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18 元服の事

 寒かった冬がようやく終わりを迎え、まるで世界が明るさを取り戻しつつあるようだった。学校や社会も新年度を迎え、あらゆる事の始まりに世間ごと浮足立つ。これから夏に向かって何か期待や興奮のようなものが高鳴る季節だ。

けれど恭は空気が、生ぬるい手で頬を撫でるような春の陽気があまり好きではなかった。馴れ馴れしい女のような、卑しい老婆のような、その纏わりつく手を振り払いたくて仕方ないのだ。恭は冬が好きだった。凛とした(しずか)のような、澄んでいて張り詰めた空気、他を寄せ付けない高貴さ。そんな冬の足音遠のく四月に、恭は生まれたのだ。

 四月になり、恭と晋が大学二年に進級したある日の事だった。

ずっと鎌倉入りを棄却し続けてきた貴也から、元服の儀式を行うため帰省するようにとの指令が出た。晋は、もうやらないのかと思っていたと肩をすくめたが、それは恭が一番思っていたことだった。そもそも元服の儀式など、この平成の世でどれだけの家がやっているだろうか。地龍は『昼』の社会とは違うルーツやルールがあり治外法権の裏社会だと言っても、時代は『昼』と共に流れて来たし、文化も『昼』と同じように進化してきた。というか、テレビも見るし携帯も家電もまったく『昼』と同じだ。行事や儀式の簡略化も進んでいる。その中で、いちいち鎌倉時代の武士のまま時を止めている家系はない。恭は、貴也は嫡男で地龍当主となる身なので儀式をしたが、恭自身はやることのないパフォーマンスのような気がしていた。けれど貴也が決めたことなので、大人しく従い、約一年ぶりに鎌倉の地を踏んだ。


 「そもそも元服の儀式って何すんの?」

 「さぁ?私が知る訳ないでしょう?」

歩きながら訊いた晋に、静はあっさりと答えた。知らないという答えを。

 「だいたい、元服って二十歳でやるもの?」

 「だって今の社会では二十歳が成人でしょ?一応地龍もそういう感じじゃない?ま、成人の区切りに意味を感じないけど。」

二人は鎌倉の細い道を歩きながら話した。

晋が恭に付いて鎌倉に戻ると、実は特にやることがなかった事が判明してしまった。しばらく忙殺されてきた分、少し休むのも有りだとは思ったが、止まると再びエンジンをかけるのが億劫になるような気がしてやめた。静の仕事に無理矢理付いて行こうとした所、丁度人員の欲しい現場があるというのでそちらに行くことにしたのだ。

