19 五月雨の事
五月も後半になり、晋も成人を迎えてしばらくたった頃だった。
依然として暴走する武士に翻弄され真夜中の街を駆け回る日々は続いており、『夜』や揺らぎの討伐と合わせ警戒態勢を緩める訳にいかない状態だった。
そんな中で部隊に所属していない謂わばフリーランス状態の晋は自分の役割をこなすと、一人で執拗なまでに亡霊探しを続けていた。
それもこれも全てあの亡霊の目を見てしまったからだ。夢の中で、そして冬の路地で、魅入られたように探さずにはいられなかった。瞳の人生を拘束している呪いのような存在であり、晋の足元に忍び寄る闇のようなその正体に、迫らずにはいられなかったのだ。
「知さん、今いいですか?」
「晋ちゃん。どうしたの?」
処理班に指示を出す知将に、晋はそっと何かを差し出した。
「これ、調べて貰えませんか?」
「何これ、ポプリ?あら変わった香り。」
四月に鎌倉で直嗣から分けて貰った草だった。あのあとすぐに調べてみたが、晋の調査能力では限界だった。そして仕方なく知将に相談することにしたのだった。恭以外で最も信頼できる知将に。
「それが何なのか知りたいんです。」
「…っこれが何の草かって事?いいけど、何で?」
訝しげに草を見る知将に、晋はしばらく隠していた秘密を明かした。
「それと同じ匂いが、亡霊からしたんです。あと、暴れてる武士たちからも。」
「っちょっと!亡霊に会ったの?」
「…会ったって言うか。逃がしちゃったんで。」
もっと問い詰められて怒られると思っていたのだが、知将は言葉を飲み込んだ。
「…分かったわ。調べてみる。」
晋は肩透かしをくらったような微妙な気持ちがした。
知将と別れて暫くはビルの上から夜が明けるのを眺めていたが、朝食に遅刻すると知将に悪いので帰路についた。
晋は人通りの少ない時間に歩く時は決まって道場の前を選んで歩いた。
塀越しに瞳を想う。
あの細長い四肢。控え目な所作。温かいお茶。想うだけで熱くなった。
「晋くん?」
一瞬空耳かもしくは妄想の産物かと思われた声は、二度目でようやく晋に届いた。
「晋くん。」
「瞳さん…なんで。こんな時間に。」
まだ夜も明けきらない時間に瞳と道で会うなんて。
「目が覚めちゃって。散歩よ。久し振りね、すっかり来てくれなくなっちゃったんだもの。寂しいわ。」
寂しい。耳に残る都合の良いワードが、どこまでも単純に晋を高揚させる。
「いや、忙しくて。それに正月の時、迷惑かけちゃったんで。気不味いし。」
「そんなこと気にしなくていいのよ。経将も随分成長したって話だから、感謝こそすれ迷惑なんて思ってないわよ。だからそんな事言わないで、いらっしゃいな。」
微笑む瞳の知将に似た眼差しがどうしようもなく晋の心をくすぐった。
「…また、お茶淹れてくれますか?」
「もちろん。」
「じゃあ、行こうかな。俺、瞳さんの淹れるお茶、好きなんで。」
細い肩に、どれだけ触れたいという衝動に駆られたろう。
「だったら道場じゃなくてウチに来て。お茶くらい何時でも淹れてあげるわ。」
「瞳さんの家に…?」
瞳の家は和田家の離れで、実質一人暮らしだ。そこへ行くということは、二人きりということだ。意識しすぎだ。晋は冷静になれと念じた。瞳は年上で、成人したとは言え瞳にとっては晋は子供でしかないのだ。だから平気で家になど誘えるのだ。他意は無い。解っている。けれど…
「きいているわ。亡霊を追いかけているんでしょう?…私のため…?」
掴んだら簡単に折れてしまいそうな細い首を傾げる瞳に、晋の脳は沸騰するかと思った。
元夫の敵である亡霊を、晋が必死になって追いかけていると聞いて自分のためかと訊くなど、最早晋の気持ちを分かっていると言っているようなものだ。それとも、それほどまでに『良い子』だとでも思っているとでも言うのだろうか。猛獣と呼ばれる晋を。
