表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

黒犬幻譚

作者: ginsui

 予備校の帰り、何気なく目を向けた道の端にそれはあった。

 西日のまぶしい夕方で、葉が散り始めた銀杏並木は、金色に輝くようだった。

 木の根もと、明るい落ち葉の上で、それだけが翳っていた。

 ビー玉ほどの黒い玉だ。

 ぼくは立ち止まって、子供のようにそれを拾い上げた。

 手触りは硬く滑らかで、ひんやりしていた。重くも、軽くもない。ガラスや金属で出来ているのでもなさそうだ。

 光はあまり反射せず、艶やかに黒かった。漆黒を封じ込めたかのような完全な球体──。

 宝石めいて美しいが、まさか宝石がこんな場所に落ちているはずがない。

 ぼくは手のひらでそれを転がし、そのまま上着のポケットに滑り込ませた。


 自室の机に向かって、玉を取り出した。

 ライトにかざしてもその色は変わらない。ただただ純粋の黒だ。

 いったい、何でできているのだろう。

 正体がわからない。

 ぼくは玉をつまんで顔に近づけ、しげしげと見つめた。片目を閉じて、もう一方の目で中を覗きこんでみる。

 光は通さない。

 闇を凝縮したかのような硬質の黒。

 と、その奥で、何かが動いた。夜の波のうねりのように。

 ぼくは、さらに目をこらした。

 闇が膨らんだ。

 声を上げる暇もなく、ぼくは闇のただ中に立っていた。


          ☆  ☆  ☆

 

 手の中は、からっぽだった。

 ぼくは両手を伸ばして、おそるおそる周りをさぐった。

 何もない。

 一歩足を踏み出し、二歩目で柔らかいものにつまずいた。

 倒れ込んで、ぎょっとした。

 人の身体だ。

 それは、最初から横たわっていたようだ。二本の手で黙ってぼくをささえると、そのままぼくを引き寄せた。

 首筋に、冷たいものが触れた。

 えもいわれぬ感触──目眩むような快感だった。

 ぼくは、思わず小さく喘いだ。

 手足の力が抜けたのは、しかしそのためだけではない。身体が急に重くなり、ぼくはもう起き上がることができなくなっていた。

 と同時に、闇が薄れてきた。

 薄墨色の影の中にいるような感じ。

 身動きできないぼくの顔を、ひとりの青年がのぞきこんでいた。

 睫の濃い、はっとするほど美しい顔立ちをしていた。巻き毛がかった長めの髪の毛がぼくの頬に触れた。

 ぼくは、彼を見つめることしかできなかった。

「助かった」

 彼は、うすく笑みを浮かべた。

「しばらく何も食べていなかったのでね」

 問いかけようとしたが、声も出ない。

「じっとしていた方がいい」

 楽しげに彼は言った。

「若いから、じきに生気も戻るだろう」

「だれ……?」

 ようやく、かすれた声を絞り出した。

「相棒に騙された」

 彼は、片膝を立てて座り込んでいた。

「あいつめ、わたしと身体を交換したあげく、わたしを放りだしたのさ」

 彼は軽くため息をついて黙り込んだが、気を取り直したようにぼくの首に手をおいた。

 ひやりとした、しかし決して嫌ではない感触だった。ぼくは、半ばうっとりと目を閉じた。

「だが、きみが来たから大丈夫だ」

 彼はやさしく耳元でささやいた。

 彼が何を言っているのか理解できなかった。

 ぼくはただ、彼の首筋の愛撫に身をゆだねた。

とろとろと眠りかけ、夢と(うつつ)──こうしていることが現実とするならば──の境界で、ぼくは彼の言葉を聞いていた。

「あいつはわたしの片割れだった。いっしょに生まれた。わたしの仲間たちの影はみんな違う形をしているが、どういうわけかあいつはわたしとそっくりでね。似すぎていた。あげく、自分が私になってもかまわないのではないかと思いはじめた」

 彼は、苦笑した。

「長い時を生きていると、たまには違ったことがしたくなるのさ。遊びだと思った。自分たちの役割をちょっとの間、交換してみないかとあいつは言った。あいつは本体にわたしは影に。どのみちわたしたちの胃袋は共通だから、支障はなかった。わたしは影になった。するとあいつはたちまちわたしを引きはがし、丸めて放り投げた」

