21 弁天の事
「親から連絡です。亡霊はフェイクで、平景清だったと。」
弁天が携帯をポケットに押し込みながら春家を見ると、春家は小さな懐中時計の形をした羅針盤を開き術を展開した。子供でも出来る簡単な方角探知だ。近くにいる仲間の位置を知る事が出来る。気配を消したり特殊な術を使ったりすれば役に立たない玩具だが、意外な時に役に立つ事があるので持っているのだ。
「直はこっち向かってる。景清ってのを追っかけてるんだろ?つまり、景清はこっちに向かってるって事だ。」
春家が羅針盤を閉じて刀を抜くと、走り始めた。弁天はそれに続いた。
「景清と言うと、確か、表裏問わず戦のきっかけを作って回ってるっていう…。」
「ああ。確か、公暁の暗殺や、本能寺、赤穂事件、桜田門外の変、幕末、明治も随分活躍したって噂だけど、どうせ嘘だろ。箔をつけたいだけの狂った野郎に決まってる。」
「ええ、戦を起こしたがるなんて異常に決まっています。直は景清に良いように使われていたのですね。」
「…俺達の落ち度だよな。」
押し殺すように言った春家の言葉は、弁天にとって意外なものだった。初めから他人事のように興味を示さなかった春家が、直嗣の事について語るのは初めてに近かった。
「春…。」
弁天は春家の真意を促した。
「部隊に付け入る隙を作ったのは直の脆さだ、でも直一人の問題じゃ無かった。景清の野郎には俺達全員でお礼参りと行こうじゃねぇか。」
「勿論です。」
弁天も刀を抜くと、その刃に映る己が瞳に覚悟を確認した。
その瞳には、弁天の優しさを映していた。貫くと心に決めた、勝手な優しさを。
「春、私を信じると言いましたよね?」
「ああ、俺はお前を信じる。」
「ならば、直を必ず助けましょうね。私達の手で。」
弁天が念を押すように言った。春家は笑顔を返した。
「静、位置は?」
宗季が訊くと、黒兎に景清の位置の探知をさせていた静が真剣な声で言った。
「まだ少し遠いわ。急ぎましょう。直が一人で追っているんでしょう?」
「まさか最初に接触するのが直とはね。皮肉だ。」
宗季が眼鏡の奥の目を光らせながら言うので、静は少し躊躇った。
「直を斬るつもり?」
実質的な戦はまだ始まっていないにしろ、景清は戦のために暗躍していた。これ自体がすでに戦と言えると宗季は言った。そしてこの戦において、直嗣は極刑に値すると。静は宗季の真意を測りかねた。けれど理詰めで物を言う宗季にだって心はある。共にいてそれは理解しているつもりだった。
「…そうさな。捕まえて話を聞いてからでも遅くはないだろうな。」
「きっと何も知らないわよ。」
利用されていただけの直嗣を尋問しても何も出やしない。百も承知だった。けれどそれで無罪放免にはならないだろうことも、当然だった。
こうなった以上、処分は免れない。それでも静は何とかしたいと思った。仲間として、そして頼りない年長者として。
宗季はやり切れない感情を何とか殺して言った。
「…かもな。」
静が無言で宗季の横顔を見た。
宗季は眉を下げて言った。
「今はとにかく追い付こう。出番が無くなる。」
「了解。」
二人は電車を追い越して家の屋根や塀など足場に出来るものを全て使って、直線距離で目的地に向かった。
「まさか平家に直が利用されていたとは。」
兼虎がどすんどすんと派手な音を立てて走ると、地面が重い音で答えるようだった。
「しかも転生組です。一筋縄では行かない。たまたま直が都合が良かっただけで、きっと私達の誰を標的にされていても同じ結果だったはずです。それだけ長い時を経ている、経験値が圧倒的に上ですから。誰も直を責める事は出来ない。」
