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2 蛙の事

蝉が鳴いていた。

暑い日差しを遮る美しい木々のどこかにとまっているらしい蝉が狂おしい程にけたたましい音をたてている。いつの間にか季節は夏を迎えようとしていた。鎌倉の亀ヶ(かめがやつ)切り通し(きりとおし)に差し掛かる坂道で、二人のすらりとした男性が空を見上げながら休んでいた。

 「昨日貴也から電話があってさぁ。恭にジジイのストーカーが付いてるから何とかしろって言うんだぜ?」

ぬるくなったペットボトルの水を飲み、北条(ほうじょう)春家(はるいえ)は言う。

天然パーマの細くて柔らかな髪を濃いブラウンに染め、ヴィンテージ物のジーンズにTシャツを着こなすいかにも現代風の外見は、ぱっと見どこにでもいる大学生という感じだ。ただ一点、ギターのストラップのような丈夫な紐で背中に背負っている刀だけは異様な空気を放っている。彼の顔立ちもその外観同様に、いかにも社交的な明るい顔立ちでくっきり二重の目は優しい眼差しをしているが、一点きれいに整えられた眉だけはどこか挑発的につりあがっている。

 春家はだるそうな動作で飲み終わったペットボトルのキャップを締めて左手でぶら下げた。

 「それはきっと長老会から来た当主の監視役のことでしょう。確か…小鳥遊(たかなし)殿とかいう…。どうも貴也より恭に夢中だという噂です。どういうことなんでしょうね。てっきり長老会からの刺客だと思いましたが、それとも油断を誘っているのでしょうか。どちらにしろ、恭には小鳥遊殿の気を引いていてもらった方が都合がいいように思えますが。…貴也はどこまでもブラコンですからね。恭を取られて面白くないのでしょう。」

安達(あだち)(どう)(げん)がいかにも利発そうに語る。そして春家のペットボトルを指さし「春、ゴミはちゃんと持ち帰って下さいね。」と釘をさす。

後ろで一つに束ねた長い黒髪はたまに吹く風に吹かれてさらさらと美しい。初夏の陽に反射して眩しく光る白いシャツは無地で新品同然にアイロンがかけられている。シャツの裾を股下の狭い細身のズボンに入れ、細い革のベルトで腰の刀を固定している。純和風の整った顔立ちをしていて、何かを憂うような悲しげな瞳は深い慈愛を感じずにはいられない。

 「それでいちいち俺に文句言うのはやめて欲しい。弁天からも何か言ってやってくれよ。」

『弁天』は道玄の綽名で、親しい者は皆そう呼ぶので返って本名の方が忘れがちだ。

 「それは春の役割ですよ。貴也を諫められるのは可愛い可愛い弟君の恭より他にありません。」

 「弁天、怒ってんの?」

 「春、ゴミは持ち返って下さい。」

 「ごめん。」

謝りながら春家はそうっと地面に置いたペットボトルを再び指先で拾い上げた。

 「私達もようやく鎌倉七口の守護に付き、今までのように好き勝手に暴れてはいられない立場になったのですから、もう少し自覚を持ったらどうです?」

 弁天は決して声を荒げるでもなく、ただ淡々と告げた。

 「でも七口の守護は源氏の役職だろ。結局は源氏当主である(よし)(ひら)の御膝元的な仕事じゃねぇか。いままで通り隊長の元で仕事するって事は、いままで通り暴れまくるって感じじゃねぇの?」

 「隊長は源氏当主だけでなく『龍の爪』をまとめる任を受けていらっしゃるのですよ?それで今まで通りの馬鹿騒ぎを続けていたらいい加減各方面から怒られます。春も隊長を慕うのであればもう少し考えてから動いてください。」

 二人は地龍当主貴也と源氏当主義平の同級生で幼馴染だ。昔から二人の下で仕えているが、この程ようやく誉ある部隊『鎌倉七口』への就任が決まった。『鎌倉七口』は源氏当主直轄の戦闘力地龍最高峰部隊で、地龍の武士の憧れだ。だが、二人にとっては昔から変わらぬ環境だった。