 「酒や煙草、選挙とか、『昼』の世には色々大人を実感する要素があるけど、俺ら特に無いしね。あえて言うなら、初陣とか。あれが実質俺達の成人式?」

 「確かに、初仕事終えると、一人前の仲間入りって気になるわよね。」

晋は幼少期から前線に出ていたので、子供にして一人前の大人ということか?と思考を弄んでみた。

晋と静香は途中まで一緒に行こうと行って歩き出したまま、他愛の無い話をしていた。晋はふとある事を思い出した。

 「…ところで(しず)(ねえ)、恭にキスしたよね?あれってどういう事なの?」

 「なっ!どうして知ってるのよ!恭が話したの?」

静は解り易く狼狽した。

晋にとって不遜な態度をしている静がデフォルトだったので、少し意外だった。腕ききの術者である顔ではない、女のそれを見て、恭は案外脈有りなのだなと思った。

 「違うよ。野次馬の噂って奴。恭ってばモテるから。」

 「お、鬼の角を貰ったから、お礼よ。」

お礼と言えば、恭にとってはそれ以上でも以下でもなくなってしまうような気がした。晋は静に少し意地悪な気持ちになってからかった。

 「角なら俺も貰ったけど…恭にキスするべき?」

 「馬鹿じゃないの!本当に可愛くない!馬鹿馬鹿!」

静に背中を豪快に叩かれて、完治していない刀傷が痛んだ。

その傷が痛む度に瞳を思い出す。癒えぬよう、傷痕が残るよう、心のどこかで願う程に焦れる気持ちは、会わなければ会わない程にこじれる気がした。

言い終わると突然静が足を止めた。視線の先には(むね)(すえ)がいた。

 「静、晋と一緒にいたのか。や、久しぶり。」

 久しぶりに会う宗季は以前の型物感が薄まり、柔らかく微笑んだ。

 「どうもっす。宗さん何か雰囲気変わりました?」

 「馴染んだのよ。スパイのくせに緊張感ないんだから。」

 「おや、スパイは上手く潜入するものでは?それより晋こそ、背が伸びて何だか男らしくなったんじゃないか?晋がこれでは、恭殿はさぞ…」

宗季がにやにやして静を見ると、静が鬼の形相で宗季の背中を叩いた。

 「うるさい!さっさと行くわよ!」

静は肩を怒らせながら歩いて行ってしまい、宗季は仕方なく追いかけて行った。

 「じゃあね、晋。また。」

手を振る宗季に軽いお辞儀をしてから、少し歩き、建長寺(けんちょうじ)に辿り着くと、そこにはいつものジャージ姿の直嗣(なおつぐ)が待っていた。

 「すみません、直さん。待ちました?」

 「いや、待ってないよ。大丈夫。」

駆け寄る晋に弱気な笑顔で答える直嗣は、晋と目を合わせる事無く言った。

直嗣は晋と同じ年齢だが、この低姿勢のせいか随分若く見えた。

 「ありがとう。今日はその、虎さんと一緒の予定だったんだけど、ちょっと編成が変わって。僕一人になってたんだ。折角の帰省まで仕事で悪いけど、よろしくね。」

おどおどと話す直嗣の様子に、晋は少し対応に困る様子だったが意を決したように顎を引くと、笑顔を作った。『昼』の顔に近い、愛想の良い好青年の仮面を選んだのだった。

 「とんでもない。俺って仕事する以外何もないんで、呼んで貰えて嬉しかったです。そうだ、直さん大晦日の日見かけましたよ。ビルの屋上で弓引いてたでしょ?」

 「え?近くにいたの?」

 「ちょっと離れたとこで仕事してたんで、見えたんです。」

晋が弓をひくポーズをすると、直嗣は伏目がちに言った。

 「そっか。でもあの日は成果がなくて。あの日はって言うか、いつもなんだけど。僕落ちこぼれだから。だから同じ年なのに敬語とかやめてよ。身分や役職じゃなくて、矢集くんの方がずっと武士として格上なんだから。」

 「…謙虚なんすね。」

どう返答してよいか困ってしまった晋が何とか一言絞り出すと、直嗣は苦虫を噛み潰したような顔をした。

その時、突然誰かが晋を後ろから抱き締めた。

 「わっ!…春さん。」

いつのまにか現れた春家(はるいえ)は背後から晋の肩を抱き、耳元で低い声を出した。

 「よくも、よくも俺の(つね)ちゃまを。」

 「は?何ですか?」

 「正月開けてみれば、経ちゃまの様子がおかしいじゃないか!あんなにきゃんきゃんとじゃれついてきて可愛かった俺の経ちゃまが、すっかりしおらしくなっちゃって!お前が原因だということはもう解ってるんだぞ!吐け、この猛獣が!」

 「経ちゃまって誰ですか?」

晋は肩を抱く力が強まり、徐々に首を絞められている状況に変わってきたことに少し狼狽した。顔の真横で光る春家の目がやばかったからだ。

 「和田(わだ)経将(つねまさ)殿ですよ。晋が道場破りをして倒したのでしょう?」

春家の影からすっと顔を出した弁天が薄い笑みを浮かべて晋を見た。

 「え?あ、ああ、あの和田家の面汚し…ごほごほ。そうでした。あの人、化粧坂(けわいざか)の小隊に所属してるって言ってましたね。」

 「経ちゃまはウチのマスコット的な存在だったんだぞ!どう責任とってくれるんだ!」

 「あれのどこがマスコットなんですか!かわいげゼロじゃないっすか!暑苦しい顔に、うっとおしい声、しかもアイツ唾飛ばしながら喋ってたじゃないっすか!あんなのキモキャラですよ…あ。何でもないです。」

 「もう撤回は出来ない。」

春家の腕が完全に技を決めようとしていた。

 「かわいいだろ経ちゃま。あの馬鹿丸出しの所、無駄にプライドが高いくせに弱い所、その上駄犬のようによく吠える。駄目な子程可愛いって言うだろ。俺達は経ちゃまのあの馬鹿な所を全力で愛でてきたのに…お前と言う奴は。」

