭にとって敵の子供だ。恨むならそうしろよ。俺は恭を通して色のある世界を知った。いくら嫌われても、この鮮やかな世界が好きだ。恭の目に映る世界が。俺はこれからもそれを見ていたい。そしてそれを守るためなら何だって犠牲にするし利用する。俺が縋り付いてでも離さない。俺にとって恭は世界そのものだ。」

 「晋とは、敵の子供として出会った訳じゃない。後でどんな立場に立たされても、割り切って憎んだり出来ない。むしろ俺は浅はかに主従契約を結んだ責任がある。その上、どんなに晋が拒んだとしても手放す気なんて全く無いんだ。業が深いのは俺の方。欲しいものは必ず手に入れる。俺の望んだのは唯一無二の友だ。」

恭が晋の手を強く掴んだ。

 「あの時、『なら俺の側にいろ』って言ってくれたでしょ?アレ、すごい痺れたよ。俺が帰る場所はもうずっと恭の元だから。疑うのは勝手だけど、ずっと一緒にいるのに毎日そんな事考えてたら疲れるよ。」

 「違いない。今度から言う。」

 「言うの?」

払拭するのではなく、そのために話し合おうと言うのだろうか。恭らしい正攻法過ぎて奇策なヤツで、また意表を付いて来る。晋は呆れて笑った。

 「だからお前も言え。思っている事、ちゃんと。」

 「ちゃんと?」

掴んだ手を支えに何とか立ち上がろうとする恭を支えながら、晋は訊き返した。

 「色彩の無い夢、あれはお前の記憶だろ?色が見えないなんて、知らなかった。知らなかった事に傷付いた。謝罪を要求する。」

 「完全に見えない訳じゃない。恭の目に映る色は見えてるし、それに最近は何となく分かる時もあるんだ。だから…いや、ごめん。人間らしくない所、恭に知られるのが後ろめたくて、ずっと気付かれないようにしてた。」

病気ではなく、意図的に封じた人の部分だと告白するように晋が言うと、恭は馬鹿にするように鼻で笑った。

 「どこが。人じゃないものになるために色彩を手放さなければならなかったなんて、人以外の何者でもない。」

裕が与えた軛を解き放つように、恭の言葉が晋の胸を熱くした。色を封じた位で心を無くした気になってる短慮な子供のように言われ、ちっぽけな悩みのように笑い飛ばして、結局恭にはいつも敵わないのだ。



 「ヒロさん?」

修吾が目を覚ますと、気の弱そうな青年の顔があった。

 「気が付いた。どっか痛くない?」

 「キミ、誰?」

 「僕は、那須(なす)直嗣(なおつぐ)。あ、那須与一(なすのよいち)って知ってる?あの弓で扇の要を射た人。あの人の子孫なんだ。」

修吾の問いに気真面目に一生懸命答えようとする直嗣に、修吾は興味なさそうに言った。

 「知らない。」

 「…あぁ、そう。」

直嗣は何故か肩を落とした。

 「ずっと、夢見てたんだ。キョウくんとススムくんの夢。」

 「この中は悪夢が混ざり合っているみたいだから。君は大丈夫?」

 「ボクには現実より酷い悪夢なんてないよ。」

吐きだすように言う修吾は拗ねた子供のように顔をそむけた。

 「そうかもね。きっとこの闇に囚われた人達が見ているのは実際にあった過去とかそういうものなんだよ。忘れたい事とか、嫌な事とか、そういうの見せるのは凄く残酷な悪夢だ。」

直嗣は優しい口調で言った。

 「じゃあ、キョウくんとススムくんの見ていた悪夢も現実?二つは同じ事なのに、随分違って見えた。一方は色彩豊かで、もう一方はモノクロ。」

 「現実は多面的だ。ひとつの事象でもそれを見る目の数だけ色がある。その中のどれかが正解って事じゃないんだ。全部本当。僕もようやくそれが分かった。他人の色は想像するしかないって事。」

 「他人の色なんて分かる訳ないよ。ボクはもうずっと死にたいのに、こうしてまだ生きてる。誰もボクを殺してくれない。ボクの気持ちが解ったら、もっと早く誰かがボクを殺してるはずだもん。」

