15 瞳の事
静が訪ねて来た日の夜、恭は久しぶりに貴也に電話をかけた。
「兄さん、今良いですか?」
「もちろん。珍しいな恭から電話なんて。こづかいの要求か?」
よく考えると恭は、自身の一番の味方であり、唯一の肉親である兄貴也とこんなに離れたのは生まれて初めてだった。今までずっと顔を見て話してきた兄の、受話器越しの声はどこか知らない人のような気がした。どんな顔をして話しているのだろうか、顔を見たのはもう遠い昔のようで、上手く想像できる気がしなかった。
「…兄さん元気にしてるの?」
恐る恐る尋ねると、受話器から貴也が息を吐くのが聞こえた。溜息か、もしくは笑ったんだろうか。
「さては静に何か吹きこまれたのか?」
「痩せたと。何か病気なんじゃないかとも。」
「か〜。恭に会いに行くっていうからもっと色っぽい展開を期待して許可したのに、よりにもよって俺の心配かよ。お前ら本当に俺の事好きな。」
「それは、そうですよ。」
いつものように茶化す貴也に、恭はようやく少し安心した。
「大丈夫だって。俺は恭が元気でいればそれで大丈夫だから。」
「意味が解りません。」
「それより、恭はどうなの?元気でやってるか?知将は面白いだろ。うまくやれてるか?そうだ、奥州はどうだった?秀衡のババアに何かされてないだろうな?」
「大丈夫です。秀衡殿は変わった方で、それなりに振り回されましたが、書庫を見せて頂きました。」
「そうか。それで、何か分かったのか?」
貴也の声音が変った。硬い、何かを警戒しているような声だった。
「龍脈とは龍の心臓だと言われました。九つある心臓の一つを地龍当主が持つと。」
「すべての始まりだな。そのたった一つの心臓から地龍という組織は出来上がった。」
最初の、龍と契約して力を手にした地龍の始祖たる男。その男が手にしたのが、龍の心臓であり、そこから地龍という組織の血脈が生まれてきた。そして、今もなお地龍当主たる者がそれを持つはず。つまりは…
「今は兄さんが継承しているんですか?」
貴也はしばらく黙っていた。そして押し殺すように言った。
「…そうだ。そして俺が死ねばお前が継ぐことになる。」
「地龍の嫡流は兄さんの子孫です。俺じゃない。兄さんは早く後継ぎをつくるべきです。琴がいなくなったから、そんなこと言うんですか?」
貴也の最愛の人である琴が父と共に消えた傷が今もまだ癒えないために、貴也は他の相手を選ぶ事をしなかったのだと、恭はずっとそう思っていた。けれど、貴也は二十八歳だ。当主としてそうも言っていられないはずだ。恭は貴也がどうするつもりでいるのか、気にならなかった訳ではなかったが今まで口にした事はなかった。
少し緊張した恭の言葉を、貴也は優しく否定した。
「そうじゃない。俺にとってはお前がすべてだからだよ。ずっとね。」
「兄さん…?」
捉え所のない貴也の態度に、恭はやはり顔を見たいと思った。どうせ翻弄されるだけだとしても、それでも側にいる事には意味があると思った。遠く離れている今は特に。
道場の柿の木が大きな実をつけ始め、鮮やかな紅葉の季節が巡ってきた。空を覆う雲も鱗模様になり、人々の気持ちを何故かもの寂しくさせていた。
放課後の義将の稽古に週に二日程のペースで立ち合ってきた晋は、大学の課題や揺らぎの討伐などに追われ慌ただしい日々を送っていた。
いつものように義将が門下生の序列による雑務を終わらせる間、所在なく座っていると、優しい匂いがして振り向いた。
「随分義将がなついているのね。」
瞳がお茶の入った湯呑を差し出していた。受け取ると、暖かい湯気が顔に触れ穏やかな気持ちになった。ゆっくりと口に入れると、秋が奪い取っていった温かさが戻ってくるようだった。
「おいしいです。」
はにかむ晋を見て瞳は微笑んでから訊いた。
「子供が好きなのかしら?」