「だって言ったら…?」
本当では無かった。しかし嘘でも無かった。
亡霊を探すのは瞳のためではない。けれど一〇〇%否定も出来ない。頭のどこかにはあったのだ、亡霊を倒せば瞳は気持ちに区切りが付けられるのではないかと。そうすれば、もしかすれば…と。
瞳は晋を見つめた。
どれくらいそうして見つめ合っていただろうか。一瞬のようでもあり、一時間程そうしていたようにも思えた。晋は息をするのも忘れて瞳を見つめていた。すると瞳が微笑みながら身をひるがえした。
「待ってるわ。」
言って門の中へ消えて行ってしまった。
待っている。お茶を飲みに来るのを待っているのだろうか。それとも、亡霊を殺し敵を取ってくれるのを待っているという意味だろうか。
晋はしばらくの間その場で脳が作り出す瞳の残像を眺めていた。
ある晩、晋はビルの上から街全体の地龍の動きを見ていると、部隊の中から離れていく妙な人影を見つけた。不審に思い、ビルを渡りながら様子を見た。
何となく緊張し、それが高まるような気がした。
ビルの影から見ていると、そこでは亡霊が何かを渡している所だった。
亡霊の暗い姿は夢の中と同じ不吉を纏ったような闇色をしていて、あの夜と同じ刀身の長い刀を携えていた。
晋は亡霊を見つけた瞬間に総毛立つのを感じた。逃げたい、と、襲いかかりたい、が同時にこみ上げて来た。相反する恐怖への対処が呼吸を乱した。深呼吸をして気配を消した。
少し近付くとそれは強烈な匂いを放っていた。今までの比較にならない程の、あの匂い。ぼんやりとした日向の匂い。晋は吸い込まないように場所を変えた。
少し高い所から覗き込んでいると、その匂いの充満した場所へ次々と武士たちが現れ、そして目から光を失って行った。そのまま亡霊は興味をなくしたように、また役割を終えたようにその場から立ち去ろうとした。
曇天の下で晋は刃霞を抜いた。鈍く映し出す殺意が美しい。
そして晋は意を決して飛び降りた。前宙しながら着地点を亡霊の頭上に定めると、刀の切っ先を直下に据えた。
キイ――ンっと高い音がして、晋は弾き飛ばされた。土を削りながら踏みとどまり、亡霊を見た。黒くて長い刀身を手に、不意打ちを狙ったというのに全く動じる様子が無かった。黒い布を纏ったその長身は、夜に溶け込むように得体が知れない不気味さを放っていた。
亡霊が空を斬ると、鋭利な斬撃が晋に向かって来た。目に見えないそれをまるで目視しているかのようにかわすとそのまま亡霊にむかって走った。晋が刀を振り上げると、後方で呻き声がした。晋がかわした斬撃で匂いに酔っていた武士たちが負傷したようだった。晋が一瞬気を取られた隙に亡霊の刀が振りかかり、ぎりぎりで受けたが思っていたより強く重いそれに押された。
このまま押され負ければ間違いなく殺される、何とか足に力を入れると、何故か負傷した武士達がふらふらと攻撃をしかけようとしてきた。晋は迫ってくる武士の足を片足で払うと、押された力を少し右に逸らせ、バランスを失って倒れてくる武士を斬らせた。その隙に後方へ距離を取り、その場にいた武士達を斬った。余裕は完全にない。手加減も調整も何も考えていられない。急所を確実に狙って殺し亡霊の次の攻撃に構えなければ、一瞬で終わる。
ぎりぎりの攻防だった。
今までで一番の、崖っぷちかも知れないと思ったが、余計な事に脳細胞を使っていられなかった。
亡霊は特に急いだ様子もないのに、その静かな足取りで踏み込むと、目を見張る程の高速で迫ってきた。
すれすれで受け流すと、反撃に顔面を狙って刀を振り抜いた。簡単に避けられてしまったが、その風圧によって亡霊の纏っていた布が舞いあがった。