能通が神妙な物言いをするので、兼虎は押し黙った。
「虎さん、私は直に謝らなければなりません。共に悩む事をしなかった。例え直が道を踏み外していたとしても、私達だけは、道を示してあげなければならなかったんです。それが出来るのは私達しかいなかったのに。そうしていたのは弁天さんだけでした。私は間違っていた。」
「能殿、俺はそれでも直の弱さを責めたくなります。こんな事になるなら、俺達に頼れば良かったのにと。どんな対応をされても、間者に利用されるよりはマシなはずだ。」
言って兼虎が速度を緩めた。
能通は木々の揺れを見て言った。
「あそこですね。急ぎましょう。」
直嗣の矢が景清の足をかすって木々の中へ消えて行った。
「何で騙した!」
「何?被害者面か?お前は既に俺の側だよ。俺に多くの内部情報をリークしたんだからな。騙されて?催眠術をかけられて?利用された?人の所為にしてどうにかなるレベルは当に越えてんだよ!お前は裏切った。このまま帰っても、尋問されて一生幽閉か悪くて斬首だろうな。例え俺の首をとって帰ったとしても、お前を信じる者はもう誰もいやしない。むしろ感謝して欲しい位だよ。お前みたいなガキはそもそもあの部隊にいたって何もできやしない。あそこで恥曝しながら生きるより、俺が与えてやった見事な間者としての仮面を被って死んだ方が、名が上がるってもんだ。」
「景清ぉっ!」
直嗣が飛びかかろうとすると、景清はそれをひらりとかわし笑い続けた。
「何、怒ったの?単純だね〜。これだから直ちゃんは使い易いんだよ。俺の期待を裏切らない精神構造。馬鹿だよ、ただの馬鹿!あはは!」
挑発し続ける景清を殺さんばかりの殺気で迫る直嗣の元に、実親と春家・弁天がほぼ同時に追いついた。
「おや、ギャラリーが増えたね。」
景清が軽い身のこなしで直嗣から距離を取り、木の上に乗った。
「間に合ったか。あれが?」
「ああ、平景清だ。奴の態度はアレだが、強い。どうする。」
春家の言葉に実親が訊くと、弁天が景清の周辺に結界を張った。
「とりあえず、ここから逃がさないようにします。」
「成程、で?」
「囲みましょう。」
三人は景清を囲んで退路を絶ち攻撃する作戦とした。すると景清が刀を振り上げ、空中を斬るように下ろした。その何でもない動作と同時に結界が割れるように解かれた。
「なっ!」
「何だろ。このチンケな結界は。がっかりだよ、強いって聴いてたのに、なぁ優しい弁天ちゃんよ。」
景清の厭味な笑顔は絶えることがない。
「春ちゃんは自由奔放、親ちゃんはプライドの塊のヒステリー野郎だって、直ちゃんによーく聴いてるぜ。な、俺の可愛い直ちゃん。」
「やめろ!」
直嗣が怒り狂った目で景清を見た。肩が震えていた。『波形』が揺らいで不安定だ。
「なぁ、直ちゃん、どうせならこのまま俺と来いよ。帰る場所も無い訳だし?馬鹿と何とかは使いようって言うだろ?俺が上手に使ってやるよ。下僕として。」
景清が憎らしい言葉を直嗣に浴びせ続ける。
「何だよアイツ、ムカつくな。直の事挑発しまくってやがる。」
春家の言葉で弁天は嫌な予感がした。
「いけない、これは作戦です。」
「作戦?直を挑発してどうするんだよ?」
「おそらく、直に攻撃させる事が目的でしょう。源氏の武士が、平家の武士に攻撃したという既成事実が作れれば、開戦の大義名分を平家に与える事になります。景清を殺すつもりの一矢を、直から受ける事を目的としているんでしょう。」
その間も景清は直嗣を罵倒しとち狂ったように笑い続けていた。
「は?そんなん、自分が怪我するだろ。」
