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貉(むじな)

小泉八雲『貉』を新たに翻訳した上で、朗読向けに編集した作品です。


後書きの最後で、本作を音声化して下さった方々を紹介させて頂いております。ご覧頂ければ幸いです。

 東京の赤坂通りに、紀ノ国坂という坂がある。呼び名の由来は定かでないが、「紀伊の国の坂」という意味である。


 坂の片側は、古くから、たいそう深く広い濠になっており、うずだかく鬱蒼とした土手が、何処ぞの庭まで延びている。その反対側は、延々とそびえる皇居の塀である。


 街灯や人力車のない時分、この辺りは暗くなるとひどく淋しい場所であった。日没後の遅い時間に出歩く者は、ずっと遠回りをしてでも別の道を選び、紀ノ国坂を一人で上ることはしなかった。


 それには理由わけがある。全ては、この付近に出たという、むじなの仕業だ。


 むじなを最後に見たのは、京橋界隈にいた年嵩の商人あきんどである。彼が黄泉に赴いてからもう三十年近くになるが、こんなことを言っていたそうであるーー。


 ***


 それは、或る夜更けのこと。急ぎの用向きで紀ノ国坂を通りかかると、たった一人、濠端にしゃがみこんで、さめざめと泣いている娘がいた。


 見れば、いかにも良家の子女らしく髪を結わえ、すらりと見目麗しく、上品な出で立ちをしている。


(よもや、身投げする気ではあるまいな。これはいかん、助けてやらねば)


 そう思って、娘に駆け寄った。


「もし、そこのお女中! かように泣いて、どうされたのじゃ?」


 努めて穏やかに話しかけるも、娘は一向に泣き止まず、長い袂で顔を隠したままである。


「お女中。手前に出来ることなら、何なりと力になりまするゆえ、話だけでも聞いて下され。こんな夜分に、若い女子おなごが一人、こんな所にいてはなりませぬ」


 それは、紛れもなく、優しい心根から出た言葉であった。


「後生でござる。もう泣くのは止して、手前に理由を話して下され」


 娘はゆらりと体を起こすと、背を向けてしまった。そして尚も、袂で顔を覆って咽び泣くので、肩にそっと手をあててやりながら言った。


「お女中! お女中! お女中! ほんの少し、耳を貸しては下さらぬか。 この爺たってのお願いにござる。 お女中! お女中!」


 やっと、その「お女中」がこちらを向いた。そして、袂を下ろし、顔をひと撫ですると……。


 何もなかったーー目も、鼻も、口も。


「たっ、助けてくれーっ!」


 一目散に逃げ出した。あまりの恐ろしさに、振り返ろうとも思わない。紀ノ国坂を、どこまでも続く暗闇の中を、無我夢中で走り続けた。


 そして遂に、遥か前方に蛍火のような微かな光ーー提灯が見えた。


「助かった……!」


 それは、夜鳴き蕎麦の提灯だった。


 あんな目に逢った後だ。有難いに決まっている。それが、どんな灯りでも、どんな「人間」でも。


 そして、蕎麦屋の親父の足元にのめり込みながら、声を上げたーーが、何か言おうにも、言葉にならない。


「ああ……ああ……ああ……!」


 蕎麦屋はぞんざいに訊いてくる。


「これ! これ! ……ったく、しょうがねぇなぁ。旦那、襲われでもしたのかい?」


 恐怖に慄き、息を切らしながら、やっとの思いで答える。


「誰にも襲われてなど、おりませぬ。ただ……ああ! ああ!」


 蕎麦屋は、特に気に掛ける様子もない。


「なんでぇ、追い剥ぎに脅かされただけですかい?」


「追い剥ぎなどではござりませぬ。濠端で……見た……娘が……ああ! 見たのです、見てしまったのです……とても手前の口から申せるものではござりませぬ!」


 蕎麦屋が「へぇ……」と言いながら、つぅ、と撫でたところから、その顔がみるみる卵のようになっていく。


「旦那が『見た』っていう女の顔は……」


 何もなかったーー目も、鼻も、口も。


「これですかい?」


 提灯の灯りが、ふっと消えた。

「夜鳴き蕎麦MUJINA」店舗情報


住所

〒107-0051 東京都港区元赤坂2丁目1 都道405号線付近


アクセス

東京メトロ丸ノ内線・銀座線 赤坂見附駅から徒歩約10分


営業時間

赤坂見附駅の終電〜始発時刻


定休日

不定休


イチオシメニュー

月見そば、小泉八雲アイス(コーヒー付き)


クーポン

「そんなモンねぇよ。おととい来やがれってんだ」


備考

「ワンオペのため、気持ちと時間に余裕をもってお越し下さい」


店主からひと言

「いらっしゃいませ」


*****


おまけの小噺『蕎麦屋稼業』


「夜鳴き蕎麦MUJINA」。小泉八雲『怪談』に登場して以来、海外から聖地巡礼にやって来るファンも多い。


そんな、知る人ぞ知る屋台を切り盛りするのが、貉吾郎左衛門さん(年齢不詳)。つるりとした額から流れ落ちる、玉のような汗。蕎麦の仕込みと同様、卵肌を維持するための毎日のお手入れを欠かさないという。


妖怪として、蕎麦職人としてーー長年かけて辿り着いた、店主自慢の手打ち蕎麦。小説の世界と一緒に満喫したい、お江戸赤坂の名店。


ところで、屋台の出る「紀ノ国坂」は、この付近一帯にあった紀伊和歌山藩徳川家屋敷に由来する呼び名である。


*****


♪音声化御礼(五十音順)♪


・秋乃夕暮様<https://twitcasting.tv/c:zarathustra00/movie/617051101>

 配信開始後3分〜作品紹介、6分20秒〜朗読です。臨場感溢れるライブ配信です。


・toki様<https://youtu.be/zKbWEnavckk>

 朗読に際し、toki様ご自身がイラストを描いて下さいました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 拝読しました。 カッコイイですねえ。原文も読みましたが、なんともお上手に訳されていらっしゃいますね。というのも、硬い文章が、こうも柔らかくなっていて、怪談の雰囲気がすごく出ていると思うん…
[良い点] これからの時季にぴったりですね。 すず音さんの翻訳方法が丁寧なのでしょうね。 とても読みやすいお話でした。 店舗情報と小噺が斬新。 本編より面白い!?
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