 「いや、それ可愛がってないヤツですよね?絶対遊んでますよね?残酷なヤツですよね?」

 「何言ってんだ。本人が喜んでるんだから、イジメじゃないよ?」

 「馬鹿だからだー!」

「痛い痛い、首、決まってる、春さん」と喚く晋を弁天が一言で止めを刺した。

 「しかし、あの名門和田道場を道場破りとは、晋の短気も行く所まで行きましたね。」

 「あ、死んだ。」

一通り晋をイジリ倒した二人は楽しそうにその場を去って行った。

 「あれ、俺をイジるためだけに来たのか。」

溜息をつき、絞められた首をさすりながら晋が姿勢を立て直すと、直嗣はぽつりと言った。

 「仲が良いんですね。」

 「まぁ、子供の時からの縁なんで、延長線上で可愛がってもらってます。」

晋をやけに恨めしそうな横目で見ながら、直嗣は歩き始めた。

 「しっかし、この警備?超退屈ですね。ただグルグル歩いてるだけじゃないっすか。」

 「何て事言うんだい。これも大切な仕事じゃないか。それに、何も起こらない方が良いに決まってる。」

言う直嗣の顔を眺めながら、晋はあくびをした。

お気楽。能天気。甘ちゃん。晋の思考は直嗣を温室育ちのボンボンだと捉えた。多少身分の高い武士の子供より、田舎の平の方が実は質悪いなと。しかし、こういう単調で変化の少ない仕事の積み重ねは必要不可欠だし、悪いことではないので、馬鹿にするのはすぐにやめた。

 「俺ってこういう仕事向いてないかもです。普段はもう手が付けらないとか、一触即発とか、他じゃ手に負えないとか、とにかく始めっからクライマックスな展開しかないんで、こういう何も起こらないかも知れないけど念のため、みたいなのは精神的に持たないって気がします。」

晋が再びあくびをすると、直嗣は振り向いた。

 「眠いの?」

 「いえ、大丈夫です。」

 「もしかして、眠れないとか?」

 「え?」

 「あ、やっぱり図星?実は僕もずっと眠れなかったんだけど、去年の夏に友達がこれをくれて、それから眠れるようになったんだ。」

直嗣はジャージのポケットから匂い袋を出した。

 「悪徳商法じゃないっすよね?」

 「やだな。違うよ。売りつけたりしないよ。嗅いでみて。」

晋が鼻を近づけると、いつか嗅いだ匂いがした。

ぼんやりとした日向の匂い。

 「あ、俺この匂い嫌いです。」

 「え?そう?凄い安らぐと思うんだけど。」

直嗣は首を傾げながら匂いを嗅いだ。

 「その匂い嗅ぐ度に、マッチ売りの少女みたいな気持になります。」

 「は?」

暖かい暖炉に美味しい御馳走に愛に溢れた家族、があるのは窓の中で、自分は吹きさらしの寒い道で外套も靴もない。かじかむ手で擦るマッチに映る理想は儚く消えて、マッチを擦る前より一層空しくなる。そんな気持ちになる匂いだった。

 「あの、でも良ければ少し分けて貰えませんか?その草。」

晋が好青年ぶった笑顔で言うと、直嗣は嬉しそうに袋の中身を少し譲ってくれた。

晋は過去何度も嗅いだその匂いの正体を探ろうとしていた。



 元服の儀式を終えた恭が、久々の完全和装姿で本家を歩くと、一気に時代が遡ったようなノスタルジーを漂わせた。鎌倉を一年離れていただけで随分と精悍な顔つきになった恭を、本家の面々は頼もしく思っていた。

 春の麗らかな陽気の中、静かに儀式は行われ、そしてその儀式があったという事実を全国に通達した。

 「兄さん、この儀式には何の意味があるんですか?」

恭は隣を歩く貴也を見た。恭より少しだけ高い目線の兄は、静が言う程に憔悴している様子はなく、それを確認できただけでも帰郷出来て良かったと思えた。

 「意味?そりゃ、両親を亡くして弟を育てたのは俺だろ。こうしてお前が立派に成人したんだぞって、天国の両親に見せるためだよ。」

兄弟は、早くに母を亡くし、そして約十年前に父を亡くしてから、兄弟二人寄り添って生きてきた。兄の恭への溺愛ぶりは両親を失ってから増し、恭はそれが兄の責任感の現れのような気もしていた。本当に純粋なブラコンのような気もしていた。

 「否定しずらい嘘をつくのやめて下さい。兄さんは父さんの墓前に立ったことも無いじゃないですか。白々しいですよ。」

父が死んだ時、貴也は碌な葬儀も出さず墓に参った事もない。恭はおかしいとは思っていた。母の時は手厚く葬り、墓前で手を合わせていたのに。けれど、地龍当主の死に際してはそれが常識だと言った。実際周囲もその事に口を出さなかったし、当然のように振舞っていた。恭は父がまともに弔われなかったのは何故なのか、ずっと疑問だった。

