表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
267/1116

135 留紅草の事

 Ber Original Oneは温かいオレンジ色の照明に照らされたモダンな空間で、アンティークの調度品が品の良い雰囲気を作り出していた。まるで映画の世界に入ったかのような完璧な世界観で統一され、誰もが特別な気分を味わえることうってつけだ。

 「紫微星(しびせい)様に乾杯。」

小さな可愛らしいグラスに、星空のような気泡煌めくカクテルを差し出しならが、南木(なぎ)在仁(ありひと)にウインクをした。在仁はその優雅でキザな姿に微笑みを返した。

 「南木、在仁を口説くと茉莉(まつり)様に殺されるぞ。」

隣で別のものを飲んでいる蘇芳(すおう)が忠告すると、南木は面白そうに笑った。

 「そいつはおっかない。」

言いながら南木は、在仁の隣に座っている白蓮(びゃくれん)の隣の席の紅葉(もみじ)にグラスを差し出した。

 「はい、空気ちゃんにはノンアルね。」

 「ありがとうございます。」

気遣いに少し驚いたように礼を言う紅葉を見つつ、蘇芳が空いたグラスを差し出した。

 「この店にそんな気の利いたものがあったのか?」

 「特別だよ。」

この店にメニューはない。店主である南木の独断と偏見で差し出される酒類を楽しむ店なのだ。

 南木はピンクの髪を綺麗にオールバックにして結び、きちんとしたバーテンダーの装いで姿勢良くもてなしていた。紅葉は、(かさね)大隊で会う時の汚れた繋ぎと雑な髪型の南木とのギャップに驚いてしまい、借りてきた猫のようにおとなしく座っていた。

在仁と蘇芳はその様子を見守りながら、南木に目を向けた。南木は在仁と紅葉という珍しい客に嬉しそうだ。南木は蘇芳に新しい一杯を差し出してから、白蓮ににっこりと笑みを向けた。

 「おっさんはどうする?」

 「放っておけ。」

端的に答えた白蓮に、南木は肩をすくめた。「お客さんを放っておくのもね〜。」と言って困った様子だったが、しばらくして皿に牛乳を注いで置いた。白蓮は憮然としていたが、在仁は「ありがとうございます。」と頭を下げた。

 「で?葛葉(くずのは)クンが来るなんて珍しいね。どうしたの?」

 「いいえ、特に理由はございませんよ。俺もたまには息抜きをさせていただきたく存じます。」

 「ふうん。」

すました在仁を、意味ありげに見た南木だが、それ以上は追及しなかった。

 「葛葉クンその後体調はいいの?って、最近いつ行っても走ってるくらいだから元気か。」

最近の南木は重を訪ねても空振りばかりだ。在仁が狂ったように走り込んでいてまったく掴まらないのだ。逢初(あいぞめ)も呆れた様子だが、放置しているので仕事に支障はないのだろう。

 「ご足労いただいておりますのに、不在が多く、恐れ入ります。ご一報くだされば、席を空けぬようにいたしますが…。」

 「いいのいいの、大した用事じゃないから。月長石の回収ついでにちょっと話そうと思っただけだから。わざわざ事前に紫微星様のお時間を頂戴する程じゃあありませんよ。」

おどけて言うので、在仁は薄く笑っておいた。

 「すっかり定着しましたね。」

嬉しそうに紅葉が在仁に言った。紫微星という呼び名が、今では在仁を示す言葉として定着した。それは和田家門の誇りのように思えて、紅葉も誇らしい気持ちだ。だが、在仁は複雑そうに微笑んだ。

