1 地龍の事
地龍の歴史は古く謎に満ちている。
時は平城とも平安とも言われ、日本には人と人ならざるものが共に暮らしていたという。今では人がそれらを見ることも稀になったが、当時は誰もがそれを普通に目にすることが出来たという。それらと人とはその種の違い故か無秩序で混沌とした世を生きていた。そんな世を憂いた一匹の龍が、初代の地龍当主に特別な力を与えた。その力によって当主は人の世とそれらの世とが共に平和に暮らせるようにしていったという。
そんな言い伝えの真偽はどうあれ、時を経て地龍は大きな組織になっていき、表だって知られる事はないが日本を支える無くてはならないものとなった。
そして現代。時は平成も終わりを迎えようという頃である。
地龍のあり様は変わらず、『昼』と『夜』のバランスを守ることだ。
『昼』とは人の世を『夜』とは人ならざるものたちの世を指した。地龍は『昼』『夜』の共存と平和のために、双方に等しいバランスを守ることを目的としている。
バランスを犯す事象を『揺らぎ』と呼び、『揺らぎ』を討つことで治め、世を守ってきた。
地龍は人の身にありて人にあらず。その特別な力は『夜』を視て、屠ることができるのだ。長い時を経て尚、地龍の武士たちは刀を携え、『揺らぎ』を斬り続けている。
雨が降っていた。
あれは兄の元服の年で、父が死んだ日だった。
あの日から…
あれからどれくらい経ったろう。
父が死に、兄・貴也は地龍当主を継いだ。
覚えているのは、感情を失った兄・貴也の顔と、変わり果てた父の姿。
あの日以来、恭は父の顔を思い出せなくなってしまった。
晋が強く握った手の熱さと痛さだけが、妙に残っている。
雨の音がやけに耳について、暗い道路を流れる雨水が黒く見えた。
「雨は嫌いだ。」
雨の降る暗い空を見上げながら、昇降口で矢集晋を待つ神門恭は重い溜息をつく。
黒い艶やかな髪が恭の溜息によって微かに揺れた。深い黒の瞳は少し切れ長で涼しげだ。鼻筋の通った端正な顔立ちに、気真面目にボタンを全てとめた詰襟姿は、品行方正さを全身でアピールしているようだ。背はそれ程高くはないが凛とした恭の出で立ちが実際よりも大きく見せている。恭の周囲だけが時間を止めたように温度感の無い空気があって、それは誰が見ても感じる『特別』だ。その『特別』は確かに人を引きつけていた。今この時も。最初は遠巻きに見ているだけだった女子生徒達が、いつの間にか恭の周囲で頬を染めながら話しかけてきていた。
「傘持ってないんですか?」
「具合でも悪いんですか?」
「何してるんですか?」
矢継ぎ早に問われる黄色い声に、恭の返答を待つ様子はない。呆れたように女子生徒達を見渡し、決して大きな声でないがはっきりと言った。
「雨が酷くなる前に帰った方がいい。」
正直早くどこかへ行って欲しかったのだが、女子生徒達はその意図に気付く事はなく、むしろ恭の気使いととったらしく一層の盛り上がりを見せていた。
恭はまた空を見て溜息をついた。
「おまたせ、恭。」
明るく言いながら現れた矢集晋は恭より少し背の高い細長い男で、T シャツに詰襟をはおっただけの一見軽薄そうな外見をしていた。髪は色素の薄い茶色で脱色による痛みが見てとれたが、瞳の茶色がかった色は自前であるらしい。つり目で眼光は鋭く獲物を狙う獣のようだが、バランスのとれた容姿をしていた。痩せていながら筋肉が付いていて逞しい印象を与えるその体にはいくつもの傷があった。古いものから、ごく最近のものまで見てとれた。
「遅い。」
恭の不機嫌そうな顔を見て晋はきょとんとする。出来る限りの速さで教室まで二人分の傘を取りに行っていたというのに、親友の冷たい態度は晋にとって意外な反応だった。しかし、恭の周囲に群がる女子生徒達を見て何となく察した。
「ワオ。俺、もっと気を使ってゆっくり行って来るべきだったかな。」
「言ってろ。」
