129 常盤薺の事
夜這いにやってきた女性は、既に在仁を手に入れたと言わんばかりの自信たっぷりの態度だ。
在仁が風呂へ行っている間にハーブティーに媚薬を仕込み、どこかで見張っていたのだろう。在仁が部屋に入ってしばらく様子を見て、頃合いを見計らって訪ねて来たとすれば辻褄は合うように思えた。どんな方法でも既成事実さえあれば、繋がりは生まれ、上手くすれば清め人を手に入れられると考えたのだろう。例え清き水でしか生きられぬとしても、男は男であろうという下種で強行な手段に、在仁は酷く落胆したような気持ちになった。
在仁が紅潮した顔で冷ややかな視線を下ろした。そして大きく口を開くと、その牙が女性の手首に突き刺さった。
「ひ…!!!!」
得意げな笑みから一転、恐怖で引き攣った女性が叫ぼうとするのを、在仁が口を押えて黙らせながら手首から血を舐めた。その様子を怯えながら見ていた女性に、在仁は言った。
「工藤様の御息女でいらっしゃいますか。毒は…興奮剤、精力剤…やはり媚薬、成程。解毒薬は…持っていらっしゃらないのですね。なかなか強い薬でございますね、一口で何時間効力があるのでございましょうか。ご存知ございませんか?残念でございます。けれどそうでございますね、よもや朝までは持ちませんでしょう。」
血液から情報を読み取った在仁を見て、女性は恐怖の目を向けた。在仁は噛み付いた箇所を舐めて傷を塞ぐと、不味そうに顔をしかめた。
「このような方法で俺の寵愛を受けたという既成事実を作る事が出来るとお思いでございますか?」
女性の口から手を離して牙を舐めながら問うと、女性は恐怖の余りにその場にへたり込んだ。
「ば…化け物…。」
見上げる女性の震える声に、在仁はどんどん回ってきた媚薬の効果を自覚した。
「失礼な。神でございますよ。貴女様は神を罠に嵌めようとなさったのでございます。その報いをお受けになられる御覚悟は、当然お持ちでございましょう?」
牙を見た女性は、在仁に殺されると思ったのか震え上がったと思うと、恐怖の余りそのまま気絶してしまった。それを見てから、在仁は肩の力を抜くとフラフラと壁まで歩いて体を支えた。隠れていた白蓮が出て来ると、女性を見下ろして気絶している事を確認した。
「主、大丈夫か?」
「毒…は、死にはしないようでございますが…大丈夫かどうかは…。」
熱そうに浴衣の合わせを広げると、荒い呼吸を整えるようにしながら答える在仁に、白蓮は困ったようにうろうろしてから言った。
「と、とにかくこのままではいかん。俺は晋衡に報告してくる。主は…主は耐えろ!!」
言って白蓮が走って行った。
在仁はその足音が遠ざかるのを聞きながら、段々頭がぼんやりとしてくるのに抵抗しようとした。判断力が低下しては何をしでかすか分からない。体は熱っぽく、芯にふつふつとする欲求を抑え込んでいる理性が働かなくなれば、床に転がっている女性の思惑通りになってしまう事が無いとは言い切れなかった。在仁が何とか意識を保ちながら女性を見下ろすと言った。
「このひとは、まずい。」
口の中に残る不味い血の味。眉間に皺を寄せてから、ゆっくりと部屋を出た。壁を辿り、本能が求める極上の血の元へ向かった。
◆
茉莉が眠ろうと布団に手をかけた時だった。
とんとん、とやけに静かなノックがした。このような時間に何事だろうかと思い、扉の前まで行くと、優しい声音がした。
「まつり、おれ。」
それを聞いた茉莉はすぐに扉を開いた。
「在仁?どうしたの?さっきおやすみしたよね?何か忘れもの…。」
茉莉の言葉が終わるのを待たずに、在仁は部屋に入って扉を閉めると、扉に背を預けて両手を後ろに組んで茉莉を見下ろした。その顔はやけに赤く、息も荒かった。
「在仁?」
どうしたのかと茉莉が在仁の頬に手をのばした。在仁は背で両手を組んだまま、茉莉の手を受け入れた。
「まつり、たすけて。」
在仁の視線が茉莉の浴衣の合わせをじっと見ていた。茉莉は、寝間着に借りた浴衣が上手く着られていなかっただろうかと思いながら訊いた。
「何?」
在仁の声がやけに胡乱だ。茉莉はこの感じには覚えがあり、僅かに眉を寄せた。
「おれを、しばって…や、きぜつさせて。」
