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24 殺屋の事

 「あ、ストーブの灯油がない。」

年も明けた頃、休みを終えた大学は寒い中再び活気を取り戻していた。文学部のとある研究室は、講義の無い学生が入れ替わり立ち替わり入り浸り、教授の周りは時期を問わずいつも学生で賑わっていた。

 「今持って来ました。」

誰かの言葉に呼応するように、晋が研究室の扉を開けた。灯油タンクを片手に。

 「ありがと〜。」

 「あれ、プリンタのトナー誰か変えた?後でやらなきゃと思ってたんだけど。」

また別の学生が言うと晋が灯油を入れながら言った。

 「俺やっときました。用紙の補充と、予備トナーの交換も。」

 「ありがとう、助かったわ。」

圧倒的に女子の多いこの部屋で、力仕事は正直ありがたいものだった。晋は旧式の円筒型のストーブに給油し終わると、一旦部屋を見回してから灯油タンクを持って部屋を出て行った。

 「本当に矢集(やつめ)くんが来るようになってから助かってるわ。」

 「ね〜すごく良く気が付くし、色々手伝ってくれるし。」

 「親切にしてくれるし、それでいて邪魔にならないようにしてるし。」

学生が口ぐちに言うのを、恭は聞くともなく聴きながら本を読んでいた。教授は横目で見ながら肩で溜息をついた。

晋が恭と共に研究室に来るようになったのは、夏頃だった。

当初教授は、研究室が賑わっているのは長年の事だが、部外者は駄目だと言っていたのだが、晋ときたら研究室にある雑用という雑用を勝手にこなす事でいつの間にかすっかり居場所を獲得していたのだ。抜け目ないと言うか、油断の隙もないというか。教授自身もそのフットワークの軽さに助けられる事がしばしばあるので、もう文句を言う権利を失ってしまった。それに晋は教授お気に入りの恭の親友ということもあり、あまり強くは言えないのだ。

 そうしている内に、晋が飲み物を持って入って来た。

 「今日寒いんで、どーぞ。」

女子達が歓声を上げながら群がって行くと、教授は諦めたように言った。

 「彼、ずっとああなの?」

 「晋なりの処世術ですよ。」

恭が答えると、晋が恭の目の前に紙コップを置いた。

 「教授はコーヒー、ブラックでしたよね。」

必要以上にニコニコしながら教授に紙コップを渡すと、教授は複雑そうな顔で受け取った。

 「君は全員の好みを把握しているのかね。」

 「記憶力良い方なんで。」

にっこりしながら全員に飲み物を配り恭の隣に座る晋を、そろそろ教授も本格的に当然の存在に思えてきてしまった。


 晋が亡霊と呼ばれていた父親・(ひろむ)に会ってから、学生との両立が困難になる程だったあの仕事量を圧倒的に減らされ、恭と共に学生生活と修行をする毎日になってから随分経った。恭の提案で時間がある内に単位を取れるだけ取るという事になり、二人はびっしり講義を入れていたため、毎日長時間を大学で過ごすようになった。そうしているとただの学生のように思われた。

 昼を過ぎ、午後の講義へ向かうという時だった。晋と恭が食堂の外を歩いていると、見知らぬ青年が笑顔で歩み寄って来た。

 「やっと見つけた!キミがヒロさんの息子さんだね!や〜捜すのに苦労したよ、ボクとしたことが、半年以上かかっちゃったモンね。」

 恭が晋を見た。「誰?」と言っている目だった。晋は首を傾げた。

 「君は?」

晋の問いに心底嬉しそうに答える青年は、中肉中背の一見どこにでもいるような普通の『昼』の青年だった。ボーダーのトレーナーにレザーのジャケットを着ていて、茶に染めた髪と少し幼い顔。大学のキャンパスで出会ったのだから、同じ大学の学生だと思った。