 「そんなもんかねぇ…。」

春家はつぶやきながら坂道の下の方を見やると、下校中の小学生が騒いでいる。子供はいいなぁなどとつい目を細めて観察していると、どうも子供たちが輪になって何かを見下ろしている。

 「弁天、あれ。」

春家が言うと弁天もそれを注視した。

子供たちの足元には、何かがいるようだ。それを囲んで踏む真似をしたりして遊んでいるようだ。そして誰かにそれを踏ませようと互いを押したりしてふざけあい、笑っていた。

 「いけませんね。あれは『昼』のものではありませんよ。」

弁天は憐れむように呟くと、子供たちの方へ歩き出した。

 『昼』とは地龍の言葉で、人や動物などの生き物が住む世界を指す。それと対照に『夜』と呼ばれる世界もあり、それは『昼』以外の幽霊や妖怪と呼ばれるようなものの世を指す。地龍とは『昼』と『夜』のバランスを整える役割を果たすものだ。その歴史は長く、平城とも平安とも言われる。それ故に長い歴史の中で多くの出来事があり、それを経て存在する組織故の複雑さも極めているのだが、基本は世界のバランスを保つこと、変わらない存在理由だ。

弁天が子供に警戒されぬよう普通の足取りを保ったままで近づく。

けれど、一人の子供がじゃれあっているはずみでとうとう本当にそれを踏みつぶしてしまった。春家は弁天より後から歩いていたが、それが踏まれた瞬間に駆け出し、同時に大きな声を出した。

 「おい!何やってんだ!」

子供たちが声に驚き振り返ると、帯刀した二人の青年がいるので怪訝な顔になった。子供たちの訝しげな表情を気にもとめずに春家はずかずかと子供たちの目の前まで歩いてきた。

