雪女
小泉八雲『雪女』を新たに翻訳した上で、朗読向けに編集した作品です。
武蔵の国の或る村に、茂作と巳之吉という二人の木こりがいた。
この時の茂作は老爺で、巳之吉は、茂作のところに年季奉公に来ていた十八の若者であった。来る日も来る日も、二人は一緒に、村から遠く二里ほど離れた森へと出かけた。
森へ辿り着くには、途中、大きな川を渡らねばならなかった。渡し船がある場所には、何度か橋が架けられたが、洪水のたびに流されてしまった。その川は、水嵩が増すと、ひととおりの橋では耐えられないほどの大河であった。
*****
身を刺す寒さの晩のことである。
茂作と巳之吉は、帰り道に猛吹雪に見舞われた。渡し場に着く頃には、船頭が船を向こう岸に着けたまま、とっくに居なくなってしまっていた。
こんな日に、泳いで川を渡れる筈もない。二人は船頭小屋を見つけて、吹雪を凌ぐことにしたーー逃げ込む場所があっただけでも良かった、と思いながら。
窓がなく、二畳間に入口の戸がひとつあるだけの小屋には、火鉢も、火を起こす場所もなかった。茂作と巳之吉は、戸を固く閉ざして横になると、蓑を被って寝た。
はじめのうち、さほど寒くは感じなかったこともあり、二人はもうじき嵐は止むものと思っていた。
老爺の茂作は忽ち眠りに落ちたが、若い巳之吉は、荒れ狂う風とひっきりなしに戸を叩く雪の音に、なかなか寝付けずにいた。
川は轟々と音を立て、小屋は海原に投げ出された帆前船のように揺れ、ミシミシと軋んでいた。ひどい吹雪だったので、寒さは刻一刻と増していった。蓑に隠れて震えていたが、やがて、そんな寒さの中でさえ、巳之吉は眠り込んでしまった。
巳之吉が目を覚ましたのは、雨霰の如く顔に雪がかかったせいである。
小屋の戸はこじ開けられており、部屋の中で、真っ白な衣を纏った女が雪灯りに照らされていた。女は茂作の上にかがみこんで、息を吹きかけたーーそれはまるで、眩い白煙のようであった。
程なく、女は巳之吉の方に振り返り、覆い被さってきた。叫ぼうにも、呻くことすらままならなかった。白い衣の女が深く腰をかがめ、まさにその顔が巳之吉の顔と触れ合おうという時、彼は女の瞳に怯えながら思った。
(すごく、きれいだーー)
女はひとしきり巳之吉をじっと見つめてから、微笑みを浮かべて囁いた。
「お前も、あやつのようにしてやろうと思っていたが、ちょいと情が湧いてしまったーー巳之吉、お前はまだ若い。そして、愛らしい坊やだ。だから、今日のところは見逃してやろう。でも、万が一にでも、お前が今夜見たことを、誰かに言ってごらんーーお前のおっかさんにでも、ね。言えば、すぐに気付いて、お前を殺しに行くよ。決して忘れるんじゃないよ!」
そう言い残して、女は巳之吉から向き直り、戸口から出て行った。巳之吉は動けるようになると、飛び起きて外を見渡したが、女の姿はどこにもなく、雪が戸口から吹き込んでくるばかりであった。巳之吉は、棒を何本か立てかけて、しっかりと戸締りをした。
(もしかすると、戸が開いたのは風のせいかもしれない。そうだ、今のはきっと夢だ。雪の照り返しが戸口から差し込んで、白い女に見えただけだーー)
釈然としない巳之吉は、茂作に声をかけた。
だが、返事がない。驚いて暗がりに手を伸ばし、茂作の顔に触れてみるとーー凍っているではないか! 茂作は既に事切れて、冷たくなっていた。
明け方、吹雪が止んだ。
日の出から暫く後に船頭が船着場に戻ってくると、茂作の凍った亡骸の脇で、巳之吉が気を失って倒れていた。
彼はすぐに介抱され、間もなく意識を取り戻したが、あの恐ろしい夜の寒さのせいで、長いあいだ床に臥せっていた。茂作が死んだと聞いてひどく驚いていたが、あの白い衣の女のことは何も言わなかった。
巳之吉は元気になるとすぐに仕事に戻り、毎朝一人で森に出かけては、夕方に薪を背負って帰ってきた。巳之吉の母は、売り子をして息子を助けた。
*****
翌年の冬の晩。巳之吉は家路の途中、偶然にも同じ道を歩いている旅の娘に出会った。
娘は細身で長身、かなりの器量良しの上に、巳之吉が挨拶した時の返事ときたら、小鳥の囀るような心地よい美声であった。二人は道中を共にするうちに、言葉を交わすようになった。