 「何だか、未熟な俺が北辰(ほくしん)を名乗るなど、申し訳ないような気がいたしますね。」

グラスに映る自身の顔を見れば、半人前の青二才のように見えた。未だ何一つまともに成せない未熟者。

 「ふっ…もっと自信を持っても良いと思うんだがな。ま、それも在仁なんだろう。」

蘇芳が優しい眼差しで在仁の横顔を見た。その温かい眼差しを感じた在仁は、年長者に甘えるように言った。

 「俺もお二人のように自立した大人の男になりとうございます。」

言われた蘇芳と南木は目を合わせて笑った。

 「あはは、ボクがそんな良いものの訳がないじゃないか。葛葉クンはボクや蘇芳クンに夢を見すぎだよ。」

 「おい、南木。何故お前が俺の事までまとめて否定するんだ。俺はそれなりにやっているだろうが。」

 「ええ〜?蘇芳クンなんていつもパパにべったりじゃないか〜。」

 「俺は副小隊長なんだから、小隊長と一緒にいるのは当然だろうが。」

またいつものように二人が仲良く言い合いを始めたので、在仁は楽しくなった。この二人の言い合いを聞いているのが結構好きなのだ。在仁はそれを一緒に眺めている紅葉に訊いてみた。

 「こちらの顔の南木様も素敵でございましょう?」

 「はい。何だか、いつもと全く別人のようですね。普段から忙しそうなのに、こうして夜も別の店を構えているとは思いませんでした。意外とタフな人ですね。」

個人商店である雑貨屋を営む南木は、重の依頼以外にも仕事がある。それだけでも忙しい事は間違いがないというのに、こうしてバーをやっている。本当に元気な人だ。在仁は紅葉の感想に深く共感した。

 「しかし、俺から致しますれば紅葉さんも、休日もなく働かれておられます事、とても体力があられると感心いたします。休暇が必要でございましたら、いつでもおっしゃってくださいね。」

一応気を遣っている在仁は一週間に一日か二日は自宅か本家に引き籠る日を作って、紅葉にフリーの時間をつくるようにしている。その間紅葉はのんびりと休むでもなく、鍛錬などに当てているようなので、とことん元気な人だと思う。

 「ご心配には及びません。体力だけは自信があります。それに、護衛の任を受ける際に休暇の無い職務である事は分かっていましたから。」

自信満々に言って来るが、地龍に労基法がない事は問題ではないかと在仁は思った。やはり休息は必要だろうと。そこへ南木が驚いた様子で会話に入ってきた。

 「ええ?空気ちゃんお休みないの?それじゃあ友達とも彼氏とも家族とも会えないじゃん。ただでさえ一人で知らない土地に来たのに、寂しくない?」

 「いいえ、私は平気です。こちらで皆さん良くしてくださいますし。」

 「それじゃあ孤独死コースまっしぐらじゃないか。まさか空気ちゃんがこっち側の人間だったとは。」

こっちがどっちなのかよく分からないが、南木は憐れむような共感するような言い方をした。

そこへ、そう言えばという風に在仁が言った。

 「紅葉さんは独身主義と伺っておりますが、何か理由がございますか?」

着任前の情報では、紅葉は独身主義だという話だった。だが、紅葉は首を傾げた。

 「独身主義…はぁ、確かに、そのような事を言ったかも知れません。」

 「違うのでございますか?」

あれ?という顔で全員が紅葉を見た。その視線に気まずそうに紅葉が目を伏せた。

 「違うと言うか…義将(よしまさ)様が一時期やけに私の結婚について言及してきて、正直迷惑だったので、断るためにそのように言ったかも知れません。」

紅葉は元々は義将のお気に入りだったと、佐長(すけなが)が言っていた事を思い出した在仁は、義将が紅葉の将来に言及したのは愛情表現なのだろうと思った。もちろん紅葉からしたら心底迷惑だったのだろう。

 「では、ただの口実で?」

 「まぁ、拘りはありませんね。どちらでも。ですが、私は仕事が好きなので、仕事にしわ寄せがくるような関係は望みません。」

きっぱりと言う紅葉は、自立した大人の女という感じで格好良かった。

そこへ南木が乗ってきた。

 「わかるな〜。ボクも、閃き命だからねぇ。やりたい事をやるのが最優先だよ。」

確かに南木は身軽な独り身を満喫して生きている。自身の責任の元で好きな事、やりたい事を選んで、充実した人生を送っているようだ。こういうタイプの人間は自己完結しているので、恋人や結婚を望まない事が多いと在仁は思っている。