 「あそこに父さんはいないからだよ。父さんの魂はもう存在しない。あえて言うなら俺の中にあるのかもな。」

 「どういう意味ですか?」

魂は流転する。その記憶の蓄積はどうとしても、魂の流転は転生組が証明している。その魂が無いとはどういう意味なのか。

 「お前も大人の仲間入りだからな。少し難しい話をしようか。」

足を止めて恭を見据えるその目は、兄と言うより父のようだった。


 貴也がタクトを振るような軽い所作で転移したのは細い道だった。

春風が頬を撫でる不快を押し込め、恭は貴也の話に耳を傾けた。

 「この国は龍の体の上にある。龍は長い時を生きこの場所に根を下ろした。そこに人々や妖などが暮らし始めた。」

夏に教授が言っていた説だった。恭は奥州を思い出した。

 「龍には心臓が九つあり、その心臓を使い回しながら長い時を生きてきた。大昔、俺達の先祖は龍と契約し九つの心臓のひとつを貰った。その力で地龍という組織はつくられた。そして龍は代わりに卵を守るよう言った。」

 「はじまりの、契約ですか。」

恭にとって今分かっているのはここまでだった。当初知っていた事を少し具体的にしただけの、知識の進展のない事実。地龍の者ならば誰もが知っている神話。けれど、貴也は何故か意を決したように深く頷いた。

 「そうだ。そして俺達はその契約者の血筋だ。」

 「卵って何なんですか?本当にある…んですか?龍の卵が。」

 「龍の卵の正体は、新しい心臓だ。九つの心臓が機能し続けるためには、スペアが要る。寿命が尽きるものがあれば交換する必要があるだろ。」

卵から生まれるのは、当然新しい命だ。

けれど子ではなく、新しい、代わりの心臓。

 「寿命が尽きればどうなるんですか?」

 「心臓が止まれば、体は朽ちるだろうな。それが九分の一だとしても、綻びは生まれる。」

 「体…日本列島が…。」

 「沈むか、崩れるか、どうなるか分からないが、心臓を失えば間違いなく日本は消滅するだろうな。」

恭は俄かに信じ難かった。けれど龍脈には守護者がおり、厚い強固な結界を張り、長い時を守り抜いて来たこと、それを思えば合点が行く事実ではあった。

龍脈を失えば国は滅ぶ。

龍脈を手にすれば国を、国の運命を掌握することが出来る。

 「じゃあ、地龍当主は心臓を二つ持っているんですか?」

 「卵は完全じゃない。自らその時を待ち、勝手に生まれてくる。俺達はただ守るだけだ。」

言いながら貴也が指さしたのは、大きな石だった。

 「ここは源頼朝の墓?」

 「お前は奥州で知ったろ?鎌倉が龍脈のひとつだと。だが、鎌倉に龍脈のような大きな聖域があったか?お前が知る限りないはずだ。」

藤原(ふじわら)秀衡(ひでひら)が龍脈の場所だと言ったのは、平泉・東京・木曽・鎌倉・京都・福原・厳島・太宰府だった。鎌倉は龍脈の場所。けれど、確かに貴也が言う通り、恭の知る限りでは鎌倉に龍脈は存在しない。大学や、平泉を覆うようなあの大きなエネルギーの塊を、鎌倉で感じた事はただの一度もなかった。