 「踏んだらだめだろ!」

少年達が春家の言葉に、踏んだそれを見下ろすと・・・そこには何もなかった。

 「え?」

 「あれ?」

子供達は足元周辺を慌てて見回したが、跡形もない。

 逃げたんだろうか

 否、そんなはずはない。

踏んだ子供が、自分の運動靴の裏を一応確認しようと足を上げた。ちょうどその時弁天が少年達の元へ辿り着いた。

 「君達、何故それを踏んだのですか?」

少年の靴底にそれがへばりついていた。少年は弁天に言われてから見たが、首をかしげた。

 「それって何だよ?」

子供たちは口ぐちに言った。どうやらそれが見えていないようだ。

 「なぁ、お前らが、さっき踏んだのって、何だったの?」

春家が押さえた口調で訊いた。

 「え…蛙…弱って死にそうな蛙だよ。」

 「は?俺は蜘蛛だと…」

 「何言ってんだよ、カマキリのたまごだろ。」

 「何でカマキリのたまごが道路にあんだよ、蛙だって。踏んだ俺が言ってんだから間違いねぇよ。」

 「踏んでないじゃんか。何処行ったんだよ、逃げたんだろ。」

 「…たまご、は逃げないよな。」

 「たまごじゃねぇって言ってるだろ。」

春家の問いを火種に子供たちが興奮して言い合いを始めた。

 「弁天、これって」

 「おそらく、それぞれが興味をもつものに見えるのでしょうね。」

 「けど、あの踏んだ子の靴の裏・・・何か妙な気配すんだけど。もう見えてないみたいよ?」

 「…とにかく、離しましょう。いいものではないと思います。」

弁天が少年の肩に触れ話しかけた

 「あの、足の裏を見せていただけませんか?」

少年は突然弁天の手を振りほどき、警戒するように後ずさった。

 「怪しいもんじゃねぇよ。ちょっと今踏んだもんを見せてくれれば良いだけだよ。」

春家がフォローしようと近づくが、伸ばした手を再び少年が払おうとした。その手同士が触れた刹那、沸騰したヤカンに触れたような熱に驚いて春家は手を引いた。

 「あつっっ!」

 「春?」

春家がひるんだ隙に少年が走って行ってしまい、それを追いかけて他の子供たちも去ってしまった。

 「あ〜・・ごめん。油断?した。」

 「だから自覚がないと言っているのです。」

変わらず声を荒げずに淡々と言う弁天は、言いながら春家の手をとり患部を見る。指先に煤のような黒ずみがある。

 「火傷ではなさそうですね。どちらかと言うと呪詛?」

 「威嚇して噛みついただけだろ。」

弁天から手を引き抜き、患部に軽く息を吹きかけると煤のようなものが剥がれ空気中に飛散し消えた。

 「つまり、既にあの少年に憑依したと?」

 「でなきゃあの少年は天性の呪術師ってことになるけど?」

春家の言葉に眉を寄せながら弁天は道路に落ちている紙のようなものを拾った。それは、てのひら程の四角いビニールのケースに入れられた名札だった。

 3ねん2くみ さとうたくま 

 「分かりました。では明日もう一度様子を見に行きましょう。」


 小学校の下校時刻はまだ日も高く、張り込みをするには熱中症に注意しなくてはならないような陽気だった。春家と弁天は校門の見える校庭のフェンスの外側に立ち、なるべく木影になるような場所で待つことにした。

 「さとうたくま、さとうたくま、さとうたくま・・・」

昨日の少年の顔を思い出すようにつぶやく春家の視線に、何となく弁天もつられてしまう。

一見変質者だな、と弁天が冷静に自身の姿を分析した時、道路から聴きなれた声がした。

 「何をやっているんですか?お二人とも。」

清潔な学生服にきれいに整えられた髪がいかにも品行方正さを感じさせる、(きょう)が立っていた。

 「恭、恭こそ何故ここに?」

 「普通に下校ですけど。」

春家と弁天は顔を見合わせた

 「そう言えば、恭って学生だったんだよな」

 「お二人が俺をどう認識なさっておいでか若干気になりますけど、少なくともお二人の方が周囲にどう思われているのか気になさった方がよいかと。」

 「すみません。恭はいつも冷静なので、つい大人のような気がしていました。」

 「俺達、今張り込み中。」

春家は拾った名札を恭に示しながら説明した。

 「なるほど。それは気になりますね。きっと何か憑依しながら生きながらえる質のものでしょうね。」

 「ええ。力自体はそう強くないのだと思います。ただ、頭がよいのではないかと。」

 「こぉら、標的を褒めるな弁天。ずる賢いのは生存本能だろぉが。」

眉を寄せて咎める春家に、弁天は微笑で返す。

 「そうですね。まぁ、まだどう対処するのかは決めていないのですが。」

 「ですね。それが我々の標的たる世のバランスを崩すような危険性のあるものとは限らないですからね。解りました。兄・貴也には俺から報告しておきます。お二人はこのまま調査を続けて下さい。くれぐれもお気をつけて。」

 「悪いな。恭」

 「いいえ。兄は貴方方を信頼していますから。対応はお任せします。けれど事後報告は忘れないで下さいね。」

 「分かりました。よろしくお願いします。」

弁天の言葉と同時に春家がきょろきょろと道を見渡したので、恭は怪訝な顔をした。

 「いや、恭にジジィのストーカーがついてるからどうにかしろって貴也が言うもんだから、どんなストーカーかと思って。」

春家の言葉に恭は辟易とした表情で溜息をついた。

 「小鳥遊殿のことですか。今日はいないです。昨日晋(すすむ)が揉めて牢に入れられたんですが、どうもそっちに興味を持ってしまったらしく、牢の前で晋とにらめっこしてるとか・・・。」