その動きに合わせて晋が刀を逆手に持ち変え襲いかかると、亡霊も同様に刀を逆手に持ち変え晋の刃霞を受けた。
刃同士がぶつかり合い、『波形』同士が触れスパークして火花が散った。
亡霊の目と、晋の目が、至近距離で互いをはっきりと映した。
晋は自身の目の中に映った亡霊の顔を捕え、一瞬頭が真白になった。
「…な…。」
「重盛様、追跡班より連絡がありました。」
「やはり亡霊の正体は矢集裕やったんか。」
「はい。出現地域の監視カメラの映像から、間違いないと思われます。」
矢集裕は矢集晋の父親で、約十年前、丁度先代地龍当主が死亡した時期を同じくして消息不明となっていた。
当主を殺す、その行為で最も疑われるのは矢集家だった。代々当主殺しと言われてきた家故にだ。しかし先代当主殺害の最大の容疑者であった矢集裕は、危険な任務に向かったまま生死不明で消息を絶ち、一般的には死んだと言われていた。
「生きていたとなると、間違いなくこじれるで。」
「一番怪しかった矢集裕が消息不明だったために、先代当主を手にかけたものは不明とされて来ましたからね。それが生きていたとなれば、間違いなく犯人ということになりましょう。」
「まぁ、初めから解っとったんよ。先代を殺したんが矢集裕や言うことは。でなければ貴也が当主になる訳がないんやから。」
「は。それは一体どういう意味で…。」
「こっちの話や。けど、これで公になるな。当主殺しの矢集家、か。なぁ、貴也。」
重盛がパソコンの画面に向かって言うと、押し黙っていた貴也が画面の向こう側から口を開いた。
「生きていたなら何故今更。」
「地下迷宮から出てきた、んやったな。亡霊は。そこでずっと息を潜めていたんやろ。あそこは誰も入れん。いや、出れん。の間違いやったか。」
重盛が言うと、別のディスプレイから舌打ちが聞こえた。
「おい、それは俺に対する厭味か?前世で地下迷宮で死んだ俺に対する、挑発か?」
「義平が弱いなんて言うてへんよ。昔から闘犬みたいな奴やったさかい、どうせ何も考えんと突っ込んだんやろとは思てるけどな。」
「おい!重盛てめぇ!」
画面ごしに一触即発状態になっている二人に、貴也が言った。
「実は、件の暴走している武士も亡霊も催眠状態にあるんじゃないかっていう話があってな。」
「何なんそれ。根拠は?」
「これだ。」
貴也が画面にある植物を映した。
「草か?」
「麻薬か何かなん?」
「ああ、近いな。依存性のある、催眠作用のある匂いを発してる。こいつの匂いがするらしい。」
「その武士達と、亡霊から?そいつの匂いがすんのか?」
「そんな報告はなかったで?」
「晋が調べて来たらしい。東京から内密に報告があった。」
「矢集の…。」
「とにかく、この草は呪術用。普通に使っても何の作用もない。」
「そんなもん聴いたことねぇぞ。」
「古い方法だ。知識的にも、技術的にも、ただ者じゃない。おそらくは…。」
「転生組。」
「つまり、転生組の誰かが、地下迷宮で矢集裕を薬漬けにして飼い慣らして世に放った。そんで武士達を取りこんで兵力増強してるってことだ?」
「もし本当に地下迷宮に転生システムの拠点があるんなら、すべては繋がっていることになるんかも知れんな。」
「俺達が相手にしてるのは、本当に長老会なんだろうか。」
貴也のつぶやきに二人は沈黙しか返すことが出来なかった。
「父さん。」
晋は殆ど無意識で口にしていた。こぼれた言葉を把握するまでに少しかかった。晋が呆然として亡霊をその目に映していると、亡霊は刀を下ろした。
「何故、こんな所にいる。」
亡霊は擦れた声だった。こんな声だったろうか。
晋は何を言えば良いのか解らないままで口を開いた。
死んだはずの父親
死んでいなければならない存在
死んでいてくれとどれだけ願ったか知れない存在
