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一月の末となり、外は雨模様だった。降りつける雨が、教室の窓にいくつもの線を引いては消えていく。
あれからストラップを着けて一週間程経ったが、窓際に座る彼は一向に私に対して行動を起こしてこない。
それどころかこの一週間の間、全く私に対して喋りかけてこなかったのだ。私から話しかけるべきなのだろうかと、朝から自問自答を繰り返していた。
2時間目の授業が終了して休み時間に入ると、教室の黒板付近に置いてあるストーブに生徒達が群がる。群がった男女生徒達は、和気藹々と談笑に花を咲かせていた。
私の席は黒板とは随分と離れている。私もできればストーブに近づきたかったのだが、彼が話しかけてくる可能性があるのかもしれないから準備をしている状況だ。
女子はスカートだから足が寒いんだぞ!と、早乙女君に文句でも言ってやりたい気分になる。そんなどうでもいい事を考えていると遂に彼が口を開いた。
「さて、そろそろ一週間経ったね。様子はどんな感じかな?」
「様子もなにも」
少し呆れたような口調で溜めを作った後、私は続けてこう言い放つ。
「魔法、凄い効果だったよ……」
ため息交じりにストレートな感想を述べた。
早乙女君が私にストラップという名の魔法をかけてから一週間が経った。その効果はというと、絶大なものであった。学校に持っていかないといけない物から、やらないといけない事まで、私はこの一週間で何一つ忘れることがなかった。
こんなストラップを携帯に付けるだけで、劇的に状況が変化してしまう…いや、変えてしまう早乙女君の力。私は彼に対して尊敬という感情ではなく、なんだか恐怖と似た感情を抱いてしまった。
そんな感情を抱いた理由はもう分かりきっていた。私はこう話を続けた。
「朝起きて、支度して、家を出る前に携帯電話を手に取る。その時にチラッと目に入るストラップが引き金になって忘れ物がないか確認するようになってたの。家から出た後もストラップが目に入る度に確認するようになってて……。私、このストラップを見る度に自分をコントロールされている気分になってた」
私は俯きながら説明し、その時の状況を鮮明に思い出していた。自分の行動がコントロールされている感覚は、誰でも恐怖を抱くものだ。まるでいつでも見られているような、そんな感覚に陥いっていた。
「なるほど、すばらしい結果が得られたみたいだね。良かった」
感情の無い表情を見せながら、私に対して言葉を放った。なんだかそのまま会話が途切れて終わってしまいそうな気がして、慌てて私は彼に質問を投げかけた。
「その、色々説明をして欲しいんだけど」
「色々っていうのは、何故ストラップを渡したかという根拠みたいなこと?」
慌てる私と裏腹に、彼は冷静に質問の意図を解釈しようとしている。なんだか大人と子供の会話のように感じてしまい、私はその子供のようにコクリと頷くしかなかった。
「じゃあ、最初から説明した方が良さそうだね。色々と理由はあるんだ」
左肘を机につき、頬に手を当てた体制となって私の方を見ながら説明を始めた。
「まず、【忘れ物が多い】という事象の根本要因を整理してみよう」
「根本要因?」
「うん。物事には必ず真の原因があるんだ。【忘れ物が多い】という事象は突き詰めていくと、【物を持って行く事を失念して、思い出せなくなってしまう】という根本要因に辿り着く。つまりは物忘れをしている事自体を、忘れてしまっている状況に置かれてしまうという事だね。悩みを解決するには、その根本的な要因を直接解決する必要があるんだ」
なるほど、と私は無言で頷く。彼が言った言葉<<忘れたのは物じゃない>>というのはこの事を指していたのだ。
続けて彼が私に質問する。
「後は、それを解決する為に対策を考えないといけない。セルフチェックっていう言葉は知っているかな?」
簡単な言葉に聞こえるけど、改めて聞かれてしまえば答えることに億劫になってしまうなと感じた。言葉そのままの意味で解答して良いものか、非常に悩んでしまった。私は恐る恐る次の言葉を彼に伝えた。
「自分で確認するってこと……だよね?」
「うん。そうだね」
私はホッと安堵する。まるで先生に叱られているような気分だ。
「【何かする前や後に、正しいかを確認する】という作業なんだけど、これが対策になる。けど、セルフチェックは実施するタイミングが難しいんだ。セルフチェックをする事自体を失念してしまうという弱点があって、社会人でも良く忘れたりして仕事上で大きなミスに繋がる事がある」
まさしくその通りだ。だって難しくないのなら、私は忘れ物なんかしないからである。
そして社会人でも忘れるというフレーズに少し安心してしまった。大人でもミスするんだったら、学生でミスするのなんか大丈夫だよね!と自分自身を励ました。
「そして、それを考慮した上で長谷川さんに提案したのが……」
「提案したのが……?」
と、私は言葉を復唱して息を呑んだ。次に来る言葉が重要なものであると、なんとなく感じ取っていた。
「セルフチェックのシステム化なんだ」
彼は、少しだけ微笑みながらそう話した。
その時、初めて彼の感情を掴み取ったような気がした。