 「ボクは蘇芳クンもこっち側の仲間だと思ってたんだけどね〜。」

 「はは、俺は運命の人に出会ってしまったんだ。」

 「うわ、気持ちわるっ。蘇芳クンてそういうとこあるよね。」

周囲から魔法使い志望と言われていた蘇芳も今や結婚を前提に交際する人がいる。南木はそれがとても不思議な気持ちだ。裏切られたような、嬉しいような、そんな複雑な気持ち。


 ◆


 バーでの大人の時間が更けていく中、普段護衛に徹している紅葉のパーソナルな部分を見た南木が、少し興味を持ったように話しかけた。

 「清め人の傍にいるのって、結構面白いでしょ。」

紅葉がぱっと顔を上げて南木を見ると、懐かしそうな寂しそうな笑みだった。

 「はい。清め人様は、元々憧れですし、お傍に仕えさせていただける事は夢のようです。それに、日々ご一緒させていただいても、やっぱり凄いなって思う事ばっかりで、勉強になります。」

憧れの仕事に就いている事を誇りに思っていると分かる表情だった。

 「ボクもね、元は清め人の弟子だったから、清め人の傍にいる気持ち分かるよ。清め人って魔法使いみたいだよね。」

 「南木様は清め人様の弟子だったのですか?」

びっくりした紅葉が身を乗り出すと、その素直なリアクションに苦笑した。在仁に話した時は全く思ったようなリアクションをしてもらえなかったので、その分が回収出来たような気がした。

 「そうなんだ。ボクには適性が無かったみたいだけどね。でも、そのおかげでこうして自立して生活出来てる。」

夢を叶えた紅葉と、夢破れた南木は、正反対だがどこか近いものを感じた。それは清め人のごく近くで過ごすという環境だ。二人は清め人への憧れを共有するように話した。

 「そうでしたか。それで色々な事に詳しいのですね。葛葉様も南木様の事をとても頼りにしています。」

 「あはは、そう?それは光栄だな。葛葉クンは清め界に彗星の如く現れた期待の新人だからね。将来有望な彼に一目置かれるボクなんて、中々悪い気はしないな。」

照れたような、寂しいような表情の南木に、紅葉は複雑な気持ちが伝播したような気がした。

 「葛葉様は、評価が一人歩きしているように感じるみたいです。我ら和田家門は葛葉様とどこまでも共にある覚悟ですが、それが重荷になってほしくはありません。真面目な方ですから、少し心配です。」

 「急に有名人になっちゃったもんね。そら仕方ない。けど、だからこそ空気ちゃんはいつも通りにしてあげな。それこそ、安心できる空気になりなよ。ボクも、センセと一緒にいる時はなるべく普通にするようにしてたよ。」

雑貨屋の顔と、バーテンダーの顔、顔をここまで器用に使い分ける南木であればきっと上手に「普通」を演じただろう。だが紅葉は器用な方ではない。

 「私は…私の清め人様への崇拝は、葛葉様には休まらないものかも知れません。清め人様ではない葛葉様を、私は見られているのか、まだよく分かりません。良い空気への道のりは険しそうです。」

 「はは、頭硬いねぇ。ね、空気ちゃんの護衛対象が、もし逢初(あいぞめ)姉さんだったら、空気ちゃんの清め崇拝は既に瓦解していたんじゃないかなぁ。」

唐突に問われて紅葉は戸惑った。確かに逢初の存在は紅葉の中の清め人に当て嵌まらない。その戸惑いの沈黙を肯定と取った南木は続けた。

 「今もって空気ちゃんの清め崇拝が健在なのって、葛葉クンが空気ちゃんの理想の清め人像に当て嵌まってるって事だよね。つまり、それも間違いなく葛葉クンだって事だよ。ボクが思うに、TPOで使い分ける顔のどれだって嘘の自分じゃないんだよ。葛葉クンが気後れしてる聖人像だって、嘘偽りのない葛葉クン自身だよ。自分が自分だと思う自分像だけが、自分じゃない。」