「考えた事無いですけど、義将は可愛いです。瞳さんは子供が好きなんですか?」
「そうね、私はずっと子供が欲しかったの。」
瞳の言葉に晋はハッとした。瞳の夫は死んだのだ。触れてはいけない部分に触れてしまったと思い、小さな声で謝った。
「…すみません、俺。」
瞳は傷付いた様子もなく晋の顔をじっと見つめた。
「もっと恐い子だって聴いてたのだけれど、実際は随分違っているのね。」
「…でも多分それも俺なんです。地龍で生きてる以上、周囲の評価の価値は大きいですから。当主殺しの矢集の末裔で獰猛な獣。それも俺なんだと思います。」
晋はゆっくりと考えながら答えた。なるべく正直に、でも誤解されないように、言葉を選んで話した。
「そう、じゃあ私の目の前にいる穏やかで謙虚な青年も、きっと君なのね。」
笑いながら人を斬る狂気ではく、笑いながら一緒にご飯を食べる姿を本当の晋だと言った知将と同じ、抱擁のような笑顔だった。
「やっぱり知さんの妹なんですね。よく似てる。」
「そう。兄は面倒見が良いから。父のようでしょう。今は母かしら。」
「それは、両親をよく知らないので、分かりません。でも、知さんの子供だったらって思います。」
晋は義将のように愛されて真っ直ぐに育っていればと、どれだけ羨んだろうか。
「御両親は…」
「母は知りません。父も話さなかったし、誰も知らないみたいでした。父は、十年くらい前に…死にました。」
「…そう。」
「父はずっと矢集は人ではないって言っていて、母の存在が全く不明ってあたり本当に人じゃないのかなって思ってた時期もありました。」
「人ではない…?」
「父は俺を人だと思ってなかったんです。もちろん父自身もそうです。ただひたすらに、矢集のすべきことをしろと言われてました。」
「すべき事?」
「俺はそれを、人を斬ることなんだと思ってます。当主殺しの異名を除けばウチは人殺しを生業としてますからね。」
「つらい?」
瞳はじっと晋を見つめていた。晋の発する言葉のひとつひとつを丁寧に拾いながら、何かを構築するように、真剣に聴いていた。
「もっと辛い事があります。だから戦える。」
「それは何?」
瞳は食い入るように晋の次の言葉を待ったが、晋はただ寂しげに微笑んだだけだった。
秋のもの寂しさは揺らぎの発生率に比例するのではないかというのは、過去に恭と晋が話し合った議題の一つだった。人の心に隙間が生まれれば、『夜』の付け入る隙が生まれる。答え合わせの出来ない問い故に、正解は不明だが、やはり秋は揺らぎが多い。瞳と話したあの日を最後に、晋は学校や道場へ行く日を減らして毎日討伐へかり出されていた。その晩はまだ日付の変わらない内に帰宅出来たので、晋はいつもよりゆっくり休めると思いながら居間の扉を開けた。
するとテレビの前のソファーに義将と恭が座っていた。恭は膝に本を開いており、義将は恭に寄りかかって寝ていた。
「何してるの?」
晋が後ろから声をかけると、恭が体を動かさないように答えた。
「部屋にいたんだが、怖いテレビを見るから側にいて欲しいと頼まれてな。」
「本人寝てるし。」
晋は、地龍の武士が怖いとはどんなものかと思い、テレビ欄を覗くとゾンビと書いてあった。晋は首をかしげた。義将はゾンビが恐ろしいのだろうか。
「恐かった?」
「まぁ、どうやって倒せばいいのか不明という点には、いささか戦慄したが。倒せないなら閉じ込めておけばいいだろ。」
「本気で戦う想定なんだ…。」
恭はゾンビを倒すシミュレーションを何通りかしたらしかったが、晋はその考え方が既に恐がっていない気がした。
義将は散々恐がって恭にくっついている内に眠ったらしかった。
「密着していたら暖まってきたから眠くなったんだろ。」
「なにそれ?ズルい!俺も。」