恭は不機嫌そうに茶化す晋に手を出す。晋は恭目当てだった女子生徒達が今度は晋に関心を持って近づいて来るのを愛想の良い笑顔であしらいながら、教室から持ってきた二本の傘の内一本を開いて恭に手渡す。恭は黙って受け取ると晋を一瞥もせずに雨の中へ踏み出していった。晋はそんな恭の態度を一切気に留めていない様子で後を付いていく。
「雨は嫌いだ。」
「うん。」
いつしか女子生徒達はいなくなり、曇天の薄暗い道路を二人で歩いていた。
恭は黙って手を見つめた。あの日のリアルは晋の手の感触だけで、唯一それだけが悪夢を現実だと証明していた。
「晋、お前、怪我してたのか、脇腹のところ…。」
恭は先ほど傘を受け取る時に違和感を覚えたので訊いた。朝も一緒に登校したのだが、その時は気が付かなった。
「ん。昨日ちょっとね。」
晋が曖昧に濁した。
「折れてるんじゃないだろうな。」
「いやいや、折れてたらさすがにもっと痛い。」
折れていたら誤魔化せなかっただろうと笑う晋を見ながら、肋骨骨折を経験している言い方が嫌だなと思った。晋は幼い頃から怪我ばかりだ。痛みに慣れて欲しくないが、地龍の武士は危険と隣り合わせで戦っているので致し方のない部分もあり、飲み込んだ。
「揺らぎの討伐で…『夜』にやられたのか?」
「う〜ん…や、御仲間にちょっと小突かれまして。」
晋の視線は恭を見ない。何かを誤魔化す分かりやすい挙動。
「またか。相手は?どこの誰だ?」
「知らないけど、今は病院でおねんねしてるはず〜。」
晋の言葉に恭は鋭く睨んだ。晋はその視線をわざと傘で隠すように避けてもごもごと言い訳を連ねようとしたが、恭が遮った。
「よく処罰されなかったな。」
仲間を病院送りにして無罪とは。
「今回はあっちが先に手を出した証拠があったので、まあ、何とかなりました。心配かけてごめんなさい。」
晋は強い。そこらへんの武士に小突かれて怪我をしたりしない。分かりやすい幼稚ないじめだ。晋は自分の事ならば耐えるつもりだったろう。だから一撃目は黙って受けた。けれどおそらく相手の誹りは恭に及んだのだろう。
恭は地龍当主の弟だが、当主である兄・貴也が恭に任せるのはわずかな『揺らぎ』の討伐だけ。基本は暇で、故に目立たず地味で、無能で不要と思う者も少なくなかった。
「忠義を尽くすなら、無傷で、穏便に済ませろ。」
「呪われた当主殺しの矢集家の直系である俺を、無傷で穏便にしてくれる人がなかなかいないんだよね〜。」
晋は恭の側近だ。そして呪われた血統の末裔。晋と恭との関係は物心ついた頃には既に側にいた程で、現在に至るまで殆ど離れたことはない。
「なるべく兄さんに迷惑をかけたくないんだがな。」
晋の過剰な報復に罰が下されなかったのは不自然だ。きっと貴也が手をまわしたのだろう。
「でも貴也さんは恭を溺愛してるから、恭の悪口を言った奴なんて無事じゃすまないだろ。俺で良かったよ。何週間か寝てれば元の生活に戻れるんだから。」
「…そうだな。」
貴也の報復はきっと権力という暴力で、二度と日の目を見ないまでに徹底するだろう。それを思えば、全治何週間か知らないが随分ましなはずだ。
帰宅した恭と晋は玄関先で貴也に会った。
恭と晋のちょうど間位の身長をした貴也が二人を見上げてから見下ろした。
「恭、学校は終わったのか?」
いつものように恭に笑顔を向ける貴也。
貴也の顔はよく見れば恭のそれとよく似ていたが、恭にない明るさや社交性に富んだ笑顔のせいだろうか、誰からも似ていると言われたことはない。貴也は太陽、恭は月だと、周囲はよく表現した。貴也はこの比喩を嫌ったが、恭は本当だと思っていた。恭にとって兄・貴也は眩しい存在だった。
「晋もいるな。丁度いい。紹介しておきたい者がいる。」
貴也は満面の笑みで後方からついてきた老人を顎で指した。
「某は長老会より新しく若い御当主様の側にお仕えするべく参りました。小鳥遊翁と申します。よろしくお願いいたします。」
