20 間者の事
夏風が吹いて、新緑の色を見ると、再びこの厳しい季節がやってくるのだと感じることが出来る。夏が。
『龍の爪』・鎌倉七口となってもう一年が経とうとしている。兼虎はそんな感慨を禁じえなかった。今まで何ひとつ上手くいかず、逃げて逃げて、行けるところまで逃げて、そして抗って、目に見えない色んなモノと戦ってきた。けれどようやく自身の生きる場所を得ることが出来た。周囲からかわれた医療系術者としての腕を利用して、鎌倉の小さな古民家を改装して、地龍専用の診療所を作ったのだった。自身の仕事があるので常駐出来ないが、それでも自分のやりたい事をできたのは初めてだった。施設をつくるにあたって、仲間達はよく手伝ってくれたがその中でも親身になってくれたのが、弁天と能通だった。志を同じくする、斬る事より守る事を重んじる仲間達だった。
「そう言えば能殿、結婚したとか。おめでとう。」
兼虎が改まって言うと、能通は帽子を取って頭を下げた。
「ええ、ありがとうございます。」
「しかし随分と水くさいではないか。一言言って頂ければ御祝に駆け付けたというのに。誰にも言わなかったのか?」
「ええ。妻が再婚故、形式的な事は略そうと父が言って。私も特にこだわりはなかったので。」
「再婚?」
「ええ。前の御主人は作戦で亡くなったとか。和田家の御息女だという事で、父が無理矢理頼みこまれたらしく。私は三男故、適当に片付けられたらしいです。」
苦笑いする能通だが、嫌々の政略結婚ではないらしく穏やかな『波形』をしていた。
「三男とは言え、今や一番出世しているのは能殿ではないか。」
「不思議な事に。虎さんも、こうしてご自身の医療施設まで持つようになられたではありませんか。」
「俺は斬るより治す方が向いているのだ。本当に人生何が起こるか分からんな。」
兼虎が窓の外の夏空を見ると、溜息をついた。
今鎌倉で一番注目されているのは、那須与一直嗣だった。原因は東京で起こっていた亡霊騒ぎや暴走兵騒ぎで、使用された催眠術の材料となる草と同じ物を直嗣が所持していたことから、出所やその他様々な事を事情聴取されたのだが、結局は不明だった。直嗣は草の出所を人から貰ったと言ったが、その相手の事を一切覚えていなかったため、すべて嘘で直嗣自身が間者ではないかと疑われているのだった。
結局は証拠不十分でそのまま解放されたが、周囲の直嗣を見る目は完全に懐疑のそれだ。今は針の筵と言った状態だ。仲間内でも直嗣の正体についてはそれぞれに思うところあるらしく、全員で信じる・守る、と言うよりは見守る状況に近かった。
「なぁ、能殿は直殿をどう思う?本当に間者だと思うか?」
「あんな弱気な間者がいるとは思いません。そもそもあれが芝居だったとしたらアッパレですよ。あの要領の悪さや歯切れの悪さ、覚悟の甘さや優柔不断さ、あれが芝居のはずがありません。私は直を信じます。」
「そうか…。」
兼虎は判断が付かなかった。何が本当なのか。何が本当なのかという事より、自分が何を信じるのかという事が重要だということは分かっていたが、どうしても決められなかった。直嗣のあの誰も信じないという伏し目がちな態度を思い出す度に、その胸中には闇を感じざるを得なかったからだ。
「どちらにしても、何も起こらなければ良いが。」
真っ青に晴れ渡る空を見ていると、妙に胸騒ぎがした。
季節が移ったことで、真夜中の東京はもうすっかり夏の気配を漂わせていた。
遅くまで起きていた恭が、物音に気付いた。洗面所の電気が付いていたので扉の隙間から覗き込むと、晋がうがいをしていた。
「大丈夫か?」
「ん。平気。」
恭の声に驚いた晋が、鏡ごしに答えた。
あれから晋は亡霊との接触を禁じられ、仕事量も減らされた。
亡霊が矢集裕だと発覚した以上、その息子である晋を警戒するのは当然で、幽閉するという処分が下っても不思議ではなかった。貴也が接触禁止・追跡禁止などの命令を出した事は、過分な温情だと言われていた。
晋はその分恭に付き合って調べ物や、大学や、義将との簡単な特訓など、やることはあったが、それらが晋の頭の中から亡霊や瞳の呪縛を忘れさせる効果は無かった。
そして深夜に悪夢や重圧に苛まれるようになった。
