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28 慚愧の事

 誰の夢の中だろうか。

 晋は瘴気に飲まれる前に恭を見た方向へ歩いていた。瘴気は黒い霧のような靄のようなものになり迷宮に充満しているようだった。酷い匂いがした。何かの腐敗臭のような、血生臭いような、物騒な想像をさせる匂い。視界は悪く、すでに自身が正気を保っているのかさえ疑わしくなっていた。流れ込んでくる色・音・映像、あらゆる人の思念や記憶が混じり合って叫んでいるような気がした。特に慙愧の念が狂おしく暴れているのを感じた。晋は霧の中で誰かの夢を見た。既視感がして、ようやく解った。

 これは恭の夢だったのか、と。

 恭の目から見る世界はこんなにも彩りに溢れていたのかと思った。こんなにカラフルな世界の中で、たった一人、色のない晋を選んだ事が、晋は嬉しかった。

 物心ついた頃から晋の世界はまるで白黒映画のように色がなかった。恭は黒髪に白い肌といったコントラストで晋の世界に現れたけれど、その黒い瞳には色が映っていた。晋を見つめるその色を映した目が、晋にとって世界を見る唯一の手段だった。晋は『波形』を見る事に不得手で、分かるのは濃淡位のものだったが、恭の見るそれは膨大な色彩に溢れていた。

初めて知る世界は、恭の瞳の中にのみ存在していた。

 守らなければ。

人は脆く弱い。すぐに死んでしまう。恭は人だ。そう思うと酷く不安になったものだ。晋は恭を失いたくなかった。故に毎日様子を見に行ったのだった。生きているかどうか、その目の中の美しい世界を守りたかった。

 「俺がどんな思いで毎日通ってたか、恭は分からないだろうな。」

契約を交わした時に必要なのは双方の合意。晋は分かっていた。契約を取り交わせば、晋は恭のものになると、理解しながら合意した。その世界を守るために。孤独から脱出するために。

 恭にならどんな命令をされてもいいとすら思っていた。恭のためならどんな相手も殺してみせようと。けれど恭の命令は生きたいと思うことだった。共に生きることだった。その時初めて色を見たのだ。単色だった世界に灯火が生まれ、そして晋は人になった。

あの時の事は記憶が曖昧で、晋にはよく分からなかった。ただ、うすぼんやりと思い出す父の顔は、泣いていたんじゃないかと思う。

 「まさかね。」

晋は恭の夢に呼応するように記憶を呼び覚ましながらも、闇の中を歩いていった。

 「俺が人として生きることを選んだから、父さんは俺を捨てたのかも知れない。」

恭の中の晋が呟いた。晋はどきっとした。そう言えば、(ひろむ)が行方不明になった時、そんな事を言ったかもしれない。晋はすっかり忘れていた。恭はその事をずっと覚えていて気にしていたのだろうか。胸が詰まった。

あの時はまだ子供だった。裕は唯一の家族で拠り所だった。けれど、恭は晋の帰る場所になると約束してくれたし、孤独や不安を共有してくれた。それに恭の父親を殺した事で晋にとって裕は忌むべき存在となったのだ。今更人である事に後悔したりはしない。後悔すべきはもっと別にある気がした。

 「少なくとも、恭がすることじゃないわな。」

呟くと、突然何かに足を取られた。見ると黒い手が晋の足を掴んでいた。晋を殺そうとしたあの手に見えた。恭の母親の。戦慄し肌があわ立った。

 「お前のせいで恭が穢れた、お前みたいな獣のせいで、お前が死ねば良かったのに」

聞きたくない言葉の応酬に晋は顔を歪めた。晋は晋の中にいる慚愧の塊のような自分がもがいているのを感じた。内側で暴れ叫んでいる小さな子供の姿をした晋は必死で訴えてきた。