晋が義将を挟んでくっついて座った。秋の夜に外出していた晋の体は冷えていて、眠っている義将の体温に触れるとほっと安らぐ感覚がした。まるで瞳が入れたお茶のように。
「恭、俺に何か隠してるでしょ。」
「?」
「これ」
晋が携帯端末の液晶画面を恭の目の前に出すと、静が恭にキスをしている現場写真だった。
恭が奪い取ろうとすると、晋は素早くポケットにねじ込んだ。
「何だそれ」
「壁に耳あり障子に目ありってね。同じ講義の子に貰ったんだよ。こんな面白い場面に立ち合えなくて残念。」
いくつかの講義に出席できず、久しぶりに行ってみると女子達にその写真について散々問い詰められたのだが、訊きたいのは晋の方だった。
「立ち合わなくていい。」
「照れてんの?」
「照れてない。礼だそうだ。角の。」
「角ぉ?あれ二つあったの?ふーん静姉にあげたんだ。確か…ショウケースに閉じ込めて窒息死させた鬼の角だっけ?」
「全然違う。俺よりお前はどうなんだ。」
「俺?」
「知将殿の妹君と」
恭は照れ隠しに話題を反らしたようだった。晋は元より恭の口から事態が詳らかになるとは思っていなかったので、動揺した顔を見られただけで満足だった。
「向こうはバツイチの大人の女性だよ。俺なんかが相手にされる訳ないでしょう。」
「話したのか?」
「うん。瞳さんの淹れたお茶がね、美味しいんだ。それで十分だよ。」
晋は義将の寝顔を指先で撫でた。
「無欲なんだな。」
「そうありたいね。」
たまに行く道場で瞳のお茶を飲む、それだけで良いのだ。それだけでなければ。晋は自分に言い聞かせるように呟いたのだった。
その晩、京都は重盛の館に貴也と義平が集まっていた。
春に龍の爪が揃い鎌倉の警備体制や戦力の増強が叶い、貴也はいよいよ次の一手へと進めていた。
宗季の力を借りて何度も重盛とのやり取りを重ね、そしてまた義平との意志疎通をもって、どうにか内密に源平当主を交えた密会を取り付けるようになっていた。とは言っても、まだ茶飲み話程度で両者腹の探り合いだったが。
長い歴史の中で源平は冷戦状態を続けており、出口のない膠着が当たり前の姿となってしまっていた。けれど、その本質的な部分は源平同士の過去の因縁や覇権争いなどではない。かつての藤原摂関家を基盤につくられた貴族集団である長老会が、地龍当主から実権を奪おうという意図なのだ。その代理戦争として源平合戦は未だ終結を見ない。貴也は長い時間をかけ、双方との関係を構築してきた。そして今、ようやくその双方を結びつけるところまで来ている。長老会には内密に、源平の和平を作ってしまえば、長老会の戦力は一気に削ぐことが出来る。貴也の理想は、この二人の関係の構築にかかっているのだった。
「義平殿、地下迷宮を攻略する言う話はどないなったん?」
重盛が蝋燭の火の揺れるのを見ながら言うと、義平は荒っぽく答えた。
「…鎌倉への侵攻が始まった今、そんな事言ってられねぇだろ。」
「ほうか。それやったら調査も進んでへんやんな?」
「今は警備に手を割いてるからな。」
「重盛、地下迷宮がどうかしたのか?」
貴也が何気ない風に訊くと、重盛はしばらく黙っていた。
地下迷宮は謎が多い。諸説あるが、建設当初の国会議事堂の地底に魔物が住むなどと言われ始め、国家の要請により地龍の部隊が調査に乗り出したのが始めだと言われている。調査から戻った者はなく謎が謎を呼ぶ事態となったが、以来東京の地下には魔物が住むという都市伝説が生まれたのだ。
それが都市伝説ではなくなったのは、何十年前だったろうか。源義平の前世にて、地下迷宮の調査へ向かい命を落としたという事件があってからだ。義平は一度負けたその魔物にいつか復讐すると誓って再びの生を待ったと言う。
「少し前にな、地下迷宮から亡霊が出てん。」
「亡霊?」