「眠れないなら付き合え。」
恭が晋にビールの缶を渡すと、晋は自嘲的に言った。
「吐いた後に?すげ回りそう。」
二人でベランダで夜空を見ながら静寂の中ビールを飲んでいると、恭が口を開いた。
「恐いのか?」
晋は缶のふちを見つめて言った。
「地震・雷・火事・親父ってね。」
「父親が恐いのは世の常か。」
「正直、どうしたら良いのか分かんないんだよね。このまま、誰かが親父を殺してくれるのを待ってればいいのかな。でも誰にも出来なかったら?それで、また会うことがあったら?俺はどうするんだろう。」
「俺は、一発くらい殴りたいけどな。いろんな意味で。」
「はは、さすが恭。俺は…どっちにしろ敵う気がしないや。」
「晋。」
恭が晋の横顔を見ていた。あれから少し痩せた頬に、力が入ったのが分かった。歯をくいしばってから、ようやく振り絞る声が震えていた。
「…強かったんだよ。俺じゃあ到底敵わない。だから余計にどうしたらいいか分からないんだよ。」
矢集裕はかつて鬼神とまで言われた程に強かった。その戦闘能力だけでなく、一瞬の判断力、そしてその冷酷さは比類なき武士だった。地龍の武士であの強さを知るものは例外なく戦慄したという。時を経て、裕は衰え、晋は成長したのではないかと思っていた。けれど、未だ壁は高く手を伸ばしても届く気すらしなかった。
「お前にしては愚かな事で悩んでいるな。」
恭の言葉に、晋がようやく恭を見た。恭はやわらかく微笑み、諭すように言った。
「今敵わないのなら、敵うようになればいい。俺達はずっとそうやってきただろ。」
「…そっか。」
どうしたらいいか不明。けれど何かしなければ。堂々めぐりの焦燥をぶつける先は、もっと強くなることだった。
翌日から二人が本気の特訓を始めた事は言うまでもない。
地龍本家の一室にて地図を広げ、頭を突き合わせていると、学生時代に戻ったような感覚になる。貴也の部屋に集まって宿題を片付けるあの賑やかでわくわくした充実の毎日。弁天は、夏は特に何か面白い事が始まる期待感が高まって、無性にテンションが上がったものだ。そんな事を考えていると、隣で地図を見ていたはずの春家が言った。
「亡霊の正体が矢集のおっさんだったとはな。」
「晋の心中を思うといたたまれませんね。」
「大丈夫だろ、晋には恭がいる。」
「ええ、そうですが、晋に接触して以来亡霊は消息を絶ってしまいました。その事がまた変な噂の元となっています。」
亡霊が矢集裕だということ、そして生死問わず捕まえること、全国各地の地龍武士に回った伝令は多くを震撼させた。鬼神とまで言われ恐れられてきた矢集裕が生きているという事実は恐怖を生みだすには十分すぎるニュースだった。それが息子晋と会ってから姿を消した。何か企んでいるのではないか、もしかすると晋も仲間なのか。多くの憶測が飛び交っていた。
「そんなもん放っとけよ。どっちにしても俺達に出来ることなんてないんだ。弁天は色んなものに同情しすぎだ。そんなんじゃ目玉二つじゃ足んねぇんじゃねぇか?」
「春みたいに割り切れませんよ。それに私はこの生き方を選んだんです。」
「へぇへぇ。御立派なこって。」
「それより、私の心配をしてくれるのでしたら、御自分の事をもっとしっかりしてください。」
「俺の?十分しっかりやってるよね?俺。」
「ききましたよ。また、さやかさんが出て行かれたと。」
「またその話か。さやが出てくのは出ていきたいからだろ。放っとけよ。」
北条さやかは春家の妻だった。春家は北条家嫡男として家の決めた人と十八歳の時に結婚した。それがさやかだった。
「その原因を作っているのは春でしょう。一体何度同じことを繰り返すんですか。今回は子供たちも連れて行ってしまったと聞きましたよ。そんな事ばかりしていると、その内に子供たちに「おじちゃん誰?」って言われますよ。」
自由で柔軟な発想力と行動力を持ち周囲に左右されず自身を曲げない春家に対し、さやかは伝統や風習を重んじる正に武家の妻という強さを持った女性だった。故に二人はしばしば衝突していた。その事が北条家を悩ませ、弁天にSOSが来るのは珍しいことではなかった。
