14 亡霊の事
暦の上では夏もすっかり終わると言うのに、東京はいつまでも暑さが衰えないので、恭も晋もすっかり参ってしまっていた。義将はとっくに夏休みを終え毎日元気に二学期を送っている。その姿を見ると、気楽な大学生活は申し訳なく思えた。と言っても、その夏休みもあと僅かだったのだが。
その朝晋は気が付くといつもより少し遅い時間だった。夜通し何か嫌な夢を見ていた気がしたが、目が覚めると同時に消えてしまった。内容は何ひとつ思い出せないというのに、動悸が治まらず嫌な感覚だけが残っていた。服が汗で濡れていて、着替えようと思ったが室温が真夏のそれだったので着替えても同じことのような気がした。晋はだらしないと思いながらも半裸でリビングへ移動した。既にテーブルで新聞を読んでいた恭が顔を上げるとすぐに眉を寄せた。
「晋、いくら暑いからと言って、それはやめた方がいい。」
思っていたより強い口調で言われたので少し驚いた。コップになみなみ牛乳を注いで持ってきた義将がそうっとコップをテーブルに置きながら言った。
「晋兄ちゃん、それはヤバいよ。早く服着て来た方が良いって。」
義将の視線は明らかに朝食の支度をしている知将の方を気にかけていた。
「朝から知将殿にサービスしてやるつもりなら何も言わんが、他意がないなら止めておけ。面倒だ。」
晋もようやく二人の言っている意味を理解した。朝から知将のハイテンションで裸を愛でられるのは御免だったので、仕方なく服を着ようと部屋に戻った。部屋の鏡に映った自身の顔は、どこか他人のように見えた。鏡の中で自分を見つめる目はまるで夢の中の男のような、亡霊の目をしているように見えた。
「遅いわよ、晋ちゃん。さ、ご飯にしましょう。」
服を着て戻ると、全員が食卓について待っていた。晋が席につき、いつもの朝食が始まると知将は面白そうに言った。
「聴いたわよ、晋ちゃん。瞳に惚れたんですって?」
その言葉と同時に晋は飲みかけの牛乳を吹き、恭は咀嚼するのを止めた。
「ちょっと、何で…。」
「忠将と義くんから。」
晋が義将を見ると、義将は笑いをこらえながらに言った。
「だって、晋兄ちゃんってば、アレ誰?って何回も訊くんだもん。」
「義将、てめぇ。裏切り者。」
晋が義将の首を締めるふりをしていると、恭がようやく食べていたものを飲み込み訊いた。
「瞳とは?」
「和田瞳。私の妹よ。」
ちょうど義将の夏休みが明ける頃、晋は義将の稽古で通っていた道場で見慣れない女性を発見した。女性は背が高く、恭と同じくらいに見えたが、恐ろしく痩せていて幸の薄い印象を与えていた。休憩にお茶を入れたり、門下生の世話や忠将の手伝いなど、細々とした仕事をしていた。周囲に溶け込んでいて目立ず、悪く言えば地味だったが、その気配りや美しい所作控え目な態度など絵に描いたような大和撫子だと思った。古い型の武家の嫁そのもののようだった。
晋が義将から無理矢理に聴いた話によると、女性は和田瞳といい、知将の妹だった。最近旦那が作戦中に死に、嫁ぎ先から出戻って来たという。未亡人、とっさに浮かんだワードがまた何とも言えぬ魅力だった。
夏休みを通して義将はめきめきと力をつけ、周囲が認めるくらいの進化を遂げたので、知将との約束は果たされたと言えるのだが、休みが明けた今でも晋が義将の稽古を続けているのは、和田瞳の存在があったためだった。
「まさか晋ちゃんの好みのタイプが年上だったとはね。」
知将が晋を朝食のおかずにして話続けていると、恭は首をふった。
「ひとみって名前の女に弱いだけだろ。」
晋が再び牛乳を吹いた。
「ちょっと、恭!」
恭の放った一言で和田親子が沸き、朝からとんでもない状況に陥った。晋は折角服を着てきたのに、着てこなくても同じ展開になったことが解せなかった。
数日が経ち、長かった夏休みが明けて再びいつもの大学生活が始まった。
とは言え恭は夏休み中も大学と家の往復で過ごしていたため夏休みが明けても生活に何の変化もない状態だった。いつもの見なれた校舎の脇を歩いていると、珍しく校門付近で黒山の人だかりが出来ていた。集まった学生達は、口ぐちに「芸能人」や「絶世の美少女」などの単語を繰り返していた。恭は何となく足を止めそちらの方に目をやると、人だかりから見なれた人物が飛び出して来た。