「戦を起こすためには手段を選ばないという事でしょう。実際に彼を目にすれば納得がいく狂気ぶりですね。」
直嗣が殺すつもりのその矢を待っている景清はひたすらに笑い続けていた。タガが外れたように何がそこまで愉快なのか理解できない不愉快な声が響いていた。
直嗣はその笑いに堪えかねたように景清を見据えた。
その双眸は溢れだしそうな涙を何とか抑えており赤く充血していた。今までの人生の恥を暴かれたような怒り、そして信頼を完膚無きまでに壊された事への悲しみ、恨み、絶望、そして自責、何もかもを内包したその目が景清を捕えた時、震える手が弓を引いた。
「春、親、戻って。直を止めてください。」
弁天が叫ぶと、景清を狙うために直嗣から距離を取りつつあった二人が走った。
ちょうどそのタイミングで、義平をはじめ仲間達がやってきた。
「いいねいいね、ギャラリーは多い方が良い。さぁ、俺を殺せよ!憎い俺を、その矢で!それともそんな度胸無いか?か弱い子鹿ちゃんみたいな直ちゃんには、人を殺す度胸なんてないか?」
景清は両手を広げて演説でもするかのように直嗣に訴えかけた。自分を殺せと。
すべてがスローモーションのように同時にそして一瞬の間に起こった。
義平が刀を抜いて高速で迫り、兼虎と能通は状況把握が追い付かず二の足を踏んでいた。宗季が静と共に周囲に結界を展開しようとしており、春家と実親が直嗣を止めようと手を伸ばしていた。あとわずかで直嗣に届かんとしていた二人の手は、直嗣が殺意の一矢を放つまでには間に合わず、今までのどんな矢より強く早い閃光が駆け抜けた。まっすぐに、景清の脳天目掛けて。
矢を放った直後、春家と実親に取り押さえられた直嗣の目は怨念のようなそれで景清の死に様を見ようとして抗った。
けれどその矢が捉えたのは…
直嗣と景清との間の直線距離に飛び出した弁天の胸だった。
「弁天っ!」
春家が叫んだ時には弁天は地に鈍い音を立てて落ちた後だった。春家が駆け付け抱き上げると鮮血が地面へ沁み込み、顔面から熱が引いて行く。慌てて兼虎が駆け付け止血を試みた。直嗣はただ茫然と実親の手の中で立ち尽くしていた。
「景清――――!」
義平が刀を振り上げたが、その手を宗季と能通が無理矢理掴んだ。
「駄目です隊長、向こうは隊長が手を出したと同時に開戦の狼煙を上げるつもりです。今の所景清の暗躍の証拠は何もないんですから、しらをきられたらこちらから一方的に手を出した事になりかねません。」
「弁天が体を張って止めた意味がなくなります、ここは抑えて下さい。」
怒号で殺さんばかりに景清の名を叫びながら暴れる義平を、二人が全力で押さえながら説得すると、景清は溜息をついた。
「本当つまらないな。どいつもこいつも余計な事をしてくれたね。これじゃあ戦にならないじゃないか。ま、でもいいや、君たちの部隊はどっちみちこれで終わりだし。俺が付け込んだ所為でこうなったと思うのは勝手だけど、本当は分かってるよね?俺はちょっと背中を押しただけ。結局は疑心暗鬼の末内部分裂ってこと。笑える愚かさだよ、本当。弁天ちゃんが死んだのは、全部ここにいる全員の所為だよ。そして直ちゃんの裏切りの所為だ。かわいそうな直ちゃん。ず〜っと後悔して生きて行ってね。バイバイ、直ちゃん。」
木の上から予定が狂ったと言わんばかりに文句を言いながら景清が転移して消えてしまった。静が捕縛型の強化結界を展開したが、一瞬の差で間に合わなかった。
宗季と能通が手を放すと、義平が景清を追いかけ、転移した地点まで行きまだその場に残る景清の気配を斬るように刀を振った。何度か振ったが、そこには虚無があるだけだった。そして肩を落として吠えた。青天の冴え渡るような空に向かって、狼のように絶叫した。
