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3 天女の事

天女を知っているだろうか。

天から舞い降りる美しい神の使いを。

弁天こと安達(あだち)(どう)(げん)にとって新田(にった)祥子(しょうこ)は天女のような存在だった。

美しく優しく慈悲深く、そして強い、主である義平の妻となる人。出合った時から、祥子は主のものだった。だからこそ激しく恋心が燃え上がるのかも知れない。

 「背徳的だな。自分に酔ってて楽しいか?」

気が付くと北条(ほうじょう)春家(はるいえ)の顔が目の前にあった。呆れたような、つまらなそうな表情だった。

 「失礼な。」

 「でも今完全に祥子の事考えてただろ?そういう顔してた。解ってんのかよ、隊長の女だぜ?」

『隊長』はかつて義平の部隊にいた頃の名残であり、今は義平の愛称だった。

 「分かっています。もう十年以上解っていますよ。そんな目で見るなら放っておいてくださいよ。」

 「諦められないなら、いっそ奪っちゃえば良いんじゃないの?」

 「それこそ無理ですよ。祥子さんが私を選ぶはずがありません。」

 「分からないだろ。」

 「祥子さんは転生組ですよ。隊長と初めから夫婦だったんですから。平安時代からずっと、夫婦だったんですから、ありえませんよ。」

 「案外、祥子もたまには隊長じゃない男を選びたくなったりすんじゃねぇかなぁ。」

 「有り得ません。」

天女には手が届かない。そういうものだ。それでいい。

弁天は目を閉じ胸の十字架を撫でた。

 弁天にとって祥子は始めから手の届かない存在だった。だからこそ、まだ幼かったあの時分に天女だなどと思ったのだ。

 弁天のまだ何も知らなかった幼い世界は、今よりずっと大きくて広く、そしてある意味ではとても狭いものだった。

弁天の家は鎌倉の七口の守護を代々務めてきた家系で、地龍の中ではエリートだった。七口の守護自体は世襲ではなく、源氏当主が決めるものだったので偶然代が続いただけだったが、それだけ強い血の家系であったことを裏付けてもいた。七口は源氏当主直轄の特務部隊の通称だ。鎌倉という自然の要塞のような地には、七つの切り通しと呼ばれる入口があり、その入口を護ることを主務としながら源氏当主の命により様々な任務に就く、地龍最高峰の実力者だけが選ばれる部隊だ。地龍当主直轄の特権組織『龍の爪』との兼任者も少なくなかった。地龍本家が源氏の拠点である鎌倉にあるということが大きな要因の一つだったのだが、そういうことはまだ幼かった弁天には知る由もない事だった。

北条春家もまた弁天と同じように七口の守護者の嫡男であり、同じ年だったこともあり、幼きより気が合った。源氏の当主・義平とも、地龍本家嫡男の貴也とも、まだただの子供として仲良く遊んでいた。義平は転生組だったが、生まれ変るということを弁天はまだよく分かっていなかったし、目の前にいる義平という人物の何かを揺るがすものだとも思われなかったので理解する事を放棄していた。祥子を見るまでは。

その頃から弁天は誰より優しくよく泣くので親は弱虫だと、武士に相応しくないと叱った。稽古で相手を傷つけることも、動物や『夜』が傷つくことも、弁天は酷く嫌い、そして恐がった。そんな弁天に祥子を合わせたのは義平だった。

 「お前のこと話したら、どうしても会いたいって言うから連れてきた。」

そう言って義平の後ろから、ひょっこり顔を出した幼い顔は間違いなく少女のそれだったのだが、弁天は直感したのだ。ただの子供ではない、と。目が、違っていた。他の弁天の周りにいる女の子とは、圧倒的に違っていたのだ。その目は少女の無垢ではなく、女の否、女神の慈悲というべきか、広大な蒼穹のような深遠を湛えているように感じた。そしてその一瞬にして魅入られたのだ。

 「だって、殿ばかりご友人をおつくりになって、ずるいんですもの。私も入れてくださいまし。はじめまして、新田祥子と申します。」

その微笑みが、弁天の脳裏に今も鮮明に焼きついている。

その日から、弁天の幼馴染のメンバーの中に祥子が入り、よく皆で遊んだ。転生者である義平や祥子が今更子どもと混ざって遊んで楽しいのかは甚だ疑問だったが、毎日のように遊んだし、学校へ入学してからは学校にいる時間も一緒だったので、殆どの時間は皆と過ごした。