「静!」
黒いワンピースの短い裾を翻しながら恭に駆け寄る美しい女性は、夢で見るより何倍も輝いている本物の月夜静であった。驚く程に細い腰、艶めく黒髪、石膏像のような隻腕、硝子玉のような目、自信に満ちた『波形』、何をとっても記憶に勝っていた。
「恭、やっと見つけた。大学って広すぎるわ。」
人だかりは、美少女の相手が恭だと知り俄然興味が沸いたようだったが、二人とも全く気にする様子はなかった。
「丁度良かった、俺も静に会いたかった。」
恭は静の左手を掴むと颯爽と歩きだした。周囲には、突如学校に現れた美少女が学校の王子様に連れて行かれる図、だったが、静から見れば恭は今にもスキップせんばかりの浮かれた足取りだった。
恭は学校の食堂のテラス席へ連れて行くと、慣れた様子で飲み物を持って来た。
「すっかり大学生って感じね。」
「半年いれば慣れる。」
静は厭味のつもりで言ったが、恭は意に介さない温度で返した。そして静の手にあるものを置いた。
「これって…。」
「ただの大学生ではない証拠だな。」
静の厭味に気が付いていないような顔をして、しっかり意図を汲んでいた言葉だった。静が恭から受け取ったものを鑑定するようにじっくりと見ていると、恭は得意げに言った。
「最高の男であることの証明…の足しになるだろう。」
「鬼の角ね。」
「分かるか。」
「ええ。でも鬼なんて何処で…それにこの大きさ。古代の鬼はね、この角の螺旋で年齢を計るの。これは…もしかして奥州の悪鬼?あの大昔から手を焼いてるっていう。」
「そうだ。成程、その話は本当だったか。」
「本当って知らないで倒したの?」
「何せ秀衡殿は嘘つきでな。何が本当なのかさっぱり分からん。だが、書庫を見せる条件が鬼退治だと言うので付き合ってやったまで。良い土産になったろ。」
「冗談でしょ?一人で倒したの?鬼を?」
「そうだ。少しは認める気になったか?」
「私を認めさせるために、そんな不利な取引飲んだの?それってそもそも取引になってないじゃない。あんたじゃなければ断り文句だってすぐに気が付くわよ。」
「これくらいやらないと静は納得しないだろ。それに、自信があったからな。」
そもそも、『古代の鬼は黒烏で斬れる。』それさえ嘘でなければ、恭には勝機があったのだ。そうでなければ、晋を呼んだかも知れなかった。どちらにしろ尻尾を巻いて逃げるなどという選択肢は無かった。
「ただのつまらない大学生になったと思ってたわ。そうね、見なおしたわ。」
静は嬉しそうに角を眺めていた。
「魔除けになるらしい。ま、嘘つきの言葉だが、良ければ貰ってくれ。」
恭の言葉に、静はダイアモンドを貰ったようなうっとりとした笑顔で頷いた。
「で、今日は何故ここへ?」
「夏休みにも帰って来ないから、様子を見に来たのよ。」
「兄さんから帰省許可が下りなくてな。」
「鎌倉入り出来ない義経みたいね。」
「良いね。義経と静か。」
「悲恋じゃない。」
「呼べば何時でも行くと言ったろ。」
「地龍殿に逆らってでも?」
「もちろん。」
「だから呼ばなかったのよ。」
もし呼べば地龍当主の命に逆らってまで静に会いに来ることは解りきっていた。だからそんな事を言って困らせたり試したりする必要はないし、そもそもそんなつまらないをする女になるつもりも無かった。会いたければ自分で行けばいい、それだけの事だった。
「実はね、鎌倉の様子がおかしいのよ。三月から暫くは何か大きな作戦のための準備期間って事で『龍の爪』のメンバーで演習とか小さな任務とかをしていたの。内容は散々で、と言うか仲が悪くて息が合わなくてね。本当に最高峰の部隊がこんな素人の子供みたいな理由でボロ出してるなんてガッカリなんだけど、とにかく貴也さんの思うような最高のチームには仕上がってないのよ。で、最近になって、鎌倉に長老会だか平家だかの刺客が入ろうとしてるって噂になって、七口のメンバーが鎌倉の警備の仕事に行っちゃって。隊長は貴也さんと何かこそこそしてるし、祥子さんはいなくなったまま。てな状態で私だけ取り残されたって訳。まぁちょこちょこ仕事はあるんだけど、他に比べて暇なのよね。」
「解散すると?」