 貴也は再びタクトを振るような軽い所作で、その場に張られた結界を解くと、空気が振動し蜃気楼のように揺れた。

 「まさか、それがここだっていうの?確かに似た感じはするけど…こんなに小さいはずが…。」

龍脈に似ている何か。恭はそう感じた。

 「そう、それは弱っているからだ。」

 「弱ってる?心臓が?寿命って事ですか?」

 「いや、早すぎる。龍は俺達では計り知れない程の時を生きる。それは俺達にとっちゃ不老不死と同じようなもんだ。こんな数千年でガタがくるはずじゃなかったんだ。」

 「じゃあ何でなんですか?」

大切な龍脈が、心臓が止まりかけている。

日本が、滅びかけている。

 「正確な原因は不明だが、ひとつ可能性がある。」

 「それは?」

 「それは、転生組だ。転生組の異常な転生のくり返しには何か大きな力が必要だ。その原動力が龍脈だとしたら?」

 「それで弱ってしまった?」

 「祥子と義平と重盛は、そう考えてる。そしてそのシステムの鍵が、地下迷宮にあると。」

 「それで義平殿は地下迷宮に執着を…。」

 「ああ。でも今は新たな局面を迎えている。」

ずっと謎だった地下迷宮の動き。それは―――

 「亡霊ですか?」

 「亡霊は長老会もしくは、転生システムを司る者の差し金で動いているんだろう。」

 「目的は何ですか?」

貴也は一呼吸おいてから答えた。

 「龍の心臓と卵だろうな。」

一つで地龍組織を作り上げた絶大な力を持つ龍の心臓を、長老会が手にすれば、一体この世はどうなってしまうだろうか。少なくとも『昼夜』のバランスは崩壊するだろう。それは社会の崩壊であり、平和な世をと誓った龍との契約違反となる。

 「長老会は一体何がしたいんですか?」

 「さぁなぁ。ただ、今とは全く違う統治を描いているんだろうな。」

貴也は龍脈に再び結界を張ると、帰路を歩き始めた。恭は後を追いかけながら声をかけた。

 「兄さん、もしここの龍脈が失われてしまっても、卵があるから大丈夫なんですよね?」

卵は本来、九つの心臓のどれかが寿命を迎える際に代わるための新しい心臓だと、そういうならば。

貴也が足を止め、振り返らずに言った。

 「いいか、恭。これは卵というより種だ。苗床の養分を吸って育つ。こいつが芽吹くためには、大きなエネルギーが要る。」

 「え…どういう?」

 「いずれ龍種が芽吹く時のための苗床たることは、地龍当主の最大の役割だ。俺も、そして、お前もね。」

顔の見えない貴也の声は、恭が表情を想像できないくらいに無感情で温度感のないものだった。胸がざわついた。貴也の言葉が春の強風に飛ばされてどこかへ行ってしまった後も、恭の胸には不安の因子のように残り続けていた。



 「静が言う程、酷くなかったよ。兄さん。」

恭は庭の池に浮かぶ桜の花びらを目で追いかけながら言った。その下の水面に静の美しい顔が映っていた。

 「そう?じゃあ心配しすぎだったかしら。」

池の水が鏡のように二人を映して、二人は鏡ごしにその目を見つめあった。

 「でも痩せたし、何か隠してる。大切なことを一人で抱えてるような気がする。」

 「…私じゃあ、何の力にもなれないのね。」

風が吹いて、水面が揺れると静の顔が歪んで見えなくなった。

 「…ねぇ、琴って誰なの?」

ぽつりと言った言葉に更に水面が震える。

 「何で?」

 「見えるのよ。誓いを立てたでしょう?黒兎(くろう)の目で見えるの。」

 「そっか。『夜』と契約したから…。」

貴也の腕に見えるその約束が、静にとってしこりのようなものだった。ずっと、影も見えないその相手が気になっていた。

 「琴は、父の契約した『夜』だった。父が死に、今は、どうなったか解らないんだ。」

 「どんな人?」

人。『夜』と契約している静にとっては『人』になるのか。恭には少し新鮮だった。琴は人ではない。けれど、貴也の永遠の想い人。

 「きれいな人だった。それはもう、この世のものとは思えぬ程に。透き通るような青い目をしていて、硝子のような冷たい肌だった。兄さんと琴がどんな風に関係を深めていったのかは知らないんだ。けど、兄さんにとって琴が大切な人なのは分かった。兄さんの琴を見る目はそういう目だったから。他の誰を見る目とも違う、俺を見る目ともね。」

空を仰ぐと、そこにはかつて見た琴と同じ青。

生きている限り、この突き抜けるような澄み渡るような青に覆われ続ける。こんな世界で貴也が琴を忘れることなど一生かかっても叶わないだろうと思われた。

 「俺、ずっと兄さんは琴を忘れられないんだと思っていた。けど、きっと違う。そういう理由じゃなくて、きっと兄さんはもう誰かと添い遂げることは考えてないんだ。」

 「どうして?」

 「分からない。でも知りたいんだ。」

決意の眼差しで静を見た。

静が息を飲む強い目。

そして恭は、貴也が琴を忘れられないから、静が自分のものになると思っている訳ではないと念を押した。静は「そんなの分かってる。」と言ったが、ならば何故静に執着し続けるのかとも思った。煮え切らない相手より、他の恋をした方がいいに決まっているのに、と。