「何だよ俺ばっかり、弁天はどうなんだよ。もう三十歳手前だってのに未婚の嫡男なんて安達家はどうなんだよ?」
「私は弟の息子を跡取りにすると明言しています。」
春家は耳を疑った。
「は?初耳だけど。」
「はい。初めて言いました。だから私は結婚するつもりはありません。」
重大な事だった。安達家がよく了承したと思ったが、いつもソフトな物言いの弁天の断言がどういう意味なのかを考えれば想像に難くなかった。春家は、弁天が一度決めたら梃子でも動かない頑固者だということはよく理解していた。きっと、この強固な態度で言い含めたのだろう。
「祥子の事が忘れられないから、一生独り身でいるつもりなのかよ?」
「そうです。こんな私では相手に失礼ですから。」
それ程までに祥子を想っていながら、一生その気持ちを伝えるつもりがないのだから、春家にとっては意味不明だった。
「何だよそれ。…弁天が女だったら俺が嫁さんにもらうのになぁ。」
「は?やめてください。私は一生春の面倒見るなんて御免ですよ。」
「あ、ひっでぇ。それでも親友かよ。」
「親友ですよ。」
弁天が微笑むと、春家はちぇっと唇を突き出した。結局弁天には敵わないのだ。昔から。
二人は幼い頃から一緒だったが、その性質は大きく違っていた。
春家は北条家の嫡男として当然のように周囲から期待されていた。だが春家の先天的な才能は周囲の期待をはるかに凌駕していた。その上春家は恐ろしく器用だった。何をやらせても人より上、周囲が妬むその才能を持ちながら本人は特に何事にも執着する事がなく、さらりとした淡白な人間だった。器用貧乏とはよく言ったもので、優秀であるが故に心から打ち込めるものが無かったのだ。それは春家にとってとても寂しいことだった。その孤独を溶かしたのは、他でもない弁天の優しさだった。親友と呼べる唯一の存在である弁天が、春家の隣でずっと微笑んでいた。春家の記憶のどこを掘り起こしても隣に弁天がいたのだ。これを腐れ縁と呼ぶのは簡単だったが、二人はお互いを親友とあえて呼んでいた。子供じみた関係の分類が、何となく自分たちらしいような気がして、口にする度に笑えた。
「春、直の事、私は信じます。だから、」
「分かってるって。信じろって言うんだろ。俺は直の事を信じる事は出来ない。だから、お前を信じるよ。」
「ありがとうございます。…ついでに私を信じてさやかさんと仲直りして貰えませんか?」
「さやの事だけは弁天フィルター通しても無理だから。」
弁天が溜息をついて再び地図を見た。
亡霊が消えてから一か月以上が経つ。どこに消えたのか捜索は今も続いている。その中で最も可能性が高いとされているのは、地下迷宮だった。出てきた場所に帰ったのではないか…もしそうなら手出しは出来ない。何があるのか解らない敵のアジトに不用意に踏み込むことは死を意味するからだ。
弁天の指が国会議事堂で止まった。
「結局は地下迷宮、ですか。」
「命がけの戦いになるな…。」
誰も生きて出られない魔窟。義平があれだけ執着していることから考えても最強の部隊を編成するはずだ。『龍の爪』を動かすと考えるのが妥当だろう。弁天と春家は、これから挑む正体不明の洞穴が自身の死に場所にならないよう願うばかりだった。
「お前の存在はバレてへんのやろ?景清。」
男が話かけたのは、直嗣と公園で話していたあの青年だった。平悪七兵衛景清、転生組の中でも危険な男だった。壇の浦で消息を絶ってから、死体が上がらなかった事から、源氏に報復する歌舞伎まで生まれてしまったドラマチックな男。今は転生を繰り返しながら、戦の世を望んでいる。重盛が治める平家では満足出来ないらしく、長老会に取り入り戦の火種を作るのに何度も命をかけてきた。景清の目的は戦そのものだ。もう一度あの戦乱の中で狂喜乱舞すること、アドレナリン全開で敵を殺し続けること、死の上にこそ得るべき名声がある、景清は壇の浦の海で沈みゆく己が人生に見出したのだ。戦うことこそが自身の存在意義なのだと。
「もちろんです。例の催眠術によって俺の存在は記憶から消してありますので。奴等直嗣を疑っております。」
催眠術を使って直嗣に取り入り情報を聞き出すことは、赤子の手を捻るより容易なことだった。直嗣のように、精神が出来上がっていない子供を意のままにすることなど、むしろ退屈な仕事と言えた。