 「俺のせいで、恭のお母さんは狂った。俺が居なければ恭はお母さんを失わなかった。俺の父さんが恭の父さんを殺した。俺は恭にとって疫病神だ。俺の存在が恭を苦しめる。俺は恭に必要ない。あの時死ねばよかった。恭のお母さんじゃなく、俺が死んでいれば、きっと恭は今より幸せだった。瞳さんの事だってそうだ。父さんが憎ければ俺を殺せば良かったんだ。復讐したければ俺にすれば良かったのに、瞳さんも、恭も俺を殺してくれない。どうして、こんな俺なんて必要ないのに、どうして死なせてくれない。」

晋の内側を音を立てて叩く。痛い、苦しい、もう全て終わりにしてくれ、と。恥辱に塗れた人生なんて、これ以上生きていても周囲が不幸になるだけだ。どうせ殺し続けるしか脳のない自身なのだから。

修吾に似た後悔と懺悔で赦しを請い続ける弱くて幼くて卑怯な自分。

人間らしくて憎めない、殺したい程に嫌悪するのに切り離せない、愚かで最低で卑小な思想のループ。でもそれが、晋の人たる証拠。

晋は自らの胸を掴んだ。内側に語りかけるように、説得するように言った。

「そうだ、俺のせいで。でもまだ死ねない。やるべきことをやってない。俺は恭を守りたい、俺を守ってくれた恭を、守りたい。例え何を犠牲にしても。」

 言うと何かが今度は晋の腕を掴んだ。

振り返ると同時に意識が途切れた。

 

 瞬間で目を覚ました。

気が付くと晋は、誰かの腕の中にいた。いつの間に眠っていたのか、闇の中で意識を失って恭の夢に引きずられて自らも抜け出せない慙愧に捕われていたのだろうか。視界が徐々にはっきりとして意識が覚醒してくると、必死で名前を呼ぶ声が耳に入った。

 「晋。」

裕の声だった。懐かしい声。かつて愛した父親、そして心の底から憎んだ男の声。晋はようやく声を発した。

 「俺の気も知らないで…。」

晋の意識が戻ったのを見て、裕は溜息をついた。ほっとしたように見えた。

 「それはお前だけのものだ。」

父親に捨てられた子供の気持ちなど、矢集の末裔としての孤独など、すべて晋自身の中にしかないもの。他の誰のものでもなく。それこそ言わなくては、伝えようとしなければ恭にだって解らない、晋だけのもの。

 「人として生きると決めたのは、紛れもなくお前自身だ。でなければ契約など成立しない。」

他人に共感を望むのは間違っている、唯一無二の心なのだから。晋は立ち上がりながら吐き出した。

 「今更父親面かよ。」

 「お前は八つ目だ。やるべき事をやるしかない。ならば余計な感情は必要ないはずだった。」

相変わらずの無表情だと言うのに、晋には悲し気に映った。

あの時、死にかけた幼き日に、晋を呼んだ声の温度は確かに晋を引き留めた。

 「なぁ、あの時父さん…」

―――泣いてたの?

喉元まで出た言葉を飲み込んだ。

愚かな問い。もしそうだとして何になるのか。今更、取り戻せるものなど無い。例え裕を誤解していたとしても。失った命から目を背ける事は出来ない。

 「父さんはどうして、恭の父さんを殺したんだ。父さんがそんなことしなかったら、こんなに苦しまなくて済んだのに!」

 「お前が苦しいのは、お前自身が人であることを選んだからだ。」

裕が晋に望まなかった人たる心。しかし晋は自ら手にした。責めるような突き放すような言い方だった。

 「俺はもし人であることを選ばなくても、父さんに捨てられた時には泣いたと思うよ。」

人でない、感情などない、と洗脳されて育ったとしても、本質的な部分では結局は人だし弱い。そこから目を逸らして生きていたとしても、愛する人との離別は痛みを伴うはずだと思った。今だからこそ、そう思った。