先代地龍当主が死に、どれだけ貴也や恭が苦しんだか、そして容疑者の息子である晋がどんな想いであの兄弟と過ごして来たか。父の無実だけを祈って、信じて、可能性を否定して、自分を誤魔化して、何とかやってきたのに。
何故、今、目の前にいるのか。
晋は気が狂いそうだった。いっそ狂ってしまえばどれだけ楽だろうか、と思った。
「お前はお前のやるべきことをやれ。」
脊髄を電撃が走った。
間違いなく父・裕だと確信した。
「なんで、いきてんだよ。」
何も考えられなかったが、口から勝手に出てきた言葉は生気がなかった。顎が震えるのを止められなかった。それ以上の言葉を紡ぐことは出来なかった。
晋はかつて見た悪夢の男をはっきりと思い出した。
内容を。
亡霊が人を斬り続け、晋を見つめる。じっと見ている内に気がつく。その亡霊は、晋自身なんだと。殺人者の虚のような目が、晋の全てを飲み込んで、やがて全てを躯に変えてしまう。絶望を形にしたような夢。
裕が、恭の父親を殺し、瞳の夫を殺しそして、…何もかもを殺し、そして―――
やるべきことをやれ
晋が恭を殺す。
「晋。」
亡霊が口にする名、記号、晋を呼ぶ音、恐怖がせり上がってきて、自身の必死な呼吸が耳を占めて、何も聞こえない。聞きたくない。晋はもうすべてやめて欲しかった。
「お前はお前のやるべきことをやれ。」
亡霊は脳に直接語りかけるようにはっきりと伝えた。
そして立ち尽くす晋を残して、闇に溶けるように姿を消してしまった。
曇天から叩きつけるように雨が降り出した。
瞳が道場の手伝いを終え、夜も更けて離れへ戻ると、シンとした空気の中で、人の気配を感じた。玄関を開けると、そこには晋が立っていた。
びしょ濡れの姿で、滴る水を拭うこともせず、瞳の正面に立った。
「知ってたんですね。亡霊の正体を。」
瞳の顔を見るなり早口で言った。瞳は晋を見上げた。晋の顔は蝋人形のように生気がなかった。
「会ったのね。」
肯定だった。
「初めから全部解ってたんですね。」
初めから、何もかも、上手くいくはずがなかった。
「そうね。」
「俺は瞳さんの旦那さんを殺した亡霊の息子だって、最初から解ってて俺に会ったんですか。」
「そうね。」
矢集である晋が、手にすることなど出来ないものだった。
「それなのに俺は何も知らずに…俺は…。」
瞳は晋の頬を伝う涙に触れた。
晋が顔を上げると、瞳と目が合った。
互いの目の中に互いの顔がはっきりと見えた。晋は瞳の目に吸い込まれるように近づき、奪い取るように口付をした。唇を離し、瞳の顔を見ると、もう一度唇を重ね、そのまま強引に瞳を押し倒すと細い腕を抑えつけた。闇に光る瞳の目が晋をまっすぐに見ていた。自棄のように首筋に噛みつくように唇を這わせると、瞳は細い腕で晋の頭を優しく撫でた。
そして縺れるように一夜を共にした。
朝になり、障子が淡い白色になると、瞳はぼんやりとそれを見つめていた。
晋は瞳の痩せた背中を眺めていた。脊椎の凹凸がはっきりと見てとれる背のラインが、強く握れば折れてしまいそうな腕が、見ている内に切なくなる程痩せていて、それはきっと亡霊のせいだった。
父親の。
そしてその朝を最後に、瞳はいなくなった。
晋はそのまま知将の家に帰らなかった。
否、帰れなかった。
恭がその気になれば、晋の居場所などすぐに知れる。なるべく座標を読まれないように気配を消した。きっと、その事が返って状況の異常性を裏付けるだろうけれど、とにかく今は一人になりたかったし、恭にも知将にも合わせる顔がなかった。
ふらふらと歩き続けた。豪雨の中をひたすらに歩き続けた。行き先を見失い、帰る場所を失って、飼い犬が野良犬になって生きていけるのか考えていた。
亡霊を探さなければと思い歩を進めるが、以前のように我武者羅に走ることは出来ない。