 「ますます謎ですね、その方の目的が。」

 「しかし矢集(やつめ)の野郎まぁた暴れてんのか。さすが矢集の血。当主殺しの異名は伊達じゃなさそうだなぁ。」

 「ちょっ、春っ」

 「あ…あの恭、その、悪気があった訳じゃないんだ、その」

 「いいんです。矢集は代々当主を手にかけてきた呪われた当主殺しの血筋。解っています。晋も、解っているからこそああして反抗するのでしょう。でも俺にとっては晋は晋です。大事な友人、それだけです。」

 「分かってる。悪かった。」


去っていく恭の背中を見つめながら、弁天は咎めるように言った。

 「無神軽ですよ。晋は恭にとって唯一無二の友。晋を側に置くことにどれだけ粉骨砕身していると思っているのです。」

 「分かってるって。悪気はないんだよ。でも事実じゃねぇか、矢集は当主を殺してきた家系、貴也の側にいることがどれだけ驚異かってことは誰でも考えるだろ。だから風あたりも強いんだから。大人しくしときゃいいのに毎度暴れて牢に入れられる矢集の単細胞には呆れるよ。だから獣なんて言われるんだ。本当に恭が大切なら身の振り方に気をつけるべきだろ。」

 「春にそこまでものを考える能力があったとは驚きました。」

 「あん?」

 「さ、それだけしっかり考えられるなら、こちらの件もしっかり考えてください。」

言いながら弁天は春家を視線の先へ促す。校庭から校門へ歩いてくる子供たちの中の一点を。

そこにはランドセルを背負った少年が2人で歩いている。昨日見た少年だと一目で分かったが、さとうたくまはいない。様子を気にしながら弁天が2人の少年の前へ歩き出すと、少年達がすぐに気が付き立ち止まった。明らかな警戒だ。春家がいかにも胡散臭い笑顔を作り近づくと、少年達は一・二歩後退りしてから春家を見た。

 「昨日はどうも。」

 「…あの、お兄さんたち何者なんですか?」

 「子供が知らなくてもいい人達だよ。いや?大人も知らなくていいのか。」

自身の言葉に首をかしげながら訂正する春家を放置して弁天が前で出て屈み、少年達と目線を合わせる。

 「昨日の子、さとうたくまくんは一緒ではないのですか?」

少年達は狼狽して黙ったが、しばらく待つと意を決したように話し始めた

 「たくまは、昨日のあの後から様子がおかしくて、今日は一度も話してない。何を話しかけても無視するんだよ。」

 「変なんだ。変な所ばっかり見てるんだよ。」

 「変な所とはどのような場所でしょうか?」

 「理科室の棚の影とか、焼却炉の脇とか、体育館倉庫の中とか、トイレとか、何か変な所で立ち止まって、じっと見てるんだ。気味が悪いよ。」

 「普段はそんなことしない子なのですか?」

 「しない。たくまは恐がりだし、おしゃべりなんだ。いつもは理科室も焼却炉も避けて通るし、俺達が黙ってたって一人で喋ってるんだ。なのに…やっぱり昨日踏んだやつのせいなの?」