小鳥遊は想像上の仙人の絵のように長い頭蓋をしていて毛髪は無く、目ばかりがやけに大きくぎょろぎょろと不気味に動いていた。しわがれた呪詛を吐くような恐ろし気な声で挨拶すると、骨ばって筋や血管が老いた肌から浮き出た手を腹の位置にそろえ、深く頭を垂れた。
「我が弟の恭とその側近矢集晋だ。」
「恭で御座います。これは私の側近の矢集晋です。」
恭が少し前に出て挨拶をすると、晋はその斜め後ろで深く頭を垂れた。その晋に鋭い視線、殺気と言っても過言ではない程の鋭利なそれが刺さった。その視線の主である小鳥遊は大きな目を細め、さも蔑んだように言葉を吐きだした。
「矢集とは、随分と趣味の悪いペットですな。愛玩動物にするには牙が鋭過ぎるのではありませんか?檻に入れておくことが賢明と思われますが。」
恭が何かを言おうとしたが、その肩を晋が掴んだ。振り返った恭に晋は必死で首を横にふった。
「面白い事を言うな。それは弟のお気に入りだ。首輪のついた獣を恐れるようでは地龍の男として情けがない、あえて見せつけて歩くよう俺が指示したのだ。まぁ小鳥遊殿のお気に召さないようである故、下がらせようか?恭。」
貴也の言葉に小鳥遊は慌てて止める。
「お、お待ちください地龍殿。そういう事でしたら構わないので御座います。矢集は地龍に仇なす呪われた家系で御座います故、危険ではないかと思われました次第。御気に障りましたのであれば、この通りで御座います。」
再び頭を下げる小鳥遊に、恭と晋は返って申し訳ないような気持ちになり貴也と小鳥遊を見比べると、貴也は小鳥遊が頭を下げている間に舌を出していた。
貴也が小鳥遊を連れて他へ挨拶へ行く後ろ姿を見送ってから廊下を進むと、奥から一人の青年が現れた。
清和源氏当主・源義平は、立たせた髪にまくった袖から出る筋肉質な腕と、勝気な眉と生気に漲る目が印象的ないかにもワイルドな青年だ。見た目はまだ若くエネルギーに漲っているが、彼の持つ雰囲気は老人のような達観と貫録だ。源氏当主としての威厳は十分で、リーダー性に満ちていた。
「よう、おかえり、お二人さん。」
明るく手を振る義平に二人は礼をして対面した。
「今、長老会の新しい監視人と会いました。」
「今度の人はえらくご老体だったけど、長く続くのかな。」
二人が言うと、義平は頷いた。
「貴也が当主になってから長老会は入れ替わり立ち代わりスパイを送り込んでくるけど、悉く貴也にいじめられて泣いて帰ることになったからな。年の功にかけるしかなくなったんじゃないか?」
長老会は京都にある地龍の機関で、地龍本家を支配的地位に置かぬよう造られた対立機関だ。とは言えかつての源平の騒乱の後に造られた、平家の武力を背景にした朝廷と京貴族の団体であるため、現在源氏寄りとなってしまっている地龍本家とは冷戦状態である。
「長老会も地龍本家の様子を見ようと必死だな。」
「現在は膠着しているが、何とか大義名分を得て戦に持ち込みたいのだろう。」
「この二十一世紀の世に源平合戦なんてな。」
「仕方があるまい、実質地龍内部は大きく二つに分かれてしまっているのだから。」
平安末期に起こった源平の合戦の影響は今も地龍の権力を分断させている。本家のある鎌倉と、都のあった京都とを本拠地として、源平の合戦は未だに続いているのだ。
「しかし堂々とスパイを送り込んでくるとはなぁ。そして例外なく目をつけられる呪われた俺。本当にめんどいんですけど。」
晋が辟易とした様子で小鳥遊が去った方を見た。
「義平さんも小鳥遊殿に挨拶ですか?」
「ああ。貴也の奴がどうしてもってな。今までの監視役も随分と貴也の仕事の邪魔ばっかりしてきただろ?おかげでこの八年近く本当に仕事が思うように進まなかったからな。貴也が若いからって長老会の言いなりになる隙があるもんだと決めつけてやがる。今回は年かさもいってるからな、最初から転生組である俺で牽制したいんだと。」
