134 躑躅の事
アスファルトを蹴って風を切ると、ぐんぐんと景色が変わっていく。ひたすらに、無心になって地面を蹴り続ければ、どこまでも行けるような気持ちになった。何ものにも捉われず、己を縛る過去も置き去りにして、ひたすらに走ればどこへ辿り着けるのだろうか。
「葛葉様、少し休憩いたしませんか?」
後ろを走る紅葉は全く息を切らす様子もなく、余裕の表情で声をかけて来た。在仁はそれを聞いて速度を緩めた。足元を走る白蓮も、特段疲労の様子はない。
ゆっくりと速度を落としていって止まると、在仁は汗を拭いながら空を見上げた。見事な五月晴れ。気持ちの良い爽やかな五月の空だった。
「主、どこまで行くつもりだ?」
別に構わないけれど、という言い方で問う白蓮が在仁の日陰に入った。
「どこまでも…。」
呟く在仁の横顔を見た紅葉が明るい笑顔を向けた。
「はい、参りましょう。どこまでも。お供いたします。」
その笑顔を横目で見ながら、随分と明るくなったものだと思った。きっと東京へ行った事で、東京の復興と和田家門の復活を確信出来たためだろうと思うと、これが紅葉本来の性格だろうと知った。やはり和田家のDNAだけの事はある。力強く前向きな明るさを屈託なく見せて来るので、在仁はもう心配ないなと安堵した。それから紅葉が差し出すペットボトルを素直に受け取って水分補給をすると、風が吹いた。
東京から帰ってから、藤原本家での療養期間を経て、ようやく復活した在仁は精神的に参っていた。
毒が完全に抜けた所為か、やけにクリアになった思考が在仁を血の気が引く程冷静にさせた。東京でのあれやこれや、思い出しても後悔しかない。なりたい自分像がどんどん遠のいていく。理想と現実の乖離が、在仁を苛む。年ばかり重ねて、精神が追い付いていないのは、やはり薊に捕われていた三年の歪だろうか。人生は所詮恥の積み重ねだと言い聞かせても、思い通りになど行かない事に苛立ちを覚える。だがそれ自体が愚かな事であり、未熟な証のように思えた。どこまでも思考が負のループに嵌っているのは、ストレスが溜まっているせいだ。何もかも忘れるように、頭が空っぽになるまで体を動かしたい。その欲求に駆られるように走り出した在仁に、紅葉も白蓮も文句ひとつ言わずに付き合ってくれる。
「申し訳ございません。俺にお付き合いさせてしまい。」
ひたすらに走ってきたので、かなり遠くまでやってきた。よく知らない土地に立つと、新鮮さと同時に心許無さを抱く。その一抹の不安のような感情に出会う時、己の弱さを知る。来た道を振り返りながら、在仁は呟いた。
「もう、帰りましょうか…。」
どこまでも行きたいと言った直後に言う事ではないが。迷うような在仁に、紅葉が笑い飛ばすように返した。
「何故です?どこまでも参りましょう。自由に、行きたい所へ行き、やりたい事をやるのです。そのために私がいるのですから、何も気にする事はありませんよ。疲れて帰れなくなったら、おぶって帰りますよ。」
「ふふ、何と頼もしい事でございましょう。さようでございますね、ならばもう少し先まで参りましょうか。」
励まされ背中を押されるようにして、在仁はまた地面を蹴った。
これまでの反省や、情けない自分自身への憤りや、失敗の悔しさ、思い出すと恥ずかしくなる事も、上手くいかないもどかしさも、何もかもを忘れ去りたいと思う気持ちに任せて、ただひたすらに走った。教科書やマニュアル通りの予定調和を望む自分自身の愚かさをぶっ壊して、何もないまっさらな自分だけの道を突き進む覚悟を持ちたいという気持ちをぶつけるように、我武者羅に走った。
どのくらいそうして走っただろうか、建物も人の姿も見えない自然の原風景を前にした時、ようやく気が済んだように立ち止まった。
その景色は日本中どこに行っても出会うような、誰の心にも郷愁を与える景色に見えた。在仁にとっても、幼い頃によく知った風景に似て見え、意味もなく胸が締め付けられるような気がした。子供は愚かだ。けれどそれは子供だからだ。在仁も同じように、子供であった故の当然として愚かだった。けれど、いつまでもそのままではいられない。在仁はもう大人なのだ。故に大人にしか分からない懊悩があるのだ。再び自身の愚かさを責めるように悔恨が湧き上がり、その場で叫んだ。
