影
予備校の帰り、何気なく目を向けた道の端にそれはあった。
西日のまぶしい夕方で、葉が散り始めた銀杏並木は、金色に輝くようだった。
木の根もと、明るい落ち葉の上で、それだけが翳っていた。
ビー玉ほどの黒い玉だ。
ぼくは立ち止まって、子供のようにそれを拾い上げた。
手触りは硬く滑らかで、ひんやりしていた。重くも、軽くもない。ガラスや金属で出来ているのでもなさそうだ。
光はあまり反射せず、艶やかに黒かった。漆黒を封じ込めたかのような完全な球体──。
宝石めいて美しいが、まさか宝石がこんな場所に落ちているはずがない。
ぼくは手のひらでそれを転がし、そのまま上着のポケットに滑り込ませた。
自室の机に向かって、玉を取り出した。
ライトにかざしてもその色は変わらない。ただただ純粋の黒だ。
いったい、何でできているのだろう。
正体がわからない。
ぼくは玉をつまんで顔に近づけ、しげしげと見つめた。片目を閉じて、もう一方の目で中を覗きこんでみる。
光は通さない。
闇を凝縮したかのような硬質の黒。
と、その奥で、何かが動いた。夜の波のうねりのように。
ぼくは、さらに目をこらした。
闇が膨らんだ。
声を上げる暇もなく、ぼくは闇のただ中に立っていた。
☆ ☆ ☆
手の中は、からっぽだった。
ぼくは両手を伸ばして、おそるおそる周りをさぐった。
何もない。
一歩足を踏み出し、二歩目で柔らかいものにつまずいた。
倒れ込んで、ぎょっとした。
人の身体だ。
それは、最初から横たわっていたようだ。二本の手で黙ってぼくをささえると、そのままぼくを引き寄せた。
首筋に、冷たいものが触れた。
えもいわれぬ感触──目眩むような快感だった。
ぼくは、思わず小さく喘いだ。
手足の力が抜けたのは、しかしそのためだけではない。身体が急に重くなり、ぼくはもう起き上がることができなくなっていた。
と同時に、闇が薄れてきた。
薄墨色の影の中にいるような感じ。
身動きできないぼくの顔を、ひとりの青年がのぞきこんでいた。
睫の濃い、はっとするほど美しい顔立ちをしていた。巻き毛がかった長めの髪の毛がぼくの頬に触れた。
ぼくは、彼を見つめることしかできなかった。
「助かった」
彼は、うすく笑みを浮かべた。
「しばらく何も食べていなかったのでね」
問いかけようとしたが、声も出ない。
「じっとしていた方がいい」
楽しげに彼は言った。
「若いから、じきに生気も戻るだろう」
「だれ……?」
ようやく、かすれた声を絞り出した。
「相棒に騙された」
彼は、片膝を立てて座り込んでいた。
「あいつめ、わたしと身体を交換したあげく、わたしを放りだしたのさ」
彼は軽くため息をついて黙り込んだが、気を取り直したようにぼくの首に手をおいた。
ひやりとした、しかし決して嫌ではない感触だった。ぼくは、半ばうっとりと目を閉じた。
「だが、きみが来たから大丈夫だ」
彼はやさしく耳元でささやいた。
彼が何を言っているのか理解できなかった。
ぼくはただ、彼の首筋の愛撫に身をゆだねた。
とろとろと眠りかけ、夢と現──こうしていることが現実とするならば──の境界で、ぼくは彼の言葉を聞いていた。
「あいつはわたしの片割れだった。いっしょに生まれた。わたしの仲間たちの影はみんな違う形をしているが、どういうわけかあいつはわたしとそっくりでね。似すぎていた。あげく、自分が私になってもかまわないのではないかと思いはじめた」
彼は、苦笑した。
「長い時を生きていると、たまには違ったことがしたくなるのさ。遊びだと思った。自分たちの役割をちょっとの間、交換してみないかとあいつは言った。あいつは本体にわたしは影に。どのみちわたしたちの胃袋は共通だから、支障はなかった。わたしは影になった。するとあいつはたちまちわたしを引きはがし、丸めて放り投げた」
そして、ぼくがそれを拾ったわけなのか。
ぼくは、ぼんやりと考えた。
「繋がりが解けたものだから、わたしはずっと空腹だった。きみが来てくれてよかったよ」
彼が食べたのは、ぼくの生気だ。
こんなにも力が抜けてしまったのはそのせいだ。