貴也が当主になってから八年近くになるが、まだまだ体制が整っていない。特に地龍当主直轄の『龍の爪』という組織に十人、源氏当主直轄の『鎌倉七口』という部隊に七人。本当ならすぐにでも整えたかった人事だが、長老会はじめ各方面からの政治的妨害にあい、未だ仮任で実質空席のままだ。義平のメインの仕事は現在この人事だった。
「向こうは朝廷を囲う長老会ですよ。義平さんが平安の時分に源平合戦で戦った源氏の大将源義朝が嫡子悪源太義平の生れ変りだって言うことが、逆効果になるかも知れないじゃないですか。」
「だからって急に切りかかって来るわけじゃなし、源氏の当主でしかも転生組の俺に礼を欠くことはあるまいよ。俺が何回生まれ変わってると思ってるんだ?小鳥遊なんて赤子も同然だって。」
地龍には転生組と呼ばれる転生者たちがいる。皆名のある者で、ビップだ。
「そんな…じゃあ俺たちはどうなるんだ…。」
晋が恭を見たが、恭は諦めのように首を振った。
義平は二人を慰めるように肩を軽くたたいた。
「明日は仕事だろ?小鳥遊のじいさんの事は忘れて早く休め。小鳥遊殿は地龍当主の監視役だ。俺やお前たちとは関係がない。気にしないで普段通りに過ごせよ。」
義平が去っていった後ろ姿を、恭が立ち止まったまま見つめていた。
「恭?」
呼びかける晋を見ない恭の横顔は一見無表情だが、その目には深い闇色の炎を湛えていた。
「さっき、小鳥遊殿の言ったこと。もし誰も止める者がなければ、俺は何をしていたか分からない。俺を軽蔑するか?」
矢集を侮辱する言葉の応酬。晋にとっては日常だ。けれど傷つかない訳ではない。恭は分かっていた。だから腹がたった。
「恭を苦しめる奴がたとえ何者であっても、俺は地獄の底まで追いかけてその目をその舌を体を二度とこの世に還れぬ程に切り刻んでやるよ。恭は俺を軽蔑する?」
恭が振り返り、答えを告げるより早く晋は言葉を続けた。
「否、例え恭に蔑まれても、俺は恭の敵となる者をすべて退けるだろうな。それが嫌ならそれこそ本当に俺を檻にでも閉じ込めた方がいい。」
自嘲的な笑みを浮かべる晋に、恭は少しだけ寂しそうに目を伏せた。
自分の事なら耐えるけれど、恭への誹りは許さない。そんな晋の生き方を思う。
そして晋を追い越して廊下の奥へ向かって歩き出した。
「晋への命令は変わらない。俺と生きることだ。」
静かな恭の言葉が晋の心に沁みわたるのを待つように、恭が去っても晋はしばらくその場に立ち尽くしたままで目を閉じていた。
翌朝はまだ日も高くない内に恭は家を出た。恭の斜め後ろを晋がいつものように付いて歩き、その後ろを…
「小鳥遊殿、貴方は兄の側にいることが御役目ではありませんか?」
訝しげな表情は迷惑という感情が明らかであったが、小鳥遊は眉一つ動かさない。
「左様。しかし某は貴方に興味が湧いたので御座います。足手纏いにはならぬ故、御供させていただきます。」
恭の許可を求めない強引さで付いてくる小鳥遊の足取りは見た目より遥かに身軽だ。
「そのようだ。しかし、貴方が期待するような事は何も起こりませんよ。」
吐き捨てるように言う恭に、小鳥遊は満足気に言う。
「結構。」
三人は鬱蒼と木が生い茂る山道を汗ひとつかかずに登る。
恭は黒いYシャツに黒い細身のパンツを履き黒い革靴が汚れるのも構わず、昨日の雨でぬかるんだ土を踏みしめる。腰に専用のベルトで固定した日本刀が下がっていて、歩く度に揺れていた。黒い柄に黒い鞘で恭と同じく頭から爪先まで真っ黒い刀だが、その黒い鍔には地龍の紋が刻まれており、名を『黒烏』と言った。古くから受け継がれて来た由緒ある刀だが、本来は二振りで一組である。対となる『朱烏』は兄・貴也が所持しており、父である先代が生前二人に一振りずつ継がせたのだった。尤も正式に継いだのは先代が死んだ後であったが。それを思うと先代は死を予見し準備していたのだろうか。恭は今更考えても仕方ない事と思いながらも、『黒烏』を見る度にそんな思考に駆られる。
「恭様、道が無くなって来ました故、私が先を歩かせて頂いても?」
晋が恭に声をかけた。
