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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

知りたい、分かち合いたい。

作者: 諭吉

作中に登場するキリスト教関連の要素には、現実の事情とは異なる描写が多数存在します。宗教を貶める目的で書いた物ではないですが、不快に思われた場合はブラウザバックして下さい。


 その人は、決まって満月の晩に現れる。


 この街では、満月の日の夜に雲がかかることがない。人々はそのことが当然だと思っているし、同様にして綺麗な満月に興味を持たない。青々として爽やかな昼の空気とは180度異なる、排気ガスの淀みと人工の明かりにかき消された光の静謐をたたえた空に月が燦然と輝くその光景によって、私達の心が動かされることは無い。


 だけれど、それは私にとっては遠い昔の話だ。奉公人として幼い頃から勤める教会の古びたステンドグラス越しに青く染まった月を眺め、私はその麗しさに感謝する。神様がいるのかどうか、天国というものがあるのかどうか、私は未だに自分の中に確たるものを作り上げられてはいない。でも、この月が告げる時の流れだけは、決して私を裏切ることはない。


 今日は10月で二回目の満月。あの人がこの教会を訪れて、告解をしていく日だ。私は加齢によって夜の間のお勤めが出来なくなった神父様の代わりに、夜遅くにやってくる灰色の彼と神様の間の導線になる。


 もう既にいつもよりも念をいれて彼が触れるところ、見るところを掃除しておいた。告解室の花瓶の花は新しいものに差し替えて、間接照明の光に照らされる見た目が綺麗になるように、20分かけて配置を調整した。私の身なりは質素な修道服に淡泊なロザリオだけだけれど、その分小さなほつれや乱れが目立ってしまわないように十二分に気をつけて整えた。


 そうして、彼の訪れを待つ。私の呼吸の音だけが響く教会の中で、彼一人の為に過ごすこの時間は、期待で胸を熱くする他の何にも代えがたい高揚感を私に運んでくれる。この感情が恋と呼ばれるものだと、幸せなことに私は自信を持って断言出来る。


 小さい頃から孤児として神父様の元で育った私にとって、恋愛というのはどこか遠い世界のフィクションのように思えて仕方が無かった。みんなが幸せな家庭で育つ中で、私ただ一人が違っていた。私と実の両親との間の関係性を証明するのは、みすずという二人が私に付けてくれた名前だけだった。教会本部からの支援金はその殆どが施設維持費に消えていくため、私達二人は年々減る信者からの献金に大きく頼って生活していた。だから、裕福という言葉が似合うことはおろか、一歩間違えば生活保護の対象になってもおかしくは無かった。だから私は生まれてこの方娯楽というものに満足に触れたことがない。小学校に入学して遊び仲間の男子達が公園で走り回る代わりに携帯ゲーム機で遊び始めた頃に、中古ショップで神父様が買ってきたダボダボのオーバーを羽織った私は、それを鉄棒にぶら下がって眺める立場にしかなれなかった。中学校に入って女子のみんながおしゃれに気を使い始めた頃に、神父様に替わって二人分の家事をしていた私は手のアカギレをひたすらにさすっていた。保護者参観に来るのは決まって年を食った老人が一人。神父様は明らかに周りの相対的に若い父親母親の中で浮いた存在だった。


 私は他のみんなとは違っている、と私が考えるようになるのは自然な事だったと思う。そして、その感覚は、これだけ他のみんなと同じようにやって来た反抗期を終えて神父様に対して深い感謝の気持ちを持てるようになった今でも、変わっていない。私は他のみんなとは違う。だから、恋愛なんて他のみんながすることで、私にとってはフィクションだ。

 そう、私は思っていた。



 そんな私の神父様との暖かくも貧しい生活に、一筋の光が差したのは私が高校を卒業して、バイトを続けながらこの教会に正規の奉公人として勤めるようになった頃だった。私が神父様の代わりに夜間のお勤めを執り行うようになって何度目かの、いつものように満月が街を見下ろす夜に、彼は突然やって来て私にこう告げた。

「私の罪を告白させてくれ。そして、願わくは私のことを口先だけでも良い、赦してくれ」


 灰色の外套を纏い、フードの下の顔色はうかがえなかったが、私にも一つ伝わって来る強烈な感情があったのを覚えている。彼は泣いていた。物理的にではなく、心で。まるで魂をヤスリで削られているその最中であるかのような悲鳴を、私は確かに感じ取った。私は慌てて使われなくなって久しかった告解室の鍵を開け、彼をほこりっぽい空間に招き入れ、作法も知らないなりに必死に神様とのパイプ役として彼と対話をした。


 彼の懺悔は私に一生忘れることのない衝撃を残すのに十分なものだった。

「私は、一線を越えた。手を下すのは仕方の無いことだった。だけれど、それが回避できたことなのか、分からない。他に彼女を救う手段があったのかも知れない。私に無垢の彼女の未来を奪う権利など、あるはずがないのに、私は傲慢にも彼女ごと病魔を刈り取った。私は赦されないのだ。ああ、今すぐに死ねたらどれほど楽だろう!この苦しみから解放されたい、救われたい!」

無垢だの病魔だの、中二病じみた言動をする彼は何らかの形で人を殺したのだ、と悟る事は難しくは無かった。即座に警察に通報する事に思い当たったが、どうしてだろうか、私はもう少しこの謎めいた男の話を聞いてみよう、と言う気になった。彼が単なる悪人だとはどうしても思えなかった。今思えば、私はこのとき既に「みんなとは違う」彼に惹かれていたのだろう。


 「神様は全てをお許しになります。だから、貴方の心の内を包み隠さず明かしてください。」

この時から以降、私は私自身の興味のために、ブレーキが壊れてしまったかのように止まることのない彼の慟哭を全て聞き届けた。時たまに相づちをうち、彼の感情が高ぶった場面では彼のことを慈しむような言葉をかけてその後の言葉が出てくることを辛抱強く待ち、いつしか輝きを取り戻した彼の瞳をじっと見つめ続けた。


 夜が明ける直前に、彼は自分の感情と折り合いを付けることが出来たのか、ようやく静かになった。そして、私の瞳をまっすぐ見つめ返して、言った。

「ありがとう、心が晴れたようです。勿論完全にとは言わないし、そうなったら私は私を許せないから苦しみを忘れきるつもりはないですが。貴女には感謝してもしきれない。」

「いいえ、私はただ貴方の話を聞いていただけですから。貴方自身の強い心に、きっと神様が祝福を下さったのです。」

「そういうことにしておきますか。」

彼はここで初めて笑った。さっき教会にやって来たときとは似ても似つかない、朗らかな表情が一瞬だけ、灰色のフードの下に見えた。

「それでは。長々と付き合わせてしまいすみませんでした。」

そうして、彼は席を立った。私は何かに突き動かされるようにして、足早に出て行こうとする彼に言葉をかけた。

「また悩むことがあれば、いらしてください。神様はきっと貴方の苦しみを聞き届けてくださいますから。」

それは神様という存在を楯にした、彼との再びの逢瀬への願望でしか無かった。彼はそれを知ってか知らずか、鷹揚にうなずいてくれ、そして教会を去って行った。



 その後、私は老人らしく朝早くに目を覚ました神父様に彼のことを「殺人」の部分を完全に省いて報告し、どっと押し寄せてきた疲れに身を任せて眠りについた。その日の夢は、さっきまで対面していた彼が街の闇に溶け込み暗躍する、まるで少年漫画のストーリーのようなものだった。目を覚ましたとき、私は顔もよく分からない彼のことを夢に見たことを恥ずかしく思ったのと同時に、想像上の彼の姿と、彼と関係を築く事が出来るかも知れないと言う状況に対して、少し興奮した。