亡霊を見つけてどうするのか。父親を、追いかけて。
何故生きている、何故殺した、何故姿を消した、何故、何故、何故、何故と問いつめるのか。それとも刀で語り合うのか。殺すのか、殺されるのか。それともいっそ父親と一緒に行くのか。
どうするのか。
やるべきことをやれ
幼い頃から何度も言われ続けた言葉が呪いのように晋を支配した。
どうすればいいのか分らなかった。やるべきことが何なのか、皆目見当もつかなかった。今の自分にやるべき事が本当にあるのか、出来る事が、あるとは思われなかった。愚かな自身に、流れる血のおぞましさに、心底愛想が尽きた。
「私、再婚することにしたの。」
瞳はそう言っていなくなった。
「さよなら。」
永遠に会う事はない。そう聞こえた。
最後に淹れてくれたお茶は、何の味もしなかった。
晋に全てを託したのだと思った。
そうする事で清算したのだと。
晋に何もかも託して、逃れられないように、放りだせないように、忘れられないように、拘束して、雁字搦めにするために、晋と寝たのだと思った。
瞳の代わりに亡霊を殺せと言っているのだと思った。
亡霊への報復。親子を殺し合せることが、それ自体が瞳の報復なのかも知れない。
残酷な仕打ち。けれど、父親が瞳にした事を思えば頷ける行為だった。つまりは、当然の報いだろうか。当然、晋が追うべきものだろうか。
やるべきことをやれ
「やるべきことって何だよ…。」
結局は矢集の血が邪魔をする。何もかも。いつでも。周りは矢集の末裔だというだけで白い目で見て、迫害され続けてきた。皆が矢集の名でしか晋を見ない。ただの晋を見ない。けれど実際はどうだ。その家名を無視することは出来ない。晋自身でさえも出来ないのだ。
雨は止むことを知らず、晋の体を濡らし続けた。
「いい加減にしろ。」
気が付くと、頭上には傘があった。
「恭…。」
恭はいつもと同じ無表情で晋を見上げていた。勝手にいなくなった晋を怒る様子もなく、責める様子もなく、ただいつも通りの目をしていた。けれど足元を見ると泥がはね、水がしみて、ぐちゃぐちゃだった。どれだけ走り回ったのだろうか。
そもそも、どれだけの時がたっていたのだろうか。
恭は低い声で訊いた。
「何を探しているんだ。」
「…何も探してない。」
亡霊を探すことをやめたかった。けれど、止められない。
それは、瞳の与えた呪縛だ。そして晋の業。
「晋。」
恭の目はいつもの、何もかもを見通すような迷いのないそれで、晋の歪んだ感情を串刺しにするように鋭利だ。
「探してなんか無い!いない事を確かめたいんだ。だから探してなんかない!」
どうして死んでいてくれなかったのか。叫び出したかった。
「…おじさんの事か。」
恭の声は雨音をミュートにするようにはっきり聞こえた。
「知ってたの?」
「基将殿から聞いた。おじさんが生きてるかも知れないって。」
正月の挨拶の時だろうか。あんなに前から知っていたのか。晋は驚いた。けれど、瞳は初めから知っていたのだからおかしくはない。自分だけが何もしらず浮き沈みを繰り返していた。滑稽だと思った。
「俺…親父に…。」
「会ったのか?」
「ああ。だから…恭の父さんを殺したのは、俺の親父かも知れないってことだ。」
死んでいるということは犯人で無いという事で、生きていた以上、第一容疑者なのだ。それに矢集だ。当主殺しの家系が、当主を殺す。当然の事のように思われた。
「いや、親父なんだ。」
親友の父親を殺したのが自分の父親だとしたら、一体どうすればいいのか。晋は恭にどう謝罪すればいいのか分からなかった。ずっと自分を支えてくれた恭の大切なものを奪った人間の子供だなどと、恭はどう思うのか。考えるだけで恐かった。
「晋…まだ決まった訳じゃない。」