 恭は静の黒髪をつまむと、軽く口をつけた。

 「そのままでいい。そのままが、静は美しい。」

静の傲慢も、欠落も、矛盾も、迷いも、何もかもを恭のその宇宙の深遠を湛えるような瞳が飲み込んでしまいそうだった。



 朝鎌倉に来たばかりだったというのに、儀式を済ませ少し話している内にもう日も暮れかかっていた。恭は身支度を整えると、荷物をまとめ書庫に向かった。貴也が帰省を許したのは一日だけ。もう東京に帰らなければならない時間が近かった。

東京へ戻る前に本家の書庫でめぼしいものを漁っていると、背後に懐かしい気配がした。

 「元服の儀式をするのは次期当主の証のようなもの。貴也殿はこれで、恭殿という後継ぎを示したのでしょう。」

しわがれた声に乗せられた重厚感のある言葉は、歳老いて尚現役と言い張るだけの力強さだ。小鳥遊は恭に挨拶もせずに話かけ、恭も小鳥遊を見る事もなく返答した。

 「何故そんな事をする必要がある?」

 「おそらくは長老会に対する牽制のようなもの、もしくは宣戦布告に近いのでしょうか?」

 「長老会へのパフォーマンスだった?」

 「ええ。それは間違いないでしょう。貴也殿にもしもの事があったとしても、恭殿がおられると言っているのですから。」

 「…長老会は兄さんの命を狙っているのか。」

 「ただの命ではありませぬ。」

貴也の命には付随するものがある。

 「心臓と、種。」

 「左様。」

 「兄さんを手にかけて手中にしようと?」

 「殺して手に入るならば、とっくにこの戦は終結していましょう。」

 「では何故。」

 「それは、私にも分かりませぬ。」

小鳥遊が言いながら恭の目の前に立つと、懐から書物を取り出し差し出した。

 「御所望のものです。写しですが。」

 「悪いな。手間をかけさせた。」

恭はそれを受け取ると中を見ずにバッグに入れた。

 「いえ。貴方様のお役に立てるのでしたら。」

 「小鳥遊殿は長老会付の目付役。言わば長老会の人間だ。何故俺に尽くす?」

 「知れた事を。私は貴方様をお慕い申し上げております故。貴方こそが将たる御方だと、確信しております故でございます。」

貴也ではなく、恭こそが。そう聞こえた。

 「縁起でもない事を言うな。俺は当主じゃない。これからもそうはならない。」

声を荒げる恭に、小鳥遊は全く動じる様子もなく言った。

 「もしそうだとしても、私がお仕えしたいと思うのは恭殿です。この年になって心より忠誠を誓いたいと思える主を得た事、これ以上の至福がありましょうや。遠く離れておりますが、何なりとお使いください。」

小鳥遊の芝居がかった動きに、恭は深く息を吐いた。

 「ありがとう。」

低い声で言うと振り返る事無く出て行った。

小鳥遊はその後ろ姿をじっと見つめていた。



日が暮れて、晋が仕事から帰って来ると、恭は帰ろうと言った。

 「おい、もう帰るのか?折角なんだから宴とか開かないのかよ?」

(よし)(ひら)が貴也に言うと、貴也はやけに神妙な面持ちで首を振った。

 「いや、帰るんだ。」

 「そんな追い出すみたいに…。」

言いかけた義平を遮って恭が言った。

 「兄さん、元気で。」

義平が黙り一歩下がると、貴也は恭を抱き締めた。

 「恭。お前を遠ざける事は、半身を失うように苦しい。解ってくれ。俺がただの兄ならお前を手放すことは絶対にない。静にだってくれてやるものか。だが俺は地龍当主だ。」

 「兄さんが当主でよかったよ。」

恭が冗談めかして言うと義平が笑って同意した。

 「大丈夫。兄さんは俺の自慢で誇りだから。俺に気がねすることない。俺は兄さんのために出来ることがあるなら何だってするつもりだ。それが離れる事でも。」

 貴也の胸に手を当てると鼓動が伝わってきた。

 不規則な振動

 いくつかの音

 心臓、鼓動、胎動、よぎる思いに蓋をして恭は貴也の手を離した。

 「晋、恭を頼む。」

 「もちろんです。」

貴也が晋の腕を掴んだ。強い、熱い手だった。

 「お前も、無茶すんなよ。」

かつてこんなに真剣な目で貴也に見られた事があったろうか。

晋は唾を飲み、半ば気押されるように頷いた。


そうして恭と晋は鎌倉を後にした。


恭が貴也と会ったのは、この時が最期となった。


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