「多分それは無いと思う。直は最近は弁天と仕事してるみたい。ずっと弁天が気にかけてて、弁天は優しいから大丈夫でしょ。親は、隊長が何とかするって言ってる。」
「実親殿は元々義平殿が性格に難があるからと入隊を止めていたからな。なるべくしてなったとも言えるか。二人とも兄さんが強引に入隊させたんだから少しは何とかすればいいんだが、義平殿には苦労をかけて申し訳ない。」
恭の言葉に静は少し黙った。そして続けた。
「うん、でも貴也さんも最近様子がおかしいのよ。」
「兄さんが?」
「随分痩せたって言うか、顔色が悪くて。何か病気とかじゃないかしら。心配なんだけど私が訊いても気を使わせるだけで…恭から話してみてくれない?休んだ方が良いって。」
どうやら静の本題はこのことだったようだ。恭に貴也の心配をすることに少しバツの悪さを感じているらしい静は視線を反らしたままで恭の返答を待った。
「兄さんが…分かった。今夜電話してみる。ありがとう。色々心配事があるのに、わざわざ来て貰って。」
「ううん。いいの。宗季が言うには、長老会が暗躍していて、京都も鎌倉も結構危険なんだって。何が起こるのか解らないけど、恭も気をつけてね。」
ついでのような言い方だが、心がこもっている事が解った。恭は静の手に自分の手を重ねると囁くように言った。
「送れなくてごめん。」
「いいのよ。義経様。」
静は龍脈の結界の外に黒兎を置いて来たので、合流すれば帰路の心配はいらないと言いながら去って行った。校門まで送ると、静は去り際に恭の頬に軽いキスをした。「角のお礼。」と言いつつ微笑む頬の赤みが、恭の目に焼き付いた。
義将が帰りの支度をしている間、晋は道場で一人寂しく待っていた。そうしていると門下生が助言を請いに来たりする事も多かったが、その日は意外な人物がやって来た。
「晋くんでしょ?義将を鍛えてくれてるって聞いたわ。ありがとう。」
優し気に細めた一重まぶたの垂れ目に、薄い唇に添えられたホクロ、華奢で背の高い体から発せられる薄い色の『波形』。いつも遠まきに眺めていた和田瞳その人だった。近くで見ると思っていた以上に痩せていて、儚い印象だった。
「いえ、とんでもない。世話になってるんで、少しでも役に立てればってだけです。俺なんかじゃ力不足だけど。」
「知将兄さんの家に下宿してるんでしょう?大変でしょうね、兄は頑固だし口うるさいから。」
声は初めて聴いた。穏やかな声音だった。
「いえ、楽しいです。今までの暮らしを思えば、頭が馬鹿になる位甘い生活だけど、悪くないです。俺には一生手に入らないと思ってたものを沢山貰って、短い間だけど、この四年間をきっと将来何度も思い出すんだろうなって思います。だから知さんには感謝してます。」
「そう、それは良かったわ。」
晋は一生懸命話した。悪い印象を持たれないように、でも背伸びしすぎないように、矢集の分をわきまえて、それでも出来れば好いて貰えるようにと思いながら。
「…地下迷宮って知ってるかしら?」
瞳が唐突に訊いた。晋は聞いた事のない単語だった。
「?」
「前の夫がね、関わっていたの。東京の地下にね、魔物が住んでいるって言われているの。とても強くて兇暴な魔物で、地下に入った者で生きて戻った者はいないの。地下に潜んでいる内は良いけれど、もし地上に出てくることになったら…。」
「それを倒しに行ったんですか?」
「いいえ、調査よ。地上に出てくる様子がないか、定期的に調査する必要があるでしょう?その部隊に選ばれて。」
「そんな…入ったら最後なんですよね?」
「そうね、つまり遅かれ早かれって事よね。だから任務に行く前に離縁されてしまったわ。それで実家へ帰って来たの。あの人が死んだって聞かされたのはその後。」
「魔物に…。」
「いいえ。地下迷宮から出てきた亡霊に殺されたの。」
「亡霊…?」
晋は夢で見たあの目を思い出した。躯の目、鈍い光を反射してじっと晋を見つめていた。何故だか鳥肌がたった。
「いえ、何でもないわ。忘れて。」
瞳は微笑んで晋の腕に触れた。心臓が高鳴った。
「ご主人に愛されてたんですね。」
晋は自分の声がどこか余所余所しいと感じて、動揺した。
「そうかしら。」
「そうですよ。だから離婚したんでしょう。立派な人だ。」
「ありがとう。」