 「ボクは人見(ひとみ)(しゅう)()。シュウでイイよ。」

人見と言う音に少し動揺した。またヒトミ。嫌な予感がした。

 「殺し屋だよ。」

 「は?」

 「ボクは、ボクを殺してくれる人を探してるんだ。本当はヒロさんに殺してもらうつもりだったんだけど、急にいなくなっちゃって。だから息子の君ならと思って探してたんだよね。」

 「ん?」

 「ねぇ、ボクを殺してくれない?」

相手のリアクションを意に介さずずっと話し続ける修吾の態度に、完全に乗り遅れてしまった二人は、しばらく修吾の言葉を咀嚼していたが、やっと言った。

 「ヒロさんてのは…。」

 「ヤツメヒロムだからヒロさんだよ。ヤツメススムくん。」

矢集裕の存在を完全に認識している。そして晋との関係も。

 「でも君…シュウは『昼』の人間だよね?」

 「何?『昼』って。カタギってコト?ボクは殺し屋だって言ったじゃん。カタギじゃないよ。」

『昼』の意味が分かっていない。完全に『昼』の人間だった。ならばどうして…。

 「あのさ、何で父さんに会ったの?」

 「去年の今頃かな〜、路地裏で見たんだ。ヒロさんが人を殺すトコロ。それからずっと付き纏ってたんだけど、とうとうまかれちゃったんだよね。でも、ヒロさんとススムくんのバトル見てたら、ススムくんでもイイやって思ったんだよね。」

修吾の目は恍惚を映すそれで、正気の沙汰ではなかった。

 「ねえ、イイでしょ?ボクを殺してよ。」

完全に困り果てた晋が修吾を見たまま黙っていると、恭が晋と修吾の間に入った。

 「許可できんな。」

 「は?」

 「これは俺のものだ。息をするのも死ぬのも俺の許可無くば適わぬ。お前を殺すならば、俺の許可が要るのだ。許可できない。以上だ。帰れ。」

恭がはっきりとした口調で言い切ると、修吾の反応を待たずに午後の講義へと向かって行った。晋はその後に続くように、修吾の方をチラチラと振り返りながら去った。修吾の後姿は寂しそうだった。



 「何をしている?」

数日後、講義を終え恭が校舎から出てくると、修吾が中庭の銅像の台座の上に座って恭を見ていた。

 「いや、どうしたら許可して貰えるのかな〜ってカンサツ。」

恭が無視して通り過ぎようとすると、歌でも歌うように言った。

 「例えば〜、どの人を殺せば、ボクを殺したくなるかな〜とか。カンサツ、してたの。」

恭が振り返ると、修吾は得意げな笑みで見下ろしていた。

 「…その場合は警察に任せよう。」

 「え?何ソレ。」

 「刑事事件は俺達の範疇ではない。」

言って去る恭は、相変わらず修吾を全く意に介していなかった。

 「なんだよソレ〜…。」



 それからしばらくしたある夜、晋は数少ない仕事を終え帰路に付いた。あれ以来少しでも亡霊や地下迷宮に関係あるかも知れないというと晋を遠ざけるようになっており、来る仕事は東京に来る前のような単純な揺らぎ討伐だった。自己判断の一切要らない、ただ人を斬るだけの仕事。

公園の前を通りかかると、そこには闇に紛れるように立つ修吾の姿があった。晋と目が合うや否や凄い勢いで駆け寄ってくるとまくしたてるように言った。

 「それ、刀!すご〜い、やっぱり刀身が長いんだね。ヒロさんの夜霧(よぎり)より少し短いけど、()(がすみ)の方が少し重いんでしょう。」

夜霧は矢集裕の持つ、黒くて長い刀身の刀だった。俗に言う、妖刀の類だ。晋の刃霞は長柄で夜霧より少し短く重い。こちらも妖刀と言われている。物は百年経つと憑喪神となると言われているが、何百年という長い時の中で人の血を吸い過ぎた禍々しいそれだ。