あれは確か中学生くらいだったろうか、弁天は祥子に訊いたことがあった。

 「祥子さん、我々といて楽しいですか?」

 「うん。楽しいよ。どうして?」

 「祥子さんは何度も人生を送っているでしょう?今更子供の私達といても退屈なのではないかと思ったので。」

 「そんなことはないわ。時代は流れているもの。生まれる度に世界は進化していて、とても新鮮なの。地龍の状況も、源平の戦況も、色んなものが私達のしがらみになっているけれど、それでも新しい何かに希望を感じるのよ。例えば、貴也や春や弁天みたいな新しい世代とか。何かが現状を打開するって感じるの。」

 「難しいことを考えているんですね。私は自分のことばっかりで、恥ずかしいです。」

祥子が弁天といて楽しくないのではないか、などと卑屈な考えを巡らせている間、祥子は地龍の行く末を見つめていたのだ。その宇宙のような目で。弁天は急に自らの卑小さを知り恥ずかしくなった。だが祥子は笑った。何故か初めて会った時と同じ微笑みだった。

 「恥じることなんて何もないわ。弁天は優しい。誰よりも優しいわ。その心根こそが、私の感じる希望そのものなの。ねぇ、弁天、貴方はその優しさで周囲を傷付けるし、自分も傷付くことが、これから多分沢山あるわ。でも優しいことを諦めないでね。その尊さを捨てないでね。いろんなものを犠牲にしなくちゃならなくなるだろうけど、それでもその心をなかったことにしないでね。」

 「祥子さん…」

急に祥子が言いだしたことが、弁天にははっきりとは理解できなかった。けれど、親が罵る弁天の弱さを、優しさだと言う祥子の言葉は、水に沈む鎖のようにゆっくりと確かに心の奥底に届いて行った。

 「これをあげる。」

祥子が差し出したものは、古い木製の十字架だった。

 「これはね、何回か前の人生の時のもの。その頃はまだ珍しかったの。」

 「キリスト教ですか?」

 「うん、多分ね。でもそれも分かってなかったの。あの頃私はそれを『異国の神様』って呼んでた。沢山戦があって、沢山の『昼』と『夜』が傷付き絶えた。そして私は神仏に祈るのをやめたわ。そんな時に出会ったの。日本の神仏はもう期待しても駄目だって、良く知らない異国の神に頼ったの。もしかしたらって。良く知らないものには可能性を感じちゃうんだよね。単純で愚かだけど、すがったのよ、その十字架に。」

 「大事なもの、なんですね?」

 「うん。異国の神様も、私達を助けてはくれなかったから、もう祈ったりはしてないの。でもね、あの時感じた希望を忘れないように、ずっと持ってたの。解る?」

 「?」

 「その十字架は私にとっての皆。そして弁天なの。」

 「これが私?」

 「私があの時感じた希望は、未知のものが秘めたポテンシャルよ。弁天の優しさは、私にとっての希望、未来そのもの。弁天みたいな優しい世界をつくってほしいの。持ってて、『異国の神様』は未来の可能性よ。忘れないで、私の未来は弁天の優しさと同じものだってこと。」

弁天は、水の底に沈んだ鎖が十字架の形になって輝いたように感じた。

 「祥子さん。私は貴女が思ってくださるような大した男ではありませんよ。でもおっしゃることは分かる気がします。私が劣等感を抱く時、貴也や春、他人に感じる将来性のようなものを、目を変えれば私も持っているってことですよね。貴女が好んでくださる私は、武士としての適性ではない部分だと思っていました。けれど、貴女が尊いと言ってくださるのならば、私は私のままで立派な武士となって御覧に入れましょう。貴女の望む新しい未来のために。」