「…直…。」
微かな声で弁天が直嗣を呼んだが、直嗣は涙を流すばかりで何も返す言葉を紡げない。実親は直嗣を止めるために掴んだ腕で直嗣を抱き締め、その震える体を支えた。
「馬鹿野郎、何であんなことしやがった。」
春家が弁天の上体を抱いて怒鳴った。
「戦だけは、決して起こしてはいけません。…それに、これ以上直に背負わせる訳にはいきませんよ。」
直嗣の一矢によって燻っていた源平の戦火が再び燃え上がる事となれば、直嗣は更に罪を負う事になる。それを止めたかったのだ。これ以上一人で傷付く事のないように、まだ若く未熟なその身に背負うには大きすぎる業を、弁天は何とかして回避したかったのだった。
「だからって、お前が死んだら駄目だろ!」
春家の言葉に、弁天は弱く息を吐く事で少し笑ってみせた。困ったような、自嘲気味な笑いだった。
「直、私の事を背負う必要はありません。誰が何と言おうと、これは私が望んでした行動です。あなたは何も気に病む事はありません。春、春も、直を恨んだりしないと約束して下さい。」
この期に及んで他人の事ばかり言う弁天に、春家はいっそ怒りすら感じた。今際の際まで、限界ぎりぎりまでその信念を貫き通すのか、培って来た優しさを使い続けるのか、ならば死こそが矛盾するのではないかと。
「死ぬなよ!」
生気を失っていくその唇から紡がれる言葉を掻き集めるように春家は叫んだ。兼虎が手を尽くしていたが、直嗣の矢は正に一撃必殺だった。
「春、私がいなくても、ちゃんとしてくださいね。」
弁天の目は既に春家を映してはいなかった。虚ろを映す鈍い硝子玉のように冷たく無機質なそれに変化して、白い唇をわずかに動かして漏れる声を、春家は何とかしてすくい上げた。
「弁天!」
「さやかさんとも、ちゃんと、仲直りして…。」
「もういい、言いたいことは分かってるから、もうやめろ!とにかく死ぬなよ!」
「…相変わらず無茶を言う…。ひとつだけ、お願いしても…。」
弁天が力ない手で胸の十字架を掴むと、春家の胸に押し付けた。
「祥子さんに、返して…謝罪を…そして、愛してい…ると…。」
春家が十字架を弁天の手ごと掴んだ
その手からは、もう殆ど力を感じる事が出来なかった。
「自分で言えってあれだけ言っただろ!何でこんな、こんな風にしか生きられないんだよ、もっと自分の事優先しろって…俺ずっと言ってただろ。何で、こんなとこで死ぬんだよ!俺を、祥子を残して、優しいなら最後まで貫けよ!こんな終わりのどこが優しいんだよ!弁天!」
春家の叫びが、慟哭が響いたが、弁天が再び目を開く事は無かった。
全員がその場に立ち尽くしていた。
青天に積乱雲が膨張していくのが見えた。
弁天の葬儀は直ちに行われた。
地龍本家では戦々恐々とした状況が続いていた。
貴也は直嗣を別室に入れ警備を付けた。実質的な幽閉状態だったが、警備を付けても意味はないだろうと思われた。弁天を殺してから直嗣は完全に茫然自失、話すことさえ出来なくなっていたからだ。まだ事情聴取などを行ってから牢へ入れたかったが、それもおそらく不可能だろうと思われた。
仲間達は直嗣を責める事はせず、ただ状況を受け入れる事を否定するように沈黙を続けていた。
貴也は直嗣以外の仲間を一室に集めた。
全員が疲れきっていた。
「つまり、鎌倉で亡霊が出たと言うのは平景清による罠だったって事か。そいつが今まで俺達が警戒し探してきた刺客で、とっくに鎌倉入りを果たし直を利用してこちらの状況を窺っていたと。催眠の草を持っていた事から考えても、本物の亡霊との繋がりがあるのは間違いないだろうが…今回の件は単独的な策だろうな。」