 「詳しいんだ。」

 「ヒロさんに聴いた。他にも、ソシキには色んな刀があるって言ってた。」

晋は公園に入ると、自販機の前まで歩いた。

 「…そうだね。斧みたいなの、槍みたいなの、色んなのがあるよ。でも俺は黒烏(くろう)が一番カッコイイと思う。」

 「キョウくんの持ってるヤツだね?ヒロさんも同じ事言ってたんだ。ボクも見てみたいな〜。」

 「父さんが?」

 「最も美しいのは、黒烏(くろう)(あけ)()の二振りだ。って。唾と頭の細かい細工、柄と鞘には龍の紋章が施されていてとても美しいって。刀身は鎬造の反りのある湾刀で、反りが腰や茎にしかないのは鎌倉時代以前の証拠だって。」

 「…父さんは刀好きだったから。」

だった。過去の情報だ。晋は昔の裕しか知らない。きっと現在の亡霊とは別人なのだと思っていた。けれど、修吾に話す言葉はかつてを彷彿とさせた。

 「いいな。羨ましいよ、ヒロさんみたいな人が父親なんて。」

 「…天地がひっくり返っても、そんな事言われる事は無いと思ってたけど。」

適当に暖かい飲み物を買うと、修吾に投げた。修吾は掴んだ缶の熱さに驚き袖を手袋代わりにして持った。

 「シュウの父親は相当最悪なの?」

晋の理想の父親は知将(ともまさ)だった。優しさ、厳しさ、ユーモア、そして包容。求めた温かさを与えてくれる。足りない部分を満たしてくれる。そういう存在だった。裕とは正反対の。

 「ボクの父親は死んだよ。よく覚えていないけど、窮屈だった。」

 「奇遇だな。俺の親も死んだ。」

後ろから気配もなく唐突に恭が言った。修吾が振り返ると、晋が恭に缶を投げ、修吾の頭の上を放物線を描いて恭の手の中に納まった所だった。

恭はジャージ姿にタオルを首にかけていた。偶然通りかかったのだろうか。

 「俺の父親は穏やかな人だった。矢集のおじさんとも、親しかった。少なくとも俺はそう認識している。故に、何故殺したのかと思う。」

恭が言いながら、ブランコの周囲に建てられた柵の上に腰掛けると、晋もその隣に座った。

 「何ソレ。キョウくんてば、父親の敵の子供と一緒にいるんだ?だからこき使ってるんだ?罪滅ぼしとか?」

 「違うよ。一緒にいるためにはこの方法しかなかったんだ。当主殺しの末裔なんて、普通なら疎外される。だから恭のものになる事で、一緒にいられるように…色々と画策とか苦労もあったけど、恭の親父さんの力とか、貴也さんのバックアップとか、そういうもので何とか、ね。」

晋が恭に同意を求めると、恭は黙って頷いた。

 「何だかサッパリ分からないんだけど、恵まれてるって事?益々羨ましいな。」

修吾は砂場の枠に座りながら話し始めた。

 「ボクね、生まれつき殺したかったんだ。破壊衝動っていうの?でも親が教える物はボクの衝動を抑圧してた。ま、社会ってモンがボクみたいなのを否定するってコト、成長するにつれて徐々に分かってきてさ、親は間違ってないって分かったケド。でもさ、我慢できないんだよね。ダメって言われると、益々衝動が増すワケ。始めは、動物だったな。ノラ猫、学校で飼ってた兎・鶏、そうしてる内にさ、やっぱり人間を殺してみたくなるワケ。十歳だったかな、家に強盗が入って、家族を殺した。ボクはその頃にはもうどうしようもなく人間を殺したくて仕方ないヤツになってたから、こんな絶好の機会はないと思ったよ。人を殺しても罪に問われない千載一遇のチャンスだって。家族の敵であり正当防衛でしょ、ボクを咎めるモノは何もないって。ボクは喜々として強盗を殺したよ。でも、それは大間違いだった。一人殺すとさ、もう歯止めが効かないよね。殺したくて殺したくて仕方なくなっちゃってさぁ。で、ボク事件の後更生施設に入れられてたんだけど、その中で繰り返される、倫理とか人道とか法律とか秩序とかそんなのボクの衝動を助長する呪文にしかならないんだよね。ダメって言うモノが多ければ多い程魅力が増すって言うかさ、壊してくれって言われてるようにしか聞こえないんだ。だから殺してやったよ。施設のどいつもこいつも、ボクを否定するすべてのモノを殺して、そのまま殺し屋になったんだ。思ってたより社会は清潔じゃなくてサ、ボクが人を殺して収入を得る業界が存在してたんだよね。本当、そんな就職先があるなら早く言えよって思ったよ。ボク自分がマイノリティーなんじゃないかって柄にもなく悩んじゃって馬鹿みたいじゃん。」