「で、その直嗣から情報は得られたんか?」
「肝心の新田祥子の居所は義平以外には知る者がいないらしく、未だ不明です。ですが、他のことなら色々と。この情報を使って奴等を内部分裂させ殺し合せるってのはどうです?あの澄ました顔した地龍の犬どもを一網打尽にする千載一遇のチャンスですよ。上手くすれば戦を引き起こせるかも知れません。」
景清が意地悪く口角を上げると、男は眉を上げて嘆息した。
「ホンマ性格悪いな。何回生れ変わってもお前の執念深さは治らんかったんやな。転生システムにもその力は無かったんやな。」
「それ褒め言葉ですよね?」
「おめでたい性格やな。ま、ええわ。好きにし。その代わりヘマしたら助けんよって自分で責任とりや。」
「分かってますって。じゃ、俺は可愛い直嗣くんの所へ行って来ます。」
景清は黒い布を被ると、刀を携えた。
背は小さいが、遠くから見れば亡霊とよく似ていた。
「流行に乗って。」
意気揚揚と出かけて行く景清の後姿を見ながら、男は瞑目した。
「亡霊が鎌倉にいる?」
貴也は思わず大きな声で訊き返した。
「鎌倉の警備の者に目撃されてるらしい。どうする?」
義平が膝をついて言った。姿勢こそ貴也に跪いているが、その口調は今すぐに出動命令を出せと迫っているものだった。
「『龍の爪』を。矢集裕相手に雑兵をいくら集めても無駄だろう。」
「今すぐに用意する。」
義平が立ち上がろうとすると、貴也が制止した。
「待て。義平、大丈夫なんだろうな?」
「何が?」
「『爪』だ。まとまってるのか?直の事もある。今はバラバラなんじゃないか?戦えるんだろうな?」
直嗣の参入による不和が解消されないままで、間者騒動が起こってしまった。元々完成度の低かった『龍の爪』の戦力は到底まとまるはずがなかった。貴也はこの緊急時に対応しきれるのか、義平を睨むように見た。
「何を馬鹿な事を。お前の『龍の爪』は地下迷宮を攻略するために結成した。そうだろ?亡霊は地下迷宮への最大のキーマンだぞ?これを逃して何になる?目的に比べれば瑣末な事だろ。」
『龍の爪』を若く戦力に伸びしろのある者、そして反骨心の強い者をと選んで来た最大の理由は地下迷宮という巨悪に立ち向かうに見合う精神力と戦闘能力を持ち得る者が必要だったからだ。地下迷宮は謎が多い。長い目で見る必要もあった。そのための布陣だった。
「それは義平の目的だろ。」
義平は貴也の視線を自身のそれで返し、空中でぶつかり合った。
「そうだ。だが、貴也の目的でもある。転生システムが破壊出来れば、これ以上の龍脈の消耗は抑えられる。種の発芽を遅らせる事が出来るはずだろ。」
龍脈を原動力としている転生システムをどうにかする事は貴也にとって大きな目的の一つだ。義平と利害が一致している部分。そして重盛とも。
「…分かった。とにかく油断するなよ。こんな所で失うために集めた戦力じゃない。」
貴也が仕方なく言うと、義平は深く一礼して場を後にした。
「いいか、油断するな。亡霊は強い。」
貴也が全員を見渡すと、完全武装した『龍の爪』が真剣な目で貴也を見ていた。新田祥子を除いた全員が、源氏本家の庭に並んでいた。
「目撃証言から行くと、亡霊は現在北鎌倉方面へ移動したと思われる。全員で囲む作戦で行く。春と弁天、虎と能、宗と静、親と直、そして俺。それぞれのルートから亡霊を追いつめろ。行くぞ。」
義平の命令で全員が散った。
「結局、親と直がペアですか…。」
弁天は走りながら呟いた。
「戦闘スタイルから行くとそうならざるを得ない。仕方ないだろ。」
春家が刀の柄を握り締めて言った。声は完全に強張っていた。他人を心配している場合ではない。弁天も気持ちを引き締めて柄を握った。掌の汗が否応なく自分は緊張しているのだと教えた。
山道を走りながら、兼虎が大声で言った。
「能殿、何故このタイミングで亡霊が鎌倉へ来たと思う?そもそも俺達は長い間鎌倉の警備体勢を強化してきた。それを、こんなにあっさりと。それだけ強いと言う事なのか?それとも何か意味があるのか?」
能通は足に拳銃、腰に日本刀を携えた和洋折衷の装備で宙を蹴るように軽やかに走る。