 「そうだな。」

裕の言葉は晋の思わぬ肯定だった。もしかしたら裕も、晋と別れた事に涙したのだろうか。よぎる期待に首を振った。それこそ願望が過ぎると。

 「行くぞ。恭の気配を辿れ。」

裕は言うと晋を促して走りだした。

 「方角は解るけど、こうも瘴気が強いと…。」

 「あまり吸い込むな。これは人を悪夢に取り込んで殺す亡者の集合体だ。飲まれた者の悪夢が入り混じる。他人の悪夢を覗き込み過ぎれば目が潰れる。そうして一度囚われたら戻ることはない。」

 「…じゃあ俺は?」

 「お前はまだ浅かった。それに…何か魔除けのような物を持っているだろう。それのおかげだ。」

晋が裕の先を走りながら考えた。そしてポケットに手を入れた。

 「そんなもの持ってない…あ、もしかしてこれ?」

 「…鬼の角か。蛇の道は蛇、魔除けとしては相当な代物だな。」

 「恭に貰ったんだ。」

二人は視界の悪い中を走っていた。



 「親さん、どうしましょう?」

恭達が取り込まれた高濃度の瘴気を、俯瞰で見ながら直嗣(なおつぐ)は訊いた。

 「どうって…これじゃあ中がどうなってるか分からないしな。それに一般論だが、あれだけの瘴気に取り込まれれば、正気を失う。妄想に取り憑かれて死ぬまで苦しむだろうな。」

いくら地龍の武士が訓練されているとは言え、肉体は人のそれだ。耐えられる限度というものがある。一目見ただけでそれを優に上回っていた。

 「じゃあ二人は…。」

絶望的。そんな言葉が二人の脳裏に浮かんだ。窮地に追い込まれ(さね)(ちか)は頭が真白になりかけた。けれど此処は地下迷宮だと思った。あの、地下迷宮なのだ。行くと決めた時から覚悟は出来ていたし、絶望的状況も織り込み済みの、史上最難関ミッションだったはずだ。冷静になれ、と自身に念じた。

 「いや、諦めるのは後にしよう。直、矢であの瘴気を晴らせるとして時間は?」

 「ほんの一瞬だと思います。」

 「そうか、その一瞬で下にいる恭殿や矢集の居場所を目視できたとして、次で目的の位置に矢を射る事は可能か?」

直嗣は実親の問いの意図するところがさっぱり分からないというリアクションで答えた。

 「…多分、可能です。」

 「よし、じゃあ今から俺の言う通りにしろ。」

一か八か、言わずともそういう策である事は直嗣も理解出来た。実親は時計を見た。この空間では意味がなかった。舌打ちをして前を見た。

 「ここからは時間との戦いになるな。」

あの中で長時間は持たない。二人は息を飲み、起死回生の作戦を実行に移した。



 人一人の背負っているものは実は無尽蔵に繋がっているのではないか。一見小さく無価値に思える命でも、その命を失えば社会は少し傾ぐ。今此処で死んでも世界は何も変わらず回っていくのだ、などと虚無感を抱いても、実はどこかで歪みは生まれるはずだ。人一人に繋がる糸は、自覚しているよりもはるかに複雑で難解だからだ。

恭はその糸を何となく感じる気がしていた。人が生きていくだけで糸は絡まり、やはり歪みは生まれる。それは当然だ。けれど死ぬ事でも、人は糸を縺れさせる。どれだけ孤独な人でも、どれだけ望まれた死でも、どこかに綻びが生まれ、思い知るのだ。糸の存在を。晋はその糸を軽視している。恭と強く繋がっているその糸の存在を軽んじているのだ。晋は、自身が貧乏くじを引く事で恭を守れると考えている。犠牲になる、盾になる、そういうやり方で戦う事で、恭のためになろうとしている。けれど、それが恭を傷付けると知らない。

 恭は悪夢の中で生を厭い死を希う晋の幻に出会った。恭がどれだけやめろと言っても、赦しを請い嘆き苦しむばかりの哀れな子供だった。しかし晋をそんな哀れな子供にしたのは恭自身だと思った。