「地下から魔物が出て来んか定期的に調査する部隊があったやろ。その部隊が地下から亡霊が出てくるのを見てな。追いかけたら全員殺されてん。」
「全滅?」
「駆け付けた者が死に際の隊員に訊いた話や。ほんで新しい部隊を編成して亡霊を追いかけてん。」
「どうなったんだ?捕まったのか?」
「いんや。殆どが死んだわ。」
「え?」
「亡霊を見た者で生存者はなし。追いかけてる隊員が死んだ言う事が唯一の存在証明やな。」
重盛の話は俄かに信じ難かった。地下迷宮には謎が多いが、未だに地下から何かが出た事はなかった。義平は唾を呑んだ。
「何なんだよ、それ。」
「なぁ、義平殿は前回地下迷宮で死にはった言うたやんな?」
「そうだ。」
「ほんなら魔物の姿を見たんちゃう?それは亡霊と同じものなんか?」
義平は魔物の唯一の目撃者だ。
「…いや、魔物は巨大な『夜』だった。その亡霊ってのはどんなものなんだ?」
「人や。」
「人?」
「最近になって、亡霊の正体についてある説が浮上してん。」
重盛が躊躇った。そして続けた。
「あの男やて言うんや…。」
その名を聞いて貴也と義平は息を呑んだ。
「僕は皆が思ってくれるような人じゃないんだ。」
直嗣はいつものベンチで呟いた。
「分かるよ。」
青年は秋の深まる様を眺めながら答えた。そしてポケットから匂い袋を取り出した。直嗣がその動作を見るともなく見ていると、青年は言葉を続けた。
「出来る奴に出来ない奴の気持ちなんて分からないんだ。俺だって、俺がどんな気持ちでいるかなんて考えもせず励ましたりバカにしたりする周りの奴らのを、夢の中で何度ぶっ殺してやった事か…。でも君の先輩は厳しい人ばっかりじゃないんだろ?」
青年は口角を上げて笑ったが、その目は直嗣を見つめてはいなかった。直嗣は青年の放つ匂いにぼんやりとしながら言葉を追いかけた。
「うん。優しい人もいる。でも、申し訳なくて。僕は期待はずれだから。期待に答えたい気持ちが無い訳じゃなんだ。でも、厳しい人がいて、その人の言っていること、いつも正しいから。それを聞くとやっぱり僕は駄目なんだって思う。」
「そっか。正論って時々残酷だよな。正しいことが人の心をどれだけ傷付けるかなんて、正しい人には解らないんだ。冷たい人だな、その人。」
直嗣は実親の正しさにいつも打ちのめされてきた。いくら反論した所で、結局は実戦でそつなく戦えるようでなくては説得力がない。きっとそんな直嗣のことを実親が理解することはないだろうと思っていた。
「そうだね。でも優しさも、冷たいと思う。」
弁天の優しい笑顔が浮かんだ。胸が痛くなった。
「落ち込んでる時程、優しくされると惨めになるもんな。優しくする人は優しい自分に酔ってんだよ。結局君の事を真剣に想ってる訳じゃなくて、優しい自分が好きなだけなんだ。だからその優しさで君を傷付ける。結局は冷たい人なんだよ。」
「そうか。じゃあ、誰も僕を見てる訳じゃないんだ。」
2人の間には匂いが充満していて、肺の中まですっかり染まり切った気がした。
「そうだよ、誰も君になんか興味はないんだ。自分の事だけだよ。」
「そうか…僕は期待なんてされてなかったんだ。皆の邪魔をしていただけ。結局自惚れてたな。恥ずかしい。」
直嗣の意識はどこか遠いところを漂っていて、青年の言葉がまるで天の声のように響いた。
冬到来間近の屋外だというのに、なぜかぽかぽかと温まっていて、心地よい感覚に満たされていた。
「どうした?宗?」
直嗣のいるベンチから少し離れた場所を、春家と宗季が歩いていた。警備のローテーションでたまたま居合わせた二人だったが、宗季は直嗣の方を見て立ち止まった。
「直じゃねぇか。」
春家は何でもない事のように言ったが、宗季は違和感を拭いきれなかった。
「一緒にいるのは…」
「ん?知り合い?」