 「そうなんだ。それは辛いね。」

同情と言うより共感だった。

 「そうだよ、ボクは苦しいんだ。早く楽になりたい。あの無慈悲で無残な死をボクに与えてよ、ヒロさん。」

 「ヒロさんって…矢集(やつめ)(ひろむ)が君を殺すと言ったの?」

 「時が来たらって。」

今ではそれは適当に流されただけではないかと思う。修吾は、直嗣の理性的で常識的な目を見た。悪夢の中を彷徨っていた所為で頭がおかしくなったと判断されても不思議でない事を言っている自覚をした。しかし直嗣はさらにおかしな言葉を返した。

 「羨ましいな。」

 「え?」

 「君は君を殺してくれる人がいるんでしょう?羨ましいよ。僕にはいない。僕のために断罪の剣を振ってくれるような人は、僕にはいなかったよ。だから、生きるしかない。」

 「…キミも、死にたいの?」

 「そうだよ。僕は悪い事をした。自分で思っていたより良い人間じゃなかったんだ。だから死にたい。そうしたらリセットされるでしょう?でも僕の代わりに死んだ人はそれを許さない。僕の死を、決して許さないんだ。」

 「代わりに死んだ人。」

修吾は両親を思い出した。強盗に殺された家族。修吾を庇って先に死んだあの姿を。ずっと間接的に世界や修吾自身が殺したような気がしていたけれど、修吾の代わりに死んだのかも知れないと思った。違う色で見たから、直嗣の目という別の色で見たから、別の解釈が生まれた。

 「もし、ボクの代わりに死んだ人がいたとしたら、ボクは死んじゃいけないのかな?」

呟くように言うと、直嗣は微笑んだ。

 「言ったでしょう?他人の色は想像するしかない。それが死者ともなれば尚更困難だ。でも僕は解るんだよ、僕はあの時荷を受け取ったって。その荷物をきちんと届けなきゃならない。だから、簡単には死ねない。」

決意表明のようにはっきりとした言い方だった。気の弱そうな見た目に反して意志の強い芯のある表情だった。

 「随分格好良い事言うようになったな、直。」

不意に背後から実親の声がして振り返った。(さね)(ちか)と裕は刀を収めながら結界内へ戻って来た。

 「親さん、外は?」

 「一旦休憩、と言うより切りがない。それにタイムリミットだ。そろそろ戻ってくれないと、作戦失敗。ジ・エンドだ。」

実親が肩をすくめた。直嗣が見ると、矢に付けた護符が燃え始めていた。高濃度の瘴気に負けて効果が切れてきたのだろう。

 「おい、お前達まだ余力はあるか?」

裕が周囲を見渡しながら訊いた。

 「え…ええ、まだ戦えますけど…どういう意味です?」

 「二人が目覚め次第転移に入るだろう。だが恭の消耗は激しいし、晋は自ら此処へ転移してきた事を考えても帰りの余力はないだろう。」

空間転移は消耗が激しい故に戦闘を控えた状態では滅多に使わない。本来は戦闘要員の他に転移専門の要因がいたりするものだが、晋は地下迷宮へ空間の捻じれを越えて転移してきた。到底力が残っているとは思えない。そして頼みだった莫大なエネルギー源である恭も、修吾を守りながら瘴気に当たり過ぎ心身共に疲弊している。仮に転移の準備が出来たとしても、この人数を安全に移動させる事は難しいだろうと思われた。

 「じゃあ、どうすれは。」

 「全員で力を合わせるしかない。」

 「でも、手順もなしに共同で術を展開するなんて事出来るんですか?」

 「やるしかない。」

 「他人の術式に術力のみを貸すなど、いかに正当な手順を踏んでいたとて容易ではない。もしそれが出来るとすれば、余程の繋がりを持っているとしか…。」

 「繋がり?」

 「絆というか、精神的な部分で同期できなければ無理だ。」

一つの術を複数名で行う時、何か結びつきを作っておくのが通常だ。そのプロセスに裂く時間が無い今は、共通の観念を持たなければならない。同じ意志、目的、バラバラのものを一つに集約する何かが。直嗣は胸の十字架を握りしめて実親を見た。