それにしても、なんて心地いい喪失だろう。
あの恍惚を再び求めているぼくがいる。危険すぎるとわかっていても。
「あいつめ、わたしがいなくて、どうしていることか」
彼はつぶやいた。
「まあいいさ、あいつがいなくとも大丈夫なところを見せてやろう」
ぼくは、目を開いて彼を見つめた。
彼はぼくを見下ろし、にこりと笑った。
「わたしたちは、うまくやっていけると思わないかい?」
「あなたと──」
「そうだ。ずっといっしょにいよう。きみがわたしで、わたしがきみになる」
ぼくは、彼の黒々とした目に見入った。あの玉と同じ色だ。闇を凝めたような、どこまでも深い、黒の中の黒。
とてつもない誘惑だった。
ぼくはたぶん、人間でないものになる。そして、闇の眷族として遙かな時を彼とともに生きるのだ。
「どう、すれば‥‥」
「簡単さ。ここから戻ったら、黒い玉を呑み込めばいい。そうすれば、わたしたちはひとつになれるよ」
彼は、もう一度、ぼくの首に手を触れた。ほんの少し、身体が軽くなったような気がする。
なんとか身を起こすことができた。動けるだけの生気を彼が返してくれたのだろう。
「待っている」
彼は微笑んだ。
☆ ☆ ☆
ぼくは部屋に戻っていた。
手には黒い玉があった。
夢だったのだろうか。
机に向かったまま、うたた寝をしてしまったのか。
しかし、身体のだるさは尋常なものではなかった。
彼の微笑みも、脳裏にはっきりと焼き付いていた。
決して、夢ではない。
ぼくは、黒い玉を見つめた。
彼とひとつになるには、これを呑み込みさえすればいい。
だが、ほんの一瞬、ためらった。
彼の言っていることが本当なのか、ちらと疑念がよぎったのだ。
彼は、ぼくの身体をのっとり、食い尽くしてしまうかもしれない、と。
その時、カーテンがひるがえった。
二階の窓がひらき、大きな黒い生きものが部屋の中に飛び込んできた。
犬だ。
ぼくは、息を呑んだ。
そいつは、ぼくを見下ろすように伸び上がり、人の姿に形を変えた。
「よかった」
そいつは、ぼくの手からすばやく玉を取り上げた。
「落とし物を拾ってもらって、感謝するよ、坊や」
にっと笑い、玉を自分の口に放り込む。
ぼくは、唖然としてそいつを見つめた。
彼そっくりだった。
それでいて、どこか違う。
部屋の中のそいつの影が、だんだんはっきりして来た。
濃く、立体的に盛り上がり、やがて立ち上がった。
そこにいたのは、まぎれもなくぼくが出会った彼だった。
「やあ、元気だったか? フィーア」
そいつは、彼に言った。
「ふん」
彼は、薄く笑っていた。
「なにが落とし物だ。自分で捨てたくせに」
「自由を味わってみたかったのさ」
「で?」
「なかなか楽しかった」
「それなら、なぜ戻ってきた」
「いや、まあ」
そいつは、彼と同じ顔で笑いかえした。
「やはり独りはつまらない」
「わたしは、この子と一緒になろうと思っていたんだよ」
「やめとけ、ただの食いものだ」
ぼくの首に伸びたそいつの手を、彼は軽くつかんだ。
「この子はよそう。恩人だから」
彼は、窓に歩み寄った。
「相棒が帰ってきた」
彼は、ぼくに言った。
「さわがせて、すまなかったね」
「今日のことは、忘れるんだな」
片一方が言葉を継いだ。
彼らは、そろって二階の窓から身を躍らせた。
あまりな出来事に、ぼくは呆然と立ちつくしていた。
我に返り、ようやく窓に身を乗り出した。
ずっと先に、街路灯に照らされた彼らの後ろ姿が見えた。
一匹の大きな犬と長身の男が。
その黒々とした姿は、角の闇にまぎれ、消えしまった。
☆ ☆ ☆
ぼくは、今でも後悔している。
なぜ、あの時ためらったのだろう。
あの一瞬の迷いが無かったら、彼とともに行けたはずなのに。
こんな平凡な人生に別れを告げて。
気がつくとぼくは探している。
どこかに落ちているかもしれない黒い玉を。あるいは、彼らの姿を。
首筋が、うずくのだ。
彼らの仲間になれないならば、せめてぼくを飲みほして欲しいと思う。
その時には、たとえようのない官能が待っているだろうから。