好意の濃淡
最近、私はメールに悩まされている。
おかえり、とか今日はジーンズなんだね、とか日常の何気ないことがつらつらと書かれている。内容は実に他愛ない。そう、差出人が知り合いだったなら。
ブロックすると翌日には別のアカウントで送りつけられてくる。ブロックしたことを怒ったり悲しんだりする様子もなく、ただ淡々と、私の様子が書かれたメールが送られてくる。
「もうそれさ、フリーメール全体をブロックしたほうがいいんじゃね」
彼は口にしたコーヒーのカップを離すと私をチラリと見ていった。
「やっぱり、そうしたほうがいいのかな。でも知り合いも結構フリーメール使ってるからさ、使えなくなったら不便じゃないかなって」
カップの中の揺れる紅茶に目を落として私は答える。
「そんなこといっても、バサッと切らないとそれ、止まないぜ絶対」
カチャン、とカップをソーサーに置く音がして私は顔を上げた。彼と目があって、柄にもなくドキリとした。
「あんま心配させんなよな」
「何よそれ」
「だって、お前っていっつもどっか抜けてっから。こないだもお前、完全に日付一日間違えてて、試験すっぽかすところだったじゃん」
「うるさいな、余計なお世話。って言いたいけれど、そうだよね。ごめん、いつもありがとう」
なんとか貼り付けた私の笑顔を、彼は目をパチクリさせてみると、慌てたように私から目をそらした。
「なんだよ急に。よせよ、気味悪い」
ソファに体をあずけると、彼は肩をすくめておどけた。
「あ、ちょっと傷ついた」
せっかくありがとうって言うの、頑張ったのに。カップを手に取り、上目遣いでにらんでやると、ははは、と彼は乾いた笑いをみせた。
喫茶店を出て別れるとまっすぐ部屋に帰った。そのままパソコンの前に座り、早速フリーメールが受信出来ないように設定をした。何人かの友人がフリーメールのアドレスだった気がするけれど、最近はもっぱらSNSでやり取りしているから問題はないだろう。
「にしてもそろそろ片付けないとだなぁ」
部屋の惨状を見て思わずため息を付く。すべてが手の届くところにおいてあるからして、これは我流で整理されているのだ。などと強弁する人もいるなか、私は無駄な抵抗はしない。そう。自慢じゃないけれど、片付けは大の苦手だ。
「これじゃ誰も呼べないわよね」
そうつぶやいた瞬間、彼のにやけた顔が思い浮かんで慌てて首を振る。いやいや、そんなのありえない。
次の日からメールはパタリと止んだ。当たり前だ。すべてブロックしているのだから。気になる対象が失せるだけで、こんなに気分が軽くなるなんて。私は意気揚々と仕事をした。
けれど数日後。帰宅した私の心に再び冷水を浴びせるような出来事が起こった。今度は手紙だった。当然のように差出人は不明。宛先はおろか切手も貼っていない。つまり直接ドアのポストに投函されたのだ。とても開ける気になれず、その夜は戸締まりをしっかり確認して過ごした。とても眠れなかった。
夕方。会社近くの居酒屋で中ジョッキを二杯ほど開けたところで手紙を彼に渡した。ラブレターってわけじゃあないよな、という彼の軽口も今はありがたい。
「これ、外で様子を伺って調べてるんだろうな」
手紙にざっと目を通していた彼がつぶやいた。その日の服装や買って帰った食材のことなどが書かれているという。
「カメラを置くしかないかなぁ」
「カメラって」
「ああ、監視カメラ。最近はネットで遠隔監視できるやつもあるんだぜ」
そう言いながら彼が示すスマホには、手早く検索された製品の画像が整然と並んでいた。
「うーん、でもこの手の機械、苦手なんだよね」
ジョッキをちびりと飲みながら私は苦笑いする。昔から機械の設定とかは苦手で、もっぱらそれは父か兄の役割だった。
「わかったよ、なら俺が設定して持って行ってやるから。どうせお前のことだから、買い方もわかんないだろ」
「えっ。もしかして、それって私の部屋に置きに来るってこと、なんだよね」
「ほかにどう解釈できる」
あの部屋の惨状を他人に、ましてや彼に見せるわけにはいかない。
「ええと、きっとネットの線を差すだけだよね。だったら設定だけしてくれたら、あとは自分がやれるわ」
「え、大丈夫か?」
平気平気と何とかごまかして、カメラの手配と設定をお願いすることとした。
「でもカメラでもダメだったら、いよいよ警察に相談するしかないだろうな」
彼の言葉が重く響く。
それからカメラを取り付けるまでの三日間、毎日手紙は届いた。読まずに捨てた。
玄関を映すカメラは彼にやってもらった。外だから。部屋のリビングを映す分は、何とか自分で取り付けられた。やはり自分で頑張って正解だった。こんな汚部屋に他人を上げるわけにはいかない。