春家は宗季の怪訝な顔を見つめた。宗季はしばらく考えていたが、ゆっくり瞬きをすると再び進行方向へ向かって歩き出した。
「知り合いじゃなかったのか?」
「分からん。思いだせないが、どこかで見た気がする。」
もやもやした物言いに春家は肩をすくめて後を付いて行った。
「所で、静の奴、恭に会いに行ったらしいぜ。」
春家は宗季の後ろから嬉しそうに話かけると、宗季は勢いよく振り返った。
「それは本当か?」
「おっ、食い付いたね。やっぱあの二人の事気になるか?」
「それは勿論。で、何か進展が?」
「さぁ?訊いても教えてくれなかった。宗から訊いてみろよ。」
「何も答えまい。だが、そうだな。反応によっては解る事もあろう。」
宗季の言葉に春家はにんまりと笑った。宗季は春家の笑顔を見て同じ様に笑った。両者の目的が一致した瞬間だった。
去っていく二人の後姿を視界に入れながら、青年は直嗣に言った。
「君の名前を教えてよ。」
直嗣はゆらゆらと上体を揺らしながら意識を手放した。そして後は青年の声に従うしかなかった。名を、立場を、所属を、隊員の名を、関係を、知る限りの事を答えなくてはならなかった、その匂いの支配する世界では。自分の自由にならないというのに、心地よく満たされていった。直嗣の精神はかつてない程に開放され、清々しい風が吹き抜けるようだった。ぼんやりとした日向の匂いが直嗣の思考を支配し、そのまま身を任せた。
気が付くと、直嗣は再び一人でベンチで眠っていた。
青年の姿は無かったが、先程まで青年が座っていた場所には匂い袋が残されていた。
直嗣は青年と会った所までは覚えていたが、その他の事が何も思い出せなかった。匂い袋を拾うと、まだはっきりと目覚めない脳で青年の顔を思い出そうとしてみた。
けれど直嗣には全く何も思い出せなかった。
「はっくしゅん!」
義将が勢いよくくしゃみをすると、慌てて知将が駆け寄ってきた。
「やだ、義くん風邪?学校で流行っているの?熱はない?」
「大丈夫だよママ。ちょっとくしゃみしただけ。」
知将が義将の言葉を無視して体温計やら風邪薬やらを探し始めると、玄関の扉の音がした。
「あ、恭兄ちゃん帰って来た!」
ジャージ姿の恭と、仕事帰りの汚れた晋がリビングに現れると、知将はバイ菌でも見るような目で一瞥した。
「ちょっと、二人とも早く手洗いうがい!」
知将に追い立てられた二人が先に風呂に入ろうかと話していた。
「晋兄ちゃんも一緒に走って来たの?」
「いやいや、今そこで会ったの。」
「もう一周しようと思ったが、晋に会ったんで、帰って来てしまった。」
恭は十二月に入ると何故か走り込みを始めた。実はこれが毎年恒例のやつなのであった。恭はいつも年の瀬になると、一年の行いを振り返り自分を戒めたくなるらしく、何故か走り込みを始めるのだった。一般的なジョギングだと思った知将が義将の同行を求めた所、これがとんでもないストイックな走り込みで、義将は一日と持たなかった。その事を随分呆れていた知将も、先日その実態を目の当たりにしたらしく何も言わなくなった。
晋は秋からの仕事ラッシュと大学の忙しさの延長上で未だ慌ただしくしており、恭の走り込みには付き合わなかったが、例年付き合ってきた経験からその厳しさはよく知っていた。
「何でそんなに自分を追い詰めるのかしら。鬼気迫るものがあったわ。」
「今年は特に鈍ってしまったからな。晋は?やけにきたないな。」
「や〜、何か泥水かけられた的な。」
「そんな『夜』いるか?」
「悪足掻き的な?」
晋が言いながら髪を触ると泥が固まっていて洗い流さないと綺麗にならない状態だった。
「お前が先に風呂に入れ。この寒空の下で泥水かぶったんじゃ風邪をひく。お前が入っている間に俺はもう一周してくる。」
全員が同時に「げっ。」と言ったが恭は鼻で笑って出て行った。
「じゃあ、俺風呂頂きます。」