「わ――――――――――っ!!!」
猛烈に溜まっていたストレスを吐き出すように叫んでも、誰もいない景色に響いただけだった。
「すっきりしましたか?」
問われた在仁は踵を返した。
「少しは。」
来た道を歩き出すと、白蓮が気遣うように見上げた。
「体は?」
「平気でございますよ。俺には毒耐性があるようでございますし、もうすっかりと。」
宇治山に無理矢理眠らされて、気が付いた時は一日経過していた。体はその地点でかなりすっきりとしていたので、宇治山が何かしたのだろう。けれど、毒を飲んでも不調ではあったがそれなりに無理のきく状態だった事を思えば、宇治山の言う通り毒に対する耐性があるのだろうと分かった。そんな特技を持った覚えは全くないが。進行方向を見て歩行速度を速める在仁に、白蓮は顔を顰めた。
「主の毒耐性は、薊の実験の所為だろう。」
「…なるほど。さようでございましたか。思わぬ副産物でございましたね。」
薊は毒を扱う。人を暗殺するための遅効性の致死毒も、辰砂を使った転化薬も、薊の使う服毒物はすべてあの実験室で生まれたものだ。実験体だった在仁が毒に強くなるのは道理だった。そこに思い至っていなかった在仁は、盲点だったと言うように頷いた。
「それがこうして主の身を守った事を、俺はとても喜べん。これからは、俺が主に毒など飲ません。」
罪を自覚し罰を負う白蓮の決意を見下ろした在仁は、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
それからまた走り出した。今度は、帰るべき場所に向かって、まっすぐに。
◆
胡粉フロアは今日も静かだ。だが無人ではない。智衡がいつも通りの不遜な態度で歩いていくと、隊員達は皆無言でモニターに向かっていた。いつも通りのアンドロイドのような仕事ぶり。見渡してから声をかけるでもなく智衡は迷いのない足取りで小隊長席にふんぞり返っている逢初の前に立った。
「おや、紫微星様は?」
問うと逢初は智衡を見ずに答えた。
「走りに行った。」
「またか。どんだけ走れば気が済むんだ、在仁は。」
呆れた様子の智衡が言う「紫微星」とは在仁の異名だ。北極星の別名である紫微星。
東京の一件を経て、司法局から事の顛末が公表された。内容はほぼそのまま間違いないもので、清め人殺人未遂というあまりにセンセーショナルな事件は瞬く間に地龍中に広まった。事件は工藤家の謀反として決着がついたが、人々の関心は被害者である在仁がどのようにして工藤を裁いたかという事だった。元より、聖人として崇められている在仁への関心は高く、興味と話題が沸騰しまくった。それを受けて和田家が詳細を公表した事で世の中は更に湧いた。いかにして在仁が工藤裁定の場を治め、七曜隊を導き、危険な養殖場討伐に参加したか。ノンフィクションで脚色無し、見事ありのままを詳細に公表したものだったが、そこにあった「清め人・葛葉在仁は和田七曜隊の紫微星」という表現が広まり、今や人々は在仁を紫微星と呼ぶようになっていた。在仁の評価はぐんぐんと上がっていき、ついに天に輝く光となったか、と思うと智衡のプロデュースは辿り着く所まで辿り着いたなと思う。実際のところ智衡がしている事など、それらしい衣服を強要しているだけで、すべて在仁の人柄そのものが成せる業なのだが。
それでも人々の期待が高まれば、在仁自身はプレッシャーを覚える。
「ストレスが溜まってるんだろ。紫微星様は。」
逢初が憐れむように言うと、智衡は持っていた手紙を見た。
「折角喜ぶと思って和田家からの手紙を持って来てやったのにな。」
手紙の宛名には、達筆で「紫微星様」とあった。揺ぎ無い輝きを持つ在仁に、これ程相応しい名があろうかと、智衡は思う。
「昼には戻る。」
「じゃあ昼飯食ってくかぁ。」
「暇人か。」
忙しい中時間を作ってやって来ているというのに「暇人」とは失敬なと、智衡が不機嫌な顔をした。逢初はいつの間にかこの難しい男を手懐けている在仁を、流石だなと思った。