貴也が状況を整理していると、義平が刀を取って立ち上がった。
「昔からそうだ、アイツはこうやって幾度となく戦の火種を生みだして来た!今度こそぶっっ殺してやる!俺は景清を追う。止めるなよ。」
興奮する義平の気持ちは貴也には痛いほど分かった。鎌倉に亡霊が出たとした時に、『龍の爪』を出すように迫ったのは義平だった。部隊がまとまっていない事を懸念した貴也を押し切って出撃したのは、義平の落ち度だった。亡霊という未知数の敵に、特段策もなく向かった事、よく調べもせず相手の罠にはまった事、将としての甘さだった。長年探し求めていた転生システムの手がかりとなる者を前に、義平が逸るのは無理もない事だったが、それでも当主としての采配ミスだった。そのことで義平は自身に憤っているのだ。大切な臣下の一人を、友の一人を失ったのは、義平自身の所為であると自覚しているからこそ、やり切れないのだった。
そしてそれは全員が同じ気持ちだった。自身の何かしらに、こうなった事への責任を感じていた。故に誰も他人を責められない。ただ景清を討つ事に憤りの全てを向けたくなるのだった。
「どこへ行くんだ、手がかりは何もないだろ。」
出て行こうとする義平に貴也が言うと、燃え上がるような『波形』で答えた。
「平家でも長老会でも地下迷宮でも、片っぱしからぶっ壊してやるよ!」
義平が叫ぶと、春家が叫び返した。
「そんな事したら弁天の死が無駄になる!隊長だって解ってるだろ!弁天が命をかけてやりたかった事は戦を止める事だって。隊長が戦を起こす気だって言うなら、俺は全力で阻止する。例え隊長と刺し違えてもだ。」
春家が刀の柄に手をかけたので、全員で二人を押さえた。
長年誰より弁天の近くにいて、最後までその声を聞いていた春家の言葉は、もはや弁天の代弁のように聞こえた。誰よりも理解し合っていた二人だからこそ、春家は弁天の遺したものを守ると必死に抗うのだろう。
「じゃあ、他にどうしろって言うんだよ!弁天は死んだんだぞ!」
義平の悲痛な叫びを、全員が目を逸らすように苦い顔をした。
こんな時は、いつも弁天が全員の繋ぎ役だった。上手くいかない時、すれ違った時、仲間がまとまらない時は、いつだって決まって弁天が全員を諫め、そして折衷案を提示し折り合いを付けさせてきた。その弁天無くして部隊はまとまるのか。それとも、本当に景清の言う通りこの部隊はもう終りなのか。弁天の後任は必要だし、直嗣が復帰出来るとも思えない。どんなマシな未来を想像しても、今までの部隊にはもう戻れないのだ。
あらゆる不安が全員の『波形』から滲み出て、部屋全体に瘴気が漂って見えた。
実際今回の事を長老会なり平家なりに糾弾してみても、おそらく何の意味もないだろう。そして景清が言い残したように、景清暗躍の物的証拠は何一つとして無かった。状況証拠で行けば、直嗣の裏切りによる仲間割れで弁天を失ったという筋書きの方が余程説得力があった。これでは公に景清とその後ろにいる何かへの責任を追及することは出来ない。
それに景清の後ろにいる人物が誰なのかは全くの謎だった。
弁天の復讐で景清を襲えばそれこそ景清の望み通り、戦を始める事になる。
「とにかく、重盛と小鳥遊に景清の所在と動きを探るように伝えてある。下手に動けば奴の思う壺だ。無理なのは分かってるが、一度休め。」
貴也が全員の顔を見渡した。憔悴し切った面々が泣き腫らした重い瞼を伏せた。
「くそっ!こんな状態で休める訳ねぇだろ!」
義平が床に向かって声を荒げると、貴也が涙声で言った。