 どうやら他のみんなとは違う私には、他のみんなとは違う運命が待ち受けていたらしく、その後彼は満月の夜になると決まって私の元に現れるようになった。


 最初の時ほどではないにしても、彼はいつも悲しみを背負ってやってきた。そうして長く続く告解を終えて、また朗らかになって帰って行く。その過程に携われることは、私に暖かな充実感を与えた。

いつからだろうか、私の方からも話を振るようになり、もっと個人的な事を話題にするようになったのは。私は彼が独り身で、友達と呼べる存在が少なく、私と同じように両親に育てられてはいないことを学んだ。逆に彼は私の出自を聞いて、深く同情してくれたと思う。次第に告解という行為は私達のおしゃべりの枕に近い存在に成り果て、彼と私の間には個人的なつながりが生まれ育っていった。



 私は、彼のことが好きになってしまったらしい。



 そう気が付いたとき、私の心は沢山の欲望で埋め尽くされた。彼のことをもっと知りたい。私の事をもっと伝えたい。彼にもっと近づきたい。神様と人々に奉仕すると誓った貞潔の請願は、この圧倒的な欲望の前では塵にも等しかった。


 私のうぬぼれでなければ、彼も私との会話を楽しみにしてくれていると思う。


 けれど、彼はどうしても何を生業にしているのか、私に明かそうとはしてくれない。嘘偽りのない経歴も、そして名前も。


 私はそのことを受け入れるしかなかった。次こそは、教えてくれるのだろうか。そう考えて、彼の普通ではないかもしれない正体を妄想することが、最近の私の日常だった。



 扉の開く音が教会の静寂と私の妄想に終わりを告げる。

「こんばんは。」

いつもの灰色の外套を身に纏い、フードを外した背の高い彼が、私にぎこちない微笑みを向けている。彼の簡素な挨拶にすら舞い上がってしまう心をどうにか鎮めて、だけれど少しだけ彼に分かるように表に出して、挨拶を返す。

「こんばんは、お待ちしていました。告解室の鍵は既に開けてあります。」


 今夜もまた、みんなとは違う運命の新しい一ページが私の人生に積み重ねられる。











 綺麗に整えた間接照明が薄暗く照らす告解室の中で、彼はいつものように私の合図を待たずに話し始める。

「私は・・・そう、私は罪の意識に苛まれています。」

彼の顔に浮かんでいる影を早く取り除きたいとはやる気持ちを抑えて、私は彼に話の続きを促す。

「どうぞ、全てを正直にお話しください。」

正直に、と言う言葉には彼の本当の行為を知りたいと言う願望が込められているけれど、きっと届くことはない。彼は私の瞳をじっと見据えた後、いつものように心境を吐露し始めた。

「私は、また無垢の人を救えなかった。私の力が足りないばかりに。私はきっと多くの人間を不幸にしている。最近、特にそう思うことが増えてきました。一方を立てれば、もう一方がたたないというのは至極当然のことかも知れません。もうすぐ、もうすぐこの戦いには決着が付く。だけれど、それまで私の行為が救われるべき人間に救いを届けられないと考えると、心が軋むように悲鳴を上げるのです。」

彼が話す内容は相変わらず具体性に欠けていて、言い回しがフィクションじみている。だけれど、その言葉が真実であると、私は確信している。


 「そうですか。貴方は貴方の信じる正しさを表現するために、全力を費やし、それでもなお届かなかったのですね。」

「はい。私はどうしても、誰かを不幸にしなくては誰かを救えないのです。本当に、酷い。」

「酷い人間などこの場にはいません。人間は罪深い生き物です。しかし、変わることが出来るのも、また真実です。貴方は自分の罪を悔い、そして生まれ変わるのです。」

「ああ、神は私をお赦しになるだろうか。」

「ええ、全ては赦されるでしょう。」

「ありがとう。」

たったこれだけのやりとりで彼の顔からは影が消えて、柔らかい笑みが浮かんできた。


 告解という行動には、自分の犯した罪を正直に告白して反省する、という目的がある。反省を通じて二度と同じ過ちを犯さないように決意する、あるいはさせるのが告解のあるべき姿なのだろう。だが、彼はいつも「また」というように話し出すし、私の方も本気になって彼に過ちを止めさせる気は全くない。私達はただ言葉を交わし感情を触れ合わせる和やかな時間を過ごすためにここにいる。これからは、ここにいるのは神父の皮を被った女の子と、告解するという建前をかなぐり捨てた男の人だ。


 「ところで、今日は花瓶の花を新しい種類にしてみたんですけれど、どうですか?綺麗に見えると嬉しいのですけれど・・・。」

「ええ、気が付きましたよ。大きくて明るい色の花びらが美しいですね、何という種類の花なのですか?」

「カラーと言います。名前の由来がギリシャ語で『美しい』を意味するカロスなのではないか、と言われているそうですよ。」

「それはなんとも自信満々な花だ。」

「ふふ、面白い見方ですね。」


 もし本当に神様がいるのならば、神様のことを介しないで幸せになっている私達に天罰を下すかもしれない。



 今夜もまた、色々なことを話した。子供の頃のこと、アルバイト先のむかつく先輩のこと、おいしいお酒のこと。夜明け前になって、いつものように彼は席を立つ。

「それでは、楽しい時間をありがとうございました。」

「はい、私も楽しかったです。また満月の夜に来て下さいますか?」

「ええ、また満月の夜に。」


 もはや罪を吐露するため、と言う目的は私達には不要だった。別れの言葉を交わした後、夜の闇に溶けていく彼の後ろ姿を教会の扉のそばで眺めながら、私はまた彼の名前を聞けなかったことを悔やみつつ彼の一ヶ月間の壮健を祈った。





 窓の外から響くコオロギの鳴き声が聞こえなくなったのは、彼の訪問からすぐのことだった。残暑が厳しかった十月が嘘のように、わずか半月で気温は十度ほども下がり、季節は一気に冬本番へと向かって走り出している。


 夜も更けた頃、吹き込んできた隙間風に思わず体を震わせた私は、長椅子の拭き掃除の手を止めて窓を閉めに向かった。この教会は小さな方だが、それでも両手の指には収まらない数の窓がある。全部を閉めるのはなかなか骨の折れる作業だ。


 最後に告解室にほど近い窓を閉めて拭き掃除に戻ろうとしたら、珍しいものを見つけた。

 もの、というよりは、人だ。

 この時間帯に教会を訪れる人を、少なくとも灰色の彼の他に私は見たことがない。中年の男は全くの無表情で祭壇を見つめていた。



 私は一応の確認のために、彼に声をかけることにした。教会は万人に開かれているというのは神父様の口癖で、私もそれに異論を唱える気は無い。

「見学の方ですか?でしたら、私で良ければ多少の案内は出来ますが・・・」

「いえ、ただ綺麗に整頓された教会だなぁ、と思っていただけですよ」

彼はそう言って私の方に顔を向けた。全く日に焼けていない、不健康そうな肌色だった。

「こんばんは。私はこう言う者です」

そう言って、彼は懐から名刺を取り出し私に渡してきた。恐る恐る受け取った名刺には、古風なフォントで「お悩み相談☆体験受付中☆炎欄会 四ツ田四蔵」と記されていた。


 「お悩み・・・相談、ですか。」

私の反応を見た四ツ田は、しめたとばかりに不健康そうな顔色からは想像できないほどのテンションで話し始めた。

「ええ、我々炎欄会は古今東西ありとあらゆるお悩みをズバッと解決する事を至上命題として遙か歴史を遡ること平安時代から活動してきた団体でございます。見たところ、貴女様にも何かお悩みがあるように見えますが、如何致しましょう。恋の悩みであれば我々はそこらのキューピッドよりもいい働きをすることを保証しますよ。お金の問題であればちゃちゃっとビジネスを立ち上げて成功まで導いて見せましょう。本当になんでもござれですから、些細なお悩みでも構いませんので、私めにお伝えいただけないでしょうか?この場でお嬢様に最適なプランを提示して見せましょう」