 「これが代償なのか。」

欲しいと思ったものを無理に手にしたツケが回ってきたのだろうか。



 「恭、恭、しっかりしろ。」

晋はようやく見つけた恭の体を揺すったが、全く目を覚ます気配がなかった。

恭は魔を弾く障壁結界を展開させたまま、修吾を抱き締めて倒れていた。その顔は苦悶に満ち、薄く開かれた唇から微かな声が漏れた。

 「もうやめてくれ…。」

 「恭…父さん、恭が…。」

晋は恭の手を握ったままで裕に縋るように言った。裕は恭から修吾を離すと様子を窺いながら答えた。

 「恭はシュウを守るためにシュウの取り込んだ瘴気を肩代わりしているようだ。おかげでシュウは無事だが、かなり深い闇に捕われているかも知れない。」

 「どうすればいい?」

 「時間がないからな。どうにか起こすしかない。起こして無理にでも恭に転移させなければ助かる手立てはない。」

 「…さっき恭の夢を見た。恭はあそこにいたんだ。俺迎えに行ってみる。」

恭が過去という悪夢の中で捕われているのならば、そこへ。

 「よせ。さっき言ったろ、他人の悪夢を覗き込み過ぎれば目が潰れると。」

 「恭が助かるなら俺の目なんてどうだっていいよ。それに元々俺の目は色を映さない。」

晋が悲痛な声で訴えるので裕は少し黙ってから、押し殺すように言った。

 「早く戻れ。」

 「了解。」


 

 直嗣の放った矢が瘴気の靄の中へ入ると、ほんの一瞬だけ靄を晴らし中の状況を見る事ができた。実親は直嗣の邪魔にならないよう身を屈め様子を見守った。矢は力尽きたように地面に落ちた。

 「見えたか?」

 「はい。やれます。」

実親の問いに固い緊張を含んだ声で返すと、今度は護符をくくりつけた矢を三本?え、同時に放った。三本はすべて闇の中へ吸い込まれて行き、直嗣はその三本の行方を見届ける事なく、更に三本を放った。合計で六本の矢が闇の中へ消え、二人は目を見張った。息を吸い、吐く、その時だった。闇の中から光の柱が出現した。柱は、良く見れば六角柱で闇の中でその中だけは正常な空間となっていた。

 「よし、でかした。行くぞ。」

柱を眺める時間も惜しむように実親が直嗣の背を叩くと、懐から札を出した。

 「静の話じゃ、一度だけ短時間だが思う物を具現化出来ると言うが…。」

実親は静から託された白札にイメージを乗せると宙へ投げた。すると札から絵巻物の煙のようなものが飛び出し、みるみるうちに階段に姿を変えた。

 「凄いです、親さん。札師になれるかも。」

 「いや、それは無理だ。もう消えそうだ。急げ。」

札師の具現化能力に最も必要なのは想像力だ。乏しければ具現化時間は短くなる。実親は完全な階段としての姿を見せずして消えようとしている階段に慌てて乗り込み、直嗣を急かして駆け降りた。

 「中は毒ガスと同じだ。マスクしろ。」

 「はい。急いで結界内へ入りましょう。」

階段は二人が駆け下りる前に消えてしまい、少し高い位置から飛び降りる事になったが返って時間が短縮できたので良かった。二人が能通(よしみち)の特製マスクをかけて瘴気の中へ入ると、感覚を乱される前に柱の方へ向かった。

 「見えました。親さん。」

 「直、よけろ!」

実親を振り返った直嗣に対し、実親は思い切り刀を振り切った。とっさに避けた直嗣の背後で重い、砂袋のようなものが地面に落ちるような音がした。

 「急に何ですか。」

直嗣が砂袋を見ると、人だった。

 「ぼさっとするな。急げ。」

一瞬呆然としかけた直嗣を実親が一喝し再び走り出したが、二人の周囲は囲まれていた。

 「これ、何ですか。」

 「おそらく、催眠兵だ。」

 「魔物に食べられたって言ってませんでした?」

 「魔物が飲み込んでたんだが、実際は瘴気に飲まれてたんだろう。催眠術にかかってる上に瘴気にやられてる。もう自我など無い状態で戦っているのだろう。どちらにしても仕方がない。斬れ。」