南木は自身のために用意したグラスの飲み口に指を滑らせた。

 「人は多面体だ。空気ちゃんはこれから先長い時間をかけて葛葉クンの色々な顔を知るだろう。その度に情報を更新して理解を深めていけば良いんだ。今出来る事は、空気ちゃんの知る限りで良いと思う事をする、それだけ。それが崇拝なら存分にすれば良いよ。それが空気ちゃんと葛葉クンの普通になるさ。」

ねっ☆と小首を傾けた南木を、紅葉は尊敬と感動の眼差しで見た。やはり、いつもの南木とは少し違っていて、大人であり肩の力の抜けた自然体であるような気がした。仕事を介さない南木の姿は、こんなにも豊かな人間性だったのかと知れば、普段の禅問答の地続きに感じられた。

 「そうですね。ありがとうございます。南木様は、素敵な人ですね。」

 「はは、お礼に褒めてくれるなんて、なかなか礼儀正しいね。じゃあもう一杯サービスしようかな。」

本心で言ったのだが華麗に躱されてしまった。けれど別に構わない。紅葉はもう少し南木とゆっくりと話したいと思った。南木と言う多面体の持つ面をもう少し知りたいと思った。

 「ありがとうございます。」


 ◆


 南木と紅葉が二人で話し始めたので、在仁はそっとしておこうと思い、蘇芳に話しかけた。

 「今年も蘇芳様のお誕生日を御祝いする事叶わず、無念でございます。」

悔しそうに在仁が言うと、蘇芳は眉を下げた。

 「何言ってんだ。俺の誕生日なんて凄く大変だった時だろう。気にするな。それにメールをくれたじゃないか。」

蘇芳の誕生日である五月二日は、在仁が東京で波乱の真っ只中だった。一応メールだけは送ったのだが、それも意識の定かでないものだったので、後で確認して青くなった。

 「あのダイイングメッセージのようなメールでございますか?あれは御祝いメールではなく怪文書でございますよ。申し訳ございませんでした。」

 「はは、状況は聞いていたからな。気持ちだけは伝わったから大丈夫だ。」

可笑しそうに笑った蘇芳は、グラスを一口傾けてから続けた。

 「実は今年の誕生日は実家に帰っていたんだ。だから、在仁のメールには癒されたよ。」

 「ご実家にでございますか?それは、思い切られましたね。」

 「はは、そうなんだ。思い切ったんだよ。」

実家が苦手だと言っている蘇芳は、実家に帰らないための口実作りに余念がない。毎年、誕生日・お盆・年末年始は帰って来いと言われるポイントだが、とことん仕事を詰め込んで避けて来た。それがどういう風の吹き回しなのか、誕生日に実家に帰っていたとは。在仁は首を傾げた。

 「何かございましたか?」

 「いや、俺もいつまで上杉姓を名乗っているか分からないだろう。これからの事もあるしな、逃げてばかりもいられないって事だ。」

来年にはエリカが高校を卒業する。そうしたらプロポーズすると言っている蘇芳は、そろそろ現実的に先の事を見据え始めたようだ。既にプロポーズ自体が蘇芳の自己満足のための通過儀礼と化している節があるので、いっそ全員の前でやって欲しいなと在仁は思った。

 「なるほど。…それで、何かが、あったのでございますね?」

浮かない表情を見れば、ただの里帰りとはいかなかった事は明白だった。在仁が見透かしたように問うと、蘇芳は肩をすくめて肯定を示した。

 「ああ。兄貴たちがな、俺の婿入りに難色を示してな。」

 「…それは意外でございますね。」

蘇芳の兄二人にとって、三兄弟で最も出世している末弟の蘇芳は目の上のたん瘤だったはずだ。それが他家へ婿入りするのだから、喜びこそすれ反対する事は意味が分からなかった。

 「そうなんだよ。何で今まで邪険にしてきて、今更三男の俺を引き留めようとするんだか、嫌がらせとしか思えないよな?」

 「何かご事情がおありなのでございましょうが、それはお分かりになられたのでございますか?」

 「いや。結局よく分からなかったんだよ。あの日は隊長も東京だったから、俺も一日しか休暇を取れなくて日帰りだったんで、話が途中になったまま帰ってきてしまった。また話しに行かないといけないと思うと、気が重い。」