 ここまでを一息で話しきった四ツ田は、息を整えてから満面の笑みを浮かべて、下手くそなウィンクをした。正直に言って気味が悪かった。

「あいにくですけれど、そういうセールスは全てお断りすることにしていまして。お引き取り下さい。」

「そんなことを言わずに、まぁ体験だけでも構いませんので、如何でしょうか?」

「間に合ってます。帰って下さい。」


 そうしてしばらく押し問答が続いた後に、四ツ田はついに折れたのか、分かりました、今日は一旦引き上げます、と口にした。

「もう来なくても大丈夫ですよ。お宅のサービスは使用する気にはなりません。」

「いえ、きっと貴女様のお気に召すだろうと私は確信しておりますよ。それでも、仕方ない。今日は夜分遅くにご迷惑をおかけ致しました」

そして、彼は肩から提げていた鞄に手を突っ込んだかと思うと、一輪の花を取り出した。真っ赤な花を付けた、立派なものだった。

「こちら、お詫びの品としてお渡ししておきますね。簡素なものですが造花になります。丁度そこの小部屋に花瓶があるようですので、そこにでも飾っていただければ」

四ツ田は私にそれを差し出した。造花と聞いて少なからず驚いたが、近くで見ても、自然のものではないかと思えるほどのクオリティだった。


 これを受け取ることで煩わしいやりとりが終わるのであれば、受け取らない道理はない。

「わかりました、ありがとうございます。」

「では」


 四ツ田は扉を開いて去って行った。


 私は手に握った造花を再び確かめた。血のように鮮明な赤色をした花弁の中からは、甘い香りすら漂ってくる。図らずも、次回の満月の時に使う花が見つかった事だけは、今日の収穫かな、と私は思い、その造花を告解室の花瓶に挿しておいた。





 次の満月がまた巡ってきた。すっかり寒くなったのに格好の変わらない灰色の彼を受け入れ、そしてそのままいつものように建前の告解を済ませた後に、お喋りに移る。


 ただ、今日の私は確実に何かが違っていた。不思議な形をした自信が、私の血管の中を巡り巡るようにして体中を満たしているかのようだった。そして、それは決して不快ではなかった。酒に酔った時の感覚に近いかも知れない。よく口が回った事もあってか、今日は一段と彼との距離感が近くなったように思う。


 そして、その高揚感に任せて、私は彼に一つの決定的な質問をした。猫の甘えるような鳴き声を意識して、少しでも彼の心を動かすように、彼の堅いガードを融かすように。

「ねぇ、一つ良いですか。」

「はい、何でしょう。」

彼は油断していたのかも知れない。私の手のひらの中に転がり込んできてくれた、そんな確信があった。

「今日、私は貴方と沢山会話をして、一つ気が付いたことがあるんです。」

「ほう。お聞かせ願えますか。」

「私達は、まだお互いの名前を知りません。私達はこんなに仲が良いのに、です。そして、私は貴方のことを呼ぶときに、貴方という記号を使うことに飽きてしまいました。貴方のことを、私は名前で呼んでみたい。貴方という人間のことを表現したい。だから、私にお名前を教えてくれませんか?」


 私は、過去に何回か拒絶された、「彼の名前を知ること」に挑戦した。そして、その答えは、まるで今までの苦悩をあざ笑うかのようにいとも簡単に帰ってきた。

「ああ、私の事はテツ、と呼んで下さい。皆からはこう呼ばれています。」

「テツ、さん。」

ああ、やっと聞けた。


 テツ、テツさん、テツさん!心の中で何度も復唱する。

「忘れてしまったならお前や君でも構いませんよ、気にしませんから。」

「テツさんが気にしなくたって、私がそんな無礼をする私を許しません!」

「それはなんというか、私が最初に貴方とお話ししたときのような物言いですね。こう言っては何ですが、小っ恥ずかしいものがあります。」

「え、それはなんとまた、ごめんなさい・・・」

「ああ、いえ、責めているわけではないのですよ。私の感覚と近いものを持ってくれていると考えるだけでも嬉しいものがありますから。」


 テツさんはこう言ってぎこちなく笑った。私も彼につられて笑った。告解室は森の中に差し込む朝の日の光のような、暖かな感情で満ちていた。その後、私も私の名前を伝えて、私達は互いを名前で呼び合う仲になった。





 テツさんとの幸せな有限の時間は、その間を埋める無限にも思える長い時間を明るく染め上げるのに十分な力を持っていた。彼が帰ってから、私はより一層日頃の勤めに励んだ。バイトにも精を出した。生まれてこの方閉塞感以外の感覚が無かったのではないか、と思えるほどに、私は生き生きしていた。


 そんなある日の真夜中の前のことだった。

「ごめん下さい」

四ツ田が再びセールスにやって来た。生気の無い顔はこの一月で更にエネルギーを失ったかのようで、死臭すら漂ってきそうだった。

「この前もう来なくても大丈夫だとお伝えしたはずです。」

「いやいや、体験のご感想を拝聴したくて参上したのですよ。実は」

そういって四ツ田は細い指を伸ばした。

「先日差し上げたお花、黙っていたのですが私の商売道具なのですよ」


 私は告解室に飾られた花を一瞥する。造花らしく、一ヶ月前に受け取ったときからその見た目は劣化することなく瑞々しいままだった。

「そんなものを押しつけて、何をする気ですか?」

テツさんとの聖域を汚されたような気分がして、私の言葉は自然に攻撃的になった。四ツ田はそんな私の怒りを受け止めるかのように、手を合わせて謝罪のポーズをとった。そして、そのまま新しい情報を提供し始めた。

「いえ、ただ私は貴女様の恋を応援しようと思っただけなのですよ。思い出してみて下さい。何か大きく物語が動き出すような、そんなご経験がこの一月の間にあったのではないですか?」

「ッ」


 あった。私は彼の名前を知った。それは確かに私にとっては重大な出来事だった。


 疑問が次から次に湧いて出る。


 四ツ田はどうして私の恋煩いに明るいのか。神父様を含めて誰にも言ったことはないのに。

 あの告解室の中における二人の間の言葉の流れを、どうして四ツ田は把握できているのか。

 あの造花にはどのような意味があったのか。


 この男は一体何者なのか。


 全ての疑問が私の中で渦巻き、互いに絡まり合い、うまく言葉を発することが出来ない。そこに、四ツ田は新たな爆弾を投下した。

「実は私、あなた方人間の言うところの超常存在、のようなものでしてね。こうして人を幸せにすることで生きながらえているのですよ」


 例えばほら、これだとただの手品臭いですが、といって彼は、手を差し出したかと思うと、その上に白色の鳩を出現させた。彼は続けて、その鳩を炎に変換し、火の鳥を教会の高い天井の下で縦横無尽に飛び回らせた。あまりの衝撃に、私は瞬きを忘れて不死鳥が飛び回る様を眺めるしかなかった。



 どれほどの時間が経っただろうか、目眩がして座り込もうとした私の背中を、四ツ田はそっと支えて言葉を重ねた。

「ご覧になったでしょう?私は間違いなく貴女を幸せにする能力を有しているのです。さあ、お悩みを私めにお伝え下さい。きっと良くなりますから」

そういって、彼は下手くそなウィンクをした。その青白い顔には力を使った事によるものなのか、大量の脂汗が浮かんでいた。それなのに、不思議なことに、彼の腕の中にいることに対する不快感はなかった。


 これだけは確認しなくてはならない、そう思ったことが一つある。

「あのお花は・・・何だったのですか?」

「使い捨てのものですが、貴女を少しだけ勇気づけて、言葉に『相手に自分の言うことを聞かせやすくする』力を持たせる効果があります。言い換えるなら、貴女を一時の間だけ魔性の女にするもの、とでも言いましょうか。その効果はしっかりとご体感なさったようですね」