 「やりましょう、ここから出たい。全員の共通認識は確かでしょう?出来ますよ。」

 「…まあ、できる云々じゃなくて、やるしかないんだけど…。アンタこそ足を引っ張らないでよ?」

実親が裕を見ると、裕は眠る晋の顔を撫でるように触れていた。

 「俺は行かない。術はお前たちだけで完成させろ。」

 「は?行かないって、この状況で?死ぬ気か?」

 「まさか。俺はまだやるべき事を残している。死ぬにはまだ早い。」

 「じゃあ何で…。」

 「俺はここの手形を持っている。案ずる必要はない。」

 「は?じゃあ俺達を此処から出せよ!」

 「貴様等害虫の所為で出入り口は不明だ。この状況での最速最善の脱出方法は恭の転移しかない。奴はまだ俺に利用価値を残している故に、手形を持つ俺は此処で死なない。お前達が転移し終わるまで出来るだけ時間を稼いでおく。全力でやれ。」

裕の言葉の意味は不明だった。けれど、この地下迷宮で書庫を所有する主が、裕に利用価値を見出し手形を与えている事。瘴気の中で平然と動けるのはその手形のおかげであろう事。ここで全員を逃がしても、まだ利用価値のある裕がその何者かに殺される心配はないであろう事などが、想像出来た。ぽかんとする直嗣を無視して実親は裕に対し頷いた。

 「礼は言わん。どうせアンタは息子を助けたいだけなんだろ。」

実親が溜息をつきながら言葉を放った。

 「恭と晋には、やるべきことがあるからな。」

裕が晋から身を放すと、立ち上がった。すると修吾と目が合った。まだどこかぼんやりとした修吾の目が、裕を捕え、裕は無言で見下ろした。

 「ヒロさん、いつボクを殺してくれるの?」

いつもの問いだった。

 「時が来たら。」

裕もいつもと同じ答え。修吾をかわすための無碍な答えかも知れない。けれど、修吾は新しい色を見た。裕が、いつか修吾を殺しに来るかも知れない。その時が修吾の死ぬ時であり、その時まで生きなければならないという事。裕に殺されるその時まで生きなれば、裏を返せば死が訪れるまで生きるしかないという事。生きろと、そういう意味だったのだと。

 「いつ?」

 「分からない。けれど、それは必ずやってくる。死だけは平等だ。」

誰にでもその時は来る。当然の事。今まで気付かなかった色彩。

 「そっか。良かった。」

修吾は微笑んだ。ようやく安心した気がした。

 「きっと、最も望まない時だろう。」

 「そうだね。それがイイね。」

悪人には似合いの死に方。修吾と同じように、裕もそれを望んでいるのかも知れないと、今なら思えた。

 「さよなら。」

 「サヨナラ。」

修吾がゆっくりと瞬きをする間に、裕は結界の外に出て、姿は見えなくなってしまった。修吾は少し微笑んで、そしてそのまま再び意識を手放した。



 「残り時間は?」

裕の残像を追うように結界の外に目を向けていた三人に、眠っていたはずの晋が言った。直嗣が慌てて駆け寄ると、恭と晋が重い体を起こす所だった。恭は頭を抑え、平衡感覚を取り戻すのに苦労しているようだったが、頭を押さえていない方の手で晋の肩を叩いた。

 「どうせ時間など僅かだ。訊くだけ無駄。とにかく転移の術式を展開させろ、俺はお前の作ってきた人型に座標を固定する。」

恭は吸収しすぎた瘴気を肩から滲ませながら晋の座標を探知し始めた。既にギリギリの状態である事を隠す余裕もない程の顔色をしていた。立ち上がる事も辛い、まるで恭にだけ重力が多くかかっているかのような動きで、どうにか意識を保っているように見えた。しかしどれだけの無理をさせても、今は恭に頼るしかない。実親は唇を噛んだ。

恭に叩かれバランスを崩した晋を、直嗣が抱きとめると、晋の目は瞑ったままである事に気が付いた。

 「晋くん、目が…。」

 「大丈夫、一時的に見えなくなっただけです。もう少し時間がかかったらマズかったですけど。それよりこの結界張ったの直さんですか?」

瘴気を遮断する閉鎖されたシェルターのような空間。高度な術だった。

 「そうだけど。」

 「凄いや。この環境でこれだけの強固な結界張れるなんて。これだけの事が出来るんだから、何とかなりますよね?」

 「どういう意味だ?」

実親が眉をひそめた。

 「いや、俺もうガス欠なんで、後の事任せてもいいですか?」

最後まで言い終わる前に晋は膝を付いた。そのまま両掌を地面に付き、いつもなら省略する演算を基礎から唱え始めた。省略するのにはそこを補うだけの力が要るが、今の晋には残っていない。実親と直嗣はそれを手伝いながら言った。