 「えっ、だってこの人達まだ生きてる地龍の武士ですよ?」

 「だったら尚更斬れ!武士たる尊厳を守ってやれ!」

実親は怒号と共に刀を振り、襲いかかる亡者のような同朋達を葬って行った。直嗣は、少し躊躇い十字架を握りしめていた。優しいから、厳しい。優しいから、残酷。春家(はるいえ)(よし)(ひら)の言う弁天は、優しさ故に刀を振るう強さを持った人だった。直嗣は弓を構えると、自身の迷いを払拭するように叫びながら弓を放った。

 そうしてようやく柱の中へ辿り着くと、そこには恭・晋・修吾・裕がいた。直嗣が上から放った六本の矢が円状に並び、その輪を元にくくりつけた護符が結界を展開していた。護符は直嗣が祥子(しょうこ)から託されたもので、瘴気の障壁としての威力は抜群だ。けれどこの濃度は計算外であり、長時間はもたないだろうと思われた。とりあえず実親は状況を把握する事は適わないながらも、直嗣の正確な弓さばきに感心した。

 「お前達が本物の害虫か。」

裕が修吾を抱いたままで言った。二人は困惑した。

 「害虫とは何だ。俺達はこれでも『龍の爪』だ。アンタこそ何者だ。」

 「貴也の犬か。俺はお前達が亡霊と呼ぶ者だ。」

裕の言葉に二人は言葉を失ったが、裕は意に介さずに言った。

 「まあ良い。こいつ等を助けに来たのだろう。手を貸せ。まず、こいつは『昼』の人間だ。多少瘴気に当てられているが問題ないはずだが、手当を。」

 「え、あ、はい。え?恭くんと晋くんは?」

 「晋は恭を迎えに行った。恭が目覚めるかは晋頼みだが、恭が目覚め次第空間転移で此処から脱出する。それまでは、結界の外に亡者共が集まって来ている。結界を破られては不味い。排除し続けるしかない。」

裕は早口で一気に説明すると刀を抜き結界から出た。呆気に取られていた二人だが、時間が切迫していた事を思い出した。

 「直、その青年の手当を。俺は亡霊と外を守る。」

 「はい。」

直嗣が(かね)(とら)から預かった応急処置用の道具を開くと、修吾の向こうで倒れている恭と晋が目に入った。その顔色は青白く、瘴気の中で斬って来た亡者の肌に似ていた。


 実親の目から見た亡霊・矢集裕という人物は想像していたよりもずっと生気を帯びていた。黒い布から伸びる細長い四肢、しなやかな筋肉、切長な目、青白い無表情な顔、そして正確で無慈悲な太刀筋。実親の目から見た晋によく似ていた。直嗣が張った結界の外に群がった亡者のような武士達を迷いなく斬り捨てて行く姿は、かつての異名・鬼神に相違ないそれだったが、晋を見る目は父親のそれだ。実親側からの説明は一切なしにどれだけ状況を把握しているのか不明ながら、熟練の冷静な判断力は正直今最も頼りになるものだった。亡霊としては一切信用ならないし、裕も実親達を決して良くは思っていないだろう。けれど裕は晋を助けたいのだ。それが現状の最大にして唯一の要だと思った。晋が居なければ裕はあっさり実親を斬っただろう。それだけに紙一重の、ぎりぎりの状態。もし恭と晋が瘴気の悪夢から戻る事がなければ、ここで全員死ぬしかない。

 「それは何だ?」

裕は実親のマスクに対し少し怪訝な目を向けた。

 「簡易的なガスマスクみたいな物だ。アンタがばら撒いてた催眠術の草を吸わないために持ってきた。」

実親は小さくて軽い体の利を生かし敵の間をぬったり、アクロバットに跳び回ったりして、器用に倒して行く。裕は少し感心したように眉を動かした。

 「あんな物に引っ掛かるのは弱い奴だけだ。あの匂いは郷愁を誘う。遠く離れた故郷、幼い日の思い出、母の温もり、そういうものを呼び覚ます匂いだ。そうして出来た心の隙間に入り込む術。」