修吾は缶に口を付けると少し黙った。暫く缶の縁を噛んでから、ようやく話始めた。

 「でもサ、満たされなかった。ボクあんなに人を殺したかったのに、いざどうぞ好きなだけ殺してくださいって状況になったらさ、そんなに満たされなかったんだよね。段々スリルもマンネリ化して来てさ、残酷なコトだってそんなに興奮しなくなった。本当にボクが求めてるものって何なのかなって、思うようになった頃、ヒロさんに会ったんだ。」

声からは歓びが伝わって来た。

 「無慈悲な殺し方、たまらなくゾクゾクしたよ。今まで知らなかった感情だった。ボクの中に生まれたのは、あんな風に殺されたいってコトだった。あんな風に人間をゴミみたいに斬り捨てる人がいるなんて、ボクもヒロさんにあの何とも思ってない目で一瞬で斬られたいんだ。それが、ボクを最高に満たしてくれるモノに違いないって思うよ。」

まるで矢集裕を神のように言う修吾は、崇拝に近い感情で死を望んでいるのだろうか。

 「矢集裕は、シュウを殺すと言ったのか?」

 「その時が来たらって。でも居なくなった。」

その時、とは。修吾が揺らぎとなる時が来たら、と言う意味だろうか。それとも、気が向いたらという意味なのか。

 「シュウ、勘違いしてるみたいだから言っておくけど、俺達は殺し屋でもヤクザでもない。」

恭がつぶやくように言った。

 「え?違うの?」

 「俺達が斬るのは、金持ちの競合相手とか、政治家の邪魔者とか、恨まれてる奴とか、じゃない。」

 「じゃあ何?」

 「揺らぎだ。『昼』と『夜』のバランスを乱すものを斬る。『昼』とはつまり人の営みを、『夜』とは幽霊や妖怪などの世界を指す。二つの世の秩序を守るために、時に人を、時に妖の類を斬るんだ。」

唐突に付きつけられたものは、およそ現実味の無い何かだった。修吾の中の現実社会のような虚構に近い、SFの類だろうかと耳を疑った。それでも、恭も晋もふざけているようには見えなかった。それから晋の刀を眺めながら裕の事を思い出してみると、案外しっくり来るような気がした。それくらい突拍子もない何かが無くては、修吾の虚構を壊したりはしない。理解は出来なくても、納得はした。