「いや、親父だよ。でなきゃ姿をくらましたりしない。」
「晋、落ち付け。」
「やっぱり矢集は呪われているんだ。俺は当主殺しの末裔なんだ。俺は恭と一緒にいるべきじゃなかったんだ。」
「晋!矢集のおじさんが父さんを殺していたとしても、驚く事じゃない。矢集は昔から地龍当主を殺してきた。そうだろ。それは可能性として受け入れている。だから今更晋が責任を感じたりしなくていい。」
「そんな訳にいくかよ!俺はどうやってお前に償えばいいんだ。今ここで俺を殺してくれ!でなきゃ牢獄送りにでもしてくれ。俺はもうお前に合わす顔がない。お前の言う通りにするから、どんな罰でも受けるから、言ってくれ!」
いっそ残酷な方法で殺してくれ。出来るだけ惨いやり方で苦しめてくれ。
叫び出したかった。
こんな、そもそも十年ぶりに会った父が息子を見て、大きくなったなとか、立派になったなとか、元気でやってたかとか、そういう感慨のひとつも無いなんて当たり前だけどどうかしている。どうかしている親の、子供なのだ。
晋は自身が亡霊の罪をそのまま背負っているような気がした。
罰を与えて欲しかった。贖えなくても、償わせて欲しいと。
「なら、側にいろ。」
恭の言葉が晋の絶望を揺らがせる。都合の良い幻聴はやめてくれと思った。
「俺…いつか恭を殺す…。」
あの夢のように、矢集の後継者として立つその時が来れば、きっとそうする。それが、父の言う晋のやるべきことなのだとしか思えなかった。
「まず、俺は当主じゃない。矢集が殺してきたのは当主だ。お前が殺すなら兄さんだろ。だけど今は離れてる。殺せない。」
説得するのはやめてくれ。
「…でも…」
「お前が恐いなら、俺はもう二度と兄さんに会わない。俺が兄さんに会わなければ、お前が兄さんに会う事はない。そうだろ?だから落ち付け。お前は当主殺しじゃない。」
恭が傘から手を離し、晋の胸倉を掴んだ。手が震えていた。
「…ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。俺、お前を困らせたかった訳じゃない。だから貴也さんと二度と会わないなんて言わないでくれ。唯一の肉親だろ。」
「いい。俺はお前を側に置くためなら何だってする。矢集のおじさんが父さんを殺していてもいなくてもだ。忘れるな。」
恭の目は本気で怒っていた。そんな恭を久し振りに見た気がした。
逃れられない。漠然と確信した。
父親からも、瞳の復讐からも、矢集の業からも、何もかも逃れることのできないものだ。けれどその最たる者が、恭なのだ。
恭はおそらく晋がどれだけ懇願しても晋を手放すことはないだろう。すべては晋が恭のものであるが故に、主の命無くして生きることすら適わないのだ。
絶対的な束縛、何よりも強い絆、恭が晋をあらゆる堕落から踏みとどまらせる。常に地獄から伸びる亡者の手に足を絡め取られ続けるような晋の心を繋ぎとめているのは恭だった。どんな晋でも良いのだ。恭は決して手放さない。
晋は過去のどんな時より強く、恭の存在を感じた。
「恭…。」
「ん…。」
「瞳さんの旦那さんを殺したのは亡霊なんだ。」
「…。」
叩きつけるような強い雨が二人の視界を阻み、砂嵐のような音が大切な言葉を掻き消しているようだった。
「瞳さんの事…好きだったんだ。…好きだったんだよ、俺。」
縋るように恭を見つめる晋の双眸から流れる涙を、雨が洗い流すように降り続けていた。
晋が湛えているのは闇を内包しながらも蒼く、燃えるように鮮烈な『波形』だった。
恭はその手を強く握った。
恭の父親が死んだ時に晋がしたように、ただ強く手を握っていた。
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