「弁天殿が以前言っていました。これだけ警備を強化している以上外からの動きは陽動で、本当は既に鎌倉に入っているかも知れないと。もし本当に亡霊が鎌倉内にいるならば、先見の者が出入り口を用意したのかも知れないですね。」
「先見の…間者か。もし直殿が本当に間者ならば俺達の動きは亡霊に筒抜けということになるな。」
「隊長の采配だ。俺達はそれに委ねる他ない。」
能通が兼虎の懐疑に釘を刺すように言うと、兼虎は言葉を飲み込んで走り続けた。
「つまり、どうしろって事?」
線路に沿って走る静は珍しく露出の少ない洋装だった。タイトなズボンにも装備が多く、それだけ危険な戦闘を想定していることを伺わせた。宗季もいつもの厚い縁の眼鏡をゴーグル型のよりスポーティなものに変えて臨んでいた。
「どうする事も出来ない。ただ、最悪のケースを想定しておくだけだ。」
「直が裏切った場合の対処?」
「ああ。迷うなって事だな。もし直が亡霊を手引きしていたとして、否、そうでなくても何かに関わっているのは間違いないだろうな。」
「どうして?」
「以前に直と会っていた男を、知っている。」
宗季が以前、直嗣と青年が話している所を見ていた。その時に相手の青年に見覚えがあったがどうしても思い出せなかった。けれど、ようやく思い出したのだ。今、このタイミングで、霹靂が落ちるように閃いた。
「もっと早く思い出しておくべきだった。」
心底後悔している声だった。もっと早ければ、直を奴の手に落とすこともなかった。警戒方法も違っていたし、今回の作戦内容も違っていたかも知れなかった。
「そいつが、直に草を渡したって事?じゃあ直は嘘をついてないってことよね?宗はそれなのに間者だと思うの?」
「平悪七兵衛景清。あれは危険な男だ。もし直が自分の意志で関与していなかったとしても、何らかの形で利用されているはず。無関係である事はあるまい。」
「なら助けなきゃ…。」
「静、既にこれは戦だ。裏切り者は死ぬしかない。」
自称合理主義者の宗季が、今後に遺恨を残す処分をするはずがなかった。静は初めて宗季が平家からの派遣で来た武士であることを実感した。静や他のメンバーの誰とも違う統制の元で動く、完璧な忠誠の武士であると、宗季のその冷静な眼差しが物語っていた。
山を下れば北鎌倉に入る。分散したペアの中で、実親と直嗣が一番乗りで目的地に着きそうだった。鎌倉という自然の要塞のような場所は、ホームグラウンドとは言え戦闘に向くステージだとは言えなかった。敵は隠れる場所や罠を張る場所が多くあり、逃げながらの戦闘には好条件だ。取り囲む、確かにその方法しか無いかも知れないと思いながら実親は横を見た。無言で走る直嗣はいつものジャージ姿に弓を背負い、腰に短刀を二つ下げ、腿のホルスターに小さな銃が納まっているのが覗いていた。完全武装か、いつの間にか作戦に向かう横顔も、少年の危うさから男の精悍さを帯びて来ているような気がした。
「直。」
「はい?」
直嗣が見ると、親は長すぎる前髪の下の猫のようなつり目を向けていた。
「…何でもない。」
実親は高圧的な態度で大きく見せていた身長は実際は女性のように小さく、その軽い体で素早い身のこなしをする。努力で勝ち上がって来たと自負しているようだが、実際は才能溢れる人だ。頭の回転が速く、戦闘センスが光る。判断の早さが他の追随を許さない才能だった。直嗣は実親の戦闘速度について行くのが限界で、他の事を考える余裕などない。常に先を読み、消極的で警戒心の強い実親らしく悪いケースに備えて動く。直嗣は見習うべき所が多かった。言葉の棘の奥にいる実親は、尊敬すべ人だった。
「僕の事、疑ってます?」
「…いや。」
歯切れの悪い実親の態度は珍しかった。嘘やお世辞のない真っ向から殴りかかってくるような態度しか見たことのなかった直嗣は、実親の真意を慮る事は出来なかった。
気不味い空気が流れていた。
直嗣の世話を外されてから、二人で仕事をした事は無かった。犬と猿だという事は自他ともに認めざるを得ない状態。
何かが違えば関係を改善できるかも知れない、そして何かが違えば一触即発になりかねない。そんな細い糸の上に立っている危うい空気が流れていた。