 「は?…つまり、ボクが殺してもらうためにはソノ揺らぎになればイイの?」

 「シュウには霊感はある?」

何て馬鹿な問いだろうと修吾は思った。けれど、これも真面目な問いなのだと納得出来た。

 「…全くない。」

 「じゃあ、無理だ。」

『夜』を認知できなくては、故意に揺らぎとなる事は無理だろう。

 「え?」

 「俺達がシュウを斬ることはない。」

許可しないとハッキリと言ったあの口調で恭が言い切った。

 「…じゃ、じゃあボクの方から君達を狙ったらどう?君たちの仕事の邪魔をしたら…。」

 「シュウは人殺しなんだろ?警察に突き出すよ。『昼』の事は『昼』で解決すべきだ。」

まただ。また警察。なぜ殺さない。幽霊ならば斬ると言うのに、何故死んだ人間は殺して修吾を殺さないのか。疑問と言うより憤りが湧いた。

 「なんだよソレ。」

 「シュウが思う程俺達は自由じゃない。秩序の元、ルールに則って生きてるんだ。」

晋が感情を乗せずに告げた言葉に、修吾は目を見開いた。

 「…なんだよ、ソレ。」

 「社会は清潔じゃない。シュウが言った通りだ。」

晋は空き缶をゴミ箱に向かって投げた。缶は闇の中に消え、心地よい音を立てた。

 「不平等で不規則で無秩序で、とても整合なんか取れやしない。」

修吾は洞穴のような昏い目をして晋を見上げた。晋は更に深い闇を湛えた視線を返しながら、修吾の頭を撫でた。

 「諦めろ。」

言って去る晋に、恭は無言で付いて行った。

夜の公園で一人残された修吾は、砂場に落ちる涙の粒を見た。

 

 幼い頃に言われていた。悪い事をしたらばちが当たると。罰が。

 誰が、いつ、どのようにして、修吾を裁くというのだろうか。

 未だかつて修吾は罰が当たった事がない。どんな悪い事をしても誰も咎めなかったし、裁かれる気配がない。いつになったら世界は修吾を罰するのか。

 両親は真面目を絵に描いたような人達で、倫理や人道を重んじ社会に協調し秩序を守る事に疑問を抱かなかった。正常で清浄である事を是とし、異常を解する事は無かった。故に修吾にとっては両親が異常であった。両親は社会の象徴で、社会常識というものは両親の存在そのもののように見えた。

そんな両親が死んだ。無残に殺された。あれだけ社会に尽くし、清く正しく生きていたというのに、一体何の罰が当たったのだろうか。あの両親が、罰が当たるような悪い事をしていたのだろうか。それがどんな罪科だったとしても、修吾よりはマシなはずだろう。人殺しよりは。世界は善良な両親を殺したのだから、修吾にも同じ様に見合うだけの罰が下されなければおかしい。

 一体いつになったら世界は修吾を罰するのか。

 もう随分待っている。

けれど修吾に罰が当たる気配はない。

 待っていても駄目なのだ。自ら行かなくては。自ら罰を受けに行かなくては、世界は修吾という悪の存在に気が付かないのだ。

修吾は探した。

そして見つけたのだ、矢集裕を。そして感じた。

 裕の刀は人を斬らない。斬っているのは塵芥なのだ。

修吾は裕こそ修吾のずっと待っていた者の化身に違いないと確信した。今まで人を殺し悪逆非道の限りを尽した修吾には、人として終わる人生などあって良いはずがない。裕に斬られる事で、修吾は無価値な肉片として地に落ちる事が出来る。それこそ相応しい罰のはずだ。

 一体いつになったら罰が当たるのだろうか。

 「早く殺してくれよ。」

修吾は泣きながら呟くと、声は闇に霧散して消えた。望みを唱える声さえも残ることの無い虚しさは、修吾の胸を切り裂くように内側で暴れていた。



 恭は初めて晋を見た時の事をよく覚えていた。

地面を列をなして歩く蟻の群れを、そのまだ小さな指で残らず潰していた。大きな虫の死骸を運ぶ蟻の群れを、ただ殺していた。その目には穏やかな煌きがあり、そしてその『波形』は淡い乳白色の優しい光に包まれていた。一目で美しいと思った。その無垢の残酷に強く魅かれたのだ。

人見修吾はその頃の晋を思い出させた。

 「おじさんがシュウを放っておけなかったのは、晋に似ている所為かも知れないな。」

 「それは願望が過ぎるでしょ。」

晋は皮肉めいて笑った。

 「そうかもな。」

 初めて会った時の晋は、およそ人とは呼びがたい何かだった。命を奪う事に少しの疑問も感じる事はなく、その純真さを汚す事もない。破壊することに対する喜びを求めるばかりで、他と同様に自らの命にも特段価値を見出す事もない。ただ本能のままに生きる動物のような生き物だった。幼い晋の世界は裕という神によって支配されていた。