晋が入浴しようとすると義将が立ち上がった。
「じゃあ俺も!」
「義くんは駄目よ、風邪なんだから。」
知将に止められた義将が文句を言っていたが、晋が風呂から出ると既に就寝していた。
恭は時間を計ったように帰宅して入れ替わりで入浴し、居間でテレビを見ていた知将と晋の二人きりになった。晋は髪を拭きながら知将の隣に座ると訊いた。
「知さん、義将風邪なの?」
「本人は否定してるけどね、用心に越した事無いから早く寝かしたのよ。晋ちゃんも、最近無理してるから気をつけてよ。お茶でも淹れるわ。体が温まるように。」
知将の入れたお茶を飲むと、瞳の事を思い出した。
「ありがと。やっぱ兄妹だね。瞳さんもお茶淹れてくれる。」
「瞳が?そう。ウチは昔から家族でお茶飲んでたから皆染み付いてるのね。」
知将はかつての家族を懐かしんで目を細めた。『昼』の女性と駆け落ちして以来、和田本家への立入を許されない知将にとって、二度と戻らない家族の温もりの象徴なのだろうか。晋が黙って知将の横顔を見ていると、知将が晋の首にかけたタオルを取り上げた。
「あら晋ちゃん、ちゃんと髪乾かして来なくちゃダメじゃない。貸して。」
知将が、晋のやけに襟足だけ伸ばしたクセ毛を手で束ねて水気を拭き取ろうとすると、髪の毛の下から見えた白いうなじに大きな傷があった。傷を追いかけて行くと、首の真後ろから左の頸動脈めがけて深い切り傷が露わになった。明らかに死にかけた痕だった。知将は何も言わずに髪を拭き続けながら、その体をよく見れば、無数の傷痕があり、致命傷になっていたかも知れないものは一つや二つではなかった。
どうしたらこんな体になるのかと思った。
「この傷、隠すためにここだけ髪のばしてるの?」
知将が思いきって訊いてみると、晋は鼻から息を吐いた。
「この時、恭すごい泣いてて。本当、恭の方が死ぬんじゃないかってくらい号泣で。傷痕見ると、恭がまた泣きそうな顔するから、それで隠してるんです。」
「あの時は本当にお前が死ぬと思ったんだから仕方ない。」
どこから話を聞いていたのか恭が入ってきた。
当たり前のように隣に座ると、晋の傷痕に手を伸ばし、指先で撫でた。
「ほら、その顔。そういう顔するから嫌なんだよ。」
晋は手で首を抑えると恭を責めた。恭は困ったような顔で笑い、照れ隠しに顎を撫でた。
「そうは言うが、あの時お前だって遺言を言ったろ。」
「本当に死ぬと思ったんだから仕方ないだろ。」
恭の指摘に晋が焦って大きな声を出したが、すぐに我に返って言った。
「やめよう、とにかくこの傷見ると思いだしちゃいけない事思い出すから。隠しとくのが一番。」
「同感だ。」
二人の意見が一致したのを見て知将が笑った。
「本当に仲が良いんだから。そうだ、二人ともクリスマスパーティーってした事ある?」
「いや。」
「ないねぇ。」
クリスマスどころか年中行事を殆ど参加せず生きてきた二人にとって、知将のウキウキした声音は意味不明なものだった。
「俺の周りでクリスマスにこだわってたのは兄さんくらいだな。」
「貴也さんは恭のサンタになりたかっただけだろ。」
「んまっ。貴也さんったら、おちゃめさん。」
知将が二人の方へ向き直ると、重大発表をするように言った。
「やりましょう。今年はクリスマスパーティー。」
二人は意味がよく分からないながらも、知将の行おうとしている催しものは、家族団欒で迎えるささやかなお祭りのようなものなのだろうと察した。
「いいですよ。やりましょう。」
恭が晋の横顔に微笑みかけながら同意した。
東京の冬は思ったより暖かいのかも知れないと思ったのだった。
各地で異変が起こり始めたのはそれから暫く経ってからだった。
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