晋はラフな白地にショッキングピンクのペイントで英単語の描かれたTシャツに、ダメージ加工のされたジーンズを履いて、よく履きなれたスニーカーという姿だった。その腰には恭のものより丈の長い日本刀を下げていた。薄汚れた白に赤黒い装飾を纏った刀は如何にも不気味な代物に見える。矢集家に代々伝わる呪われた妖刀で、持つべき者が持てばその力は鬼の如き、と謂われる。尤も、呪われた、などと言われるのには別の理由があるのだが。
山道がとうとう途切れ、木が茂る道の無い所を進まなければならなくなった。晋が前へ出て木々を払いながら進む。恭は晋の作った道を歩き、小鳥遊は恭の足跡を踏んで歩いた。
「恭様、御許し頂けるのあれば、私にこの先を見に行かせて頂けませんでしょうか。」
「許そう。私達は此処で待機しておる故、矢集は先を見て参れ。」
「有難う御座います。」
小鳥遊の手前、二人は丁寧に主従関係を思わせる話し方を選んだ。
それは矢集の家系である晋と地龍本家の血をひく恭が共に生きていくために必要な事のひとつだった。飽くまで恭の側近であるという立場を確立することは。
晋が山道の先へ入って行ったのを見送ってから、小鳥遊が口を開いた。
「恭殿、何故空間転移をなさらないのですか?あの獣は転移を使えぬのでありますか?ならば某が・・」
小鳥遊が最後まで言う前に恭は少し大きな声で言った。
「転移はあまり使わないようにしている。消耗が激しい術は後で持久戦になった時に不利になる。」
空間転移はいわば瞬間移動のようなもので、好きな場所に一瞬で行くことができる術だ。自分の現在の座標を正確に理解し、また目的地の座標を正確に定める事が基本である。だがそこで向き不向きがはっきりと別れる。この術には天性のセンスが必要なのだ。その上他にも条件が整わないと成立しない。例えば行先に結界などがある場合はその結界を通る許可を持っているか、もしくは結界を無理矢理突き破るだけの力があるかでなければ術は成立しない。地龍関係の屋敷の類はだいたい結界があるため、多くはその結界の外まで転移する。それに空間を人一人飛ばすのにはそれだけで大きな力を要する。座標を定めるのに使う集中力と空間を転移しその間結界などを破る術力を総合しても、かなりの消耗を伴う術だ。それでも何もなければ気軽に使うだろうが、術を使用した後に大きな戦闘になった場合圧倒的不利になる可能性は高くなる。
「兵法の基本でありますか。しかしそのために獣を飼いならしているのではありませんか?」
「成程、小鳥遊殿は実戦の経験が少ないようですね。」
「…確かに某は実戦を退き長い。ですが鍛錬を怠った事はありませんし、腕には覚えがあります。」
「いいえ、そのようなつもりで言ったのではありません。ただ、獣の使い道を知らぬようなので言ったまで。」
恭の目は小鳥遊の頭から爪先までをじっくりと値ぶみするように見ていた。小鳥遊は思わず唾を飲んだ。厭だな、と思ったのだ。監視するつもりで来た小鳥遊は、返って自分が監視されているように思われた。貴也とは全く違う妖しい目の輝きに、恭という人物の底知れなさを感じていた。
二人の間に妙な沈黙が流れ始めた、その時だった。
「危ない!!!」
晋は叫びながら藪の中から飛び出してきた。
晋の声と同時に同じ藪の中から大きな、長さは凡そ三メートル、太さは恭や晋を束ねたよりも太い程の蛇が現れた。既に興奮した様子で晋を追って来た蛇は標的を一気に恭に変えて猛スピードで突っ込んでくる。それを晋が恭を押し倒す要領でかわす。
「恭、怪我は?」
「大丈夫だ。晋は?」
「俺も平気だ。それよりごめん、何か俺怒らしちゃったみたい。」
話ながら恭を起こすと、離れた場所から小鳥遊がじっと二人を見ていたのに気がつく。
「否、あれはおそらくはじめからああなのだ。」
二人で見上げると蛇は無為に暴れ木々をなぎ倒している。
「矢集、お前は俺が呼ぶまであれの気をひけ。」
「御意。」