「しっかし、いくら走った所で人間の煩悩は払拭できないだろう。そんなお手軽に雑念が消えたら日本中ランナーだらけだ。」
「毒から覚めたら色々冷静になったんだと。思い返しても仕方ないからやめろって言ったんだがな。どうしても滅却したいものでもあるんじゃないのか?」
逢初はどうでも良さそうに言った。
「どうしても滅却したいもの…なんだろうか。」
和田家で過ごした詳細は聞いているが、在仁を懊悩させるようなものが思い当たらなかった。智衡は後で訊いてみようかと思った。
◆
紫紺フロアにある鍛錬場で、茉莉が思い切り刀を振り下ろした。それを難なく受け止めた蘇芳が茉莉の覇気を感じた。
東京から帰った在仁が本家での療養を強制された事で、茉莉は思わぬ別居生活となりとても不満だった。もちろん毎日通ったが、そもそもあれが媚薬でなく毒だったと後で知った事自体が不満だ。知っていれば無理させる事はなかった。あんなに体調が悪そうだったのを容認していたのは、ただの二日酔いだと思い込んでいたからだ。在仁自身もそうだったというのだからどうしようもないが、それでも悔しさが残った。
「毒への耐性って何よ!」
無理矢理在仁を眠らせた宇治山からだいたいの説明は受けたが、茉莉は憤った。
「それって石川薊の所為でしょ!!そんなの全然良くない!」
そんなものが在仁を守ったなどと、茉莉は認めない。
「腹立つ!!」
再び茉莉が思い切り刀を振り抜いた。蘇芳はそれを受けずに避けてから、茉莉の死角を探した。
「くそっ、あの女もそうよ。在仁を化け物呼ばわりして、やっぱり思い出してもムカつく。殺しておけば良かった!」
工藤の娘は在仁が後悔させると言ったので任せた。実際在仁は和田家門勢ぞろいの場で、化け物ではないと証明し娘を追い詰めた。しかし、茉莉はそんな正攻法ではなく、もっと酷く痛い目を見せてやりたかった。手足を斬り落として泣き叫ぶ様を見たかったと思うと、自分自身にも智衡の嗜虐心に似た部分があるのだろうかと自覚した。けれど在仁は暴力では本当の意味では罰を与える事は出来ないとした。在仁の冷え冷えとした目が工藤の娘を見下ろしていた事を思い出すと、茉莉は少し怒りが収まった。誰にでも慈悲を持って接する在仁の、あの冷淡な目は茉莉のためだと分かっている。化け物と呼ばれて傷付いたのは在仁ではなく茉莉だった。茉莉を傷つけた者を、在仁は赦さなかったのだ。司法局に身柄を渡した方が苦しむ事になると在仁が言ったのだから、工藤親子はきっと今頃辛い思いをしているだろう。茉莉はあの冷たい視線を思い出して、多少溜飲が下がった。
そこへ、蘇芳の鋭い一撃が茉莉の目の前に迫った。茉莉はすかさず反応したが、わずか間に合わず勝敗は決した。
刀を下ろして汗を拭うと、蘇芳が茉莉を見た。
療養明けの在仁が気が狂ったように毎日走り続けている事と同じように、茉莉にも溜め込んだストレスがあるとすれば、蘇芳はとことん付き合おうと思った。
「俺も見たかったですよ、我らが紫微星様の怒る所を。」
和田が公表した詳細から、在仁が工藤に対して怒号を発した事を知った蘇芳は残念そうに肩をすくめた。
「すんごい格好良かったよ。私もお父さんもびっくりし過ぎて固まったけどね。」
「そりゃあ、その場にいれば俺も固まりますよ。そもそも声を荒げる事が稀ですからね。」
蘇芳は在仁の中にそのような感情が眠っていたのかと知れば、やはり自分も見たかったと思った。普段大人しいだけに、それだけ腹に据えかねたのだろうと思うと、在仁にとって和田家という存在の大きさを感じた。
「在仁は、俺のためにも怒ってくれるでしょうか。」
少し羨ましくなって呟いた。きっと、怒ってくれるだろう。蘇芳は自身が在仁にとって特別な存在であるはずだと思った。
そう思っている事がバレたかのように茉莉の鋭い視線が向いている事に気が付いてドキリとした。
「何です?」
「ねぇ、在仁ってば最近変なんだけど、何でか知らないよね?」
蘇芳に訊く事がとても不本意そうだ。