「俺だって今すぐ弁天の敵を取ってやりたいさ。でも、俺も、お前も当主だろ。これ以上の犠牲は出せない。体制を立て直せ。いつでも出動できるようにしておくんだ。」
貴也の顔を見ずに義平は刀を握り締めたままで出て行った。その場に残された面々も、まるで虚ろな人形のように重い足取りでふらふらと部屋を後にした。
京都の夜は時代を遡ったような錯覚を起こす程にかつての姿を残している。
平悪七兵衛景清は、かつて過ごした都を想う。平家の隆盛を、そして末路を。幾度転生を繰り返しても思い出すのはあの戦の事ばかりだった。転生をするようになって一番悔やまれたのは、源九郎義経、彼が転生をしていない事だった。あの戦場のカリスマがいないとは。最も復讐すべき相手、そして再び刀を交えたいと心底望んだ相手だったと言うのに。あの冬の壇の浦での惨敗をきして以来、心残りはただ一つ。勝つことだった。
相応しい舞台で、今度こそ汚名を雪ぎ、勝利を手にする。そのためだけに戦を望み、幾度となく戦を仕掛けてきた。けれどどれだけ戦を経ても手にする事は叶わなかった。
やはり義経がいないから、結局はそこに行きつくのだ。不毛な思考、無意味な戦、愚かな繰り返し、それでも止める事はない。それだけが存在証明であり意義だからだ。
人通りの無い路地を歩いていると、静かな『波形』が蝋燭の火のようにゆっくりと揺れるのが見えた。ゆらり、ゆらりと、風も無いのに揺れる青い炎が、音もなく景清に近づいて来る。景清はその『波形』をよく知っていた。
「久しぶりだな、重盛殿。」
暗い夜闇からゆっくりと姿を現したのは、平家当主、平重盛だった。着物の腰に刀を差し、手を袖の中に収めて歩く姿など、本当に時代劇のようだった。
景清は挑発的に言葉を発してはみたが、いざ重盛を目の前にすると鳥肌が立った。思想や主義はどうあれ、当主の資質は圧倒的だった。だからこそ認めたくないとも思った。
「本に久しいなぁ、景清。俺の手を離れてから、どれだけの時が経ったんか…相変わらずヤンチャしよるようやな。」
懐かしい独特の訛りは重盛の処世術の象徴のような気がした。武士ではなく、政治家として長老会と渡り合うための仮面の一つがその訛りだった。それが景清は何より嫌いだった。武門としての誇りを捨てた平家の面汚しだと思っていた。重盛は、武士ではない。そして平家を担って立つべき存在ではない。やはり平清盛をおいて他に、平家の世を創る者はいないのだと、景清は強く思った。転生していないかの将たる御方が、と。
「へぇ、耳が早いな。お前が源氏と通じてるって話、本当だったんだ?引くわ〜。敵と仲良く出来る気が知れないわ。気持ち悪、お前忘れられるの?家族が、一族が、源氏に殺された事、今まで何度も大切な者を奪って来た義平の事、本当に許せるの?」
決して忘れはしない。海底に沈みながら思ったあの虚無感を、無力感を、絶望感を、決して忘れないと誓ったのだ。勝利するまでは。そのために転生を繰り返しているのだと信じて疑わなかった。神は、仏は、何度でも、景清がいつか勝利する時のために何度でもチャンスを与えるのだと、信じていたのだった。
「何年前の話しとるん?」
「何年前とかそういう問題じゃねぇだろ!俺達には時間なんか何の意味もないだろ!」
「せやな。せやから、どうにかせなあかんて思とるんやで。俺も。けど景清はアレやな、邪魔やな。お前を手放した事、今更ながら後悔しとるわ。ほんま目障りやわ。こんなことなら縛って閉じ込めとけば良かったな。」
「はぁ?じゃあ、どうするってい…。」