 あの夜の答え合わせ。私がテツさんのことをテツさんだと知ることが出来たのは、四ツ田の魔法のおかげだった。


 なんてフィクションめいたストーリーなんだろう。

 そして、私はそのおとぎ話の主人公だ。


 そう、思えてしまった。

 


 

 私は彼にこういった。

「もっと、彼と仲良くなりたいんです。彼の事を知りたい。テツさんに私を好きになって欲しい。その手助けを、して下さいますか?」


 もう、四ツ田に自分の本心を打ち明ける事への抵抗は無かった。彼と手を取れば、テツさんと深いところまで繋がれる、そう考えて疑わなかった。

「はい、お任せ下さい」



 みんなとは違う私の運命は、あまりにも数奇なものだった。





 その日、四ツ田から渡されたものは二つ。どこにでもあるような瓶にたっぷり詰まった淡い香りの香水と、百均に売っていそうなデザインの新しい花瓶。曰く、前者には前回の造花と同じ魔法が込められていて、使うたびに半日程度の効果が見込めるらしい。後者は四ツ田が詳しく状況を把握するためのもので、情景を鮮明に記録して次回私に渡す道具の製作の参考にするそうだ。会話を全部聞かれるのは嫌だ、と主張すると、彼は笑ってプライバシーは尊重するようにもやをかけることが出来るのですよ、と実演を交えて教えてくれた。


 対価は何が良いのか、と聞くと、四ツ田はただ貴女が幸せである事、と答えた。新月前後の夜が一番姿を現すのに都合がいいそうで、次の会合は一月後の新月の晩に決まった。



 そして、半月が経って、また月が満ちた。世の中はクリスマスを終えて一気に西洋風の空気感を門松の似合う年末年始の空気感へと変換している最中で、一年の中で一番世界があやふやになっている時期だ。この教会も、いささかご時世に乗り切れていないささやかなイルミネーションを施したため、私はその後片付けに追われている。


 香水の効果は、クリスマスミサの日に数少ない信者さん達の前で確かめさせてもらった。普段は話しかけづらい外国の方とも沢山話ができて、ちょっと誘導したら献金も弾んでくれた。四ツ田への信頼は一層深まり、私は香水の効果とは別に自分の胆力に自信を付けた。


 既に教会の掃除は終えたし、私も身なりを整えてテツさんを待つばかりだ。修道服の袖をたくし上げ、手首に付けた香水の匂いを確かめる。三十分ほど前に吹きかけた香りは丁度ミドルノートに変化しきる直前のようで、これならばテツさんの前に出ても恥ずかしくはない、と思えた。


 そして、扉が開く。灰色の外套から突き出た顔は、今日は最初から柔らかいものであるように見えた。

「お待ちしていました、テツさん。」

彼から話しかけられる前に、私から声をかける。テツさんは一瞬驚いたような顔をした後に、笑顔の私を認識して唇の端をちょっとだけあげて答えた。

「こんばんは、みすずさん。」

私は一歩彼に近づいて、手を取って彼を引っ張る。少しだけ修道服をはためかせて、風を立てることも忘れない。

「今日はいくつか新しく仕入れたものがあるんです、早く紹介させて下さい。」

「分かりました、楽しみですね。」

「ふふ、お気に召すと思いますよ。さあ、告解室へどうぞ。」

二人分の軽い足取りが、キリスト像の見下ろす教会に響く。


 でも、今からこの神聖な場所は、私という花に彼が口づけるような、愛欲の幸せに満ちた世界になるだろう。



 私の花園へようこそ。絡め取られてくれると嬉しいです。

 私もテツさん、貴方に沢山の蜜を差し上げます。

 

 だから、もっと。

 

 私に貴方のことを教えて。

 貴方の中に私を植え付けて、離さないで。



 

 ひとつになりたいの。

 

 教えて。

 




 貴方は、誰?


















 「・・・今日はこのくらいにしておきましょう。」

「・・・え?」

その発言は唐突だった。


 時計を確認する。まだ夜の2時だ。夜明けまで何時間も残っている。

「そんな、どうして。」

「虫の知らせ、とでも言いましょうか。そうしなくてはならない理由が出来ました。」

そういうテツさんの顔は、どうしてだろうか、喜びとはほど遠い感情に埋まっている。

 

 ここまでは、基本的に全てが上手くいっていたはずだ。いつものように告解を済ませ、とりとめの無い話を始め、新しい花瓶について語り合い、香水についてもそれとなくほのめかしてテツさんに当てさせる流れがあった。少し下品なことも話したし、それにまつわるテツさんの秘密も知ることが出来た。私達の間にはいつものような和やかな空気が、男女がお互いを必要として醸成する甘酸っぱい空気が、漂っていたはずだった。

「虫の知らせ、とは何なのですか?それは・・・私との時間よりも大事なものなのですか?」


 私は思わず彼を引き留めた。言ってからすぐに、自分の発言が自惚れにしか聞こえないことが分かった。


 しかし、そんな私の大きなミスは、テツさんにとって些細なことにすらならなかった。

「おかしい、いつもはこのような満月の夜に起きる事は無いのに。今月はあまりにも何も起こらなくて、ついに誰かが決着を付けたのかと思っていたんだ。」

いつもの告解の時のような、独特のよく分からない言い回しが、テツさんが突如非日常の苦しみへと引きずり込まれていることを如実に示す。


 そして、彼の思考に私の事が浮かぶことは無い。香水の魔法は完全に切れてしまったようだった。

「本当に申し訳ない。出来ることなら、みずずさんともっと長い時間を過ごしたかった。ああ、なんでこんな時に・・・!」

テツさんは慌てて席を立ち、足早に教会の外に向かおうとする。


 私は彼を止めることが出来ないと理解しながらも、ひと月の天井のない喪失感を予感して彼に縋り付き、願いを飛ばした。

「嫌、行かないで・・・!」


 

 それは健全な会話でも対等な依頼でもない、ただの我儘だった。

 

 テツさんは顔をくしゃっとしかめて、小さな子供に言い聞かせるように私にこう諭した。

「僕には、やらなきゃいけないことがあるんです。それは僕の意思に優先しなくてはならないんだ。だから、理解して欲しい。私はきっと、次の満月の晩にまたここに現れます。だから、それまで、待っていて欲しい。頼みます。ごめんなさい。」


 テツさんの一人称が「僕」と「私」で揺れ動いていることが、どうしようもなく彼のおかれた状況が逼迫していることを私に感じさせた。



 テツさんは教会を出て行った。



 どうしようもなく、私は無力だった。





 それからの半月間、私の心は荒れに荒れた。


 自分の自己中心的な振る舞いを思い出しては自分を嫌悪し、その嫌悪を解消するまでに次回の満月を待たなくてはならないことに絶望した。


 いつも以上に彼の本当の姿について想像を膨らませることもした。四ツ田と出会った事で、彼が何かダークヒーローのような仕事をしていると言う妄想は一層現実味を帯びて私の頭にこびりついた。


 ひたすらに自分を呪った。私は一介の教会勤めの小娘でしかなく、彼とは釣り合わないのかも知れないという末のない悲観に襲われた。


 私は、今の私のすべてを嫌った。私は空虚な人間になった。



 だから、私の事を変えてくれる四ツ田だけが、私に残された希望だった。





 四ツ田がやって来た新月の晩は、昼から降り続いていた酷い雨のせいでとても寒かった。教会の暖房の前でコートにくるまって暗い思索にふけっていた私に、彼は音もなく近づいてきて突然声をかけた。