見下ろす目が熱く、茉莉はその目から視線を逸らせなかった。
「どうして?」
両手で在仁の頬を包むと、茉莉は顔を近付けた。在仁の目が挙動不審に震えて潤んでいるのが分かった。自身の中の何かと戦っているようだ。
「いっぷく、もられた。」
「はぁ?!」
「びやく。のんだ。」
一度強く目を閉じた在仁の瞼から、一滴こぼれた。
「あつい。まつり、はやく、どうにかして。」
背で組んだ手が震えていた。茉莉はその閉じた瞼に唇を寄せた。瞼に茉莉の唇が触れた瞬間、在仁の肩が跳ねたのが分かった。
「誰がそんな事したの?」
「くどうさまのごそくじょ。おれのへやで、きぜつしてる。それより、はやく、おれをきぜつさせて。」
背中からゆっくりと両手を出すと、茉莉の肩を掴んだ。気絶させて欲しいと口では言うが、在仁はそのまま茉莉を押して歩いて、布団の上に押し倒した。
「在仁は大丈夫なの?危ない薬じゃない?」
見上げる茉莉は、見下ろす在仁のはだけた浴衣の中の体に目をやりながら訊いた。痩せていると言われているが、よく見ればやはり筋肉はついてきている。
「だいじょうぶ、しなない。はやくしないと、あぶないのは、まつりでしょう?」
言うと在仁は茉莉の唇を奪った。息をするのも忘れる程に夢中で貪るように奪うと、ようやく顔を上げた在仁は既に目が据わっていた。
「まつり、たべられちゃうよ。おれに。」
経験した事のない激しい口づけに、茉莉は呼吸を整えながら在仁を見つめた。
「…いいよ、食べても。」
茉莉が熱の籠った視線を返すと、在仁は泣きそうに顔を歪めた。それから在仁はもう一度茉莉にキスをした。茉莉は今までここまで在仁の欲求を感じた事はなく、必死でその熱に応えようとした。激しく唇を合わせたままで、在仁の手が茉莉の体を辿り始め、茉莉は在仁の首に手を回した。
「まつり、だめだよ。」
「どうして?」
行動と裏腹な事を口にする在仁に、茉莉は恋人で婚約者なのに何故いけないのかと問うた。
「こんなの、やだ。」
「なにが?」
否定をしながら手を止めない在仁に、茉莉は口付けを返して問う。
「だいじにしたいから、これは、ちがう。」
「…でも私、在仁を気絶させられない。私も在仁を大事にしたいもん。」
大切な恋人に暴力をふるう事は出来ないと言うと、在仁の瞳がほんの僅かに揺れた。
「わかった、じゃあ、ゆるして。」
覚悟を決めたように言うと、在仁が茉莉の内腿に手を伸ばし、脚を広げさせると、その白く柔らかな肌を舐めた。
あられもない格好に羞恥しながら茉莉が在仁を見つめていると、在仁が動きを止めた。
「ごめんね、まつり。」
それだけ絞り出すように言うと、茉莉の内股に噛み付いた。
「痛っっ!」
茉莉はびっくりして在仁を見ると、在仁が茉莉の血液を飲んでいるのが分かった。
「ちょっと、在仁、そんなに飲んだら大変な事に…。」
「…ん。」
今までも茉莉の血液を要求する事はあったが、ここまで豪快に摂取する事はなかった。わずかな量で酔っぱらうのを良く知っているので、これだけがっつりいったらどうなってしまうのだろうと心配して、在仁の頭を股から離そうと押した。
「駄目だって、在仁!」
無理矢理に押すと、ようやく離れた在仁は自身の頭部の重さを支えきれないかのようにフラフラとしてから茉莉に向かって倒れ込んだ。それを支えた茉莉は、在仁の体を抱きしめた。
「おーい、在仁、一体何なの?」
「じぶんで、きぜつ、する。」
端的に言って意識を手放した。茉莉はそれを聞いてから、落胆したように呟いた。
「嘘でしょ?」
◆
どたばたと廊下を走る音がして、やけに部屋の外がうるさくなったと思うと、ノックもせずに扉が開いた。
「茉莉!在仁がいなくなった…て、あれ?」
晋衡が血相を変えて言った後、茉莉の布団で眠っている在仁に気が付いた。茉莉は在仁の傍らで、何故かやけに荒んだ様子で座っていた。
「ここにいたのか…て、在仁大丈夫なのか?茉莉は?」
白蓮の報告を聞いて在仁の部屋に駆け付けた晋衡は、部屋に在仁がいないのに気付いて血の気が引いた。しかし、茉莉の部屋で在仁の無事が分かって安心した。状況を確認しようと部屋に入ると、在仁は赤い顔で眠っていた。茉莉は不満気に晋衡に言った。