娘は名を「お雪」といい、暫く前に両親を亡くしたこと、女中奉公のつてがあるかもしれないので、幾つかの貧しい親戚を頼って江戸に向かう途中であることを話した。
瞬く間に、巳之吉はこの出会ったばかりの娘に心を奪われてしまった。その美しさは、彼女を見つめれば見つめるほど、増していくようであった。
「お前さん、許婚はいるのかい?」
巳之吉が尋ねると、お雪はくすっと笑った。
「まだそのような話はございません。ときに、貴方様は奥方や許嫁がいらっしゃるのですか?」
「おっとさんはもういねぇから、おっかさんを養ってやらなきゃならねぇ。でも、かみさんを貰うには、おいらもまだ若ぇから、そんなこと考えたこともなかった」
こんな身の上話をした後、長い間、二人は黙ったまま歩き続けた。「気があれば、目は口ほどに物を言う」とはよく言ったもので、村に着く頃にはお互いにすっかり打ち解けていた。そして、巳之吉はお雪に言った。
「暫く、うちでゆっくりしていってくれないか」
お雪は少し照れながら躊躇っている様子であったが、巳之吉と一緒に家に帰った。
巳之吉の母はお雪が来たことを喜び、温かい食事でもてなした。気立ての良さをすっかり気に入った母は、江戸への出立を先延ばしするよう、お雪にせがんだ。
その後、お雪が江戸へ向かうことがなかったのは自然の成り行きで、彼女は巳之吉の「嫁」となった。
お雪は、本当に良く出来た嫁であった。彼女が来てから五年ほど後、巳之吉の母は今際の際にあったが、その期に及んでも、お雪への愛情と感謝を口にしていた。
巳之吉とお雪は、男女合わせて十人の子宝に恵まれた。子供達は皆、見目麗しく、透き通るような肌色をしていた。
村人はお雪のことを、自分達とは根っこから違う、超越した存在だと思っていた。百姓の女は早いうちに老け込んでしまうことが多いが、お雪は十人の子供の母となった後も、初めて村にやって来たあの日と変わらず、若く清らかなままであった。
*****
或る夜のことである。
子供達が寝静まった後、お雪が行灯の光の下で針仕事をしていると、巳之吉が自分の嫁をしげしげと眺めながら、話を始めた。
「お前が行灯の光に照らされて、こうして針仕事をしているのを見ると、思い出すんだ。おいらがまだ十八の若造だった頃に、不思議なことがあったんだよ。その時、見たんだ。お前みてぇにとびきり色白で別嬪のーーあれは、本当にお前と瓜二つだったよ......」
すると、お雪は針仕事の手を休めることなく、訊き返した。
「へえ......その人のことを、きかせておくれよ。どこで会ったんだい?」
すると、巳之吉は、あの夜、船頭小屋であった恐ろしい出来事を話したーー彼に覆い被さり、微笑みを浮かべながら囁いた白い女のこと、それから、年老いた茂作が、いつの間にか死んでいたことを。
「寝ても覚めても、お前みてぇな別嬪に会ったのは、あれっきりだ。もっとも、その女は人間じゃなかった。怖くて、怖くて仕方なかった。本当に真っ白だったんだ......。今でもわからねぇんだ。あれは夢だったのか、それとも、雪女だったんじゃないかって......」
お雪は、縫物を投げ捨てて立ち上がり、座っている巳之吉の頭上から覆い被さるようにして、叫んだ。
「あれは私、私なのよ、私だったのよ! 雪よ......。あの日のことを少しでも人に話したら、お前さんを殺すと言ったでしょう? あそこで眠っている子供達がいなかったら、すぐにでもお前さんを殺していたわ! でも、そうしたら、あの子達の面倒を誰が見るんだい? 万が一にでも、お前さんがあの子達を困らせることがあったら、その時は......決して容赦しないから!」
お雪が叫んでいる間にも、声はどんどんか細く、虎落笛のようになっていく。終いには、お雪自身が、きらきら光る白い靄となって天井の梁を伝い、震えながら煙出しの穴から出て行った。
ーーそれからというもの、女の姿を見た者はいない。
♪音声化御礼♪
toki様<https://youtu.be/qokJEegvgC4>
朗読に際し、toki様ご自身がイラストを描いて下さいました。
※台本版と異なる箇所があります。ご了承下さい。