少年が不安に満ちた目で弁天を見つめると、弁天は溜息をついた

 「たくまくんは今どうしているのですか?」

 「まだ学校だよ。帰ろうって言っても無視してて…先に帰って来たんだ。ねぇたくま大丈夫だよね?」

春家は弁天の襟を掴んで無理に立たせてから校舎の方へ歩き出した。大切な問いをその場に落としたままで少年達は困ったように二人の後姿を見ていた。


校舎の中は思っていたより薄暗く、障子越しに見る蝋燭の灯りのようなぼんやりとした赤い光が漂っているようだ。

 「友を心配するのは当然ではありませんか」

 「だが『夜』に干渉するのは危険だろ。相手が何者なのか、さとうたくまがどうなってるのか、何も分からないのに大丈夫だなんて気休め言うつもりじゃねぇよな。」

 「それは、そうですが。出来れば助けたいとは思いますよ。」

春家の冷静な判断に不満はないが、弁天の表情は不服のそれだ。

 「なぁ、さとうたくまに憑いてるやつって、何だと思う?」

 「おそらく、憑依型の『夜』ではないでしょうか?」

 「憑依型?取りついて、どうすんの?」

 「どうって、宿主を持たねば生きていけないモノです。生きるために、宿主を探し、興味を持ってもらい接触して取り付く。一般的に憑依型と呼ばれているモノは、宿主に気付かれず取りつき、徐々に侵略し遂には宿主自身となる。器たる宿主が朽ちれば、また次の宿主を探す。その繰り返しです。」

 「じゃあ、さとうたくまは宿主に選ばれたってこと?それにしたって、憑依した瞬間に自我を乗っ取ったって感じだっただろ。今日だって別人みたいだったって話じゃねぇか。」

 「ですね。一般的なソレより強いのかも知れません。学校自体の空気が淀んでいるのも、ソレの影響かも知れませんね。」

 薄暗い廊下を歩きながら、二人はさとうたくまの教室を探す。光の射さない廊下の隅や、窓から見える教室の影に厭な空気が溜っている。歩けば歩くほどにその空気は重さを増していく。

 「近づいてるな。昨日のヤツの気配だ。」

春家は言うと、クラスも確かめずに教室の扉を開けた。まるで当たり前のように、最初から知っていたように堂々と開け、迷いなく警戒すらないかのような不遜な態度で教室の中へ歩みを進めていく。

 「弁天、さとうたくま自身の人格ってのはどうなったんだと思う?」

軽い、昨夜のテレビ番組の話でもするかのような言い方で問う。

すると静かに後を付いてきた弁天がいつもの清らかな口調で返した。

 「たくまくんとソレの憑依の深さにもよると思うのですが、普通はまだ本人の自我が残っていて、十分ソレを追い出せるような状態であるはずです。」

教室の真ん中に何かがいる。

禍々しい空気を纏い、学校中の淀みが磁石のように吸い寄せられているかのように空気の渦の中心となる何か。

 「だが、今回は例外かも知れない。もしさとうたくまとソレが既に切り離せない状態だったらどうする?」

ソレが春家の接近に警戒するように少し震える。

 「それはたくまくんごと斬る、しかないですね。」

 「ふーん。それは実に単純明快で、一番楽な方法だな。」

春家は眼光を光らせ舌舐めずりをした。

ソレは目まぐるしい速度で弾かれたように移動し、教室の黒板に背を付けた体勢で二人を睨んだ。教室の窓から最後の夕日が差し込みソレを照らすと、恐怖に震える少年の顔が露わになった。