裕の手で創りだされた獣。矢集の末裔として、やるべきことをやるために創られた存在に他ならなかった。

恭は、そんな晋が今になって過去を顧みる時に去来する漣のような感情は、修吾の抱く渇望に近いもののような気がした。似ていると。恭に埋める事の出来ない晋の内側の部分が、よく似ていると感じたのだった。

 「殺し屋ね。ある意味では同じものなのかもな。俺もシュウも。」

人の心を知らぬままであれば知らずにすんだ苦しみを、晋は疎んじているだろうか。恭は不安になる。結局は矢集として生きる道しかないのならば、現実が常にそれを突きつけ続けるならば、恭が無理矢理にその手の内に置く事は残酷なのかも知れないと。自身の罪深さを自覚する事さえ無ければ、きっと今もあの純粋な『波形』で殺戮に興じていただろうに。

 「恭、どうした?」

でも、それは人ではない。

 「いや、今更だな。」

 「何が?」

 「後悔する覚悟は始めからしてたって事だよ。」

 「…何?後悔って先に立たないんじゃなかったっけ?」

 「準備くらいしても良いだろ。」

 「後悔の?嫌な準備だね。どうせなら喜ぶ準備とかの方が良くない?」

 「…良い事言うな。」

 「え、今俺褒められたの?意味分からないんだけど、俺良い事言ったの?」

 「言った。嬉しかったから静に報告しよう。」

携帯端末を取り出しながら言う恭を、晋は全く理解できないままで問い詰め続けていた。



 地下迷宮と呼ばれるその場所は、長い間東京の地下にある複雑怪奇な魔窟だと思われていた。直嗣(なおつぐ)(さね)(ちか)はそもそもその事についても考え直す必要に迫られていた。

 「何か、生暖かいって言うか、湿度が高いって言うか、僕もっと洞窟みたいな場所を想像してたんで冷たくて乾いていて暗いのかなって。だから意外って言うか、その…ここって本当に地下ですか?」

地下迷宮は国会議事堂の下と言われてきた。政治家の多い地帯だ。昔から地下迷宮の危険性は懸念されてきたので、地龍は政治家から頼られることも多くあった。国家の安全や存続のためには、国を運営する立場となる者は地龍の存在を知らなければならなかった。けれど知った所で『昼』の側から地龍をどうにかする事など出来ない。政治家はただ地龍の要求に応えるのみ。『夜』に対抗する手段を持たない『昼』は、地龍に頼る以外に生き残る術はないのだ。地龍で起こっている事に関わる事は命を縮めるだけ。個人ではなく、国家の命を。長い歴史の中で『昼』の社会が学び取ったものはそういうスタンスの維持だった。

 故に国会議事堂周辺で何が起こっていても『昼』は関わることがない。最近の地下迷宮は亡霊や催眠兵の出入りが多く、多少派手に動いても『昼』は不干渉なので、何とか紛れ込んで入ることは難しくなかった。