玄関の映すカメラを置いたら、さすがに手紙はやんだ。何もない平穏な夜。何もないことがこんなにもありがたいことだったのかと、思わず涙ぐんだ。仕事上の悩みも解決し、ようやく自分にも追い風が吹き始めたかと思った。
けれど私はそんなささやかな願いさえも、望んではいけないのかもしれない。
また差出人不明のメールが来た。そんな。フリーメールはブロックしているはずなのに。設定を確認したら、いつの間にか解除されていた。いったい誰が。
メールはよりプライベートに踏み込んだ内容だった。というかこれ。
「どうやって見てるのよ、これ」
私はメールを見て思わずうめいた。そこには何時にトイレに立ったか、いつ風呂に入ったか。下着の上下が合っていないことに気づいて上だけ替えた、などなど。
余りにもおかしい。どうやってこんな部屋の中のことまで。思い当たるのは一つしかない。私はリビングの一角に目をやる。カメラだ。
まさか、彼が犯人なのか。そう考えれば色々合点がいく。彼には何でも相談した。私の自宅も知っている。それにこのカメラの設定も行った。
気づけば手のひらにじっとり汗をかいていた。もしかすると、今この瞬間も見られているのかもしれない。
電話して確認を。いや、とぼけられるのがオチだ。ならどうする。警察に相談するしかないか。でもどうやって信じてもらおう。
そんなことを考えていると頭痛がしてきた。最近よくある。考え事をしているとどんどんひどくなっていく。時にはそのまま気を失ったように眠ってしまう。ダメだ、今回もそんな感じがする。ソファにもたれかかりやり過ごそうとするが痛みは増すばかりだ。そうこうしているうちに目の前が暗転した。
不意に目を覚ました。
重い頭を何とか動かし時計を見る。午後十一時を指していた。三時間ほど眠っていたらしい。起き上がり部屋を見渡そうとして早速違和感に気づいた。パソコンだ。
普段はパソコンデスクに置いているノートパソコン。それが今はリビングテーブルの上、私の真ん前に置かれている。
気味悪さを持ったがなぜか好奇心が先に立った。ディスプレイを持ち上げ、電源ボタンを押す。低いファンの音が響く中、パソコンが起動する。
「なに、これ」
デスクトップの真ん中に置かれたファイル。『あなたへ.txt』と書かれている。吸い寄せられるようにダブルクリックする。
『あの男は犯人ではない。もしこのことをあの男に伝えたら、もっと辛いことが起きる。これは警告だ――』
誰がこのパソコンにこんなファイルを。今一度玄関や部屋の施錠を確認した。異常はなかった。
「そうだ録画だ」
先日設置のため、カメラの説明書を穴が開くほど読んだときに書いてあった機能。パソコンのカメラのアイコンをダブルクリックする。不意にパソコンに部屋の様子が映った。眠りについてしまった二十時くらいを指定すると、ソファに突っ伏した自分の姿が映し出された。確かにパソコンはパソコンデスクの上にある。
「えっ」
そこで信じられないものを見た。私が突然起き上がったのだ。
スマホを取り出し何やら操作をしている。この光景自体あり得ない。私は本当に機械音痴で、スマホですらまともに扱えないのだから。
しばらくするとスマホを耳にあてた。だれかと電話をするようだ。慌てて通話履歴を確認する。しかし。
「履歴……無いじゃない」
直近の通話履歴は夕方の、会社の先輩とのやり取りのものだった。履歴が消されたのだろうか。しばらく話したあとスマホを置くとパソコンに向かった。何やら手慣れた風に文字を打ち込む。プリンタの電源を入れる。しばらくすると印字された紙が出てきた。印刷している間に棚にしまっていた封筒を取り出す。丁寧に紙を折り、封筒に収める。玄関の方に消えたかと思えば、しばらくたって戻ってきた。手にあった封筒はなかった。
「手紙も自分で書いたっていうこと、なんだ」
最後にパソコンの電源を切った。パソコンをリビングの机の上に置くと、ソファに先ほどと同じ体勢で突っ伏した。
優に二時間ほどはその体勢だったが、午後十一時ごろ映像の私はのそり、と起き上がり、周囲の様子を見て驚いた様子を見せ、パソコンの電源を入れた。
そこまでで私は録画の再生を止めた。
のろのろと立ち上がり、玄関に向かう。ドアのポストをあけると、そこには映像で見た封書があった。その場にへたりこみ、中身を確認する。
『あんたなんかしんじゃえ』
震える手で電話をかける。こんな時間に話せるのは、彼しかいない。
「なんだよ、こんな時間に。さっき話したばかり――ああ、気づいたのか。大丈夫。お前のことは俺が一番理解しているから」