蘇芳を溺愛する両親はともかく、兄二人との仲は決して良くないと聞いている。在仁は少し心配になった。

 「家族とは、難しいものでございますね。」

既に世を去った在仁の家族とて、存命であったならば円満だったという確約はない。血の繋がりも、共に暮らした時間も、必ずしも幸福な絆となる訳ではない。在仁は、自分と違って家族が生きているのだから大切にしなさいと、単純に言えるものとも思えなかった。

 「本当にな。」

これから自分がつくる家族はどんなものになるのだろうか。蘇芳は自身の思う様にいかない事を考えると、少しばかり不安にならざるを得なかった。


 ◆


 夜も更けて来た頃、そろそろ帰ろうかと席を立った。そこへ、扉の開閉を告げるベルの音がした。皆の視線が向くと、そこには背の高い黒い服の男がいて、男は何も言わず在仁たちには目もくれずに真っ直ぐにカウンターの前までやってくると、すっと小さな箱を置いて、また何も言わずに去って行った。

あまりの不愛想さかつバーで一杯も飲まずに帰る不思議な様子に、皆の疑問の眼差しが南木に刺さった。

 南木はその視線に答えるように、男が置いて行った箱を手に取って蓋を開いた。

 「あれは雑貨屋の方の客だよ。時計の修理を頼まれているんだ。」

箱の中に入っていた小さな置時計をカウンターに置いて見せた。

――――キンっ

その音を聴いて在仁がじっと時計を見つめた。

皆には音が聴こえなかったのか、誰も反応せずに会話を続けていた。

 「時計の修理などのお仕事もあるんですね。」

 「いやいや、ただの電池交換なんだ。でもこの電池が入っている場所の蓋に特殊な術がかかっててね、素人には開かないんだよ。それで頼まれたんだ。」

 「へぇ、そういう物もあるんだな。」

 「古い物だからね。言うなれば開かずの金庫を開ける、みたいな感じかな。」

楽しそうに話す三人の会話をぶった切るように、白蓮が訊いた。

 「(あるじ)、どうした?」

それを聞いた三人が在仁を見ると、在仁はじっと時計を見ていた。

 「いいえ、ただ、美しい音がしたような気が致しましたので…。」

何だか最近よく聴く音だが、何なのだろうかと疑問に思って在仁は時計を注意深く見た。だが時計は時計だ。精緻な飾り細工の古い置き時計で、今まで大切にされてきたのだとよく分かる手入れされた美しい姿をしていた。

白蓮と南木が在仁の様子を見ると、真剣に時計を見る在仁の目がまるで宇宙の真理に接するかような深淵を覗き込む色をしていた。その虚のような底知れない瞳に、白蓮と南木は過去を彷彿とさせた。そして何かを危惧するように同時に言った。

 「主。」

 「葛葉クン。」

二人に呼び止められるように呼ばれた在仁は、別段変わった様子もなく顔を上げた。

 「どうかなさいましたか?」

 「どうしたんだ、二人共。」

蘇芳も、在仁ではなく白蓮と南木の方を訝しんだ。その様子に気が付いて、二人は首を振った。

 「いや、何でもない。ボクの気のせいだよ。」

 「ああ、ちょっと妙な錯覚を起こしただけだ。」

二人しておかしな様子だが、何でもないと否定するので、在仁と蘇芳は首を傾げつつもそのままにした。紅葉は、在仁が興味を示した時計をじっと見つめて見たが、古くて珍しいだけで特に変わった物ではないように思えた。