「食われなかった据え膳の気持ち分かる?」
凄く不機嫌な声だったので、晋衡は嫌な顔をして見た。
「分かるか。」
眠る在仁の額に触れてから、晋衡は携帯端末を操作し始めた。それと並行して茉莉に話かけた。
「で、何があった?無事なんだよな?」
「私の貞操の事なら残念ながら無事だけど何か?」
捨て鉢な様子で言うので、晋衡が軽く茉莉の頭を叩いた。
「どうして、在仁がここで寝てんだよ!って聞いてんの!」
叩かれた頭を撫でながら茉莉は事情を説明した。
「在仁が媚薬飲まされたから気絶させてくれって迫ってきたの。やだって言ったら血飲まれた。」
「…どんぐらい?」
「結構いっぱい。」
在仁が媚薬で茉莉を襲う事を止めるために、自分で茉莉の血液を大量摂取して気絶したのだと分かった。苦肉の策だ。
晋衡も在仁の術力酩酊についてはよく知っている。以前智衡の血液で酩酊した時はトータルで一週間くらいは尾を引いていた。茉莉の血液は美味と言いつつ指先の切り傷程度で酔っぱらう事を思えば、これが朝までに回復する事は見込めなかった。翌日の日程どころか、もしかすると数日は使い物にならないだろうと分かった。
「マジか。」
「どうすんの?在仁は、媚薬を飲ませたのは工藤様の御息女って言ってたけど。」
「…ああ、在仁の部屋で気絶してた女はそれか。とりあえず、この最悪なハニトラについての解決が最優先だな。知さんに連絡して動いて貰ってるけど、まだ内々で調査するから、詳しい事が分かるまでここにいてくれ。紅葉と白蓮を呼んでくるから、絶対に手出すなよ。」
「私は狼か。」
「女豹だ、お前は。」
呆れたように吐き捨てて晋衡が出て行った。
茉莉は眠る在仁の頬をつついた。
「そっか、私が食べちゃえば良かったんだ。」
◆
「まつりさま、あたまなでなでしてください。」
ぽやんとした顔で頭を差し出す在仁を見て、紅葉と白蓮はぽかんとした。
「駄目だね、こりゃ。」
朝になって目を覚ました在仁は、媚薬の効果は切れたようだが重度の酩酊状態だった。茉莉はやっぱりなと思いながら在仁の頭を撫でた。
「もっと。」
「はいはい。」
言われるままに頭を撫でながら茉莉は、この先どうなるのだろうかと思った。その様子に気が付いたのか紅葉が言った。
「一応、食事は部屋に運ばせます。媚薬の成分調査と、犯人の確保などはまだ先になると思います。はっきりするまでは、ここから出ないようにとの事です。」
「どっちみち今日のスケジュールは延期だったって事か。」
一生懸命にスケジュールをこなして来た在仁が自分の所為でスケジュールに支障をきたす事に責任を感じるだろうと茉莉は思った。だが、責任はすべてこの馬鹿な事をした犯人に負ってもらえばいいのだ。
「ごはんいりません。」
しゅんとする在仁に、茉莉は頭を撫でながら言った。
「気持ち悪い?吐く?」
「あたまいたいです。きもちもわるいです。でもまつりさまの血はおいしいので、吐きません。」
胡乱に言う在仁がひたすら茉莉に甘えるのを見て、紅葉は我慢しきれなくなった。
「あの、この状態の説明を求めてもよろしいでしょうか?」
「俺も、頼む。」
白蓮まで言うので、茉莉は仕方が無さそうに言った。
「在仁は血液から術力供給する事が出来るの。でも、血中術力含有量が多いと酩酊しちゃう。つまり、ただの酔っ払いです。」
「…酔っ払い…。」
「主…。」
二人はショックを受けたように呟いてから黙った。その様子が少し可哀想になった茉莉は、一応フォローするように言った。
「酔っ払ってる時の在仁は素直で何でも言ってくれるから、訊きたい事あったら何でも訊いたらいいよ。今がチャンスだよ。」
「そうなんですか…?」
紅葉がそわっとした。それを見た茉莉は試しに訊いてみた。
「在仁、紅葉さんの事どう思う?」
「ちょっと、茉莉様っ。」
その問いを取り消させようと紅葉が声を荒げたが、在仁はお構いなしに口を開いた。