望まず田舎からたった一人で出てきた直嗣の、孤独や寂しさや不安にてき面の術だったのだ。実親は舌打ちをした。

 「それが弱いとは思わない。それらは基盤だろ。戦う理由となる、原動力となり、人を強くするもののはずだ。」

 「その程度か。」

 「何だと。じゃ、アンタはどうなんだ。その匂いを嗅いで何も感じないって言うのか?だとすればやっぱりアンタは人じゃない。鬼や亡霊の名に相応しいな。」

実親は直嗣を庇い立てする訳ではないが反発せざるを得なかった。実際にこれだけの武士達が催眠にかかっているし、実親自身その匂いを嗅いで正気でいられる自信はなかった。誰にでも過去はある。甘い幼少期の記憶は今でも胸がつまるように去来する事がある。特に過酷な任務の後や、大きく立場が変わったりした時には。それは当たり前の事だと思っていた。誰にでもある、純粋で無知故に無垢で、愚かで正しかった、あの日々達。それが無いとすれば、何かが欠如しているとしか思えなかった。

 「晋は何度嗅いでも催眠術にかからなかったろ。晋にはあの匂いを嗅いで思い出すものがないからだ。俺がそう育てたからだ。晋には俺より強くなって貰わなければならない。」

以前に直嗣が言っていた。晋は草の匂いを嫌いだと言ったと。過去や付随する郷愁を嫌悪していると言うのか。自身の起源を否定していると言うのか。

 「ないはずがない。それこそ弱さだろ。」

 「無いんだよ。故に去来するのは、羨望・嫉妬・憎悪・破壊衝動、そんな所だろう。」

 「マッチ売りの少女…か。」

実親のつぶやきに、裕は視線だけで疑問符を示した。

 「矢集が言ったそうだ。マッチ売りの少女を思い出すと。マッチの灯で見る幻想のように見えたんだな。他人の持つ、甘く暖かな幼少期が。それで嫌悪したのか。」

過去の否定ではなく、手を伸ばしても手に入らなかったものとして記憶されたものを呼び起こす匂いだったのか。

 「随分と甘くなったものだ。それが人となろうとした結果か。」

 「自分の息子を人ではないものにしたかった?」

 「アレは今でも人ではない。恭の所為で中途半端なものになってしまったが。」

 「俺の目からは人にしか見えなかったが。」

実親は正直初めて見た時は獣の類かと思った。けれど今は、傷付き悲しむ心を持つ普通の人間だと思っていた。多少思い上がる所があるが、悪い奴ではない、と。

 「だが晋の目は今でも色を映さない。それは人に成り切れない証拠だろう?」

 「色を?」

 「晋は感情を排除するために、自ら心を閉ざす方法として、色を見る事を止めた。」

 「まさか、そんな事誰も…。」

 「気付いていないのか?誰も晋を知らない、晋の中身を見る事をしない。」

そうかも知れない、と思った。誰もが「矢集」と言うイメージに捕われ、恭と一緒にいる者として捉え、晋という人間のパーソナルな部分など気にも留めなかった。故にその中身は羅刹だと思う事も、ただの青年だと思う事も自由だった。実親は後者を選んだが、少なくとも裕は前者を望んでいるように聞こえた。実の父親が、息子を化け物にしたがっていると。

 「さっきはアンタの顔を父親の顔だと思ったが。矢集を愛しているのか、いないのか?」

実親は、話している内に恭がこの地下迷宮へ来た理由は、十中八九この裕だろうと思った。実親の感触では思ったより話の分からない相手ではないという事だ。恭は晋のためにここに来て、そして裕に確かめたかったのだろう、矢集裕という男の本当の顔を。鬼なのか亡霊なのか人なのか親なのか。恭にとって父親の敵なのか、それとも友の親なのか。