笑いかける瞳の手の温度が、晋の腕を伝って脳を焼き切るかと思う程に熱かった。義将が戻って来るのがもう少し遅かったら、きっとどうにかなってしまっただろうと思うと、恐くもあり、高陽もした。
弁天が刀を振るうと、それ(・・)は青白い炎を発し消えてなくなってしまった。
真夜中の亀ヶ谷の切通しの極近くの道には、弁天が斬った炎の残骸がチラチラと散って蛍のようだった。弁天は刀を納めると、直嗣の顔を見た。
「式神の仲間ですかね。」
「こんな風に痕跡も残さずに消えてしまうって事は、大した奴じゃありませんよね?何の意味があるんでしょうか。」
直嗣の質問に弁天は頷いた。
普通の式神は人型を用い術をかけることによって魔物や人間の姿を模し使役することが可能となる。強い術者が使えばかなりの戦闘力を持つが、倒した時には元の人型に戻り使役していた術者の身元が明らかとなる。そうならないために倒された時に人型が残らないよう術をかける場合は、戦闘力が格段に落ちるので大した敵とはならない。
つまり弁天が斬った式神は元々弱く、切通しに現れたとは言え初めから突破する気がなかった事になる。
「多分、おとりですかね。」
弁天が曖昧に言うと、直嗣は怪訝な顔をした。
「おとりって事は、ここへ目を向けさせておいて、別の場所から入るって事ですか?」
「…こういう場合のおとりと言うのは、既に中に入っているというのが定説なのですが、そうなるとまずいですね。」
「え?」
「これから中に入ろうとしていると見せかけて、我々の目を外に向けさせ、既に中に入っている敵が動きやすくするという策です。」
「それじゃあ…鎌倉に敵が入り込んでるって言うんですか?」
「もしかすると、結構前からかも知れないですね。」
「いつですか?」
「隊長が祥子さんを逃がした頃、貴也が恭を追い出した頃、そして直が鎌倉へ入った頃、すべてが同時期でした。きっとあのタイミングだったのではないでしょうか。どちらにしろ、内側への警戒を強めるべきでしょうね。行きましょう。」
すべては同時だった。おそらくその事に貴也も義平も気が付いているはずだ。もしそうだとしても外側から現れる敵の可能性や式神の事を放置は出来ない。内側に警戒しつつ対処する必要がありそうだった。
弁天は緊張した表情の直嗣の肩をぽんと叩くと微笑んだ。
「大丈夫です。落ち付きなさい。焦ってもいい事はありません、特に直はね。集中していれば対処できますよ。」
直嗣は穏やかな声に少し安心した。
少し前から鎌倉への敵の侵入の可能性があると言い警備の仕事に切り替わってから、直嗣は弁天と行動する事が主となっていた。実親が匙を投げたのか、弁天が見かねたのか、実情は全く知らなかったが内心ではほっとしていた。これ以上実親に罵倒され続けたら精神的にどうにかなりそうだった。『昼』の職場だったら録音して労基署に持ち込み、パワハラで訴えてやれるのにと何度思った事か。
「今日はもう帰って寝なさい。明日また同じ時間に。」
「分かりました。」
翌日の昼、直嗣はいつものベンチで青年に会った。
直嗣は青年の差し出した匂い袋に鼻を近づけた。
「良い匂いでしょう?夏休みに京都へ行って来たから、お土産。リラックス効果があるんだって。」
「そうなんだ。ありがとう。」
確かに良い匂いがした。どこでも嗅いだことのない不思議な匂い。ぼんやりとした日向の匂いだった。癒しと言うよりは眠気に近い感覚が起こっていて、これがリラックスという状態なのかと思った。
「その後どう?相変わらず恐い先輩に虐められてるの?」
「いや、最近部隊編成…いや、ちょっとした異動があって、今は違う班で仕事してるんだ。前に言ったでしょ?僕の事気にかけてくれる先輩のこと。その人が一緒で、色々教えてくれてる。」
「そっか、それは良かったね。」
青年は口角を上げて笑った。
「でもさ、その人って、本当に君の事心配してるのかな。」
「え?」
「だって、君の会社って食うか食われるかなんでしょ?ライバルとか出る杭は消したいはずじゃない。それを優しく気にかけてくれるなんて、よっぽどの偽善者で優しい自分に陶酔してるんでもなきゃ、相手にされてないってことじゃない?」
「どういう意味?」