「え、そうですか?いつも通りですよ。あ、走り過ぎだからですか?」
「違う。私と目を合わせない。」
ひたすら走る気持ちは何となく分かる蘇芳だが、それは茉莉も同じようだった。
茉莉は、療養を明けて帰宅した在仁が、一見普段通りに見えるが茉莉を直視しない事に気が付いた。あの吸い込まれるような闇色の瞳と視線が合わない事は、とても寂しい。
「気のせいでは?」
「気のせいじゃない。何か疚しい事があるのよ。そんな感じがする。まさか…浮気?」
言いながら蘇芳を見るのは何なのか。まさか浮気相手として疑われているのか?蘇芳はびくっとして一歩下がった。
「まさか。あり得ませんよ。気になるなら本人に訊けばいいじゃないですか。」
「疚しい事を訊かれて答える人はいないでしょう。」
「はぁ…まぁ。」
本気になった在仁が誤魔化そうとすれば言葉巧みに煙に巻くだろう事を想定すると、正面から聞く事が正解でない場合もあるのか、と思った。
「ちなみに、蘇芳がエリカの目を見られない時はどういう時?」
参考までに問うと、蘇芳は少し考えてはっきりと言った。
「ありませんね!」
「そうよね!」
役に立たない事この上ないが、茉莉もそうなので在仁の様子はやはりおかしいと確信した。
「ちょっと、やんわりと探ってみてよ。」
「俺がですか?!」
びっくりして蘇芳の声が裏返った。
「蘇芳になら言うかも知れないじゃない。不本意だけど。ものすごく不本意だけど!」
「…それ人にものを頼む態度じゃないですよ。」
全くお姫様は、と蘇芳は嘆息した。
◆
紫紺のシャワールームで汗を流した蘇芳が更衣室で着替えをしていると、背後から声がした。
「蘇芳様。」
「!!!!!」
蘇芳は驚き過ぎて声も出なかった。袖を通そうとしていたインナーをロッカーに押し込んで受け身を取ろうとしてから、それが在仁だと気が付いて胸をなでおろした。
「在仁…やめてくれ。本当に心臓が止まるかと思ったぞ。」
気配を消すのに長けた在仁が全力で気配を消せば、晋衡ですら気が付かない。蘇芳はこのクオリティに脱帽だが、今は呼吸を整えるのを優先した。
「申し訳ございません。蘇芳様に、内密のお話がございまして、こうして待ち伏せさせていただきました。」
小さな声で言う在仁を訝しみながら、蘇芳は在仁の方を向き直った。在仁は例の走り込みを終えて着替えたのか、いつもの着流し姿だった。体作りだと言っているが、筋トレとかでなく走り込みでは細い体が改善しないのではないかなと思ったが、今は黙っておいた。
「…そうか。何だ?」
素直に内密の話とやらを聞こうとする蘇芳だが、在仁の視線がその裸の肉体に向いている事に気が付いた。羨ましそうな視線に、蘇芳は少し笑ってから、着かけたインナーに袖を通した。
「もし宜しければ今度、南木様のバーに連れて行ってくださいませんか?」
「南木の?いいけど、在仁は酒を飲まないじゃないか。何か用事なら呼び出してやるけど?」
南木のバーは完全に趣味の店なので不定期営業なのだ。その予定を知るのは僅かな者のみ。南木と親しい蘇芳ならば知っているはずだ。だが、営業日を教えてくれではなく連れて行ってくれという要求なのも、少し引っかかった。
「東京の件を含めましても、常日頃から紅葉さんにたいへんお世話になっております。そのお礼を何かさせて頂きたく、考えたのでございますが、紅葉さんを南木様のバーにお連れしたいのでございます。俺が伺えば、紅葉さんは必然的に同行せざるを得ませんので。」
「ううん?いいけど、紅葉さんはそんなに酒好きなのか?だとしても在仁の護衛の最中に飲むとは思えないんだが。」
話を整理しようとする蘇芳に、在仁は更衣室の外で待っているかも知れない紅葉に聞こえないように小さな声を更に潜めて言った。
「おそらく、紅葉さんは南木様に御好意を抱いておられるかと思われます。」
「はぁ!?」
大きなリアクションを止めるように在仁が蘇芳の口を手で押さえた。蘇芳は目を丸くして黙った。