 「分かっている。亡霊からもそう言われた。全員で全力出さなければ、成功しないと。」

 「父さんが?そう言えば何処に…。」

 「行っちゃいました。」

 「相変わらず勝手な人だなぁ。」

晋は再び父親に置いて行かれた寂しさを滲ませながら、少し安心しているようにも見えた。

 「やるべきことを、やるんだと。」

実親の言葉に晋が一瞬反応した。

 「…でしょうね。分かってます。すみません、色々巻き込んで。」

 「いや、こちらこそ助かった。君たちが来なかったら俺達はここで骸骨になる運命だったよ。」

 「え、そうなんですか?やっぱりそうなんですか?」

直嗣が泣きそうな声で実親に縋った。

 「直嗣殿、矢を。」

座標を固定し終わったらしい恭が三人を振り返って呼んだ。

 「はい?」

 「強固な結界や、空間の歪んでいる場所など、転移するのに邪魔なものがある場合、力ずくで行くか、亀裂を入れて無理矢理押し通るかです。いつもは力ずくで行きますが、今回は燃料が足りない。何かで亀裂を入れて、そこを強引に押し広げて通るしかない。おそらく修復力があるでしょうから、チャンスはほんの一瞬です。直嗣殿、転移に先んじて矢を放って下さい。我々はその矢を追いかけるように転移します。良いですか?」

 「おっけー。こっちも準備出来てるから。」

相変わらず恭の説明をろくに聞かずに軽い了承をする晋を、横目で睨みながら直嗣が頷いた。実親は拳を直嗣の胸に押し付けた。十字架が胸板に押し付けられた。

 「大丈夫、お前の腕は折り紙つきだ。」

 「…はい。弓でしくじったら御先祖様に顔向けできませんね。」

直嗣は硬い表情で笑顔を作り、実親に向けた。それを合図にするように直嗣が弓を構えた。三人で展開させた術式、陣は地面に円形に広がり丁度燃え尽きようとする結界に重なった。

直嗣の背に恭が手を置いた。実親は、視界を失い不安定な晋と、気絶している修吾の頭を強引に引きよせ抱き締めた。

 「いくぞ。帰ろう。」

実親の共通の目的を確認する言葉をきっかけに、直嗣が矢を放った。渾身の力を込めて、陣の中心へ向かって。



 気がつくと恭は、はじめにいた地下鉄の入口付近にいた。はじめの感覚は寒いという事で、冷たい冬のアスファルトに座っているためだと理解できた。周囲を見渡すと、突然目の前に知将(ともまさ)が現れた。

 「おかえり。」

 「…ただいま。」

表情が完全に憤怒のそれだ。恭が何か言おうとすると、すかさず知将のゲンコツが飛んできた。

 「痛っ!」

恭が頭を押えた。いつも晋が痛がっている知将のゲンコツを食らったのは初めてだった。これは晋が恐れる訳だと納得していると、知将が言った。

 「心配かけんじゃないわよ。馬鹿。」

知将の背中には気を失っている晋がいた。それを呆然と眺めていると、義将(よしまさ)が恭の手を取った。

 「帰ろう。恭兄ちゃん。」

 「うん。」

いつの間にか随分背が伸びた義将が恭に肩を貸して、ようやく家路に着くことができたのだと実感した。

 帰りながら話を聞くと、義将は晋に人型を持って待つよう言われてから知将へ連絡し、知将が部隊を編成して待ちかまえていたらしい。部隊と言っても、救護班が主で、必ず帰ってくると信じて待っていてくれたのだと理解できた。修吾は病院に送られ、実親と直嗣は手当を受けてから鎌倉へ帰るらしいと言われた。結局どさくさでろくな挨拶も出来なかった。その上目的だった裕にはいつの間にか逃げられてろくに話も出来なかった。恭は自身の中に残った瘴気が全身から滲んでくる不快感を除いては異常はなかったが、知将の家に着いた瞬間に気を失ったらしく、そこから数日の記憶がなかった。



 再び気が付いた時には、自室のベッドだった。目に包帯を巻いた晋がベッドを背もたれにして座っていて、まるで主人を待つ犬のようだった。恭は手だけを動かし、晋の頭を撫でると、晋は振り向きもせずに言った。