 その日弁天は誓ったのだ。祥子の望む世界を作る一助となることを。そして、そのために優しさを犠牲にしないことを。他者を慈しむことを恥じたり蔑ろにすることなく、また他者に憚られることのない、自分だけの優しさのための強さを手に入れることを。きっと優しさは生ぬるさではない、厳しく時に辛辣な現実を突きつける。それでも貫くこと自体が残酷で冷徹だとしても、それを刃に戦い続けることを、『異国の神様』に固く誓ったのだ。



 地龍には生れ変りというものがある。かつて平安末期の騒乱の世、何かが起こり、以来生れ変りを繰り返している者達がいるのだ。何が原因でそうなったのかは解っていない。転生者は何度生まれ、何度死んでも、前回までの記憶をはっきりと持っており人格もそのままで繰り返しているのだ。それも地龍の輪の中、当初の血脈から遠くない家に生まれてくることが主で、生まれた時からそれと解る。生まれた時から人間として十分に成熟した人格を持っているのだ、もはや誰の腹から出てきたかなどということはどうでもよいことである。転生者の殆どが名のある武士であり、その人の転生者だと解るやいなや地龍内での待遇は格檀に上がる。現在の源氏当主・源義平その人も、今回の生は源氏の直系でない家に生まれたが、義平であると発覚するや否や当主の座についたのだ。地龍にとって転生組の重みは別格だ。平安時代から続いているのは転生者の存在だけではない。源平の合戦だ。歴史上は片がついたことになっているが、歴史の裏舞台である地龍ではまだ終わっていなかった。戦の当事者である武士たちが転生を繰り返しているためか、因果に終焉を見ていないまま、現代にまで至ってしまったのだ。

多くの転生者の目的は、この転生を終わりにすることだった。

義平も、その妻祥子もその目的のために奔走してきた。何度も繰り返す人生を費やして。

 「祥子、占ってくれ。」

 「いやよ。そんなの意味がないわ。」

源氏本家の一室で香を焚き、良く冷えた緑茶を飲んで寛いでいた祥子は、テーブルに乗り出して請う義平の顔を一瞥もせず無下にする。浴衣姿に、長い黒髪を簡単に結い上げたうなじに少しおりている髪が色っぽい。白く艶めかしい肌に、整った顔立ち、凛々しいはっきりとした眉と大きな瞳を飾る豪奢な睫毛が、間違いのない美人だと物語っている。

 「何でだよ。紀大の陰陽師と謳われたお前の占いに、意味がない訳ないだろ。」

 「何度も言ってるけど、私は予知能力者じゃないの。精々気運を読むだけよ。具体的な未来なんて見えないの。いい加減にしてよ、これ平安時代から言ってるんだけど、あんた馬鹿なの?」

 「何だと!お前主に向かってそういうこと言うか?」

 「何よ、無礼な口をきいた罪で首でも切ろうっての?自らの務めを果たさないで、権力だけ行使しようだなんて、とんだ暴君だわ。千年前からやり直して。」

 「務めははた…」

 「果たしてないでしょう?『龍の爪』のメンバー探しを私に占えなんて、おかしいじゃない。だいたい、貴也があんたを信じて任せたんだから、あんたは貴也の好きそうな猛者をピックアップすればいいでしょ。最終的に決めるのは貴也なんだし。」