「もちろん、それがどのような感情となるものかは存じません。しかし、紅葉さんは俺に付きっ切りで休日もございませんでしょう?折角の感情の種も芽吹くきっかけすら生まれません。俺と致しましては、どうにかその機会を作りたいのでございます。おせっかいとお思いでございましょうが、これは俺の勝手な行動でございますので、結果的にお礼となるかどうかは未だ不明でございます。」
「おいおい、それは流石におせっかいが行き過ぎだろうよ。人の恋路に干渉するのはどうなんだ?」
「おや、蘇芳様と橘藤様をお引き合わせさせていただきましたのは、茉莉様と俺でございますよ。」
「…どうもありがとう。」
「どういたしまして。」
にっこりと笑う在仁に、蘇芳は反論できなくなった。
「分かった。けど、どうしてバーなんだ?南木に会う方法はいくらでもあるだろ?」
「蘇芳様、紅葉さんが南木様にお会いする機会は基本的に重でございます。重にいらっしゃる南木様はお仕事モードでございますよ。そして雑貨屋さんでの南木様は、あの不可思議で雑然とした無法地帯に見合った仮面を被っていらっしゃいます。俺が思いますところ、本来の南木様のパーソナルなお顔を拝見出来ますのは、あのバーではないかと。気取った空間で、気取らぬ南木様。実に不思議でございますが、あれが飾らぬ本当のお姿かと思われますので、そのお姿を紅葉さんにお見せしたいのでございます。蘇芳様にご同行をお願い申し上げました由は、俺と蘇芳様がご一緒させていただけば、必然的に紅葉さんは南木様とお話になられる機会が増えるはず、と思う故でございます。いかがでございましょうか?」
探偵の推理のように言うので、蘇芳はどこまで考えているのだろうかと感心した。
「本当に人のためが好きだな。」
「自己満足でございますよ。」
「なら、俺もその自己満足に乗ろうじゃないか。」
「よろしいのでございますか?」
おせっかいが過ぎると言ったので、協力は望めないかと思った在仁が破顔した。蘇芳はその素直な反応に嬉しくなった。
「在仁の頼みだからな。」
「ありがとうございます。」
気が付くと、足元に白蓮が纏わりついていた。蘇芳は猫は入店可能だったろうかと気になった。営業日と共に一応確認しておこうと思った。
話が終わったので、着替えの続きをしようとした蘇芳が、はたと気が付いた。茉莉の事だ。
在仁が白蓮を伴って更衣室の出口に向かっていたので、蘇芳が慌てて呼び止めた。
「在仁!」
呼び止められた在仁が見ると、蘇芳が手招きしているので首を傾げながら戻った。
「どうかされましたか?」
「茉莉様が、最近在仁の様子がおかしいと気にしていた。何かあったのか?」
何も心当たりの無さそうな無垢な表情を見てから蘇芳は、在仁の肩に肩が触れる程近付いて小さな声で訊いた。ここまでひそひそせずとも更衣室には誰もいないし、外で待つ紅葉に聞こえる事は無いが、何となく内緒話のようになってしまった。コイバナとは大抵そういうものかも知れない。
やんわり探れと言われた蘇芳に、やんわりという技術はないので素直に訊いてみた。どうせ茉莉の思い過ごしだという軽い気持ちで。
だが、在仁は突然挙動がおかしくなり、目が泳いだ。
「在仁?」
「…え?えっと…さようでございますか?別に、何もございませんよ?」
本気の演技力も話術も優れているはずの在仁がしどろもどろになって上手く誤魔化す事もできないでいる様子に、蘇芳は違和感を覚えた。
「明らかに動揺しているだろ。何なんだ?まさか、本当に浮気…?」
「浮気?!!!」
今度は在仁の声が裏返った。蘇芳は口の前に人差し指を立てて声を抑えるように示した。在仁は自身の口を手で押さえて頷いた。
「茉莉様が、疚しい事があるに違いないと疑っていた。」
「…疚しい…さようでございますね。疚しいのでございます。それ故に直視する事ができないのでございます。」
懺悔する在仁の項垂れる白い首を見ながら、蘇芳は一体何があると言うのだろうかと不安になった。
「直視できない程に疚しい事…何なんだそれは。」
「ちなみに、蘇芳様が橘藤様に疚しいお気持ちを抱かれる時は、どのような時でございますか?」
何故訊き返されたのだろうかと思いながら少し考えてみた。
「うーん、無いな!」