 「それは関係ない。」

 「俺には関係ないと言う意味か?それとも、そんな感情は無用という意味?」

実親は少し勇気を出して踏み込んだ。裕の懐へ。背に冷たい汗が流れた。

 「人は生まれながらに生き方が決まっているものだ。その宿命からは逃れられない。」

 「…俺はそうは思わない。」

中流の家名から飛び出し、立身出世を狙う実親にとっては聞き捨てならない言葉だった。実親の言葉を聞いた裕は、少し憤ったようにも、また切なげにも見えた。実親自身は目が良い方ではないため、『波形』や気配を読んだりするセンスは凡人レベルだったが、そんな実親にもはっきりと見える程に裕の『波形』は濃い負の色をしていた。

 「己が身勝手が世界を滅ぼすとしても?」

裕が刀を振り切るのと同時に言った言葉は、確かに聞きとり憎かったが、実親の耳には届いていた。届いてはいたが、理解する事は困難だった。

 「は?」

訊き返す意味で言ったが、裕はそれ以上を語る事はなかった。



 恭は底なし沼に引きずり込まれるように足場を失い、いつの間にか水の中へ沈んでいた。浮遊するように鈍くで水底に向かっていく体は、思い通りに動かず、また頭の中もぼんやりと重い。

恭が沈むのと同時に気泡のようなものが水面に向かって浮かび上がって行く。ゆっくりとすれ違う多くのそれらは、朦朧とする目で捕えると一斉に恭の方を見返して来た。虚の様な瞳をして恭を刺すように見つめるそれらが、暗い闇色の水底からやって来て、恭を見つめ、そして水面まで行くと破裂し血を流した。見る見る内に水面は赤く染まり、光を失っていった。

血を流す目玉の形をした気泡達が、恭を恨みがましく見つめているのを見る内、恭は無意識に手を伸ばしていた。その気泡の内の一つに。

恭の指先に触れると気泡は破裂し潜血を放った。

 「母さん…。」

恭は再びすれ違う気泡に手を伸ばした。

 「…父さん。」

破裂する気泡が失われる毎に、恭は水底に近付く。

 「…晋。」

水底では大きな虚が口を開けて待つ。

恭は遠く離れた水面を見つめながら別のビジョンを見た。

古い映画のような、モノクロの世界を。単色のつまらない世界。だと言うのに、どこか懐かしい感覚がした。

 既視感。

色のないその場所はかつて見た風景だった。幼少期に晋が裕と暮らしていた、矢集の家。裕に捨てられた晋が地龍本家で暮らすようになってからは放置され今では廃屋となっている。昭和の趣ある小さな家、植物の多い庭。そこで晋は一人取り残された。あの日の涙を、今でもはっきりと思い出す事が出来る。

 「そうか、これは晋の夢…。」

色の無い寂しい世界。

 「これが晋から見た現実…?」

恭とは正反対の、温度感の無い視界。心を感じない、冷たい景色。

 「俺はずっと知らなかったんだな。お前の視界を、心を。俺はずっと遠い所から語りかけていたのかな。ずっと、何もかも、無駄だったのかな。お前を人にしたいなんて、心通わせたいなんて、身勝手に望んだ事は、お前にとって無茶で苦痛だった?俺は酷い要求ばかりをしてた?あるがままを受け入れる事の方が、本当の友情だった?人であって欲しいと望みながら、お前の殺すばかりの仕事を肯定してきたのは矛盾だった?殺意も破壊衝動も肯定しておいて、俺の側では人の顔をして笑えなんて、ずるい望みだった?今まで俺は間違ってた?元々綺麗な関係なんて無理だったとは言え、傲慢が過ぎたのか?なら、どうしてそう言ってくれなかったんだ…。俺は見え過ぎるばっかりに目に頼り過ぎてたんだ。お前が見えてない事に気付かなかった。親友失格だ。ごめんな。それでも、俺はお前と親友でいたかったんだ。」

 恭は慙愧の念に飲まれるように水底の闇に消えて行った。

気泡に交じって一粒の涙が水面へ向かって行った。

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