 「じゃあ、帰るか。」

蘇芳が扉を開くと、夜空には初夏の星座が広がっていた。

南木に見送られて別れると、蘇芳はいつかの通り走って帰って行った。あの時は元気な人だなと感心したが、最近ひたすらに走っている在仁は何とも思わなかった。

 夜空を見上げて歩くと、斜め後ろには紅葉、足元には白蓮がいて、このメンバーにもすっかり慣れたと実感した。外出時は常時紅葉が護衛をしていて、白蓮はほぼ二十四時間体制で密着している。いつの間にか在仁は一人になる事がなくなったのだなと気が付いた。余計な事を考える時間が減ったせいか、以前より由無し事に捕われなくなったと思う。その代わりに、外に目が向くようになった。もっと誰かのために出来る事はないか、具体的にどうすればいいか、それを考える事が増えたために、自身の足りなさを痛感するようになったのだ。やりたい事が明確化すると、そのために必要なものも明確化され、足りぬものが明らかになる。今の自分に足りぬもの、それを在仁はひとつずつ手にせんと努力する日々だ。

 「紅葉さん、本日は遅くまでお付き合いいただき、ありがとうございました。明日はお師匠様がお休みでございますので、俺も休日でございます。俺は出かける予定がございませんので、紅葉さんもごゆっくりお休みください。」

気遣っていると思わせないサラっとした言い方で告げた在仁に、紅葉は優しさを感じた。

 「茉莉様の通学はどうするのです?」

 「明日は橘藤(きっとう)様がお迎えに来られます。お帰りもモデルのお仕事をなさって来られるそうでございます。お二人でお話になりたい事もございましょうから、たまにはそういう日がございましても宜しいかと存じます。」

紅葉は、本当であれば在仁は茉莉と一緒にいたかっただろうと分かった。もし紅葉がいなければきっとそうしただろう。それを思うと、紅葉の所為で返って行動制限をさせているように感じ、護衛として本末転倒にも思えた。

 「私の所為で窮屈では?」

正直に真っ直ぐ問うと、在仁は眉を下げた。

 「違いますよ。俺も休暇を取らなければ怒られてしまいますから。」

上手な嘘は少し本当の事を混ぜるのだと聞いたことがある。紅葉は在仁が上手く真実を混ぜて本心を隠したような気がした。

 「私は休暇などなくても平気です。むしろ、働いていたいのです。今は少しでも長く葛葉様とご一緒させて頂いて、より葛葉様の事を理解したいのです。私を気遣って、遠ざける事は、返って傷付きます。」

在仁を追い詰める言葉選びに、在仁は窮したように微笑んだ。

 「真面目な武士程ワーカホリックでございますね。なれど本当に明日は俺も寝坊させて頂きます予定でございますれば、紅葉さんもそうなさってください。もしお暇でしたら家までお越しください。のんびりとお話をさせていただく、そんな休日も良いかも知れませんね。」

本当に休日は休むと決めている様子の在仁に、紅葉は少し追及し過ぎたのかも知れないと思った。前のめりになり過ぎて引かれてしまったのではと不安になると、足元の白蓮が言った。

 「東京から帰ってから、主は宇治山に休日は休むという約束をさせられたのだ。家族も同意している故、休まないと通報される。紅葉も見張ってやってくれ。」

 「ああ…そういう。それでしたら了解です。」

紅葉の所為ではないと知って少し安堵した。在仁は溜息を吐きながら星を見ていた。

 「課されていくばかりでございますよ。」

三食きちんと食べて、睡眠をしっかりとって、一日一つは不平不満を言って、休日は休む。敢えて課される事ではないだろうと思うが、必ずしも守られていないのだから周囲が心配して怒るのも当然だと紅葉も白蓮も思った。

 「俺が紫微星なら、茉莉様は織女(しょくじょ)でございますか…。」

ベガを見上げて呟く在仁の横顔が、今何を考えているのかくらい紅葉はもう分かる。

恋する乙女のような煌めく瞳で、夢見る若者のような熱を込めて、茉莉を想う顔だ。どのような言葉もすべて清め人としての理想像に直結して敬う気持ちになってしまう紅葉でも、茉莉を愛する姿だけは等身大の在仁という人間のものだと分かる。

 「ところで、葛葉様って寝坊できます?」

 「…そこでございますよね。」

結局いつも通りに目が覚めるのでは?と問う紅葉の鋭さに、在仁は破顔した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