 「それはそうだが、これは大切な事だから。俺だって慎重になるだろ。」

 「大丈夫で御座います。殿には私が付いております故。いざとなればこの紀大の陰陽師が、何とかしてさしあげましょう。」

祥子がおどけたように言うと、二人は弾けるように笑った。

 そこへどかどかと大股で無遠慮に渡殿を行く音がしたと思うと、大きな動作で豪快に部屋へ、一人の男が入ってきた。

 「暑い!何か飲み物をくれ!」

若き地龍当主貴也だ。汗を浮かべながら和装を乱して畳の上に胡坐をかくと、祥子が無言で差し出した団扇を高速で扇ぎ始めた。

 「今年の夏は暑すぎるだろ、義平。」

 「毎年同じセリフを言っていて飽きないか?貴也。」

やたら暑がる貴也を、義平は呆れたようにあしらった。

その間に祥子がテーブルにあった容器から冷えた緑茶を注いだコップを、貴也の前にそっと置いた。

 「平安時代から同じこと言ってる人に言われたくないわよ。ね、貴也。」

貴也が飲みほしたコップに再びお茶を注ぎながら言う祥子の真面目な声音に、貴也が眉をひそめた。

 「何だ?夫婦喧嘩か?やめろよ、お前らのやつは昔から洒落にならん。巻き込むなよ。」

 「違うって。こいつが…」

 「殿が『爪』のメンバーを私の占いで決めろって言うのよ。」

何か言いかけた義平にかぶせるように言う祥子の言葉が暑い夏の和室に響いた。

 「…うん。それはないだろ、義平。」

 「ないかな。」

 「ないわよ。」

冷えたお茶の入った容器が汗をかいてテーブルに水滴を落とす。

 「つか、祥子って、占星術っていうより呪術っぽいイメージなんだけど。」

 「そうか?当時は日本一の呪術師って言われてたけど、実際にやってたのは時や方角を占う類のことが多かったんだよな。」

 「日本一だなんて大袈裟よ。それに、過去の栄光でしょ。私は源悪源太義平の妻だった、それだけよ。」

 「今世ではまだ妻じゃないだろ。」

貴也の問いに、二人は目を合わせた。そして義平が息を吐くように言った。

 「祥子が感じるんだと。」

三人の視線が同じ宙で交わる。

 「今回が最後だって。そのために何をすればいいのかまだ分からない。でも、それが済んだら、最期の夫婦生活をするつもりだよ。」

 「…そうか。寂しくなるな。」

貴也が素直に言った一言は、長年転生を終わらせようとしてきた二人にとって、複雑な心理のような気がした。


何度も繰り返す生とはどんなものだろうか。

きっと残酷なものだろう。

幼い頃から義平と祥子を見ていて貴也は思っていた。終わらない事の苦しみと、終わることの寂しさ。きっと一度きりの自分たちには解らない、相反する感情があって、終わらせたいと望むほど終わりが恐くなるのだ。

転生者は地龍で絶大な地位と権力を持つ謂わばビップというやつだが、無為に尊敬され持ち上げられるという訳ではない。過去の行いの悪いものには相応の悪評がついて回る。何度生まれ変ってもずっと、ずっとだ。リセットされない生の回転が、永遠に過去を購わせない因果が、生まれる度に彼らの荷を重くするようだ。更に、彼らの存在こそが、源平の争いが終わらない原因だと言う者も少なくない。事実そういう側面もあるのだろう、だが所詮は地龍本家と長老会との権力争いの代理戦争に過ぎない源平が、転生組を失った位で収束するとは到底思えなかった。少なくとも貴也には。

転生する身の苦しみは永遠に解ることはない、貴也は転生者ではない。だが、いかに転生者とて、地龍当主たることの本当を理解することはないのだ。

そう思うと孤独感が極まる。

途端父を想う、地龍当主として生き、死んだ父を。自分の行く末を。

残された唯一の肉親である弟恭を想う。あらゆるしがらみのない、純粋な愛情を。

だからこそ求めるのだ。自分だけの部隊を、仲間を。しがらみのない、自分の心から信じられる仲間達、手足。

 「なぁ」

貴也が唐突に発した真面目な声に、義平と祥子は背筋を伸ばした。

 「俺…」

貴也が何か言おうとした、その瞬間に話声と共に部屋へ近づいてくる気配がした。

 「本当にそういうのやめてください。」

 「何でだよ、弁天だって考えたことくらいあるだろ?」

 「…ありません。」

 「嘘つき。」

 「ちょっ春!」

大きな声と共に春家を睨みつけた弁天が立ち止まった場所が丁度部屋の前だった。

 「珍しい、弁天が怒ってるよ。」

 「弁天を怒らせるのは昔から春だけね。」

 「お前らなぁ、俺は今大切な話をしようとした所だったんだぞ。」

 「でも、呼んだのは貴也だろ?」

 「大切な話でしたら私たちは出直しましょうか?」

弁天の遠慮がちな申し出に貴也は笑顔で座り直した。

 「いい、お前らにも関係ある話だ。座れ。」

先程までの暑がっていた声とは全く違う、張りのある声だった。スイッチが切り替わった証拠だ。貴也の当主の顔。その場の全員が背筋を伸ばし座ると、恭しく頭を垂れた。

 「父が死に、俺が当主を継いで以来、早急に『龍の爪』の結成を迫られてきた。だが俺は、今までと違う、慣習に捉われない部隊を作りたい。義平を筆頭に俺の本当の意味での手足となる部隊を作るつもりだ。そこで、新田祥子、北条春家、安達道玄、俺の部隊に入らないか?」