 そして、ぼくがそれを拾ったわけなのか。

 ぼくは、ぼんやりと考えた。

「繋がりが解けたものだから、わたしはずっと空腹だった。きみが来てくれてよかったよ」

 彼が食べたのは、ぼくの生気だ。

 こんなにも力が抜けてしまったのはそのせいだ。

 それにしても、なんて心地いい喪失だろう。

 あの恍惚を再び求めているぼくがいる。危険すぎるとわかっていても。

「あいつめ、わたしがいなくて、どうしていることか」

 彼はつぶやいた。

「まあいいさ、あいつがいなくとも大丈夫なところを見せてやろう」

 ぼくは、目を開いて彼を見つめた。

 彼はぼくを見下ろし、にこりと笑った。

「わたしたちは、うまくやっていけると思わないかい?」

「あなたと──」

「そうだ。ずっといっしょにいよう。きみがわたしで、わたしがきみになる」

 ぼくは、彼の黒々とした目に見入った。あの玉と同じ色だ。闇を凝めたような、どこまでも深い、黒の中の黒。

 とてつもない誘惑だった。

 ぼくはたぶん、人間でないものになる。そして、闇の眷族として遙かな時を彼とともに生きるのだ。

「どう、すれば‥‥」

「簡単さ。ここから戻ったら、黒い玉を呑み込めばいい。そうすれば、わたしたちはひとつになれるよ」

 彼は、もう一度、ぼくの首に手を触れた。ほんの少し、身体が軽くなったような気がする。

 なんとか身を起こすことができた。動けるだけの生気を彼が返してくれたのだろう。

「待っている」

 彼は微笑んだ。


          ☆  ☆  ☆


 ぼくは部屋に戻っていた。

 手には黒い玉があった。 

 夢だったのだろうか。

 机に向かったまま、うたた寝をしてしまったのか。

 しかし、身体のだるさは尋常なものではなかった。

 彼の微笑みも、脳裏にはっきりと焼き付いていた。

 決して、夢ではない。

 ぼくは、黒い玉を見つめた。

 彼とひとつになるには、これを呑み込みさえすればいい。

 だが、ほんの一瞬、ためらった。

 彼の言っていることが本当なのか、ちらと疑念がよぎったのだ。

 彼は、ぼくの身体をのっとり、食い尽くしてしまうかもしれない、と。

 その時、カーテンがひるがえった。

 二階の窓がひらき、大きな黒い生きものが部屋の中に飛び込んできた。

 犬だ。

 ぼくは、息を呑んだ。

 そいつは、ぼくを見下ろすように伸び上がり、人の姿に形を変えた。

「よかった」

 そいつは、ぼくの手からすばやく玉を取り上げた。

「落とし物を拾ってもらって、感謝するよ、坊や」

 にっと笑い、玉を自分の口に放り込む。

 ぼくは、唖然としてそいつを見つめた。

 彼そっくりだった。

 それでいて、どこか違う。

 部屋の中のそいつの影が、だんだんはっきりして来た。

 濃く、立体的に盛り上がり、やがて立ち上がった。

 そこにいたのは、まぎれもなくぼくが出会った彼だった。

「やあ、元気だったか? フィーア」

 そいつは、彼に言った。

「ふん」

 彼は、薄く笑っていた。

「なにが落とし物だ。自分で捨てたくせに」

「自由を味わってみたかったのさ」

「で?」

「なかなか楽しかった」

「それなら、なぜ戻ってきた」

「いや、まあ」

 そいつは、彼と同じ顔で笑いかえした。

「やはり独りはつまらない」

「わたしは、この子と一緒になろうと思っていたんだよ」

「やめとけ、ただの食いものだ」

 ぼくの首に伸びたそいつの手を、彼は軽くつかんだ。

「この子はよそう。恩人だから」

 彼は、窓に歩み寄った。

「相棒が帰ってきた」

 彼は、ぼくに言った。

「さわがせて、すまなかったね」

「今日のことは、忘れるんだな」

 片一方が言葉を継いだ。

 彼らは、そろって二階の窓から身を躍らせた。

 あまりな出来事に、ぼくは呆然と立ちつくしていた。

 我に返り、ようやく窓に身を乗り出した。

 ずっと先に、街路灯に照らされた彼らの後ろ姿が見えた。

 一匹の大きな犬と長身の男が。

 その黒々とした姿は、角の闇にまぎれ、消えしまった。

 

          ☆  ☆  ☆


 ぼくは、今でも後悔している。

 なぜ、あの時ためらったのだろう。

 あの一瞬の迷いが無かったら、彼とともに行けたはずなのに。

 こんな平凡な人生に別れを告げて。 

 気がつくとぼくは探している。

 どこかに落ちているかもしれない黒い玉を。あるいは、彼らの姿を。

 首筋が、うずくのだ。 

 彼らの仲間になれないならば、せめてぼくを飲みほして欲しいと思う。

 その時には、たとえようのない官能が待っているだろうから。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