「もみじさまは、まっすぐで、正義感がつよくて、故郷をたいせつにする、とても清廉潔白なおかたでございます。おれのことを、とても大切に、してくださいます。繊細なきくばりをなさる、お優しいいちめんと、男まさりな逞しいいちめんを、かねそなえた御方でございます。ご自分をりっして、感情をおもてにだすことが、あまりございませんが、目がくちよりも雄弁でございます。目をみればだいたい、お考えがわかります。とても素直なおかたでございます。」
つらつらと言い続けるので、紅葉は恥ずかしくなって止めようとした。
「葛葉様、もう結構です。やめてください。」
「もみじさまは…そういえば、気になっておりました。もみじさまは、南木さまのことがお好きでございますか?」
「えっ!?」
「え、そうなの??」
「そうだったのか?」
急に南木に懸想しているのかと問われた紅葉が真っ赤になって黙った。
「南木さまをごらんになる、もみじさまの目は…お可愛らしい…。」
「葛葉様!!!私の事は結構です。白蓮、そう、白蓮の事はどう思っているのですか?」
紅葉が大きな声で遮って、無理矢理白蓮を掴むと在仁に差し出した。在仁はじっと白蓮の顔を見てから、抱き上げた。
「びゃくれんは…。」
そのまま白蓮の体に顔を埋めた。
「いいにおいでございます。」
普段は人前でやらないので、茉莉も紅葉も在仁の猫吸いにびっくりした。白蓮はじっと耐えるように動きを止めていた。
「在仁、何してるの?」
「ねこを、すっております。聖人は猫をすいません。しかし、おれは、聖人ではございませんので、すって良いのでございます。」
何を言っているのか意味が分からない茉莉は、何となく嫌だったので在仁から白蓮を取り上げると雑に遠ざけた。紅葉は話を逸らそうとした所為で訳の分からない事になってしまったと困惑した。
「びゃくれんは…。」
「まだ言ってる。」
紅葉の問いにまだ答えようとしているらしい在仁に、茉莉はもういいよと言って飽きた様子だった。
「だんまつまを、忘れてはいけません。」
ぼんやりと呟いた言葉を聞いた白蓮がびっくりして尾を立てて在仁を見た。
「白蓮がいう、死に際の集約を、おれはしっています。おれが薊さまの部屋で、ただ全身をきりきざまれ、しんぞうをうばわれ、にんげんでなくなったと、思いますか?痛くて、こわくて、しにたかった。みんな死んで、おれも早く、しにたかった。らくに、なりたかった。あの時きいていたものが、きっと断末魔の…叫びでございます。こわくてしかたがなくて、それでもそこにしか、今を終わらせることができないと分かっていて、泣いて、叫んだけれど、なにもなかった。」
ゆっくりと震える足取りで白蓮が在仁の元へ戻ると、在仁が白蓮の頭を撫でた。
「あの恐怖を、おれは忘れることができません。白蓮も、忘れては、なりません。かつてのあなたにとって、それがすべてであったように、今のあなたにとっても、それはすべての始まりで、終わり。切り離すことのできない、罪と…罰でございます。」
在仁のぼんやりとした目から涙が零れて、白蓮の白い前足に落ちた。白蓮が見上げると、在仁は寂しそうに微笑んでいた。
「何も、忘れてはなりませんよ。」
「主…。」
苦しみに耐えるように漏らした白蓮は、そのまま在仁の胸に身を寄せて顔を埋めた。在仁はその小さな体を抱いて優しく撫でた。
「よしよし。俺が傍におりますよ。共に生きましょう。」
柔らかく言う在仁が子守でもするようにあやす姿を見ていた茉莉と紅葉が、耐えきれなくなって泣いた。それに気が付いた在仁が首を傾げた。
「どうなさったのでございますか、まつりさま、もみじさま。お腹がいたいのでございますか?」
コテンとくびを傾げた仕草が可愛らしくて、茉莉は泣きながら笑った。
「だから、お腹は痛くないってば!」
すぐにお腹痛いの?という在仁に、茉莉はいつも通り否定した。紅葉は顔を隠してしばらく泣いていた。
◆
それからしばらくして、茉莉と紅葉と白蓮が部屋で朝食を済ませる間、在仁はまた横になって寝ていた。昨夜からのドタバタで茉莉と紅葉は交代で仮眠を取ったので、在仁が寝ている姿は呑気なものだと思った。ようやく屋敷内に活動する人々の気配がしてきて、今日が始まったのだと思うと、茉莉は晋衡はどうしただろうかと気になった。紅葉も、部屋での待機命令とは言え現状が気になり始めていた。