実親は少しスピードを上げた。
その時だった。
刹那、閃光の如き矢が実親の顔面鼻先すれすれを走って行った。加速と同時に射られた矢を、軽い体でぎりぎり交わすと、顔の真横の木に矢が刺さっていた。深く、しっかりと。この矢が当たっていれば、間違いなく即死だったろうという事は一目瞭然だ。実親は息を飲み、振り返ると、直嗣が追い付いて来る所だった。
実親は、木に刺さった矢を見て、それから直嗣の背から見える矢を注視した。
間違う事無き同じ矢。
「直…何で?」
実親は眉を寄せ刀を抜いた。
「親さん?どうしたんですか?」
後退る直嗣に、実親は叫んだ。
「とぼけるな!今俺に向かって射たろ!」
実親が木に刺さった矢を指さすと、直嗣は息を呑んだ。
「や、やってません、そんな事、僕が仲間に矢を射る訳がないじゃないですか。」
「仲間?直の仲間は俺達じゃないんだろ!」
実親が直嗣に刀を向けた。直嗣は仕方なく弓を手にしたが、その目は木に刺さった矢を見ていた。
「待って下さい、それは僕の矢です。でも、僕が射たものではありません。その矢の向きから言って、それはあっちの方から…。」
直嗣が言いながら左後ろを振り返ると、木の影に人影が見えた。実親が人影を捕えようと走り出すより早く、直嗣の矢が追いかけた。矢は人影を掠めるように木に刺さった。
「誰だ!」
人影はゆっくりと顔を上げた。
黒い布が矢に引っ掛かって取れ、人影の隠れていた頭部が露わになると、そこには直嗣のよく知る顔があった。
「あ〜あ、ばれちゃった。直嗣ってば、馬鹿なくせに弓の腕は本物なんだよね。」
「…君…そうだ、君。どうして今まで忘れていたんだろう。どうして…。」
公園のベンチで幾度となく語り合った青年の顔だった。直嗣の心を理解し、多くの言葉を受け止めてくれた、友。
「君は『昼』の人だろ。」
青年がにやりと笑った。
「俺が?馬鹿言うなよ。俺は地龍の武士だよ。もう千年以上も前からね。」
少し長い髪を後ろで一つに縛って、実親とは言わないまでも小柄な体、いつもの青年だった。しかしその口から出たのは知らない言葉。おかしい。直嗣は弓を構えたままで叫んだ。
「僕を騙してたのか!」
匂い袋を渡したのはこの青年だった。そしてその袋に入っていたのは、亡霊と同じ匂いの催眠術用の危険なものだった。その所為で直嗣は疑われている。それはすべて目の前にいるこの青年の所為だった。ずっと、嘘をついて利用していたのだ。利用されていた。
「騙される方が悪いよね。」
青年の声で直嗣の手が震えた。その手に、被せるように実親が手を乗せた。
「直、落ち付け、あれは平景清だ。」
直嗣は実親を横目で見た。
「へぇ、親ちゃんてば俺の事知ってたんだ?」
「有名人だからな。戦争屋、そう呼ばれてたよな?戦を起こす事にかけては一流なんだったか?」
実親が言うと、景清は弾けたように笑いだした。
「いいねいいね、盛りあがって来たよ。そうだよ、俺は平悪七兵衛景清。こんな平和で退屈な世界をぶっ壊すためだけに幾度となく転生を繰り返す者だ。なぁ、君たち憎しみ合ってたろ?きっかけを作ってやったんだから、早く殺し合ってくれよ。ははは…。」
「ふざけるな!」
直嗣の放った矢を、景清が小首を傾げるようにかわすと、ニヒルな笑みを残して走って行ってしまった。
直嗣は実親の手を振り払い追いかけた。
実親はそれを少し遅れて追いかけた。
直嗣の背は燃えていた。怒り。あれ程に虐めても直嗣の怒りを見たことは無かった。実親は離れていく直嗣を見失わないように走った。全力で走っているのに間に合わない程に早い。怒りを原動力にしているにしろ、これだけの力を秘めていたとは。実親は感心しつつ、多いに後悔した。この才能を押し潰していた事を。
直嗣の背を視界に捕え続けながら、実親は仲間達に連絡をした。
背中を流れる冷たい汗が、夏だというのに体を冷やしていく感覚がした。
「嫌な予感がする、とにかく早く来てくれ!」
実親の懇願するような声は、蒼穹に吸い込まれて消えてしまった。
空には飛行機雲が横切って、青いキャンバスを汚していた。
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