 『斬るのか?』

少年の口から明らかに少年自身の声でない何かが発せられたが、二人は気付かないのか会話を続ける。

 「だが馬鹿だよなぁ。いくらなんでもこんな無力な子供に憑くなんてよぉ。」

 「そうですよね。宿主がただの人間の子供では、こうして地龍の術者に狙われていても、戦うことも出来ずただ黙って斬られるしかないのですから。」

 「もっと強い奴に憑依すればよかったのにな。」

 「そうですね。それこそ術者とか。」

少年の顔に明らかな動揺が広がり、黒板にくっつけたままの背中が硬直してしまったように動かない。

 『本当に斬るのか?おまえたちは人間だろう?人間が人間を斬るのか?』

春家が刀を振り上げた。

 「やめて!!」

 『やめろ!』

少年とソレの声が同時に響いたと思うと、少年を取り巻いていた邪気が嘘のように消えた。

その直後、春家の双肩から膨大な黒い空気が霧散し、先程の少年の比ではない瘴気を纏い始めた。

 『ふはは。やった、やったぞ。術者の体だ。これで俺は強くなった。』

春家の口から発するソレの意志は、先程の不安げな様子がまるで芝居ででもあったかのように愉快気だ。

 「大丈夫ですか?さとうたくまくん。」

弁天は春家から離すように少年を抱き上げ気遣う。

 「大丈夫。俺、昨日はごめんなさい。何か分からないけど、全部覚えてるよ。」

 「君を操っていたいたモノは今は春の中にいます。君はもう大丈夫。逃げてください。」

 「でも、お兄さんは…」

 「我々はプロです。あなたが案ずることは何もありませんよ。さぁ。」

少年が教室を出ようとすると、扉は勢いよく閉ざされた。少年が驚き振り返るとソレは楽しそうに顔を歪めた。

 『逃がさないぜ。元宿主さま。色々知ってるあんたには死んでもらう。俺達みたいな憑依する妖には情報漏えいはご法度だからな。それに人質は多い方がいい。』

少年が金縛りにあったように動けないでいると、その周りに瘴気が集中し始め、少年の呼吸が荒くなっているようだった。

 「そういった悪い気は、普通の人間には毒となります。窒息死してしまうかも知れません。やめなさい。」

 『俺に命令できる立場か?おまえの仲間を俺の器にしたんだぜ。仲間を斬れるのか?それにこいつは術者だ。やりあったら死ぬのはお前の方かもな。』

奇声を上げるように笑うソレは、春家の刀を子供がおもちゃにはしゃぐ様に振り回す。

 「あなたは何か勘違いをなさっておいでのようですね。」

 『?』

 「まず、我々は地龍の武士です。」

 『だから何だ』

 「地龍は『昼』と『夜』のバランスを保つ事を目的としているものです。どちらの味方でもありません。よって、その少年の命に対し何の執着もありません。戦いの妨げとなるのであれば、あなたが手を下さずとも私が斬り捨てます。」

 『は?何言ってんだ。人間が人間を殺すのか?』

 「地龍は治外法権です。『昼』とも『夜』とも違う社会ですから。必要な人殺しなら罪にはならないのです。御存じありませんでしたか?」

 『なんだよそれ…』

 「そして、我々は幼きより心身を鍛え上げられた武士です。戦場で死ぬのは武士の本懐にして誉れ。春家もそう思っているはずです。」

冷静な口調は一切の戸惑いがなく、その語調に緊張の色さえ感じられない。弁天はゆるやかな動作で腰の刀を引き抜くと、ソレへ向かって切先を合わせた。

弁天が一歩前へ出た、と認識した時には既に春家の刀は数メートル先の床に刺さっており、弁天の刀の刃が春家の首元に触れていた。

 「あなたみたいな文献でしかお目にかかれない珍しいタイプに会えたのは、非常に嬉しかったのですが、思ったよりゲスな性格でいらっしゃったのは頂けませんでした。春はそんな下品に笑いませんから。」

ソレの目は弁天の光のない鋭利な鈍器のような昏い眼差しに射すくめられ、振るわれた刀に完全に真っ二つにされた。学校という閉鎖空間の歪んだ思念を集めて作った瘴気の大群が、夢から醒めるように消え、ソレも同時に空気と同化して消えていった。

そして刀を鞘に納める弁天の足元に、春家が力なく横たわった。


少年は恐怖で呼吸をするのを忘れていた。

少年の短い人生の中で感じたことのない程の恐怖。それが故に少年はそれが恐怖であることに気が付くのに時間がかかった。戦慄に肌が泡立つのを自覚し、ようやく息を吸い込んだ。少年が恐怖を自覚するまでの一瞬で、すべては終わっていた。弁天が春家を斬り、少年をのっとっていた何か悪いものが消えてなくなった事は、素人の少年の目にも明らかであった。