三人の動きが止まった。

 「返事は?」

 「我らに是非を問うのですか?地龍殿のご命令とあれば我ら、どのような死地にでも赴く覚悟はできております。」

首を垂れたままで言う春家に、貴也は微笑した。

 「そうだ。俺は皆の意志を問う。嫌なら断ってよい。」

 「…『龍の爪』は地龍の武士ならば誰もが憧れる最高峰の組織、このような誉れを何故断ることがありましょう?」

弁天の返答に、貴也は満足気に頷いた。そして弁天は続けた。

 「ましてや、貴方様は私の心からお慕い申し上げる主でございます。どうぞ、私でよろしければ如何様にもお使いください。」

貴也の反応を待たずに春家も続けた。

 「俺の刀は殿のために鍛えられたものです。俺自身、元より殿の刀。異存など御座いません。」

 「祥子はどうだ?」

 「わ、私は女の身故、戦から遠ざけられることも多く、なれど武士たる魂は男以上に鍛えてまいりました。こうして武士として分け隔てなく評価して頂けたこと、恭越至極でございます。喜んで地龍殿の手足となりましょう。」

熱のある声だった。高楊が伝わる、奮えた声だった。嬉しそうに頷く貴也の横で、冷たい目をして祥子を見る義平を、弁天は見逃さなかった。


 「隊長は、よく思ってないんですよね。」

 「多分ね。」

貴也と義平が仕事で去り、春家が厠へ行っている間、部屋には弁天と祥子の二人が残された。久し振りだった、二人きりで話すのは。弁天は祥子の美しい姿を目に焼き付けるように、じっと見つめた。

 「殿は、義平様は、私を戦に関わらせたくないのよ。昔から。女だてらに武士として生きようとしてきたでしょう、私って。平安当時戦う女って他にもいたし、武士の妻って型にはめたい訳じゃないと思うんだけど、良い顔しないのよね。昔から。」

 「それは、型とか世間とかプライドの問題じゃなくて、祥子さんを好きだからですよ。」

弁天は祥子の長い睫毛をうっとりと見ていた。すこし震えた。

 「好きだから?」

祥子の丸い、大きな瞳が、射ぬくように弁天をとらえた。

 「当たり前です。」

躊躇なく頷く弁天に、祥子は大輪の花が開くように笑った。

 「私、弁天を好きになればよかったな。そしたらきっと、幸せだったのに。」

 「いいえ、私では祥子さんを幸せには出来ません。隊長でなくちゃ。」

 「優しいね。昔から、今まで出会った誰よりも、弁天は優しい。皆に幸せになって欲しいって、心から願えるのは弁天だけよ。だから、傷付くのね。」

 「いいえ、私は私の優しさで傷ついたりはしません。きっと傲慢なだけです、他人の幸せを願うこと自体、欺瞞です。でも、戦の終結を願うことは違うって、思うんです。当たり前で、普通の事だって。」

 「そうね。転生を終わらせることと同じ、当然の想いよね。」

弁天の首にかかった小さな十字架が光った。

 「それ…つけてくれてるんだね。」

 「はい。祥子さんから頂いた、異国の神様です。」

 「これこそ偶像崇拝の極地よね。この国の神はもう我々を助けてくれたりしないってよく分かったからって。良く知らない神に願いを託そうなんて。でも、それは弁天と私の願いの証よ。同じ、幸福への祈り。」