晋が蛇の方へ身軽に木々を飛び越えながら向っていくと、蛇も晋を追おうと突撃してくる。それをまた難なく避けるが、蛇の気を引かなくてはならないため、蛇の胴体をわざわざ撫でながらかわしていく。それを見もせずに恭は山の頂上へ向かう。
「あれが獣の使い道ですか?」
不満そうに訊く小鳥遊に、恭は言う。
「左様。この上には池があるそうです。そこまで行きます。貴方は此処に残って頂いても構いませんが。」
「参ります。」
恭の冷たい言葉に、むきになるように食いついてくる小鳥遊は、恭の手腕を見極めてやろうと眼光を鋭くさせる。
山頂につくと恭はすぐに、直系10メートル程の小さな池の周囲に陣を描き始めた。落ちていた木の枝で地面を掘りながら描く紋様は古い、小鳥遊でも見たことのない陣だ。歪な丸い池を囲うようにきれいな円を描いていく。円は主に召喚や転移に使用する陣だ。円陣を、しかも池を囲いながら描くなどとは思わなかった小鳥遊は、急に静かになり、恭の姿を大人しく見ていた。
「ここは最近、心霊スポットだとか、ツチノコだとか、妙な噂で人が集まっていました。そうしてしばらくして、大蛇の妖怪が出ると言われ始めたんです。」
「あれのことですな。」
「間違い無いでしょう。」
言いきると同時に描き終わった恭は語尾を強めた。
晋と蛇は山の斜面を荒らしまわっている派手な音だけは聞こえてくるが、位置や状況は分からない。小鳥遊は恭の言葉を思い出した。呼ぶまで気を引くようにと言っていたが、どうやって呼ぶのか?呼びに行くのか?
小鳥遊の疑問を意に介さぬ涼しい表情で恭は呼んだ。
「矢集、来い。」
凛とした、美しい響きだった。
その響きが雫となって池に波紋が広がり陣が光を放った。その光に目を奪われた瞬間、陣の中に蛇と晋が現れ、一瞬宙に浮いていたかと思いきや池に勢いよく落ちた。深さはさほど無かったようだが、蛇が丸ごとはまる丁度いい大きさだった。晋は池にはまって大人しくなった蛇の上で体勢を整えてから、地面と言っても池と陣との間の狭い隙間へ降り、陣の内側で最も恭に近い位置で膝を付いた。
「御苦労。出ろ。」
恭の労いと命により陣の外へ出た晋は、恭の後ろで呆然としている小鳥遊と目があった。
「こんな…これは転移の陣だったというのか?しかしこのような陣、否術自体を見たことがない。ダイイチこういった術は陣を二つ置き、その双方を行き来する類のものではないのか?それを、着地点のみ用意しておいて、離れた人間を転移させるなど。」
「これは無理矢理に離れた人物を転移させる、召喚に近い術だ。おかげで着地の反動が強い。そのためのクッションに池を使用した。」
恭が小鳥遊のつぶやきに親切に応えてやると、晋が付け足した。
「恭様は幼少期より座標を読むことに長けておりました故、こういった高度な術を御使いになられます。」
小鳥遊は平素から大きなその目を眼球が落ちるかと思われる程に見開き、動揺した口ぶりで反発した。
「座標を読むことに長けていたと言っても、普通は転移と言えば、現在の自身の位置から目的の場所、建物や目印のある地の座標を固定するもの・・・。それを動くものの座標を読むとおっしゃられるのですか?座標の固定出来ないものを転移するなど、上級の呪術師の中でも選ばれた者しか出来得ないことです。それを・・・」
「小鳥遊殿、矢集は俺の首輪のついた獣です。俺は俺の獣のいる場所ならば解りますよ。これが、獣の使い道です。もちろんこれはほんの一部ですが。」
もはや小鳥遊には恭の言うことが何も理解できる気がしなかった。格が、違い過ぎる。はっきりと感じる畏怖は最早人への敬意ではなく神への畏れに似ていた。獣を飼う者とは斯くも大きな力を持つ者でなければならないのか。小鳥遊は閉口したまま後退りした。
恭は陣の中の蛇を見ると、陣の中へ札のような物を投げ入れた。すると、大きかった蛇がみるみるうちに縮んでいき、最後には一般的な蛇の大きさまでになった。蛇は池と陣の間の狭い地面に辛うじて乗り、ゆっくりとトグロを巻いた。