 「何であんな無茶したんだよ。」

 「おじさんを殴ろうと思って。」

恭の言葉に、晋は裕の頬の腫れを思い出した。

 「もしかして、あれって恭が殴ったの?」

 「気は済まなかったがな。」

 「あはは、恭って本当凄い。」

晋が嬉しそうに笑った。恭の目には明るい色の『波形』が見えた。

 「心配かけて悪かった。でも心配する方の気持ちが分かったんじゃないか?」

 「痛いほどね。」

やっと振り向いた晋が笑った。目は包帯の下なので、口角が上がっていた事で笑顔だと解る。もっとも恭には色彩で判別できた。

 「相変わらず笑い方が下手だな。」

 「この状態で言うかね。それに恭に言われたくないし。」

鉄面皮は恭の十八番だとぼやく晋が、ぶつぶつと子供が文句を言うように呟いた。

 「俺の言った事をよく覚えていてくれるのは嬉しいんだけどさ、俺もっと良い事も言ってない?」

晋は、恭の夢の中で見た「俺が人として生きることを選んだから、父さんは俺を捨てたのかも知れない。」と言う言葉を思い出した。晋自身でも忘れていた傷、恭が肩代わりしていたのかも知れないと思った。けれど、それを気に病むのはやめて欲しかった。感情は一時のもので、今の晋は昔の晋とは違う。時間を経て、良くも悪くも変わったし、変わらない。

 「お前は内側を見せたがらないから、たまに漏らす本音が印象的なのは仕方ない。」

 「そんな事ないよ、恭には裏も表も内側も外側も全部見せてるよ。だから何一つ格好付かない、つまらない凡庸な男だよ。特別なものなんて何もない、美しい『波形』も、獣である事も、全て捨てて、ただの人になったんだから。」

そうありたいと望む姿に。少なくとも恭にとってはそうでなくては、と思った。

 「お前の中には二人のお前がいる。それは、人ではないお前と、人であるお前だ。人ではないお前は笑うのが下手で、人であるお前は小さくてささやかな幸せに憧れてる。その両方ともが俺にとって大切な友だ。俺がお前の死を望むはずがない。もう死のうとするのはやめてくれ。」

恭の体からは闇色の気体、瘴気が未だ漏れ出しており、恭はまだ悪夢に捕われているのだろうかと思った。晋は否定したい気持ちを抑えて言った。

 「…うん。ごめん。」

恭が再び眠り、晋が壁伝いに恭の部屋を出るとリビングで知将が様子を見ていた。知将の気配に導かれるように晋が隣に腰掛けると、訊いた。

 「俺ってそんなに死にたがりに見える?」

 「それだけ心配してるのよ。晋ちゃんは危なっかしいから。」

 「でも…。」

 「晋ちゃんが、俺なんてって思い続ける限り、恭ちゃんは安心できないのよ。いつかいなくなっちゃうんじゃないかって。」

俺なんて恭と一緒にいるべきじゃない、俺なんて恭に相応しくない、俺なんて人として価値がない、俺なんて誰からも愛されない、俺なんて、俺なんて、繰り返される消極的で卑屈な自分。そんな晋の不安が、何よりも恭を不安にさせていたのだろうか。

 晋は知将に擦り寄るように体を押し付けた。

 「な〜に、甘えちゃって。かわいいわね。」

そこへ現れた義将が咎めるように言った。

 「何やってるの?大の大人が子供みたいに。」

今は顔を見る事が出来ないが、どんな表情をしているか手に取るように分かった。

 「義将も来て。」

晋が両手を広げて言った。晋の胸に飛び込んで来いと言わんばかりに。

 「やだよ、僕もう中学生だよ。そんな赤ちゃんみたいな事しないよ。」

 「あらやだ、義くんたら。大人って言うのは、弱ってる人を慰めるくらいの器を持つものよ。」

知将が馬鹿にするような口調で言うので、義将は渋々晋の膝に座った。晋は嬉しそうに義将を抱き、知将に寄りかかった。知将は微笑みながら晋の頭を撫でた。

義将を抱きしめながら感じる匂いは甘い、良い匂いだった。愛されて健やかに育った者の放つ、健全で穏やかな匂い。かつて憧れた温かい家庭のそれ。どんな形にしろ、今自身が手にしているものは、憧れそのもの。晋は閉じた目の奥で、柔らかい色彩を見た。

 「一人じゃないってこういうことなのかな。」

晋が口にすると、眠る恭の顔が笑った。

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