景清が言いかけた時に、重盛が『波形』を揺らした。ゆらり、と同時に刀を抜き、殆ど音も無く振り抜いた。静寂に包まれた路地に、鈍い音がした。景清の頭部が胴体から離れ、夜道に倒れていた。
「ほんま耳障りやわ。もう黙っとき。」
重盛が穏やかさの中に冷酷さを秘めた口調で言ったが、景清は既に聞いていなかった。
翌朝には重盛から義平に、景清の首が送られた。
「これで幕ってか?」
義平は景清の首を見ながら怒りを抑えきれない声で言った。
「重盛の奴どういうつもりだよ!トカゲの尻尾切ったんじゃねぇだろうな!」
貴也は押し殺した声で義平を諌めた。
「謀反者の首として差し出された。単独的な凶行で平家は預かり知らなかった。その上で見つけ出し処分した。正当な対応だし、これ以上どうする事もできない。これで幕引きにするしかないだろうな。」
重盛の迅速な対応は非の打ち所が無かった。本当に平家として関与していないのか確かめたくても、景清の首がこうして届いた以上は糾弾のしようも無い。
「何が正当な対応だよ!こいつは転生組だ!殺すなんて無意味だろ、殺しちまったらまたどっかで生まれて来て、同じ事の繰り返しだろ!捕まえて、二度と馬鹿な真似出来ないようにズタズタにしてやるべきだったろ!二度と生まれて来たくないと思わせながら死なせてやらなきゃならなかったのに!」
繰り返される転生の輪の中で、景清を殺した所で本質的な復讐になどなるはずがない。殺しても、また生まれてくる。何の呵責もなく再び戦を求めて暗躍し始めるに決まっている。これが本当に正しい処分であるはずがないのは明白だった。けれど、首がある以上はその気持ちを飲み込んで事を治めるしかない。重盛が打った手段は政治的なかけ引きなのだ。事を荒げないための、これに乗って一旦の幕引きとしなければ、弁天の望みは果たされない。
誰もが不完全燃焼だった。
それでも、最善の終わりだった。
少なくともこれ以上誰も戦わず、誰も死なない。
それは弁天が最も望む事のはずだった。聞かなくとも分かる弁天の想いが、義平を何とか押し留めた。
空は相変わらず晴れていて、雲は山際で雷を貯め込んでもくもくと膨らんでいた。青と白のはっきりとしたコントラストが、暑いのに爽やかな印象を与えていて矛盾していると感じた。まるで、優しいのに厳しい弁天のようだと、春家は思った。
思えば、弁天の優しさは一貫して誰かのためを思うが故に厳しかった。春家に対しては常に「しっかりしなさい。」と叱咤し続け、甘えを許さなかった。弁天自身、己れを律し続け甘えや怠けを見せた事は無かった。背筋の伸びた立ち姿は、一本筋の通った弁天らしい美しいそれで、いつも隣でその気配を感じている事が春家にとって何よりも当然でかけがえのないものだった。
祥子が慈しんだ弁天の優しさは強くしなやかで、春家は口にする事はなかったが心から尊敬していた。春家にない情熱を湛え常にモチベーションを失わない意志の強さを、本当に頼もしく思っていたし、信じて疑わなかった。
ずっと、くだらない事を言いながら歩みを共にする相棒だと思ってきたのに、こんな形で失うことになるなどと、いつ想像したろうか。もしかしたら地下迷宮で二人一緒に死ぬ事になるかも知れないなとは思っていたが、それより早く弁天が逝くとは、冗談でさえ考えた事もなかった。
春家の手の中に残った十字架は、弁天の意志そのものだった。祥子から貰った勇気、そして秘めた愛、弁天の強さの根源。
春家は弁天の遺言を果たさなければならなかった。
祥子に会いに行かなくては。
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