「こんばんは。ご機嫌いかがですか・・・と聞くまでもないですね」

「ああ、こんばんは。香水ありがとうございました。良い効き目がありました。」

四ツ田の顔を見ることなく返事を返す。

「花瓶を通じて状況は理解しています。テツさんとの交流は上手くいかなかったようですね」

「はい。でも彼がいなくなったのは香水が効かなかったからじゃなくて、仕方の無いことでした。」

「それだけじゃあないでしょう?」

「うぅ。言いにくいことをずばずばと言ってくれますね。」

「申し訳ありません」

「いいんです。どうせ私はただの卑しい人間なんです。構いやしませんよ。」

四ツ田はお察しします、と述べて黙り込んだ。



 しばらくの沈黙の後、四ツ田が話しを始めた。

「私の責任でもあるかも知れません。貴女を一度幸せにするとお約束した以上、現状は契約に反します。貴女に託した道具が効果的でなかったと考えるのが妥当でしょう」

静かな彼の声は、謝罪の空気をはらんでいるのと同時に、どこか力を帯びているように感じられた。私に勇気を与えようと彼が奮闘しているのだ、と思った。

「この際、もっと直接的な行為に進みましょう。テツさんの正体に近づくのです」


 彼は言った。テツさんの、正体に、近づく。

 



 私が望んで、未だに得られていないもの。



 

 「どういう、意味ですか?」

 おそるおそる、聞き返した。希望の光が見えた気がした。

「私は既に、テツさんがどのようなお仕事をなさっているのかを把握しています。貴女はそれを知り、そして私の導きがあれば彼と一緒の仕事を始め、苦しみ、喜びを分かち合う事が出来るようになるでしょう。」


 四ツ田の言葉は、私の心の渇きをすべて満たすために十分な魔力をもって私を誘惑した。私は思わず四ツ田の顔を見上げようとして、初めて彼の方を向いた。


 力なく垂れ下がる左袖が目についた。

「ひっ!」

「ああ、これは気にしないで下さい。最近ちょいとばかり無理をしまして。代償としてこの腕を消費する羽目になったのです。放っておけば五年もすれば生えてきますから、大丈夫なのですよ」

そういう四ツ田の顔は、今にも倒れそうなほどにやつれていた。

「そんな状態で力を使わせるわけにはいきません、四ツ田さん死んじゃうんじゃないですか!?」


 四ツ田は目を閉じて、考えを纏めているようだった。彼が目を開いたとき、その目には深い悲しみと、私が見間違ったのでなければ、諦観が浮かんでいた。

「むしろ、死なないために貴女に力を割いていると言った方が正しいのですよ」

「え?」


 私は彼の腕のことを忘れ、感情の闇に引き寄せられるかのように集中して彼の言葉を待った。


 一度大きく深呼吸してから、悲しさをたたえた顔のまま口角だけを捻り上げて四ツ田は話し始めた。

「最近の人間は私のことを歯牙にもかけないような、大きな夢を見ない方ばかりでして。営業成績が芳しくなく、エネルギーを回収出来なかった結果がこのざまです。信長公や秀吉公の時代は良かった。軽く力を授けて放っておくだけでいくらでも私は大きく成長出来た。戦後の混乱からバブルの頃までは、近年まれに見る大フィーバーでしたね。誰しもが成功を渇望していたし、私を温かく受け入れてくれた。それが、今となってはどうです。夢は叶わないという確信を誰しもが高校生の年頃までには確立して、私の言葉が届く心の余裕なんてありはしない。経済成長が見込めないから独身貴族こそ至高の人生設計だなんてお金をまともに稼いだこともない大学生がのたまう。挙げ句の果てに、よくよく訓練された皆さんの防犯意識のおかげで私はいつもいつも門前払いだ。・・・まあ、他にも色々な事情があります。そんな中で、私に残された唯一の大きな仕事口が、貴女なのです」

彼は縋るような目つきをして、私にこう言った。

「貴女の恋の成就は、私にとって何よりも大切なものである、とここに断言しましょう。私は貴女のために自分の持てる力を全て使うつもりです。だからどうか、私の助言に従って欲しい」



 超常存在を自称する四ツ田は、彼自身の生存を私に懸けていた。それは、あまりにも、一介の小娘に過ぎない私には、重い責任だった。

「そんな、私、信長みたいな人とは比べものにならないですよっ、もっと力を使うべきところがあるんじゃないですか!?」

うろたえる私の左肩を、四ツ田は一本しか残っていない手で握った。四ツ田の拳が私の肩を締め付ける強さは、そのまま彼の焦りを表していた。

「頼みます。貴女だけが最後の希望なのです。貴女はちっぽけな人間じゃない。私が貴女を変えてみせる。貴女とテツさんを幸せにしてみせる。それで十分なのです」


 彼の声は、震えていた。


 私はどうすれば良いか分からなかった。


 一度はよくあるおとぎ話の主人公になれた気分でいた。どこか闇のあるヒーロー(テツさん)と、それを影ながら支えるヒロイン(わたし)。そして、ヒロインに力を与えるマスコット(四ツ田)。マスコットが不健康な中年の見た目をしている事を除けば、完璧なストーリーだった。




 それが、今はどうだ。ヒーローはヒロインに助けを求めず、マスコットとヒロインの力の授受関係は逆転した。



 このストーリーは、普通じゃない。

 






 そう、普通ではない。





 何かが、私の中で、カチリと音を立てて、あるべき場所にはまった感覚があった。




 「・・・あぁ。」

 私と、おんなじだ。

 



 みんなとは違う私は、きっと普通ではないストーリーの主人公として適任なのだ。



 私が、このストーリーを前に進めなくてはいけない。ハッピーエンドへ。




 「香水を、とってきても良いですか?」

肩に掛かっていた力がふっと緩んだ。

「・・・なぜ、ですか?」

「自分に自信が欲しいからです。あの香水にはそういう効果がありますから。」


 四ツ田は目を輝かせて、うなずいた。

「私が戻ったら、テツさんの話を聞かせて下さい。本当は彼の口から聞きたかったけれど、諦めます。だって、」


 一呼吸おいて、四ツ田さんの両目を見据えて、ウィンクをする。


 「四ツ田さんは私のことを世界で一番幸せにしてくれるのでしょう?」

四ツ田さんはそれを聞いて、ようやく笑顔になった。

「はい。必ずや」





 今までテツさん以外には誰も招き入れたことのない告解室の机を挟んで、四ツ田さんと二人で座る。



 香水はこれでもかと言うほどに付けてきた。匂いはきついが、気にするべき事ではない。


 再度私が四ツ田さんの計画に乗ることを確認してから、私達は話し始めた。

「それでは、テツさんの正体についてご紹介しようと思います。彼は、所謂正義のヒーローとして、この街を中心に戦っています。これが、彼が戦っている時の映像です。」

四ツ田さんは手提げ鞄からタブレットを取り出し、私に一本の映像を見せた。


 その中でテツさんは、いつもの灰色の外套を風にたなびかせて、街の裏路地を駆けずり回っていた。時折、前方に銃のような道具を向けて、攻撃をしているように見えた。


 顔色はうかがえなかったが、時折右の拳を心臓の当たりに打ち付ける仕草が目についた。


 映像は何の前触れもなく、中途半端なところで終わった。タブレットを操作しつつ、四ツ田さんは私に問う。

「・・・驚かれないのですか」

「なんとなく、想像はしていましたから。好き勝手に人を殺し回るただの極悪人じゃないことが分かって良かったです。」

「なるほど、聡明でいらっしゃるのですね」

四ツ田さんは私の悪い冗談には触れないまま、資料フォルダ中に探していたものを発見し、更に説明を続けた。

「彼が戦っている相手は、この害獣たちです。日本固有の妖怪の一種が突然変異したもので、親玉とその子分たち、と言うように表現できる使役関係で互いに結ばれています。夜行性ですが弱点は月明かりで、月が大きく満ちている時ほど彼等の活動は弱まります。現在テツさんの活躍によりその総数は大きく減少しています」