 「何で…。」

斬ったのか、仲間を。

少年はうまく言葉が出てこない。のどの奥から何か、恐怖そのもののような何かがせり上がって来るのを何とか抑え込んで、ようやく一言絞り出した。

 「人殺し。」

弁天が綺麗な髪をなびかせて振り返り、故意に温度を下げた口調で言う。

 「そうです。私達は人間の味方ではありません。」

 「僕を殺すの?」

恐怖が喉元まで込み上げる。

 「今回は貴方を殺す事無く事態を収拾することが出来ましたから、必要ありません。」

弁天の後方に横たわる春家の重い体が見える。死んだ人。死んだ人を初めて見た、少年は思った。器。自分はもしかしたら先ほど斬られて死んでいたかも知れない。一歩、何かがほんの少し違っていたら、死んでいた。考えてはいけない程近くに死の息づかいを感じる。

 「我々は『昼』と『夜』とのバランスを守る者です。貴方は自身の軽率な行動によって『夜』のモノに憑かれ、そしてソレは貴方の器を利用し学校を拠点に瘴気を集めていた。貴方が『夜』に踏み込んだがために、『夜』は『昼』を侵略した。バランスを乱す者を消す。それが地龍のやり方です。」

 「僕…」

 「知らなかったなどと言うつもりではありませんよね?」

 「し…」

 「貴方は知っていたはずです。ソレに憑かれる前からソレが普通ではないと感じていた。だからこそ魅力的だったのでしょう?」

確かにそうだった。蛙に見えるそれが、本当にただの蛙ならば興味をひかれたりはしなかった。何か、非日常的な何かだと、うっすら感じていた。だからこそ高揚し、だからこそ不用意に踏み込んだ。

 「もう解りましたよね。そういったものに踏み込むことの意味が。」

少年は震える全身で何とか頷いた。

 「では、今回は見逃して差し上げます。もう二度と『夜』には近付かないで下さい。そして、今回のことは他言無用ですよ。さとうたくまくん。」

少年は名前を呼ばれたことに驚き、再び呼吸を止めた。学校、学年、クラス、名前、顔、全てを知られている。急激にすべてを見透かされている気がした。人を殺して何とも思わないこの男とその組織に、自分は知られてしまったのだ。死が少年の真後ろで嗤った。

恐怖が口から飛び出しそうだ。

目の前に、弁天の差し出した名札があった。

 「さぁ、日が暮れます。早く帰りなさい。」

少年は名札を奪うように受け取ると、口から恐怖を吐きだしながら全速力で走った。薄暗い廊下に、少年の吐きだした恐怖が響いて一層恐くなった。

学校を出てから家に着くまでの記憶は殆どなかった。気が付くと、冷えた汗が背中に流れる感覚と顔面の筋肉が硬直して上手く喋れない状態で玄関に立っていた。親はいつも通り帰宅が遅く、翌日も見知った顔の友といつもの教室で鉛筆を走らせ、時間が経過していく毎に件の蛙は日常に退屈した自身の妄想ではないかと思えてきたが、時折感じる背後で嗤う自分と同じ顔をした死体の気配は、紛れもない真実の痛みとなって胸中を支配するのだ。

この世には、『昼』と『夜』とがあり、それを守る番人がいる。

少年はあれ以来、『夜』の気配に怯えながら生きているのだ。


 「ちょっとお灸をすえ過ぎたんじゃないか?弁天。」

校庭の茂みから二つの影がのぞく

 「そうでしょうか?幼少期の好奇心を甘く見ない方がいいと思います。あれでもまだ優しかった方だと思います。」

 「お〜こわ。弁天は優しいから時々恐いよなぁ。俺、作戦とは言え一瞬殺されるかと思ったぜ。」

 「春に言われたくありませんよ。春はあの時少年からソレが出て行かなければ、本当に少年を斬るつもりだったでしょう?」

 「そりゃそうでしょ。ま、弁天が助けたいっていうから、なるべく溜めて構えてみたのよ。おかげで少年ビビって自我を取り戻したんだから、俺も演技派だよねぇ。弁天が斬る瞬間にソレを俺の外へ追い出して、俺は斬られた芝居と死んだ芝居。なかなかいい仕事したよ。うんうん」