「茉莉様、葛葉様はいつまでこの状態ですか?」
この酔っ払い状態なのかと。いくら何でもこの状態では誰にも見せられない。
「分からないけど…今日は戻らないと思うよ。前回お兄ちゃんの血を飲んだ時は、結構長い事こんな感じだったし…。顔が赤い内はこんな感じだよ。その内真っ青になってきて呻き出して、そこからもまた長かったな…。」
「ええ??そんなにですか?」
「お酒の方がよっぽどマシだってお父さん言ってた。だから今回の慰問のスケジュールどうなっちゃうのかなって。」
色々を考えるとこのまま奥州へ帰った方が良いのではないかと茉莉は思った。どうせ虚弱設定なのだし、体調不良を理由に途中で帰っても問題はないだろうと。けれどそれは在仁が気に病むだろうと思うと何とかしたいようにも思えた。
「まつりさま…。」
もぞもぞと動き出した在仁が起きようとするのを、茉莉が支えて起こした。
「どうした?喉乾いた?」
「いいえ、俺の荷物…お持ちいただいてくださいませんか。月長石が、たりません。」
在仁が言うので見ると、部屋の中は随分浄化されていた。いつからだろうか、慌ただしくしていて全く気が付かなったと茉莉が見渡していると、在仁が茉莉の手を握った。
「さくや…の、その…あの地点で限界でございました。」
言葉を濁す在仁に、茉莉は一気に恥ずかしくなって顔が赤くなった。そう言えば、普段茉莉のキスだけで増し増しになる清めの気が、あそこまできわどい状況になって増えないはずがなかった。人に言えないようないやらしい事をして、清き気を放つとは変な事だなと思うと、茉莉は面白いような気もした。
「そかそか。そうだよね。持ってくるよ。」
「いえ、茉莉様、私が…。」
紅葉が立ち上がろうとすると、ノック音とほぼ同時に扉が開いた。
「在仁の荷物なら俺が今持って来た。」
言って入って来たのは晋衡と、知将・義将だった。
◆
在仁が浴衣の袂から充填済の月長石を出して、荷物から出した充填前の月長石を袂に入れるのを、皆が見るともなく見ていた。在仁の様子は頭が重いのかフラフラとしていて、顔も赤く言葉も胡乱で頼りなかった。茉莉と紅葉がその作業を手伝うと、ようやく座った。部屋は元々一人用の客間なので大人六人が集まると随分手狭だったが、晋衡も知将も移動しようと言わないので空いている場所に皆で輪になって座った。在仁は茉莉と晋衡の真ん中に座らせ、正面に知将と義将がいた。
「在仁、昨夜の事だけど…。」
知将が切り出して在仁を見ると、意識のはっきりとしない在仁のぼんやりとした目がどこを見るともなく彷徨っていて、体はゆらゆらと安定しなかった。このまま話して大丈夫なのだろうかと思い、晋衡を見ると、晋衡が仕方が無さそうに在仁の肩を茉莉の方に押した。在仁は素直に茉莉の肩に体を預けて、茉莉はその頭を撫でた。それで一旦ゆらゆらが収まったので知将は気を取り直して言った。
「この和田家の屋敷内で起きた以上、私の責任に違いない。こんな目に遭わせて、本当に申し訳ない。」
頭を下げる知将に合わせて義将もしっかりと頭を下げた。在仁はそれをただ見下ろしていて、何も言わなかった。知将と義将が話の続きをするためにゆっくりと頭を上げると、それを見てから在仁が口を開いた。
「おじいさまと、おじさまは、わるくございません。あの女性は、はじめから、潜んでいらしたのでございます。和田家が、俺のうしろだてとなった事をしって、俺が和田家へお邪魔する機会をさぐっておられたのでございます。それゆえに、くどうさまは、おれの慰問の日程をご存知でいらしたのでございます。以前から、こちらにいらしたのでございますから、すっかりこちらの使用人として馴染んでおいででございましょう。見抜く事はむずかしいかと思われます。」
血液から読み取った情報を伝えると、皆は驚いた。その後義将が補足するように言った。
「うちの使用人も去年の一件から補充があって、新しい人が多いんだ。その時入って来たなら、紛れ込んでいても分からないと思う。」
悔しそうに言う義将に、在仁は頷いた。