彼がタブレット上に表示した画像は、悍ましいという言葉が丁度当てはまるような生き物の姿を示したものだった。どす黒い甲殻、胴体のあちらこちらから無造作に生えた脚、大きく裂けた口。見るだけで吐き気がした。

「こんな化け物と、テツさんは戦っているのですか?」

「そうであるとも、そうでないとも言えます」



 四ツ田さんの指がタブレットの画面をなぞろうとして、止まった。

「ここからは、かなりキツいことをお話ししなくてはなりません。覚悟をして下さい」

思わず唾を呑んだ。


 こくり、とうなずくと、彼は画面を改めてスワイプした。

 

 目に飛び込んできたのは、どこにでもいそうな主婦の写真と、彼女の口からさっき見た化け物の脚が生えている様子だった。

「彼等の最大の特徴は、人間に寄生して悪さをすると言う点にあります。悪事の内容としては、生物の殺戮、強姦、建造物の破壊、などが挙げられます。性別は関係ありません。ひとたび人体に取り憑けば、分離することは不可能です。つまり、人間に寄生した後の個体を滅するためには、宿主である人間ごとその命を絶たねばなりません」


 四ツ田さんの声が、遙か遠くから聞こえるかのようだった。



 人間に寄生する。人間ごと殺す。



 それは、なんて、酷いことだろう。

「ちょっと、咀嚼する時間を下さい。」


 はい、構いません、と言う返事を待たずに、私は香水の匂いを意識して鼻から息を大きく吸い込んだ。目に焼き付いて離れない主婦の画像を、どうにかこうにか知識の一つとして脳に落とし込もうと努力する。アレごときでトラウマになってしまうようでは、私はテツさんの隣には立てない。


 いままでのテツさんの言動については、おそらく殆どが説明できるようになった。無垢の人、と言うのは寄生される前の人のことで、病魔というのはこの妖怪達のことを指すのだろう。そして、彼は元々何の罪もない人間を殺さなくてはならないことに苦悩していた。










 そこまで考えが回ったときに、私は気が付いてしまった。テツさんの置かれた状況と、私の望み。四ツ田さんのプラン。これらから導き出される、当然の帰結に。





 私も、人を殺さなくてはならなくなる。





 彼と同じ苦しみを背負うとは、そういうことだ。



 ひゅっ、と音を立てて私の喉をかすれた冬の空気が通過していった。


 私の感情を読み取ったのか、四ツ田さんは新しい情報を追加した。

「寄生された瞬間に、宿主の意識は消失します。つまり、人間としては死んだのと同じです。なので、人の形をとっていようが、妖怪であることは間違いありません。人殺しには、完全には当てはまらないでしょう」



 ああ、なんて厳しい試練なのだろう。


 彼は、テツさんは、こんな葛藤を一人で抱えて生きてきたのか。

 苦しいはずだ。罪の意識に苛まれるはずだ。



 だからこそ。


 受け入れよう。受け止めてみせよう。この感情を、全て。

 それが、ヒーローと並び立つヒロインの在り方だろう。



 四ツ田さんの方を向き直り、続きを促す。

「私はこれから貴女に三つの力を授けます。活動を誰にも悟られないようにカモフラージュする力、妖怪の位置を特定する力、そして彼等と対峙するのに十分な戦闘力。基本的には、テツさんの持つものと同一の力になります。唯一、彼のものと異なる点は、貴女に授ける力では妖怪どもの親玉を感知することが出来ない事ですが、これは私の力不足のためです。申し訳ない」

「理解しました。それで、戦うことが出来るのなら、十分です。」


 これで私は生まれ変わる。自分を追い込むために。四ツ田さんを救うために。テツさんと並ぶために。



 そして、四ツ田さんは左の目を代償に、私に力を与えた。





 その次の日から、私の妖怪狩りが始まった。


 昼間はこれまで通りに生活しながら、夜な夜な、感知したターゲットを追跡し、その息の根を止める。



 人間の形をした個体も、殺した。目の前で寄生する瞬間を見せ付けられた。断末魔は化け物のそれだったが、飛び散る血飛沫と脳漿は完全に人間のものだった。その個体は、ランドセルを背負っていた。彼女の無念に思いをはせるたび、心に穴が開いた。ご両親の悲しみに思いをはせるたび、涙が溢れた。自分が間に合わなかったために手を下さなくてはならなくなったという実感に直面するたび、死ぬほど吐いた。



 だけれど、私は折れなかった。時折、感知していた妖怪の反応がふっと消えることがあったからだ。そのことは他の何よりも強く、私を励ましてくれた。その逆もまた真実でありますように、と私は願った。



 お互いにカモフラージュの力を行使している為か、私とテツさんが遭遇することが無いままに、また満月が巡ってきた。


 いつものように教会を掃除し、身なりを整える。四ツ田さんにもらった造花や花瓶、香水も忘れない。支度をしながら、私は様々な事を考えた。


 前の時に犯してしまった、自分本位の願望をぶつける醜い行為を、彼は怒ってはいないだろうか。


 彼は私が同業者になったと知ったならどういう反応をするのだろうか。幻滅されはしないだろうか。


 彼は、私のこれまでの努力に、好意的な反応をしてくれるだろうか。


 私と彼の心は、今度こそ深いところまで通じ合えるのだろうか。



 思考が迷路に閉じ込められて脱出できないでいる。


 ふと、四ツ田さんの下手くそなウィンクが頭に浮かんだ。

 私は、彼の命運をも背負っているのだと思い出す。


 「ふっ。」

頬を叩いて自分を取り戻す。



 「幸せに、なってやる。」


 誰に聞かせるでもなく、呟く。


 それは、私というヒロインが、物語をまた一歩エピローグへと進めるための決意表明だった。





 テツさんは、いつもと同じくらいの時間に、いつものように薄い憂いを帯びて、私の元へやって来てくれた。

 

 教会の扉を開いたテツさんが、私に軽く会釈する。

「こんばんは、みすずさん。先月は急に抜けてしまいすみませんでした。」

私は彼がいつも通りに見えることにひとまず安心しながら、返事を返す。

「お待ちしていました、テツさん。今日は、本当に、本当に、沢山話すことがあります。」

「はは、前回の分という事ですか。元はと言えば私のせいです。時間の許す限り、全部聞いてみせましょう。ああ、私の方も、今回はいつもとは違った話をお聞かせすることになりそうです。」


 私達は微笑み合い、告解室へと向かった。



 造花と香水の香りが混じり合う狭い密室に、私達は立てこもった。今回こそは、誰にも邪魔されたくないという願いが、おそらく私達二人のどちらにもあった。


 「貴方の罪を、お教え下さい。」

「私は、また無垢の人を一人、救い損ねました。私の力はまだ、足りないのです。もう少し手を伸ばせば、早く対処できていれば、彼の魂は暖かな世界を離れることは無かったでしょう。彼の無念を思うと、自分のふがいなさが恨めしくなります。」



 テツさんの懺悔は、覚悟していた以上に激しく、私の心を抉った。ランドセルの彼女が、私の脳裏に浮かんだ。私も彼女を救えなかった。救えるはずだった。

「貴方は・・・」


 咄嗟に言葉が継げなかった。


  いいんですよ。

   貴方はよく頑張りました。


 これだけの言葉をかければそれで十分なのに、どうしても私の口から意味を持った文章となって流れ出ることはなかった。

 


 それだけ、この言葉から力を感じた。



 「・・・どうなさいましたか?」

「っ、ごめんなさい、悔い改めるならば、必死にがんばった貴方を、神様は、きっと、お赦しになるでしょう・・・」

「ありがとう。」

 

 どうにか上っ面だけ整えて、告解を終える。



 だけれど、そんな簡単なことで、テツさんは、本当に明るい顔をするようになった。

 

 ようやく、この告解という行為が、彼をどれだけ救っていたのかを、私は理解した。心に開いた穴を温かい言葉で埋めてもらえるだけで、私達は地獄から帰ってくることが出来る。