 「ええ。きっと負の連鎖を断ちましょう。」

不毛な恋も含めて、弁天は終わらせなければと思った。

天女はいつか天へ帰るのだから。


 「祥子が相応しいのか?」

歩きながら義平は押し殺したように問う。

 「相応しいだろ。戦力としては申し分ない上、信頼できる。どこが相応しくない?」

 「…お」

 「女だ。なんて言わないよな。」

挑発的に義平を見据える貴也の目をまともに見ることが出来ずに、義平は顔をそむけて言った。

 「お…俺の女だ。」

義平の言葉に面食らったように一瞬の間を開けて貴也が笑いだした。

 「…お前、笑うなよ。」

 「これが笑わずにいられるか?悪源太義平ともあろう将が、政に私情を挟むとは。片腹痛いな。」

 「な…」

 「分かってる。お前は祥子を戦に巻き込みたくないんだろ。だが勘弁してくれ。祥子は必要な戦力だ。そんなに心配ならお前が守ってやればいい。」

 「…守ってやるさ。今回こそはきっと。」

夏の生ぬるい風が二人の間を吹きぬけていった。

 「で、本当のところどうなんだ?」

貴也が真面目な声で訊いた。

 「え?」

主語のない、唐突な問いに義平は一瞬戸惑った。

 「『爪』のメンバー集めの事。あてはあるんだろ?」

貴也の補足に対し、言いにくい事を無理やり口にするように義平が答えた。

 「あるには、ある。だが、やってくれるかは分からん。」

ありえない。地龍当主からの命に反するなど、本来は。何よりの誉れであるところの『龍の爪』のメンバーは、他人を蹴落としてでも手に入れたいと死に物狂いになってもおかしくないものだ。地龍の者ならば、本来は。断るのは明らかなアウトロー、それだけは確かだった。

 「へぇ。そういうのを待ってたんだ。さすが親友、分かってるじゃん。」

貴也がギラギラした目で見据える未来を、義平は一緒に見ることが出来ているのだろうか。少し不安になった。

 「どうすんだよ。」

 「まぁ見てなって。絶対手に入れてやるよ。」

どこから来るのか分からない自信に満ちた瞳で、貴也は笑った。

 「で?どこのどいつだって?」

 「敵を知り己を知れば百戦危うからずって言うだろ?とにかくしっかり下調べしてから行けよな。」

 「へいへい。で、どこの誰なの?」

 「人里離れた山奥で一人で暮らしてる。天狗なんて呼ばれて恐れられてる猛者らしい。腕は間違いない。だが地龍組織のしがらみに辟易して血縁をすべて絶って隠居してるみたいでな、取り付く島がない男だよ。地龍内での地位や権力や恩賞になんか興味はこれっぽっちも無いだろうな。どうでる、貴也?」

 「なるほど、地龍のしがらみに嫌気がさした男か。地龍の古い慣習をぶっ壊してやりたい俺にとっては御誂え向けじゃねぇの。ますます気に言ったぜ。地龍の武士が一人で生きてるってのにも興味があるしな。面白くなってきたぜ。なぁ義平。」

 「はいはい。俺はどこまでも御当主様について行きますよ。」

義平の話では男は兼虎というらしい。姓は絶縁し捨てたという話だ。山奥の古い寺を住居にして住みついているが僧侶ではなく、日々一人鍛練を積んで暮らしているらしい。

貴也は本当に誂たようにぴったりな人材だと思った。地龍組織の中で、金や地位や権力といったもので動く人間は多い。そういう人材では裏切られるかも知れない。最初から長老会のスパイである可能性もある。そうではない、目に見えないもので絆が結べる者がいい。そして改革の意志のある者が。貴也の目指すものの大切な柱となる者、そして恭を守る者。

 「時間はそんなにはない。」

 「貴也?」

貴也の握りしめた拳の中で汗がにじんだ。



夕日が世界をオレンジ色に染めて、焼けた肌が更に濃い色に見えた。

学校の帰り道を学生が二人歩いている。恭と晋だ。

 「晋、『波形』が乱れてる。」

 「…分かってるよ。」

 「地龍は治外法権だ。将来『昼』の社会で生きること自体ありえないのだから、『昼』の学校など通う必要はない。だが『昼』を知らずに『昼夜』のバランスを守ることは出来ないから、長くて高校までは通うことになってる。これも修行だと思って我慢するんだな。」