「君のこと本当に認めてるんだったら、君の心配なんかしないじゃない。君の事大したことないって思って下に見てるから、そういう事が出来るんだって。」
「そんな事…」
「じゃあ、君はその人の事信じているの?」
匂い袋から絵巻物に出てくるような妖しい雲が出てきて、直嗣の頭の中を支配しているような感覚がした。青年の言葉だけがよく届く。
「君はその人に信用されるような人間なの?」
指先の感覚が無くなって、瞼がやけに重くなった。
「君はその人に利用されているだけなんじゃない?」
気が付くと、ベンチに一人、匂い袋を握りしめて眠っていた。
直嗣は青年との会話をよく思い出す事が出来なかった。きっと警備で疲れていたため転寝をしてしまったので、青年は帰ってしまったのだろうと思った。
時計を見ると弁天との待ち合わせの時間になる所だった。慌てて立ち上がったが、どうにも気が重かった。弁天の顔を見るのが億劫で、溜息をついた。
「お前の気持ちは分からんでもないよ。」
義平は朝比奈切通しの警備をしていた実親に向かって言った。
「え?」
実親は重荷だった直嗣のお守から解放され少し安心する気持ちと、どうにもできなかったというスッキリしない気持ちを抱えて、鎌倉周辺の警備の任にあたっていた。七口としての仕事は他のメンバーも新人だったが、直嗣は弁天と組んでいると聞き、内心は穏やかではなかった。外された。そう感じていた。外されて当然だったしそう望んでいたが、それでも任を全う出来なかったというのは不甲斐ない。結局ここでも気持ちが矛盾するのだ。実親はそれが嫌だった。
警備箇所を見回っていると言う義平が実親の顔が見える位置にしゃがみ込んだ。
「予め決められた枠組みの中で生きる事に反発出来る強さが、お前にはあったんだ。だからここにいる。俺だってそうだ。名を上げるために血縁者を殺した事もあったし、無茶で無謀だと嘲笑われるような生き方だってした。成り上がりたいって野心だけで周囲なんかクソくらえって思ってた。」
「隊長も?」
「そりゃそうでしょ。同じだって。当たり前だ。」
「当たり前ですか。」
義平の言う当たり前とは何なのか、実親は戸惑った。
「お前にとっちゃ春も弁天もサラブレッドだ。何を言われても全然響かないだろ。」
「僻んでるんですかね。生まれの賤しさを疎ましく思ってるから苛立つんですかね。」
結局名のある家系の武士が実親のような中流階級の者に何を言っても、上から目線の厭味のような気がして受け付けなかった。それは実親に問題があるからなのか、ただの被害妄想なのか、どう捉えても気に入らないという感情が治まる気がしなかった。
「まさか、自分にないものを持ってる奴が、恵まれてる奴が、てめぇの事知ったような口ききゃあ誰だって腹立つよ。当然だ。だが、隣の芝生が青く見えるだけだよ。あいつ等も別の荷物がある。」
その地位が手に入るならばどんな荷物だって厭わない、かつて実親は悪魔に魂を売ってでも手にしたいと願った。けれど、それも持たざる者の視点なのだ。実親は分かる事のないそれを歯がゆいと思った。
「直の事だって、成り上がり仲間として立派になって欲しい反面ライバルでもある。なのにあいつと来たらやる気が皆無だ。腹立つだろうな。」
「地龍殿と隊長が選んだ人材ですから、有能なのは解ります。それだけに期待値も高かったんです。だからこそ落胆したというか、期待されてることの意味が全く分かっていない事が許せないんです。でも自分が直をどうにかしようとするのは傲慢だったかも知れません。」
本来実親や直嗣のような家系の者は、義平の視界に入ることもない。それが期待されるだなんて、どれだけ凄いことなのか、それに応えることに全身全霊をかける事は当然のはずだ。実親をはじめとする地龍の一般常識では。けれど、直嗣のスタンスは違っていたようだ。実親は直嗣をどうにかしなければと言う気持ちと、何でお前なんかがという気持ちで、随分厳しくしたが、少し離れて見ると無意味な気持ちもしてきていた。どうせ他人事だと。
「そんな事ないよ。俺がお前だったらとっくに直に手上げてる。お前はよくやってるよ。」
「隊長…。」
嘘でも嬉しかった。他のメンバーも皆直嗣に同情的な態度をしており、実親は周囲に認められない憤りを抱えていた。