「ですので、和田家は、わるくございません。おれは、謝罪をのぞみません。むしろ、おれの脇の甘さの所為で、このようなみっともない状態となり、お恥ずかしく思います。折角の御歓待を、無碍にしてしまい、慰問のにっていも支障がでるしまつ。情けなく、悲しくおもわれます。たいへん、もうしわけございません。」
項垂れる在仁を励ますように茉莉と晋衡が背を撫でた。それを聞いた知将が拳を握りしめた。
「それは違う!在仁は何も悪くない。私が良かれと思ってハーブティーなんか出したから、利用されたの。私がもっと注意深くするべきだった。」
「いいえ、おじいさま。俺はそのお心づかいをとてもうれしく思っておりました。それに、ハーブティーとてもおいしゅうございました。よろしければ、奥州へかえる際に、分けてくださいませんか?」
優しく微笑む在仁に、知将は胸を詰まらせた。赤い顔をしているのがこの事件の所為であると思うととても胸が痛んだ。
「もちろん。在仁が気に入ってくれたなら、嬉しいよ。」
在仁自身が被害者だというのに知将を気遣う態度に、知将も義将もとても申し訳ない気持ちになると同時に、在仁が芯から心根の清い人なのだと知った。
二人がその優しさを噛みしめていると、晋衡が話を先に進めた。
「でだ、在仁が部屋に転がしっぱなしにしてたその工藤の娘は押さえた訳だが、まだ証拠固めと、工藤を徹底的に懲らしめる方法を決めあぐねてる。ここで見せしめに厳しく処罰して、今後こんな事が二度とないようにしたいと思うんだが、事が事だろう?まさか媚薬を盛られて娘に誑し込まれそうになったとか公に出来ないし、どういう切り口で責めるかって話なんだが。とりあえず、昨日の事を出来るだけ詳細に教えてくれるか?」
晋衡と知将と義将は、昨夜の事件が発覚してから、大事にならないように秘密裡に調査する事にした。和田家の屋敷でこのような不祥事があったとバレれば他家に付け入る隙が出来るし、このようなハニトラを仕掛けられた事が公になっては在仁の沽券にも関わる。何とか都合の良いシナリオを作って、工藤を懲らしめたい所だが、その方法は未定だ。
「俺がハーブティーをひとくち飲んだ時、白蓮がハーブティーに毒がはいっているとおっしゃいました。ふたりでどうすれば良いか相談しておりましたところ、部屋にあの女性が訪ねてまいりました。夜半に男の部屋をたずねるには、あまりに品性のない格好でございましたので、これはそういう罠と察しがつきましてございます。そこで俺は、女性の血をしょうしょういただき、のまされた薬についての情報を得ようといたしましたが、女性はくすりについては詳しく御存知ありませんでした。じょせいは、おれを恐ろしく思われたようで、気をうしないましてございます。」
在仁が思い出すようにゆっくりと話すと、晋衡がそれが真実であるか確かめるように白蓮を見た。すると白蓮は低く怒りを込めた声で言った。
「あの女は、主を、化け物と言った。」
それを聞くと、全員が目を見開いた。茉莉が在仁の肩を掴んで問いただした。
「在仁、そんな事言われたの?」
「うーん…言われました。化け物…。確かにおれは異形のたぐいでございましょうが、一応神に類するものでございますので、きちんと訂正はいたしました。」
「そんなのどうでもいいの。在仁の事、化け物なんて言うの酷すぎる。」
「なれど、俺はあのじょせいに、むだんで噛み付いて、血をいただきました。それは恐いことでございましょう。致し方のないことでございますよ。」
何でそんなに怒るのか分からない様子で在仁が女性を庇うと、晋衡が怒りを込めて言った。
「いや、相手はお前の名誉も立場も全部奪うつもりで仕掛けて来たんだぞ?在仁がしたのは正当防衛で、それは温い位だ。」
晋衡の怒りに続けて義将と知将の波形が乱れた。
「そうだよ。そんな人を庇う事は無いよ。在仁の仇は僕たちが絶対にしっかりとらせてもらうから。」
「そうだね。私の大事な家族を傷付けた者を、私は赦さない。和田家を怒らせるとどうなるか、この際痛いほど分からせてあげる。」
本気になった和田家の怒りがどんなものなのか、在仁はぼんやりと見つめながら僅かに窘めた。
「お手柔らかに。」
被害者のくせにどこまでも穏やかな様子が、返って皆の怒りを増幅させたのだった。