 そうして、いざ入ってみるとそこには空間の捻じれのようなものがあった。入口と中は完全に別の場所だったのだ。つまり、東京の地下ではないかも知れない。

 「…って言うか、何かの体内みたいですよね…。」

 「嫌な事言うなよ!」

直嗣の言葉を無視し続けてきた実親が叫んだ。

 「だって、この壁何なんですか、土と言うより肉感半端ないんですけど。」

 「やめろって!考えないようにしてるんだから!これは、アレだよ、新しい断熱材の弾力性のある壁素材だよ。だから決して何かの体内とかじゃない。あるはずがない。」

 「何ですかそのデタラメな素材は。現実見て下さいよ、親さん。」

 「直に言われたくないんだよ!俺はしっかり現実見てるよ!だいたい、気持ち悪いんだよこの空間。ちゃんと現実見つめた結果、壁って事になったんだよ俺の中で!」

両腕をさすりながら歩く実親は本気で自身が何らかの生命体の中にいるとは考えたくないようだった。

 「じゃあ、この壁ちょっと切ってみます?」

直嗣が腰のナイフを取り出し壁に突き立てようとすると、慌てて実親が制止した。

 「待て待て待て!過激だなぁ!不用意な事はするべきじゃない。」

 「親さん恐いんですか。」

 「恐いんじゃない、きもいんだよ!」

実親が金切り声で直嗣を止めると、直嗣が鼻の前に人差し指を立てた。

 「あれ、そろそろ目的地みたいですね。」

 「やっとか。」

元々二人は催眠兵達に紛れ込む形で迷宮に入った。その催眠兵の後をつける事で探索は始まったのだ。

 「かれこれ何日になりますかね。」

 「分からん。そもそも此処に入ってから時間の感覚と言うものが完全に失われた。頼れるのは腹時計くらいか。」

実親が直嗣を見ると、直嗣の腹が鳴っていた。

 「あはは。でもあの人達、此処に入ってから何も食べてませんよ。どうなってるんですかね。」

携帯用の食料をくわえながら言う直嗣に、実親は呆れ顔で言った。

 「よく食えるな。お前意外と神経図太いよな。」

 「褒めてます?」

 「…ああ、褒めてるよ。」

催眠兵達はぞろぞろと、付き当たりの部屋に入って行った。二人はその流れに乗って中に入ると、そこは部屋と言うより広い空間だった。その空間に犇めくように多くの武士たちがいた。皆目が虚ろでフラフラとしていた。

 「この人達、皆行方不明になってた武士の人達ですかね?」

 「ああ、間違いないだろうな。それに、この匂い…。」

あの草の匂いだった。

ぼんやりとした日向のような匂い。

 「親さん、ここにいるのは危険です。出ましょう。」

直嗣が言うと実親はマスクをかけながら言った。

 「いや、此処で何が起こるのか調べたい。俺はもう少し此処の様子を調べる。直は周辺を探って来い。」

 「了解。」

直嗣がそうっと部屋を出て行くのを見てから実親は身を屈めた。部屋の空間、収容されている人数など、ざっと観察しながら部屋の中を移動し始めた。

実親のマスクは、能通(よしみち)が用意した特殊加工品で、簡単に言うと瘴気を濾過する空気清浄機能のようなものである。催眠術の草の香りはそもそも補助的な役割にすぎず、問題なのは術自体の方ではあったが、無いよりマシだと言う事で用意してもらった物だった。他にも(かね)(とら)には応急処置法や薬などを、静からは防御壁などを創造できる札を貰ってきた。直嗣も、春家(はるいえ)から羅針盤を、祥子(しょうこ)から何種類か札を、(よし)(ひら)から装備一式を、弁天から十字架を受け取って来た。実際に地下迷宮に来たのは二人だったが、実質的には『龍の爪』全員でのミッションだった。全員の想いと共にやって来たのだった。

 実親が催眠兵達の足元に身をかがめると、地面に振動を感じて前を見た。武士たちの足の間から風が吹き抜けて来た。振動と共に風が吹き抜け、徐々に振動は大きさを増した。ごうごうと空気を震わせて近付く何かの気配を、実親は鳥肌と共に感じていた。

震動が止み、圧力が増した。実親はゆっくりと立ち上がった。そしてその目に映ったものは…

 「隊長…。」

 義平は前世で地下迷宮で死んだ。その時に見たものは、確か、馬鹿でかい『夜』と言っていた。

 「…大き過ぎるでしょ。」

実親は初めて空間の広さと、その広さの半分以上を占める黒い巨大な『夜』の全体像を理解した。脳内では完全に警鐘が鳴っていた。逃げろ、と。

 地下迷宮に入って生きて戻って来た者はいない。

その本当の意味を知るのは、まだこれからなのだ。

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