「…羨ましい…。俺がこうして毎日走り続けていても振り切れぬ疚しさを、蘇芳様はお持ちでないとは。まこと羨ましい限りでございます。」
「待て待て、毎日走りまくっているのは、茉莉様への疚しさを払拭するためなのか?」
「概ねは。」
憂いを帯びた目を伏せた在仁から妙な色気が漂っていた。それを感じた蘇芳は何やら触れてはいけない話のような気がした。
「だが、茉莉様は妙な方向に勘ぐっている。まずい事になる前に、疚しさも白状してしまう事だ。どうせ隠し事など出来ないだろう。」
「正論でございますね。善処いたします。」
曖昧に濁した在仁の珍しい返答に、蘇芳が眉を顰めた。その疑問の視線に答えるように、在仁が言った。
「蘇芳様、俺が飲んだ毒は、媚薬…でございました。」
それだけを憂うように言って、在仁は去って行った。
残された蘇芳は、しばらくその言葉の意味を考えていたが、唐突にはっとした。
「疚しいって…そういうあれなのか?」
◆
夜になり、茉莉の部屋でいつものように「おやすみ」を言おうとすると、茉莉の両手が在仁の両頬を包んだ。
「在仁、こっち見て。」
強引に顔と顔を至近距離にされた在仁は僅かな抵抗で視線を泳がせた。
「何で、見ないの?」
責める言葉に、寂しさが滲んでいた。在仁は仕方なく目を閉じた。
「見たいけど、見られない。」
「どうして?何か疚しい事があるの?」
「ある。すごく疚しい事があるから、見られないの。」
「なに?」
問うが、視線も合わせないのに答えが返って来るはずがない。茉莉は憤ってそのまま唇を重ねた。在仁は驚いて目を見開くと結構本気で抵抗したが、茉莉も本気で押さえた。結局茉莉の方が力が強いので、本気で押さえられれば在仁の抵抗など無駄な足掻きだ。しばらくして、ようやく唇を離した茉莉に、在仁は涙目で訴えた。
「酷いよ。」
「やっとこっち見た。」
無理強いをしておいて可愛らしく笑う茉莉に、在仁は見惚れてから脱力した。
「ずるいよ。可愛いのは、ずるい。」
「ね、何を隠してるの?教えないと、また襲うよ。」
また襲われてはたまらないと、在仁が観念した。その顔はみるみる内に赤く染まって行った。
「毒が抜けたら冷静になって、どうしても思い出しちゃうんだよ!媚薬を飲んで、茉莉に何をしたのか!それが疚しいの!」
「…へ?」
間抜けな返事を返した茉莉に、在仁は赤い顔で涙目で訴えた。
「一生懸命、煩悩退散させようと走り込んでるのに、何て事するのっ。これじゃあ益々忘れられないよっ。」
その様子が何故かとんでも無く可愛らしく思えて来た茉莉は急激に笑いが込み上げてきた。
「あははっ、嘘でしょ?今更なの?」
「今更だよっ。酩酊してたら判断力が麻痺してたの。後からじわじわと実はとんでもない事をしてたって気付いたら、どうしようもない位疚しくなってきて…ああ!俺は何て事を!ごめん、茉莉っ。あれは俺だけど俺じゃないっ。俺はあれを俺だと認めたくないっ。でも疚しい気持ちのはずなのに月長石の生産量が上がってる…恥ずかし過ぎる。」
懊悩を口にし始めた在仁に、茉莉は色々と馬鹿馬鹿しくなってきた。
茉莉としてはあの時最後まで致しても良かったのだから、在仁の苦しみは理解不能だ。
「そんなに忘れられないなら、触る?」
茉莉が誘うように在仁の手を自らの胸に押し当てると、在仁の顔が沸騰するように更に赤くなって飛び退いた。
「茉莉の破廉恥!もう知らない!」
泣きそうな声で逃げるように出て行った在仁を見送って、茉莉は呆れた。
「何でよ。」
下僕時代は脱衣所にだって出入りしていたのだから、現在よりも色々際どかったように思う。だが当時は他意が無かったという事だろうか。ならば今は意識していると言う事だとすれば、悪くない気分だ。けれど、純情過ぎる。
「やっぱり、私が食べちゃうしかないのかなぁ。」
晋衡は茉莉を「お前は女豹だ」と言った。なかなか言い得ているなと自覚してからほくそ笑んだ。
その小悪魔的な笑みの美しさを在仁が見ていなかったのは、幸いだった。見ていれば、一日中走り込んでも煩悩を打ち消す事は出来なかっただろうから。