 「死体の春の顔は完全に笑ってましたよ。たまに変な顔をするので、いつ少年に気付かれるかと思いましたよ。完全にミスキャストでした。逆にするべきだったと思います。春の方がシビアですから。少年ももっと懲りたはずです。」

あの夜、あの教室へ辿り着く前に二人は作戦を立てていた。少年を斬ると脅し少年の自我に訴えかけることで、少年自らソレを追い出すことを試みる。追いだしたソレを誘導し、春家にとりつかせる。そこを弁天が斬る、斬る瞬間に春家がソレを追い出し弁天に斬らせる。もし少年が自力で追い出すことが出来れば、術者である春家が簡単に追い出す事が出来るという算段だ。一連の流れを少年に見せ恐怖を植え付けることで、今後同じようなモノに近付かないようにする。以上が二人の作戦だった訳だが、仮に少年からソレが出なければ少年を斬って一件落着。一番簡単な解決方法だ。今回はそうしなかったが、地龍の武士として育った彼らは、斬ることによって解決を見ることが主だ。

 「世の中には弁天の優しさが必要なのよ。俺じゃ少年が立ち直れなくなるかもよ?」

 「春は子供好きですから、それはないですよ。」

 「子供はしばらくいいって。無邪気の邪気にすっかり懲りたって。」

 「私は貴也に懲りましたけど。」

 「確かに…」

一件が片付き、二人は全ての報告をするために源氏の本家へと向かった。

源氏の当主義平は弁天・春家共に幼少の頃よりの旧知の仲であり、二人は少し前まで義平自身が組織する部隊のメンバーだった。その頃の名残もあり、二人は義平を隊長と呼んでいた。地龍当主が死に、その息子であった貴也が後を継いだことで、義平は自身の部隊を解散し、源氏当主と、地龍当主直轄の組織『龍の爪』のまとめ役としての職務に専念していた。二人は鎌倉を守護する『鎌倉七口』の一人としての新たな任を受け、それぞれに働いていた。その矢先の事件であったため、独断で動いた結果報告というものに多少の緊張はあったが、今回の夜が珍しい事案だったこともあり、二人の働きは褒められた。が、そこからが長かった。

ただ管をまくためだけに義平の元を訪れていた地龍当主貴也に、現在の弟恭について延々と聞かされ続けたあげく夜が明けたのだ。

 「あれは病気ですよ。貴也の弟に対する執着は、異常です。」

 「そりゃ昔からだろ。俺なんて毎日メールやら電話やらでひたすら恭の話だからな。」

 「そうでしたか?子供のころはもう少し分別があったように思われますが。」

 「子供の頃の方が分別があるってどうなの?まぁ、貴也も当主として色んな苦労があるんじゃねぇの?そのストレスの発散ってことにしておこうぜ。」

 「そうですね。隊長は毎日貴也と一緒にいるんですから、それを思えばまだ…。」

 「なぁ弁天。あの憑依型って何がしたかったんだ?」

 「そうですね、ソレの思念体に学校特有の子供達の負の空気が集められ次第に邪悪なモノへと進化していく。そこに同じようなモノが寄せられれば、小さくともれっきとした『夜』のコミュニティが出来上がります。自身の生きやすい環境を作りたかったのかも知れませんね。」

 「『昼』を侵す『夜』はバランスを崩している。」

 「ええ。だから斬ったのです。我々の仕事は『昼』と『夜』とのバランスを保つことですから。」

 「そうだな。」

言いながら二人は夏の生ぬるい風が吹き抜ける先を見た。

武士の刀は世のためにふるわれるべきもの。

平安の世より未だ続く戦のために振るう刀ではないはず。

胸のどこかで愚かな歴史を否定したが、戦こそ武士の宿命。源氏の挙兵となれば一も二もなく前線で人を殺す。理解はしていた。だからただひたすらに祈っているのだ、戦が起こらない事を。

弁天の首に小さな十字架が揺れた。蝉が鳴いていた。

 

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