 私も、彼と同じになりたい。他の誰でもない、テツさんの言葉で、救われたい。


 その欲求は、即座に私の中で大きくなり、叫びとなり、私を突き動かした。


 修道服のフードを取り払い、テツさんと「みすず」として正対する。

「お願いがあります、テツさん。今日だけ、一度だけで良いので、神父役として私の罪を聞き届けて下さいませんか?」

テツさんは少しだけ視線を泳がした後、こんな私でも良いのなら、と前置きした上で、わかりました、と言った。

「ありがとうございます。」


 

 香水の匂いをたっぷり吸い込んで、少しでも勇気を蓄える。


 形のないままに溢れ出しそうな気持ちを一つ一つつかみ上げて、丁寧に、言葉に変換する。

「私には、沢山の罪があります。教会で神様と人々の為に奉仕するという身分であるにもかかわらず、私は一人の男性に恋をしました。」

テツさんの両目が、はっと見開かれた。

「あまつさえ、その人の告解を聞くことを楽しみにして、日々を過ごすようになったのです。テツさんはどこか不思議な闇を心の内に秘めた人で、自身が恵まれない存在だと感じていた私を、この世界で特別になれるかも知れないと思わせてくれました。」

テツさんは唇を噛みしめる。

「私は彼の事をもっと知りたくなった。彼に私の事をもっと知って欲しかった。だから、色々な手を使って彼を誘惑しました。それでも、彼は私に全てをみせてくれることはなかった。それはきっと、私があまりにも、彼とは釣り合わない人だったからなのです。」

「そんなことは!」

「いいんです。そうだったかそうでなかったかは、もう重要じゃないんです。」

テツさんの口からほとばしった叫びは、私の心に大輪の花を咲かせてくれた。



 だけれど、私の告解はここからが本番だ。

「私は悩みました。悩んだ末に、ある人の助けを借りて、彼の正体を知ることにしました。彼は正義のヒーローでした。夜な夜なたった一人で病魔を倒しては、救えなかった命に涙を流す、優しい心の持ち主でした。私は彼との共存を望みました。私は、彼と同じになりたいと、願いました。彼と同じ苦しみを、喜びを、分かち合いたいと願いました。そうすればきっと、遠い距離のあった二人であっても、真に一つになれると信じたからです。」


 テツさんが妖怪達と戦う時に使う武器を、私の力で机の上に召喚する。

「これが、今の私です。貴方に受け入れられたいと願った、醜い小娘のなれの果てです。私は既に一人の女の子をこの手で殺めました。苦しかった、悲しかった!今でも彼女を救えたのじゃないかって夢に見て、そのたびに胃の中身を全部吐き出したくなる!でも、それと同時に、テツさんとおんなじになれたんじゃないかって思えて嬉しくて、その嬉しいことが死者を冒涜している気がして、何を考えていたのか分からなくなって、テツさんはこんな私を好きでいてくれるのかわからなくなって、それで・・・!」



 言葉がまとまらなくなってきた事が自覚できてなお、私の口は止まらなかった。

 

 テツさん、私を見て。そして、受け入れて。赦して。

 

 

 ただ、それだけを希望に、私は私の全てをぶちまけた。












 ふと我に返ったとき、私はテツさんの腕の中で、泣いていた。

 

 彼の灰色の外套は、テツさんではなく私の事をくるみ、私の体をテツさんと一緒に温めていた。

「あれ・・・私、いつから・・・?」

「ずいぶんと最初の頃から、こうしていました。」

「えと・・・ごめん、なさい。」

テツさんの顔を、おそるおそる見上げる。


 彼は、笑顔だった。

「良いのですよ。全て。よく頑張ってくれました。」

「全部、というのは、どういう、意味で、」

「僕の事を好きでいてくれたこと、僕の告白を嫌な顔ひとつせずに受け入れてくれたこと、僕のことを理解しようと自分の身を危険にさらしてまで努力してくれたこと。全て、僕が赦します。みすずさんは、僕の恩人です。」


  本当に、ありがとう。


 

 テツさんは、私の心がテツさんの為に開けていた穴を、溢れんばかりの愛で、埋めてくれた。







 その時だった。

「!」

テツさんが何かに反応した。

「奴らです、大分近いところで反応が、いや、違う、」


 私の妖怪センサーには何も引っかかっていない。


 つまり、この反応は、

「そこにいる!」

親玉だ。




 告解室の扉をはねのけるようにして、私達は教会の中へと飛び出した。


 目の前には、全身から身の毛もよだつような妖気を発する、象ほどの体躯を持った悍ましい何かがうごめいていた。


 「テツさん、こいつ、きっと。」

「ええ、親玉でしょう。何を思ってか分からないが、こんな場所に姿を現すとは・・・!」


 怪物は、私とテツさんの会話を聞いて、体を揺らして『笑った』。


 一瞬で、今まで戦ってきた子分達とは格が違う相手だと理解できた。生まれて初めて明確に感じる生物としての圧力に、思わず足が震える。

「テツさん、こいつとこれまでに戦った事は、ありますか?」

「はい、一度だけ、人里離れた森の中で。その時は辛くも逃げおおせましたが、完敗でした。」

完敗した。そう聞いて、更に恐怖が深まる。

「どう、しますか?」

彼の横顔を窺い見る。



 「この場で倒さなければこの街が終わってしまう。戦うしか、ありません。」


 決意を固めた、ヒーローの顔だった。


 それを見て、私は自分の心を取り戻した。もう、迷うことはない。


 自然と震えの止まった足で床を踏みしめ、テツさんの隣に並び立つ。

 

 「じゃあ、さっさとぶっ殺してしまいましょう。まだ夜明けまで時間はありますから、お話の続きをしましょう、ね?」

それを聞いて、テツさんはふっと顔の力を緩めて笑った。

「はは、心強い。ずっとこんな仲間が欲しかったんですよ。」

「これからは私がいつまでも最高の仲間ですよ。」



 二人でそれぞれの武器を構え、息を合わせて走り出す。


 私達のストーリーの、最終章が始まった。













 長く、苦しい戦いだった。


 私達の攻撃はその殆どが封殺され、逆に怪物の攻撃は一撃で私達の息の根を止めるのに十分な威力を有していた。常に自分たちの身を守る事を優先して立ち回ることが必要だった。


 何度も死の瀬戸際まで追い込まれた。


 そのたびに、私達のどちらか一方がもう一方を助け、勇気づけ、再び立ち上がる活力を与えた。

 

 終わりの見えない戦いを続けているうちに、私達は怪物の左半身側では攻撃の密度が低く、私達の行動に対しての反応が鈍いことを理解し始めた。


 そこに光明を見いだした私達は、ひたすらにその欠点を突き続けた。




 そして、夜明けが近くなり、月が高いビルの影にかかるくらいの高さまで沈んできた頃。


 私の一撃が、ついに怪物の中枢を貫いた。




 怪物の断末魔が、ボロボロに破壊された教会の中に響き渡る。


 肩で息をする私を、後ろからテツさんが支えてくれた。



 ありがとうございます、と聞こえた気がして、彼の方を見た。


 テツさんは、声を殺して泣いていた。



 淡い光となってゆっくりと溶けていく怪物の残骸を見つめながら、テツさんは彼がこれまで歩んできた人生について、初めて教えてくれた。

「僕は幼少期に見いだされた対魔の才能を伸ばすべく、二歳の頃に半ば誘拐のような形で親元から引き離され、それから厳しい訓練を受けながら育ちました。学校にこそ通えましたが、放課後や休日は全てがトレーニングに費やされ、遊ぶことはありませんでした。それなのに、僕は同じ年代の子どもたちの中で最も未熟であると評価され、成長が遅い、技量が足りない、と日常的に叱られていました。