「なぁ、甘さを実現できるのは強いからだって言っただろ。」
「はい。」
「最初は誰だって考えも詰めも見込みも甘い夢抱くんだよ。プロセスとかすっとばして完成された未来を描くだろ。その時に思った自分って、もっと単純でカッコ良かったんじゃないか?そういうの忘れなければ、強くなった甲斐があると、俺は思う。」
「甲斐ですか。」
いつか描いた実親の理想の強さは、もっと単純なヒーローだった。矛盾も柵もない地位や名声や称賛を手に、羨望を背に感じながら栄光の階段を上って行く。けれど、強くなればなる程に地に足がついて、いつの間にかつまらない大人の仲間入りをしていた。
「親も直も現実を見過ぎだな。少しは甘い理想を取り戻してみたら?何せ此処は最高峰だ、その上も横もない、頂の眺めだぜ。少しは楽しまなきゃ損だろ。」
「お気楽な。」
転生組の楽観的な所は今回失敗しても次があるせいなのだろうか。それとも刹那的な快楽こそが究極的には人生の醍醐味だと悟ったのだろうか。実親は少しでも立派な人生を完遂することこそが自身の生きる目的だと思っていた。その為には失敗は許されない。義平の言う楽しみの代償が汚名では目も当てられないのだ。
「そういう部分も必要だって事だよ。皆目的も価値観も違うんだ、多少幅を持たないと協調出来ないと思わないか?」
「でも我々は命をかけているんですよ。少しの油断が自分だけでなく仲間を殺すことになる。甘えは危険です。」
「仲間には甘えたらいいじゃないか。」
協調・仲間。義平の言う言葉は、実親の中には置き場のないそれだった。自分のことしか考えていない実親には、本当の意味でのそれは解らないし、それで良いと思っていたのだ。けれど、実親の強いと思う武士は皆それを持っていた。もしかすると、今よりもっと上に行くために必要なものはそれなのかも知れない。
「…そう出来ないのは俺がまだ弱いからですか。」
俺。実親のずっと封じ込めていた自分。自然に口をついて出たもう一人の実親は、義平の答えを恐る恐る待っていた。
「余裕が無いのは若さかもな。もしそうなら直はお前より若いって事、忘れてやるなよ。」
義平が最後に言った言葉は、何となく的を得ている気がした。柵はあるが、実親が上手くやれないように、若い直嗣が苦労するのは道理だ。努力はパフォーマンスじゃない。実親の目に入らなくても直嗣は自分のやり方で戦っているはず。ようやく少し視界が開けたような気がした。今なら少しはマシな関わり方が出来るように思えた。
あれだけ苦しめられた夏の暑さも、喉元過ぎれば何とやらで、すっかり涼しくなったある晩のことだった。東京を眠らない街とは良く言ったもので、夜でも人が多く、鎌倉と違って人目につかないように仕事をしなければならない。そんなやり方にもすっかり慣れた晋は、いつものように仕事を終えると処理班を呼び周囲を見回った。路地裏から別の路地裏に入り、何も無いのを確認して来た道を戻ろうとしたその視界を異様なものが横切った。
―――亡霊に殺されたの。
いつかの瞳の言葉が甦った。
晋が路地の奥を見ると、男が立っていた。
その男を視界に入れた瞬間に、あの日見た夢がフラッシュバックした気がした。内容は思い出せなかったが、あの動悸をはっきりと思い出した。鏡の中の自分の目を、他人の目のような、亡霊のようなあの目をはっきりと思い出したのだ。
晋の足はまるで地面に縫いつけられたように動かず、世界がスローモーションになったような感覚に襲われた。路地の向こう側に立っている男の姿は暗く着ている服さえ分からない。けれどその目だけは認識していたのだ。
背筋が凍り付いた。毛穴が開いてビリビリと痺れた。胃のあたりでせり上がって来る圧力が何なのか理解する事を避けて思考を停止した。
随分長い間その亡霊を見ていた気がしたが、瞬きをした次の時にはもうそこには誰も立っていなかった。晋は余程追いかけようと思ったが、本能的に拒否しているのを感じた。頭の中で様々なくだらない言い訳を列挙しながら、追いかけない事を正当化しようとした。
けれどこの時追いかけなかった事を、後になって随分後悔することになるのだった。
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