 「…分かってる。」

 「地龍の人間が通う学校は色々な都合があるから決まってる。だから学校内に地龍の人間が多いのも致し方のないことだ。不快だろうが我慢しろ。」

 「…分かってる。」

 「地龍の人間が矢集の家を気に入らないのも、その矢集の人間が当主の血統である俺と一緒にいることを快く思わないのも、矢集を恐れながらも排除しようとするのも…」

 「分かってる。」

 「俺がそんな晋を守りきれないことも、俺がかばえばかばう程お前への当たりが強くなることも、逆上するお前を止められないことも…」

 「分かってるったら!」

 「俺のせいでかえって辛いよな。お前を俺の側に置くことは、俺のわがままであってお前のためじゃないよな。」

 「違う!俺はいいんだ。この道を選んだのは俺だから。俺は獣だから、そんなことで傷付かないから、恭が、そんなことで傷付くな。俺は…、恭が傷付くことが、それだけが、俺を傷付けるって思うよ。きっといつか、そのうちにもっと上手くやれるようになるから、だから、大丈夫だから。」

晋は裸足だった。服も持ち物もボロボロだった。学校の晋の机もロッカーも落書きや傷でボロボロだった。拳も、傷だらけだった。

 「うん。」

 「『波形』も、もっときれいにするから。」

 「うん。」

 「恭、好きだろ、きれいな『波形』。恭が好きな『波形』になるから、待ってて。」

 「うん。でも、俺はお前の荒々しい『波形』も案外気に入ってるよ。」

 「…ありがと。」

人間性を無視した実力社会の地龍組織の中で、生まれながらに付いてくる家名が人を縛っていた。晋が呪われた家系の子供じゃなければ、きっと周囲は素直にその実力を羨んだ。でも矢集の家系でなければ恭の側近を任される程の能力はなかった。ジレンマが恭の胸中で、とぐろを巻いた蛇のようにぬるぬると不快にうねっていた。地龍という組織は千年以上の時の中で捻じれて歪みきってしまったのだ。それなのに世界のバランスを正常に保つだなんて、矛盾していて笑えないと思った。兄はそんな狂った組織の当主なのだ。それは一体どういうことなのか。兄の笑顔は父が生きていた頃のそれとどこか違う気がしていた。明朗快活な兄の纏う『波形』が、以前とは違う色になったのを、恭だけは気が付いていた。これから何かが変わるのだ、兄が変えるのだ。大きな時代の変革の前触れなのだと、恭は心のどこかで感じてはいたが、どこか他人事のような気持ちでその時を期待もせずに待っていた。恭自身は当主の弟という、地位とも権力ともつかない宙ぶらりんな看板だけをぶら下げて、役職でもなければ所属でもない、『弟』という立場にただ留まり、世界の流れを眺めているだけの存在なのだと思っていたのだ。たまに与えられる、仕事をしているという既成事実のための仕事をこなし、あとはそつなく『弟』の顔をし続ければいいだけの存在。飾りだ。兄を慰めるだけの、武士でもない、何者でもない、いなくてもいい、そんな所在ない存在だった。少なくとも恭自身はそうとしか思えなかった。本来は二刀で一対の刀である朱烏と黒烏を兄弟で一振りずつ与えられたことは、恭にとってはただの重荷だった。兄が二振りを持てば有益だろうに、大切な一振りを自らが持つことは宝の持ち腐れでしかないように思え、すぐにでも返上してしまいたくなった。けれど、この不合理で無意味な行為が自身の唯一の役目だと思い直して、平気な顔をして腰に下げるのだ。

 「どうかしてるな。」

 「うん。」

 「本当は俺が暴れ出したいんだが、いつも晋が先にやるから、結局俺は何も出来ない。」

 「ごめん。俺短気だから。」

 「いつも、守ってもらってばっかりだな。」

恭自身に守る価値があるのか、晋に問えば欲しい言葉が当然のように返ってくるのだが、分かり切ったその問いはずるいし、返ってみじめになるだけのような気がしてやめた。

 「でも、恭が怒って暴れてるところも、見てみたいな。」

晋が不意に言った意外な言葉が、恭の憂鬱な思想を目の前から退かした気がした。

 「じゃあ、晋が暴れるのを我慢しなきゃだな。」

 「それは無理でしょ。」

何も考えずに笑った。

二人の姿はただの学生に見えた。

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