「蛇よ。何故このような場所で暴れていた?」
恭が蛇に話しかけた。小鳥遊はまた驚愕の表情を浮かべたが、晋はただじっと蛇を見ていた。
「訳があろう?話してくれねば無為な争いが続くのみ。それともそれが望みか?」
恭の言葉に反応した蛇はゆっくりと恭を見た。
『…私はこの山の主だ。山を守ることが私の望みである。』
主、という言葉に恭は蛇への敬意を示し、一礼をした。蛇は目を細めると礼を返した。
「主であるならば何故、話してはくれませんか?」
『ここの所、人間達はこの山へ来ては山を荒らして帰る。まるで山を荒らす事が目的ででもあるように、動物や植物を傷つけ、そして私をも捉えようとする。それで、ここへ人が来ぬよう少し脅かしてやろうとしたのだが、前にも増して人が来るようになった。最近の人間は『夜』を恐れることも畏れることもなくなったのだと知った。』
「それで失望し暴れていたのですか?」
『否、脅かすだけでは効果がないので、一度痛い目に遭わせようと思ってな。』
「それが私達だったと言う訳ですか。」
『ついてなかったようだな。お前達は地龍の術者だろう?どうか頼む、この山には私の他にも多くの『夜』が住むが皆戦う力は弱く人に虐げられてしまう。この山とこの山に住む者達を助けてくれ。』
「…解りました。ではその代わりに、貴方を含め山の住人達には人の前に姿を現さないと約束して下さい。」
『おお、おお、するとも。もちろんだ。我々はできることなら人とは関わらずに生きていきたいのだ。ありがたい、本当にありがたい。』
蛇と約束を交わしてから、蛇を離してやると、蛇は人には見えぬ姿となって山の奥深くへ入っていった。
晋が池の周りの陣を消していると、ようやく落ち着いてきたらしい小鳥遊が恭に話しかけてきた。
「結局刀を抜くこと無く事を治めてしまいましたね。恭殿、これが貴方のやり方ですか。」
「『昼』と『夜』のバランスを整えることこそが、我々の真の役割でしょう。一度刀を抜いてしまってはもう交渉の余地はありません。俺は『昼』も『夜』も交渉可能な限り刀を抜きません。」
「面妖な。これが地龍の在り方ですか。このような理想論を実現しているとは。見たことがありませんよ、多くの場合あの状況であれば有無を言わさず斬って終わりです。貴方は本当に底知れない。」
「小鳥遊殿が期待するような事はありませんよ。」
始めと同じことを恭が言った。
「結構。ますます興味がわきました。貴方という人とその獣にね。」
小鳥遊は下まぶたを細めて無気味に笑った。
「しかし、この山に来る人間を止める策はおありですか?」
「何、この山は元々人など近寄らぬ場所。何も出なければ自然と足は遠のく。それだけのことです。」
「何と。…結構。実に結構。」
小鳥遊は満足気に言うと、丁度後始末の終わった晋が恭の元へ戻って来た。
「では帰りはこの老いぼれ目がお送りいたしましょう。無理矢理に同行させていただいたお礼に。」
小鳥遊は三人を囲うように杖で宙に円を描き、杖で地面を叩いた。するとその瞬間には三人は消えていなくなってしまっていた。
その後しばらくして、その山とは遠く離れた山道がテレビや雑誌でパワースポットとして持て囃され始めると、その山には人一人として踏み入ることはなくなっていた。
また、今回以降恭の仕事というと小鳥遊はどこから聴きつけるのか無理矢理ついて回るようになった。その態度があまりにも厚かましいので、数度目には既に恭も晋も呆れ暴言を吐くようになったとか。
「おい、小鳥遊のジジィ、また来たのかよ。恭の迷惑考えろ。」
「何を、下賤な獣の分際で生意気な口をききおるわ。ワシとてまだまだ衰えておらぬ、お主など叩き潰してくれようか?」
「あ〜ん?やんのか老いぼれ。」
「滅してくれようか若ぞう。」
「やめろ。喧嘩するなら置いて行く。」
「えっ!ごめんなさい。もう喧嘩しないから連れてって。恭、待って。」
「ワシも行きまする。お待ちくださいませ。恭殿。」