最近になってようやく、十分に戦えると判断され、初めての任務が言い渡されました。それが、この街での病魔の撃滅でした。僕は喜びました。こんなに苦しんで身につけた自分の力を、ようやく人のために使える、と思ったのです。

ところが、僕はこの街の妖怪が人間の姿をとりうることを知りませんでした。そして、人間を簡単に殺せるほど、僕は非情にはなれなかった。

何度も別の人員を宛がうように依頼をしても、返ってくるのは「命令は絶対である」の一言のみでした。僕は歯を食いしばってでも、せめて被害を受ける人ができる限り少なくなるように、身を粉にして動き続けました。それでも、心が押しつぶされそうになった時に、」


 テツさんは私の頬に手を伸ばした。

「みすずさんに救われたのです。あの日、当てもなく街を彷徨った末に、この教会の扉を叩いた事は、間違いなく僕の人生の中で一番の決断でした。それからの満月の夜は、僕にとって本当にどれだけの価値があったか、もうどうやって言葉にすれば良いのか分かりません。そして今、こうして初めての任務をみすずさんと一緒に完遂できた。どれほど感謝しても、しきれません。本当に、本当に、ありがとう。」


 そのままテツさんは、私の事を抱きしめた。


 耳元に、彼の息づかいを感じる。

「これから、僕と一緒に歩んでくれますか。」

「はい。悩みも苦しみも、喜びも、同じだけ二人で分け合い、認め合いましょう。」


 ありきたりな告白と、ありきたりな返事だったけれど、私達にとってはそれで十分だった。

 

 ついに私とテツさんが、互いのことを理解し合った瞬間だった。

 

 





 そうして抱き合っているうちに、怪物の死体はいよいよ光の集合体と化していった。

 

 すると、何の前触れもなく、その光は一点に収束し、人間の形をとって、再び実体化した。


 

 私には、それが誰なのか、なんとなく分かっていた。

 

 不健康な肌色をした中年男性が見えた。



 

 既に喪われていた左の手と目の他に、彼の体からは右の足ともう一方の目が消失していた。



 抱擁を解いて、私は四ツ田さんの元へ歩み寄る。

 

 彼は音で私の事に気が付いたのか、右手を伸ばした。


 「すみません、目が見えないもので。手を握っていただけますか」

まるでひなたぼっこ中の猫が発しているかのような、穏やかな声だった。

「この手を握ったら怪物が私の事を殺しに来る、みたいなことはないですよね?」

「いいえ、あなた方は確かにかの妖怪にとどめを刺しましたよ」


 返事を確認する前に、私は四ツ田さんの手を握りしめていた。


「戦いの最中から、貴方があの怪物の正体なのでは無いか、と薄々気が付いていました。四ツ田さん、貴方は一体、どういう目的があって私達を襲ったのですか?」


 後ろでテツさんが驚く声が聞こえた。


 「貴女を幸せにする、と言ったでしょう・・・この怪物は二人の仲を取り持つほどよい障害になるのでは無いか、と考えたのです。と言うのは目的の半分にすぎないのですがね」

「ほどよい障害、と言う割にはかなり強かったですけれど。」

「あなた方なら斃れることは無いと信じていました」

四ツ田さんはそういって笑った。

「実のところ、私はあの怪物にずっと力を奪われていまして。最近仕事が無くエネルギーが集まらない、と言うお話はしたかと思いますが、その為にあれの干渉をはねのけることが出来なかったのです。次第にあれは私から得た力で災厄を振りまくようになり、私の存在意義を否定することで更に私の力を削っていきました。結果、私は自分の存在を維持できなくなり、遅かれ早かれ消失してしまう事になってしまいました」

「じゃあ、私の幸せが最後の希望だって言うのは、嘘だったのですか。」

「生きながらえるための最後の希望だった、というと嘘になりますね」



 含みのある言い方だった。

彼は穏やかな顔のままで答え合わせを続ける。

「ただ、貴女は間違いなく、私にとって自分の業にけりを付けるための最後の希望でした。私は、あの怪物をなんとかして倒さなければならないと考えました。対魔の力を持つ人物がこの街にいることは把握していましたが、彼一人では立ち向かうことが出来ないのは明白でした」

「それはまた、辛辣な物言いですね。」

「不快な思いをさせてしまったとすれば、失礼します。話を戻しますと、私はせめてもう一人、戦えるような人材を用意するべきだと思ったのです。強い願いを抱いていて、戦うのに十分な理由を心の内に構えられる、そんな人材を。そんなときに、私は貴女のことに気が付きました。それから、わたしは貴女の恋を手助けするという名目で近づき、誘導し、そして戦いの場へと引きずり出しました。私は軽蔑されても仕方の無いことをしたのです」


 そう言って、四ツ田さんは私の握る手にかすかに力を込めた。


 それは彼にとっては全力だったようで、ふるふると震えたかと思うとすぐにその力は抜けてしまった。



 「もう、本当にだめみたいですね」

「軽蔑なんて、するものですか。私は私の意思で四ツ田さんに力を下さいと願ったのです。」

「そう、思っていてくれると非常に助かります。そういうことで、私は貴女の望みを叶えつつ、怪物を葬ると言う一石二鳥の計画を実行に移しました。その結果が、今なのです」


 四ツ田さんはそこで喋るのを止めた。話す事すらももう、彼には辛いようだった。




 しばらく経ってから、四ツ田さんは震える声をしぼりだして、私にこう聞いた。

「最後に、これだけお聞かせ下さい。貴女は、幸せをつかみ取れましたか?」



 私の答えは一つだった。

 

 テツさんを手招きして、四ツ田さんの手と彼の手を触れ合わせ、私の両手で包み込む。


 「ええ、この上ないほどに。」

四ツ田さんは、もう自分の力では支えられなくなった腕をめいいっぱい伸ばした。

「ああ、私にも感じられます。大きな幸せが。最後に一つ、いい仕事が出来たようですね・・・」



 それが、四ツ田さんの最期の言葉となった。

 

 再び四ツ田さんの肉体は光を帯び、今度は差し込んできた朝日に溶けるようにして消えていった。




 彼の生きた痕跡が完全にこの世界から消えてしまうまで、私は微動だにしなかった。


 「戦いの中で、何度か完全に殺された、と思った場面がありました。そのたびに、不思議なことにあの病魔は動きが遅れたのです。きっと、彼が命を削って止めてくれていたのですね。」


 ぽつりと、テツさんの言葉が空気を震わせた。













 その日は、朝から教会内部の後片付けに追われることとなった。


 カモフラージュの力のおかげで、神父様が惨状に対して疑問を持つことは無かったけれど、それでも掃除が大変である事に変わりは無かった。


 私は当事者の一人としての責任感から、ひたすらに原状復帰に精を出した。



 その日のうちになんとか瓦礫だけは片付け終わった。




 そして、夜。


 満月の次の夜だけれど、今夜は彼が私をデートに迎えに来てくれる。





 初めて彼の事を私服で待つ。


 四ツ田さんがくれた香水は、彼の形見として保管することにしたので、今日は別の物を付けている。純粋に彼と会うのを楽しみにして時間を潰すのはずいぶん久しぶりだな、と懐かしい高揚感を胸いっぱいに感じながら思う。



 教会の扉が開く。


 顔を出したテツさんは、髪の毛をちゃんとセットしていて、いつもの5割増しでかっこよく見えた。

「こんばんは。みすずさん。お待たせしました。」

「いえ、全然待ってないです!」

「何だか男女が逆な気がします。」

「それもそうですね、それじゃあ次のデートは街の中で集合することにしましょう。3分くらい遅れていって、ごめん、待ったー?って聞きますね。」

「気が早いですよ。先ずは今日のことです。ちゃんとおいしいお店をリサーチしてきたんですから、ね?」



 私達の間にはもう隠し事はなく、ただ朗らかな会話がいつまでも続いていった。


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